はてなキーワード: 佐藤優とは
SSクラス 江藤淳、柄谷行人、廣松歩、栗本慎一郎、谷沢永一、村上泰亮、中村元
Sクラス 小室直樹、浅田彰、福田和也、渡部昇一、呉英智、蓮實重彦、永井陽之助、中村雄二郎、すが秀実、佐伯啓思、高澤秀次、筒井康隆、小谷野敦、菅野覚明、養老孟司 見田宗介、佐藤誠三郎、大森荘蔵、西部邁
Aクラス 丸山眞男、吉本隆明、長谷川三千子、丸山圭三郎、橋本治、村上陽一郎、佐藤優、松岡正剛、伊藤貫、猪木武徳、坂部恵、坂本多加雄、大澤真幸、中川八洋、永井均、野矢茂樹、小浜逸郎、飯田隆、河合隼雄、片岡鉄哉、鎌田東二、梅棹忠夫、竹内洋、山本夏彦、山口昌哉、入江隆則、
Bクラス 猪瀬直樹、坪内祐三、中沢新一、御厨貴、橋爪大三郎、鷲田清一、北岡伸一、池田清彦、中西輝政、立花隆、山本七平、宮台真司、桶谷秀昭、宮崎哲弥、司馬遼太郎、古田博司、市川浩、東谷暁、苅谷剛彦、秋山駿、関岡英之、加藤尚武、浅羽通明、松原隆一郎、東浩紀
Cクラス 中島岳志、鎌田哲哉、兵頭二十八、内田樹、森本敏、村上龍、西尾幹二、仲正昌樹、大江健三郎、齋藤孝、森岡正博、富岡幸一郎、小泉義之、井沢元彦、桝添要一、中西寛、中島義道、鄭大均、山内昌之、村田晃嗣、山形浩生、林道義、松本健一
Dクラス 斎藤環、福岡伸一、副島隆彦、榊原英資、梅原猛、寺島実郎、佐藤健志、大塚英志、五木寛之、笠井潔、潮匡人、高橋源一郎、岸田秀、山田昌弘、竹中平蔵、池田信夫、萱野稔人、大川隆寛、大森望、櫻田淳、上田紀行、手嶋龍一、和田秀樹、藤原正彦、中野剛志
Eクラス 佐々木中、村上春樹、三橋貴明、田原総一郎、木村太郎、池上彰、竹田恒泰、切通理作、島田雅彦、酒井信、夏野剛、苫米地英人、上野千鶴子、姜尚中、鷲田小爾太、竹田青嗣、小阪修平、佐藤亜紀、
Fクラス 糸井重里、加藤典洋、中上健次、勢古浩爾、北田暁大、藤原和博、小熊英二、佐々木俊尚、西條剛央、玄田有史、城繁幸、茂木健一郎、岩田温、千葉雅也、岡田斗司夫
Gクラス 小林よしのり、宇野常寛、勝谷誠彦、荻上チキ、鈴木謙介、勝間和代、伊坂幸太郎、濱野智史、赤木智弘、坂本龍一、いとうせいこう、上杉隆、酒井順子
Hクラス みのもんた、久米宏、古舘伊知郎、ハマコー、太田光、水道橋博士、テリー伊藤、リリー・フランキー、コシミズ、香山リカ、森永卓郎、ホリエモン、津田大介、ひろゆき、中村うさぎ、雨宮処凛、桜井誠
教養って何なんだろう。貧乏人の家に生まれたおかげで大した文化資本がないせいか、この「教養」という胡散臭い言葉の指すものが分からない。俺の方が知ってるぜ私の方が詳しいもんっていうマウンティング用の武器?それともただの娯楽?小説にせよ芸術にせよ何にせよ、ただのマウンティング用の武器ならクソ下らないゲロ以下のものでしかないし、ただの娯楽ならいちいち偉そうなツラすんなよって話だ。そんなもんで人の頭の良し悪しを計るなっつー話でもある。
そんなわけで、ダレソレの書いた小説を全部読んだとか、ドコソコの哲学書を全部読んだとか、え?君まだアレ読んでないの?とか基本全部下らねーなーとしか思ってないんだけど、そんな私でも納得のいく読書に対する姿勢というものがある。目的ある読書。より具体的には、暇人が暇潰しのためだけに単なる娯楽として消費するための読書。マウンティングゴリラだよ〜ウッホウッホしない、純粋な娯楽としての読書だ(マウンティングが趣味だからマウンティングも純粋な娯楽だっつーオマンコ野郎はここでは含まない)。そして、もう一つ。金のための読書。飯のための読書と言い換えてもいい。技術者が技術書を読む、医者が医学書を読む、数学者あるいは数学科の学生が数学書を読む、物書きが小説を読む、何でもいいがどれも納得のいくものばかりだ。飯は大事だもんな。家族も食わせていかないといけないし。飯とか金とか言うと食いついてきそうな人間がいそうなので触れておくが、彼らの純粋な興味に基づいた読書を否定するつもりはないが、それは上に挙げた単なる娯楽の方に含めるということにここではしておく。
ところで、教養教養いう人間が有難がりそうな指標として読書量というものがあげられるだろう。
佐藤優は月平均300冊を読破するという話らしいけど、彼の場合は玉石混交の情報から玉を探り当てる(露 разведка 諜報/探り当てる)ための訓練として、あるいは記事を書いたり講演を行ったりという飯の種として、読書をしている。なるほど、納得がいく。
知り合いの元・国会議員秘書は、やはり年1000冊を超える読書量だ。現役のときはこれほどは読めなかったが、オヤジが落選して暇になった今はこのペースとのことだ。彼いわく、政治家秘書には教養が重要らしい。仕事柄、色んな人と知り合うわけで、そんな中で共通の話題があれば話も弾むし仕事もやりやすくなるだろう。勿論、上に挙げたразведкаの訓練という意味合いもあるだろう。なるほど、納得がいく。
その彼から聞いた話だが、商社マンも、ここまでの読書量ではないにせよ、やはり読書をするらしい。まぁ、読書ぐらい誰だってするわけだが、彼の話の何が面白かったかというと、例えば商社マンがロシアに出張にいくさいに何を読むか?旅の指さし会話帳 26 ロシア ここ以外のどこかへ!!そういう問題ッヒョオッホーーー!!ではなく、彼いわく、村上春樹の新作らしい。なぜか?出張先のロシア人が読んでるから。なるほど~、ガッテンガッテン!!ッヒョオッホーーー!!
