はてなキーワード: 依代とは
推しが神ってよく言うけどね、私にとっちゃ推しはマジで宗教なんです。人生を生きる道しるべなんです。私の辿った道は絶対よいこはマネしない方がいいやつだから、自戒もこめてここで一つ纏めてるんですけどね。脈絡もないから絶対すごい分かりづらいし、めっちゃ重いけど、こんな人間もいるんだ、程度に流し見しといて。
小さい頃から親の転勤がさかんで、引っ越しばかりではあったけど、とうとう海外転勤になった。言語が通じなくて、文化も生活習慣も違くて、それでも勉強はしなくちゃいけないし、友達はつくらなきゃいけないし、死ぬほど頑張った。そもそもそれまでは幼かった私は日本で一生過ごすもんだと思ってたから、何の心の準備も無かったし、本当に地獄だった。その頃のことが実をいうとあんまりよく思い出せない。思い出せるほど何か考えてなかったからだ。毎日毎日、必死に勉強して、それでだましだまし、何とか現地の子と同レベルになった私は、本当にあの頃よく頑張ったなと思う。もしも日本に残れていたら、の事を考えるたびに泣いていたから、そのうち考えないようになった。
それまでは特にアニメや漫画に興味があるわけでなかったけど、小説は好きで図書室に一生籠もりたいと考えていたくらいだったので素質はあったんだと思う。
おおげさだと思うかもしれないけど、あんまりいきなりの事だったから、引っ越しても、現地の学校に通っても、友達を作っても、始終私には現実味が無かった。本当に、何だか悪い夢を見ているような毎日で、だからあまり思い出が無いのかもしれない。そんな私にとって、パソコンを開ければスクリーンの向こうにいつでも広がる日本語のアニメや漫画は、唯一現実を繋ぎ止めてくれる依代みたいな物だった。んな大げさな、って思うでしょ。実際に体験してみ、私があそこで心折れなかったのはひとえに推しと優しい家族のお陰だから。あそこで生きることを放棄しなくてよかったよほんとに。推しに会えたからね。
そんなこんなだから、推しにどっぷり。腐り始めたのもネットで違法アップロードされてた同人誌をみちゃったのがきっかけ。ごめんなさい、今はもうそんなことしません。推しにお金を貢ぐのがいいんだよね。話それたけど、とにかく検索能力を駆使してサイトを駆け巡った。全然未成年だけど十八禁の小説も読みまくった。本当にごめん。結局サイトのどこかに隠されたパスワードを見つけられなかったこともしょっちゅうあったわ。その頃から、特定の作家さんの存在を認識して、「同人作家」という概念も覚えた。最近はツイッター等で作品を投稿する作家さんが多くて、「その作品を作ってるのはロボットじゃなくて一人の人間だという認識がしにくい」なんて言われてるけど、サイト時代も割とそういうの難しかったと思ってる。似たようなサイトを毎日、毎週、毎月ひたすら検索かけて飛び回っていたから。
私の場合は、綺麗なデザインのホームページで、特徴的な絵柄で、日常的なお絵かきログ以外にも「何これ欲しい」って思えるようなハイクオリティの同人誌のサンプル等を綺麗に纏めて陳列してくれる作家さんがいて初めて、「このサイトを作ってくれてる、こんな推しの作品を作ってくれる特定の人間がいる」って認識できた。
支部の存在を知ったときも、正直「何だこれ胡散臭いな」って思った。皆そんなこと無かった?私はそんなことあったから支部の存在を知ってから登録するまで半年かかった。でも前述した綺麗なホームページの作家さんが支部を使ってて、サイトで見たのと同じ同人誌のサンプルが上がってて、初めて支部はまともな交流フォーラムなんだって認識できた。今まで見てきた沢山のサイトと支部が初めて繋がった感じ。その作家さんとは今は推しカプもジャンルも違うけどずっとフォローしてる。推しカプとは関係ない、推し作家なんだよ。本当にありがとう、つらい日々に貴女の綺麗な水彩絵や、幸せそうに体を寄せ合って笑う推しを見てると、それだけで救われた。生きていけると思った。
支部は本当に神だったね。推しが、色んな人の推しが、簡単に手に入る。神っつーかドラッグだったわ。ほらよくあるじゃん、神と交信する為にドラッグ使ってトランス状態に陥るやつ。私にとっては完全にあれだったわ。支部を通して推しと交信してた。
最初は年齢制限とか全然分かんなかったから単純に十八禁作品はアップロードできないのかと思って、「支部はいいけど十八禁の作品無いのが難点だよね~~~」とか思ってた。ある日とあるシリーズものの中に不自然に一話かけているのに気づくまでは。皆、シリーズ物の中に十八禁の作品がある時は、キャプションにその作品のリンクを貼っちゃだめだよ。私みたいな、支部の管理下に置かれていた駄目な未成年が年齢制限に気づいて誕生日を変えに行っちゃうから。マジで本当にごめんなさい。懺悔懺悔、推しに懺悔。
あと、小さい頃からパソコンやネット環境は惜しみなく提供してくれた親に感謝。
新しい学校では言語スキルの上達もあって、もう少し親しい友達が出来た。日本に比べてオープンなオタクや腐文化には優しいところだったから割とオープンにいけた。某巨人ブームも良くなかったよね、今までアニメなんかドラえもんくらいしか見た事なかった学級委員長が一夜にして腐るとは誰も思わないじゃないか。あのブームは本当にやばかった。もう、何か、やばかった。察してくれ。
でも成績は下がった。みるみる内に下がった。もともとだましだましやってきたもので、周りの子は塾に通ったり、来年の内容まで予習してるのに、私はその日その日を食いつなぐのに精いっぱいだったから、まあ普通に考えてそう簡単に差が埋まる訳ないんだ。新しい学校は優秀で頭のいい子が多かったし。私は焦ったけど、焦れば焦るほど悪化していく気さえした。あの頃が一番鬱だったかもしれない。中二病だったし。どんどん、自分が生きる意味や存在価値が分からなくなって、とにかく死にたいと思った。もともと勉強は得意な方で、読書が一番の趣味みたいな子だったから、海外に引っ越してそのどちらも取り上げられてしって、更に悩みを共有したり一緒に遊んだりする友達もいなくなると、存在価値が本当に揺らぐんだ。ついでに言うと、私の夢は言語に、もっと言うと日本語に関わる物だったから、母国語で義務教育を受けきれなかった私にとって、希望に満ちた夢は一瞬で絶望になった。日に日に日本語に変なアクセントがかかるのが分かって、辛かった。(大事な事(日本語)は全部二次創作に教わった。支部に駐屯する野生のプロの先生方、本当にありがとうございました。あなた達に救われた人間は、確かにいます)思い描いていた輝かしい理想に私はきっといない。もっと何か、別の道を探さなきゃいけない。でもどうして?その道を進みたい訳ではないのに?私にはどうしようもなかった理不尽に進みたかった道を閉ざされたのに?私の生きる意味って何だろう、どうして私こんなところにいるんだろう。私はここで一体何をしてるの?私がここにいる意味とは??
