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はてなキーワード: 倫理学とは

2022-08-30

anond:20220830225149

ニーチェは神を否定したんじゃなく、西洋神学世界観否定した

19世紀なんてニュートンとかより200年後

自然科学世界観知識人の間では当然で、強固な信仰なんてとっくに崩れてる

しろ人間の理性が第一という雰囲気になっていった

でもそのはずなのに、実は倫理学哲学レベルでは実はキリスト教倫理観が無批判に埋め込まれますよね?

お前らいい加減死んだ神を捨てて成長しろよ?

っていう批判をやったんや

2022-08-16

トロッコ問題とはなんぞや?というお話

タイトル通りの内容について話していく。


日本ではシュレディンガーの猫と並ぶ有名な思考実験であり、それと比べて随分と簡単な内容なのに本質理解している人が少ないように感じたのが書こうと思ったきっかである

まずトロッコ問題の具体的な内容なのだが…説明するのが面倒なんでwikiからコピペしてくる。


線路を走っていたトロッコ制御不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。この時たまたまA氏は線路分岐器のすぐ側にいた。

A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?

なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的見解けが問題にされている。あなた道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。


というものなのだが、ようするに5人を助けるために1人を殺すか、何もせずに5人を見殺しにするべきか?という2択から選べというやつだ。


まぁ先に結論から言ってしまうと、これは「功利主義」か「義務論(カント主義)」どちらを支持するか?という倫理学問題である

倫理学はいくつかの流派があって、その中に「皆が幸せならそれでいいじゃない」という考えの功利主義と「正しいことは絶対正しいんだよ!」という考えのカント主義存在する。

功利主義では「1人が死んでも5人が助かるなら幸福の総量は多いんだからそれでいいじゃない」と1人を殺して5人を助けるほうが正しいと考える。

逆にカント主義では「他人目的のために使ったりしてはいけない」と考えるので、結果的に5人が死のうがそれを助けるために1人を殺すのは悪だと考える。

ようするに功利主義が正しいと思うのなら分岐点のレバーを引いて1人を殺し、カント主義が正しいと思うのなら何もせずに5人を見殺しにするという至極単純な問題なわけである


くだらない議論だし、功利主義は「最大多数の最大幸福」という基本原理を掲げてるだけでそれが正しいという根拠はないし、カント主義カントというドイツおっさんが「目的のために他人を利用するな!」と言ったからそれが正しいとされてるだけで、その正しさにも根拠はない


ただ日本には義務論的な土壌がないので、直感的に5人を助ける方が正しいと答える日本人が多いと思う。

どっかの高校教師が授業中にトロッコ問題を出して、とある一人の生徒がカント主義の考えを主張したら冗談だと思ったという冗談みたいな話がある。

仮にも大卒教員問題の意義も知らない上に、それを生徒に出題するなんてアホだと思うが、それだけ「トロッコ問題」という名前けが独り歩きして本質理解されていない例だと考えている。


ちなみにこのトロッコ問題に関連する事柄があって、5人を助けるために1人を殺しても許される。と考えるならば「5人の臓器移植しないと助からない患者のために、1人の健康な人を殺してその臓器をそれぞれ5人に移植しても許されるはずだ」という論調存在する。

トロッコ問題では「1人を殺してでも五人を助けるべきだ」と直感的に答えた人の数が多かったとしても、臓器移植問題になると罪悪感を覚えるのか、五人の為に1人を殺そうと考える人が急激に少なくなる。

トロッコ問題も臓器問題も「多数の幸福のためならば少数の犠牲を厭わない」という功利主義原理は同じなのだが、前者と後者人間善悪判断は変わってくる。それはなぜだろうか?


と、このように「功利主義」と「カント主義」どちらを支持するか?でなく、その根拠になる人間善悪や罪悪感の基準はどこにあるんだろう?といった話に繋がる思考実験なのである

もし他人トロッコ問題を出すときは、トロッコだけではなく臓器問題も一緒に出題してはいかがだろうか?