まぁ、話は逸れたが、お前らの考える教養っつーもんを書いてけや。教養の一例である読書にしか触れてないけど、他の例で論を進めてもいい。
特定秘密保護法案は現代の治安維持法に--日本基督教団大阪教区 平和と自由祈る
http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=2563
信教の自由セミナー:「その時が来たら覚悟を」--治安維持法の教訓 「状況が戦時中と似ている」
http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=2556
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=726
「特定秘密保護法案に反対する牧師の会」が同法案廃案の賛同署名呼びかけ
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=725
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=723
特定秘密保護法案衆院通過に危機感 同盟教団「教会と国家」委員会が緊急祈祷会
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=720
信教の自由/光はやみの中に輝いている 12日「キボコク2」特定秘密保護法を受け緊急開催
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=719
世間一般様から「読書家」とひとくりりにされ、一束十円のブックオフ価格で流通している今日このごろの読書ファッションクソ野郎どもであるけれど、その内実はピンキリで、とりあえずジャンルや内容や分量に関わらず月に三冊以上読んでいれば全国平均的に照らして「かなり読んでいる」ほうの部類に入る。
数を誇りがちなのは男だ。
数をこなしたからといって偉いわけではないと口ではうそぶきつつ、「いやあ、今年は千冊も読めなかったよ」だとか「一日頑張れば十冊は行けるね」だとか「○○の必読本リストは○冊しか読めてないな」だとかなんでもかんでも数字に還元する。
別に速読はクソだとか熟読こそ至高だとかいう議論をしたいわけじゃない。ヴォルター・ベンヤミンは生涯で1700冊しか本を読まず、一方でレヴィ=ストロースは一冊書くために7000冊を読み、イケダハヤトは年速500冊を読破し、ボルヘスは「1000冊も読める人間など存在しない」と主張した。この四人の言う「読む」はおそらくそれぞれ意味が大いに異なる。だが今はそんなことは関係ない。「本を読む、とはどういうことか」じゃない。傾向の話だ。重要なのはベンヤミンもレヴィ=ストロースもイケダハヤトもボルヘスも松岡正剛も佐藤優もそのへんのラノベ評論家もブログやってるビジネスマンもみな男だという事実だ。
男は自分についてであれ他人についてであれ、読書について言及するときに数の話をしたがる傾向にある。
数が多い方が偉くて強い。そういう世界は微笑ましい。人によっては浅薄で醜いと断じるかもしれない。けれど、浅い分理解しやすくはある。
そこに現れているのは一種体育会系的な価値観だ。どんなメガネモヤシとて鬱屈したヲタとて、オスである以上は筋肉量に憧れるのだ。私の読書冊数は十三万です。
強い。わかりやすい。
読書メーターが珍重される理由もそこに関係している。RPGみたいに、読書家のステータスを可視化してくれるのだ。今までの読書冊数がHPなら、月あたりの読書冊数がすばやさ、コメントがパワー。
既読冊数も数なら、読んだ本の内容も数だ。実のところ「読んだ本の数より、どれだけ内容を理解しているかのほうが重要だろ」と、男が言うときに使う「理解」という単語はそのまま「記憶」に置き換えうる。つまり、本の筋や要点をどれだけ他人の前でそのまま垂れ流せるか、どれだけ脳にストックしてある別の本と(それぞれの文脈を無視した上で)リンクさせられるかが男の言うところの「理解」となる。ぷよぷよとかミスタードリラーとか、そのへんの連鎖パズルゲームをやってるのとあまりかわらない。
ひるがえって、女は数の話をしない。そもそも数えない。目の前を流れてゆく本にただ好きか嫌いかのスタンプを流れ作業で押していく。
小説についての話をすると、まず自分がある登場人物をいか好きか/嫌いかを述べだす。本気で。ぼんくら男子同士が「ビッチ」だと「処女」だのとぼんくら慣れ合いのための属性を貼り付けて表面的に消費するのとわけが違う。彼女らは本気でキャラを憎み、愛している。
そして、いきなり自分語りを始める。マミさんによく似たバイト先の先輩の話を始める。そんな先輩がいらっしゃるならぜひ紹介していただきたい、というこちらの懇願を無視して、いかにその先輩とそりがあわないか、先輩がクズかをとうとうと語り、最終的にバイト先がかつてマルクスの予言し憂慮した末期資本主義的状況下にあり私はとてもつらいんです大変なんです疎外されてるんですだからマミさんは最低な女だと思います、という実に革命前夜なティロ・フィナーレに行き着く。
よくわからない。よくわからないと言えないまま、また別の本と別の現実の話題にうつる。
マミさんが嫌いな女子とは別の知り合いで、村上春樹を嫌いな女子がいる。その子は村上春樹がそりゃあもう大っ嫌いだ。春樹に関係するものすべてを憎悪していて、村上春樹本人も嫌いなら、ファンも勿論大嫌いで、村上春樹フェアをやってる書店も嫌いで、『色彩を持たない多崎つくる』が大ヒットしている現代日本社会も嫌っている。読まず嫌いというわけでなく少なくとも数冊は読んでいるはずのその子が本質的に村上の何が嫌いかはよくわからなくて、理由を訊いても「キザっぽくて嫌だ」とか「セックスだけじゃん」とか、いまいち要領をえない。だって、おまえ、バタイユとかサドとかロブ=グリエとか喜々として読んでるじゃん。