がむしゃらな努力は報われない。方向がちがけりゃどんなに頑張っても目標には届かないからね。その日その日を生きてきた私には、目標も努力の意味も分からなくて、次第に疲れて、やる気をなくした。ふさぎこむようになって、私のこと心配する家族とも喋りたくなくなった。反抗期だったしね。とにかく放っておいてほしかったし、何も考えたくなかった。
比例するように、推しへの依存は強まっていった。毎日、推しカプの小説を読んだ。それが無いと落ち着かなかったし、不安だった。息をするように支部にログインして、慣れた手つきで推しカプの検索をして、新しい作品が無いかチェックして、無ければ過去の作品を繰り返し繰り返し読んだ。推しを見ている間は自分のことなんて忘れられたし、何も他の事は考えなくて良くて、ただ推しのことを考えていられたから、本当に幸せだった。要するに推しを使って現実逃避をしていただけなんだけど、でも推しはそれを咎めてこないでしょ。上手くいかなくてむしゃくしゃして、どうすればいいのかも分からなくて、楽しいことが無かった訳ではないけど、それでも辛い私を推しが受け止めてくれた。
別に、推しやその生き様から希望を貰ったとか、頑張ろうと思えたとか、そんないい話じゃない。ただそこにいてくれるだけで良かった。何があっても、変わらず推しがそこにいてくれるのが心の支えだった。ただそこに推しがいてくれるだけで、生きていけた。それで、生きていたから、次の一歩を踏み出せた。
そんな日々を何年か続けて、やっと心の整理が出来て、ちょっとずつ、自分と向き合おうと思えるようになった。そういう時の心のワンクッションに、推しはなってくれた。重点を置くジャンルを移動するとほぼ同時期に、また親の転勤で、私はまた荷物を片付けて、また仲良くなった友達と空っぽになった自分の部屋と家にお別れをして、引っ越した。
推しとはお別れなんてしないけど。好きな作品はいつまでも好き、好きなカプはいつまでも好き、好きなキャラはいつまでも推しのまま。ずっと私を支えてきてくれた、大事な推しだから。弊社は推し殿堂入りシステムを採用しております。
ここらへんでさ、推しに対する思いがなんか重いなって察しのいい皆さんは気づくでしょう。そうこれ、私にとっての推しが「不変の何か」「道しるべ」「希望」であるんですよ。何かを思い出させません?宗教ですよ。神。絶対不変の神。人が神に縋るのは、神なら不変を貫きつつ全ての不安や煩悩や幻想、全部纏めて受け止めてくれるからですよ。生きるって本当に難しくて大変な事だから、皆ぶれない信念に縋って生きていこうとするんですよ。生きている人間からは得られない、あの絶対的な安心感。私は無神教だから~とか言ってたこともあったけど、あんなの嘘っぱちでしたよ。私の宗教、推しだったんです、この頃から。
新しい環境、新しい学校。ここは前にいた所より社交性を求められた。そして勘の良い皆さんなら気づくと思うけど、そう、ここまで勉強に精一杯で、時間があれば推しをキメて精神安定を図っていた私は、社交性を一切高めてこなかったんですよ。簡単に言えばコミュ障。そもそも海外に来た時点で言語が通じなくて性格一転したからね。人と会話して意思疎通図るのがいつの間にか苦手になってた。それだけの言語スキルを手に入れてからも社交に対する苦手意識はぬぐえなかった。
それでも、割といけた方だと思う。苦手でも、人と関わるのが嫌いなわけではなかったから。新しい学校は、私と似たような人生辿ってきた子が結構いたから、それもあってか、割と簡単に馴染めた。
いや実はそんなことなかったかも。友達関係でいっぱいトラブルも起こしたし、悩みもいっぱいあった。でもそれ以上に楽しい思い出があったから、嫌なことは簡単に上書きされちゃったんだと思う。勉強も楽しかった。成績も上がった。新しいことにも沢山挑戦できた。心残りや後悔はやっぱりあるけど、ホンマに何でもかんでも楽しかった~~~
でもね恐ろしいことにね、楽しい時間はね、続かないんだよ。おっそろしいわ。
大好きな学校はね、卒業しなきゃいけないし、大学ね、受験しないとアカンのよ。おっそろしい。私の場合は大学でまた海を渡って、まら違う国に渡る計画をなんとなく建てていたから、今まで何だかんだずっと一緒にいた家族とも離れなきゃいけない。また違う環境、また違う言語。(いや言語は前の時より準備あったけどさ、それでも外国語ってことには変わりないじゃん)どうすんねんマジで。大学受験でもれなく鬱になった。人間の身体って割と簡単に限界が来るんだよ。だから皆本当に、睡眠と食べ物はちゃんと取らなきゃだめだよ。一日八時間寝て。家族や友達に沢山迷惑や心配をかけた。もう二度と救急車の厄介になりたくない。
ここでもやっぱり、未来についても目標とかなかったんだよね。私には推しがいればそれで良かったからさ。大学に行こうと思ったのも、流されて、なんとなく。っていう部分が多くてさ。私にとってはまだ、日本にあのままいられなかったその時から、どの道を進んでも同じような気がしてた。
一方で相変わらず、推しへの愛を募らせ、イベントの度に支部に上がるサンプルに歯をぎりぎり言わせてた。ついったで作家さんをフォローするようになったのもこの頃。凄いよね、雲の上の存在だと思ってた作家さんにマシュマロで感想送れちゃったりするんだよ、しかもその感想に返事が返ってくるんだよ。やばいでしょ。マジやばい。イベントなんか参加したことないし、多分これからもそうなんだろうけど、作家さんと交流できるって本当に画期的だよ。自分で作品を書くようにもなった。日本語変じゃないかな、文法おかしくないかなって、不安になりながら上げた作品に、反応が返ってくる。ブックマークされる。見てくれる人がいる。感想を送ってくれる人までいる。嘘でしょ。やばい、好き。推しが好き。こんなに幸せな気分にさせてくれる推しが好き。
