はてなキーワード: 作画崩壊とは
ポケモンショックによって以降の作品に「テレビを見る時は部屋を明るくして離れてみてね」が装備された。
まさにアニメにおける黒歴史でもあり、歴史を変えた作品という意味合いにぴったりである。
作画崩壊なら『ロスト・ユニバース』の「ヤシガニ問題」や『DYNAMIC CHORD』の「ダイナミック作画」、『銀盤カレイドスコープ』の「アラン・スミシー騒動」もあるが、「キャベツ」による作画崩壊は一番業界に影を落としたと言われている。
またこの作品は「エロゲ題材のアニメは何かとクオリティが良くない」という風潮が目立ち始める。
UHFとはいえ地上波で放送中止へと追いやられた作品。 『ヨスガノソラ』と併せて「地上波で放送できるエロのレベルは『ヨスガノソラ』以上で『異種族レビュアーズ』未満」というフレーズが出来てしまう。
クラウドファンディングをして大失敗した例として挙げるべき作品の一つ。
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では、原作者と製作者での食い違いが起き、原作クラッシャーが起きた。
うる星やつら以上の原作クラッシャーを起こしたアニメに対抗して、放送終了後に謎のアニメ版がYoutubeでアップロードされる。
初代ガンダムって今観ても神がかってるんだよなあ
作画とか枝葉末節にこだわる人にはお勧めできないけど、まず一話が凄い
一話の演出が、シナリオが、作りこまれた設定や世界観が、モビルスーツの巨大さを表現するアオリ構図が、
今となっては当たり前の表現がすべてここに詰め込まれているし、今になっても当たり前になってないのは、
初代ガンダム一話の無駄のなさ、まったくといっていいほど無駄がない、
これから始まるであろう作品に絶対必要となる道具、登場人物、世界観、設定、技術、あらゆるものが詰まってる
はっきり言って、初代ガンダム第一話は教科書に載せるべきレベル
安彦氏の描く、ぐにゃりとしなるロボットによるダイナミックな動き
そして、青葉区での最終決戦まで話は飛ぶ
その間の話は、当然物語に必要な要素も多くあるが、単なる時間稼ぎのようなくだらない話も存在する
そんな枝葉末節をあげつらって、ガンダムが喋ったwとか、作画崩壊wとか、くだらない話である
というか、劇場版での安彦氏による描き直しでさえ、もうかなり今でも観ても十分耐えるどころか素晴らしいものがある
結論を急ぐと、ZやZZはオチがショボい、盛り上がりに凄い欠ける
初代はアバオアクーがあった
最終激戦地という設定が、嫌でも視聴者を盛り上げた、生身でのアムロとシャアとの宇宙でのフェンシングの一騎打ち、
そして、最後には自分にも帰れる場所があったんだ、という全面的な自己肯定感で満たされる主人公
正直言って、初代ガンダムが富野氏の頂点だったと自分は思ってる
つまり、今度は自分で取ってしまった頂点を、更に越さなければならなくなる
自分で最強の敵を生み出してしまい、更に次でその敵を倒さなければならないのに、最強なだけに倒せないのである
ZやZZにはアバオアクーのような舞台が設定されておらず、盛り上がりに欠ける
富野氏自身、なんというか、もう物語全体を盛り上げることより、シャアという人物をどう描くかばかりに固執するようになっていく
初代ガンダムで実現できなかったリアルさ、未来の技術の設定はZの方が格段に上であり、
ZはZで、第一話のリックディアスの地面擦れ擦れの飛行、全天候型スクリーンなど、とにかく設定は盛りだくさんであり、ディティールは格段に上がった
でも、初代ガンダムにあった、ものがたりのようなものは失われ、よくわからない政治描写に煙に巻かれたり、無意味な暴力シーンがあったり、
これって単に現場の苛立ちが作品に反映されただけなんじゃないの?と思わせられるぐらいだった
Z以降には、黒い三連星だの、マチルダさんだの、そういったものがたりっぽいものが失われている
そういった、誰もが観て、共通に語れるような要素がなくなってしまっている
大人はみんな難しい顔をして、複雑な政治に奔走し、かといって、やたらに他人を殴るし、姿は大人なのに、行動は大人のやることじゃない
・新しい上司はど天然
なんとなく見始めて結局最終話まで視聴。悪くなかった。
ほんわかとしたコメディで、男でも楽しんで観れた。
天然ボケの癒しは良かったし、あと杉田演じる上司がウザ絡みしかしてなくてワロタ。
・アンダーニンジャ
予想外の展開ばかりで先が読めず、世界観の設定も想像以上に緻密な感じ。
終盤の展開は賛否両論ありそうで、個人的にはあまり良くなかったと思う。
奇をてらい過ぎていてアングラ感も著しい。
ほぼ何も知らずに視聴し、最終話まで。
あとアンディが男前で、これは男にも好かれるタイプの主人公だわ。
物語としては伏線らしきものが多く、未だ明かされていない面が多いといった印象。
シリアス、ギャグとバランスよく感じられたもののマンネリ感も否めない。
それでも最終話はやはり熱い。
王道スポ魂漫画のような作画の迫力は印象的で、観客同様熱くなって観れた。
良作。
・陰の実力者になりたくて! 2nd season
一期目を見ていたので続けて視聴。
正直他のなろう作品とあまり変わらないように思えていたけれど、ジョン・スミス編は想像以上に良く出来た話だった。
ただ基本的には俺TUEEEの極致を行く作品なので戦闘シーンは逆に退屈だったりする。
所々のボケが快く、ツッコミに真・昇竜拳(スト6そのまんま)を使っているのにはワロタ。
主人公は彼女を不安にさせないため常に正直者で居続けるのだけど、正直だからといって誠実であるとは限らないことを教えてくれるアニメでもあった。
人気小説らしい。
ミステリー系ながら謎を解くことを第一の目的にせず、謎を解いた後の状況を考慮して行動する点が良い。
個性的なキャラクターも皆魅力的で、人気あるのも納得の作品だった。
それにしても最近急に後宮を舞台にした映像作品が多くなったような気がするんだけど、なんでなんだろう。
一応最後まで視聴。
ふーん。
なので何も知らない状態で視聴。
基本的にはフルダイブ型VRゲームを題材とした作品で、しかしながらリアルの部分もちゃんと描いていたのが印象的。
クソゲーマニアの主人公が神ゲーに挑戦することで主人公らしいイレギュラーを起こしていくのは王道的ながら安定して面白い。
世界観の創り込みも特徴の作品らしく、作品内で登場するゲームは他にも色々とあるらしい。
ただちょっと調べるとファンの熱量がすごくてちょっと怖かった。
面白かった!
