はてなキーワード: 依り代とは
俺も同じように疑問だったんだけど数年前やっと気づいたので、
もし君も同じ疑問を持ってたら助けようと思う。
人間の基本的な性質、この場合脳の仕組みとか心の仕組みとかは変わらない。
人間には集合的無意識が存在することを証明した有名な実験として、
ブーバ/キキ効果、Bouba/kiki実験というものがある。
これは色んな社会、年齢性別、ときには他と交流のない未開の地域にて
「どちらがブーバで、どちらがキキか」と問うたところ、
98%で「曲線図形がブーバで、ギザギザ図形がキキだ」と答えが返ってきた。
これはいかなる言語体系でもブーバが丸い曲線図形で、キキがギザギザ曲線をイメージした解答が得られた。
つまり人間の持つ、ハードウェアとしての性能は人種や文化問わず、実は一様にして同じなのだ。
そうすると当たり前の話だが歴史の中で同じような状況に同じ性質を持つハードウェアが置かれた場合、
本人が意図せずとも歴史において過去あったことと同じことをなぞろうとしてしまうのだ。
だからこその「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」のだ。
歴史は人間のハードウェアが引き起こす問題や失敗を既に体験している。
自分が歩いた道が誰のものでもないと思うのは幻想であり、実際は似たような、まるで同じ体験を歴史は既に繰り返している。
だからこそ多くの歴史を学ばない者たちは、過去の歴史と同じ失敗を繰り返す。
心の未解明問題について脳という器官の特性についてのハードウェア問題、物理的現象が確認できない意識についてのソフトウェア問題と分けられるが、
俺は人間の寿命による経験という蓄積の消失を人間のハードウェア問題と呼んでいる。
でも人間は進歩してきてるのではないか、と君は反論したくなるだろう。
先ほど述べたように、人間はハードウェアとして経験と性質を引き継ぐことができない。
いくらDNAに多くの情報を記載することができたとしても経験を産まれた子どもに転移させることはできない。
ところがソフトウェアである学問、つまりはテクノロジーは人間のハードウェア問題を超えて引き継ぐことができる。
そう。
人間は文字を発明したときから他の生物と全く別の道を歩み出す。
ソフトウェアとしてのテクノロジーは後世に伝え続けることができ、寿命がなく、永遠に進化し続けることができる。
文字として理論や技術は残され、誰もがそれを参照・学習することができる。
誤りがあれば訂正され、さらに合理的・効率的・革新的理論により進化を進める。
人間は既に生物的な進化を終えていて、進化はテクノロジーに引き継がれた。
人間にとっての子孫とは、テクノロジーを進化させるための、ただの薪に過ぎない。
芸術もまた学問ではあるが人間の集合的無意識において働きかけるものであるため、
時代を変えて同じような音楽や絵画が溢れてしまうのは当然のことと言える。
テクノロジーによる補助なしでは達成されないものとなってきた。
これも人間の心というハードウェア自体が進化していない証左である。
結論に戻るが、
人間は死を持ってして、経験という名のハードウェアとしての蓄積を終了させる。
歴史を学ばないものは人間の集合的無意識に沿ったいつかの時代の誰かの失敗を繰り返す。
そのため歴史を学ばないものが大多数の社会は、また同じ過ちを繰り返す。
唯一、人間の進化を代行してきたテクノロジーのみ、過ちを繰り返さず前に進むことが許された。
人間が文字を発明し、進化を委託した瞬間から、人間は生物的進化をしておらず、
故に歴史は必然的に繰り返されるものとして記録され続けている。
しかし成長・進化しない人類という種によってテクノロジー自体も妨害なしに進化し続けてきたとは言い難い。
またどれだけ優秀な頭脳を持つものが現れても死ねばそこでおしまいだ。
だからこそ、AIがシンギュラリティを引き起こすと信じられている。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
夜は暗いので爪を切るのは危ないという話の名残りという説もあるが、あれは嘘だ。
なぜそんなことをするのかというと、爪を瓶いっぱいに集めることで事実上の人間が出来る。
つまり強力な依り代となるわけで、悪用方法はいくらでも思いつく。
だから爪はしっかり管理するかすぐさま処分するべきなのだが、夜に爪を切った場合在り処が分かりづらくなる。
そう、君も薄々気づいているだろうけれど、爪を切った際に時たま高速で飛ぶ現象はその「爪を瓶詰めしたいモノ」の仕業なのだよ。
視界から外れることで見失っているように感じるかもしれないが、幻覚を見せているんだ。
そうすることでまんまと爪を瓶に入れていくわけだな。
リソースには様々なものがあり、オリバー、トンカツ、情報、ハンバーグの具材として使われる。
作業が単純であればあるほど、そして長時間続くと、どんどん深遠に行き戻ってこれなくなる。
君が若いころにした過ちの一つや二つや三つや四つ思い出したあたりになると、いよいよ危険の合図なので気をつけたまえ。
やはり一番の対策は、そういう単純な作業を繰り返す過酷な仕事は選ばないことだな。
私は学生時代、光るランプの前でスイッチをカチカチする仕事を一日3時間ほど、およそ一ヶ月かけてやった経験があるが、あのときと後の傭兵時代とどちらがマシかといわれると悩むところだな。
実戦で使った事もないのに、知識ばっかりあってそれをひけらかしたくてしょうがないんだろうね?
