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はてなキーワード: 会津藩とは

2023-08-02

anond:20230801214058

ワイは会津藩リスペクトしとるで

地元太閤はんのお膝元やったか徳川幕府は嫌いやけど、容保さまの忠義あっぱれやわ

2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
1531年享禄・天文の乱浄土真宗本願寺派権力闘争である享禄の錯乱管領細川晴元一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文錯乱
1532年北部九州天文の乱大内氏大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前筑前肥前を平定した。
1533年稲村の変安房里見当主里見義豊が、叔父里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。
1536年花倉の乱駿河守護今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳勝利今川義元を名乗った。
1537年河東の乱北条氏今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏今川領に攻め込み河東地域占領した。
1542年天文の乱伊達当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。
1550年二階崩れの変豊後大名大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。
1551年大寧寺の変周防大名大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。
1565年永禄の変畿内勢力を誇る三好氏が、将軍足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。
1568年本庄繁長の乱越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。
1569年本圀寺の変本圀寺にいた将軍足利義昭三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。
1569年大内輝弘の乱九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防挙兵させた。毛利元就九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。
1570年元亀の変伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族粛清追放された。
1574年天正最上の乱出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。
1576年三瀬の変伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族粛清された。
1578年御館の乱上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。
1578年天正伊賀の乱伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。
1582本能寺の変織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺宿泊していた主君織田信長を襲撃した。信長自害した。
1582天正壬午の乱織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川北条上杉が三つ巴で争った。
1585年粟ノ巣の変伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。
1591年九戸政実の乱南部晴政の死去に起因する後継争いか南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。
1599年庄内の乱島津忠恒重臣伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。
1637年島原の乱島原天草苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍鎮圧された。
1651年慶安の変軍学者由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪自決した。
1652年承応の変軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。
1837年大塩平八郎の乱腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商失望した元・町与力大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日鎮圧された。
1837年生田万の乱国学者生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。
1860年桜田門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄引き起こし水戸藩を圧迫していた開国派の大老井伊直弼を襲撃し、暗殺した。
1862年坂下門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体推し進めていた開国派の老中安藤信正を襲撃し、負傷させた。
1863年朔平門外の変破約攘夷派の公家代表格であった姉小路公知暗殺され、薩摩藩田中新兵衛逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相不明
1863年天誅組の変尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国挙兵したが、幕府鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。
1863年生野の変長州支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国挙兵をしたが、幕府鎮圧された。
1864年天狗党の乱水戸藩内の尊攘過激派天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山挙兵したが、幕府鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。
1864年禁門の変前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵会津藩薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。
1874年喰違の変征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。
1874年佐賀の乱征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族佐賀県挙兵したが、政府軍により鎮圧された。
1876年神風連の乱熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府熊本鎮台軍により鎮圧された。
1876年秋月の乱神風連の乱呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、政府小倉鎮台軍により鎮圧された。
1876年萩の乱神風連の乱呼応して、山口県で不平士族挙兵したが、政府広島鎮台軍により鎮圧された。
1877年福岡の変西南戦争呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。
1878年紀尾井坂の変石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。

Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)

明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。

〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺粛清・失脚など。権力上下関係ない。成功たか失敗したか関係ない。

〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功たか失敗したか関係ない。

こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍足利義教暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。

あとついでに。

〜の役:大規模な軍役。必然的辺境への遠征対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役後三年の役富山の役・文禄の役慶長の役など。

〜の陣:長期間の在陣。遠征戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。

という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。

2023-07-16

anond:20230716095423

会津藩死刑者数も水面下の事実だったな

列島の周りは大戦で散った遺骨が沈んだままだが

厚労省は陸地の遺骨しかさな

2023-05-10

後天性薩長アレルギー

私は元福島県民で、薩摩長州が大嫌いだ。

からずっと「薩長の女じゃなければ誰と結婚してもいい。」と言われてきた。しかし親に、妻は「水戸人間(笑)」と言われていた。戊辰戦争では水戸空気だったから。

親の「先の戦争」はもちろん戊辰戦争だった。小学校白河から会津藩がどう遅滞戦闘たか遠足しながら回った。

今思い返せば、福島県民は薩長が、というか新政府に与する態度は日中日韓のそれより酷いものがある。私はこうなるまいと過ごしてきた。

今年度、新卒の子入社してきた。薩摩出身だった。なんかそれだけでもういやだった。

私は、福島県民だったのだ。

2023-04-13

anond:20230413111926

言うて会津藩幕末関連でいろいろあるやろ…

ガチマジで観光名所も何もない埼玉県に失礼やで…

2023-03-21

anond:20230321045834

幕府領地接収して、官僚の恩給にする計画があったからとしか

  