男子にも村上春樹とそのファンとその社会を嫌うやつはそれなりにいて、でもそういうやつらはなぜか「『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だけは好きだね」などと妙に言い訳地味た予防線を忘れない。続いて、聞いてもないのに春樹論について語りだす。「俺は基本的に春樹嫌いだけど、文学性や価値は理解できるし、いいところがあれば認める度量もあるよ」と言いたいわけだ。春樹以外の気に食わない作家陣に対しても似たような態度しかとれない。嫌うのに社会的にコレクトな理屈を探そうとする。それを見つけたあとでも、けなしはしても全面的な攻撃はしかけない。そんな度胸はないんだよ。俺もお前も。
女は退かない、媚びない、顧みない。嫌った相手には容赦しない。同時に自分の正当性や正義も疑わない。よって言い訳をしない。理屈を探さない。よその基準など関係ない。私の人生が伊坂はクソだと告げている。
虚構と現実の境界線をきちんと引き、作品世界をきっちり読み込み把握したうえで、手前の価値観の物差しのみを武器に全身全霊をもって襲い掛かってくる。彼女たちは数を数えない。だから、物差しで切り捨てた数もおぼえていない。
あなたがもし男であるならば、女と本についてトークするのはオススメしない。なぜなら、あなたは弱い。あなたはその本について、内容を記憶しているだけで実は何も独自の見解を有していない。その場でとっさにひねりだした解釈に、あなたは確信を持てない。それでは耐えられない。あなたは読書を通じてコミュニケートする、ということがどんなに恐ろしいことか、リアルにオリジナルな見解を持っている人間の狂気がどんなに鋭利か、わかっていない。年間三千百冊を読了できたとしても、それらの内容を一字一句違わず暗誦できたとしても、絶対に辿りつけない彼岸がこの世界には存在するのだ。そこでは数や引用など意味を持たない。愛情と感情がすべてだ。あなたは死ぬ。死にたくないなら他人と金輪際本の話をするな。外に出ろ。ゲーセンにいけ。三鷹駅裏のゲーセンではまだ『ぷよぷよ通』が現役で稼働している。あなたの居場所はまだそこに残されている。生きて欲しい。生き延びてほしい。
ここで書く内容は、単純に http://anond.hatelabo.jp/20130715205106 の続編として用意してきたものだ。
しかし、山本一郎氏と量子的重ね合わせ状態にある一国会議員による天皇直訴事件がおき、それに関連しての下村博文文部科学大臣のコメント http://sankei.jp.msn.com/life/news/131101/edc13110110070000-n1.htm を読んだときには、さすがに開いた口がふさがらなかった。
おまゆうううぅぅぅwwwwwwwwwwww
以下、『NEWあしながファミリー』第129号、2013年(平成25年)9月1日(9・10月号)あしなが育英会、の下村文科相へのインタビューより。聞き手は玉井義臣あしなが育英会会長(NEWあしながファミリー編集長)。太字強調は引用者=増田による。
確かに招致運動には汗をかきました。JOCを所管する文部科学省の大臣として、いわゆるロビー活動にはかなり精力的に動き、それが招致につながったと自負しています。
内外問わず直前のマスコミの下馬評では、東京は劣勢でした。そこで、高円宮妃殿下に開催都市が決まるIOC総会へのご出席をお願いしたのです。
開催都市投票権を持つIOC委員の多くは、日本の皇室への尊敬の念が高い。それに妃殿下は語学に堪能でいらっしゃる。どうしても招致スピーチにお願いしたかったのです。
玉井:それでご出席いただいたのですね。
いやいや、そう簡単な話ではなかった。宮内庁長官にお願いしたのですが、皇室の政治利用だと最初は断られました。そこで、私が宮内庁まで直接出向いて長官と押し問答を繰り返し、二度目にようやく内諾を得たのです。
玉井:よく了解が得られましたね。
いや、正確に言うとIOC総会ご出席に関しての了解ではなかったのです。ご存知のように妃殿下は日本サッカー協会名誉総裁でいらっしゃったので、南米サッカー連盟の招待を受けてアルゼンチンをご訪問いただく。その折、IOC委員に、東日本大震災に関する各国からの援助に対する返礼のご挨拶をしていただきたいとお願いしました。
玉井:で、ようやくブエノスアイレスでのIOC総会を迎え一安心でしたか。
それが、そうでもなかったのです。最後まで宮内庁は妃殿下の招致スピーチは駄目だと言う。最後の最後、妃殿下のスピーチ直前に電話をかけても了解はとれなかったのです。
玉井:ほう、それでどうなさったのですか。
最後は私自身が決断しました。妃殿下ご自身からは了解を得ていましたから、御礼のスピーチをしていただいた後もその場に残っていただきました。また、妃殿下は一人を除くIOC委員全員と、親しくお話されたのです。
以上。私はこれが法に触れるかどうかは全くわからないが、すくなくとも、普通の日本語で言う「皇族の政治利用」にあたるのは間違いないと判断する。また、モラル的にもどうかと思う。ウヨではないけど、下村文科相の発言から皇族に対する深い敬意を感じ取ることは到底できない。さらに、こんなことを得意満面にべらべら喋って、国務大臣としての自覚はあるのだろうか?