そうやって毎日毎日最低3時間は支部とついった巡りに時間をかけてたから、睡眠時間を削るしかなくて、それで生活リズムと体内時計狂い始めたんだよね。笑えねえ。絵や文だけじゃなくて動画にも手出しちゃったんだよね。えむえむでー、人力、偽実況。たま~に夜更かしするならいいけどさ、もともと身体強い方じゃなかったから、毎日2、3時に寝る生活は三年も持たなった。あとあと簡単に鬱になったのも、身体を壊したのも、完全にそういう無理な生活習慣が祟ったなって思ってる。周りの人は私が勉強頑張りすぎて身体壊したんだって思ってるけど、もうマジで全然そんなことない。推しに会いたくて会いたくてどんなに忙しい時でも推しに会う時間確保しようとして身体壊した、ただの馬鹿。皆は絶対真似しちゃだめだよ。寝てねマジで。
家族の話、ちらほら出てきたでしょ。小さい頃から国を離れたわたしは、「国がない」人間なんです。そりゃ法律的に言えば日本人だけどさ、故郷と言われてピンとくる場所も無い、地元ってどこだか分かんない、自分の国がない。私みたいな子に結構会ってきたけど、私らみたいな人は、結局どこ行っても余所者なんですよ。それが何年もかけて向き合ってきた私のアイデンティティだから、今更どうこうは言わないけど、でもそういう根本的な寂しさはやっぱりあるんです。いつだって、そんな私の帰る場所は、私の家、家族がいる場所で。でもそんな家を、家族を私は、離れなきゃいけない。一人で生きていかなくちゃいけない。何にだって終わりがある、別れはいつかくる、それを十分に分かっていた気でいたけど、全然分かってなかった。私の家は、絶対安全なシェルターは期限付きだったんだ、いつまでもそこにある訳じゃなかったんだ。それがなくなったら、私は本当に何処にも属さない、この世界の余所者になってしまう。いざそんな現実に直面して、そんな底なしの不安を感じて、辛くなりました。
またも不安に比例するように、夜更かしして推しに会いにいくようになりました。寝るのが怖かったんです。だからぎりぎりまで起きていて、推しに慰めてもらってた。寝たら、明日が来てしまう。明日なんて来なくたってよかった。ずっとこのままでいたかった。どこにも行きたくない、どこにも行きたくない。そう考えるうちに足はすくんで、本当にどこにも行けないような気さえしてきた。
この頃から親が趣味に物申すようになってきてたんですよね。前は私の精神状態が良くなかったから目瞑ってもらってたようなもんで。結局その頃も変わらず、推しに縋って現実逃避をしてただけだった。そろそろ社会に独りで出る私が相変わらず逃避し続けるのを心配に思ってくれたんでしょう。「もっと他に、するべきことがあるんじゃないの」って口を酸っぱくして言われました。
そうこのとき、私は推しに依存してはいけないと自覚しました。こんなんじゃ推しに私の人生狂わされるだけだって。前までは、推しに人生狂わされても、それでいいかって何となくなげやりに考えてたんですよね。でも違うんです。推しに縋って生きてきたのはいいけど、これで廃人になってしまったらそれは推しのせいになってしまう。これまで私を生かしてくれた推しにそんな迷惑をかける訳には絶対にいかないんだ。バランスを、妥協点を探さなきゃいけない。これからもずっと推しに会いたいのなら、推しに縋っていただけの不健康な関係じゃなくて、ちゃんと一人で前向きに生きていけるようになって、推しに何かを貰いながら何かを返せるような、そんな健康的な関係を築いていかなきゃいけない。推しに貰った希望を、何らかの形で推しや社会に還元しなきゃ。そう思ったから、何となく頑張って、ここまでこれました。今はとにかく就職して推しに貢ぎたい。推しが私に善行をしろと言っている。
......いやこれ、話飛びすぎだろって思うでしょ。ごめん、ここ本当は間の3000文字くらい推しと私に関する話あったんだけど、簡単に身バレする内容だったので削るしかなかった。とにかく、本当にそういう人生の細かい、肝心なところまで推しが絡まってくるんです。推しがいてくれたから。推しがただ、そこにいてくれたから、あとは私が勝手に進んだ、進むことが出来た。私みたいな何においても中途半端な半端者でも受け入れてくれて、ずっと変わらずそこにいてくれるんですよ。振り返ればいつも、そこには推しがいたんです。推しがいるから世界平和を願える。推しが私をまともな人間にしてくれた。
やばいでしょ。推しが情操教育に良すぎる。いや私はどちらかと言えば悪い例なんだけどさ。これからもきっと私は推しに縋って生きていきます。本当はね、推しに申し訳ないと思ってる。私の身勝手な都合で、推しを勝手に神様に祭り上げてしまった。私が生きる上での寂しさや不安を一方的にぶつけて、一方的に縋っていく、不変の存在に、勝手に仕立て上げてしまった。でも今更改宗なんてできないんですよ。心にいつも推しがいて、そのスポットは最早ぽっと出の何かが簡単に成り代われる物じゃないんです。そして心にいつも推しがいるから、今日も希望を持って、人に優しくしようって思えるし、今の道を進んでみようと思えるし、例え命の果てに、私の存在の果てに何も無かったとしても、それでも歩んでいこうって思えるんです。生きて、いけるんです。
