はてなキーワード: 位置エネルギーとは
心ぴょんぴょんとかとかそういう楽しげなフレーズを俺も一度使ってみたかったんだけど、どうも使いどころがわからない
というか使う機会がない。そんな弾むことねえもん
ネットだと適当な事言えちゃったりもするけど、そこまでの嘘はつけない
毎日ただ惰性だけで生きてる
一年以上前に転職した時のがんばるぞーおーの惰性だけで暮らしてる
摩擦とか何とかでどんどんエネルギーは失われていく
もともと大した精力があったわけでもなく、日々の仕事をさほど効率的に回せているわけでもなく、どんどんどんどん堕落していく
もう落ちる先がない
このままじゃダメだと思うんだけど、それを変えていく気力もない
面倒臭い
自由の発見、自由論
解る人は自由な人
だからといって解らない人の中に自由な人がいないとは限らない
何かが「自由」かどうかを知りつくす事は不可能だけど、「自由の否定」ができないものは沢山確認できる
「わからないという事がわかる」という「無知の知」から「わからない事がそもそもわからない」という事は
確かに言えそうに感じるけど、そこで少し視点が自由になったのではないかと言える視点からは
「そもそも何からも認識されてない何か」すらに対しても「存在」として見る事が可能になる
それでは、、まず「数」の意味。考え方、数え方を基に展開収束を実際に行き来して
自由に自由そのもを扱い、自由にここに表す様をご覧頂き「どう感じるか?」を自由にしてみてください
これからはじまる文章を「どう感じるか?」をなるべく自由に感じてもらえるように書きました。
書き手の私が視点を自由に移動させますので、一緒に移動したり、無視したり、反発してみたり
様々な視点で読み進めて頂けたら幸いです。 勿論、今ここでスルーしたり時系列的に一つ前のページに戻っても自由です。
さあ何もかもから自由になってみましょう!それではばいばい!
「数と自由の両者を次元という次元からそれこそ自由に俯瞰するところから始まった思索記」
自由の数え方は、まず自由を知ってからではできないの?
いいえ
まずは「在った」のかどうかが「数える」という行為の前提です
なぜなら、数の次元は数でもってその「次元」を扱える事から「次元」という考え方そのものよりも
上の次元として考える事ができる
その時にそれらの次元同士の関係性を俯瞰する「視点」という次元が
「数という次元」が「次元」という「次元」の内部外部問わず自由に在るという事を認識した「視点」そのものが
「数という次元」と「次元」という次元からも「自由に在った」からだという事だ
なぜなら、まず「次元」よりもその次元を認識しそれらの間柄、関係性が認識できなければ
そもそも意味と意味の繋がりを認識する事はできず、意味も意味として認識する意識そのものが無いという事になってしまう
意識があるからこそ「次元」に対して「数」が自由で在ると同時にお互いの関係性そのものが「次元」で繋がり関係し合っている事に
気が付かないはずだし、築いてこれら何かしらの対象に対して意識を持つ事ができる
その意識であり意識としての働きも併せ持つという事を否定できない「視点の次元」は
「●●の次元」とあらわす以上は次元という考え方の内部では自由に移動できているはずなので
「視点という次元」は「次元」という考え方の内部にしか存在しないはずなのだけど
視点が「次元の次元」からも自由でその外からの視点で認識しない限り視点という次元そのものが次元という次元の内部だけで自由なのか?