そして何より情けないのは、これが「汗をかいたロビー活動」の内容、ということだ。外国のIOC委員に対する働きかけというのは、お前が中心になってやらなきゃいけないことだろ? お前は、外向けにいったい何をしたんだ? こんな人間が文部科学大臣、というのが今の日本の政治の水準をあらわしている。
前の増田では、鈴木宗男氏に似てると書いたが、鈴木氏はそれでも佐藤優氏というブレーンのおかげもあってロシアに対して実際にいろいろ働きかけることはできた。下村氏のこの徹底的に内向きな志向は、早大雄弁会の先輩森喜朗氏から正統な後継者として伝えられたものだろう。
■冒頭文
この著者はいつも「欧米は出版物の発行額が減ってないのに、日本だけ減ってる! 日本は異常!」と言ってるが、本当にそうか疑問がある。
日本は大衆にまで出版文化が広まった数少ない国であり、その移り気な大衆が今インターネットに移行しているというだけの話ではないだろうか。
一方の欧米ではそもそも日本ほど一般大衆にまで出版文化が拡がっていない。
人口あたりの出版物発行額を見れば一目瞭然で、つまり日本の80年代~00年代が出版バブルだったというだけの話である。
それをこの著者は「失われた○年」などと大仰に語る。
著者が地場中小書店の立場でのポジショントークに堕しているとしか思えない。
■1:出版科研の売上推移
単なるバブルの崩壊の図だ。「表出している出版危機」などではない。
■2:コミックの売上推移
月刊誌・週刊誌は半減しているが、コミック自体は健闘している。ブックオフなどがなければもっと良かったんじゃね?
という分析は正しい。
まあ、80年代からずっと売れ筋のコミックが書店を支える構図はあったから今さらではあるが。
この項目はひどい。
大型店が地方に出て商店街がシャッター通りになるなんて事例は山ほどある。その書店版が起こっているだけという話。
品揃えも悪く、不便で、綺麗でもない店が潰れるのは単なる淘汰の結果であって、当たり前のこと。
しかしこの著者は「大型店はいかん!」と言うばかり。著者がひいきにしてる中小書店は潰れるかもしれないが、それは健全な競争の結果でしかない。
また、「大型店が出来て小商店を潰すと全体の売上が減る」というトンデモ理論を展開している。
出版物発行額が減少してる問題と、この問題は全くリンクなどしていない。
中嶋の「定価10%増・書店マージン6%増」という提案は書店の苦境を救うにはいい提案だと思う。(ナショナルチェーンが更に元気になる結果となり、中小書店が増えるわけではないが)
あとは再販制が崩れた際に、大型店に対抗する形で、コンビニ型の「やや高いけど近くにあって品揃えも新鮮で綺麗で明るい小さな書店」という業態が成り立つ可能性はあるかも知れない。片岡の言う「生活圏の書店」というのはそういう方向になるだろう。
「書店の知の機能」などという、現状が全く見えていない論点ボケボケの文章なのでスルー。
このクロニクルの著者もあずまんの文の内容については完全スルーしているところが可笑しい。
もちろん時限再販・買切の世界がやってきたら、このクロニクルの著者が肩入れしてる中小地場書店はより激しくなる競争に勝ち残れずに潰れるけどね☆
ただ、提案の3にある付録の件は地味に意味があると思うし、4については新古書店問題も絡めて警察と連携して取り組むべきだとは思う。
■7:取次の立場
日販の社長なら2/12の話なんてどうでも良くて、2/23日経の「買切を増やす」って話の方が100倍も重要だろうに。
(1)書店の売上総利益率を35%と約10ポイント高くする代わりに、返品する場合の返金額は仕入れ代金より低くする
(2)一定期間がたてば書店が小売価格を決められる(時限再販)一方、その後は返品を認めない
あたりの提案についてこのクロニクルの著者は言及すべきだった。
■8:『スティーブ・ジョブズ』
ただ、個々の書籍の事例は別にして、大勢としては今後この数字が上がることはあっても下がることはないという点が重要。
ま、どっちも起きるだろうけど。
これはつまり、電子書籍規格の乱立によるamazonの一人勝ち状態を防ぐというのと、上記の価格破壊を起こさないようにするためのもの。
ここは著者の妄想が素晴らしい。
「出版デジタル機構が出版社を代行し、取次や書店に電子書籍を卸売りする」とか。アホかと。そんなお花畑みたいなこと考えてるのかとがっかりする。
ただ、著者の言う「出版の魅力は許認可でないその自由、民間の知と力によって生じるもので経産省など官の下とかちゃんちゃらおかしい」という主張には心の底から同意。
■11:MARC
「公共図書館の理念なき膨張が書店を潰した」という著者の主張にも同意。
あと図書館・図書館員・図書館担当に異動してきたただの公務員を、貸出数で評価するのはやめるべき。
MARCはどうでもいいが、デファクトスタンダードになってるTRCに統一すればいいと思う。官が税金を使ってJAPAN/MARCをごり押しするとかマジ勘弁。
司書の問題もあるが、上記の通り司書や図書館担当の公務員を評価するシステムの問題が根本。
どうでもいい。
「雑誌とともに形成されてきた、多くの近代の「趣味の共同体」そのものが消えていきつつある」などと著者は書いているが、単にその共同体がネット上に移動しただけの話。
