はてなキーワード: 傘寿とは
これ→ - (半角ハイフン)を行頭に使うと箇条書き出来るよ。だからなんだ?という話でもないが
例
言いたいことがいくつかまとまりとしてあるので箇条書きの形式でまとめる。
・たとえば乙女ゲーにどっぷりだったりZEROSUM読んだりしてるような分かりやすいオタクが週刊女性とかワイドショーとか見てると思うだろうか?
むしろ彼女らは世間に疎いと言われるぐらいにはそういう井戸端会議のネタになるような、市井の地に足のついた、言い換えれば「夢が微塵もない現実的な情報」は積極的に拒絶してる感じするが。ピーターパン症候群も持ってそうだし。
(むしろそういう二次元系のオタクってピーターパン症候群的な童心が残ってることがそれになってしまう必要条件で、レディコミの生々しい内容を好める成熟した大人とは対極の存在に思える)
・琥珀の夢で酔いましょうが電子書籍サイトでレディコミに分類されているのがなんだうと思った。
「メシヌマ」よりはよほど男でも楽しめる余地ある青年マンガっぽい中身に感じるのだが、なにをもってレディコミなのか
(rentaやbookliveではレディースコミックや女性漫画に括られていて、シーモアやめちゃコミでは少女漫画に括られているので、全会一致というわけでもないが)
・フィーヤンはレディコミといわないという主張があって気になったんだが文句なしのレディコミってどんな作品だろうね。グランマの憂鬱とか認知症になった魔法使いみたいな、おばあさんが主人公の作品はほぼレディコミで確定かね。傘寿まりこは少女漫画と出版社側が言ってるが。
・レディコミには「男が容姿に対して可愛いと思うようなキャラが出てこない」というのが最低条件としてあるんだろうか?
たとえば乙女ゲーで例はひと昔古くて申し訳ないが薄桜鬼やうたのプリンスさまにはヒロインが可愛いという理由で男がヒロインだけ目当てでそういう乙女ゲープレイしてる事例はあった。
しかしレディコミだとキャラが可愛くて男のファンがつく、みたいな魅力がキャラにある作品は(ほぼ)皆無じゃなかろうか。
性的嗜好を刺激するような不細工さというのでもなく、ほんとうにただだぱっとしない売れ残りの女おばさんという感じ。
それはレディコミの定義に関する必要条件みたいなものだからだろうか?またこれにはは意図的に男性をファンから排除しようとする目的もあるのだろうか?
(ほぼ、と書いたのは「アラサー独女シマちゃんのベランダレシピ」)はレディコミならが可愛いヒロインだったから」
・レディコミには今流行りの画風からは外れたひと昔以上前の画風の作品が多い気がする(流行りの絵柄と一致しないのは、逆に画風が流行りにはいままでなかった未来に進んでいるからという場合も想定されるが、そういうわけではなさそう)
とするなら、レディコミを読むのは懐漫を読む感覚を、味わいたい、あるいは懐漫の雰囲気で新作の物語を読みたいからという人も多いのだろうか。
・レディコミや、コアブックスの風刺漫画などが「漫画」という主語で言及される資格を持っている違和感。
たとえばカズオイシグロのようなノーベル賞作家の小説を読む人と、フランス書院のエロラノベ(だけを活字主体の媒体としては)読む人がいたとして、
前者は当然「小説を読むのが好き」というだろうが、後者の人が「小説が好き」とは言わないと思う。
形式的な分類では純文学もエロラノベも確かに「小説」なのだが、あまりにも書き手読み手双方が持つ文化の間では隔たりがある。
そして前者やSFでもミステリーでも大部分はそれを読んでいることに対して、「小説が好き」ということには違和感は感じられないが、エロラノベをもっぱら読んでる人が「小説を好き」といっては、単に媒体だけ共通項の文化圏が他の小説好きの文化圏を侵してるかのような感じになる。
だからこの場合は「小説好き」というのは別に他の「小説らしい小説が好きなわけではない」ことからも自己認識に遭わないから、「エロラノベが好き」というより狭い括りでの言及の仕方になるんじゃないかと思う。
