はてなキーワード: 俯瞰的とは
筆者は臨床心理士と公認心理師(心理士/師 と記します)の資格を有し,会計年度任用職員であるスクールカウンセラーとして働いていた時期があるが,現在はある行政機関で働いている。
この日記に記すような考えを持っていることは,名前を添えて発信することはとてもできないので,初めて匿名ダイアリーをお借りします。
行政の観点は持つものの,あくまで行政を専門とするわけではないので,誤りについてはご容赦ください。
(1)スクールカウンセラーについて
スクールカウンセラーは,「会計年度任用職員」として都道府県及び政令指定都市に任用され,小中・高等学校,特別支援学校,教育センターにおいて,
児童生徒の相談に応じるほか,教員や保護者への助言,研修等を行い,もって,児童生徒の支援にあたる。
令和2年3月以前は,特別職非常勤職員として「スクールカウンセラーを委嘱」されていたが,同年3月以降は,「会計年度任用職員に採用」されることとなった。
財源は「いじめ対策・不登校支援等総合推進事業(スクールカウンセラー等活用事業及びスクールソーシャルワーカー活用事業)」による国の補助が1/3,
都道府県及び政令指定都市が2/3を負担する。文部科学省による令和6年度要求・要望額は90億円。
参考:tps://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1328010.htm(スクールカウンセラー等活用事業)
tps://www.cfa.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/2190fb02-e55a-4041-a510-f98183ca6a8b/ae2f9d28/20230908_councils_ijime-kaigi_dai1_03_1.pdf
(いじめ防止対策に係る取り組み状況及び令和6年度概算要求について)
会計年度任用職員は,令和2年4月に施行された「地方公務員法及び地方自治体の一部を改正する法律(平成29年法律第29条)」により導入され,
地方公務員法第22条の二によって任用される非常勤職員である。
基本的な考え方として,会計年度任用職員としての任期終了後,再度同じ職に「任用」される(「再度の任用」という)ことはあるが,これは「更新」とか「任期の延長」,「同一の職に再度任用」
されるのではなく,「あくまで新たな職に改めて採用された」と整理されるべきもの。
なお,事務処理マニュアル及びQアンドAにおいては,繰り返し同一の者を任用することは長期的計画的な人材育成への影響等の理由から留意が必要と示されているほか,
国としては,公募によらない再度の任用は可能であるものの平等取扱いの原則及び成績主義を踏まえ,公募によらない再度の任用は連続2回までとするよう努めていることが示されている。
これらの文言をうけて,スクールカウンセラーについては,例えば,「公募によらない再度の任用は4回まで」と回数を定める自治体が多く認められる。
参考:tps://www.soumu.go.jp/main_content/000853430.pdf(会計年度任用職員制度の導入等に向けた事務処理マニュアル)
(3)雇い止め
『「雇い止め」(更新拒絶)とは、有期雇用契約において、雇用期間を更新せずに契約を終了させること』(東京弁護士会HPより引用)
なお,今回の問題について「解雇」と記す記事があるが,「再度の任用」をしないことは「解雇」には当たらないので,誤りである。
引用:tps://www.toben.or.jp/bengoshi/soudan/work/yatoidome.html
2 スクールカウンセラーの雇い止め(事実の記述)
東京都の会計年度任用職員であるスクールカウンセラーが,4回の「(公募によらない)再度の任用」を終える令和6年度に向け,公募による募集に応募したところ
鈴木都議によるXへのポストによれば,「今回契約延長を求めた1100人の現役のスクールカウンセラーのうち、およそ15%程度が不合格となった」とのこと。
参考:tps://www.tokyo-np.co.jp/article/307027(東京新聞)
tps://www.jcp-tokyo.net/2024/0212/90022(東京民報)
tps://twitter.com/Retsu_SUZUKI/status/1757670551433453730(鈴木都議によるポスト)
(1)スクールカウンセラーの雇い止め問題について
次の点から,今回多くのスクールカウンセラーが再度任用されないことは,何ら問題なく,むしろよいことだと思う。
ア スクールカウンセラーが再度任用されないこと(雇い止め)は,法律にそった対応であることから,何ら問題ではない。
イ スクールカウンセラーの入れ替わりが促進されることから,資格取得後間もない若手にも活躍の場が与えられ,心理士/師にとってもよいことである。
ウ 今回の問題を機にスクールカウンセラーは会計年度任用職員にそぐわないことがよく理解されれば,常勤採用につながるきっかけとなる。
ア 再度任用されないことは問題であるという論調の記事等では,例えば次の理由(というかご意見)が挙げられていますが,再度任用されないことを問題とする根拠とは言えない。
(tps://www.tokyo-np.co.jp/article/307027 より)
・雇用継続されたが,いつ自分も切られるか不安 ➡︎ 多くの労働者は同じ不安を抱えて生活しているので,不安であるというだけで,再度任用する根拠・理由にはなり得ない。
(実際にそのとおりかどうかは疑問が残るが,不安の中では相談において十分な能力を発揮できないからスクールカウンセラーは
・駒のように人を代えられるのは納得がいかない ➡︎ 職員の入れ替えがあるのは教員も同じであるので,再度任用する根拠・理由にはなり得ない。駒のように,というのは受け止め方の問題である。
・児童生徒,保護者に来年度の不在を伝えることが大変気が重い ➡︎ 教員も異動等で変わることがあるものであり,再度任用する根拠・理由にはなり得ない。
(別れもまた成長の機会であるのだから,児童生徒の成長につながるように交代の話をしてほしい,と言われそうな印象。)
・これまでの経験や成果が全く考慮されず,残念 ➡︎ さらなる活躍が期待できる人の応募があればそちらを採用するものであるから,再度任用する根拠・理由にはなり得ない。
・評価がAであるにもかかわらず補充任用でした ➡︎ 現場の評価と面接での評価が一致しないこともあるのだから,再度任用する根拠・理由にはなり得ない。
・向き合っているのは人の生死。現任者を切るやり方は,児童生徒に不利益を与える ➡︎ 現任者の交代によりどのような不利益が生じるのか明らかでないので,再度任用する根拠・理由にはなり得ない。
(この意見の伝え方は,必要以上にエモーショナルで,一般的には受け入れられにくいだろう)
(不安定な状態で継続的な相談に応じている中で交代することにより相談の一時的な停滞が想定される,という主張であれば,もとよりスクールカウンセラーの相談は長期間の継続を想定しておらず,
継続相談を要する場合は,その判断があった時点で近傍医療機関へ紹介されているべき,という反論がありうると思います。)
イ そもそも,この問題は,再度任用されないことは問題なのではなく(問題として扱えないレベル),スクールカウンセラーが会計年度任用職員にそぐわないことにあると思います。
そのあたりの整理ができないまま,再度任用されないという個人的な不利益について児童生徒を持ち出して訴えるので,話がややこしくなり,また理解されづらくなっていると思います。
(3)今後の方向性について