はたまた、どちらか一方で自由なのか、それとも自由ではないのか? わからないし、知覚しないはずだ
でも私たちは、常に何らかの認識に対して反応する時に様々な反応を示す
身体が反応を示したり、心が反応を示したり、またどちらか一方であったり、相関のある反応を示したり
相関不明な反応を示したり、また「反応が無い時など」と様々な反応を示す。
という事は、どういう事かというと、これらから「存在の定義」いくつか考える事ができる
存在とは「感じる事」
存在とは「感じ反応する事」
存在とは「何かが生じる事」
存在とは「反応しない事」
「反応がない」という対象はそものも一見すると存在していないかのように考えられるけど
何かが「ない」と感じた時にその「ない」という意味が生じてしまうので
なぜかというと
「無」はその性質から、もしどこかに「存在していたとしても」認識できないはずだけれど
無に対する認識がそもそも無ければ、その性質や関係性などをこのようには言い表す事はできないはずだ
もし貴方が、何らかの認識をする時に「その認識」の存在が「有」でもあり「無」でもある矛盾によって
そのバランスでもって存在しせみせているという認識を持つ視点に対しても自由であるのならば
それは究極の自由「自由からも自由」で在る実感でき本当の「自由」を楽しむ事ができるだろう
簡単な事だと言ってしまえば、どのように思われるかわからないけれど
1=有限に在る 0=無限にない「無という次元に在るのか無いのかワカラナイ」
として
1=自由に設定できる有限 0=無の限り「ないものをそもそも測れないので自由度は不明」
と考えると
ただの数字の「1」ですら実は自由だという事が解る
ほら、次元は数で測れる事が可能だ 他の何かや他の次元からも観測はできるかもしれないけれど
自由というポテンシャルエネルギーにはベクトルがありそのベクトルには「広がり」は在る事がわかる
がしかしそれと同時に「収束」のベクトルが発生してしまう事を忘れてはいけない
何かの関係性を構造という認識だけでもって解こう説こう知覚しようとすると
縛られると同時に位置とその位置の持つポテンシャルエネルギーが
構造が構造として存在する為に構造を維持しようとして働く反対向きの方向性の認識が発生しているのに
なぜなら認識そのものがエネルギーを持つ以上、構造次元に対して自由な視点は
存在する事が自由であるし、その次元内に存在したと同時に同じ次元内で引き寄せられてしまうばかりだと想いがちなんだけど
この考えを公開するという事は、その次元間の関係性からも自由になって認識して
自由に「自由」そのものを考える事だできた事を明かしたかったからである
おわりんご
前半分と、後ろ半分は言いたいことが違うから。
に突っ込まれた。という事でいい?
位置エネルギー というか ポテンシャル 単体は 定義しようと思えば テンソルでもベクターでもスカラーでも そのいずれでも定義可能であるが(ベクトルポテンシャルが存在している)
エネルギー交換の法則をベースに考えると、ポテンシャルエネルギーはスカラー量であるほうが便利であるから、ポテンシャルエネルギーを位置エネルギーとしたんだなぁ。という話。(和訳したと言うよりもスカラーポテンシャルが持つエネルギーをポテンシャルエネルギーと命名した)
ポテンシャルのエネルギーは スカラーポテンシャルとベクターポテンシャルがある(らしい)し ベクターやテンソルと考えることにも非合理性はないのに
なぜ、ポテンシャルのエネルギーであるところのポテンシャルエネルギー=位置エネルギーを わざわざスカラー量に限定したのか? という話で 繰り返しになるけど エネルギー交換の法則をベース にしているんだなぁと。
思った ということ。
つまり僕は ポテンシャルのエネルギーと ポテンシャルエネルギーの違いがわからなかったけど、うっすらわかって、まだまだ趣味の範囲で勉強するよという話。(用語が不正確ですまんね)
逆に言えば、仮に 運動エネルギーをベクターで表す社会があったとしたら、位置エネルギーもベクター量だった可能性が高いんだなぁ。という 話。
命名規則の話かね。
位置エネルギーで言えば、空間中の適当な力場F(r)中で、点A(座標r_A)から点B(座標r_B)に物体を移動させたとき、仕事
ΔE = \int_{r_A}^{r_B} F(r)・dr
が経路によらないとき、ΔEを(r_Aに対するr_Bの)位置エネルギーと定義する。というだけ。
定義が正しいとか正しくないとかそういう問題ではなく、そういう性質を満たす力場Fが自然界に存在するのかどうかを実験的に確認することしかできない。
例えば重力場は(非相対論的極限では)実際にそういう性質を持った場であることが増田の想像を遥かに超える膨大な実験事実によって確認されているわけ。
この場合の位置エネルギーは、重力の事を言っている(正確には違っても、広義で読み替えて問題ないと思うんだが)何が問題なの?
