はてなキーワード: 価値判断とは
なんて偉そうなことを言う奴が多いくせに
じゃぁ自己投資をどうやってすればいいのかを誰も教えていないから
拡張自我とは、要するに自分の身の回りにあるモノを自分の一部だと認識する心理学のこと
それは自分自身を褒められたり傷つけられたりしているのと同じだから、という感覚だ
本当に自分自身に対して投資をすると基本的に不可逆なので取り返しがつかない
と思われるかも知れないが、Apple Watchで良い
ただし、一番高いApple Watch Ultraを付ける
Ultraはデカくて物理的にどうしても無理ならノーマルで良いがバンドはHERMESにする
などと考える必要はない
ただただその価格が付けられている(そして値下がりしない)のであれば、投資額として相応であるからだ
株式投資をする際も、投資先の企業に対する価値を自分基準で計ったりはしないように
ちなみにAppleユーザーでないならGarminでもなんでも構わないがとにかく考え得る一番高いものを身につけよう
「オーダーのスーツとか?着る場面がないけど」
という意見も良く聞くが、たまにしか着ない衣服の値段を高くしても自己投資にならない
デカデカとブランドロゴが入っているようなモノは高くても「下品」と思われるリスクをはらんでいるため
茶碗、皿、カップ、箸、スプーン、フォークなどの食器もできる限り高級な食器を使う
これも食器棚に眠らせて
というようなことはしない
ちなみに食べるモノはなんでも良い
ただし食器は必ず高級なモノを使う
例えばグラスのボールにカット野菜と安物ベーコンを放り込んでドレッシングで混ぜるだけでかなり高級サラダになる
住居はできる限り高額なところに住む
ただし自己投資としては最大額を突っ込むレベルで高額なところに住む
例えば風呂は良ければ良いに決まっているが、拡張自我としてどうか、というのを自問自答する
人によっては風呂が好きな人がいるのでそこに投資するのは間違いではない
他にもキッチンやリビングが拡張自我としてどうか、をよく考える
簡単な判別方法は、上司に叱られたときに「でも俺の家は檜風呂だしな」と思ってストレスがなくなるなら拡張自我である
などという触れ込みが多いが、大半は意識が無い状態なので拡張自我としては希薄である
例えば英語を学習することで昇給や昇進、転職が約束されているような状況であっても
これは
という動機があるのにも関わらず
という行動に移せない状態になっているためで
内的動機付けは自発的に内面から出てくる動機付けのことで、よく「やる気」「モチベーション」などと言われる
一方で外的動機付けは他人から怒られたり、英会話教室の案内が届いたりするようなことが当てはまる
これらの動機付けに関するものに積極的に投資することで、高いリターンを期待できる
上の節で説明した拡張自我に基づいた自信への投資は自己の価値向上に繋がっている
ただし、自分が自分に感じている価値とApple Watchの価格が見合っていないと感じると、そこがギャップになる
そして人はそのギャップを埋めようとして自己の価値を高めようという「内的動機付け」が完成する
新入社員に「高いペンを買え」などという指導が昔は良くあったが
基本的に成長や成功のチャンスは何度でもあるのだが、内的動機付けができていないとそのチャンスを逃す
自己投資によるリターンを得るためには内的動機付けをしておくことは必須である
自己研鑽としてこの手のものが多いが注意したいのは外的動機付けに繋がるかどうか、である
例えばジムに通うときに高い年会費を払うと、それがそのまま外的動機付けになる
他にも週に一回のヨガを予約すると、行かざるを得なくなる
これが「安い」「いつでも気軽に」となると外的動機付けにならない
安物買いの銭失いと同じである
そもそも得られるリターンが投資額に見合ったものであるのかはよく考えた方が良い
チャンスはいくらでもあるとは言ったが、増やせるなら増やした方が良い
例えば古い友人関係、大学関係の付き合い、旧職場の付き合いなどには積極的に投資する
これは何も金銭に関するものではなく、時間を消費するという投資も含まれる
こういうときに
「あいつは目ざとい」「付き合いが悪い」
などという話に付き合う必要はない
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
いや、お前にはどうやら話がうまく伝わってないみたいだな。
絶対に100勝てる! と、戦争で攻める側と守る側の両方がなったら、戦闘行為の必要はないのよ。
外交段階で「これから戦争したら私が100勝つわけですが、市民が死ぬ前に全面降伏せんか?」これで済む。
戦闘したらそのコスト分、負けが120とか200になるんだから。合理的に判断するならそうなる。
別に同盟しても同じ。どっちがどのくらいの量、勝つか負けるかが、合理的に判断できてさえいればそうできる。
でも守る側が「あいつは100勝てるって言ってるけど、実際には抵抗すれば20ぐらいは残るだろ! 降伏して100払うよりも、戦闘して負けて20残したほうがマシ!」と思ったら、そこで降伏は起こらない
で、完璧に信頼できる軍事力ランキングがあったら、まあそういう価値判断の齟齬は起こらないんじゃないか?
