はてなキーワード: 低俗とは
そのブコメ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/__juttoku__/n/n640a01208f53
これらを読んで思ったことなどを書く
他者への視線に価値観として介在する事で、時に差別を生みだしてきた
だが、【だからどうした】というのだ?
とか言ってしまうのだが
スポーツ全般、芸術全般、娯楽全般、世の中のなにもかもについて
誰かが本気で取り組み
誰かの救いになり
誰かを攻撃している
スヤスヤ教のノリがキツいのはともかく、乗ってるひとはいわゆる「冗談宗教」自体が持つ宗教そのものへの攻撃性に対して自覚的であるべきだとは思う。そういう意味ではスヤスヤ教は恒心教未満。「茶化し」の攻撃性よ
なぜ茶化してはいけないんだ?
特定の文化を、宗教的観点で低俗と言うのは茶化してないから攻撃性があっても良いのか?
世の中で低俗と見做されるモノであれば茶化しても良いのか?
なぜ「宗教に対する茶化し」というのは特別に遇されねばならないんだ?
多くの人を死から救っている(言葉の綾ではなく本当に救っている)漫画やアニメ、それを愉しむ人間は茶化して良いが
宗教はダメだとする境界線は、誰が、どこで、何の権限で、決めたんだ?
これ反差別と同じなんだよ
自分を一段上に置いちゃてるの
よろしい、ならば特別に、あなたへの侮蔑を差別として禁止してやろう
みたいなものなんだよ
だから「本当に苦しんでスヤスヤ教と言っているなら認めてあげるけどさ」みたいになっちゃうの
とかどの口がって思うんだよね
別の人の記事だが
愚劣なダブルスタンダード
との言及もある
これらを言う人は、本当に自身にそれを言うだけの揺るぎないスタンダードがあるのか?
本当に他者の文化を浅慮や無知によって踏みにじっていないと言えるのか?
自身のそれは指摘されたら謝罪します、とでも考えてるのなら最悪だぞ
私は昔漫画やアニメが好きなオタクだったが近頃はほとんど漫画・アニメを見なくなった。
理由は極めて低俗で下劣な価値観に基づいて書かれた作品が余りにも増えすぎたからだ。
とある漫画アプリで高齢者をバッシングするような漫画、主人公を一話から女キャラが説教する異世界漫画、主人公の女性が敵対者を片っ端から論破する様子を見せたスカッと(笑)漫画が同時期に始まった時は激怒しながらアプリを無言で削除した。
その他にも作中に新自由主義や自己責任論のような差別的な価値観を織り交ぜた作品は見るだけで吐き気がしてくる。
作品を読んでいて不意打ちで主人公やその仲間に自分が気に入らない思想を言われたら本当に腹が立つし不意打ちで一瞬で好きだった作品を嫌いになるのが嫌だから大好きだった漫画をほぼ読めなくなった。
日常系漫画や異世界漫画ですらたまに気に入らない描写が入ってきたりするので最早昔読んだ漫画の何度も読んだ巻を読み返すのみである。
最近はドラゴンクエストユアストーリーやジョーカー2(こちらは未視聴)のように特定作品のファンへの嫌がらせのような作品もふえているのでますます戦々恐々である。
一番気に入らないのはキャラクターに気に入らない発言を突然吐かれても相手は架空のキャラクターなので反論も反撃も出来ない。
ゲームのキャラクターであればまだわざと何度もキャラクターにダメージを与え痛めつけて溜飲を下げたりも出来るが漫画やアニメは二次創作で間接的な反撃をするくらいで直接的な反撃が出来ない。
ただエロやグロのように何らかのゾーニングは必要なのでは無いか。
表紙に説教や自己責任論、特定の団体へのバッシングなどへの注意をするべきではないだろうか。
漫画界は自分達が単純明快なエンタメではなくゴーマニズム宣言や美味しんぼのような思想書を量産していることに気が付いて欲しい。
わかる。低俗な感じする
他のサーバーの投稿を見たり、他のサーバーのユーザーをフォローしたり、リプライを送り合ったりできる。
他のサーバーとはActivityPubというプロトコルで繋がるため、同じくActivityPubを採用しているMisskeyやPleroma等のサーバーとも繋がっている。
比較的癖が少なく、多少の違いはあれどXのように使える。