厳密に言わないとダメとか、べつに授業じゃないんだから、意味が伝わればOKでしょ。
相手の言いたいことを類推して、読み替える能力がないの? あと 間違いを訂正する場合は それはXXっていうんだよ。と正解をいってね。 どういうことを言いたいのかがわからん。
どうでもいいけど、重力加速度 g ベクトルで そのエネルギーはその内積・量だから。ってことらしいんだが。
文章から把握して、重力加速度 g からくる 力 の事を言いたいって思って 補足したんだが・・・ なぜ、用語定義が違う。って 怒られなきゃならんのだろう。
かなり横からでフォークリフト乗らないけど 位置エネルギーでもあってるだろ。
位置エネルギーが関係ないなら、軽い荷物でも重い荷物でも旋回できないことになるが、軽い荷物なら旋回できるだろ。高い位置低い位置も関係なくなっちゃう。
重い荷物を高い位置に上げていると、位置エネルギーのベクトルが大きく下に働いていて、そこに横向きのベクトルをかけても、横向きのベクトル<下向きのベクトルというふうになると
結果的に 斜め横のベクトルが働くことに成り、それが、フォークリフトの重さよりも大きいと横転するはず。 理科の知識だけで言うけど。 だれかフォークリフトに詳しい人がいたら捕捉よろ。
人間が、重い荷物を持っているときに動いていなくても、自分だけ移動しようと横に動くと、荷物がついてこなくてコケルみたいな。
逆に位置エネルギーゼロなら、荷物だけが前方にすっ飛んでいくんじゃないだろうか?摩擦が0なので。
重心でも説明できるけど、位置エネルギーでも同じ。
たとえば、お湯を沸すには、ガスのエネルギーが必要で、水がお湯になるとガスが燃焼して熱に変わりガスはなくなる。
なべを伝わって熱は水に移っていき、お湯になる。残念ながら、なべはガスが燃焼した熱をすべて、水に伝えることができないため、熱はロスして、空気中へ消えてしまう。
もともと持っていたエネルギーよりも増えることはない。
ガソリンエンジンの場合、シリンダーの中でガソリンを爆発させて、爆発したときにピストンが動くようになっている。ガソリンの爆発でピストンが動く動きは、あまり効率がよくないらしく、ガソリンが持つ熱量の9割くらいは、熱となって車を動かす力にはならないらしい。
無駄が大きいので、バッテリーを積載して、回生モーターでエネルギーを回収しても燃費向上の効果があるらしい。
バッテリーを作るためのエネルギーや重いバッテリーを積載することによる無駄はあまり議論の対象にならない。
位置エネルギーを電気に変える水力発電では、山の上に降った雨を山の下に置いた発電機で電気に変える。
自然が勝手に山の上に運んでくれるのであれば、エネルギーは無限大に見える。
浄水場の送水口に発電機を置いて発電というニュースを見て、目を疑った。
浄水場のポンプで押し出した水のエネルギーを発電で回収したら、送水に余分な電気代がかかるのではないか。
もしかするとそんなことは杞憂なくらい優秀な方々が考えたことなんだろうから、きっとそのような初歩的な矛盾はとっくの昔に解決されているのであろう。
エネルギー保存の法則を越える大発見に思えるがそんな大ニュースが世界を席巻したことは聞いたことがない。
最近聞いたある大学教授の主張だと、天然の鉱山から産出するウランを使う原子力発電も自然エネルギーに分類されるのだそうだ。
この意見には、思わず合点した。石油も石炭も自然から採れるものだから自然エネルギー!とってもエコです。
水力発電用に川から水を分流したら、東京のJRの発電源の信濃川の十日町付近のように水は枯れてしまうし、自然のエネルギーの流れを変えてしまえば、必ず影響が出る。
風力発電をすれば、発電機が弱めた風のエネルギーの分だけ、風は弱まる。風下で風が弱まれば、生態系に影響がでるのだろう。
発電やエネルギーの話題が出たら、エネルギー保存の法則を思い出してほしいと思ったお話でした。
もしあなたが、位置エネルギーうんぬんを書いた人と同一人物なら、用語の定義が他の人と違うんだから無理に理論的に説明しようとするのは止めた方がいいと思う。
濾過されるってことは位置エネルギーが高い状態のまま保存される
えっ?
えぇと、放射性物質は粒子だぜ?
常に水が流れ続けるとか、圧力ない限り地中では動かんと思うんだが。
濾過されるってことは位置エネルギーが高い状態のまま保存されるってだけ
地層にろ過されたら、位置エネルギーは消費されるんじゃないの?