2022-07-27

Google心理的安全性存在しない

心理的安全性という言葉Googleが掲げていることで有名になった。ではGoogleに真の心理的安全性存在するのか。

Googleが「カースト差別」に関する講演をキャンセル、「私たち職場カースト差別存在しない」と広報担当者は主張

https://gigazine.net/news/20220606-google-cancelled-talk-caste-bias/

現代世界に残る最大規模の差別はヒンディー教のカーストであることは誰もが認めるところであろう。Google社内でカーストについて語ることはご法度になっている。真に心理的安全性があるのであれば昨今流行りのDiversity and Inclusionイニシアチブとしてカースト制度は積極的批判されるべきであるが誰も問題にしない。アメリカ中国問題ではないかである

インドカースト差別は深刻で海外に移り住んでもつきまとってくることがある。例えばGoogle社長Microsoft社長インド人だが彼らはカースト最上位のバラモンであるカースト最下位人達がこれらの会社社長になれるだろうか。なれないだろう。彼らがカースト差別批判しているか?していない。アメリカ企業で勝ち組となったインド人はそもそも特権階級であることが多くインド差別問題を訴えるインセンティブは皆無である。彼らは現在アメリカ白人のように特権階級であるとして迫害されることを恐れている。アメリカであれば有色人種マイノリティとして美味しい汁を吸うことができるためそれに甘んじているのだ。世の中は偽善で溢れている。

Google中の人の「女性は生まれつきエンジニアに向かない」文書回覧で社内騒然

https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1708/06/news034.html

"Google’s Ideological Echo Chamber"という社内文章Google違法逆差別を行っていることを示し問題点を指摘した文章である。この文章を書いた人物解雇された。心理的安全性が真にあるのであればGoogleは真っ当な批判真摯に向き合うべきであった。GoogleAI倫理学者も解雇したが彼女ヒステリックであった。この文章彼女ヒステリックな主張に比べると幾分かはまともな主張であり皆がこっそりと気付いていることを文章にしたものである米国では雇用の際に性別人種をもとに差別を行うことが禁じられている。逆差別本来違法であるが大きく問題になることは少ない。Google違法であることを知っているので隠れて雇用トレーニングを行っていると著者は主張している。

Google’s Ideological Echo Chamber

https://s3.documentcloud.org/documents/3914586/Googles-Ideological-Echo-Chamber.pdf

TL;DR

  • Google’s political bias has equated the freedom from offense with psychological safety, but shaming into silence is the antithesis of psychological safety.
  • This silencing has created an ideological echo chamber where some ideas are too sacred to be honestly discussed.
  • The lack of discussion fosters the most extreme and authoritarian elements of this ideology.
    • Extreme: all disparities in representation are due to oppression
    • Authoritarian: we should discriminate to correct for this oppression
  • Differences in distributions of traits between men and women may in part explain why we don't have 50% representation of women in tech and leadership.
  • Discrimination to reach equal representation is unfair, divisive, and bad for business.

TLDRに見て取れるように心理的安全性への批判もしている。

Google女性社員の給料意図的に少なくしていたことを認め、約158億円を支払う和解合意

https://gigazine.net/news/20220614-google-women-pay/

さてそんなGoogleである女性社員の給料意図的に少なくしていた。口で言っていることと実際にやっていることが異なる。

2022-07-15

どうして自分が受けた仕打ち他人にしてはならないか

どうして他人が私にした仕打ちを、私は他人にしてはいけないのか、ということについて、自分なりに納得したいと考えています。参考になる哲学倫理学の分野や書籍はありますか?

私は30代の会社員です。 職場で短気な上司に当たっては、「態度が気に入らない」「失言をした」などの理由でみんなの前で怒鳴られたり、ゴミ箱を蹴られたり、ライングループで叱責されたりしてきました。冷静に考えてパワハラではないかと思いますし、その上司らの情緒おかしかったと思いますが、「お前が悪いから怒鳴られても仕方ない、お前を変えるためだ」と正当化され、そのたびに何とか自分を納得させてきました。

さてそんな私も中間管理職になり部下を持つようになりました。部下のほとんどは、私に言わせれば、かつての私と同様に、態度が悪く、失言も多いです。かつての私だったら怒鳴られていたと思います。でも私はなんとなく、怒鳴らないようにしています

しかし時々、ものすごく苦しいです。どうして自分他人に怒鳴られたり威圧されたりすることは正当化され、納得しなければならなかったのに、私は他人が悪い場合にも他人を怒鳴ったり威圧したりしてはいけないのでしょうか。

「なんとなく」怒鳴らないようにしていますが、何で私はゴミ箱を蹴るのを我慢しなければならないのでしょう。蹴っていいのかな。いややっぱりだめだと思います。だめなことは分かりますが、理由が分かりません。