SF、特にタイムリープ系の作品が好きなので期待して視聴していた作品。
中盤に見られた旧パソコンでの技術はロストテクノロジー的な感じで、面白かったし勉強にもなった。
後半につれて規模が大きくなり、これ…広げた風呂敷をちゃんと畳めるのか?
いやーっ、面白かった。でじこも出たし、最後まで観て良かったです!
コノハチャン、カワイー!!
非常に面白かった。
ストーリーが良いのはもとより、アクションシーンが本当に凄かった。
劇場アニメ並みの戦闘シーンばかりで、よくこれを週間で作れたな!?と驚愕するレベル。
というか今のアニメの戦闘シーンって、こんなに凄いんだ…と実感できる作品。
あとストーリーも非常に良い。
原作読んでないので、今期の中では続きが一番気になった作品だった。
・Dr.STONE 第3期
好きな作品なので一期からずっと視聴していて、この3期目も視聴。
感想としては…うーん、どうなんだろうね。
頭脳戦的な見どころは多かったものの、”裏の裏をかいている”というよりは最初から結末を用意していて、それに向かってただ真っ直ぐに進んでいる予定調和的な感じも否めず…。
みたいな、最初の方に比べて驚きが少なくなったような気がする。
あと科学を謳いながらも、結果的には超人的なマンパワー頼りになるのはどうなんだろう。
好きな作品で期待していた分、辛口になってしまったかもしれない。
後半は作画が怪しい箇所が多く、ネタ枠になってしまったのが残念。
それでもジェスだけは作画崩壊なかったように思えるので、制作側の熱い拘りが伺える。
・僕らの雨いろプロトコル
妹ちゃん回だけ視聴。
ここを主題に据えていれば覇権もワンチャンあったかもしれない。
特に表情が秀逸だった。
・ミギとダリ
これは予想外に面白くて、想像以上によく出来た作品でびっくり。
おすすめ。
気付けばクロウカード・さくらカード編よりも長くやっていたクリアカード編が終わった。
時は流れた。BSプレミアムも無くなった。
旧作から作業環境は変わったようだが、現役バリバリといった感じで新しい表現も取り入れていたし、若さに任せたような、心配になるくらいの話の広げ方をしたし、それでベテランらしくしっかり纏めたのだから、やはり非凡としか言いようがない。そりゃ令和なかよしで無双する。
CLAMPの世界はスター制度とパラレルワールドなので簡単にややこしいことになるのだが、なかよし✕木之本桜という精錬潔白感で世界のある一定ラインをギリギリ超えずに保ってる感じも良い。
CCさくらはクリアカード編に入ってからもうずっとややこしいことをしていたのだが、大衆と相性がいい理由はそこだろう。
こんな時間に投稿しているが、今日いっぱい最新話以外無料で読めることにさっき気づいたので取り急ぎの投稿だ。
是非旧作を知っている人は読んでみてほしい。
そこに「カードキャプターさくら」はまだあるのだ。
あとツバサとホリックの原作見た人も読んでください。頭を抱えます。
ちなみにアニメ第二期が決まっているのだが、
マッドハウス、葬送のフリーレンのマッドハウスとして時の会社になっているが、CCさくらはマッドハウスのアニメだ。
マッドハウスがクリアカード編のアニメにあまり力を入れなかったこと、作画崩壊を起こしたことは絶対に忘れない。
正直、いまの技術水準で言えば、手塚治虫のマンガのレベルはどれぐらいだろうか?