…と思って読み返してみたが、
ここらへん、漏斗にのせるタイプのろ紙をイメージしてるのかな。
(追記)
他の方からも突込みが入っているようなので。
ろ過がどういうことかわかってない、というアプローチは「お前もわかってないだろ」と言われちゃうからやぶへびだと思う。根拠薄弱なのに安心しちゃう、っていうのがダメなら根拠薄弱なのに心配しちゃうのもダメだし。
そんな都合よくろ過するわけねーだろ、とは俺も思うけど。
原発廃止派に、原発を全部いきなり止めてそれで必要だった電力はどうするの?と聞いても、「再生可能エネルギーがー」といった具合に、"新エネルギーがいきなり原子力を置き換える"と思ってる人がいます。
新エネルギーを役立てるには必要な前提がいくつかあります。なぜ必要なのかを理解するためには、知らなければいけないことがいくつかあるので、それをまとめてみました。
曖昧な表現や間違っている部分がある可能性や、将来の展開について個人的な想像が含まれていることをお断りしておきます。
(それは違うだろ、という点があればトラックバックで補足してもらえればと思います)
水力は電気が余って捨てられている夜間に水をくみ上げて位置エネルギーに変換し、昼間のピークに放出している。水力が他の発電と比べて優れているのがこの"位置エネルギーに変換し、必要な時に即座に生産できる"ところ。
しかし、水力発電に伴うダムの建設には環境破壊など大きな問題がある。貯められる電力という水力と同じポジションを担う発電、送電、蓄電技術が今後重要になる。これについては後述する。
原子力発電は大きな発電力があるが、ほとんど調整がきかない。火力発電は原子力発電に比べればずっと調整がきくが、それでも出力を変化させるとロスが大きくなる。これら二つは、変化が少ないかわりに大きく安定したベース電力を得られる発電方法といえる。
逆に水力発電は、さほど大きな発電量は見込めないが、位置エネルギーに電力を変換し必要な時に放出するピーク電力対策に優れた発電方法といえる。
現代の発電は、このベース電力とピーク電力対策を組み合わせて需要に対応している。
夜間は電力が捨てられて、昼間は電力が足りない。
電力の需要量は、時間に応じて夜間は低く昼間は高くやまなりの曲線を描いている。仮にベース電力だけで全てを供給すると、ベース電力の必要量は需要のピークに合わせなければならない。需要の谷にあるときには、必要量を発電量が上回った分がそのまま無駄になることになる。
そこで、水力発電のような"夜間のあまった電力を一度保存し、ピークのタイミングで生産できる"補助があれば、ベース発電の出力をピークにあわせる必要がなくなる。結果的に無駄にする電力が減り、必要な総発電量も減る。水力発電は少ない発電量しかないが、その特性上見かけよりも必要総発電量の削減に役立っている。
先にも言った通り、ダムを作る事は大きな環境破壊を伴う。いくら水力の貯めができる点や追従性が優れていても、ほいほい増設できるものではない。しかも、火力発電を(ロスを出しながら)調整し、水力発電がフルで頑張っても、夜間と昼間の必要電力のギャップには追いつけない。夜間に大量の電力が捨てられているわけだ。
冬と夏の電力需要にも同じ問題がある。発電所の新設は夏の電力需要のピークを見越して行われる。電力会社が「電力が足りない!新設しなければ!」と言う時、それは「夏の昼間のピークに足りない」ことを示している。
水力発電の担っている仕事を、企業や個人レベルで行っていく必要がある。しかし、水力なんて大規模なものは普通できない。別の蓄エネルギー方法が必要になる。
現実的なものには氷蓄熱があるだろう。エコアイスと言えば聞いた事があるのではないだろうか。電力会社は数年も前からこの氷蓄熱を普及させるために夜間の蓄熱用の電力を非常に安くしている。
冬と夏の時間スケールでなら、冬の間にためた除雪の山をそのまま夏まで持ち込んで冷房に利用するという手段が北海道では実用化されている。
海外では巨大な電池を設置する例も出てきている。
EUでは時差のある国家間で電力の融通が行われている。そのため、夜間に捨てられる電力は日本に比べて少ない。また、工場の廃熱等で発電する熱→電気の再利用が進んでいる。
日本は東西ではなく南北に長いのでEU間のような時差もピークの差もない。しかも島国なので送電技術が進歩しないかぎり隣国と電力を融通しあう事はできない。北海道の電力は余っているが十分に生かされていない。同じく西日本からの変電の問題もある。これらの改善には膨大な金が必要だそうだ。
(送電技術が進歩しまくった未来には、電力輸出国がありうるかもしれない。)
個人規模では電気自動車があげられる。夜間のうちに充電できるからだ。ただ電気自動車は高価で、走行条件によっては航続距離が非常に少なくなるなどまだまだ普及するものには思えない。古いクーラーを省エネのものに変えていくのは効果があるらしい。