人間社会で活動していると『人として成長』という言葉をよく耳にする。
生物なら生まれてしまえば勝手に成長し、気づいた頃には老いていくが、そういうことではないということではないようだ。
この言葉を使う人にとって理想の人間像というものがあり、その理想に近づくことを意味することなのだろう。
とても自制的で人間らしい概念だと思うが、面白いのが『人として成長』することが『幸せになる』や『人間社会でいいポジションがとれる』と等しいことではないことだ。
『人として成長する』ことに意識が強い価値判断を持った友人がいるが、何十年と同じ様な愚痴を繰り返している。
本人は『人として成長』している実感はあるのだろうか?
ワイズ先生(@YS_GPCR)が、性交同意年齢の16歳以上引き上げについて合理的な根拠がないと主張されている。
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1770800526998819269
こういうふうに、説明つかないでしょ?
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771143471996551171
??
「14歳は性教育が足りないため、成人は14歳と性交すべきではない、という理屈は、年齢差5歳以下なら犯罪とならないことと辻褄が合わない」
に対して
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771402538862150118
「権力勾配」って、学校の先生と生徒とか上司とかの関係を言っていると思うんですけど、権力を利用して手籠めにしたのか、同意のある関係なのかは、個別に判断すればいいわけで、一律で禁止する合理性がない
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771404710995779643
これは「砂山の詭弁」の変形ですね。今回の性交同意年齢の議論は、グラデーションがありボーダーラインを便宜的に決めるしか無いものの一種です。だから、14歳を主張する人に「13や15はいけないのか?」と詰問することはできる。
個人的には性交同意年齢引き上げには合理性があると思うが、改めてその理由を問われると即答できない。そこで、政府答弁による公式の制度趣旨を調べたので、メモとして共有しておこう。
強制わいせつ罪、強制性交等罪は、性的自由、性的自己決定権を保護法益としております。性的行為に関する自由な意思決定の前提となる能力がそもそもない場合には、暴行等の意思決定に影響を及ぼすような状況がなかったとしても保護法益が侵害されると考えられるところ、その能力がないと言える年齢として、現在は十三歳未満、すなわちおおむね小学生の年齢層の者は行為の性的意味を認識する能力が一律に欠けるということから、現行法では十三歳未満がいわゆる性交同意年齢とされていると考えられます。
もっとも、性的行為に関して有効に自由な意思決定をするための能力の中身といたしましては、行為の性的意味を認識する能力だけではなく、行為の相手方との関係において、行為が自分に及ぼす影響について自律的に考えて理解したり、その結果に基づいて相手方に対処する能力が必要であると考えられます。
そして、十三歳以上十六歳未満の者はおおむね中学生の年齢層でありまして、性的な意味を理解する能力が一律に欠けているというわけではないことから、一律に相手方や状況を問わず性的行為に関する自由な意思決定の前提となる能力に欠けるとまでは言えない一方で、先ほど申し上げた後者の能力は十分に備わっておらず、対等な関係の下でなければ性的行為について有効に自由な意思決定をする前提となる能力に欠けると考えられるところでございます。
そして、相手方が年長である場合には、一般に、その年齢差が大きくなるほど、両者の間の社会経験や知識の差異などによりまして、その年齢差自体から対等な関係にあるとは言えなくなると考えられるところ、この性交同意年齢の問題は、性的行為をしたこと自体で直ちに性犯罪が成立するとするものとする規定でありますことから、刑罰の謙抑性の観点から、双方の年齢が要件を満たすだけで例外なくおよそ対等な関係はあり得ず、有効に自由な意思決定をする前提となる能力に欠けると言えるものであるものとすることが必要であると考えられます。
本法律案におきましては、そのような観点から、心理学的、精神医学的見地も踏まえまして、いわゆる性交同意年齢を十六歳未満とした上で、十三歳以上十六歳未満の者に対する性的行為について処罰対象となる得る者を、その者が生まれた日より五年以上前の日に生まれた者としているところでございます。
アウトラインで要約すると、以下となる(なお、「意味認識能力」などは便宜的な表現で専門用語ではないことに留意。3/25一部修正)。
以上のように考えるとワイズ先生の議論に対する違和感は、被影響認識能力と関係対処能力が当事者の年齢差に大きく左右されることを無視している点に根差すことに気付く。直観的に考えても、14歳と15歳のカップルと、14歳と25歳のカップルの違いは何かといえば、年長者と年少者間の年齢による社会経験の差と、その差が年少者側に与える影響の度合いである。