断言して言うが、決して高くないと思う。
開祖ではあるかもしれない。しかし、神として崇めるのは無理だ。
誤解しないでほしいのだが、人物として偉大だったと思うし、すごい人だったとも思う。
日本のストーリー漫画は手塚治虫先生がいなければ、別のものになっていたということは理解している。
その上で、作品を読んだ上で言うのだが、源流ではあっても神ではない。
例えば、他のジャンルに置いて大山倍達は近代フルコンタクト空手の開祖だが、その技術レベルは、果たして現在の格闘技レベルにおいてどれぐらいのものだろうか。
決して高い水準にあるとは言えない。
しかし、その弟子から派生した近代空手、総合格闘技の歴史において大きな存在感がある。
その発展に、意味があるのであって、神格化することには違和感を感じずにはいられない。
尊敬していないわけではない。当時にすごいことをやっていたということは感じる。
ガンダムなんかも、名作だと言われるが、たしかに名作だったと思う。
しかし、いまの技術レベルで見ると正直作画崩壊のように感じられるし、キツイと思う。
水星の魔女について、中学生は普通に楽しめるが、現状、ガンダムを見る場合「古典として、色々我慢して、視聴する」必要がある。
手塚治虫先生の作品は、時代の流れを超越した存在か? と言われると、決してその水準ではないと思う。
過去に対するリスペクトを神格化という形で創作者にやるのは、なんか違和感を感じている。
ラーメン再遊記の塩匠堂のような扱いをしているのではないかという気持ち悪さを感じる。
近年、創作は極めて大きな発達を遂げている。その面白さの水準に、過去の手塚マンガは残念ながら達していない。
しかし「漫画の神様」というフレーズは、違和感を大きく感じる。
羽生会長のこのインタビューを見た後だと、余計に違和感を大きく感じる。
Aさん「ひょろひょろしてる主人公とかダメだ、男らしくあれ!」
Bさん「冴えない主人公とか駄目、叩き上げかプロフェッショナルにしろ。」
Cさん「ギャルとかメスガキとかもういい、綾波属性かカータレット(ゆるふわ)属性のメインヒロインにしろよ」
Dさん「固定カップルとか甘すぎる。正妻戦争という厳しき愛を視聴者に超教しろ。」
Eさん「ヒロインレースとか胸糞悪い。マルチエンディングかオムニバスにしろや」
Fさん「青虐や奈央いじめなんだろ?どうせ」
Iさん「ほのぼのしたのがいい」
Lさん「何事も程々に」
Nさん「野郎野郎然したのやモブ顔とか大概にして、男の娘みたいなの出せ」
Pさん「ラブコメどころかファンタジーラノベですら過去回想中学校の学生服が男女共にありきたりすぎる、もう少しパターン考えられないのか」
Rさん「服装がどうだろうと面白さとかと直結する訳ないでしょ?君ら」
Sさん「なんか帽子かぶったキャラがサブキャラ扱いされるのとか何故?」
Tさん「腕まくりとかのキャラもなんか少なく感じるような...」
Uさん「次のV・Wさんの言うことが怖い...」
Xさん「おいやめろ、おまえのその2つはフェミポリコレならぬマスキュリズムポリコレを生み出すことになるぞ!」
(Xさんが止めに入る前にあった発言)
Vさん「はっきりいって男性版ブルカだよ。 学ランのボタン閉めてる設定だとか」
Wさん「女子はカラフルな制服とかカーディガン着崩しとかあんのに。」
Yさん「もう収集がつかなくなる、ならお前らがそれぞれ作れよ」
いや具体的には呪術とアンデラと鴨嘴ロンなんだけど。
なんというか、遅い。テンポが悪い。
アクションシーンがモッサリしている。
シュールっていうか淡々としてるというか盛り上がらないというか…。うまく説明できない。迫力がないのか?
中割りでグニャッてしてるとこを抜き出して作画崩壊だの騒ぐキッズが多いから慎重になるのもわかるけど、こりゃ倍速で見たくなるのもわかる。
それとも世界が俺のスピードについてこれないのか?そりゃ参ったな。フッ
フリーレンは元々淡々としてるのが味だから別にいい。むしろ癒される。んだけど、OPの選曲がヘン。なんであんなにチャカポコしてんの?
とにかく俺がおかしいのならそう信じたい。メンタルが不調なのは否定しない。
呪術なんか顔ドアップ口パクの紙芝居だし、アンデラとか声優の演技に頼り切った朗読劇だし(主演の新人すごいね!こりゃビッグになるぞ)、ロンに至っては密室で野郎2人が延々と寒い漫才してるだけ。見るに耐えない。チェンソーマン臭がする。
もーーーーなんなのーーー楽しみにしてたのにいいいいいい
え、これみんなは普通に楽しめてるの?だったらいいんだけど。それなら何よりだ。ここ数年のクオリティが異常だったから耐えられただけで、俺よく考えたら元々落ち着きがなくておとなしく座って映像見るのは苦手だったんだよな。ガキの頃から。黙って原作を読むことにするよ。
このまとめ https://togetter.com/li/2223212 の反証みたいな内容です。まとめが気になる方はすっごい長い上見ずらいのでコメント欄をざっくり見てからこれをお読みください。
まず、結論から言ってしまえばシステム的にも内容的にもタテスクウェブトゥーンは日本の漫画サイトに太刀打ちできないし、内容もなろう以上のテンプレートの嵐なので薄いです。もちろん面白いのもあるけどね。
大手であるピッコマですら一日に一回システムにブチギレるくらいにはUIに不便なポイントがあります。漫画の画面すぐに閉じさせろ、頼むからUI出すのに必要なタップがにぶちんなのなんとかしろ、チャージ通知はお気に入り作品だけにしてくれ。
あと、そこそこ大きな問題としてはコミックの刊行スピードがなめくじのように遅いところが多いです。
完結して1~2年たってるのに電子書籍の刊行が凄まじくスロウリィで人気作にも関わらず中盤までしか電子書籍になってないものがあったりするくらいです。早く出せ。
作品の内容的にも本国の内容規制の関係もあると思いますがテンプレの嵐が凄まじく、具体例をあげると魔塔主、回帰、神仙、ソードマスター、オーラ、復讐、離縁、虐待描写、俺だけ最強、読んでいた本あるいはゲームの世界へ転生……このあたりの内容が小説家になろうのテンプレ小説以上に設定にひねりもなくストレートに出てきます。
なので、「これ、前にも読んだな」がわりと頻発します。ここのソードマスターとここのソードマスター、出版社も原作者も違うのに設定コピペ並みに一緒やんけ!がよくあります。