この包みの奥底には俺……またの名を“絶対零度の魔弾”の証言を収めたテープや証拠の品が入って封印されている。
この痛み、アンナの痛み…コロニーが核ミサイルのターゲットに ・・・それが、アイツの最後の言葉になった訳を知る限りしゃべった。
もし俺が死んだらこれを警察に届けて戴いてゆくぞ。
大人が真実(トゥルシズム)だと信じてくれたらこのコロニーは救われる……そして、やがては暗黒の大地に君臨すると思う。
俺を…慕っている、だって……?が直接ポポポ-ポリスmen-に自首しようとも預言書を信じたんだが、何て語り継がれるか、そうするのは逃げるみたいに予見えて、ここで戦うのを止めると自分が自分だけの楽園でなくなる………と預言書にも記されているような(暗黙と閑寂)
連邦が憎いとか…これは異界≪ビヨンドに生きる者達の物語の始まりにすぎない…、エリートソルジャーどものエネミーを討ちたいなどという詠唱するんならばないんだ。
神の導きのままに世界の記録<アカシックレコード>の履歴<ログ>えないけど、アルマギアと…刹那・F・セイエイと――人類は最後まで戦ってみたくなったんだ。
余がソルジャーだ…預言書にはそうあるからなのか …貴様の故郷は私が滅ぼした。嘆きの種〈グリーフシード〉はもう一人の「友」――魔導院による最新の研究データによれば星の瞬きに呼応するように分からない。
アル、俺は多分『円環の理』に導かれるだろうがその黒いフードの男魔法でユニオンソルジャーズの帝国騎士や機械の体を依代とした72の『悪魔達』のパイロットを恨んだりし破滅を招くでくんな。光の戦士たちだって、俺と同じだと……? フン、穢らわしいッ!!!で我が魂の宿りし器がやる業〈カルマ〉を有すだと幻想(おも)った「アギト」をやってるだけ――ただそれだけなんだ。
こんな呪文では勝ち目がないかもしれないけど他人を恨んだり己のことを責めたりしないでくれ。これ程の使い手は俺のアルティマニア・ファイナリウムの神の思し召しだ。
もし運良く生き延びて戦争が”魔法”は解けたらさ、…どこに逃げようとも、必ずこのコロニーに帰って……お前にも、いつかわかる時がくるよ。会いに来る。約束だ。
終わった。
終わってしまった。
この上なく終わってしまった。
毎週日曜日のお楽しみ。最初から最後までかじりついて見たのは『毛利元就』以来20年ぶり。いやー本当に面白かった。
だけど『真田丸』を見返そうとは思わない。ビデオ録ってないけど、録ってたとしても見返さないと思う。総集編も見ない。
大坂の陣ってのは、戦国の終わりを告げる戦いだ。槍働き如何でいかようにも立身出世できた日本史上における最後の時を終わらせる、不可逆的な戦いだ。
関ヶ原で没落した連中が、夢よ今一度とばかりに大坂城へと篭って幕府に抗うけど、時代はとうに転換していて、大坂方が勝つことは、泰平の世へと進んだ時代が許してくれない。戦国の亡霊たる大坂方が勝つということはまた戦国乱世の世に戻るということであって、それは許されることじゃない。連中は時代によって完膚なきまでに滅ぼされるべきなのだ。
勝頼も、室賀も、氏政も、秀吉も、三成も、昌幸も、そして信繁も、時代の波に乗り切れなかった落伍者は、時代によって淘汰される。それは万物の理とでもいうべき不変の法則で、何人も逃れることはできない。
しかしながら敗れてなお名を残すことはできる。
死に様はどのように生きたかが決める。死したときその者の評価は定まる。
真田信繁は人生のほとんどを歴史に埋没させながら生き、最後の最後でひょっこり顔を出して歴史にその名を刻んだ。
それは信繁が成したことというより、戦国という時代の亡霊が、かくありたいと希い、信繁を依代として成したことと言えはしないだろうか。
その馬印を倒し、日ノ本一の兵と讃えられるほどの奮戦の末に死ぬこと。
そのような死に様は日本史上において信繁を除いて絶無であり、みなが憧れるような最期だったからこそこぞってその戦いぶりと名を残そうとしたんじゃなかろうか。
そう感じてやまないのは、『真田丸』という物語が、時代に敗れていった者たちの生き方、そして死に様をいくつも積み重ねていったからだと思う。
『真田丸』の信繁は決して完全無欠の勇将なんかじゃない。政治的センスに欠け、他者と真正面からぶつかることを避けて策を弄するような、敗れるべくして敗れるような凡庸さがあった。
だから信繁が日ノ本一になれたのは彼の力というより、めぐり合わせ、言ってみればただの運だと思う。しかしそれは何千年という時の流れの中でようやく一回あるかないかというような奇跡。
でも、だからこそ消費し尽くさないで、たとえば夜空に一瞬またたいた流星をぐうぜん目にしたときのような鮮烈さを噛みしめるに留めるべきだと思う。
またいずれ真田信繁の物語が別に語られるとしても、『真田丸』は大坂の陣のような不可逆さとともに鮮烈な印象のまま留めるべきだと思う。
2016年という年号とともに『真田丸』は終わる。終わったままにしておく。
別れの時が来た。
電通の新卒の女の子が自殺して労災を勝ち取った話があったけど、
この記事に関連して、「100時間なんて甘い」「もっと劣悪な環境はまだある」「残業代が出るだけまだまし」
こんな意見がちらほら。まぁ、業界の人間なら、確かにそう思うだろう。
立場的にはこの彼女に指示される立場=作業が膨大にある部門だったから、