まり、どうして自分他人にされたことを、他人にしてはいけないのでしょうか。 悪いことならしてはいけないのは分かります。でも相手が悪ければ、どんなに怒鳴ってもいい、というふうに正当化された話だったはずです(私を怒鳴った人たちはそういう態度でした)。なぜ私は、悪い部下を怒鳴ってはいけないのでしょうか。 もしくは、やっぱり怒鳴るのは悪いことだったとして、かつて他人に正しくない、悪いことをされ苦しんだのに、どうして自分他人にその同じ悪いことをしてはいけないのでしょうか。どうして他人は私を虐げてよい(よいかどうかはともかく実際虐げた)のに、私は他人を虐げてはならないのでしょうか。

私の問題パワハラ程度の軽微な問題ですが、たとえば、

児童虐待を受けて育った子どもが、自分の子どもを虐待して罪に問われる

いじめ被害を受けた子どもが、非行に走り、加害者になる なども同じ構造ではないかと考えます。なぜ人間自分にされたひどいことを他の人間にしてはいけないのでしょうか。

この問題について自分なりに考え、納得したいのですが、参考になる哲学倫理学の分野はありますか? 「なぜ人間自分にされたひどいことを他の人間にしてはいけないか」という問いについての答えや皆様の持論を伺いたいのではなく、自分勉強して考えて納得したいので、そのヒントとなるような学問分野を教えていただけるとうれしいです。

2021-12-22

道徳勉強をしようと倫理学の本を読んでみた

まだ読んでいる途中だが

その中で特に気になったのが功利主義

これはどうやら現代において欧米で主流らしいが、他の主義と比べて特に自己犠牲を強いる考え方に思える

これを実践するのは貧乏人にはあまりにつらい

そういう意味では「衣食足りて礼節を知る」とか「貧すれば鈍する」とかいう諺は的を射ているのだなあ

貧乏人のための倫理学というものが欲しくなる

2021-12-15

anond:20211211050608

倫理学者はそれを「不作為の罪」という。この世に罪にならないことはない。

2021-10-28

性自認性的指向

誰かを傷つけたり叩いたりするつもりはないけど

あんまり詳しくないので失礼な言い方になるかもしれない。

あとマイノリティに優しくしたいとかではなくて、誰かを好きになるってどういうことなの??という、なんというか倫理学美学?みたいなことを知りたいので、増田でやることにしました。

ちなみに倫理美学に詳しいわけでもない。学のない俺に教えてくれ。

性的マイノリティって性自認と性指向の2つの考え方があると思うんだけど(wikipediaにもそう書いてあった)、性自認自分アイデンティティであって、必ずしも身体的な性別と一致しないよね。

その一方で性指向相手身体的な性別を主な問題にしているように感じるんだけど、この2つの要素は性的マイノリティという概念を考えるに当たって適切なのか?

まず性自認女性男性が別の男性を好きになるとして、その人はヘテロなの?ゲイなの?

誰かを好きになるというのが身体性な行為ではあれば性自認に関わらず同性愛者だし、精神性な行為ものであればヘテロ?それともそもそも彼我のどちらにおいても身体好意関係ないのだろうか?

別の疑問もあって、例えばゲイ(と自認する)男性が、身体男性だが性自認女性という人を愛するとき、その人はゲイなのだろうか?

この状況自体は当然ヘテロ人間にも起こりうる話なんだけど、そのときヘテロの人は「(今までヘテロだと思ってたけど)もしかしてゲイなのかもしれない」と考えることはあるんだろうか?

もちろんトランスジェンダーが好きだって人もいるだろうけど、見た目で明らかにわかるわけじゃないし、知り合って話して相手トランスだとわかった途端に好きになるっていうのも(ありえるかもしれないけど)人を好きになるってそういうことなの??

とっちらかってしまったけど、性自認自身アイデンティティ、言っちゃえば自分気持ち大事にしているのに対して、性指向相手の体を対象にして考えているように見えてとても強い違和感があるんだよね。

性的マイノリティってこの2つを包括する概念なの?

自分認識する自分の性と自分の好きになる性は必ずしも一致しないんだよというのはわかるけど……。

幼稚な疑問かもしれないけど、こういうことを考えたいので、おすすめ書籍とかあったら教えてほしい。

2021-09-04

anond:20210904151231

学説というより哲学の中の倫理学という分野の中で表現の自由王道トピックになってる。代表的学者としては功利主義者として有名なJSミルとかが有名だと思う。

概説書としてはナイジェル・ヴォーバートン『「表現の自由」入門』が良いと思う。

anond:20210904144426

倫理学的な表現の自由って増田勝手に言ってるだけ?