韓国出身のキャラをローカライズ先の国の出身にした結果どうしようもない齟齬が発生したり、舞台をローカライズ先に変更した結果どう考えても違う文化でしょと言った雑なローカライズの結果作品が崩壊しているケースは多々あります。
その他に凄まじく安定しない見ていて不安になるレベルの作画崩壊は日常茶飯事ですし、3D素材がなんかおかしなことになっているものありますし、色塗りがなんか変というのもよくあります。ちなみにこれは国産の特にフルカラーのタテスクウェブトゥーンでもよく見られる現象です。
総じて粗雑乱造が多く、作品の購入や閲覧に問題を抱えた中韓タテスクウェブトゥーンは発展途上にあると思われます。
じゃあ、ピッコマとLINEコミックの売上ってどういうことの?と言いますと電子書籍の巨人であるKindleがアプリでの決済が出来ず実質締め出しを食らっているからです。
それに加え、双方ウェブトゥーン以外にも一般的な漫画雑誌やコミックス、小説なども販売しており、お手軽さも相まってかなりのシェアを誇っていると思われます。
ただ、課金UIがちょっとお粗末なのでKindleがアプリ決済の締め出しから開放され、本格参入したら厳しいかもしれません。
タテスクウェブトゥーンの宿命の一つとして、スマートフォンと運命共同体であることを決して忘れてはいけません。
小さなスマホの縦画面で親指を縦に動かすだけで読める娯楽というのが大半の読者層の考えでしょう。自分もそうです。
しかし、タブレットの軽量化による複数台持ちやAR/MR技術の発展はたやすくそういった娯楽を過去の物にしていくでしょう。
ページを横に捲っていく漫画は人類が滅ぶまでまず変化することのない書式という文化に沿って100年以上に渡って成長してきたもので、同じ書式に縛られたパソコンと合わさり、ウェブ漫画という文化が生まれ、そこからスマートフォンという文化が合流し、タテスクウェブトゥーンは生まれました。
生まれて10年少々のこれから変わりゆくだろうスマートフォン文化に根ざしたタテスクウェブトゥーンは正直に言って文化としての基盤が軟弱で、スマートフォンに非常に寄りかかった存在です。
かつてスマートフォンがフューチャーフォンを追い払った時のようにいつかスマートフォンが追い払われる日も来るでしょう。
そうなった際に上手く移行出来るようにするというのがタテスクウェブトゥーンを出版している会社や、アプリ運営会社の宿命であるかもしれません。
該当の記事内ではジャンププラスやマガジンポケット、マンガワンの売上が取り上げられていましたが彼らの主戦場はピッコマやLINEコミックとは違い、国内一本に熱心な海外ファンが少しと言った所です。特にジャンプは海外向けの別のサービスも展開しているので国内で見える売上と海外での見えない売上の合計は全く違う数字になっているでしょう。私怨にじみ出てるけど職場でなんか喧嘩別れでもしたの?
質も国産漫画として見ても問題なく、コミックの刊行ペースは掲載ペースに対し平均的ですし、物理書籍で出る単行本も非常に多いです。
先程は触れませんでしたが、ウェブ漫画全般においてサービス終了や出版社の廃業は作品が失われる可能性が非常に高く、そういった面で大手出版社が物理書籍を出してくれているのはコレクション的にも作品の保管的にも非常にありがたいです。
更には海外で翻訳され、物理書籍で刊行されているものもたくさんあります。
何が言いたいかと言うとアプリケーションでのセールスランキングだけでこれらの国産漫画アプリの売上を語ることは一切できないということです。
このままでは取り残されるのは明らかにタテスクウェブトゥーンの方でしょう。
記事のもととなるポストをした人物はピッコマやLINEコミックに漫画の出稿行っている会社の運営で、拡散するようにポストしたのはその会社が出稿している漫画の著者です。
更に、出稿されている漫画も実際に拝読しましたが、散々中韓タテスクウェブトゥーンで見たテンプレをなぞっているものばかりで、元のポストからして公平性を欠くものとなっています。
運営している会社のサイトにコミックの電子売上のランキングが掲載されていますが、何年何月のものであるか掲載されておらず、信頼性の低い情報かつ、ランキングを重く見ていることがわかります。
調べれば書いた方の履歴および言動はいくらでも出てくると思いますが、彼の発言はかなり自身の美化に偏っており、サンデーの大量打ち切り事件や、非常に大きな問題となった金色のガッシュ!!の原稿紛失事件の裁判時に編集長であった人物であると自ら語っています。
このあたりに関してはかつての古巣であるガンガン編集部がわりとアレだったことも影響しているとは思いますが、ほぼ同じことを繰り返しかけているあたり、「売れるためなら漫画家に負担をかけてもいいし、管理はずさんでもいい」と言う思考が見え、「ああ、だからあの作品打ち切ったし、粗雑乱造が良しとされるあの界隈を支持するんだな」と思いました。
なのであのポストに関してきちんとした数字やデータに照らし合わせれば多数の矛盾点と自画自賛が浮かび上がると思われます。筆者は面倒になったし、間違いだらけだよという主張は終わったのでこれ以上深掘りはしません。
ピッコマやLINEコミック、comicoでは漫画家の億万長者はほとんど増えません。
結局メディアミックスが物を言います。なのでちゃんとした出版社で書籍出すのが一番安定します。
近年Netflixでウェブ漫画のアニメ・ドラマ化が続いていますが、ああいったものは作品のファンが企画書を出しており、全て非常にクオリティが高いものとなっています。
タテスクウェブトゥーンの中にも映像化したものがありますが、そういった作品はかなりの上澄みの中でも更に上澄みという作品ばかりで、その殆どが会社のチーム制での制作なので漫画家本人に入る金額はそこまでありません。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
「洗濯機の調子が悪くなり始めたので、試しに洗濯板を使ってみた→イメージしてた使い方と全然違って驚いた」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2188096
要するに洗濯板に擦り付けるのではなくて、波板の上で布同士を擦り合わせ揉み洗いするのが正しいという主張だ。
それに対して「ゴシゴシするものだと勘違いしてました」とのコメントが並ぶ。
いやいや、擦り付けで正しいのではないか?