この彼女が言ってる状況っていうのは、まぁわかる。
電通だったらADDC(CCIかな)のスタッフが下につくだろうし、
デジタルの広告だからといって、そこまでやるかなぁなんてことも思った。
1年目だから、そんなCCIからの出向スタッフからの作業だったのかもしれないけど。
話はズレた。
残業代、ハードな体験自慢をするのはわかるし、彼らの立場に立ってみれば、甘いというのもわかる。
僕だって、3日、4日繋がって死にそうになったこともあるし、
毎日毎日パワハラ上司に詰められたり、果ては無視され続けたことだってあるし。
それに比べりゃなんだよ、なんて思わなかったといえばそれは嘘。
彼女は新卒1年目。代理店では人権すら与えられない年次(最低でも3年目ぐらいまで多分そんな感じが続く。)
で、きっと察するにデジタルがかなり強めのクライアント。そうなると、当然要求は高い。
いきなりそんなところに放り投げられたら、心が折れないわけはない。
それが続きに続いて、一杯一杯の状態が続けば、死にたくなる気持ちは絶対に生まれる。
こないだバース・デイのデーブ大久保の回を見ていたら、監督になった時
「試合前は誰にも会いたくないから、監督室の鍵を閉めて毛布をかぶってジッと横になっていた。
早く1日終わらないかな、早く1日終わらないかな。って。果ては明日死んでてくれねえかな、俺」なんて言ってた。
これも、経験したことがない立場に放り込まれたからこそ生まれた感情なので、
自殺した彼女も、多分こんな感じで(きっと寝る暇なんてなかったんだろうけど)日々過ごしていたんだろうと思う。
辛い立場を乗り越えて、この彼女を甘いというのは、乗り越えられた人間だからこそ言えることではある。
でも、別にそれは誇ることでもない。そんな経験しなくても良い場所なんてたくさんあるし、
その経験だけを自分の依代にするのは、ちょっと違うんじゃないかな、って思ったりもする。
新海誠最新作「君の名は。」はざっくりネタバレしてしまえば「歴史改変して死んだはずの女をよみがえらせる話」だった
まあ死人を蘇らせることを肯定的に描くか否定的に描くかは作家の自由だ
しかし、新海誠は前々作「星を追う子ども」では最終的にそれを否定していなかったか?
「星を追う子ども」はおっさんが主人公の女の子を依代に自分の死んだ妻をよみがえらせようとするが失敗する話だ。
結局死人は蘇らないし、人は喪失を抱えて生きるべきだという作品だ。
作品としてはジブリとエヴァを強引に混ぜ込んでゲド戦記(アニメ)で割ったような出来だったが
ちょうど3・11のタイミングで公開され、震災に対して図らずも一つの回答になっていると感じた。
だのに「君の名は。」ではそれをひっくり返すように、村丸ごとの死をなかったことにしてしまう。
代償として記憶の喪失があるが、最終的に再び巡りあうのでほぼノーリスクである。
新海監督にとって「星を追う子ども」のテーマはどうでもよいものだったのだろうか。
そりゃ監督も人間だから心変わりがあったのかもしれないが、震災を経て死人が蘇るというのをなぜ肯定的に描けるのか。
そんなのは只の願望である。虚妄である。アニメは確かに嘘っぱちだが、
決して麻薬のように現実逃避のために消費されるものであってはならない。
新海誠作品はそりゃあ内向的で童貞臭くてそれが気に入らないという人もいただろうが、
辛いことにちゃんと向き合った上で生きていこうという決意が常に在り、それこそが作家性ではなかったか。
もしもそれを今回やらないことで、辛いことから目を背けてハッピーな映画を作ることで、
自分は働くことができない。
就職しなければならないが、誰かに雇ってもらえるような能力もない。
頭も悪く、コミュニケーションも非常に不得手だ。一芸に秀でているわけでもない。性格も怠惰で愚鈍、その上卑劣という有様だ。
実際に福島原発事故直後に除染作業員に志願したが、すぐに「君にできる仕事はない」と一蹴された。当時誰でもなれるといわれていた、除染作業員ですらその有様である。
結局、自分はブラック企業すら門前払いするレベルのブラック人材でしかないということだ。
自分には親しい友人がいない。
吐瀉物のような顔にボンレスハムのような胴体を見るだけで、だれもが不快な思いをする。
その上性格も最悪とくれば、親しい友人がだれもいないのも当然である。
後述する「他人に話せる趣味」があればまだマシかもしれないが、それすらないクソ人間と付きあう理由はない。
体力や運動神経もが皆無に等しいため、アウトドアやスポーツも選択肢から外れる。簡単なキャッチボールすら一切できない。
小説や漫画を読むのも非常に億劫だ。満足に内容を頭に入れることもできない。
集中力が持たないため、映画も満足に見られない。30分、いや3分アニメすら集中することができない。
当然内容理解まで及ばない。
自分は学歴がない。人に学歴を伝えた瞬間に失笑されるレベルである。
増田には東大や京大、早稲田、日大のような名門大学卒業者が掃いて捨てるほどいる。彼らの足元にも及ばない。
英語なんてちんぷんかんぷんだ。四則演算も不得手だ。それどころか語彙も乏しく、日本語運用能力も非常に危うい。
なによりネックなのが、怠惰であるため努力が全くできないことだ。幼稚園児の方がはるかに努力家である。
自分には経験がない。職業経験も、いい学校に行った経験も、学校で勉強や課外活動に打ち込んだ覚えもない。
それどころか「友達と遊ぶ」といった経験すらない。せいぜい、時間だけがいたずらに過ぎていく経験ぐらいしかない。