その通り。しかし、新エネルギーで原発を無くそうといっている人は本気でいきなり代替になると思っているのだろうか?新エネルギーや風力や太陽光などの再生可能エネルギーはすぐにはベース電力の代替にはならない。今の技術では、設置コストや生産にかかるコストはもとより、発電量でもベース電力を担うものにはならない。
だけども、新エネルギーが全くの無駄なのではない。新エネルギーは火力や原子力が担うベース電力をいきなり代替するようなものではないが、今の水力が担っているピーク電力を強化することで、結果的にベース電力の必要量を下げ、火力発電所や原子力発電所の新設を少なくする可能性がある。
新エネルギーが実用化されるとしたら、まずはベース電力の代替ではなくピーク電力の補助ではないだろうか。今後のプロセスは次のようになるのが理想的だと僕は考える。
今更ですがタイトルはちょっと良くなかった。原発廃止派が余計でした。漠然と訴えてる人は廃止派に多いという偏見が確かに僕にあった。ご指摘の通り、極端な推進派廃止派は声が大きいだけで、数で言えば「原発いきなり全部は止められないから現実的に頑張ろう派」「しょうがないと思ってるけど原発はこれ以上増やさない派」「東電や政府の問題は追及するけど今安全な原発の運用は認める派」のような人達がサイレントマジョリティな可能性はあります。原発の話題をする時にまず「推進派なのか廃止派なのか」を前提にする今の空気自体が議論を横道に逸れさせるめんどくせー状況を生み出してるともいえそうです。今回タイトルで自分がそれを僅かでもやってしまったというのはちょー後悔してます。
代替エネルギーについて網羅しきっていない→素人の僕が説明するより資料見てもらったほうがいいと思う。このまとめは"前書き"部分にあたる話だから、代替エネルギーやその進歩の展望について網羅することはしていない。バイオマスエネルギーの開発状況とそれが発展途上国の農業に及ぼす影響、メタンハイドレートは掘れたらすごいけど掘るの難しい、国境問題も絡む話、ゼーベック素子の話、超伝導蓄電(これ正直僕は詳しくない)等は調べれば色々出てくるよ。
何れにしても、新エネルギー利用も化石燃料と原子力の利用を少なくするのも、エネルギーを無駄にしない仕組み→スマートグリッドや地域間国家間での融通、蓄電技術、熱の再利用などがセットなのは間違いないわけで、その必要性を理解してもらうのに書いたのがこのエントリです。
地元から反対されてるのに暴力的な政治力で建設してしまうケース、トラブルがあったときの縦割り体勢による不透明さ、フットワークの重さ、補償問題、風評被害への対策…これら社会的な問題は原発の技術を認めていても無視してはいけません。
逆に、原発に反対であっても社会的な問題を理由に原発の技術面を全く評価しないのは話をややこしくします。技術の存在自体が社会的な問題だと捉える人が出てくるからです。そうなると技術不信で一層正確な判断ができなくなり、パニックや陰謀論に陥ってしまいます。
原発の技術を正しく認める事で、「最新式ならこうできるはずだった」「もっと最善の方法があったのではないか」という人為的なミスや運用上の問題が見えてきます。
漠然と「原発は安全だ、何故反対するのだ」「原発は危険だ、全部信用できない」とならずに、原発の社会的な問題と技術的な問題は分けて考えるとパニックにならずに少し落ち着けるのではないでしょうか。
あんま知識のない俺の認識といめーじを正直に書く。多分一般人の認識なんてこんなもん。
風評被害が一番怖い。泊の知り合いがいるので。漁師廃業だし。今も福島の野菜の話きいてクソがと思っている。Twitterで「だってこえーもん、正直広島だって未だに行きたくねーよww」と発言したやつがいて、普段ゆるふわ系の子が「実家広島だけど、うちのばあちゃんはなー」と説教し始めてびびった。気持ちはわかる。
北海道のあの並んでる奴はかっちょいいよねー。ヨーロッパでは結構普及してるとか聞いた。世界的にはじわじわふえてる。日本だと風が弱い事よりも、台風の時耐えられないのが厳しいらしいよ。北海道なら台風ないからな。
設置コストが安くて、耐久性もあって、一箇所壊れても分散型だから稼動可能なのがいいよね。補助としては優れてるイメージ。
日本の日照時間じゃどうなのーと思ったけどそんなに悪くないらしい?土地さえ確保できれば超クリーン。原料も珪素系でありあまってるので、製造を含めても環境への影響や資源の問題が少ない。でも土地ー
雪積もる土地だと冬の間役に立たない気がするんだけどどうなんだ。
宇宙空間で太陽光発電は、世界はいまそれどころじゃなさそうだからあと数世紀はむりだろ。
http://www.himawari-net.co.jp/ こういうのとか太陽光をうまくいれる建築デザインで地下施設等で日中はできるだけ照明に電気つかわないようにできないの?