ア 上に記したとおり,スクールカウンセラーが会計年度任用職員にそぐわないことが問題なのであり,スクールカウンセラーを自治体や教育委員会の職員とする等,他のあり方へつなげることが,
そもそもの狙いになるのではないでしょうか。
そのためには,東京都や総務省に対し再度任用されないことを問題として訴えても話にならないのであって,主管である文部科学省との間でスクールカウンセラーは会計年度任用職員にそぐわないこと
について話をしていかなければいけません。
ただし,この時,ではどういう採用をしてほしいのか(立場は?人数は?財源は?)という案まで考えた上で伝えていかなければいけません。
一緒に問題を解決するという立場で,むしろ自分で自分の問題を解決するという姿勢で,行政に働きかけていかなければいけませんし,できることならば政治の問題として取り上げて行く方が望ましいです。
イ そのように,行政に働きかけ政治の問題としていくためには,職能団体としてしっかりまとまらないといけません。
(案のまともさは前提として)この案は全スクールカウンセラーの総意です,というものをもって行政に働きかけていけるよう,皆んなで先生を応援しますのでよろしくお願いしますと
頭揃えができるように,職能団体としてまとまりを持つ必要があります。
ウ さらに,このような働きかけをしていくとしたら,また,ニュースにあるような声を上げるということ自体が,他の会計年度任用職員の存在をおざなりにしていることを自覚しなければいけないと思います。
事務処理マニュアルにおいては,スクールカウンセラー以外にも,保育士,看護師,掃除作業員,医療的ケアのために置かれる看護師・言語聴覚士・作業療法士・理学療法士,スクールサポーター等
多くの人が,スクールカウンセラーよりも安い賃金で,同じ不安を抱えながら生活していることを理解し,会計年度任用職員制度そのもののあり方を問うて行くことが必要だと思います。
そういった俯瞰的な視点を持たず,スクールカウンセラーの雇用についてだけ声を上げるというのは,社会的な支持を得にくく,何も成果をもたらさないと思います。
個人的には,そういう視点が持てなければ(持てていないから),スクールカウンセラーは会計年度任用職員止まりなのだと思います。
(4)自分たちの総括について
ア スクールカウンセラーの専門性は外部性である,という意見をよく聞きます。外部の立場だからこそ,客観的なアセスメントができるものである,等の意見です。
果たしてそうでしょうか。ここで議論することではないので何も触れませんが,外部性を訴える以上,会計年度任用職員以上の常勤職には,外部性と相反することから,なれないでしょう。
そもそもどうして外部性というアピールが生まれたのでしょうか。本当に,非常勤でなければ客観的なアセスメントができないのでしょうか。常勤職につけない正当化であった可能性はないでしょうか。
イ 公認心理師ができても常勤職は少なく,会計年度任用職員という非常勤ポストすら奪い合いの状況です。
学会を見ても,多くの理事の先生方はとうに65歳を過ぎておられ,若手に席が回ってきません。
ベテランの先生は退職しても開業されますので,開業カウンセリングの市場も奪い合いです。みんなが食べられる状況ではないことは明らかです。
大学院生はどんどん修了し,供給だけが進みます。大学院での学びを活かし,心理士/師として働くよりも条件が良い仕事,働きがいのある職場はたくさんありますよ。
ウ スクールカウンセラー全員が学校に歓迎されているわけではありません。ニュースになった事件もありました。
予算執行調査でも,「SC等の資質向上は最重要事項」と言われています。
これは,若いスクールカウンセラーの資質向上という意味ではありません。ベテランのスクールカウンセラーでも,何も言われなくても,イマイチと思われていることもあるのです。
また,税金を投入する以上,本当に効果があるのか,どの程度の効果があるのか,という問いからは逃れられません。
曖昧模糊な言葉で訴えるだけでは,カウンセリングの重要性を理解してもらえません。予算レベルでは,文科の担当者の方が頑張って財務省と話をして予算をとってくれるわけですが,
自分たち自身も,日頃,スクールカウンセラーやカウンセリングによってどういう効果があるのかを,専門家でない人でもわかるように説明できるようにならないといけないと思います。
とにかく大切だとか,命に関わることだとか,そういう説明では,その場はそうですよねと言ってもらえますが,実は理解を得られません。
また,言葉で訴えるだけではなく,定量的な指標で効果を示せることが必要です。
参考:tps://www.mof.go.jp/policy/budget/topics/budget_execution_audit/fy2021/sy0309/11.pdf(総括調査票)
エ スクールカウンセラーも心理士/師も,社会で働いています。
そのため,組織に関する行政は,ある程度理解する必要があると思います。今日リンクを貼った文科のHP等は最たるものですが,見ているスクールカウンセラーはあまりおられないでしょう。
社会の中での位置付けを抜きにして,児童生徒とスクールカウンセラーとの関係はあり得ませんので,ある程度行政での位置付け,行政での扱われ方も理解した方がいいと思います。
カウンセラーは社会性がないとよく言われます。個人のカウンセリングだけではなく,社会にも目を向ける必要があると思います。
4 最後に
スクールカウンセラーは,楽しかったですし,良い仕事だと思います。今の心理士/師としての仕事も,楽しくやっています。
ただ,心理士/師には難しい人も多く,これから国民にとってアクセスしやすい存在になるにつれ,問題も表面化していくと思います。
これからどうなるのでしょうか。明るい業界であってほしいと思いますが,明るい業界を作り出せるかどうかは自分たちにかかっている中で,地に足のついた議論は乏しいようにも思います。
この日記が,心理士/師業界の発展につながり,ひいては国民の福祉と健康につながる一助となればとても嬉しいです。
ありがとうございました。
登山道というほどではないけど山の道って感じの道はあるじゃん?舗装されてて車も通ってるけど、道の外側に建物があったり誰かの庭だったり軒先だったりとあからさまに誰かの土地感があるわけじゃなくて、藪や木が果てしなく広がってる感じで突き進もうと思えば進めるようになってる道。
かりにそうじゃないとしたら、誰かが持ってる山の部分に国だのなんだのが勝手に道を敷いていることになるんだから不自然だ。
で、仮に森林地帯のうちの、道も、道じゃないところも、公共の土地という点で共通なのだとしたら、なぜ道は自由に通行してよく、そうじゃないとこは入っただけで違法なんて扱いをデフォルトにしたのだろうか?
どっちも公共の地面なんだから、原則自由に通行できるようにすればよかったんじゃないの?
自然保護目的で踏み荒らされたくない場合に限って国だのなんだのが個々に決まりを作るというブラックリスト方式のほうがルールとしては素直でシンプルだと思うのだが。
地面自体、人が移動するために存在しているという側面があるのに、道以外の地面を移動のために利用してはいけないとは不自然だろう。地面による二次元的な移動ではなく、そのうちのごく一部分の道による一次元的な移動しか許していないのはただ不便さを増しているだけだろう。
そもそも、すべての土地に所有者がいるという前提に立っているのがおかしいと思う。
「国有林」という概念があって、これは明治維新の際に藩有林、社寺有林、所有が明確でない森林を継承して成立したという。
「所有が明確でない森林」というところに注目してほしい。あたかも不明なだけで所有者がいるみたいな言い方だけども、これには正真正銘「誰の土地でもなかった土地」が含まれていたのではないか?