というのも、昭和の2槽式洗濯機には小さい洗濯板が付いていたものがあったからだ。
脱水槽の蓋が閉まっててチラとしか見えないのが残念だが、これを見て欲しい。
https://www.kajitaku.com/column/dry-cleaning/3331
洗濯槽と脱水槽の間にギザギザが見えるだろう。これは洗濯板で、がんこ汚れをここでゴシゴシするためのものだ。ここで揉み洗いというのはナンセンスという事が判るかと思う。
これは上から下まで全面に凹凸が入っているが、もっと多かったのは洗濯槽右下の隅切り部分に斜めにチョットだけ凸凹が入っている形式だ。靴下とか襟とかを擦り洗いするのに適していた。
厨房などでは未だに2槽式洗濯機の方が人気がある。どのみちそばにずっと人がいるから移し替えも気にならないし洗濯水を使いまわせて融通も利く。更に水場においても壊れにくい。
更に昭和の日本製家電というのは耐久性が今から見ると異常でオーバークオリティなほどで、水場に置いて家庭の使用頻度の10倍くらい酷使してるのに30年以上持つというタフさである。
折れたダイヤルが平成デザインのものに交換されていたりする。これは平成洗濯機が先に壊れて昭和機の部品取りにされたという事を意味する。
だから厨房や事業所などでは洗濯板が付いた洗濯機が平成中期でも残っていた。そしてそれらの洗濯板部分は摩耗して穴も開いていた。これはこすり洗いされまくったという事だ。
因みに昭和40年代までの洗濯機は1槽式+ローラー付きだが、これにも洗濯板が付いているものがあった。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61877998
これも、この上で揉み洗いするという動機はなくて、ここでゴシゴシとこすり洗いする為のものというのが判るかと思う。
こういう補助的洗濯板が消えたのは洗剤の進化による。固形石鹸から合成石鹸へ、そして洗濯機のメインストリームが2槽式→縦型全自動→ドラム式と進化してそれに合わせた洗剤が開発されて「いちいち部分的に手洗いする」という必要がなくなったのだ。
今の時代にこういう事をわざわざやるのが金になるのがYoutubeのDIY界隈で、DIYの裾野が広大なのが英語圏なので、こういう時は英語で検索するのがいい。
https://www.youtube.com/shorts/W1KKCwEUVJc
これなども擦り付け洗いしているだろう。ほかにも沢山動画があるので「how to use washboard」で検索してみるといいと思う。だれも揉み洗いとかはしていない。
ただ、後述するが一枚づつこすり洗いしてるのは下手だと思う。
米をとぐときに水はどれぐらい入れるだろうか?米が浸るヒタヒタぐらいでといで、すすぎの時は水を沢山使うだろう?
これはヒタヒタぐらいでとぐのが一番効率がいいからだ。水が多いと米が動いてしまってとぎにくい。水が少ないと米表面がこすり合って良くとげるのである。
容器の中を洗浄するのに小石などを使う場合も然りで水は少ない方が洗浄力が上がる。
洗濯板の上で揉むというのも同じで、水の中で動くよりも布同士がこすり合い、同時に潤滑材として機能して滑りやすい、水ヒタヒタの状態が一番洗浄力が強い。このヒタヒタを維持しやすいように凹凸はカーブしている。真ん中に水が集まり易いからだ。
この状態で一番下に布の一部を敷き、その上を滑らせる形で他の部分を動かすとこすり合わせれて汚れが落ちる。これが一般的な使い方と思われる。
なお、洗濯板を使う場合は最近主流の液体洗剤は適さないと思われる。というのも最近の洗剤はドラム式に最適化されていて泡を殆ど出さない。
だが洗濯板では泡が潤沢に出ないと滑りが悪くなってダメなのだ。下に敷いた布がめくれてしまう。布も痛みやすい。
もとスレのtogetterではマンガの描写からこすり洗いでなく両手で揉み洗いが正解と導き出されているが、マンガの描写が正確、精密になったのは劇画の流行を経てその手法が吸収された1970年代以降なのだ。
劇画の嚆矢は昭和30年らしいが、これが一般化したのは団塊世代が青年であった昭和40年代/1965年~70年代である。
団塊は「大人になってもマンガを読んでる世代」の走りだったが、それは「大人の鑑賞にも耐える」を志向するマンガが流行したためでもあった。
初期の劇画は『カムイ伝』のようにコマ割や表現が映画的/ハードボイルドで人物画は「劇画チック」というだけだったが、やがて描写が緻密になっていく。例えば最初期のゴルゴ13は背も低くマンガテイストが残っていて今見ると滑稽だ。だが巻を下るとその描写は緻密で正確になっていく。
70年代末には劇画はやがて下火になっていくが、今度は青年漫画などに劇画の手法が輸入されるようになっていった。
有名なのは手塚治虫の『ブラック・ジャック』で、「マンガの神様」手塚は、しかし昭和40年頃になると丸っこい子供向けマンガしか描けない前世代の遺物のような扱いになっていった。
そこで手塚は医学書や解剖図を読み漁って人物は丸っこい細部が緻密な描写のフィクションを作り上げ、復活を果たした。これはさいとうたかおが後に極めることになった劇画の手法である。
三種の神器と呼ばれた洗濯機が低価格化して多くの家庭に導入されたのは昭和40年前後である。
つまりマンガで緻密に作画がなされるようになった頃には洗濯板が一掃されていたのだ。
「作画崩壊」は昔は無かった。劇画の手法が輸入される1970年代末まで人物が走る時は弓線と足二本で表現された。
洗濯板も然りで板と石鹸と手と泡描いたら洗濯が表現された。劇画ではこれの表現はNGだ。そして現在のマンガは劇画ルールが導入されているのである。
こういう訳で「洗濯板の上でゴシゴシ」が正解と思われる。但し、一枚だけを凹凸に擦り付けるのではなく十分に泡立てて凹凸の上の布の上で布を滑らせて布同士を擦り合わせる。