もっとも、改正後刑法の年齢区分が関係対処能力などの獲得と本当に対応していると証明できるかと問われれば、なお議論の余地はある。しかし、その点は単なる科学的な問題にととまらず価値判断の問題でもあり、国会で多数決で決めるという民主主義によって決する他あるまい。
結論を書き忘れていた。
以上より、性交同意年齢を引き上げて性交を一律で禁止することに、少なくとも法が備えるべき合理性はあると自分は考える。もちろん、年齢区分の妥当性について、生物学のように厳密に実証することはできず、この点につき異論はありうるだろう。しかし、理論的、経験的根拠を有する制度趣旨が政府から提示され、国会で一定の議論が交わされた上で多数決で刑法改正をした以上、性交同意年齢引き上げは法としては十分な合理性を持つ。
ワイズ先生は年齢区分の客観的な妥当性について議論を続けそうな雰囲気だが、もともと法律というのは完全に客観的というわけではい。法は価値判断を包含するものであり、最終的には選挙で選ばれた国会議員が多数決するという民主主義によって制定する他ない。逆に、価値判断をほとんど含まない問題については民主主義は不要である。例えば、ある物理現象のメカニズムは何かは、選挙で選ばれたわけでもない物理学者達が数理モデル化と実験を行い、その論文化と討議を通じて合意を形成して決まる。ここには価値判断の対立がなく、ほぼ客観的に議論が決する。法律はそうではないので、多少の客観性の欠如は国会議員の多数決で補う他ない。
少なくとも、以下の「年長女性の嫉妬」という下世話な動機で法改正されたわけではないのは確かだ。
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771403509134758353
これはもともとの論点の「性交同意年齢を引き上げようとするのは結局年長女性の嫉妬」という根拠の一つだけど、権力勾配のある性的関係を一律で禁止しようとするのは、望んで高権力の相手を好きになる人の自由を踏みにじってるわけです。それを「グルーミングされただけ」などで押し切る強引さがおかしい
ttps://marshmallow-qa.com/messages/0ba4dc8f-aeef-493f-b199-88ebcde853fd?utm_medium=twitter&utm_source=answer
「不同意的、強制的な関係を防ぐために、成人と未成年で"真実の愛"が成立する例が一部あったとしても潰す」とほぼ同旨の政府側答弁が、既になされている。
(中略)
例えばなんですけれども、十五歳で高校に入学しました、それで、シングルの成人の教員と相思相愛、愛し合うんですね、気持ちで愛し合いました、そして、結果、性行為を交わしたとします。それで、高校卒業と同時に婚姻関係となるケースも考えられます。私が高校時代なんかは、同級生が高校卒業したら結婚しちゃったというのは割とあったんですね。
このケースなんですけれども、円満に、穏やかに結婚生活、夫婦生活を行っていたとしても、今現在行っている、営んでいるそういう御家庭があったとしても、当時、お連れ合いのどちらかが、男女限りません、どちらかが十五歳当時でした、そのとき性行為を交わしていましたということが判明すると、その片方のパートナーは、六月以上十年以下の、有罪、拘禁刑の罰則対象となりますね。
(中略)
十五歳の高校生と二十三歳以上の大卒の先生という前提で申しますと、その年齢差は五年以上年長という要件に該当いたしますので、結婚したとしても、それからその結婚生活が円満だったとしても、その行った当時の年齢差ということで判断すべきことでございますので、改正後の刑法第百七十六条第三項又は百七十七条第三項の罪が成立し得るということになります。
例えば無許可の拳銃所持の内、美術的な鑑賞目的の事例が極少数存在するが、その他のほとんどの事例はそうではなく何らかの犯罪行為の準備が疑われるので一律に所持そのものを処罰する、というロジックは十分に合理的である。同様に、成人と未成年で"真実の愛"が成立する例は極少数存在するが、他のほとんどの例はそうではないので一律に処罰する、というロジックは理に適っているように見える。
なぜワイズ先生批判派は上記のロジックを援用しないのだろうか。また、ワイズ先生はこのロジックならば異論はないのか。何が論争の争点だったのか、よく分からなくなってしまった。
新しいものを作るなら「人間によって描かれた絵をインプット」ではなく「現実世界を五感でインプット」する必要があるかな。AIが。まあこれは時間の問題。
あと、絵を評価するのは依然として人だから、人が好む文脈やバックボーンは必要。
「そんなものはくだらない。絵が良ければ評価されるはずだ」と(ピュアな増田は)言うかもしれないが、錯覚資産によるナラティブが人間の価値判断なのよ。
「AIが描いた」という物語性が活きる場と「人間が描いた」という物語性が活きる場は分かれるかと。
人間が描いたと思っていた作品が実はAIが描いていた、という状況で「いい絵だから感動は変わらない」と思う観客はどれだけいるかな?