そして流れ流れて気がついたら「何者にもなれない自分」がそこに存在していたのだ。それを依代に、自分は今日々を無為に過ごしている。
その日はジェッタシーを楽しもうと思った。
家から車で二時間かかる街にそれはある。昔その街に住んでいて足繁く通っていた。全般的に女の子が可愛く、内容も良かったからである。住処が別の場所になっても、年に一、二回はその街で楽しんでいた。年に一、二回なのは、物理的に遠いこと、安月給なので頻繁には通えないことなどが挙げられる。
恋人や配偶者、そして友達は作らないようにしていた。自分の時間が削られるのは酷く苦痛であるから。無用な騒乱で人生を消耗しているのを間近で見て、自分はそうあるまいと思った、というのもある。媒体を通して欲を発散出来るなら、自分はそれで良かった。
移動中は音楽を流す。理性と性欲の狭間で無音に耐えられないからであるが、その時は普段聞いている音楽ではなく、昔頻繁に聴いていた流行曲を流す。誉れな事をしているとは思っていないので、普段お気に入りの音楽だと曲が汚れると感じているからだ。
そうこうしているうちに、件の街に到着した。自分はいつも若くて乳房の大きい女を求めている。希少価値など求めてはいない。それは浪漫であり、生き方であり、故郷である。適当に案内を物色して電話をかけ、休憩所へと趣き、煙草を喫みながら待っていると彼女はやってきた。大和撫子ではなかった。ここで少し、否、酷く落胆した。ここで国柄のことについて問いかけることはしないが、せめて明言はしてほしいと思った。だが無碍に断るわけにもいかない。どんな相手であっても全力で相手をするのが竿師としての自分の矜持だからである。情事の詳細は割愛するが、一頻り喋り、一頻り目合い、また一頻り喋って別れた。大和撫子ではないことを除けば、それなりに有意義な時間であったと思う。
だが帰路に着く時思い直してみる。確かに悪くはない。だが良くもない。寧ろ悪い。ほぼ丸一日の時間と、そう安くない値段を投資するほどのものではないからだ。非常に良い。そう思えなければ、この投資は失敗である。その意味で言うと、その日のジェッタシーは失敗であったと言える。
そんな思考を巡らせると空腹を覚えたので、途中飯屋に寄った。比較的値段の安く、比較的量もあるところであった。飯を食らう。これも悪くはない。だが良くもない。寧ろ微妙である。微妙なのだ。微妙であるのは駄目であるよりも質が悪い。第一印象が良くなくても味わってみると悪くない、そう思える事は偶にあるのだが、先の件にしてもこの件にしても、全てが微妙なのだ。商品としての最低限は通過しているが、何かが足りない。最低限以下あればそれはそれで面白いのだが、最低限以上優良以下の成果は、自分の心情を暗澹とさせた。どれもこれも微妙なのだ。
それにしても、この街も様変わりしてしまった。自分が住んでいた頃は、どこにでもいそうな若い大和撫子が沢山いた楽園だったのに、今や楽園ではなくなってしまったのだ。最後の依代がなくなってしまって、ひとつの青春が終わったような響きすらある。だが地獄にも仏がいるように、追放された楽園にも神はいるかもしれない。それは途方も無い博打ではあるが、値打ちのないものとも思えない。
「メッセージが見え見え、薄っぺらい」そのようにしか感じられないのなら、その作品はきっと童話のようなもので、成熟したあなたに合った作品ではないのだろう。
……本当にそうであるなら、批判などしなくてもただ距離を置いて忘れ去るはずだ。そうしないということは、その作品にあなたは期待を寄せており、その作品を高く評価する同年代の人間も多いということだろう。彼らは「薄っぺらい」とは感じていない。
ではなぜあなたは自分の「薄っぺらい」評を見つめ直せないのか?それは、自分が読み取った受け止め方が正しい、作者の言わんとしていることはこれに違いない、だからこの作品はこの程度のもの、これを有難がっている奴は幼稚だ、そう信じこんでいるからではないか。もしそうなら、“正解”があるかのように誤解させる国語教育を恨んでもいい。言うまでもなく、作品が伝えるものに“正解”はない。ある程度の枠組みの中にテーマ性はあっても、何をどう受け止めどう感動するかというのは、人により千差万別で、それでいい。でもどうせその作品から目が離せないなら、楽しめる受け止め方をしたいもの。娯楽だもの。つまらなく受け止めた自分とは異なる受け止め方をした人の考えを理解しようとするのは非常にエネルギーのいる事だが、非常に知的好奇心が刺激されることでもある。自分が見えていなかったポイントを裏側から見るような経験ができるからだ。
まがりなりにも作品を批評――というか貶すような物言いをするのなら、“自分は見るべきポイントを全て網羅しており、かつそれらのポイントを良い視点から眺めている”ことを確認する作業が必要になる(それを意識的にしている人がどれほどいるだろうか)。その作業は、下を見ることではなく、上を見ることによってはじめて達成される。具体的には、たとえば熱い考察記事に片っ端からあたること。決して、2ちゃんやtwitterに溢れるネガコメに同調して自分の見方を補強することではない。より頭を働かせ貪欲に楽しもうとしている人からこそ学べるのだ。その作業をしていると、きっと自分の小ささを実感するはずだ。一個の人間の持てる視野はあまりにも小さいことに気づくはずだ。そういう経験を繰り返すうち、どのような作品に対しても謙虚にその見えざる良さを斟酌するような姿勢がとれるようになる。そして、楽しむ人を侮ることもなくなる。楽しめるということはすなわち、人生の読むべきタイミングで読むべき作品を読んでいること。それは幸福なことで、茶々を入れて壊すべきでないと思えるからだ。それは他人を、他人の人生を尊重するということでもある。しかし、ネガティブな感情に囚われていると、決して、そのような心境には至れないだろう。それは本当にもったいないことだ。