世界的にはmastodon.socialというサーバーが人気だが、日本国内ではmstdn.jpやpawoo.netが人気。
misskey.ioというサーバーに一極集中しているため、misskey.ioがMisskey全体への影響力を持ちがちになっている。
とはいえmisskey.ioは国内で運営されているので、国内で許されるものは(ルールを守れば)misskey.ioでも許されるし、misskey.ioのモデレーションが気に入らなければ他のサーバーもいくつかある。
「連合なし」投稿機能があり、通常の分散型SNSでは避けられない「投稿が他のサーバーと共有される」現象を避けられる。
分散型SNSでは一度投稿した内容は完全には削除できないという風説が気になる人にとってはありがたいかもしれない。
(なお、完全に削除できないというのは、なんらかの理由で削除リクエストが他サーバーに送られなかった場合に起きる現象で、そうそう頻繁に起こることではない。)
UIがXに似ているため、なんでもいいからとにかくXから逃げたいというような場合に有力な選択肢になる。
分散型SNSではあるものの、ActivityPubとの互換性のないAT Protocolを採用しているため、先述のMastodonやMisskey等のサーバーとは繋がっていない。
端的に言うと、他の分散型SNSがプラットフォームの垣根を越えて交流できるのに対し、BlueskyではBlueskyユーザー同士しか交流できない。
BlueskyとActivityPubを繋ぐプロジェクトが存在するが、強い反発があったため、すでにユーザー本人が許可した場合にしか利用できなくなっている。
また、bsky.appは海外で運営されているため、モデレーションの基準も海外基準であることには留意しておいた方がいい。
Xで許されなかったものは早かれ遅かれbsky.appでも許されなくなる可能性が高く、Xアカウントの凍結やシャドウバンを理由に移住する場所としてはおすすめしにくい。
一言で言うと、イーロンマスクに破壊されず、低俗な争いごとがおすすめされないX。
多くの人々がXから逃げてきてXへ帰っていったのを見たが、ほとんどの場合アカウントを作る以上のことをしていない。
SNSは他のユーザーをフォローし、フォローされて初めて機能する。
Xから移住するためには移住先のフォロワーを増やす必要がある。
そんなことはわかっていると思っただろうか?
では問うが、Xから逃げたいと思っているあなたはどうやって移住先のフォロワーを増やすつもりだろう?
移住先でアカウントを作ってしばらく運用していれば勝手にフォロワーが増える予定だろうか。
甘すぎる。
あなたが週刊少年ジャンプで連載中の漫画家なら勝手にフォロワーは増えるが、そうでないなら勝手にフォロワーは増えない。
Xで移住先を報告すればそれを見たフォロワーがあなたの移住先にアカウントを作ってあなたをフォローしてくれる予定だろうか。
まだ甘い。
そもそもXのフォロワーは移住したいと思っていない。そんなわけないと思うかもしれないが、本当に思っていない。
あなたのXのフォロワーの90%以上は、イーロンマスクに文句は言うけれど、Xをやめるつもりはない。
Xからの移住に関しては、あなたが一番モチベーションが高く、あなた以外の人々は常にあなたより消極的だと考えてほしい。
Xのフォロワーを移住先へ連れて行くためには、あなたが努力して彼(女)たちを説得する必要がある。
Xのフォロワーが付いてこないのを覚悟して、移住先で新たなフォロワーを探す予定だろうか。
考えは甘くないが、現実は厳しい。
例えばMastodonやMisskeyでは大抵ローカルタイムラインがあり、同じサーバーに所属しているユーザーの投稿が流れてくるが、misskey.ioのような大規模なサーバーだと滝のような勢いで大量の投稿が流れる。
そこから気の合う仲間を見つけるのは不可能だし、見つけてもらうのはもっと不可能だ。
もし移住先でフォロワーを探すのであれば、小さなサーバーを選ぶというのもひとつの手だ。
例えば犬好きであればいぬすきー(https://misskey.dog)にアカウントを作ればローカルタイムラインの流れは穏やかだし、犬好きの人々が犬の写真を投稿している。