Youtubeで外国人が「日本で財布を落としたらどうなるか」を検証していた。
想像通り、検証対象となった市民50人全員が落とし主の外国人に財布を返したのである。
これを見て「日本人は素晴らしいなぁ」と思ったわけだが、少し気になることがあった。
例えば「単に賃上げするだけでは名目値しか上がらず、実質賃金はむしろ低下するかもしれない」といった問題に対し「物価に追いつく賃上げを」などと無意味なことをやっているのは、「労働者に高い賃金を払うのが善だ」という単純な発想に基づいているからでは?
あるいはウクライナロシア問題で、「ウクライナに武器を供与して反転攻勢を!」などと言うのは、ロシアが悪でウクライナが善だから、善に勝って欲しいという単純な発想に基づいているからでは?
経済や政治、法律の問題は、残念ながら「共感」に基づくほど間違った判断を下しやすいと言われることがある。
誰かが殺人犯と言われた時、論理的に証拠を提出するべき時に「私は家族が殺されたのが憎い!だから被疑者は死ぬべきだ!」と言って、被疑者の冤罪の可能性を考慮に入れずに報道され、その結果、報道への共感によって取り返しのつかない冤罪に容易に繋がったとしたら?袴田事件だってそうだろう。
経済はもっと複雑だ。経済には事実判断と価値判断の区別が必要だが、ミクロ経済学が取り扱っているのは概ね事実判断と言われる。無差別曲線やゲーム理論は事実判断である。
それに対し価値判断とは「なにをすべきであるか」という問題のことだ。日本が国として何をすべきか、という話をしているときに、特定の集団だけを贔屓にするわけにはいかない。
例えばパレート最適性について考慮し、誰かが損をする場合は補償を与える方法を考えなければならない。
それを「私たちの税金を一体何に使っているんだ!」という感情論で補償原理を無に帰することは、典型的日本人がまさに陥りがちなことだろう。
補償は税金の正しい使い方であるから、自分の利益にならないという理由だけでは正しいことは言えない。
ひろゆき氏が「政治家にはサイコパスが必要なんですよ」と言っていたが、それは「共感能力ではなく、論理によって判断することのできる人間が必要である」という意味だと私は思う。
まあ、こいつもこいつで、補償のことを話さずに「ハンコ業界を滅ぼして効率化を!」などと言いそうな雰囲気だから感情論であることに違いはないが、論理には前提知識がある程度必要であるということでもある。
基礎知識のある人であれば、貨幣供給量が増えれば貨幣価値が低下すると考えるだろう。しかし知識のない感情派は、「お金が多いほどいい」「通貨発行権を駆使すればいい」と言い始め、貨幣価値が低下しないという前提のもとで国家経済を悪化させようとする。
経済の名目値ではなく、実質値を向上させるにはどうするか。その議論のためには確かな情報や知識が必要であるはずだが、短絡的な善悪を持ち出すことによって「物価高に追いつく賃上げを」などと、スタグフレーションがなんであるかも知らずに言い始めるわけである。
確かに、小学生でもわかるような善悪の問題において正しい行動をするのは日本人の良い点だと言える。外国では「見られていなければ悪事を行ってもいい」と言わんばかりの連中が巣食っているからだ。
しかし経済、政治、法律。そういった「高度な知識を伴わなければ善悪の判断を間違えるだろう」というシナリオで、日本人は落第点を取る可能性が高い。
経済であればミクロ経済学やマクロ経済学の教科書知識ぐらいは必要であるが、日本人は哲学にも疎く、相対主義が蔓延るので、「経済論はたくさんあるし、どれもが正しいことを言っているに違いない」と言う相対主義的な認識を持っている可能性が高い。
結局、短絡的な善悪観でミツバチの巣をつついたような行動しかしないのが、他の国の人にもバレているだろう。
たしかにそれはそれで社会秩序の維持にはなっているから、良いことかもしれない。
しかし経済や政治などにおいては別だ。正しい知識に基づいた善というのは、正しい内容を選んで勉強をする努力が必要なのである。どの論も平等だと相対主義的に考えている連中が、パヨク理論に陶酔し、発狂しているのを見たか。