一番まずいのは、ノンフィクションマンガなどの描写に難癖をつけて「擦り洗いはしない、揉み洗いが正解」とネットで聞いた事との相違のクレームを入れてしまう事だ。
ノンフィクションでは資料を揃えて居る事が多い。その執筆態度は劇画に始まるものであり、洗濯板が現役だった頃にはその影響がまだなかったというのが今回の誤解の原因である。
オタクは世を忍び、腐女子は隠れるべきという時代にそれらと触れ合った世代です。
幕張メッセの件やらポケモン同人誌事件、2ch(現5ch)の電車男にニコニコ動画のボカロや歌ってみた・踊ってみた。
思春期をオタク文化の過渡期と共に過ごした私は、原作は絶対であり正義であると考えています。
ただ、原作は原作として、自分の好みの話の展開、好きなキャラを贔屓したいという想いがあるのは当然だとも考えています。
乱暴に言えば、カレーのレシピにジャガイモ入れろって書いてあるけど、私は入れない方が好きって言うだけの話。
それぞれ好みがあって当然だけど、この人のレシピはこれを入れる。でも、私はそれが好きじゃないから入れない。あるいはこれの方が好きだから、こっちを入れる、みたいな。
その辺のことを理解できていない人たちが、このレシピならジャガイモを入れるはず!とか、なんでこんなもの入れてるんだ、レシピにないだろう!って切れたりしている。
二次創作が二次創作だと理解できない層は、ジャンルの人口増加とともに増えていき、統率が取れなくなるとジャンルの衰退を生む。
このことに身に覚えのあるオタクたちもいると思う。
件の赤安も、同様の過程の末に衰退期に入ってしまったように思う。
大きな分岐点だったのは、今年(2023)の映画だったと思う。
コ哀の民は狂喜乱舞、新蘭の民は怒髪衝天。
ここでよくなかったのは、コ哀の民が一般的な映画レビューサイトで、コ哀が公式かのように発言してしまった事だ。
コナンでは新蘭、コ←哀が公式で、決して二人はくっつくことはない。だからこそ、コ哀の民は今回の映画が嬉しかったのは分かる。だけど、所謂オタク構文がまかり通らない公共の場所でコ哀の発言はよくなかった。twitterやmastdonなどで発言するべきだったね。
じゃあ、コ哀だけが悪いのかというと、そうでもないというのが私の見解だ。
公共の場でバカ騒ぎをする層は、どんなジャンル、どんな分野、どこにだって一定数いる。
バカ騒ぎをしている人を諫めることはあっても、ただ好きなだけの人を探し出して攻撃するのはバカ騒ぎしている人と同じだ。
正直、拳の時の新蘭の狂い方だってハタから見たらあたおかです。
蘭はそんなことしないとか、こんなの蘭じゃないとか。
自分の口に合わなかった、好みじゃなかった。ただそれだけでしょ。
新蘭とコ哀が民族争いをしているだけだったら、私は筆を折らなかったと思う。でも、新蘭の民は赤安の民も兼任している人が多かったのが決め手だった。
そういう人の多くは、新蘭と赤安の類似性を語っていた。イニシャルが同じだとか、属性が同じだとか。
それだけなら私も「確かに~!」と同調できたけど、赤安を公式扱いし、コ哀を非公式、ありえないと否定していたことが気持ち悪かった。
だって、赤安も公式じゃないじゃん。赤井が降谷に、あるいは降谷が赤井に恋愛感情を持っていると明確に分かる表現ってありましたか? 匂わせすらないですよね?
腐女子は無から有を生み出してカップリングを作るので、あったと言ってもそれをもっと客観視してもらいたい。公式でも何でもない、ありもしないカップリングを公式扱いしている姿は、赤安もコ哀も変わらない。目くそ鼻くそも大概にしてほしい。
ジャンルの衰退を招いていることを、はっきりと認識してもらいたい。
アニメの作画崩壊は制作側の落ち度が大きいので何も言わないが、原作の展開への文句や映画への批判をしながら赤安への愛を語っている人を見ると、本当に辟易する。
作者はあなたのために話を書いているわけじゃないし、小学館は企業なので利益を出さなければならない。
プロモーションなどに関してもそうだ。自分が読者層から、あるいはマーケティングターゲット層から外れたことを自覚してもらいたい。
それでも赤安が好き、新蘭が好きなら、自分だけの、あるいは感覚が近しい人たちとの世界で楽しめばいい。なぜ態々、攻撃する相手を探して回るのか。そんなの、ただのDQNじゃないか。
私はそんな人たちと一緒にいたくない。そんな人たちと同じだなんて、思われたくない。だって、いつ自分に攻撃が飛んでくるかわかったもんじゃない。
私はそこそこ古い腐女子なので、Kコが流行った時も腐女子をしていた。
当時にもそういった過激な思想を持った人がいたけど、情報発信するツールが圧倒的に少なく、被害があまり大きくはなかった。
時代が変わり、オタクが社会のメイン層になり、情報発信が多角的で、安易なこの世界で、私の考えは古いのだろう。それでも自分が愛した物の正当性を広めるために他者を傷つけ陥れるのは、反社と何が違うのだろうか。
私は今でも原作のコナンが好きだし、赤安が好きだ。新蘭も好きだけどコ哀も好きだし、京園や平和はもちろん、Kコや平コ(新)も嗜むし、何だったらコ(新)平が好きまである。ジンバボだってバボベルだってジンベルだって、降志保どころか哀歩哀も大好きだ。
こんな民度の低い、ヤクザにも劣るような人たちの同族だと思われたくない。だから私は赤安を書かなくなった。
ただそれだけの話。
オタクは世を忍び、腐女子は隠れるべきという時代にそれらと触れ合った世代です。
幕張メッセの件やらポケモン同人誌事件、2ch(現5ch)の電車男にニコニコ動画のボカロや歌ってみた・踊ってみた。
思春期をオタク文化の過渡期と共に過ごした私は、原作は絶対であり正義であると考えています。