あなたも犬の写真を投稿できるし、犬好きの仲間が見つかるだろう。
あるいはMisskeyのチャンネル機能が役に立つかもしれない。
例えばmisskey.ioのいぬじまん(https://misskey.io/channels/9b088f4xb6)というチャンネルを見れば、犬好きの人々が犬の写真を投稿している。
あなたも犬の写真を投稿できるし、犬好きの仲間が見つかるだろう。
もちろんハッシュタグを利用して同じ趣味の人々を探してもいい。
なんにせよ、Xからの移住を成功させるためには移住先のフォロワーを増やす必要があり、移住先のフォロワーを増やすためにはあなた自身がXのフォロワーを説得するか、あなた自身が移住先で仲間を探さないといけない。
Xからの移住に関しては、あなたが一番モチベーションが高く、あなた以外の人々は常にあなたより消極的だと考えてほしい。
移住先のアカウントを作ったあと、Xを全く使わなくなる人がいる。
本人にはそれだけの覚悟があるということだろうが、先述の通り残念ながら周りの人々は付いていかない。
数週間が関の山だろう。
実際には覚悟を持っていきなり完全移行しようとする人よりもサブアカウント感覚で適当に運用する人の方が長続きする。
まずはサブアカウントとして運用しよう…とは言わないが、一定期間、少なく見積もっても半年程度はXと両方を運用する必要がある。
ただし、あまり負担になると結局どちらかを辞めることになり、その場合やはりXに帰らざるを得なくなるので、なるべく負担にならない方法で両方運用するのがよい。
例えば優先度の低い日常の投稿は徐々にXからは減らしていき、Xは特に共有したいものやフォロワーの投稿への反応のみにしていくのはどうだろう。
これはあくまで一例で、あなた自身が続けられる方法で運用し、徐々に移行するのがうまくいきやすい。
ずいぶん大変だと思われたかもしれないが、実際大変なことをやろうとしている。
これは自分の住んでいる街が誰かの手によって破壊され始め、治安も最悪なので、周りに住んでいる人たちも連れてみんなで一緒に引っ越そうという話なのだ。
俺が死ぬときまとまった額の遺産が多分あって、それで残された年下の彼女が残りの人生不自由なく暮らせるようにはしたいが、
子がいないと遺産の大部分は、最終的には接点の希薄な遠い遠い親族とかにもしかしたらいってしまうのかな?となると、どうすりゃいいのかなーと思った。
(本来そうならないよう、親戚づきあいを年一でもいいからやるんだろうなと思うが、そこは(多くの現代人の風潮と同じ)個人の自由の快適さを謳歌した人生に対する、払うべき負の側面なのだろう)
でも金のあるなしと、人柄の高潔低俗はそこまでそこまで関係ないと思うけども。
まあ普通に死の前後で赤十字かなんかにでも寄付ができればいいと思う。資産の何割とか指定で。
おや、君の社会観察は、まるでスタートレックのレッドシャツが惑星探査に行くようなものだ。つまり、致命的な欠陥だらけということさ。
まず、「非モテ」という概念自体が非科学的だ。人間の魅力を単一の尺度で測ろうとするなんて、14世紀の錬金術師のような愚行だね。僕なら、アインシュタイン=ローゼン橋を応用した「魅力度数測定器」を開発するね。これなら、平行宇宙の自分との魅力度の差異まで計測できる。
風俗?ハッ!そんな低俗な娯楽に興味を示すなんて、君の知性が疑われるよ。僕なら、その時間を使ってヒッグス粒子の挙動をシミュレーションする方がずっと生産的だ。それこそが真の悦びというものさ。
Vtuberへの没頭?それは、まるでニュートンがリンゴの落下を観察するようなものだ。表面的な現象に囚われて、背後にある壮大な物理法則を見逃している。君には、その愚かさがわからないんだろうね。
ファッションへの興味がモテにつながる?そんな結論は、シュレーディンガーの猫の箱を開けずに中身を断言するようなものだ。観測前の量子状態のように、不確定で意味のない推論さ。
君の分析は、ニュートリノが光速を超えたと勘違いした時の物理学会くらい混乱している。社会現象を理解するには、まず基礎物理学をマスターする必要がある。
バンクシーの「ナパーム弾の少女」withミッキーのツイ見たが,ロリコンとしてこれに意見が一つある.