むしろ、雑誌を編集してきた人のような囲碁界周辺の「囲碁を見る側のプロ」が減るのが問題だ。ネットの集合知が代替できる気もするけど。
クロニクルの著者は「何となく楽しい」などとボケた感想を書いて終えているが、これは重要な話題。
出版物の流通経路が、他の流通経路と比べて圧倒的に効率的(返品を抑えられる場合)であるという面を見逃してはいけない。
小売価格の70%近くが販売者に入る流通って他にはほとんど無いのだ。
つまり、見る者が見れば、出版流通は美味しい経路だと言うこと。これは今後更に利用してくる会社が出てくるだろう。
これは書店が生き残る道の一つかもしれない。
■16:著者の宣伝
過去の出版業界について記す人はいてもいいと思うので、まあご自由に活動なさって下さい。
震災の影響で福島原発が爆発を起こし、甚大な放射能汚染を引き起こしている。
それまでの「絶対安心です」という宣伝文句は嘘だとわかり、その上に、万が一の事故への対策がほとんど取られていなかったことが暴露された。
そして、東電や政府の、事故後のあまりに不誠実な対応と嘘の上塗りに、私たちの原発への信頼は地に落ちた。
人々は不安に駆られている。
ところが、この段階に陥っても、まだ、
「原発は本来なら安心だ」
「東電幹部に人材が枯渇していた。原発自体の安全神話が崩壊したわけではない」
などと主張している人々がいる。
そして、原発をこれからも建設し、原発で発電を続けようと訴えている。
崩壊した神話にすがりついて、滑稽な主張を繰り返す、一流の専門知識を持った人々……。
デジャブ(既視感)だ。
なんだったっけ?
思い出そうとして思い出せないもどかしさ。
隔靴掻痒とはこのことだったが、つい先日、佐藤優の本をたまたま読んでいたときに思い出した。
「本来の社会主義は違う」
「ソ連経済が傾いていたときに、それを立て直す人材をたまたま得なかっただけ」
「資本主義の弊害は明らか。それを改めるためには、社会主義革命が絶対に必要だ」
理想がいくら高邁であろうと、それが地に落ちれば、人々は顧みない。
しかも、地に落ちたあとに知ったその実態はあまりにも醜悪だった。
恐怖による支配、ノーメンクラツーラの無法ぶり、嘘で塗り固められた報道、破綻した財政、ずさんな会社経営、環境汚染、人心の破壊、エイズの蔓延……崩壊した旧社会主義国の実態はおぞましいものであり、そして、世界は社会主義革命への幻想を捨てた。
原発も同じだ。
いったん事故が起こると、一県が壊滅状態になり、膨大な被災者が出ることが判明した。
加えて、日本は世界有数の地震大国であり、その周辺に、敵意と高度な軍事力を持った国を持つという特徴がある。
そのような危険な土地に、原発という危険な施設を建設すること自体、おかしな話だった。
しかし、事故が起こりさえしなければ、現実に目を背けていられた。
燃料となるウランを採掘するために、産出地の土壌が汚染され、採掘者や周辺の人々の健康に大きな悪影響を与えていること、
内部で働いている人々の被爆量管理がかなりいい加減であること(それは現在の作業員への扱いをみていてもよくわかる)、
つまり、弱い立場の人々を食い物にしないと、原発は存立し得ないということ、
全発電量に大きな割合を占めているといっているが、これはレトリックで、原発は発電量を調整できないので火力発電などを調整した結果だということ、
原発は地球温暖化を防止するというが、放出エネルギーの3分の1は発電に使われずに排熱として海水を温めており、結果、膨大な海水温の上昇に貢献していて、むしろ地球温暖化に貢献していること、
なにか起こって被害を受けても、責任者は責任逃れに終始し、責任を取るつもりがないこと、
核廃棄物をうまく処理する方法は確立されておらず、処理に莫大な費用が必要なため、時間が経てば立つほど、指数関数的に予算が増えていくこと等々……。
そして東電が、まるでソ連のKBGのように、情報を遮断し、われわれに真実を隠してきたことも。
わかればわかるほど、原子力発電というのは問題だらけじゃないか。
ソ連が崩壊したあとも、あの手この手で社会主義者たちは言い訳を繰り返す。
社会主義という思想自体は悪くないといい、それまで褒めたたえたくせに、旧社会主義国を罵倒し、そして、残り少なくなった社会主義国へすがりつき、ようやく命脈を保っている。
管理技術レベルが未熟な国家でも、原子力発電所建設計画が数多く進められている
自然災害か人災かどちらかが原因で、甚大な原発事故が、近いうちに世界のどこかでもう一度、起こるだろう。
確実に向かう。
日本は、その尖兵となっただけなのだ。
事故が一度起これば、その被害が甚大なものであることがこれだけ証明された以上、脱原発は、世界の流れになるのだ。
「原発は安心なのだ」
と、性懲りも無く、題目のように繰り返しているに違いない。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&rel=j7&k=2010090800496
鈴木議員の実刑確定へ=無罪主張の上告棄却-受託収賄など4事件・最高裁