同じことはレディコミ等と他の漫画のあいだの関係にも言えそうで、レディコミはジャンプに比べれば「漫画らしい漫画」というところからかなり遠いところにあるものだと思う。
夢を見せる漫画や不条理をみせるにしてもドラマティックな展開があるのが漫画の多数派ななかで、レディコミは読者投稿に基づいたりするから淡々と現実を描写するだけになる。夢も希望もない。
作者がpixivもやっていてその作品が熱心なファンの萌え語りの対象になるような漫画と、作者がインスタやっててネット記事のおまけコーナーで中年主婦のリアルを描いてるような漫画では、それを取り巻く文化圏は全く相反して交差することもないと思う。
前者は漫画の代表(求心力の中心)たりえるが、後者は漫画のコマ割りや吹き出しや感情の記号化という形式だけを倣っただけの内容面では全然別物を描いてるのにその分類に対して間借りしているだけに見える。
まさに、学習漫画や進研ゼミの販促漫画を読むのが好きだった人が「漫画好き」にあてはまるのかなあ?と同じような感じ。それに対する態度も文化も典型的な漫画好きとは全然異なっていると思う。
あるいは「絵」とは形式を抽象すれば「色の違いによって平面に表現する」ことで、この点で油絵の風景画かラノベイラストレーターも絵描きで、作られたものは絵なのだけども
そこで「絵が見るのが好き」というとき、前者と後者を両方同時に内包し得るのかなあと。両者はその供給も需要もひっくるめて生い立ちの時点で全く異なる文化圏にいるもの同士だろう(もちろん美大出の漫画家レーターもいるっちゃいて前者の文化にもなじんでる人もいるだろうがむしろ例外的)。
そういう意味で、レディコミを読んでる人に向けての「漫画好き」と、少女漫画を読む人に向けての「漫画好き」(あえてレディコミを漫画という総称的用語で言及してよいのならだが)は、言葉が同じというだけで実質別物の意味合いと捉えた方が自然じゃなかろうかと。
・大人にとっては「向け」などないようなものなのに、漫画に対して出版社がいちいち手間かけて性別の年齢で分類するのはなぜか考えたが、まさに子供のためなのだろうと思った。
つまり「少女漫画」は子供の女から読めるが、男の子にはわない。「ヤングレディース」は高校生とか大学生じゃないと楽しめない確率が割とあるし、これまた男の子やその高校生大学生は楽しめない。
そして「レディコミ」は大人になってからじゃないと楽しめないが、逆に大人からみれば少年漫画も青年マンガもルポ漫画も楽しめるという具合。
だからこそ大人の視点でみるとこういう分類ってなんの意味があるんだろうと思えてしまうことがあるが、視点を切り替えればいいのだった。
「子供にとって自分に合うものを探すには便利な目安」なのだと思った。ラノベという分類の定義はほんとうにあってないようなものだが。
もうすぐ80歳の誕生日!
なんと、もう三四半世紀以上生きてる事になる。
風俗デビューが27歳だったから、もう人生七割弱は風俗やってんだなぁ…。
ちなみに今は店舗所属はしてなくて、フリーです。ネット社会様様。
80歳の風俗嬢というと、すごいババ専と思われるかもしれないけど、全然そういう感じじゃないよ。
まあ、もちろんフレッシュ!でも無いですが。
体型は27の時からほぼ変わらなくて身長165で体重47。無理なダイエットはしてないけど、夜中にラーメン食べたりはしないかな?太らないのは元々の体質で、おかあさんおとうさん、資源をありがとう!と感謝の気持ちは常に抱いている!見た目は岩下志麻に似てる。あ、年齢も確か同じ位。ほら、岩下志麻とならヤレる!って思ったでしょ?(笑)
客層は「熟女好き」な人と「美脚好き」な人の主に二層かな。熟女好き、結構居るんよ。しかも「デブっていかにもオバサン、っていうのは嫌で、綺麗な熟女がいい」って人。常連はそーゆーのが好きで私と出会い、何となく気があってズルズルと指名続けてるって感じの人が多いんじゃないかな?