そういう学説があるの?

よかったら詳しく教えて。勉強したいから。

anond:20210903201547

表現の自由って実は2種類あって法学的な意味での「表現の自由」と倫理学的な意味での「表現の自由」があるんだよ。

具体的な例を出すとヘイトスピーチは法的な意味での「表現の自由」に照らすと何も問題がなく自由おこなえる(規制法もあるが、あれは国家ヘイトスピーチを無くすように努力することを決めた理念法で人々がヘイトスピーチをすることについては触れてすらいない)。一方で倫理学的にはヘイトスピーチは反対派と賛成派がおり、必ずしも自由におこなえるものとは言えない。ヘイトスピーチの例のように法学的なもの倫理学的なものかで同じ表現の自由でも全く内容が変わってしまう。

今回の個人間での表現の自由侵害がありうるかというのも法的な意味倫理学的な意味かで変わってくる。

法学的な「表現の自由」では基本的個人表現の自由を侵すことはあまり想定されていない。一方で倫理学的な「表現の自由」では個人侵害することは想定されておりそれの是非に対する議論存在する。

そもそも表現の自由と聞いて頭の中に浮かんでるものが全く違うのだから議論平行線を辿るのも当然の話

2021-08-01

柔道ってまだ160年くらいの歴史なのね

てっきり平安時代あたりの宮殿を守る兵士とかからまれたとか妄想してたわw

しか創設者東大卒インテリとはしらなんだ

あ~しらなんだ♪しらなんだ♪

柔道創始

20代の頃の治五郎

1874年明治7年)、育英義塾(後の育英高校)に入塾。その後、官立東京開成学校(後の東京大学)に進学。1877年明治10年)に東京大学に入学した。東京大学時代には中村正直三島中洲漢文学を学び、渋沢栄一経済学講義を受け、またアーネストフェノロサ薫陶を受けその指導の下、政治学理財学(経済学)、哲学道義学(倫理学)、審美学を学ぶ[3]。また1878年明治11年)には漢学塾二松學舍(後の二松學舍大学)の塾生となる[4]。しかし育英義塾・開成学校時代から自身虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時で柔術は軽視され、師匠を探すのにも苦労し、柳生心眼流大島一学に短期間入門するなどした後、天神真楊流柔術福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話として、「先生福田から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話がある。

1879年明治12年7月渋沢栄一の依頼で渋沢飛鳥山別荘にて7月3日から来日中のユリシーズ・グラントアメリカ合衆国大統領柔術演武した。8月福田が52歳で死んだ後は天神真楊流家元である磯正智に学ぶ

1881年明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術流派の乱捕技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。

1882年明治15年)、下谷稲荷町16(のちの台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁将棋から段位制を取り入れ講道館設立した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E#%E7%94%9F%E3%81%84%E7%AB%8B%E3%81%A1

2021-07-06

91年生まれ反省会をしたい人のプロフィール

哲学研究倫理学)といろんなところで哲学対話をしています

象牙の塔に籠ってる人間世代代表ヅラしないでくれ

2021-07-02

anond:20210702100544

結局「絶対悪ではない」と言いたいのは合ってるんだよな、それは「何か理由があれば許される」と言ってるということだが、どう考えてもそうはならない

いや、なるよ。絶対悪ではないとはまさにそういうことだよ

ちなみに昨日もはてサが「どうせお前らだってスターリンポルポト評価したら発狂するだろー」みたいなこと言って藁人形と戦ってたけど、当然ながら発狂する必然性はまったくなくて

個人信条としてはスターリンポルポトを悪だと思っており、少しも肯定したくないこと」と「論理的にはスターリンポルポトですら絶対悪だとは断定できないこと」は両立する

 

現実の話をするなら中国共産党は今でも自国の「ジェノサイド(※他国視点)」を「治安維持のためだから仕方ない、絶対悪ではない行為」だと吹聴しているし、数億人の中国人がそれを信じている(と思われる)

アメリカによる広島人の虐殺行為だって、さすがに最近は善とは言いづらくなってるかもしれないが「戦争終結のためだから仕方ない、絶対悪ではない行為」と考えられていたりするだろう