1 徳川は、オランダ東インド会社支援で各藩の鉱山を幕領とし(リーフデ号)、金銀銅の輸出によって体制を維持していた

2 オランダ英蘭戦争の結果、国力が衰退し、1804年には仏ナポレオン占領された(江戸幕府はそれで仏軍軍事顧問にした)

3 1814年、仏ナポレオン政権崩壊し、英独が復活

4 1840年イギリス硫黄を巡ってイタリア海上封鎖を試みて勝ったが、日本とも貿易をしたかった

6 幕府鎖国体制でいたので黒船攻撃させ、各藩の貿易規制も緩和させた

7 ただ幕府と各藩主条約したとしても、幕府が倒されて政権が変われば条約破棄もされかねない、それならいっそ、幕府が倒れても条約継続する天皇制にしてもらいたい

8 イギリス日本駐在英字新聞社を通して天皇制必要を解き、支持藩を増やした(英国策論)

9 どこかの藩が外国船を攻撃したりするので、幕府海軍増強に務めるが、米大統領リンカーン軍艦の輸入を止められてしま

10 薩長天領石高400万石を使って官吏軍人の恩給制度を作る計画をたて、公家を味方につける

11 問題天領にいる旗本会津などの佐幕派は、徳川引退しても利権を離さないに違いない、できれば根絶やしにしたい、あとロシアが近い蝦夷にも兵をおいて天皇管轄にしておきたい

12 1967年11月に大政奉還が行われたが、倒幕派はしつこく放火などで騒動をおこし、それに対し幕府薩摩藩邸焼き討ちで報復

13 新政府徳川慶喜にも難題を押し付けて蜂起させたうえ、死罪1名に付き一家3名死罪とする刑法を作った

14 幕府の軍で警察でもあった会津藩などは当然に反発し戊辰戦争が拡大するが、幕府側には仏兵、新政府側には英米兵も従軍し、はんば代理戦争となった、軍事物資もかなり輸入された

15 佐幕派は敗北し、新設の東京裁判所は首謀者らを一家死刑にして勢力を削ぎ、ゲルマン利権を確保(そのあとで刑法を穏健なもの改正

16 1874年には大久保ドイツから明治通宝印刷機を購入し、新札を元手にのちの西南戦争鎮圧

17 木戸1975年から本当に公家軍人官吏の恩給制度を作りはじめ(現代の1.5兆円ぐらいがかかった)、そのことで農民搾取されるようになった(パウルマイエット談)

18 鉱山新政府側の人間乗っ取り、新たに家督優遇相続制度が作られ、二男三男は工場労働者兵隊になり、貧しい農村の娘は売られ、地方中央格差は拡大

19 天皇ガーター勲章を与えたイギリスのために日清戦争日露戦争もしたが、現地には入院施設も準備されず、負傷者は赤十字神戸丸で佐世保海軍病院まで連れ戻されていた

 

官僚給料が高いのも、真っ黒い歴史の口止め料かなと思いますよね

2022-10-21

anond:20221020235411

最高裁判所を裁けないという憲法の欠陥は、いつになったら修正されるのか?

 

会津藩は21名、幸徳事件24名、二二六事件17名、時の野党合法的に殺した法曹兵がいた

戦後死刑は減ったものの、裁判所がどれだけ搾取容認しているか!!!

2022-09-29

anond:20210111180920

戊辰戦争後の会津藩士の死刑は1人ではなく21人だったことなどは事実上隠蔽されているので

国家的殺人は常に起きており将来も秘される

2022-08-22

仙台育英創始者会津藩出身の人だったって、下手したらそれ伊達市の聖光より因縁あるやつじゃん。

2022-08-12

安倍国葬は反対

民意で決めるわけでもないし

山上の罪が国葬のぶん重いわけでもない

ボリス・ジョンソン辞任スピン事件の慰労にもならない 

 