そういう人はおしなべて「初めて会う女性と話すのは緊張する」ってタイプで、気楽に話せる私がいいんだろうな。もちろん、あと1〜2人はそういう嬢がいるんだろうけど。
53年間風俗やってきて思うのは、おとこの人っていくつになってもかわいいなーーーって事。年齢や見た目の美醜は関係ない。よく男はマザコンって言うじゃない?マザコンかどうかは分からないけど私に「癒し」を求めてるんだなーって思う事が多々あるよ。
ひたすらエッチだけで雑談もせずに帰る人もいるけど、それだって「女性とエッチすること」が、その人にとっての癒しなんだと思う。
会社で嫌な事があった時、家庭で上手くいってない時、なんか落ち込んでる時、そういう時に「癒して〜!」って来る感じ。
私はそれが嫌いじゃないから、53年間もこの商売続けてるんだろうなぁ。終わりはいつかあると思うよ。特に40代入った時はいつ引退しようか…とか、よく考えたけど。
なんだかんだで、常連さんから毎月お誘いがあって、ひと月暮らせるだけの稼ぎが出来てしまうから何となくズルズル……そして、もう開き直ってしまった。リクエストがある限り私は出動するし、リクエストが無くなったり病気になったら、その時はフェードアウトするんだろうな。
元々「何かをキッパリ止める」って事が苦手なんです。
この話に特に含蓄や着地点はありません。何となくに傘寿向けて、思ったことを書いてみました。
やっぱり、誰にでも言える仕事じゃないから、たまには話してみたくなる(笑)
また、気が向いたら続き書きます。
誰も読まないかもだけど。
いわゆる記念日反応ってやつがしんどくて書いてます。支離滅裂失礼します。
でも、明日になったら消すかな。どうかな。
十代のころから二十年以上、ほぼ毎週通ってたならいごとの先生が亡くなって1か月過ぎました。
傘寿近いけど、家族もいなくて、親戚は遠方だから、毎日お見舞いに来るような人もいない。
勝手な個人的感情だけど、そんな病院生活をさせるのがいやで、用事が無ければ亡くなるまでの数週間ほぼ毎日見舞いに通ってた。
別に何の世話もせずに仕事の愚痴とかしゃべりまくってただけだし、本人がどう思ってたかは分からない。
もっと他に顔を見たかった親戚とか他の弟子とかいたんじゃないかなとも思う。
その日、病院にいったら自宅に帰ったと聞かされて、あわてて親戚のひとに連絡をとったら、翌日やっとつながって、亡くなったことを知らされた。
あちらの意向で身内だけで済ますといわれて、通夜も葬式も行けなかった。
しょうがないよね、私はただの弟子で、親戚のひととの面識はほとんどないし、相手にとってみれば面倒いがいのなにものでもないんだもの。
だめだなー。つらいなー。
お腹はちゃんとすくし、ごはんだって美味しいし、楽しんだり、笑ったりすることもできるけど、ふとした瞬間にスイッチがはいって、べそべそと泣いている。いい年したオバサンなのにね。
家族とか友人とか、一応何人かにできごと自体は話しているんだけど、家族はこの手の泣き言をそのまま受け止めてくれるタイプじゃないし(「いつまで辛気くさいことを言ってるんだ」とか「そんなこと言っても今更無駄だろう」とか言わずにはおれないタイプ)、話してて泣かずにいられる自信が無いので友人に相談して聞いてもらうこともできない。
Twitterやblogで延々と語るのも、やっぱりネット上の友人知己に迷惑な気がして、こらえきれずにぽろぽろつぶやいたほかは避けている。
こういった別れに後悔が残らないようにはできないって頭では分かっているんだけど、あれとかこれとかやっておけば良かったとか、不肖の弟子でごめんなさいとか思っちゃうわけで。
カウンセリングとか受けるのが一番なのかなと思うけど、行ったことないし、ハードルが高くてグリーフケアの本とか読んでいるだけ。