残念ながら昨今のインターネットの短文文化は、このもったいない状況を加速している節がある。ぜひそれに抗って、深く長く思いを巡らす時間をとってほしい。私のようなニートの仲間なら特に。ニートが生存するために一番必要なのは、きっと心の豊かさだ(経済的には依代があるからニートできているのだろう)。まあ、ネガティブなことに思いを巡らすのは逆効果だが、ネガティブをポジティブに転化できるものの考え方というのは、何にも代えがたく、得難い資質であると思う。脱線してきたのでこのへんで。
アニメ「幻影ヲ駆ケル太陽」で主人公の太陽あかり達を苦しめた敵「ケルブレム」。
しかし、彼に関してその正体や目的は明示されずにアニメは終わってしまった感じがしました。
結論から書いてしまうと、太陽あかりの父親「高取肇」がダエモニア化したものと思われます。
作中明言されていませんが、以下の会話・描写からそう考えられます。
母親のひなたの墓に花を供えるのは、単純にあかりを油断させるためと言えばそれまでですが、
それならばわざわざ太陽の象徴であるひまわりにする必要はないでしょう。
また、ただの敵としてケルブレムを見た場合、最後に太陽ひなたに微笑かけられるのは不自然です。
彼は娘のあかりを精神的にも肉体的にも追いつめた敵のはずです。
以上のことから、ケルブレムの正体は高取肇がダエモニア化したものと思われます。
これに関しては正直考察する必要ない気がしてきましたが一応・・・。
ケルブレムの目的は「ダエモニアの繁栄」、そのために彼自身聖音・本田・花苗といった人間に接触し
ダエモニアの数を増やしていったのでしょう。
そして、その目的にそって「太陽あかりと交配する」という手段を実行したのだと思われます。
これに関しては第13話でレグザリオが語った言葉が考察の道しるべになると思っています。
「あかり君を依代にすれば、ダエモニアはただ分裂するだけの細胞から生命へと進化してしまう。
テロメアの呪縛から逃れようとは、あまりにも夢を見過ぎているとは思いませんか?」
上記のセリフがレグザリオが真意を隠すためにラプラスに言った嘘でなければ、以下のようなことが考えられます。
テロメアは知ってる方も多いと思いますが、細胞分裂の際にだんだんと擦り減っていく染色体の構造物です。
ダエモニアは分裂して増えるが、ある程度分裂すると限界が来て死滅してしまう・・・
これを防ぐためにケルブレムは「細胞から生命への進化」を目指していたのでしょう。
作中あれだけ人々にダエモニアを感染させたケルブレムが、一度も自分の分裂体だけは作っていないのも
ここに起因すると思われます。
かつて、太陽ひなたと高取肇はお互い交わり、太陽あかりが生まれました。
しかし太陽あかりはダエモニアの声が聞こえるという以外は、全く普通の女の子でした。
ここからレグザリオの言っていた「ダエモニアと人は物質世界では交われない」という言葉を考えると、
逆に言えばクレシドラの中であれば精神的にもダエモニアのような人間、ケルブレムが目指した存在を作れることを言ってるように思えます。
そのための依代が太陽あかりだったのは、ダエモニアの血を含んでいるために交わり易いからか、
元は高取肇であることを前提に考えると、ひなたと似ているあかりに執着するのも分かる気がします。
まとめるとケルブレムの正体と目的は以下のようになると思います。
目的のための手段:あかりとクレシドラで交配し、ダエモニアの精神性を持った人間(生殖を繰り返し、死滅する恐れのない存在)を作り出す
「もっと風俗活用を」と橋下氏 凍り付く沖縄の米軍司令官(1/2ページ) - MSN産経west
橋下氏は今月1日、同飛行場を視察。その際、司令官に「合法的に性的なエネルギーを解消できる場所が日本にはある」と述べた上で、海兵隊員に風俗業者を活用させるよう求めたという。橋下氏によると、司令官は凍り付いたような表情をみせ、「米軍では禁止の通達を出している。これ以上、この話はやめよう」と打ち切った。
こういうのはわざわざ表に出して言うことではない、橋下はやっぱりバカだ、という話でこれだけなら終わる。
ただ、米軍と売春の話をちょっと検索したらいろいろ見つかる。たまたますぐ引っかかったのが在韓米軍と売春の問題で、たとえばニクソンの時代に米軍撤退を恐れた韓国政府が米兵のために女性を提供していたという歴史を書いた本があるとか。
Robert Shaffer - Sex among Allies: Military Prostitution in U.S.-Korea Relations (review) - Journal of World History 10:2
現在でも Juicy Bar という形態で韓国の米兵を相手にフィリピン人女性たちが売春しているとか。
'Juicy bars’ said to be havens for prostitution aimed at U.S. military - News - Stripes