なんでも、過去の名作ラノベを復刊させたり、ラノベ図書館?を作ったりする計画が進んでいるらしい。
まず第一弾として予定されてる作品は、蓬莱学園シリーズ。それから、ザンヤルマ、カイルロッドあたりも視野に入っているようだ。
いずれも現在は絶版で電書化もされておらず、読み直そうと思ってもそこそこ高い中古品を漁るしかないシリーズだ。そういう作品が容易に手に取れるようになり、かつ作者に利益が還元されるようになるのであれば、それは素直に喜ばしい。
特に、未完のシリーズである蓬莱学園は単なる復刊だけではなく、1巻が出たきりで中断されている「革命」の続きも上手くいけば出せるかもしれないそうなので、是非とも成功させてほしい。
ただ、この事業の立ち上げ人?だという人物の発言を見ていて、少し違和感を覚えるところがあった。
twitter.com/nakatsu_s/status/1759434045719560485
ライトノベルが「独自の文学ジャンル」として認められるか否か、みたいなのが関わってくるんでしょうね。売れ数とは違う価値判断基準がないと、文芸は単なる「商品」に堕してしまうので。ライトノベルにも「芸術品としての価値」を認められていく必要があります。
twitter.com/nakatsu_s/status/1759434645471690948
世界のあらゆるコンテンツには、「商品」の側面と「芸術作品」の側面があって、これがバランスが取れていると、大衆文化の寿命である半世紀を超え、文化として生き残っていく。ライトノベルは、やや商品(売れ部数、覇権とかのモノ言い)側面が強すぎるので、芸術的な評価を高めないと残っていかない。
辞書的な意味では当然ラノベも芸術であり文学だけど、ここで言われてるのはもっと日常的な用法としての、いわゆる「芸術」、いわゆる「文学」だと思われる。
うーん……
なんだろう。文化として残るためには芸術・文学でなくてはいけないと言われると、それは本末転倒ではないかと思ってしまう。小説は「文学」ではなくてはいけないという思い込みから自由だったからこそ、ラノベは読者に支持されたのではないか。
こういう姿勢で、たとえば(「芸術」「文学」に位置付けるのは極めて難しそうな)あかほりさとる作品なんかを残すべき文化に含めることができるのだろうか?
(検索してみたところ、あのあかほり作品も現在はセイバーマリオネット以外電書化されてないっぽい。ショッギョムッジョ…)
NPOとして国会議員すら巻き込んで(本人のツイートにそう書いてた)活動していくためには必要な方便なのかもしれない。それでも、本当に主張すべきなのは、(いわゆる)芸術・文学ではなくても文化であるし残す価値がある、ということの方だと思う。
繰り返すが、復刊・図書館計画自体はたいへん意義のあることであり、応援していきたい。それだけに、できれば価値観的にはもう少しだけニュートラル寄りに修正してほしいな、と思う。
(追記)
https://b.hatena.ne.jp/entry/4749545057711008128/comment/otokinoki
「文化として残していく価値はあるの?」というのは、後代にならないとわからないので、まだ50年という若いジャンルでは全部残していくしか無いのよ。
うーん…
誰にとっても、現在の評価を問わず一律に「全部残していく」ことができるならもちろん理想的だが、そちらの発言(「ライトノベルにも「芸術品としての価値」を認められていく必要があります」とか「芸術的な評価を高めないと」とか)を見ていると、むしろその逆の思想のように見えて不安である、という話なんだが……
なんか余計に心配になってきた。
じゃあ婚活の極意教えてやるかな
釣り増田が自慢げに「実質言ってることは同じなのに言い方の違いで騙されるんだろ?アホはてな民乙」みたいな論建てをしていて
レスバ大好きはてな民が「同じだってわかってたしー」と混ぜ返してるが
この二つは違う、全然違う
何が違うのか?
まず自分で考えてみてください
分かりましたか?
そうですね、言い方が違いますね
言い方が違うことの重要性を理解できないのは大げさに言っていしまえば「異常」です
婚活というのは何か?
