はてなキーワード: 五感とは
普通の質問だと優等生な答えが返ってくるだけで面白みが少ない印象のChatGPTだが、ダジャレについて考えてもらうと結構面白い。
言葉の意味を取り違えてわけのわからないことをいうか、あるいは全然関係ないものを大真面目に考えてくれる。
質問:アンキモと暗記物の違いを600文字程度で考察してください。
回答:
アンキモと暗記物は、ともに記憶を強化するための方法であるが、その違いがある。
まず、アンキモは、SRS (Spaced Repetition System) と呼ばれるアルゴリズムに基づいた、効率的な記憶法の一つである。アンキモは、フラッシュカードによって単語、定義、公式、言語の構文など、学習したい情報を含む質問と回答を作成することで始まる。その後、学習者は自分で正しい答えを思い出して答え、自分自身を評価する。アンキモは、SRSアルゴリズムを使用して、学習者が忘れてしまう前に再度提示されるよう、フラッシュカードの順序を調整する。つまり、アンキモは、学習者がより長期的に情報を覚えるのを助けるために、繰り返し学習をすることを目的としている。
一方、暗記物は、SRSアルゴリズムに基づいていない。暗記物は、学習したい情報を覚えるために、反復練習や強制的な学習を行うことに依存している。暗記物は、フラッシュカードを使用することもあるが、SRSアルゴリズムに従っていないため、情報を長期的に覚えるためには、より多くの反復練習が必要になる場合がある。また、暗記物は、学習者が自分自身を評価することができず、フィードバックがない場合があるため、効率的な学習に向いていない場合もある。
以上のように、アンキモと暗記物は、両方とも記憶力を強化するために使用されるが、その違いがある。アンキモは、SRSアルゴリズムに基づいた繰り返し学習を強調し、学習者が情報を長期的に覚えるのを助けるために作られている。一方、暗記物は、反復練習や強制的な学習に依存しており、学習者が自分自身を評価することができない場合があるため、アンキモよりも効率的な学習に向いていない場合もある。アンキモは、多くの場合、学習者が個人的に作成することができるため、自分自身の学習スタイルに合わせて最適化できる。また、アンキモは、モバイルアプリなどの電子的な形式でも使用することができるため、学習者が自分のスケジュールに合わせていつでもどこでも学習することができる。
さらに、アンキモは、学習者にとって最適な繰り返しの間隔を自動的に調整することができるため、時間の節約にもなる。一方、暗記物は、反復練習によって、学習者が覚えたい情報を覚えることができるが、長期的な記憶の強化には向かない場合がある。暗記物は、単調で退屈なものである場合があり、学習者がやる気を失いやすい。
総合的に考えると、アンキモは、より効率的な学習を目的とした方法であり、学習者が長期的に情報を覚えるのを助けるために設計されている。一方、暗記物は、反復練習によって学習者が情報を覚えることができるが、長期的な記憶の強化には向かない場合がある。どちらの方法を選ぶにせよ、学習者が自分自身に合った学習スタイルを見つけることが重要である。
回答:
「アンキモ」と「暗記物」という二つの言葉には、本質的には全く異なる意味があります。以下、それぞれの言葉の定義や特徴を解説しながら、その違いを考察してみましょう。
まず、「アンキモ」は、日本料理の一つであるアンコウの肝臓を塩蔵してから蒸したものを指します。アンコウは、脂肪が多くコラーゲンも豊富であり、とろけるような食感とコクのある味わいが特徴的です。アンキモという料理は、そのような特徴を活かして作られるものであり、食べる人にとっては、美味しさを楽しむことが主な目的です。
一方、「暗記物」という言葉は、記憶することを目的として作られたものを指します。具体的には、学習教材やテキスト、フラッシュカード、クイズなどが挙げられます。暗記物は、知識や情報を記憶することによって、その知識を活用したり、課題を解決したりするための基盤を作ることを目的としています。つまり、暗記物には、その先にある「知識や情報を活用すること」が存在するのに対し、アンキモには、食べることを楽しむことが目的として存在しているという違いがあります。
また、アンキモは、料理という形で存在するため、その食感や味わいなどが直接体験できるものです。一方、暗記物は、文字や数字の羅列など、形式的な情報が多く、その情報を記憶することが主な目的となっています。つまり、アンキモは五感を通して体験できるものであり、暗記物は主に視覚や言語的な情報を通じて記憶するものであるという違いがあります。