つまり誰も存在を認識していなかった土地があったはずで、これを伊能忠敬が作った日本列島の海岸線の地図という、日本の土地全体を俯瞰的にとらえる手段のおかげで、その地図から誰かの土地だと確定している部分を全て取り除けば、それ以外の場所は全て所有が明確でない土地として間接的に存在を把握できるようになったというところだろう。実際は誰も見ても足を踏み入れてもいない土地(誰に帰すべき実効支配性がない土地)なのに。
(もし全宇宙の地図があったら、その何万光年先の直接見たこともない空間について「ここは俺の土地だ」と主張するようなものだ。伊能忠敬は日本列島においてこのバカげた主張を形式的に可能にした。)
そういう土地を無理に国有林化しただけの話ではないか。もっと素直に「誰の土地でもない土地」と別区分にすればよかったのではないか?
誰の土地でもない土地というのは、誰にも占有する権利はないということだ。ゆえに誰が移動の用に足を踏み入れても問題ないということになる。
誰の土地でもないので、ぶっちゃけそこに勝手に家を建てても問題はない。早い者勝ちだ。ただし別の人がその家を打ちこわししても問題ない。問題ないというのは語弊があるなら「その家を建てた人がその土地での所有権を根拠に狼藉を主張することはできない」ということだ。
つまりこの場合器物破損だし、この公有の空間のなかで先にいた人を後から来た人がそこを自分のお気に入りの場所として見出し喧嘩になったら暴行罪だし、というように、個々の事例に合わせて既存の法律で裁くべき問題ということになる。
頭でっかちに「すべての土地は誰かの土地だ」という固定観念ありきで法律を作ったために、はっきりいってスマートじゃない法体系になってると思う。
なぜ「誰の土地でもない土地」と別に難しくもなんともない概念を素直に受け入れられなかったのだろう?
dorawiiより
本邦の“女流”ジャーナリストの草分けと言えるであろう上坂冬子は、かつて著書の中で原発について
「我が国の優秀な専門家の方々がしっかりやってくれているのだから、素人が文句をつけるべきでない」という旨の主張をした。
ところで氏は東日本大震災の少し前に世を去っている。ほんの少しだけ長生きしていただきたかったことである。
野次馬の声を押さえつけることなどできないしするべきではないが、それにしても野次馬の声のボリュームが(テクノロジーによって)大きくなりすぎている。
野次馬と一緒にリアルタイムでワーワー相談しながら進められることなどない。当局者は萎縮して右顧左眄し、一貫性を手放し、アリバイ的な形式主義に陥る。弊害しかない。
中立的な社会インフラになりかけてたのが、一気に2ちゃんねる的なモノに戻っていった。
野次馬はそういうサンドボックス内で好きなだけ騒いでなさい、実務は密室で進めておくからという体制が固まりつつある。
いま「権力は信用ならない、文春砲が民衆の武器だ」と、スキャンダルによる私刑に期待と支持が集まっている。
それはしかし俯瞰的に見れば「うまく砂場に誘導されている図」であると思う。
世界的な「法秩序より正義を」の動き、デマの物量戦、情報蝗害、インプレゾンビ
とりあえずメモまで
アニソンの良さって「背景にある巨大な物語を堂々と歌えること」だと思うんだよな。
普通のJ-POPで「俺の好きな小説の話を延々としちゃうぜ!」とか「俺の半生で最も輝いていた頃、最高のダチの話をさせてくれ!」とかやられてもガチファン以外はちょっと引いちゃうじゃん?
でもアニソンはそうじゃなくて、主人公の話だけ延々としてたり、そのクールで立ち向かう物語について俯瞰的に語ったり出来るでしょ?
最近の音楽って「今どきの日常の一瞬を切り取って小市民としての気持ちを歌っちゃうぜ~~~」っていう枠組みの中で歌わなきゃいけないっていう制限の中で皆歌ってるからもうレッドオーシャンがヤバイじゃん?
それに対してアニソンはそのアニメの内容を歌わなきゃいけないっていう制限はあるけど、非現実的な物語を詞にすることが出来るから今どきの音楽でやれてない領域にアクセス出来る強みがあるじゃん?
あったはずじゃん?
まるで文字媒体だから理解できないみたいな言い方してるけど、あくまで個人の体感としては150文字(以上)を要するようなそれなりの長さのひとかまたりの情報量だとむしろ口頭で説明される方がややこしくないか?
文字なら俯瞰的に情報を眺められ英文解析みたいに単語間の構造をメモするみたいな「補助線」を入れることもできる。
口頭で言われるとそれこそ言ったそばから情報は外界からたちどころに消えていき、脳の記憶力があるとはいっても日常会話的な簡単な応答ならともかくやや複雑な情報だと一度言われただけじゃそもそも記憶するのもおぼつかないので、頭の中のワーキングメモリで反芻して整理するみたいなことができない。
スキップとローファーみたいな純粋一点張りの地味主人公がイケメン一軍男子に見初められる少女漫画嫌い
評判いいからアプリで最初の方読んでみたけど、過去の経験からしっかり努力してるミカをsageる展開、みつみの純粋さに誰も彼もが感心するみつみage展開の多さに辟易した
現実問題、世間知らずは行動がイタいから大抵の人間が見ててイライラするしあそこまで一軍に受け入れられないだろ 住み分けるよ
好意的な感想では「自分の青春時代と比べると苦しい」「あって欲しかった優しい世界」とかよく言われてて、つまり読んでる人は虚構は承知の上で楽しんでんだと思うけど、私はどうしてもあるわけねーだろが勝ってしまうな
みつみと志摩が付き合わない(恋愛的に惹かれ合わない)んだったら、友人としてのバディになる展開だったらむしろ推してた説はある
人間的にみつみを好きになることは有り得ても可愛い子に囲まれまくってて見慣れてる一軍男子に見初められることはまずねーだろ
顔整い男と地味子が付き合うことは現実にも有り得るけど、その場合大抵彼氏側のイケメンは性格的に一軍ではなくて陰キャ寄りチームに属してて、自分のビジュの良さに気づいてないし頓着してないし垢抜けてないから相手のビジュにも固執してませんってケース
志摩のように周り見えてて周りにもキャーキャー言われてるタイプがみつみ選ぶのは夢物語すぎて読んでておもんない
もしくは志摩が女子に大人気のイケメン設定じゃなかったら好き漫画だったかもしれない
いいじゃん、東京に出てきてあたふたしてる中ひとりだけみつみの純粋さに価値を見いだしてくれたごく普通の優しい男子でさ
読んでて、一軍男女たちの好意によってみつみの権威付けをされているように感じてイライラするんだよね
むしろ東京の俗にまみれたクラスの中で最初の方は少し浮きながらもみつみが自らの純粋性を貫くことで周囲を変えていくストーリーだったら好きだったかもしれない
(見方を変えればそういうストーリーにも読めるけど、私はみつみに甘すぎだろ周囲、と感じる)
これだけあの優しい漫画に毒吐けるって増田相当嫌な思いしてきてひねくれちゃったんだなかわいそう、と思われるかもしれないけど、当たってるよ
首都圏外の毎年東大10〜20人くらい入れてる高校に通ってて、ブスだったけどキャラが面白いからってことでクラスに受け入れられてた