少し前にどっかが「ナパーム弾の少女」を児ポだとして規制して,それに対して多くの「まっとうな大人達」が抗議してたわけだが,僕はそれこそが児童ポルノに対する本質的なエゴやと思う.
僕のようなペドにとって,そもそも「ナパーム弾の少女」はかなり魅力的や.つまり低俗な言い方をすれば抜ける.
あれ一番有名なのは真正面から遠目に撮った写真だが,実は他にも何種類かあり,中には全裸のロリに大分近づいた,それこそ割れ目とかもくっきり見えるほど近づいたものもある.
正直エロい.
なので僕はこの話題に対して理性的に論じるなら,当然「ナパーム弾の少女」はネットから抹消されるべきやろう.ほかの児ポがそうなっているように.
ただそうはなっていない,ただ報道写真として価値があると言うだけで.
具体的な名前はださんが,エロさよりもその芸術性が高い作品はいくらでもある.
もう一つは児童を性欲の対象として見る風潮,つまりは社会的法益
なるほど確かに「ナパーム弾の少女」は「善良な人たち」にとって児童を性欲の対象として見ることにはつながらないだろう.たぶん.あいにく僕はそのような人たちでは無いから推測にしかならないが.
しかし本邦においては児ポの要件に実在性をおいている,つまり僕がcomic loを持っていても逮捕されないことからもわかるように,児童ポルノ規制は対象児童の個人的法益の保護を重視しているのは自明だろう(無論法規制はより複雑なプロセスを経ていることを前提にして)
では,「ナパーム弾の少女」は他の児童ポルノとは違い被写体を保護していると言えるのか.否だ
ベトナムで,戦禍に見舞われ,命からがら逃げている写真を,先進国の人々が何十年にエアコンの下でネットサーフィンをしながら見ている現状は,とうてい彼女を保護しているとは思えない
彼女に写真に撮られない選択肢がなかったとは思えない.そもそもそんな判断すら出来なかっただろう.
女性の写真家に,自由意志(未熟者に自由意志がないといえばそれまでだが)で,十分な対価をもらってヌードを提供し成立した児童ポルノより,「ナパーム弾の少女」が健全だとは到底思えない
結局のところ,「ナパーム弾の少女」は「高尚」だから存在を許されているに過ぎない.
高尚だから,「善良な人たち」はそれを性欲の対象としないから.
ただ自分たちが善良で清廉で正常であるために,「低俗」な児童ポルノは規制し,「高尚」なものは残す.
その気が無くともついつい道行くこどもを視姦して,あわよくばロリとがっちゃんこすることを望んでるのだから.
ただ,異常者の一人として,「善良な人たち」にたいしてとても腹が立った
討論番組で全員がただ喋ってるだけなのがずっと納得できない。
あれは口喧嘩なんだってわかってるけど、みんな自分の言いたいことを好き勝手言って、好き勝手喋って何も相手のことを理解してないし自分の考えてることも伝わってなくてずっと解決してない。
視聴者は視聴者でみんなが何言ってるかわかってない。ただ「こっちの方が強そうだ」と雰囲気で見て「雑魚w」とか「強いw」とか楽しんでるだけに見える。
ホワイトボードなど使ってまとめたりしない時点でなんというか低次元な議論だなって思う。全員の記憶力を無駄に要求する。
討論番組のよくない点はあれを見た人が「これがディベート」だと思うところ。まともな議論をしたことがない人は討論番組がふつうの会議の手法だと考えていそう。
ホワイトボードを使ったら暴言も自然と減るし目線も合う。暴言が減るのは直接「おまえはバカだ」や「もう少し頭働かせてください」などを議事録にそのまま載せる形になるからで、目線が合うのは他人の言葉を言語化することによってみんなが「そういうこと」とか「それはちょっと自分とは違うな」とか「確かにそういう考え方もできるな」とか「そういう観点があったのか」とか考えが広がるから。
俺はテレビほぼ見ないけど、飲み屋の口喧嘩みたいな議論もどきを見かけると「やっぱりホワイトボードとかは使わないんだなあ」と思って、そのままその低俗さに悲しくなる。