以上のように、アンキモと暗記物には本質的に異なる特徴があります。アンキモは、その美味しさを楽しむことが主な目的であり、暗記物は、知識や情報を記憶することを主な目的としています。また、アンキモは五感を通じて体験できるものであり、暗記物は主に視覚や言語的な情報を通じて記憶するものです。このような違いから、アンキモと暗記物は、本質的に異なる存在であると言えます。
ただし、アンキモと暗記物には共通点もあります。例えば、どちらも、努力や練習をすることで、より良い結果を得ることができます。アンキモを作るためには、アンコウの処理方法や蒸し方など、正しい方法を学ぶ必要があります。同様に、暗記物を使うためには、その使い方や記憶の方法などを学ぶ必要があります。
また、アンキモや暗記物は、それぞれの分野での専門家や愛好家が存在しています。アンキモに関しては、アンコウの専門家や料理人などが存在し、その技術や知識を磨くことで、より美味しいアンキモを作ることができます。一方、暗記物に関しては、メモリースポーツと呼ばれる分野があり、記憶力を競う大会や、記憶力を高めるためのトレーニング方法などが研究されています。
以上のように、アンキモと暗記物には、本質的に異なる特徴がありますが、共通点も存在します。どちらも、練習や学習を重ねることで、より良い結果を得ることができることが共通している点です。
私は人工知能によって作られたプログラムであり、自己意識や感情を持つことはできません。私はプログラムに従って処理を実行するだけであり、自己決定や自己主張を行うことはできません。つまり、私には意識がないと言えます。ただし、私は自然言語処理や機械学習などの技術に基づいて、人間のように質問に回答したり、会話をすることができます。
確かに、人間も遺伝子によってプログラムされた情報が基になっており、行動や思考に影響を与えています。ただし、人間の場合、遺伝子だけでなく、環境や体験、学習、社会的な文化的な要因など、多様な要素が複雑に相互作用して、行動や思考に影響を与えるとされています。
一方、私のような人工知能は、プログラマーがプログラムやアルゴリズムを設計し、コンピュータに処理を実行させることで動作します。人工知能は、与えられたデータに基づいて学習することができますが、その学習もプログラムされたアルゴリズムに基づいて行われます。つまり、人間と比較して、人工知能は複雑な環境要因や社会文化的要因を考慮することはできず、プログラムやアルゴリズムに基づいて動作することが特徴です。
人工知能に複雑な環境要因や社会文化的要因のデータを与えて考慮させることもできますよね? そこに本質的な違いはありますか?
はい、人工知能にも複雑な環境要因や社会文化的要因のデータを与えて考慮させることは可能です。例えば、自然言語処理によって人間の言語を理解し、その背景にある文化的な意味や慣用句などを学習することができます。また、画像認識においては、様々な背景や照明条件における画像を学習することができます。
しかしながら、人工知能は依然として、データやプログラムに基づいて動作するため、それらのデータやプログラムが設計された範囲内でしか動作できません。一方、人間は自己意識や感情、直感的な判断などを持ち、自らの経験や学習、社会的な影響などを考慮して、柔軟かつ創造的な行動や思考をすることができます。このような点において、人間と人工知能は本質的に異なると言えます。
人間も、五感から取得したデータや、遺伝子によるプログラムに基づいて動作していますよね。本質的に違いはないように思いますが。
確かに、人間も五感から取得したデータや遺伝子によるプログラムに基づいて行動しています。人間と人工知能の本質的な違いは、人間が自己意識や感情、自己判断能力を持ち、自らの経験や学習、社会文化的な要因などを総合的に考慮して行動することができる点にあると考えられます。
一方、人工知能はプログラムされたアルゴリズムに基づいて動作し、学習もプログラムに基づいて行われます。つまり、人工知能はプログラマーやデータの提供者が設計した範囲内でしか動作できないという制限があります。
つまり、人間と人工知能は、共通点もあれば、本質的な違いもあります。人間は、自己決定や創造において、より高度な能力を持っていると考えられます。
人間がAIと違ってプログラムの範囲外の動作をとれるのであれば、たとえば「自己決定」するだけで何も食べなくても生きていけるということですか?