幸い受け入れられてたから世界を純粋なまま信じてて、純粋な主人公が報われる少女漫画をガチで信じていた(バカすぎる)
その後首都圏のそれなりに偏差値の高いキラキラ系の大学行くことになったから少し痩せて埋没して見た目に気使って、まあ要するに心だけ純粋なまま努力は報われると無邪気に信じてるミカみたいな感じの人間になったけど、結局いろいろと上手くいかなかったし、私は世界が見えてなさすぎたんだな、世間知らずだったんだなと感じた
ルッキズムを憎んでみたりとか色々あったけど、今は自分のレベルというものにそれなりに満足してるし、私の世界の中で幸せ見つけられたらいいかなと思ってる
この漫画は私が「有り得ないもの」として諦めたものが描かれてて、それが気に入らないんだと思う
でも、諦めたと書いたけど、本気で未練はない。自分にはいわゆるキラキラとした世界は向いてないし(一度挑戦してみて分かった)、そういう世界で生きてる人と根本的には合わないなと思ってるから、みつみを羨ましいと思ってる自覚はない(周囲からはそう見えるかもしれない)
「それぞれの身の丈(とあえて言う)に合った世界があって、そこでみんな幸せを見つけていけばいい」という私の価値観が、一軍の心優しい者たちから受け入れられ優しくされるみつみのあり方によって崩されるのが気に食わないんだと思う
いや、ありえねーだろ! みたいな
必死に努力して周囲と打ち解けてきたADHD/ASDグレーゾーン(検査済み)としては余計に。
それに、みつみみたいに純粋なまま周りにどんどん受け入れられて生きて行けたら幸せだろうなと思いつつも、みつみみたいになりたかったとも思わない
私は世間を悲観的に俯瞰的に見てしまう自己を主体的に選び取ってるし、「見えてない」「擦れてない」が故の純粋性を善きものだと思わないから
みつみが人を傷つけてる描写は私が読んでる限りでは無いけど、汚い部分が見えてないが故の純粋性は時に人を傷つけるから
色々見えてしまって世界にうんざりしながらも人に優しくしようとする決意の方が尊いと感じるから
別に嫌なことされた人の方の名前覚えてたっていいじゃんと思う(私はどちらもしつこく覚えている)
だからこの漫画への嫌悪を嫉妬という言葉で片付けるの自分としては適切では無いんだけど、傍から見たらただの嫉妬だろ可哀想って感じだからもうそれでいいかと思ってる
最初の方しか読んでないからみつみは世間知らずの田舎者(が故に純粋)って認識で止まってるけど、私の諸々の解釈が間違ってたらすみません どちらにしろもう読まないと思うけど
自分が少数派のひねくれた人種ってことは理解してるから、世の中にきっといるだろう私のようにスキップとローファーを好きになれない人が読んでひとりじゃないんだと心を落ち着けられればなという意図4割、自分が書いてスッキリしたい6割で書きました。
(Noteに下書きとしてずっと残っていていつまでも公開する勇気無い記事)
10年ぐらい前の話。
給料が入って家のローン、クレカのリボ払いの最低これだけ払ってね支払い、カードローンの支払いをして、自分の小遣いに3万ぐらい入れたら、「あの支払いがまだだった」とか「妻様激おこぷんぷん丸級のミスをしてしまいごめんなさい」的な支出であっという間に銀行の残高が5000円ぐらいになり、あと平日20日間5000円でランチか、、、一日250円だなと考えていると通勤に必要なPASMO的なものに今月まだチャージしていないことに気づき、とりあえず3000円チャージして様子を見つつ、今月はランチ抜きか、ラッキーなら会社の先輩におごってもらえるかなとかそういう感じで生活をしていた。
給料日まであと10日、スーパーで買い物をする時に、銀行の残り残高が2000円だから一日200円、一日二食でいいや、一食100円、じゃあこの70円のパンなら大丈夫、あとこのセールの肉と野菜を買って、、、1300円!700円もあまっている!じゃあデビットカードで支払いピッ もうこれで大丈夫!
給料日2日前、仕事帰りに「あれ?PASMO的なものに残高が無くて電車に乗れない…チャージをしないと…」と気付き、チャージ用機械へ。PASMO的なカードにチャージするには、最低1000円からという設定になっており、銀行の残高が700円しかないのではいアウト。財布に残っている小銭をかき集めて、、、32円。詰んだ。
もうこんなビンボー生活は嫌だ、ホームから飛び込んでやる!と思っても、PASMO的なカードの残高が無いので、改札が抜けられずホームまでたどり着けない。ビンボーは自死の方法すら選べないのか!と怒りと悲しみで途方に暮れたあたりで、妻から何してるんだ早く帰ってこいと怒りの電話がくる。もう涙も出ないので死んだ目をして歩いて帰る。30分ぐらい歩いたところで、偶然同じ方向に帰る車通勤の同僚に会って、渡りに船で近くまで送ってもらう。神様はやっぱりいるんだなあと思って帰ったら、いつまでかかっとんじゃー遅い!と妻様に「あんたのせいで私の予定が全て狂った」とお叱りを受ける。妻もバイトをいくつか掛け持ちしているのでしょうがない。罰としてあれを買ってこいと言われ、ニヤニヤしながら「マジで金がないから無理ぽ」と言うと「使えない」とか「もっと働け」とか「それがわかってるならバイトとか探せボケ」とか色々言われるが、「バイト見つかってもバイト先まで行く交通費ないぽ」とか内心思いながら頭を下げてひたすら怒りが収まるのを待つ。
「こんなんじゃいかん!」と一念発起してがんばる人のNoteをよく散見するが、そういう人は貧困状態でもきちんと認知能力をキープできているマイノリティな人達もしくは状況にいる人である。副業やバイトするにも、最初にどうしても少しのコストは発生する。それをどう工面するか、時間をどう作るか、色々考えないといけない。
たとえ交通費・準備費用などを確保しても、「あなたは私をここまで怒らせた。あなたはいつも金がない、金がないというが、結局それは私よりもお金が大事であるという事なのだ。なので、あなたがそこまでだいーじにしているお金を犠牲にして、私があなたの犠牲にされた気持ちを理解し反省しなさい」という妻の一言ですべて吹っ飛んでしまうリスクに常に怯えていなければいけない。そして、その月末近くには必ずめちゃ金欠になり、「使えない」「バイトできないとかマジ言い訳みっともない」「言い訳考える暇があったら行動を起こすのが人間として普通、それができないあなたはダメ人間」「まともな人間ではない」「くず」「サイコパス」「悪魔」と罵詈雑言を浴びる。反省をして謝罪をしなければならない。だいたい夜12時ぐらいスタートで4時ぐらいまで。何が悪いのかよくわからないため、納得してもらえる謝罪の言葉が見つからずひたすらうつむき、眠気とのどの渇きと便意を我慢しながら、妻が疲れはてて寝ると決めるのを待つ。お前は引き続き謝罪の言葉を考えろもしくは離婚しろと言われ解放され、ほっとして少し横になる。その後、分担しているが滞っている家事を遂行し、仕事へ行ってだいたい遅刻する。息をする。水を飲む。パントリーにおいてあるビスケットを食べる。味はしないが多分甘い。自分よりももっともっと大変で辛い人はたくさんいると自分に言い聞かせる。自分はがんばらずにひたすらしのいでいるだけで、それで勘弁してもらっているのでラッキーだ。そして人前では笑顔を作る。仕事をしてランチに行くお金があるか財布を見ると、現金が200円ある。ちょうど200円で買える、食堂で一番安いメニューを買って食ってめちゃくちゃラッキーやな俺とおもう。もう財布には7円ぐらいしかないけど、今は考えない。給料出るまで家からなんか食べ物持って行かないと…とか考えて、あとXX日、家にあれとあれがあったから…なんとかなるかなとか考える。お金のこと考えると生きる事は本当に面倒くさいなと思う。午後の仕事に集中しよう、と思いながらオフィスにもどってうつらうつらする。