受託収賄、あっせん収賄など四つの罪に問われた衆院議員鈴木宗男被告(62)の上告審で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は7日付で、被告側上告を棄却する決定をした。懲役2年、追徴金1100万円の実刑とした一、二審判決が確定する。
鈴木被告は確定後、収監される。公選法などの規定により、確定すれば失職し、懲役刑の執行後5年間は立候補できなくなる。
鈴木被告は、政治資金規正法違反罪と議院証言法違反罪を含め、一貫して全面無罪を主張していた。
2004年の一審東京地裁判決は、すべての事件を有罪と認定した上で、「高度の廉潔性を求められる要職にありながら国民の信頼を裏切った」と非難。「反省は皆無で、虚偽の陳述をしてはばからない被告に刑を猶予するのは相当ではない」として、実刑を言い渡した。
二審東京高裁も08年、「行政に不当な影響を及ぼし、社会の信頼を害した」として、一審を支持していた。鈴木被告をめぐる一連の事件では、佐藤優外務省元主任分析官(50)ら12人が起訴され、鈴木被告を除く11人の有罪が確定している。
判決によると、鈴木被告は北海道開発庁長官、官房副長官だった1997~98年、林野庁への口利きの見返りなどとして、2社から1100万円のわいろを受領するなどした。(2010/09/08-14:54)
元々これって民主党も絡んでたヤマだよな?
http://www.dpj.or.jp/news/?num=1446
野党4党、鈴木宗男議員を偽証罪で最高検に告発
民主党の中川正春衆議院議員、小川敏夫参議院議員、自由党の土田龍司衆議院議員、共産党の木島日出夫衆議院議員、社民党の大脇雅子参議院議員は18日午後、鈴木宗男議員が11日に衆議院予算委員会で行った証言が議院証言法違反(偽証罪)にあたるとして最高検察庁検事総長あてに告発状を提出した。
告発状は、(1)国後島のいわゆるムネオハウス建設工事の入札参加資格が「北海道に本社を有する者で根室管内で施工実績を十分に有する者」として定められたことについて、これに該当する者が渡辺建設工業しかいないことを認識していながら、「まったくそういった認識は持っておりませんでした」と述べたこと、(2)鈴木議員の秘書ムルアカ氏がザイール共和国及びコンゴ民主共和国の公務員であると認識していながら、「私は、民間人という認識であります」と述べたこと──の2点が虚偽の陳述で偽証にあたるとしている。
15時40分に東京・霞が関の検察庁庁舎前で集合した5人の議員は、同庁職員に案内され、9階にある東京地検特捜部の担当検事の執務室を訪れて告発状を手渡し、同検事がこれを受理した。
提出後に法務省内の司法記者クラブで記者会見した中川議員らは、「偽証の告発は解明の端緒にすぎない。今後、ケニアのソンドゥ・ミリウ・ダムをめぐる鈴木議員の証言などについても事実を精査して告発を検討する」などと述べた。
はてサの主力メンバーのタグ一覧を浚って、うまくネタにまとめようと思ったんだけど、
こんだけ悪意によどんだネガタグの一覧を前にすると、正直ふつうの神経なら参っちゃうみたい。
3,000くらいから1/10までしぼりこんだところで心が折れますた。
はてな匿名ダイアリーに、「厚労省殺傷事件で人を殺す以外にこの国に政府に訴える方法は存在しないと思った。 」という一文が投稿されている。私はこれを読んで、これは書いたものでなくして、書かれたものであろう、と判ずる。その書いた、書かれたと記すのが意味するのは、その文章の筆者が、自ら物事を見て捉えたところから、自ら何かをすることを考えて、・・・その考察は同時に、自らことを為すならば、その時に自らがそこに従っているところの価値観や道徳観に枠づけられるものであり、言い換えて、自らする考察とは、そのようにして見出させるものしか、その人に見出さないものであるが、・・・さて、そうした思い巡らしの中で形成された、自らの思いを述べたものではない、ということである。
書かれたものである、という性格付けだけを特に言えば、例えばその文章の場合、佐藤優などを代表に、テロによる世直しへの期待が高まっていると騒いで、この国の《ジャーナリズム》が広めているところの、人々の思いと推定的に措定しているものに、この文書の筆者が身寄せして、あたかもその〈思い〉を有する一人であるが如くに構えてしたものであるように、自分がそう考えているのでなくして、人々がこう考えているとされているものを、独白的に記しつけることを、書かれたものであると私は言う。こういう文章の効果は、筆者が何かに就いてした観察や経験より得られるものより、その人がその人自らの意識として形成されたものを述べたものであるならば、その観察と考察の妥当性が検討されるのに対し、独白的であることで、その〈思い〉を持つ人が居るか居ないかが、まず検討の必要がなくなり、次にその表白に示された判断や意図やは、適切に導き出されものかどうかの批判を免れたところにポジションを取らせてくれる、というところにある。