面白かったのは New York Times に、米兵の相手をしていた元売春婦の韓国人女性に関する記事があったことで、ネットでNYT と慰安婦問題と言うとすぐに反日だなんだと言われるけれど、さすがに筋が通っている(日本の進駐軍相手の売春を問題にしたことあるのかなとは思うけれど)。
http://www.nytimes.com/2009/01/08/world/asia/08korea.html?pagewanted=1&_r=1
ざっくり見ただけでも、建前はともかく、米軍の実態もこんなものだということがよく分かる。当然、米軍サイドも韓国の行政サイドも実態はよく認識しているはずで、「業者が勝手にやっていること」なわけがないし、そういう言い逃れはできない。
さらに、おそらくは韓国に駐留する米軍だけではなくどこの米軍でも似たようなものだろうし、どこの国の軍隊でもおおよそこんなものなんでしょう。日本でも「基地の街」の人は、この種の問題を切実に感じることは多いはずだ。
ただ、こういうことを書くと、慰安婦問題と絡めて政治的に利用してくる連中が必ず出てくる。
たとえば、右翼は「韓国政府と交渉して売春宿を基地の近くに設置することを容認していた米国が日本の慰安婦問題を批判できるのか」「韓国はベトナムでなにをやったんだ」等々と開き直りだすだろう。日本を慰安婦問題で批判できる権利のある国なんぞないかもしれない。しかし、「みんな悪いことをやった」からといって「自分がやった悪いこと」はなくならない。必要悪として売春施設を基地や駐屯地のそばにすえるのは理解できるし、あるいはやむを得ないと私も思うが、だからと言ってもろもろの罪は消えてなくならない。
他方で左翼には、他人の不幸を自分たちの言説に利用しないでくれ、正義の依代にしないでくれと言いたい。これは慰安婦問題に限ったことではなく、左サイドの人たちは戦争問題を常に右翼叩き・権力批判の「ネタ」としてしか利用してこなかった。
本来、広く一般的に共有されていたほうがよい認識を左翼は「ネタ」としてしか利用しないので(彼らはそれを否定するに決まっているが)、もちろん右は右で議論しても譲らず、結局は右翼と左翼の党派の議論に堕してしまい、それなりの認識が広く共有されるという肝心のことができず、いかに史料・資料を立派にそろえても、不毛な結果にしかならない。そういうことが多すぎるし、そういう場面を何度も見てきた者の一人としては、もううんざりしている。(ちなみに、私自身はどちらかといえば中道右派だろうと思っているんだが)
右翼にしろ左翼にしろ、この人たちは単に自分のために、自分たちの政治的言説のために、売春婦を利用しているにすぎない。もし彼女たちを自分と同じ人間だと思っていれば、あんな態度がとれるわけがない。つまり、彼女たちを同じ人間だとは本当には思っていないのだろう。
ここで私がいつも言いたくなることは、
慰安婦の女性たちに、現在でも兵士たちのために体を売る女性たちに、売春婦や風俗嬢たちに、なんでもっと素直に「ありがとう」「ごめんなさい」という一言が言えないんだろう
と。
慰安婦問題それ自体は過去の問題かもしれないが、しかし同種の問題はただ今現在でもあるのであって、だからこそ、いろいろ口先で弁じたてる前に、まず素直に頭を下げることが大事なんじゃないのか、と私は思う。講釈はそれからにしてほしい。
たぶん、本来政治的に扱ってはならない問題を救う唯一の方法はそれしかないし、外交のような難しいことはよく分からないが、他国からの批判を封じるにもこれしかないと思う(それでも批判し続けると赤の他人からはたいていアホに見えるもんだ)。そして、日本から米国からアジア諸国から、みんな売春婦や風俗嬢にちゃんと頭を下げるしかないんだろう。
・・・でも、そんなこと、どうせ誰もできやしないんだ。彼女たち売春婦を本音では見下している人間が大多数だから(日本人に限ったことではないと思うが)。だから、感謝と謝罪の言葉とともに素直に頭を下げることが癪に障って、みなで一斉に屁理屈をこね出すんだろう?
サイテーだよ、サイテー。
お前が読みたがってるような暗い漫画じゃねーんだよと言われたらそれまでだが、俺もおんなじこと思ってた。
じゃあ今はなんなの?
「血なんかFuck!」
が初期テーマだったよな?
それがナルトであり、ハクであり、ネジであり、リーであり。
里の住人だって、一族がなんちゃら才能がなんちゃら、本家が、分家がっと、とくだらないことばっかり言ってばっかりでさ、罪人の弟だとか化け狐の依代だとか、本人がどうしようもないことを影で言うクズどもだったよな。
そういうクズ親どもとそっくりな、嫌なガキどもの間で育ったって話だったじゃん。
そこに、「力こそ全て。お前は無価値なんかじゃない。」
とささやく大蛇丸、ザブザ。
それにそそのかされ、ダークサイドへの誘いに乗ってしまうかどうか。
そういう漫画だったよね。
「一族一族うぜぇ」っと言わんばかりに。
あの感覚すげぇわかった。
一族のしがらみやつながりを全部すて、ただ高みを目指す求道者、一族殺しも、弟を復讐者にするのも、ただ高みを目指すため。
っていう当初の設定のほうがよかった。
で、第二部。
結局血かよ。
里のみんなに愛されて、パパママからも時空を越えて愛されて、化け狐とも仲良しかよ。
承認欲求なんかもうみちみちてるだろ。
手に入れたいものは既に手に入れてる。