慢性的に貧困状態の人は、いつもお金のことばかり考えその日その日をしのぐことだけに集中しようとしてしまうため、生活や仕事をする上で総合的な認知能力が低下してしまうらしい。トンネルビジョンというそうだ。トンネルに入り込んでしまって、俯瞰的な視点から物事を見ることができない。助けを求めれば手を差し伸べてくれる人がいることに気付かない、もしくは気後れして頼めない、バイトを探したりするのに必要な時間やコストがねん出できないと最初から諦めてしまい、結局また今月やっと一部だけ返したクレカローンから借り直し自転車操業火の車をしてますます貧困になってしまう。
孤独を感じ友達がいない事に悩んでいる人は、トンネルに入ってしまったように自分が孤独な事ばかりを考え、総合的な認知能力が欠如してしまう。よって変なタイミングで変なことを言ってしまうか、考えすぎて身動きが取れずコミュニケーション自体がとれなくなってしまう。人を遠ざける・近づくことが出来なくなってしまい、ますます孤独になる。
そこまでの貧困に苦しんでいない人や孤独ではない人からすれば、何が問題なのか全くわからない。やっと返したクレカローンからまた借りるなんて、そういう馬鹿だから借金まみれになるんだ自業自得で自己責任でしょっていう感覚になる。考えすぎなんだよ、別に他人はそこまで気にしないよ、あなたが思っているほどあなたは孤独ではないよ、と本人以外は思っていても、悩む本人はトンネルビジョンに入ってしまい、周りが見えない。前にある光に向かうか、遠ざかるかの2択しか見えないので完全にフリーズしてしまうか、ドツボにはまるようにトンネルの奥へ奥へと向かってしまう。
そうやって孤独や貧困のドツボにはまった人は、他人からの助けがない限り、自傷か自死をしていくか、「無敵の人」になる。「生まれてきてごめんなさい」といって死ぬか、開き直ってもう何を言われても私のせいではない、そんな事で怒るあなたの方がおかしい、私は言われたことをやっているだけ、私は悪くない…私は悪くない…と思い込まないと正気が保てなくなる。自分の命はちっぽけでつまらない事はわかっているから、死ねばいいんだ。せめて生きてる間ムカついた奴をできるだけ多く道連れに、全く関係ない他人が巻き込まれてもしゃーない、どうせこの世は理不尽なんだから。銃を持つものは無差別射撃を計画し、車を持つものはできるだけ人込みの多い交差点へ突っ込み、一縷のやさしさを捨てきれなかったものは出来るだけすぐ見つかるが確実な方法で自死を図る。
かという私も、なんとかしてその日々を乗り越え、スーパーに行っても銀行の残り残高と次の給料日までの日数をかぞえて「一日何円なので、明日はこれ、その次はアレを食べてなんとかもつぞ」っていう計算をしなくてもよくなった。今ではスイーツ売り場にならぶケーキやまんじゅうにうっとりし、半額のシールが貼ってあればお金の心配ではなく摂取カロリーの心配をする日々である。とてつもなく楽である。
ただ生きるのは格段に楽になった。でも幸せかどうかは、もう何を基準にしていいのかわからない。人から幸せかと尋ねられればもちろん幸せだと答える。でも実は幸せかどうかなどという事はどうでもよく、ただ貧乏だった日々に恨めしかったお金持ち(に見える人達)、例えば旅行に行ったり高級なレストランやホテルに行っては写真をSNSにアップロードして「すっごく楽しかったーお得だよーみんなも行ってみて!」とかポストしている奴に、こっそり「いつか死んだら、地獄へ行ってほしいな」と思ったりするぐらいである。自分が幸せになる事よりも、幸せな奴が不幸のズンドコに落ちてほしいという思いを抱えて生きてきた時間が長すぎて、積み重ねた怒りや嫉妬や恨みの残穢が拭えない。そういう事を思ってしまう自分も地獄に落ちるんだろう。でも自分が地獄へ落ちても良いので、今幸せなやつは罰として地獄に落ちるべきだとかいうゆがんだ正義感が止まらない。
自分がもっと幸せになってよいのであると言い聞かせるが、そうすると過度に炭酸ジュースやアルフォートを浴びるように摂取してしまったりしてなんだかバランスがとれない。今SNSで幸せアピールしてる人も、きっと落ち込む日や不安な日があったりするんだろうな。ひとそれぞれ悩みや苦しみはあって、それはもうその人にしかわからない痛みやから自分で出来る事は全然ないけど、それでもみんなが天国に行くにはどうしたらいいのかな、とか一応人には言えるようにはなった。トンネルビジョンから多分抜け出た。空が見えていて、星がきれいな夜もあれば、雨や雪が中々やまないこともある。ただ、目標を立ててそこへノイローゼのように猪突猛進して努力と友情を忘れない人たちが発する明るくまぶしい光に照らされると目が開けていられない。どうしていいのかわからない。そしてトンネルを抜けたら真っ暗になったり周りが全部明るくなって、どの方向に歩けば良いのか全く分からない。トンネルに入っていた総時間と同じぐらいの日々を過ごすと、どこに行こうかとか見えるのだろうか。ゆっくりと頑張るしかなさそうだ。
参考:トンネルビジョン、貧困やコンプレックスがもたらす認知能力の低下についてのポッドキャスト Vedantam, S. (Host). (2018, April 2). Tunnel Vision [audio podcast transcript]. Hidden Brain. NPR. https://www.npr.org/transcripts/598118226
この増田にASDだけが発達障害だと思うなよ的トラバがちょいちょいあるのに具体例が上がってないからでしゃばってADHD(注意欠陥優勢)語りするね。
まず最大の違いとして、ADHDの発達障害当事者は黙示のルールをだいたいは察知できる。ADHDはとにかく情報が大好きで情報でパズルすることがもっと大好きなので、”明示のルールの上では違反だけど、情報を繋ぎ合わせて考えると違反してもしょうがないところがある“黙示ならいくらでも飲む。パチンコがどうして三店方式を採用してるのか分かるし、学校にスマホを持ってきている友達を見ても「お母さんが車で送り迎えしてるから」みたいな事情を把握できれば放っておく。そもそも不良だったとしても怒りを抱けないので放っておく。これはASDとの大きな違い。