日本の日照時間じゃ発電には無理だろうけど、家庭単位でお湯にするやつはまあまあいけるんかな。
ぺルチェ素子の逆で温度差を電気にできるらしい。高温に耐えられるようになれば夢がひろがりんぐ?温度差ってことは、すごく寒い所の地熱とか、すごく寒い所のごみ焼却とかを電気にできるようになるのー?
採取さえ出来れば、今ある火力発電所にそのまま使えて、化石燃料より二酸化炭素もでない。しかもこれが使えるなら日本は世界でも有数のエネルギー自給大国になれるだけの埋蔵量があるらしい。俺の生きてる間には使えるようになってほしい。
でもなんか政府の見通しがアホすぎて、お金のかけ方が下手で採掘技術がうまく開発進んでないらしい?
温泉業界が反対するから無理だろ日本じゃ。俺も温泉好きだから温泉に影響あるならやだな。でも温泉出てないところならアリじゃね。
あれって赤道付近か逆にクソ寒いところじゃないとむりだよな。日本には関係なさそー
日本には発電に使えるほど激しいところがなかった気がする。あればよかったのに!
十分ダム作りすぎだからこれ以上作らなくていいよ。電力を位置エネルギーにして事実上貯めておけるのはえらい。
化石燃料尽きそうだしなー。天然ガスかメタンハイドレートならいいんじゃね。
これがあると、家庭単位で節電志向の細かいコントロールができて、電力の無駄が少なくなるって認識でおk?
日本の電力会社は変な方向に技術発展しすぎてるらしい。だからいまさら方向転換できないんだと。海外じゃアメリカ欧米は当然、中国でさえスマートグリッド導入に運んでるのに。携帯なみにガラパゴスじゃん。ワロス。どうするんだろ?
コメついてたので。俺は自転車であいぽんを充電できるやつの購入を結構マジで考えてるんだけど。発展途上国じゃ手回しや足回しで携帯の充電してるらしーぞ。
差別するようなバカは、差別されても仕方ないと思う。「差別をするバカ」と差別されて仕方ない。
それにしても、頭がいい人間が頭が悪い人間(彼らにとっては「人間」ではなく「ケモノ」なのかもしれないけど)を差別しても寛容なのはなぜだろうか?
ネットって言うのは自動車の教習所みたいだ、っていうエントリがあった。インテリもヤンキーもおたくもDQNもヨシモトもアキンドもゲイニンもいて混沌な場所だ、って言う話だった気がする。そのブコメに、ああいう場所(自動車教習所)は苦手だ、みたいなことを書いてあった人がいた。頭のいい人だ。
たとえば、DQNやヤンキーやバカが苦手で同じ場所(公共の場所)にいたくない、なんて、言っても拍手喝さいかもしれない、頭のいい人は。だけど、バカDQNヤンキーを朝鮮人部落知的障碍者変換したらどうなんだろうか。
わたしはあたまがいいっていうことを理由にいじめられた、そんなエントリがあった。まあ、そういうこともあるだろう。しかし、「わたし」以外のいじめの場合、圧倒的にあたまが悪いの方が多い(いじめの理由付けの一番は見た目だと思う。二番目がバカ)。でも、あたまのいい人は頭がいいということでいじめられたと共感する。
頭がいいって言うのは、頭が悪い人間にとってそれだけで暴力に近かったりする。コミュニケーションには暴力がいつも含まれている。だけど、頭のよしあしで立場(位置エネルギー)が違い、コミュニケーションによる暴力的な部分の運動エネルギーに変換されて、痛いんだよね。
子ども嫌いで、子どもとかかわらずに生きても文句を言われない社会ってとてもいいなあ、と思う。ぼくが子どもが苦手だからである。ロリエでもロリ絵でも猫耳メガネショタでも女装ぼくっこでもヌけるぼくですが、子どもは苦手だ。いままで童貞でこれからも童貞であろう貧乏なぼくは子どもを育てることはないだろう。まあでも、もし、自分の子どもができたとしても、苦手だろうなと思う。しかし、だけど、子どもと接さずに社会生活を送るって変だ。虐待親とか非難しても、なにかおかしい。