この事実としての検討と、様々な見地よりされる妥当性の批判とを、あらためて喚起させない利点によって生ずるもの、あるいは、その利点そのものの別の姿であるのは、読み手は、その〈思い〉を直接に受け取るならば生ずるはずの共感か同情の反応をして、そこに言われていることに向き合わねばならなくなる。そうなると、例えば、これこれの境遇や状態であるから、また、それらに加えて、その中でこんな強い感情を自分は抱かされているから、このように自分は行動する、と述べられたとき、その彼の行動そのものの是非を検討することは、境遇や状態への同情をいくらか欠けた眼差しであり、彼が抱いている感情への同情が何かしら不十分なものである、と言われることになる。
そうして、我々は、これはしょうがないとか、已むを得ないものだとか、そうした物言いを口にする。これが了解的なもの以上に引き上げられると、人はそうしたものである、との判断や理解へと位置づけられることになる。だが、この人間理解に行き着いたところで、そこに指摘すべき欠陥は、そう行動していること自体の是非が何ら解明されていないままである、ということである。また、もっと深刻な欠落は、ある行動をして正しいものであらしめるところに従ってしか行動出来ない人間というものを、その人間理解は見出していない、ということである。我々に取って、そのように見出される人間を捉えてあることは、極めて重要であり、極めて意義深いものであり、また、極めて必要なものである。なんとなれば、そのようにして理解されている人間というものこそ、その人一人をして、自らがどんなものであるかを知らしめるものであり、その自らがその中の一員であるところの社会がどんなものであるかを見て取らせるのであり、更に、そのような人々よりなるものにとって、妥当であり、適切な、また必要な政治がどんなものであるかを見出させるからである。
もし、人はそうしたものである、との理解を、先の欠陥や欠落を見極めずして抱くならば、そこからの思い巡らしが、我々それぞれには、それぞれにとって可能なあり方、社会には可能な社会、そして政治に於いては実現させるべき政治へと進んだとして、何も得させることは無い。そして、この得させるところのなき人間理解は、数多くの《書かれた》文章によって、これまで積み重ねられ、補強され、流布させられて、その結果我々の抱くところとなって来た。そしてもし、その人間理解が薄れたならば、それを再認させるし、またもし、ことがあればそれを思い起こさせて、そのことを捉えさせる方向付けとなるよう強調されてきた。
そして、私は、先の匿名ダイアリーの文章は、今回の事件に際して、そのような働きをするように《書かれた》文章である、と思うのである。それは、その文章の筆者が望む望まないに係わらず、生じてくる働きである。上で述べて来たところより、その働きが生ずる理由、また、その働きが生じさせるものを言うならば、まず前者に向かうに、次のように問うて見よう。その筆者は自らが、今回の事件の、あの最も暴力的な行為を、自ら是するものであるかどうか、自らにどれだけしっかりと問うているであろうか。ここで問われるべきは、どんな境遇や状態ならば、という前提条件の問題ではない。この禍々しい行い自体の是非である。私は、その筆者は、それをあまり問わなかったと思う。もしきちんと自らに問うて、しかもその答えを明らかにした上で、あれを書いたというのならば、途中を飛ばして突き詰めていってみれば、彼は、人を殺すことは正しいことであり、また彼は、人を殺すなという道徳律に服していないと自分を見出している人である、ということになろう。
そして、このことをきちんと自らに問わずして、漠然な踏まえどころとしたのが、自分以外の人は、これこれの境遇や扱いにあれば、こんな行動をするという、皮相な人間理解であり、この無反省に抱かれている浅薄な人間像よりして言えそうなことを、あたかも独白的に、自らの思いと構え立てて書き記したことで、人間そのものはもとより、社会のありよう、政治のあるべき姿を見出さないところに、人々を向かわせる働きをすることになっているのである。そうして、その働きのもたらすものは、浅薄な人間理解に人々を留まらしめることであり、まずは包括的に言って、こうだからしょうがないとか、已むを得ないとか、そうしたところへの同情や共感によって、行為自体の是非を明らかにさせずにおくこととなり、次には、この事件、ならびにそれにつき論評されているところに即して言えば、人々が現在置かれている境遇と待遇とに抱いている不満からして、こういう行動を起こすのは已むを得ないものである、人とはそういうものである、という〈どうしようもない〉人間理解である。
このどうしようもないとは、どうしようもなく浅薄で、どうしようもなく蔑視的な人間理解というつもりである。また、このどうしようもなさは、人々の多くをして、こういう行動は已むを得ないと、その人々自らがそう行動することを、自らに了解していく筋道を与えるよりは、それよりもむしろ、多くの人々をして、人間とはこういう不満を持つと、こんな行動をしてしまうような、どうしようないものである、という眼差しを持たしめるものだ、ということを言う。すなわち、私は、あの文章は、世直しにはこんなことが必要だ、と人々が自ら考えることを促すよりは、また、そのように人々の多くが考えている事実を示しているものであるよりは、むしろ、多くの人々をして、我々の社会には、こんな不満からこんな行動をする奴らが数多く居る、という意識を持たしめるものだ、と思うのである。そして、多数の人々が、多数の人々をして、そう看做すという、この様こそ、最もどうしようもないところである。