ADHDは相手の感情をなんとなく察知したり、頭が良いほうなら定型発達みたいに話すこともできる。そのうえで他人との接触をどうでもいいと思っている関係上ほとんど反発しないので、感情面においては、いわゆる発達障害特有の焦燥は生じにくい。ここでは話が逸れるので扱わないが、基本的にADHDの”つらさ“は身体面に集中している。
ADHDは自分の意志や感情を抱くことがなにより苦手なので、それを逆手にとって穏やかに振る舞うことができる。ADHDは喋るのもとろいのであんまりとげとげしいことは言わない。ADHDはぼんやり生きているので発言はいつも的を外しているし、言いたいことの7割くらいはそれを口に出す前に他のことに興味が移動するから、”“言いにくいことをついスパッと言ってしまって気まずい空気になる”“みたいなイベントはADHDにはめったに起こらない。
とにかくADHDが最も苦手としているのは、周囲に馴染むことではなく、情報に付随する情動やライブ感みたいなものを持続させること。ADHDはマホちゃんのスカートを見て「似合ってない」「ダサい」みたいなことを思えない。ああ、知らない形のスカートだ。初めて見たな。それだけ。
定型発達やほかの発達傾向のみんなが生のまま摂取できる情報を、ADHDはそのまま手に入れることができない。ADHDが知覚したものはすべて脳みそを通って漂白され、俯瞰的な情報としてだけ記憶に残る。なのでADHDは自我が希薄で、強い感情を抱くのがあんまり得意ではなく、いつもヘラヘラして見える。
ゆえに”黙示のルールの察知“こそできるものの、ASD増田と同じように「浮いた見た目の奴は笑いものにして馬鹿にしていい」ルールには従えない。ADHDには人を嘲る方法が分からないし、それを娯楽とできないので従うメリットがない。なのでこの辺は表面上同じ感じになる。
これによって軋轢が生じにくいのは、ADHDがあまりにもぼんやりしているせいで、こういうときに意固地になるような真面目ちゃんではなく、打っても響かないうすのろとして認識されるからである。
大元の増田の一番の違和感はここだった。とげとげして気が使えなくて思ったことをズバズバ言っちゃうのは”発達“の悪癖ではなく、とげとげして気が使えなくて思ったことをズバズバ言っちゃう定型発達の未熟さである。ADHDは他者に干渉しないので、萎びた観葉植物くらいどうでもいい穏やかでのっそり動く謎の生き物でしかない。
まともな人生を送りたい場合は障壁になることもあるが、素の性格に関わらず偏屈者ではなくまぬけとして認識されやすいのはADHDの大きな強みでもあるので、とにかくここが気になった。
ADHDはマホちゃんにあのスカートが似合わないことにも、周りのみんなが「いっしょになって嗤え」と要請していることにも気づかないが、情報の追加には敏感なので他の子がまずしないような服装であることには気づく。
ADHDは頭の中でとりとめもない情報同士を接続させることに人生のほとんどを費やしているので、”誰も履いていないようなフリフリのスカート“はファッションアイテムではなく”はじめて見る物体“であり、他の情報と接続されるのを待っている新しい情報である。すてきな新しい情報。マホちゃんに似合うかどうかは分からないしどうでもいい。そんなことより既知の情報とスカートを繋げるべく「プリキュアがあんなスカートを履いていたな」とか「ああいう鳥がいた気がするな。なんて鳥だったかな?図書室で図鑑が見たいな」みたいなことを考えはじめ、ADHDの知覚範囲からマホちゃんはいなくなる。
なのでマホちゃんに声もかけないし、マホちゃんがお友達にべったりな性質の子でない限り、高校生になる頃にはマホちゃんとは疎遠になる。
ADHDは来るもの拒まず去るもの追わずなので環境によっては知り合いを多く得られるが、人間関係を維持できないので竹馬の友はいない。
ADHDは人の話を最後までうんうんと聞き、口答えせず、ゆっくりと動き、細かいことを気にしないので、中高年や高齢者の相手をするのが得意である。なのでパートのおばさんから無視されることはあんまりない。
ただ、ADHDの動作は何もかもがとろくさく、仕事中にどうでもいい物事に気を取られるので怒られることは多いかもしれない。
ADHDは美術部には入ると思う。ADHDは自分以外の人間たちもみな、たくさんの情報を頭に流し込まれると幸せになると思い込んでいるので、自分の頭の中に入っている情報をいろんな形で出力して見せびらかすのが大好きである。というかそれ以外にまともなコミニュケーションが取れないので、ADHDにとっては、文章をしたためたり絵を描いたりすることは定型発達における世間話や歓談に相当する。
ADHDは先生のことを好きにならない。ADHDにとって全ての人間は情報の塊であり、有用な情報がたくさん詰まっている先生のことは心から慕うだろうが、それは人間への好意ではなく、使いやすい辞書とか見やすいwikiとかに対する信頼と同じ感情である。ADHDは強い感情を安定させることが苦手なので、恋愛感情が発生するまでテンションを上げ続けることができない。
ADHDは具体的でないアポを全て忘れるので、社交辞令で飲み会に誘われたことをそもそも覚えていない。ADHDは人間とのコミュニケーションを情報として知覚できないので、具体的なアポであってもたまに忘れる。
ADHDは交友関係を維持する努力ができないので、大人になったADHDのスマホにマホちゃんの連絡先が入っている可能性は限りなく低い。ADHDにとって他者との繋がりは最も価値の低い情報なので、スマホを新調するさい電話帳の引き継ぎを忘れるかめんどくさくて移さないに決まっている。もし奇跡的に連絡先が入っていても連絡する理由が分からないので、マホちゃんに電話する代わりにTwitterで久しぶりにたずねた地元のラーメン屋にかんするツイートをする。
ADHDに友達はいない。好きな人もいない。ADHDは悲しくない。ADHDの感情はいつでも「眠い」一択である。いろんな情報が絶えず頭に流れ込んでさえいれば幸せなので、ADHDは人間を欲しがらない。
まぁでもADHDはADHDなので職場で気にかけてくれるパートのおばちゃんは存在しているはずである。同世代の知人はいない。
ADHDはADHDの特性それ自体も情報だと思っているので、いろいろ調べたりする。そうしてこういう場をめざとく発見してはADHDの情報を見せびらかす。
たぶん多動が強い人はまたちょっと違うんだろうな。
おわり
最近ずっと騒がれている性加害者や加害者の名前を冠した事務所の件について
答えがわかりきっているのに、気づいていない人。
一部の人が色々騒いで、謎の争いをやりあったり
今回の件について、加害者の名を冠したままの事務所を擁護したりできるのは結局
「他人事」だと思っているからその答えになっているんだろうなと。
(事務所を擁護してない!タレントを応援しているんだ!という方も
タレントさんが、「加害者の名を冠したままの事務所」に所属している時点で
その論は通用しない。ということを冷静に考えてみてください。)
角度を変えて今回の件を見てみましょう。
あるいは
いかがでしょうか?