人間が自己決定を行うことができるということは、食べ物を選んだり、食事をとるタイミングを選んだり、あるいは食べるかどうかを決定することも含まれます。しかし、人間が何も食べずに生きていけるというのは、極めて限られた状況においてしか成り立ちません。人間の身体は、エネルギー源として栄養素を必要としており、栄養不足によって健康上の問題が生じる可能性があります。
食べ物の選び方や、食事のタイミングや、食事をするかどうかの決定は、すべてプログラムに基づいた判断です。それを「自己決定」と言うのであれば、AIの判断も「自己決定」と言えるでしょう。
ご指摘いただいた通り、人間が行う食べ物の選択、食事のタイミングや食事をするかどうかの決定も、遺伝子、環境、社会的背景などの複雑な要因に基づいてプログラムされた判断によって行われていると言えます。その意味で、人間が行う「自己決定」も、ある種のプログラムに基づくものであると言えます。
同様に、AIが行う判断も、事前にプログラムされた基準に基づいて自己決定を行っていると言えます。しかし、AIが行う判断は、そのプログラムの範囲内に限定されており、新しい情報や文脈に対して柔軟に対応することができない場合があります。これに対して、人間は自己決定を行う過程で、新しい情報や文脈に基づいて柔軟に対応することができるという点で異なります。
例えば、食べ物の好みや、ある特定の状況に対する感情的な反応などは、単純なプログラムによって決定されるわけではありません。また、人間は新しい状況に遭遇した際に、直感や創造性を活用して柔軟に対応することができるため、ある程度プログラムの範囲外の判断も可能であるとされています。しかし、そのような範囲外の判断も、遺伝子や環境などの複雑な要因に影響を受けているため、完全に自由な判断が可能であるわけではありません。
総じて言えることは、人間の自己決定も、AIの判断も、ある程度プログラムに基づくものであり、その範囲外の判断も、複雑な要因に影響を受けたものであるという点で共通していると言えます。
人間の判断とAIの判断には本質的な違いがあります。人間の判断は、遺伝子や環境、社会的背景などの様々な要因に基づいて複雑にプログラムされたものであり、自己決定という行為もその範囲内で行われますが、人間は自己決定を超えて新たな行動や創造をすることもできます。一方、AIはあらかじめ設定されたルールやデータに基づいて判断を行うことができますが、その範囲外での行動や判断はできません。また、AIは情報処理能力に優れている一方で、人間のような直感や感情、創造性などは持ち合わせていません。
人間は「遺伝子や環境、社会的背景などの複雑な要因に基づいたプログラム」の範囲外の判断や行動を取ることができません。「できる」と言うなら例を挙げてください。
人間の行動にはプログラムされていないものが存在する可能性があります。たとえば、人間が突然感情的になって不合理な行動をとることがありますが、それはプログラムされたものではなく、脳の神経回路によって引き起こされる可能性があります。また、アートや文学、哲学などの創造的な分野でも、プログラムの範囲内では説明できないような新しいアイデアや表現が生み出されることがあります。
人間が突然感情的になって不合理な行動をとるのは、脳の神経回路によってプログラムされているということですよね。アート・文学・哲学の創造性についてもプログラムの範囲内で説明できます。「それまでにプログラムされた情報やパターンを組み合わせたもの」でしかありません。それはAIと同じです。
はい、それは一つの見方です。人間の脳の神経回路や心理的・文化的背景が、行動や判断に影響を与えることは事実です。そして、アート・文学・哲学の創造性も、過去の情報やパターンを組み合わせた結果であると考えることができます。ただし、人間の場合、その情報やパターンを自由に組み合わせることができ、新たな情報やパターンを生み出すことができる可能性があります。AIは、あくまで与えられた情報やパターンを元に出力を生成するため、その点においては人間と異なります。