子どもとかかわらずに生きることができるって、子どもを壁の中に閉じ込めているってことじゃないのか?そういえば、子どものときは、ぼくはいつも、不自由で不機嫌だった。今も、不自由で不機嫌だけど、あのころよりはましな気がする。
それと同じ。頭がいいであろうあなたたちが、頭のわるい人を閉じ込めていない?ってはなし。いや、実際、とても不自由を感じるわけです。でも、頭がいい人は、そんなわけがない、平等だ、って言うんだろうかな。
頭がいい人はだいたい頭の悪い人が嫌いだ。そして意識的に無意識的に壁を作る。バカに入れない壁。そんなことをしていないとは言うが、言葉の暴力や知性で傷つけたり操ろうとしたり見えなくしたりする。
あと、大学って研究機関でもあるんだろうけど、教育機関なんだから、バカを落とすなよ、と、最後に低偏差値低学歴低IQのマスダは思います。
差別するようなバカは、差別されても仕方ないと思う。「差別をするバカ」と差別されて仕方ない。
それにしても、頭がいい人間が頭が悪い人間(彼らにとっては「人間」ではなく「ケモノ」なのかもしれないけど)を差別しても寛容なのはなぜだろうか?
ネットって言うのは自動車の教習所みたいだ、っていうエントリがあった。インテリもヤンキーもおたくもDQNもヨシモトもアキンドもゲイニンもいて混沌な場所だ、って言う話だった気がする。そのブコメに、ああいう場所(自動車教習所)は苦手だ、みたいなことを書いてあった人がいた。頭のいい人だ。
たとえば、DQNやヤンキーやバカが苦手で同じ場所(公共の場所)にいたくない、なんて、言っても拍手喝さいかもしれない、頭のいい人は。だけど、バカDQNヤンキーを朝鮮人部落知的障碍者変換したらどうなんだろうか。
わたしはあたまがいいっていうことを理由にいじめられた、そんなエントリがあった。まあ、そういうこともあるだろう。しかし、「わたし」以外のいじめの場合、圧倒的にあたまが悪いの方が多い(いじめの理由付けの一番は見た目だと思う。二番目がバカ)。でも、あたまのいい人は頭がいいということでいじめられたと共感する。
頭がいいって言うのは、頭が悪い人間にとってそれだけで暴力に近かったりする。コミュニケーションには暴力がいつも含まれている。だけど、頭のよしあしで立場(位置エネルギー)が違い、コミュニケーションによる暴力的な部分の運動エネルギーに変換されて、痛いんだよね。
子ども嫌いで、子どもとかかわらずに生きても文句を言われない社会ってとてもいいなあ、と思う。ぼくが子どもが苦手だからである。ロリエでもロリ絵でも猫耳メガネショタでも女装ぼくっこでもヌけるぼくですが、子どもは苦手だ。いままで童貞でこれからも童貞であろう貧乏なぼくは子どもを育てることはないだろう。まあでも、もし、自分の子どもができたとしても、苦手だろうなと思う。しかし、だけど、子どもと接さずに社会生活を送るって変だ。虐待親とか非難しても、なにかおかしい。
子どもとかかわらずに生きることができるって、子どもを壁の中に閉じ込めているってことじゃないのか?そういえば、子どものときは、ぼくはいつも、不自由で不機嫌だった。今も、不自由で不機嫌だけど、あのころよりはましな気がする。
それと同じ。頭がいいであろうあなたたちが、頭のわるい人を閉じ込めていない?ってはなし。いや、実際、とても不自由を感じるわけです。でも、頭がいい人は、そんなわけがない、平等だ、って言うんだろうかな。
頭がいい人はだいたい頭の悪い人が嫌いだ。そして意識的に無意識的に壁を作る。バカに入れない壁。そんなことをしていないとは言うが、言葉の暴力や知性で傷つけたり操ろうとしたり見えなくしたりする。
あと、大学って研究機関でもあるんだろうけど、教育機関なんだから、バカを落とすなよ、と、最後に低偏差値低学歴低IQのマスダは思います。