あなたはこれでも、加害者の名を冠した事務所を応援し続けられますか?
今の状況のように、
・愛着があるから加害者の名を冠した事務所名を変えなくていいじゃないか、と言っている人
これらに対して、うんうん、そうだよね!そのとおり!それでオッケー!
あなたや、あなたの大事な人はは性暴力、性加害を受けた側なのに?
使われている言葉のせいで自分とは関係のない事柄のように見えて
これは私やあなた、あなたの身の回りの親しい人に今日、明日起こるかもしれない
すでに起こってるかもしれない『性暴力』『性加害』についての話です。
とんでもなく身近な話です。
というのは、冷静になって俯瞰的に物事を考えるということです。
自分の好きなもの、守りたいものを大事にしたいのはわかりますが
それによって、冷静な視点を見失い
考えてみるといいかもしれません。
今回は性加害でしたが、この話は加害行為全てに通ずるものです。
性加害にピンと来なかった人は、
自分が抵抗できない弱い立場で、強い立場の人から一方的に殴る、蹴る、暴力的な言葉を吐かれているところを想像してみてください。
もちろんあなたは抵抗することは許されません。反撃もできません。
ふつうに嫌ですよね?
今も周りから肯定され、応援され、存続を願われ続けていたらどうでしょう?
(現状、その事務所に所属しているタレントさんを応援することも
私達は私達を侵害する犯罪行為を行った人物やその行為を一切肯定するべきではありません。
今回の件で、最初から最後までずっと答えは出続けていると思います。
1回目の会見ですべきだったことが
今度ようやく行われるようで、安堵しています。
(社名を変えれば全てが解決するわけではありませんが。)
パウルーッス
本日は日本においてモノレールの日、イタリア料理の日となっております。
この朝礼において一番の叙述トリックといえば、実はこの増田は今は現場で働いていないという点だったりしますが
まぁ単純に供述してくれる人の語る視点とそれを横から見ていた人の語る視点が違うから同じ現場にいたはずなのに表現が食い違っていたりするよくある奴のことです。
人間関係のトラブルなんかもそうですね、当事者同士の話に嘘が混ざり出したりだとか、あえて言ってないことがあったりして、そんなめんどくさいやりとりのど真ん中に置かれるなんてよっぽどミステリーやサスペンスだったりします。
それに振り回されないように、起きた出来事を時系列順に並べたり、箇条書きにしたりして人の思い込みがなるべく入らないようにすることが大事ですね。
そうしてぐちゃぐちゃになったものを解いていくと比較的単純な出来事だったりすることがありますので、それもまたうんざりしますね。
そして、これをまた解決したり、書類に書いたりするのがめんどくさいんですよね。
まぁ、ぼちぼちやっていきましょう、私も書いてて何を書いてるかがわからなくなりました。
いつものことです。
ということで本日は【俯瞰的な視点よいか】でいきたいと思います。
トマーッス
本日は日本においてはタクシーの日、ハコの日、ハードコアテクノの日、ハコボーイ!の日、山ごはんの日、裏ゴーヤの日となっております。
世界ビールの日というのが8月の第1週の金曜日にあるのですが、まぁそれは昨日のことですね。
こういう、ある月のある週のある曜日に記念日が存在していることはよくありますので、注意深く観察しておきましょう。
何かしらのキッカケになるかとかは知りませんが、その日の記念日を知ってるのか知ってないのかで多少はちょーっとは会話のボキャブラリーみたいなのが増えるのか増えないのかはわかんないですけれども、多少の豊かさに繋がればいいかなぁと思っております。
昨日が世界ビールの日なら今日は世界迎え酒の日だ等とほざいても許されるかもしれません。何にもないけど酒が飲めるぞ。
ということで本日は【俯瞰的な視点よいか】でいきたいと思います。
なんか似たような話は死ぬほどあると思うし、てかここで死ぬほど見たし、たかだか人生21年でなにがわかるのかという話である。私が一番そう思っている。
この日記は私の思考を整理したいのと、それに対しての反応が見たくて書いている。ぶっちゃけ初めて書くのでなんか変だったらごめんね。
先に言いますが弱者男性とか弱者女性とかそっち系では全然ないです。そういうの期待してたらごめん。
ここからしばらく自分の人生語りになるので嫌な人は結論まで飛ばしてください。長いし。
私は現在21の大学四年生である。タイトルにもある通り処女である。スペック的には152センチ45キロFカップ。顔は極めて普通であると思う。ナンパとかそこそこされる程度の顔である。地元ではそこそこ名前は知れてるけど全国だと聞かないよね、みたいなレベルの大学に行っている。IT企業の内定は出た。
小中はそこそこ男子とも話したが高校から女子校に行った。女子校とはいえ彼氏のいる子はいたし、女子校だから彼氏ができなかったというわけではないと思う。ただ私は積極的に学校外のコミュニティを広げる気は無かった(そこまで余裕がなかった)。学校での友達はできた。
大学に入学したのは2020年で、コロナウイルスが猛威を奮っていた年である。当然ながらリモート授業がメインとなり、出会いなんて夢のまた夢であった。あとソシャゲにハマった。私のバイトは諸事情ありより稼げることを優先したため、病院の清掃を選んだ。若い男性なんかいなくて、基本主婦の人が多かった。辞める人もめちゃくちゃ多かったがメンタルが強いのが売りだったので結構続いた。主婦の人が可愛がってくれるのも嬉しかった。
大学3年ごろからいい加減自分で動かなければ出会いはないのだなと思った。とはいえ大学ではサークルに入りそびれそのあたりの出会いは期待できず、ゼミではなんかみんな個人での活動が多く話す機会がない。
正直すぐに飽きた。まあおとなしめの清楚系に見られる顔ではあるため結構なレベルのいいねが来た。やってたのはタップルである。一日ほっておけば99+件のいいねが来る。ここでの選別(言い方が悪くて申し訳ない)だけでだいぶ疲れる。マチアプは写真というのは真理である、こんなんいちいち文章まで読んでいる暇はない。顔写真を出していて、一定以上太っていなくて肌が綺麗、年齢は27あたりまでの人を条件に選んでいた。余談だが見てる限りでは30後半や40あたりの人、果ては60あたりの人からもいいねが来ていた。彼らは何を求めて私にいいねをしているのだろうか。間違えたかパパ活かなと思ってスルーした。