普通以下に落ちぶれ、敗者復活戦を自力で勝ち抜けない「異常」な人々を相談所が頑張って「正常」の枠に嵌めて出荷すること
それ以上でも以下でもありません
その意味では増田が最初言っていた「結婚できない男は平均よりカネ稼いで相手を養うことでディスアドを補うべし」という戦略自体は正しいです
頑張って正常になりましょうね
しかしそれ以上に「言い方が違うのは全然違うこと」を心から理解するのはもっと重要です
「論理的に同じことを言ってるのに、大げさ・露悪的に言うか、それっぽく粉飾して言うかで価値判断のネガポジが反転するのは非論理的」なんていう
感情欠落病患者の一部はてな民にしか通用しない「異常」な考えを捨てるべきなのは当然でしょう
考えてみてください
一般人は同じ契約書でも言い方の違い一つでサインするかしないかを容易に変えます
危険な金融商品でもオブラートに包めば購入してくれる可能性は上がります
安全なものでも「有害性」のデータをうまく張り付ければ忌避させられます
だからクソ商品を合法的に売り抜ける営業職やらがなくならないわけですが
ともかく普通の人は長文を見たときまず丹念に論理展開なんて追いません
快不快や敵味方の判定が最初で、そこから大体の結論を出し、あとから論拠を足りない頭で頑張って構成するのが「正常」です
「この二つは全然違うでしょ!とにかく増田はアホ!」という結論から始まり意味不明なアホ理屈を書いていたアホのはてな民のほうが「正常」なのです
価値判断はほとんど最初に決まります、だから最初に目に入る見た目で人的評価のほとんどは終わります
あとから覆すのはとっても大変です
もちろん学歴や年収なども最初に目に入るのでまあまあ効果的ではあります
しかしそもそも婚活している段階でもはやスペックを上げるというのはちょっと現実的ではありませんね
例えば婚活開始している時点で、見た目をよくしよう!年収を上げよう!とか言う発想
泥棒を見つけてから縄を綯うよりは少しマシですが、方向性は同じですね
遅い遅すぎる
転職とか整形とかそれなりに高リスクですしどうせやるならもっと若いうちにやるべきですね
もうすでにあるブツをすでにある環境で売り抜けるしかないのです
「言い方」が最大の問題になるのは当たり前ですね
しかし私が言いたいのは「言い方に気をつけろ」というだけの話ではありません
同じ商品を「言い方の違い」で売り抜ける
そのためには単に「このクソ商品を口八丁で売り抜けてやるぜ」という発想ではダメです
ではどうするか
そのためには「理由」を業務時間以外もすべて四六時中三百六十五日常に唱和しましょう
例えば
「平均以下の男と違い女性を全く見下しておらず対等に付き合いたいので常に主体性をもって女性をリードします」
「自分はほかの男とは違う真の男女平等主義者だから女性のキャリアは邪魔しません。しかしもし専業主婦を希望するなら喜んで養いたいです」
という内容を本気で行うには
「これは結局相手を見下して行っている慈悲的差別だけど結婚生活の維持のためにはやるしかないんだよな」などというクソの役にも立たないメタ認知は完全に邪魔です
反革命思想の本を読んで「これは二重思考なんだよなー」なんて思いながらも党に忠誠を持つ演技を続ける頭脳派キャラは、絶対最後は捕まるのと同じです
そんなことを思いながら演技できるほどあなたが器用なマインドセットを持っているなら間違いなく婚活に苦しむ羽目にはなりません
ギリギリ婚活だけを切り抜けることはできるかもしれませんがそのスタンスで結婚したなら離婚されないためには一生やる必要がありますよ?
メタ認知が強いほど、二重思考のストレスが高まり、目をそらすため増田でレスバなどをして発散する羽目になるでしょう
それよりも
「女性を見下しておらず対等に付き合いたいので常に主体性をもって女性をリードします」
「自分は真の男女平等主義者だから女性のキャリアは邪魔しません。しかしもし専業主婦を希望するなら喜んで養いたいです」
という内容をひたすら信じ、妻に向かって常に言い、はてなやツイッターに書き散らすほうがずっと簡単です
「一般受けのため、スポットライトが当たった時だけ言い訳のようにきれいごとを言う」というのはまず破滅します
しかし「一般受けのため、常にパターン化したきれいごとを言えるようにしておく、そのためにキャッチフレーズを常に唱和する」これは実は非常に簡単で再現性が高いのです
そのためには「実質的に同じことを言っている露悪的な文章」を見たら即座に「悪」として叩くことも非常に重要です
そしてその訓練に最適なサービスとは?