香りとかメロディとか、言語化しにくい感覚と記憶が結びつくと、その記憶が掘り起こされたときより鮮やかに感じる気がする。
職場で配るおみやげの話、なのだけどもう少し深刻な状況を増田が抱えているっぽい。これは増田名物「ぶっきらぼうだけど親切なトラバ」がついててよかった。
カットバックがわかりづらい。文体も凝ってる割に上手くないけど、なにか単純な言葉に還元できない情感が漂う。
→消えてた! 結構好きだったのだが……。と思ったら、ここにあった。この人が書いたということでいいのかな。http://radio.hatenablog.com/archive/2016/3
出産時のアクシデントの話。珍しくないとのことだが初耳だった。
野球選手としての清原のキャリアの振り返りと慨嘆。増田にはわりと珍しいタイプの記事と思う。
言うことはもっともではっきり言えば正しいのだが、増田はこのままで本当にいいのか。短すぎるってわかったんなら、なおさらもう一歩踏み出したりあがいたりしなきゃいけないんじゃないのか。
こういう世界もあるのかという感じ。いささか申し訳ないが、実に興味深く読んだ。
増田に多そうであんまりない風俗体験談(サービス受ける側)。たぶん多くの人が自分の性欲については自分が一番よく知っていると思い込んでいるけれど、必ずしもそうでもないこともあるということ。それを身をもって知れたのは快感そのものより重要な体験なのではないかと思う。
なにかが間違っていることはわかっているけどなにを間違っているかわかっていない、という感じなのかな。
イベントに罪はないけど組織や同調圧力とセットになるとクソになりうる、という話。増田の心意気は大いに買いたい。影ながら幸運を祈る。
軽妙な文章。なにか無責任な希望を漂わせるようなところがあって、読んでいて楽しくなった。この文体から繰り出される「彼ピッピ」にはやられた。
これで前に進めるのならいい話だと思うけど、読んだ感じまだ未練を引きずりそうな。でもそれもまた人生。顔を上げて進もう。
うーん。値段の問題はおいといても入口がわからない感じが圧倒的。知ってる曲が全くないように思えることが障壁かな。
自分の中の「小劇場系」の定義がかなり揺らいだ。とはいえこういう世界があっても不思議ではない。
少し本当らしさに欠けるが、言わんとすることはわかる、という感じの文章。
これは端的な正論、なのだけど、じゃあそれを埋めるためにどうすればいいかってことには簡単な解はないのだろう。
すごく丁寧な記事で記述内容に興味のない自分でも面白く読めたがまったくブクマつかず。まあそういうものかもしれぬ。
ここに書かれている自己分析が正しくないか、なにかまだここに書けていない理由があるんじゃないか、という印象を受ける。少なくともこれは嫉妬ではない。
増田の書き込みには国会まで届くものもあるという。この人の声ももう少し遠くまで届くといいのだけど。
正解はないし、取り返しのつかないこともめったにないのだから、その時思ったようにふるまえばいいのかなあ、とか。
これはかなりいいリスト。/よだれ多いたちだとスタイめちゃくちゃ使うんだよね(一日十枚とか)。安くてかわいいところあるといいよね。
セックスがらみの男女のディスコミュニケーションも増田には時々見られる。
→消えてた。
増田にはめずらしい追悼文。切れのいい文章でなかなか読ませる。トラバにもあるが、他の文も読んでみたいと思った。
これ微妙なところもあって、やっぱり内科が適切って場合も多い気がする。これは少し結果論に近い気はする。
謎のデュランデュラン再評価。テンション高いし、楽しそうですごくいい。かくありたいものである。
これはその通りだと思う。「異常」という切断は深刻さを矮小化させるおそれがある。
盛り上がった話題とは少しずれる視点なんだけど、面白い角度からの助言。