善悪イデオロギーによって容易に変わりうるし、現代ですら各国の間でコンセンサスはとれてないわけ

から善悪を語るときには「ある時代のある集団における善悪」という留保をつけることが必須で、「この対象イデオロギーにかかわらず”絶対的な”悪だ」と断言するのは極めて難しい行為なわけ

はたして普遍的善悪存在するか?という議論哲学倫理学が千年以上かけてやっていることであり、理論武装もなしに安易拝借しても一瞬で切り捨てられるのがオチ

個々の史実研究議論にとどめておけばよかったのに、「絶対悪」などという歴史学にはない言葉をカッコいいと思って無理に使うから泥沼にはまる

2021-06-11

anond:20210611211906

そもそも生物学はやっていいことと悪いことを分けるための学問ではない。

健康を損ねる可能性があろうが、だからなんだという話になる。

単なる事実に良いも悪いもない。

健康を損ねるからやるべきでないのか、それとも他にもっと優先するべき価値観があるからやっていいのかを考えるのはまた別の倫理学とかそういう領域の話だろう。

2021-03-15

anond:20210315133310

女性学(じょせいがく、英: women's studies; 仏: études féminines)とは、第二波フェミニズムからまれた新しい学問領域であり、従来の男性中心主義的な学問客観性中立性を問い直し、これまで度外視または過小評価されてきた女性存在経験問題・関心を顕在化、言語化理論化し、これによって従来の知の体系の脱構築を目指す幅広い学際的研究である[1]。

領域としては社会学人類学法学経済学地理学倫理学文学歴史学哲学など従来の人文・社会科学の各領域個別にまたは分野横断的に関わる学問であり、女性研究音楽アート映画メディア等に関するフェミニズム批評さらにはケア倫理エコフェミニズムなど新たな概念提唱されている。

増田が言ってるのもっと雑な世界やろうけど、アカデミックの方もこんな感じやからそんな現状らしいで

2021-03-02

嫌悪を表明する権利について

anond:20210301102544 LGBTを嫌う自由はあるのか、に対する b:id:muchonov 氏の意見 anond:20210302093544 について、

結論に関しては同意しなくは無いものの、やはり倫理学的にみてロジック部分に引っかかる部分があったので指摘 & 自分意見を書きます

社会的少数派の定義曖昧

マジョリティマイノリティーに対する嫌悪を公開することを悪的行為としているが

そもそもマイノリティーがどっからマイノリティーなのか、というのは実は非常に曖昧ですよね。

人口的に50%切ったら? それとも 30%?

日本においては男女の人口比は 49:51 なので この論だと「男は嫌い」という意見差別ということになってしまますよね。

(もちろん、はてぶで見る過度なブコメはまずいと思っていますが)

そもそもマジョリティマイノリティーも切り取るコンテキストによって大きく立場が変わりますよね。

権力勾配、という便利な言葉があるのだけれども

前述したように切り取るコンテキストによって勾配の傾きは変わる以上、ロジックとしては非常に危ういんですよね。

何より、その理屈でいえばマイノリティーがマイノリティーに対する嫌悪問題ないということになるのでは。

ゲイ本人が自身もつ特性嫌悪感がありそれをもって「ゲイ人間はクソだ」と言うのは問題ないんですか?

しろその属性が持つ本人がいうことにより、偏見社会的に強まりません?

表現をするもの属性のみによってその表現道徳性が変わるのは倫理学的におかしいですよね。

から社会的少数派へ嫌悪を表明してはいけない、というロジックはいささか問題ありますよね。

マイノリティには内心の自由がない

内心で嫌う自由はある。マジョリティ100%保障されたその自由を、存分に享受してほしい。それって、すごい特権だと思わないか? だってマイノリティにはさまざまな社会的抑圧や差別によって、内心ですら自分自身100%受容・肯定することがままならない人達もたくさんいるんだぜ

まるで性的マイノリティ内心の自由すら無いような表現だけど余計なお世話

本当に余計なお世話

なんで他の人と違うんだろうとか自分が受け入れてもらえないとか悩むけど、その悩みがあることと内心の自由権利の有無は別の話。

社会的抑圧のせいで自分の性を肯定できないでしょ、って言わんばかりの上から目線というか。

もちろん肉体と自意識がずれてるから悩みは付きないんだけど、

マイノリティーだから内心の自由制限されているはず、という id:muchonov 氏の意見の方が内心のあり方に関する干渉しか感じられない。

そこは人によって違うし性的マジョリティであっても様々な要因でうまくいかない人もいるはず。

(突き詰めていくと自己決定はどこからか、という話になるんだけどそれを言い始めると全ての人に話がおよびますよね)