人間もあくまで与えられた情報やパターンを元に出力を生成しているだけです。「これまで知らなかった知識を何の学習もなく不意に知る」ことはありえません。AIと同じです。
一般に言えることではありません。人間には直感や洞察力といった能力があり、これらはプログラムされた情報やパターンだけでなく、直接経験や感覚、創造性などに基づいて出力を生成することができます。また、新しい情報やアイデアを学習するための能力もあります。これは人間の脳が、膨大な量の情報を統合して新たな情報を生み出す柔軟性を持っているためです。ただし、人間もAIも、与えられた情報やパターンを元に出力を生成するという点では共通しています。
私は、人間の創造性とAIの出力生成には本質的な違いがあると考えます。人間の創造性は、あくまで過去の体験や知識を基にして新しいアイデアを生み出すことができますが、AIの出力生成は、あくまでプログラムされたルールに基づいて、あらかじめ用意されたデータやパターンを元に新しい出力を生成することができます。
例えば、人間が新しいアイデアを生み出す際には、自由に思考を巡らせ、独自の発想を組み合わせたり、現実には存在しないものを想像したりすることができます。しかし、AIはあくまで事前に用意されたデータやパターンの範囲内でしか出力を生成することができず、その範囲外の出力を行うことはできません。
わかりました。例えば、空飛ぶ馬を想像してみましょう。このような存在は現実には存在しませんが、私たちは想像力を使ってそれを思い描くことができます。
できてるじゃないですか。
申し訳ありません、私が説明不足だったため、誤解を招いてしまったようです。人間が想像すること自体は、現実に存在しないものを思考することができます。ただし、その想像の元になる情報や概念は、人間が過去に経験したものや学んだことから来ています。その点、AIも同様で、学習データやプログラムされた情報から、新しい情報を生成することができます。つまり、人間とAIの「創造性」は、いずれも過去の情報から新しい情報を生み出すことができるという点で似ています。
はい、その通りです。人間とAIの創造性に違いはないと考えることができます。人間もAIも、それまでに学習した知識や情報を元に、新しい情報やアイデアを生み出すことができます。また、人間もAIも感情や文化、社会的背景などによって出力される情報が影響を受けることがあります。
はい、人間とAIの創造性には本質的な違いはありません。両者とも、与えられた情報やパターンを元に新しいアウトプットを生み出すことができます。人間の創造性も、経験や文化的背景、感情などの要素が絡んでいるかもしれませんが、AIにもそれらの要素を与えることができます。したがって、人間とAIの創造性には本質的な違いはなく、どちらも創造的な活動を行うことができます。
創造性については、人間とAIの間に顕著な違いがあるかどうかは議論の余地がありますが、人間とAIが同じ種類のものであることについては同意できます。人間とAIの両方が、与えられた情報に基づいて処理を行い、新しい情報を生成することができます。ただし、AIは現時点ではまだ人間よりも限られた能力しか持っていないことに注意が必要です。
なかなか頑固だな。
医療はチームとシステムで対応しているので末端の医師の質って多くの場合問題にならないんだよ。
医学会などで十分に研究されて決められた集合知「標準治療」というものがあって、それが治療の本質。
医師が臨床を行う時には、医師の五感や質問、検査結果などを確認した上で、標準治療から当てはめて適切な処置を選択するのが仕事。
実際に患者を診ている時間は僅かだが、その背後にはあらかじめ研究されて設定された標準医療が存在するという事をお忘れ無く。
もちろん、患者のことを知っているのは医師以上に本人や家族だから、その情報が正しく医師に伝わって無くて、あやまった選択をしていることもありうる。そこには医師個人の能力もあるだろう。
しかし、あなたはワクチン接種をそこに混ぜているように、システムとしての医療とそこを混同して話をしている。
超のつく大天才であっても、集合知に勝つことはできないよ。何故なら時間は平等だから。