久しぶりにコロナワクチンがホッテントリになってると思ったら、対立煽りっぽい話でゲンナリですわ
しかも、主著者のこれまでの活動履歴を見ると、真の目的はワクチンを論じたいのではなくて、リベラル叩きしたいだけなんじゃないかという疑念すらもあったりするのである
Xなどにいる反ワクチンの荒唐無稽な話を見てると、どこからそんな話がでてきたものかとゲンナリするが、
はてブの反・反ワクチン(敢えてワクチン賛成派という言葉は使わない)を見てるとこれはこれでゲンナリするんだよな
彼らは反対派がエコチェンに陥っているなどというが、あなたたちもはてブでエコチェンなってるよって言いたい
反ワクチンを叩ければ、あるいはワクチンを肯定できれば、「科学的に正しくない」コメントに飛びついていたりするのだから…
例えば、この研究では、「ワクチン賛成派」の定義に問題をはらんでおり、例のプレスリリースは予断を与えるような誘導的な記載が含まれている。
そしてブコメを見てみれば、これを指摘するブコメがあるものの、それよりも、「反対派でない」は「賛成派」に決まっとろうが、という謎のサイレントマジョリティ理論コメントの方がスターがついているのである。
ちなみにこの辺りの話は、元論文も含めて、先人が完璧な記事を書いているので参考されたい(私はこの記事の著者とは別人です、念のため)
https://anond.hatelabo.jp/20240206193933
(なお、「賛成派」の定義が疑わしいことは、プレスリリースの文面から直接読み取ることはできない。ただ、文章の流れや書き方から、「ここは誤魔化してるんじゃないか」と、特に読み慣れた人ならピンとくるポイントではある。)
自分たちはいかに科学的に正しいかを主張したがるが、科学的に言える領域を超えて科学的だと断言していたり、科学で価値判断できない領域を科学で論じていたり、
なぜそう思うかというと、女性の恋愛スタンスを考えると、まず受け身であるということだ。
待つということに意思の強さが関係するかもしれないが、彼女らは別に待つ必要もない。
もし、意志の強い女性がいるとすれば、この戦略に支障をきたすことになるだろう。
最初にアプローチしてきた男性を良く思い、待つ間に良い男性からアプローチされる可能性があり
それを意志の強さによって逃すことになるだろう。
男性は反対に良くアプローチしなくてはならない、それは意思の強さに関係してくる。
そう考えると、女性の漫画では、意思の強さは男性の漫画より弱くでる可能性がある。
もちろん、女性が男性を描くときに意思の強さを女性が持たないものとして描くのであれば、それは別であるが。
女性が漫画で伝えたいことがあると思うが、少年ジャンプでは昔から友情、努力、勝利と言われたと思う。
私は男性なので、基本的には男性向けの漫画を好んで読んでいるが、読んでいるなかでは、意思の強さを良好的に描いた漫画が多いように思う。
女性向けの漫画は、断片的にしか読んでいないので感覚で書くが、
意思の強さはあまり全面に出てこない。(というよりバトル漫画やファンタジー漫画がそもそも少ないように思うが。)
そこではつまりいかに決断すべきではないかということを長々と書いている。
男性が読めば、それは美徳ではないが、決断をしないための決断というのがループ構造で描かれる。
だがもちろん時間が進み、結果として何らかのストーリーが進行する。(それが良い結果か、悪い結果のどちらでもあっても、決断しないことによってもたらされたものだ。)
根本的な価値判断のレベルで、女性向け漫画は男性向け漫画と異なるのではないかということを思ったので書いている。
その中で、男性向け漫画は女性にも読まれるが、女性向け漫画は男性にはあまり好ましく読まれない。
(もちろん、女性に男性向け漫画が手放しで喜ばれているとは思っていないが。)
それは男性が思う美徳を、女性は美徳とは思わないという問題によるものではないかという点を想像したからだ。
ただその逆は成立しているのは、空想の世界であると認知するために使用されている可能性がある。
そう考えると、女性向け漫画にファンタジー作品の少なさにある可能性の方が高い。
何かが支障となって、意思の弱さをそのまま空想の世界に持っていけない。
女性向け漫画は受け身の漫画になってしまうため、ジャンルは考えないといけない。
時間によって外部との接触によって漫画が進行する作品が非常に相性が良さそうだ。その間はずっと主人公は決断できずにいるような漫画になる。
最終的な決断を私たちは待つことになるだろうが、女性向け漫画では恐らく決断しないことが最終回になり、それが良い漫画の証になるだろう。
(もちろんそれは打ち切りではない。男性から見えれば逃げであるが、女性から見れば完遂である。)
女性は恋愛については受け身の戦略をとるが、全てが受け身というわけではない。
衣食住については金を稼がなくてはいけない、子育てについてはもっと積極的にかかわる必要があるかもしれない。
そうなってくると意思の強さは美徳となっていくのかもしれない。
もちろん、これは反対にも言える、つまり何を美徳とするかは現時点でどのような境遇にいるか、どのように利益を享受しているかによってくる。
・まっちゃんの件は個人的にはm1とkocと水曜日さえ続くのであれば問題ない気がしてきた。自分世代ちゃうし好きな芸人もダウンタウン信者とかじゃなさそうだし
TLに流れてくるオタクたちのこの件へのツイート、倫理観とかより結局はもともと好きだったかどうかでスタンス変わるよなあという感じ
今回ポリコレぶって怒ってる人の中にも、例えばパーケンが捕まったときはそんな反応じゃなかったよね?という人もいるし、もし粗品あたりが今後やらかしたら同じこと言えないだろうねって人もいるし
(粗品がやらかすと思ってるって意味じゃないよ、粗品ごめんね)
自分はまっちゃんにも優しくなれないし、被害訴えている女の人たちにも優しくはなれないな、まあでも「事実無根」はないでしょとはおもう
あと小沢だけかばっているオタク多いけど、小沢っていうほど性的な面で「小沢さんだけはやってないに違いない」って妄信できるタイプか?