でも面接官(=社会人)が周りにいるのによくそんな恥ずかしいことできるよね
例えるならパン焼いた事もないくせに、パン職人の前でオーブンの温度についてぐだぐだ語っちゃう感じ?
で、そういう意識高い系の奴に限って仕切りたがるんだよね
人が話してても割り込んで自分の話にしちゃうし、専門用語使い出してドヤってる。
誰でもネットで身につけられることをちょっと知ってるからって、みんなよりすごく頭いいと思っちゃうんだね
意識高い系(笑)さんはみんながバカに見えるから、他人がいくら意見を言っても取捨選択してグループディスカッション進めちゃうのね
周りの人間を好きに使う個人ワークだと思ってんのかな?
またアホみたいに仕切ってドヤって人の話聞かないでリーダーシップ発揮したと思ってんのね
「お前、パン焼いたことあんの? というか、もっと聞く耳持たないとダメだよ」
って言っちゃったんだよね
止める人間もいないから内容のレベルも低すぎてどっちにしろ終わるし
死ぬならお前も道連れだみたいなね
人の話聞いてない自覚はあったのかな?
なんとか持ち直そうとするけど、前提からもうだめだから内容もカスで終わったわけ
まあそれで終わって、そのあとめっちゃ意識高い系君がイライラしてるんだよね
なんか睨んでくるし
まあ落ちたと思うけど、自分を否定されたからって睨んでイライラアピールするようじゃ多分社会に出ても苦労するんじゃないかなと思った
ばあちゃんとか母親がいつまでも食べ物を山盛りエンドレスで出すのは愛、みたいな風潮どうにかならんの。
少なくとも、もうお腹いっぱいだからいいよ、って言われたら止めるのが思いやりだろ。
例えその「いいよ」が遠慮だったとしても、相手の主張は尊重しろよ。
相手が拒否してんのに自分がそうしたいからっていつまでも食い物責めにすんのは、どう考えても相手に対する愛よりも自分が満足したいエゴが勝ってるんじゃないの。
もてなしってのはさ、まず自分のことは二の次で、相手が心地よいと思える状態を作り出すことじゃん。
高級旅館とか一流レストランとかで、客がもういいって言ってんのに食事を出す手を止めないとか、客がまだ寝ないっつってんのにフトン敷き出すとかありえないよね。
なのにそれがばあちゃんや母ちゃんだと許されちゃうのはなんでなの。
ばあちゃんは自分が昔ひもじかったから、孫には同じ思いをさせたくなくてつい沢山ゴハンを出してしまう、って推測はわかるよ。
でもさ、孫はそんなにひもじがってないわけよ実際は。ばあちゃんのその願いは時代が達成してくれてるの。そしてばあちゃんはボケてなければそのくらいのことは理解できるはず。
だから、もしばあちゃんが上記のような理由で孫相手にゴハンをエンドレスしているとしたら、それは孫のためを思っている以上に、孫を依り代に自分の過去に復讐しているに他ならないと思うわけだ。
果たしてそれは愛か? 思いやりか? と。
愛ってのは、本当の意味で相手を思いやることだろ。
自分の基準にしがみついて、思いやりという錦の御旗で武装して、逆らえなくなった相手を好き放題にすることじゃないだろ。
愛してるなら相手をちゃんと見ろよ。話を聞く姿勢を持てよ。想像する手を抜くなよ。
食べきれないほど出されてやっぱり食べきれなかった孫が、そのたんびに申し訳ない思いをして自分を責めてるんだぞ。
まさにあれだ、AVを鵜呑みにしたアクロバティックなセッ○スで彼女も喜んでると信じて疑わない独りよがりバカと同じだ(台無し)。
盲信的な反原発主義の人々は、科学的な知識があるかどうか以前に、
-お互いの相容れない部分について、冷静に話し合えるか
自分にとって不利なことを言われると、議論のすりかえをするかコミュニケーション遮断するかのどちらか
こういうのは、典型的なコミュニケーション不全で、彼らには「他者」が存在しない。
更に、盲信的の、「信」の内容について
ゼロリスク信仰、という言葉が生まれたように、善悪の中間を受け入れられない人が多い
この辺は、おそらく心が弱いゆえだろうから、責める気はさらさらないが
こういう「症状」は、一定以上「その他大勢」の社会との接点が失われている人に出やすい症状。
いわゆる左翼人はもちろん、そのもっともステレオタイプなサンプルだ。
また、子供のいる主婦で盲信的反原発主義に罹患してしまったというケースでは
子供への影響を恐れることだけでなく、子育てによる社会からの隔絶という隠れた病理がありそうだ。
いわゆる「生きにくい私たち」ってやつ。
原発事故によって、安心してのんべんだらりと「私って生きにくいの」をやってることができた人たちが、魂の危機に瀕しているわけだ
この二つの社会的な症状は、表と裏の関係というか、鶏と卵ではないが
だいたいのケースにおいて、両方発症してしまっている人が多い。
「他者が存在しない」からこそ、結果的に社会から孤立しがちで、「生きにくい私」が出来上がるのか、その逆か。
どっちにしろ、彼らにとって反原発は、ちょうど良い「依り代」ができたってなもんだろう。
その弱さを否定するつもりは全くないんだけど、何しろコミュニケーションが成立しないのが、身近にいると本当に困るね
あとあれだ、反原発関連で、左翼の金回りが良くなってるらしくて
反原発以外の色んな社会運動(驚くほど大したことないやつで、このところお出ましはなかった)にまで
出張ってくるようになった。