視聴率をとるためかもしれないけど、視聴者側が「ホワイトボードすらねえのかよ。三流の議論だな」と一蹴できる程度には社会人として大人になってほしいなと思う。
ネット上では様々な暴言が溢れているように見える。ある人は「チー牛はタヒね」と言い、別の人は「弱者男性はキモい」と言う。これらの言葉は、現代社会の深層に潜む闇を映し出す鏡だ。人間の本質的な攻撃性や、社会の歪みが、匿名性という仮面の下で露わになる。しかし、最近はこういう低俗な連中にも寛容になってきた。彼らを「子どもたち」と思うようにしたのである。
この視点の転換は、ある日突然訪れた。自分の地域のbakusaiを覗き込んだときのことだ。そこには頭の悪そうな書き込みが溢れていた。その瞬間、啓示のように一つの考えが浮かんだ。愚かなことを言うのは頭が悪いからであり、頭が悪いということは、精神が子どもだということだ。
この洞察は、人間の本質に対する深い問いを投げかける。我々は本当に理性的な存在なのだろうか。それとも、理性という薄皮の下に、原始的な衝動や感情が渦巻いているのだろうか。ネット上の暴言は、文明社会という仮面の下に潜む人間の野生性の表出なのかもしれない。
子どもたちは社会が責任を持って育てていかなければならない。この命題は、単なる教育論を超えて、人間存在の根本的な在り方を問うている。我々は、自らの内なる「子ども」とどう向き合うべきなのか。社会は、その集合的な「子どもらしさ」をどのように昇華させ、成熟へと導くべきなのか。
人間の意識は、表層と深層が複雑に絡み合った多層構造を成している。表面に現れる攻撃的な言動は、その人の内面にある深い葛藤や不安の一端に過ぎない。我々は、この意識の深層にまで降りていき、そこに潜む真の欲求や恐れを理解しようと努める必要がある。
さらに、個人の意識の奥底には、人類全体が共有する原初的なイメージや衝動が眠っているのかもしれない。この集合的な無意識は、時として社会全体の行動パターンや価値観を形作る。ネット上の暴言は、この集合的無意識が現代社会という文脈の中で歪んだ形で表出したものだと考えることもできる。
しかし、この「症状」を単に抑圧したり、無視したりするのではなく、それを社会の成長のための機会として捉え直す必要がある。子どもたちが成長過程で様々な試行錯誤を経験するように、社会もまた、こうした現象を通じて自己を再定義し、より高次の段階へと進化していく可能性を秘めている。
結局のところ、我々一人一人が「子どもたち」なのかもしれない。完璧な大人など存在せず、皆が日々成長し続けているのだ。その意味で、ネット上の暴言を発する人々も、我々自身も、同じ宇宙船地球号に乗った旅人なのだ。互いの未熟さを認め合い、寛容さを持って接することで、人類全体がより成熟した段階へと進んでいけるのではないだろうか。
それってヨxistのことでしょ?
多分奴らは「俺たちが抱えてきた鬱屈がかわいそう!」で怒ってないと思うよ。
何で怒ってるかというと「俺たちはのけ者にされている!あんな社会的に許されない低俗な人間がのさばっているのに!」で怒ってる。
奴らってこのコンテンツの社会的意義が~社会問題に目を向けて~とかそういうアカデミックな感じで触れてるのよ。
大学のレポートや論文を書いてるっていうとイメージ付きやすいか?
でも今のオタクでそんなアカデミックな感じの楽しみ方ってメジャーでもなんでもないでしょ?
一般人がドラマや映画を楽しむように、アニメやゲームを楽しむのが普通じゃん。
というか、一般人でもドラマや映画でアカデミックなことしないでしょ。
ブルアカで「エッッッ!!」だの「過酷なオ〇ニー」だの、むしろヤンキーっぽい消費の仕方じゃん。
学校で言うとヤンキーが先生やクラスメイトから褒められて、まじめながり勉がバチクソに嫌われて説教食らってるような感覚よ。
そりゃ「なんで社会的に許されない上に、安っぽい消費につながる女性蔑視表現がのさばっているんだ!?こんなものを許すな!!!」ってなるわな。