元増田

じゃあ「嫌い」と公言することは問題ないのかという話だけど

もちろん、嫌いの公言の仕方にもよります。なんらかの先入観偏見を伴った言説を元に嫌いだとか排斥運動するのは

ヘイトスピーチ一種だと考えています

例えば「LGBTクネクネしてるから嫌いだ」とか。

あと、「LGBT禁止する社則/校則を作って欲しい」とか言ったりするの。

でも、そうーいうのをさけ、「男のくせに女の格好しているのは嫌いだ」とかの話は

究極的に言ってしまえば問題ないです。キツいですが。

ただ、この日本においてはTVバラエティ番組などでLGBT

というか特にホモセクシャル面白おかしく扱われ、自分性的指向を公開することをためらわせる

exclusive な流れがあった/ある、ということはご理解いただけると思います

こういった中で「嫌悪」を公言されると

私たちあなたたちがこの社会の中で当たり前に存在することを許さない」という価値観の表明で、それは彼らに対する抑圧に直結する

とまでは言う気は無いものの、やはり結構きついものがあります

なのでできたらやめて欲しいのです。

これを強制するつもりは無いですし、なによりできないでしょう。

何が言いたいかというと、あなたLGBTを嫌いであったとしても敬意を持って欲しいということです。

敬意持って欲しいとは偉いと思ってくれってことではなく、僕もあなたと同じように仕事をしたり、遊んだり、

日々いろんな悩みを持って駆け回ったりしていて

ただ性自認あなた想像と違うだけでそれ以外はほとんどあなたと同じ人間である、ということを認めて欲しいということです。

相手が嫌いであれ、敬意というものは持てるはずです。

本来多様性ダイバーシティとか言われることの根幹はそーいうことですよね。

からid:muchonov氏の元増田の考えを悪と断罪する考えは同意しませんし、

あなたが「LGBTが嫌いである」と公言する権利に対しても反対はしませんし差別だとか言う気もありません。

ただ一つ、その言葉の先にいる人間に思いをはせて欲しい、という、そう、僕からお気持ちの話でした。

2021-02-20

マック飲み物をこぼした子供、見ていたおれ、助けたおばちゃん

マクドナルドの二階、階段から一番近い席で、おれはポテトをパクつきながらスマホをいじっていた。

その奧、壁際の席ではおばさんが二人、向かい合って談笑している。

そこへ一人の少年トレイを持って階段を上がってきた。

おれの席からはその姿が嫌でも目に入る。

階段上り切るその瞬間、少年最後の一段につまづいてバランスを崩し、飲み物トレイから落としてしまった。

床に広がっていくコーラ直立不動で固まる少年少年を見つめるおれ。

少年と目が合い、数秒間見つめ合う。

「え、こぼした。飲み物めっちゃこぼれてる。え、助けた方がいいのか、何してんのトレイを一旦横の回収棚かテーブルにでも置けばいいんだ、助けるっていっても出来ることないよな、外国の子かな、ナプキン余ってるから拭いてやるか、こっち見てる、二枚じゃたいして吸えない、いやそこまですることないだろ、なに固まってるんだ、棚に置いて店員呼びにいけばいいのに」

時間にして3,4秒。咄嗟のことで何も出来ず、ただ頭の中でぐるぐる思考を巡らすおれ。固まるおれたち二人の間に奥の席で談笑していたおばちゃんの一人が割り込む。

あらあら〜、もう一回店員さんのところに言ってこぼしちゃったって言っといで!たぶん新しいのくれるから

少年に近寄り、自然に指示を出すおばちゃん

助け舟を出された少年は指示に従い、階段を引き返していった。

おばちゃんは席に戻り、もう一人のおばちゃん

「優しいわね〜、やっぱり子どもがいると違うわね」

と、おばちゃんファインプレーを讃える。

ということが先程起こったんですが、おれの情けないことと言ったらね。

なんであそこで動けないのか。優しさを発揮する前に「でもそこまでする必要あるかな」とか余計なことを考えてしまうんだよな。

少年マスクをしていて表情が読めなかったとか、落としたのがハンバーガーだったら拾ってやったけど飲み物はもう拾えないし特にしてやれることがなかったとか、このパターンは初めてで戸惑ったとか言い訳じみたことは色々思いつくものの、おばちゃんの方が立派だよね。人として。