そして、そのどうしようもなさに呆れる思いとなるところを強調すれば、こんな程度の人間理解よりして、政治の為すべきところが見出され、社会に於いて為す所のものが告げられ、そして、多くの人々が、それら政府の施策と社会での態度とを、もっとも至極なものだと了解していく、という点である。しかも、このように受け入れられていくところでは、人々をかくも浅薄に見下げて捉えていて、またそのような捉え方が正しいと人々が簡単に同意していることによって、その地位と役割を確固としたものにしているところの、この国の政府の政治的意志を決定し、その意志に基づく社会を作り出そうとする人々に、これまで通りの、またこれまでと同程度の、いやむしろ、それ以上のかもしれない、活躍の場所を用意し、活躍の意義の根拠を与え、また、活躍の必要性のロジックを強力にするであろう。
そうして、ここより言えば、匿名ダイアリーの《書かれた》文章は、よりはっきりと私の感ずるところを明記してしまえば、まさに今述べた活動を支え、裏打ちし、それを否定されなくするよう、その意義と必要性を人々に了解させるために《書かれた》ものである。筆者の真意が如何なるものかにかかわらず、このような効果しか持ちえない仕方で、《書かれた》ものである。いくらか、これを敷衍するに記せば、まずその題からして「・・・存在しないと(ボクは)思った」と読まれるようであっても、正しくは、「・・・存在しないと《人々は思っている》」と読むべきものであり、読み手がその文章より抱くものは、そう思うのも已むを得ない、であって、その主語はさしあたって、あの事件の犯人が、という形でのようであるけれども、正しくは、その文章の書き手がそう思うことは、というものですらも全然無くして、筆者以外の、また読み手以外の、どこかの誰かはそう思うであろう、というものである。つまり、多くの人々はそういうどうしようもない存在なのだ、という人間理解を抱かせる内容であり、そうした人間理解をこの文章を通じて、人々に再確認させているし、再形成させるものである。
その形成の効果あるところを、更に、細かく見るならば、文中、「・・・すれば、殺したくもなる人も出ると思う。」、「誰かを殺せば変わる・・・そう思い続けている人もいると思う。」、「・・・誰か殺そうという人も出るだろう。」という箇所よりして、これらすべてが、第三者に関して、こうであろうとするところであり、それは筆者の人間理解、いや《庶民》像を示して居る。これらの特徴から、この文章全体は、その筆者が考えるところの庶民(人々)に関する理解の地平で、(この庶民理解は、また別に、「人が死ぬということほど絶大なメッセージ表現方法を庶民は持っていない。」という記述より取り出せるものがある。)その記述が為されていると言えるものであって、またこのような記述よりして、当然に読者の持つものは、人々はそうしたものである、との理解でしかない。その人々とは、勿論、読者自身を除いた、読者自身以外の第三者のことであり、そう思っている人々がどこかに居る、居てもおかしくない、という意識を、多数の人が自分以外の多数の人に関して有するようにさせるものである。
その多数の第三者の持つ《思い》を、筆者が決して持つものでないことは、「誰かを殺せば変わると本気で思っていた。それは政治家になって日本を変えるよりもずっと手っ取り早いと思っていた。今ではそれは危険な思想だと思うけれど、そう思い続けている人もいると思う。」とあるところで、自分はそんな考えを持つものでないと記していることに確認出来る。そして、ここよりして、この文章は、自分が決して持たないものをして、人々の思っていることとしてと記して、なおかつ、どこか自分の思いでもあるかのようにすることによって、あたかもインターネットの中にいるとされる《テロ》へ賛同者の一事例であるかのように書くことで、まるでジャーナリストが喜ぶであろうように《書かれた》、とんでもないものであると評せねばならない。また、そのような意義付けで十分である。
・・・つけたりに。文中で一度は、「危険な思想」との認識を示していながら、最後に、「絶大なメッセージ表現方法」という評価付けを与えるのは、まことに矛盾したものである。この相反する捉え方が混在している原因を、真面目に考えれば、筆者に於いてその両者が、共にそれ自体で十分に考察されていない、ということであろう。しかし、自分の取らない「危険な」ものと、自分以外の庶民には「絶大な」ものという風に、両者の帰属先が異なることからして、あまり真面目に理由を見つける必要はないであろう。で、不真面目に解すれば、自分を外したところで、人々に向かっては、絶大なメッセージになるよと勧めている訳で、まことに不真面目な提案である。しかも、それは、上に述べたような、多数の人々が自分以外の多数の人々に関して持つ意識の中で、「危険なもの」という性格付けを帯びることにもなっているのである。(id:kenkido)