ただ、原作は原作として、自分の好みの話の展開、好きなキャラを贔屓したいという想いがあるのは当然だとも考えています。
乱暴に言えば、カレーのレシピにジャガイモ入れろって書いてあるけど、私は入れない方が好きって言うだけの話。
それぞれ好みがあって当然だけど、この人のレシピはこれを入れる。でも、私はそれが好きじゃないから入れない。あるいはこれの方が好きだから、こっちを入れる、みたいな。
その辺のことを理解できていない人たちが、このレシピならジャガイモを入れるはず!とか、なんでこんなもの入れてるんだ、レシピにないだろう!って切れたりしている。
二次創作が二次創作だと理解できない層は、ジャンルの人口増加とともに増えていき、統率が取れなくなるとジャンルの衰退を生む。
このことに身に覚えのあるオタクたちもいると思う。
件の赤安も、同様の過程の末に衰退期に入ってしまったように思う。
大きな分岐点だったのは、今年(2023)の映画だったと思う。
コ哀の民は狂喜乱舞、新蘭の民は怒髪衝天。
ここでよくなかったのは、コ哀の民が一般的な映画レビューサイトで、コ哀が公式かのように発言してしまった事だ。
コナンでは新蘭、コ←哀が公式で、決して二人はくっつくことはない。だからこそ、コ哀の民は今回の映画が嬉しかったのは分かる。だけど、所謂オタク構文がまかり通らない公共の場所でコ哀の発言はよくなかった。twitterやmastdonなどで発言するべきだったね。
じゃあ、コ哀だけが悪いのかというと、そうでもないというのが私の見解だ。
公共の場でバカ騒ぎをする層は、どんなジャンル、どんな分野、どこにだって一定数いる。
バカ騒ぎをしている人を諫めることはあっても、ただ好きなだけの人を探し出して攻撃するのはバカ騒ぎしている人と同じだ。
正直、拳の時の新蘭の狂い方だってハタから見たらあたおかです。
蘭はそんなことしないとか、こんなの蘭じゃないとか。
自分の口に合わなかった、好みじゃなかった。ただそれだけでしょ。
新蘭とコ哀が民族争いをしているだけだったら、私は筆を折らなかったと思う。でも、新蘭の民は赤安の民も兼任している人が多かったのが決め手だった。
そういう人の多くは、新蘭と赤安の類似性を語っていた。イニシャルが同じだとか、属性が同じだとか。
それだけなら私も「確かに~!」と同調できたけど、赤安を公式扱いし、コ哀を非公式、ありえないと否定していたことが気持ち悪かった。
だって、赤安も非公式じゃないじゃん。赤井が降谷に、あるいは降谷が赤井に恋愛感情を持っていると明確に分かる表現ってありましたか? 匂わせすらないですよね?
腐女子は無から有を生み出してカップリングを作るので、あったと言ってもそれをもっと客観視してもらいたい。公式でも何でもない、ありもしないカップリングを公式扱いしている姿は、赤安もコ哀も変わらない。目くそ鼻くそも大概にしてほしい。
ジャンルの衰退を招いていることを、はっきりと認識してもらいたい。
アニメの作画崩壊は制作側の落ち度が大きいので何も言わないが、原作の展開への文句や映画への批判をしながら赤安への愛を語っている人を見ると、本当に辟易する。
作者はあなたのために話を書いているわけじゃないし、小学館は企業なので利益を出さなければならない。
プロモーションなどに関してもそうだ。自分が読者層から、あるいはマーケティングターゲット層から外れたことを自覚してもらいたい。
それでも赤安が好き、新蘭が好きなら、自分だけの、あるいは感覚が近しい人たちとの世界で楽しめばいい。なぜ態々、攻撃する相手を探して回るのか。そんなの、ただのDQNじゃないか。
私はそんな人たちと一緒にいたくない。そんな人たちと同じだなんて、思われたくない。だって、いつ自分に攻撃が飛んでくるかわかったもんじゃない。
私はそこそこ古い腐女子なので、Kコが流行った時も腐女子をしていた。
当時にもそういった過激な思想を持った人がいたけど、情報発信するツールが圧倒的に少なく、被害があまり大きくはなかった。
時代が変わり、オタクが社会のメイン層になり、情報発信が多角的で、安易なこの世界で、私の考えは古いのだろう。それでも自分が愛した物の正当性を広めるために他者を傷つけ陥れるのは、反社と何が違うのだろうか。
私は今でも原作のコナンが好きだし、赤安が好きだ。新蘭も好きだけどコ哀も好きだし、京園や平和はもちろん、Kコや平コ(新)も嗜むし、何だったらコ(新)平が好きまである。ジンバボだってバボベルだってジンベルだって、降志保どころか哀歩哀も大好きだ。
こんな民度の低い、ヤクザにも劣るような人たちの同族だと思われたくない。だから私は赤安を書かなくなった。
ただそれだけの話。
年に1回ぐらい思い出してはまた1年忘れっぱなしになる。
最近のアニメって、朝や夕方のアニメが深夜みたいなこと平気でするし、逆に深夜のアニメがやたらと普通なことが増えてきた気がする。
モラトリアムの間で大人の真似をしてブラックコーヒーを飲み始めた中二病と、それを直せないまま大人になった連中向けの作品、すっかり減ったように感じるんだよな。
成長することを投げ捨てて夢の中で暮らすことを選んだ人間向けの作品ばかりで息が詰まりそうだ。
俺の宇宙が必要としてるエーテルは平和な日常系だじゃ完成しねえんだ。
確かに日常系はさ、疲れたオッサンっぽくてさ、多少は摂取しておきてえんだ。
全部欲しいんだけどさ、主成分はやっぱもっと薄暗い現実世界に対してどう切り込んでいくか、どんな世界観でぶった切ればこのグチャグチャな世界に別の視点を通してなにか見つけられそうなのかを教えて欲しいんだ。
成長し終わってねえんだ。
そのための材料を自分の人生から見つける苦しさに耐えられねえから、アニメに教えてもらいてえんだよ。
なにかを得た気にさせてくれよ。
深夜アニメってそういうもんだろ?