21XX年、日本人による乱獲によりクロマグロは絶滅の危機に瀕していた。
憶えておくと……別に得はしないかもしれないな。
まったく知らない世界の入口になりうる記事。増田に限らずこういう記事はよいものだと思う。
カノバレという言葉を知らなかった。熱量があって文章も上手いが一般性があんまりないという、増田向きの好文章。
これも文章が上手い(根拠はないが、直上のエントリと同じ人だったりしないだろうか)。たぶん日本のどこにでもありうる風景と雰囲気をきりとった好文。
知見の共有的にリンクしておく。
マジレスするなら、そういう人はいると思うけど、めぐり合う確率は低いだろう。それでも人を好きになっていいと思うし、いろいろ心配するのはその後ではだめか。
こういうのって難しいし必ずしも直接役に立たないかもしれないけど、誰かの小さな一歩のためのきっかけぐらいにはなるかもしれない、みたいなことを思う。
そう来るのかよ、の六行増田。
雨が降るなか、腹が減ったので近所にある牛丼屋へ行った。その辺によくあるチェーン店の牛丼屋。
カウンター席で値段350円の牛丼が運ばれてくるのをぼんやり待っていると、高齢の男性がひとり入店してきた。その男性は店員に「こんにちわ」と声をかけ、店員もくだけた感じで「いらっしゃい」と男性を迎える。男性はどうやらこの店で顔なじみの客のようだ。男性は発券機で食事を注文したあと、私の真隣に腰を掛けた。そして「今日は寒いなあ」などとカウンター越しに店員と会話しながら、おもむろに懐から1枚のはがきを取り出す。
(男性)「この漢字の読み方が分からなくて。88歳はべいじゅだが、80歳は何て読むんだ」
(店員A)「同窓会の案内状?確かに88歳はべいじゅですね...80歳は...なんだろう」
(店員B)「わかんないですね」
(男性)「朝にもここで聞いてみたんだが、結局わからなかった」
(店員A)「ちょっと待ってくださいね、スマホで調べてみます」
店員Aがひとりバックヤードへと駆けていった。厨房で料理をするのにスマホは携帯していない。もう一方で残された店員Bは「漢字って本当に難しいですよね」「同窓会ですか?そういうのって良いですよね」などと男性と会話している。私はお祝いで80歳をなんと呼ぶのか知らなかったし、会話に参加することなく牛丼を食べなが成り行きを伺った。そして男性が先ほど述べた「朝にもここで聞いてみた」という言葉が気になっていた。それはつまり男性がひとり暮らしで、朝晩の食事はチェーン店の牛丼屋で済ませており、1日のうちで他人と会話する(漢字の読み方を質問する)チャンスがこの場所に限られている事を示していたからだ。そうではないかもしれないけれど、その可能性は高いと思われた。
そう時間が経たないうちに店員Aが戻り、男性に「さんじゅって呼ぶそうですよ」と教えた(そうなんだなあ)。男性もそうかそうかと納得したようで、次にはがきに書いてある同窓会についての話で花を咲かし始めた。年齢の話になると店員に「おとうさん80歳だったんですか?もっとお若いかと思ってました。全然80歳にみえないですよ」と褒められ、なんだか照れくさそうに口ごもったりする。同窓会の幹事を「あの馬鹿が」と罵ってみたり、離れた出身地まで戻らねばならないのを「めんどくさい」とこぼしてみたり、店員たちと会話する表情はなんとも楽しそうである。
正直に言うと私には男性が80歳かそれ以上に見えた。背中もかなり曲がっていて、格好もヨレヨレな感じである。しかし店員に「80歳に見えない」と褒められ、楽し気に出生地や同窓会についての話をする男性の姿はすこしだけ若返って見えたかもしれない。男性の生活には、会話というものがどれだけ存在しないのだろうか。ひとりで生活している人間は、どこに他人との会話も求めて出かけていくのだろう。男性の場合は近所の牛丼屋だった。