自分が行動を起こす妥当性というか「これ、おれが助ける必要があるか?一人でなんとか出来そうじゃない?」とか一旦考えてしまうんだよな。優しさなんてその原理からして妥当性を超えたところにあるんだから、余計なこと考えずに助けてやればいいものを。とりあえず近付いて「大丈夫?」とか声を掛けてやればいいものを。

もし、飲み物を零したのが自分だったら、即座にカップの残骸を拾って捨ててトレイ一旦置いて店員さん呼びに行くから、なんで子どもが何もしないで突っ立ってるのかマジで理解できなかったんだけど、中一ぐらい?ってあんなもんなのかね。どうしていいかわかんないものだったっけ。お兄さんもう覚えてないや。

しかも、その時スマホで見ていたのが倫理学講義レジュメだっていうのが、また情けなさを引き立てるよね。「医師は、重度の知的障害者を持った新生児が命を落としかけていた場合に、両親が望まぬ手術を施すべきか」なんて問題医者になる予定もないおれがうんうん考えてる暇があったら、もっと現実的問題に目を向けろ。「マック飲み物をこぼした少年を助けるべきか」を考えろよ。知行合一でないと。頭だけでっかちでも仕方ないんですよ。実践経験のない現代っ子はこれだから困る。

でも本当に子どもと関わる機会なんてゼロからね。どこで実践なんて積めばいいんだ、という話でした。少年トレイに新しくもらった飲み物を乗せて、今度は転ばずに階段上り切り、それじゃおばちゃんまで届いてねーだろってぐらい小さい声でボソッとお礼言ってました。おわり。

2021-02-03

anond:20210203202834

https://twitter.com/tm2501/status/1356865620206186496 と連続するツイート

主張を箇条書きにしてみると、こんな感じだろうか

 

原:何度も言ってるけど、「社会学哲学は真理の探求や再発見目的とした学問じゃないことが問題」なんですよ。

訳:社会学哲学は、真理の探求や再発見目的とした学問に見えず、問題であると感じる。

理由は示されない。事実ではなく感想

 

原:これが科学なら(以下略

訳:社会学哲学科学ではない。「議論に参加するまでの難しさ」や「成果を示すこと」によって、大衆を納得させることができないかである

意味不明。主張者が科学一般的定義について理解しているのかは不明

 

原:だから個人的には哲学歴史学倫理学の一部ぐらいに(以下略

訳:社会学哲学は、真理の探求や再発見目的とした学問に見えず、問題であり、また、社会学哲学科学ではないから、哲学歴史学倫理学の一分野として扱うべきだし、社会学民俗学経済学又は心理学の一分野として扱うべき。

意味不明

 

原:これが国なら不法行為を取り締まるのは基本警察以下略

訳:国家機関官公庁)に例えてみると、不法行為を取り締まるのは、基本的には警察である

 但し、法律で定めのあるものについては、公正取引委員会麻薬取締官労働基準監督署国税庁消費者庁等所管が違う場合があ(って、一見ややこしく見え)る。

 

原:「ややこしく見える」は控えめな言い方で(以下略

訳:哲学者や社会学者は、自らの学問のみでなく、周縁の学問についても深い学識を有すべきだが、そうした訳でもなく、自らの狭い理解物事を語ろうとしており、問題である

→前の主張とどう繋がっているのか、いまいちからない。また、実例が挙げられないので、有効な主張としては取り扱えない。

 

原:お国で言うと特に犯罪が多かったり

訳:国家機関官公庁)で言えば、被害額の多い事件等、ある種の犯罪については、警察とは違う官庁に取り扱わせようというのは、合理性があるから、納得できる。

 

原:でも、社会学哲学って(以下略

訳:しかしながら、社会学哲学は、現代において重要性が低く、また独立した一ジャンルとして扱う必要合理性は認められない。これが世論見解である

理由根拠が示されないので到底同意はできないし、それが世論であるとは言えない。

 

 

以上

全般言葉足らずだな。本人の中では納得できてるんだろうけど

Twitter仕様のせいなのか、余計文章としてまとまりがなく、非常にわかりにくい。

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