英国傀儡藩のテロ革命で逆に会津藩士が死刑

英国裁判官香港に現れデモの首謀者を優遇

外国司法操作だって内政干渉だろ

女王はThe interference in internal affairs なんかのバンドが好きなのか

2022-07-28

西田敏行の年表

ニシダトシキノネンピョウ

西田敏行の年表とは、日本史に燦然と輝く西田敏行の業績である

歴史

1169 西田敏行法住寺殿において出家法皇となる。

1180 西田敏行、父と共に源頼朝挙兵に加わり、山木館を襲撃

1561 西田敏行武田信玄啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれ討ち死に

1584 西田敏行西田敏行小牧長久手の戦いで敗れる

1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる

1600 西田敏行真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける

同年  西田敏行石田三成関ヶ原に破る

1603 西田敏行幕府を開き初代将軍になる

1605 西田敏行西田敏行将軍職を譲り、後に駿府城に移る

1614 西田敏行西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける

1716 西田敏行八代将軍になる

1745 西田敏行徳川家重将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る

1860 西田敏行会津藩家老となる

1861 西田敏行愛加那との間に西田敏行を授かる(ナレーション西田敏行

1867 西田敏行西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる(ナレーション西田敏行

1868 薩摩藩西田敏行らと長州藩西田敏行らが協力して幕府を倒す(ナレーション西田敏行

1869 西田敏行五稜郭の戦い新政府軍に敗れる

1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍西田敏行軍は鎮圧され、城山自刃ナレーション西田敏行

1883 西田敏行共立学校の初代校長となる

1904 西田敏行日銀総裁として日露戦争の戦費を調達する

1904 西田敏行京都市長就任し、父である西田敏行のことを、部下に語りだす

1945 西田敏行フィリピン戦場で誤って兄に撃たれる

https://togetter.com/li/976233

https://dic.nicovideo.jp/a/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E6%95%8F%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8

2022-06-19

anond:20220616162806

「時は幕末。京の都では、新選組活躍によって幕府権威が揺るがされつつあった頃である

その年、一人の女が京の街に舞い降りた。名は、真野亜希子。後に『黒魔女』と呼ばれ恐れられることになる人物である彼女はある日、京都所司代に仕える父に連れられて、江戸へ向った。目的は一つ。幕府の中枢にいる松平慶永に、ある提案をするためである。その内容は、将軍徳川家茂天皇家養子にし、『徳川将軍継嗣法』を作るというものだった。真野亜希子はこの難題に対して果敢に立ち向かい、見事その役目を果たした。しか彼女の行動には大きな謎があった。実はこの案は、彼女自身アイディアではなく――」

美和子はそこまで読んで画面をスクロールさせた。すると本文が表示された。

真野亜希子は、当時会津藩藩邸に住んでいた斎藤弥九郎から聞かされた話を参考にしたと言われている。そしてその話は、彼女父親会津藩士であったという事実示唆している。果たして本当に真野亜希子はただの民間人だったのだろうか。あるいは、彼女が密かにバテレン降魔術』を学び、それによって得た力で徳川政権転覆を企てたというのは考えすぎなのだろうか。

いずれにせよ、彼女会津戦争の後、姿を消し、二度と姿を現すことはなかった。しか真野家の家族構成現在不明のままであり、彼女が残した日記などの遺品も発見されていない。また、彼女に関して、いくつかの伝説が残っているが、それらの全てが真実かどうかは、今のところ証明されていない。だが、仮に全て事実だとしたら……

そしてもしも、彼女が再び現代に現れたとしたら……

魔女は今もなお、この国のどこかで息を潜めているかもしれない……」

…なかなかの力作じゃない。さすがは元文学少女ね。

美和子はそう感心しながらその原稿を読み終えた。そして次に添付されていた画像ファイルを開いた。

2022-03-17

anond:20220317184348

会津藩vs旧薩摩・旧長州ならば、どうだったのよ。ずっと結婚許されないとって言うエピソードあったんじゃない?

2019-08-07

anond:20190807012149

会津藩長州藩とは、子供結婚できなかったらしいやん。

今は日本統一国家になるまでは、血みどろの争いをしていたのだろうかと。

  

2018-01-16

anond:20180116221454

伊達上杉蒲生・蘆名と有名どころの戦国大名に所縁がありつつ会津藩絡みのあれこれもあって歴史的にはかなり美味しい。

2017-02-19

北品川駅会津藩喜多方出身者が埋立地に入植したことに由来する

品川付近東海道は海沿いをトレースしており、街道より海側の土地は埋め立てに起因するものである明治維新下北半島流刑された会津藩一部の人は、江戸へ転身し、東海道沿いの埋立地出身地名前をとった北方村を作ったのだった[要出典]。この北方村の北の字が北品川駅に残っているのである[要出典]。北方村の由来となった会津北方喜多方漢字のあてを変えている。