自分は原作を読んでて好きなもんでアニメ版を見ていたがまあ酷い。
キャラデザはガルパンの人なのに作画海外に丸投げ。声優陣も人気キャスト使ってるのになんかやる気なし。
背景もクソ、妹の声優もクソ。なぜ松井玲奈にやらせた?ハヤテ好きらしいからハヤテのアニメにモブとして出してやればよかったのに。
上からの移行かもしれないが。ドラマCD版はアスミスがやってた。
CM劇場の天上院騎咲の声やってた一般人の方が上手いってどういうこっちゃ。
同じ秋元康アイドル系列でも仲谷明香は普通に上手かった。もしドラだったかな。
ちなみに電波教師はかつて一度アニメ化の案があったが流れた。その時はマギがアニメ化し電波教師はサンデーCM劇場でアニメ化。
その時の作画もかなりヤバかったが......まああれは20秒位のアニメだしそこまで予算かけるわけでもないだろう。
ちなみにこの作品で一番アホなことは同じサンデー系列のリンネと潰しあったこと。
この枠はまじっく快斗も逆裁も酷かったからやる気ない枠かもしれんが。
ちなみに何故か最初のコロナの時期に千葉テレビで再放送していた。誰が見るんだよ...俺は見たけど。
こんなクソアニメのイベントくるのガチのファンか声優ファンしかいないよな。
円盤も爆死。
自分は原作を読んでて好きなもんでアニメ版を見ていたがまあ酷い。
キャラデザはガルパンの人なのに作画海外に丸投げ。声優陣も人気キャスト使ってるのになんかやる気なし。
背景もクソ、妹の声優もクソ。なぜ松井玲奈にやらせた?ハヤテ好きらしいからハヤテのアニメにモブとして出してやればよかったのに。
上からの移行かもしれないが。ドラマCD版はアスミスがやってた。
CM劇場の天上院騎咲の声やってた一般人の方が上手いってどういうこっちゃ。
同じ秋元康アイドル系列でも仲谷明香は普通に上手かった。もしドラだったかな。
ちなみに電波教師はかつて一度アニメ化の案があったが流れた。その時はマギがアニメ化し電波教師はサンデーCM劇場でアニメ化。
その時の作画もかなりヤバかったが......まああれは20秒位のアニメだしそこまで予算かけるわけでもないだろう。
ちなみにこの作品で一番アホなことは同じサンデー系列のリンネと潰しあったこと。
この枠はまじっく快斗も逆裁も酷かったからやる気ない枠かもしれんが。
ちなみに何故か最初のコロナの時期に千葉テレビで再放送していた。誰が見るんだよ...俺は見たけど。
こんなクソアニメのイベントくるのガチのファンか声優ファンしかいないよな。
円盤も爆死。
そういえばサブスク終了もあったわ、予兆。予兆多すぎで解除不可能やろがい。
モバマスの思い出続き。
初回の新年ビンゴ以外は何とか1枚取りしてた。うっかり無料ガチャで出た他アイドルとトレードして必死でチェンジさせてた。3年目からは無料貯金が増えて課金をしなくても行けた(アクティブが少なくなったからかもだけど)。
チームにも恵まれた。グラブルのやり方とか予め教えてくれたし、チーム戦でもギスらず楽しく出来て本当に有り難かった。その後グラブルの騎空団にも恵まれ、3年くらいはどちらのゲームも特に楽しかった。まあ今は無言団にいて、それはそれで楽。
声帯がついた時は驚いたが、既定路線だとは思った。(やっぱ最初のCDシリーズのジャケが一番好き。一部シリーズって作画崩壊酷くない?)
けどぶっちゃけ声優にはミリ興味ないのでライブや超常みたいな劇中キャラCDはむしろ苦手。この辺が今回の件で一番大ダメージを受けた原因。
翼上位とチーム戦以外は完全にパネミログインだけだった。移籍後のチーム戦とライプロの時はパネミすらやらなかった。翼の為に惰性でやってた。正直あのゲーム性で結構課金してる人がいるのはひとえにキャラパワーがあったからだと思う。
そんな中Mステ爆誕。ガチャが無料貯金で引けるよ!?というかモバマスがエグくないか?必死でリセマラした記憶。ライブで動く、動くよ!決して綺麗なモデリングでは無かったけどそれだけ。立ち位置や衣装の変更、表情や振り付けの差分。今思えば相当頑張ってくれてた。惜しむべくは別にライブ見ないでもイベントが進めた事。推し以外のライブ見てなかったので、サ終後にYouTubeで見てその進化に驚いた。10人ぐらい登場してたんか!
不評の木魚システムは音ゲー苦手民には有り難かった。エクストリーム普通にクリア出来たし。
今必死で思い出してるけど、意外と覚えてない。兎に角イベントが実質一種類なのがキツかった。一瞬出た強制ライブ参加型イベントは何だったのだろう。フレンドの意味もあって悪くは無かった筈なんだけど。wayはUIがめんどくさ過ぎて翼もゴールしなかった気がする。スタミナ全回復にならない程度にはやってたような?
長くなったのでここで一旦切ります。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。