若手芸人オタクって意外とポリコレ意識高いことを自認している人多いけど、結局は自分の好き嫌いで価値判断変わるってことは自覚しておいたほうがいいと思うよ
・吉本が鎖国している件、別に今回だけじゃなく昔も神保町芸人がムゲンダイにすら出られないみたいなことあったしまっちゃん云々よりただ定期イベントが起こっているだけな気もする
川瀬名人がさっき「ネットで言われてる理由と本当のは違う」的なの匂わせてたし
そもそもK-proライブとかは数年前からまた出られなくなっているしな
個人的にK-proはここ数年あまりよく思っていない(なんでかは書かないので、私怨と思ってもらっていい)から別になんとも思ってなかったが、全て出れないとなるとさすがに異常だと思う
ただ、自分の好きな芸人に関してはこれちょっと得なんじゃないか、というか
というのも、ここ数年吉本と他事務所の交流が盛んだったのって、結局大学お笑い出身の吉本芸人が大学時代の仲間を呼んだりしてそっからコミュニティ作り上げたってのが大きいんだけど、自分の推しはその輪のなかにいる人とたちではないのでそこでなにか利益を得られる身分じゃなかったわけですよ
だからこれから他事務所呼べなくなったときに、空いた穴に推しが入る可能性は全然ある、というかこうなることが決まった以上好きな人たちが利益を得られるよう祈るしかないってのはあるが
芸人以前の経歴で踏める場数が変わる現状、正直あんまりすきじゃなかったからね、しょうがないと思ってたからそんな意見発信したことはなかったけど
吉本で固まるのと学生時代のサークル仲間で固まるの、本質は一緒だしそしたら吉本はそりゃ自分の利益になりそうなほう選ぶよね
あとこの話題で「他事務所」って言葉にキレてるオタク、あれ何?吉本の話してるんだからその他の事務所は他事務所で問題ないやろがい
・なんかずっと裏垢で吉本批判してる某芸人、なんであの人裏垢でやってんの?
「忖度せずに言ってやるぜ」スタンスなら芸人名でやってるアカウントでやったほうがいいよ
まじでなんで裏垢でやるのか、本人なりの理論を聞かせてほしい、これで「自分の事務所の人に怒られるから」とかならウケるが
さっきミュートしちゃったから最新のツイート見てないが、さっきおすすめツイートで「このアカウントではこの人格でいく」的なこと呟いてた
いやそっちは人格分けてるつもりでも見てるほうは同一人格として見るからね?「裏垢での発言が気に入らなくても表の芸人人格は愛してほしい」みたいなのは通らないんだけど、本当にわかっているんだろうか
あと「10年前に吉本にスカウトされたけどやばい事務所と思って断った」話してるの何回か見たけど、あれ普通にシンクロニシティ批判と思っていいの?
・芸人オタク始めた学生のころは吉本しか知らなかったから「吉本は世界一悪い事務所」くらい思っていた(芸人、平気で所属してるとこの悪口言うから)けど、途中違う事務所の芸人のオタクとかもやって「結局完璧な事務所などなく『みんな違ってみんな悪い』な」というところに落ち着いた
だから芸能界が正常化することもお笑い界が正常化することもないと思っているし自分自身はあまり倫理観が高いほうではないからそれでもいいかなと思っている
まあでもつぶれてほしいわけじゃないしつぶれないためには今の世の中に適合する必要が絶対あるから、吉本君には頑張ってほしいよ、ほんとうに
歴史的に眺めると、人類は、被疑者・被告人に苛烈な取り調べなり拷問なりをして自白を強要してた時代もあった。その結果冤罪という悲劇を量産してしまった。
人類はそういう過去の失敗を反省して、黙秘権やら弁護人依頼権やら被疑者・被告人にたくさんの防御方法を付与した。それが近代憲法や刑事訴訟法の思想な訳で。
我々の住む近代以降の国家はそういう決断をしたんだよ。「お前悪いことしたんだろ!」的な追及をする時にもルールって必要だよねって考え直したんだよ。
その結果、これまで有罪に持ち込めたヤツも無罪放免になってしまったかもしれない。悪いやつを取り逃してしまうこともあったかもしれない。
でも、「そうなってもいい」「冤罪を出すよりはマシ」という価値判断をしたんだよ、人類は。
こういう思想は近代以降のものだから、この先数百年くらいしたら、また別の思想に基づいた捜査・裁判の方法が社会実装されるかもしれない。その可能性は否定しない。