http://anond.hatelabo.jp/20170219120954

2015-09-10

http://anond.hatelabo.jp/20150910144516

長州藩

・何でも部下に丸投げする藩主

過激派が多すぎて薩摩ですらドン引き

テロリスト量産

尊王攘夷にしがみついて外国戦争し敗北

薩摩に助けてもらってようやく倒幕を果たす

会津藩

幕府を主導するリーダーシップ溢れる藩主

・藩祖の遺訓に従い幕府忠義を尽くす

天皇からの信頼も篤い

・海から遠い奥州会津にありながら洋式軍制への改革を断行

朝敵汚名と最新兵器に屈してやむなく降伏

2013-12-16

八重の桜最終回に思う

綾瀬はるかが出ているっていうことで見始めて、誰が主人公だ、山本覚馬か、とか、会津藩の話ばっかじゃんとか、

明治になったら話に展開がいきなり速くなるし、結局何がテーマなんだこのドラマって感じで、最後は惰性で見ていたんだけど、

最終回もつまらんかった。

それはともかく、一つ感じたことがある。

徳富蘇峰が出てくるんだけど、こいつが新聞雑誌でやたらと戦争を煽るんだな。

国威発揚ってことなんだろうけど、とにかく戦争万歳で、八重にたしなめられる。

こいつを見ていて思ったんだが、

第二次大戦ときも、マスコミにはこういう積極的戦争を支持する奴がいたんだろうな。

言論統制だの検閲だのがあったからといってメディア被害者面することもあるが、

加害者っていう側面もありそう。

民間人もそうだろうな。軍や政府にだまされた人もいるだろうが、

積極的戦争を支持して、非国民を探していた奴もいるはず。

少なくともジャーナリズムには冷静にいてほしい。

2013-12-15

http://anond.hatelabo.jp/20131215161537

こんな”安心の世” を創った名君もいるよ。

会津藩主・保科正之

http://ameblo.jp/e-fh/entry-11238373554.html

 

『にっぽん人宣言』

1.人をいたわります

2.ありがとう、ごめんなさいを言います

3.がまんをしま

4.卑怯なふるまいをしません

5.にっぽんを誇り、立場・年の上下関係無く、人を敬います

6.目標にむかって計画的にがんばります

やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです。

2009-08-03

http://anond.hatelabo.jp/20090802224938

で、この講義もちょっと面白くて覚えていたのだが、「警察は元々軍隊であった」という話。

あれ?西南戦争日本陸軍西郷軍に勝てなくて、恥をしのんで(って、言葉の使い方、合ってるか?)警察抜刀隊(旧会津藩主体)を投入したんじゃなかったっけ?

2007-12-01

「何を持って人格者たる資格とするか」についての回答

http://anond.hatelabo.jp/20071201140522

を読んで。

面接すればある程度は分かる。と言う人もいるかもしれないけれども、

実はその人が人格者かどうかについては、何か大きな出来事がその人の身に起こらないとよく分からない部分がある。

老子は、「忠臣というのが注目されるのはその主君が暗愚であるときで、仁や義というものが注目されるのは世の中が乱れているときだ」というような意味のこと(調べていないので文章は正確ではない)を言っていたと思う。

大石内蔵助が「忠臣」として名を残しているのは、主君である浅野内匠頭があのような形で切腹したのを仇討ちしたからであり、近藤勇土方歳三が「義士」として名を残しているのは、徳川慶喜があのような形で大政奉還を行い、新政府軍の恨みが会津藩新選組に向けられることになっても、最後まで「義」を通して戦ったからだ。ということが言える。

歴史に名を残した人が全て人格者だったということではないし、名も無き市井の一人物として過ごした人が、優れた人格者だったということもある。

しかしそこまで大きな出来事ではなくても、その人の言動を見ることによってどれくらいの人格の持ち主かということはおのずから量ることができると思う。

ここから先は私見になるけれども、

1.自分がお金を払う立場になった場合に、店員のことを見下すような言動をとる

2.公共の場・公共の物をわざと散らかしたり、無駄遣いするような行動を取る

3.約束を特に納得できるような理由もなくドタキャンをすることを特に悪いことであるようには思っていない

のどれか一つに当てはまるような場合は、その人には人格に大きな問題を抱えていることが多い。

書いていて少し頭の中身が整理されてきた。

テーブルマナーで、ゲストが手を洗うためのボールの水をうっかり飲んでしまった場合には、自分もそのボールの水を飲むべきだ。というものがあったように記憶している。

人格者」というものは、周囲の人間またはその人の人生を後から眺めた人間が、深く感銘したり快い気分になるような言動をとるような人物ではないか。と思う。

でも、一見「人格者」のように見えているけれども家族の誰かや特定の人物を苛め通していたという場合もあるから、簡単には判断がつかない。

 
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