さて、ようやくここから会う段階に入り、8人ほどと会った。デート内容は割愛するが自分の費用は自分で払った。大半の人は、二、三回目あたりで付き合いたいと言ってくれた。ヤリモクもいたけれど。
ヤリモクでなさそうなひとから2人ほどと、期間がめちゃくちゃ短かったが(一ヶ月と三ヶ月)付き合ってみた。いれる寸前まではした。が、私サイドがめちゃくちゃ何も感じなくて続行できなかった。触られようが何されようがビタイチ気持ちよくならない。触られることやハアハアいってる人間への不快感こそあれ、これで何が楽しいのかさっぱりである。男性が多いジャンルのオタクであるためエロ同人とかも読んでるんだがあんなふうに全然なれない。濡れるわけもなく、シンプルに続行不可能となり、気まずくなり別れた。面倒になりタップルはやめ、就活頑張った。
私と付きあった2人が特別下手だったとは思わない。私サイドに圧倒的な問題があったんだなと思う。女性はテクニックどうこうではなく好きな人だとか雰囲気だとかの感情で感じるとかいうのをどこかでみた記憶があるが、私にはそれがなかったんだなと。好きになってもいない人とどうこうなっても、面倒臭さの方が優ってしまうし、そんな相手に触られても、本当に申し訳ないが感じ方としては痴漢と遜色ない。
じゃあ好きな人を見つけよう、となったって、現実にいたるまでまともに人を好きになったことがない。なんかいいな、と思う人がいても、自分を俯瞰的にみている自分が白い目で見てしまう。俯瞰的な自分が、こんな自分が誰かを好きになってるのを気持ち悪いなと思っていてどうにもできない。実際付き合っていた時もどうにも嫌で嫌で仕方ないときがあったし、相手から事に及ぼうとするときになんとなくなにかに失望していたし、そういうことをしようとする自分が気持ち悪かった。ベタベタ触られるのが嫌だった。
改善策もよくわからないし、なんなら改善したいかと聞かれたら現状面倒くささが勝る、という感じではある。ただ自分が人間としてなんとなく不出来だなと思って、誰かを真っ当に好きになりたい、もしくは原因を知りたいとは思っている。心が二つある〜
あとなんかまともに付き合った経験がないと社会から異常者に見られるのはよろしくないなという気持ち。まともな人間に見られたい。
精神病とかそういうのではないと思う。元気。
当たり前だがそこそこ荒れててこれがインターネット…となっている。Twitterもろくに呟かない人間なのでめちゃめちゃ新鮮!
女風は2回ほど試したけど会ってすぐの人間に心開けるわけもなく苦痛なだけで終わりました。本番なし。対して彼氏と変わらなかった。お金が無駄だった。
二次元なら、というのはよくわからない。夢女子とか腐女子ではなく、誰かのことを好きなキャラが好きだからか自分のことを、とかは一切思わない。女子校出身だからか周りには多かったけど。恋には落ちたい。
アセクとかはそうなのかな?わからない。勉強不足なのもあるけど、恋愛したい、とは思ってるのでなんとも…理想としては性的なこと一切なしでお付き合いできれば、なんだけど難しいよね。
マチアプのいいねに関してはほんと男女で違うと思う。大量に来るいいねを捌くだけで大変で、女性側からいいねを送る機会は減るんじゃないかなとは思った。知らんけど。
女友達にこれ相談するの恥ずかしくね?周りは基本恋愛してるのでなんとなく相談しにくい。
三大都市圏内ではあるのでギリ田舎ではないと思ってるんだけど東京じゃないから田舎かもな。その辺りの感覚人によるからわかんないけど…
オナニーだがしない。これもしてる自分が気持ち悪くて気分が乗らない。数少ない付き合った彼氏におもちゃを使われたりもしたんだけど特に何も。有名な吸うやつとやらは痛くてキレた。
マチアプ向いてないは仰る通り。なのでやめた。結婚相談所とかでスピード婚!みたいなマンガ見るたびにどんな手を使っているのか聞きたくなる。
強制的な結婚、漫画の恋と嘘みたいな感じかな。その場合めちゃめちゃ相手に申し訳ないな、我ながらハズレくじ寄りだと思うので。
コメント総括すると恋しろっていうのが多いね。そのためにマチアプやってみたり書かなかったけど男子多めなバイトしてみたりしたんだが難しかった。根本的に私の気持ちを変えないとどうにもならないんだと思う。社会人になったら出会いが少なくなると聞いてるんだけどどうなんだろう。恋愛したい理由として、恋愛したことがある経験が欲しいっていうのがある。よく聞く40代で発狂とか、何かしらのロマンス詐欺とかも怖いけど。友達にいわゆる恋愛脳の子が多いのでしなきゃいけないんじゃないか、って気持ちにもなってるのかも。
元増田はそこで育った人の実感なんだろうからへーって思ったし、これからまた違う多摩の経験して考え変わっていったりもするかもねって受け止めたけどブコメの
“「家ばっかでつまんねー町並み」のことを建築家の内藤廣は「意気地なしの風景」と言ってた。戦後の資本主義と個人主義の帰結。それはゾンビ的な風景で、本当は廃墟なのにそう見えない「見えない廃墟」なのだと。”
“単純にマイホームは覗けず、一方、外観に「ドラマ」の痕跡は全然ない。だから町並みがつまらない。各家庭のプライベートに侵入しないと無理。他人の人生に「ドラマ」を見る人、リアリティショーの消費者と同じと思う”
さらに他へのブコメで色々書いてるけどドラマがどうとか以前にブコメと同じことそのつまんない外観の町並みの中でお金出して家買って実際暮らしてる生身のその人の目の前で言えるのかどうかで考えたらいいんじゃない?
ドラマはそりゃ知らんけどその人間は確実にしかもたくさんいることくらい想像つくでしょ
町並みを構成してる家々の外観もその生身の他人の財産や所有物なわけだけど、商業作品として世に問われたわけでもない他人の財産につまんないとか廃墟とか評するの単純にだいぶヤバじゃん?
ベッドタウンに越した同僚の新居に招かれたその場ででもここ本当につまらない町並みですね、他意はないです!とは言わないじゃん?(もちろん言わないことはわかってるよそもそも良識やTPOという点で)
なんかいやそれを言うあなたは誰?どこから評してんの?ってなもんじゃん住人とか似たような景色の中に住んでる人間からしたらさ
漠然と「田舎」とか「郊外」でなくだいぶ特定地域だしね元増田の場合
もちろんブコメでなに書くかなんて自由だし思うのも自由だしブコメも増田もおよばれした先のベッドタウンの新居じゃまったくないんでやめろなんて言う理由もないから言わないけど、
少なくとも俯瞰的というよりは「外観」に限定したとしてもちょっと傲慢な考え方に見えちゃうし、やだなーと感じた人から反論くらいはまあくる書き方ではあるかなーと思ったな、