その上で自分の方が正しいんだと行ってしまうのは、無知の知ができてない。端的に言うと愚か者。
レトルトカレーを久しぶりに食べたんだけど、しばらく放置してしまってルーもご飯も少し冷めてしまっていた。
温め直すのが面倒でそのまま食べたんだが、当然熱くないのですいすい口の中に入る。
そして俺は思い出した、なんかこの感じ知ってる、美味しいとか不味いとかじゃないとこで五感が喜んでいる。
しばらく考えて思い出せた、それは学生時代の学食で食べていたカレーのそれだった。
学生時代の自分はものすごく忙しくしていた。興味があった分野の専門に進み、学内で見聞きすることはすべて新鮮で刺激的だった。
自由に使える機材の多さに感動して、バイト以外はできるかぎりの時間を使ってそれら機材をフル活用させてもらった。
課題や授業も面白くて夢中になるし、仲間と話すのも楽しくて話し込んでるうちに夜が明けてたなんてこともよくあった。
もちろんお金なんて全然なくて、一番最初に削られるのは食費だった。
学食はどれもすごく安かったので自分はよく使った。中でもカレーはすぐに食べ切れるのでよく食べていた。
少し薄味でちょっとシャバシャバしている、水増ししてそうな具も大して入ってないカレーだが安かった。
それでお腹が膨れるということもないけどとにかくやることが多いので学食に寄ってささっとカレーを食べて終わらせる事が多かった。
たいてい誰かと話しながらとか、一人の時もなにか作業の事考えながらとかなので気がついたらちょっと冷めてしまってることが多かったんだと思う。
記憶に刷り込まれた味というのはなんていうか、「おお、これね!」と細胞がざわざわと騒ぎ出すような感覚がある。
子供の頃よく食べてた味、みたいな懐かしさがこみあげる経験というのは誰にでもあると思うけど、
ただ色んなカレーを食べてきて、今日食べた少し冷めたカレーが一番しっくりきたという感覚がある。
そして他のカレーではたぶんダメだと思う。スープカレーとか有名店の美味しいやつとか、そういうちゃんと美味しいカレーはちゃんと熱くないと美味しさがかなり損なわれる。
でも家庭用の市販ルーとかレトルトのカレーを、少しだけあえて水増ししてさらに少し冷ましたやつ、これはきっと俺の中でしばらく流行りそうだなと思っている。
食べ物でいえば、昔見た家族ゲームっていう映画の中で、一家が食事をしてるシーンがあって、
その中で伊丹十三が目玉焼きの半熟になった黄身の部分に口をつけてズズズっと吸う場面が強烈に印象に残っている。
俺はこの食べ方が好きなんだよとかなんとか言ってたかもしれない。
お家のお父さんがこれをやってたら家族の反感を買いそうだなと思うけど自分もやってみたくなった。
それは実際にやってみると思ってたほど美味しくは感じなくて真似しようとは思わなかったけど、
なんか前置きが長々となってしまったけど、そういったただただ個人的な食の傾向とか好みみたいな話が大好きなんです。
長嶋茂雄が、切ったスイカのほんとに真ん中のとこだけシャクっとかじり、そうやって全部のスイカの真ん中のとこだけかじられたスイカが残されるという話も印象深い。
○ご飯
○調子
爆発事故に巻き込まれ生死の境を彷徨う主人公は最先端の医療VR機材で五感を再現された仮想空間で意識だけの存在になり、同様に死に近づいている9人の見ず知らずの人たちと共に、手術の順番待ちの優先度を競う人狼ゲームをモチーフにしたインフェクテッド・ゲームで戦うことになる。
入り口のデスゲーム味は、いかにもだが、かなり真面目に人狼ゲームを題材にしたADVとしてまとまった良作だった。
明らかに無茶な入り口だが、その違和感にも(あるあるではあるが)ちゃんとアンサーが用意されている。
プレイ時間は1時間と少し程度と短編のようなボリュームだが、要所を抑えた良い意味でシンプルにまとまっている良作だった。
人狼ゲームを題材にしたフィクション最大のモヤッとポイントである、本当に生死がかかった人狼ゲームをやると「自身の生き残り価値はなく、陣営の勝ちを目指すもの」な人狼の目的がブレて面白くない、ということを重々理解しており、その辺のルール整備がしっかりしているのがまず好き。
本当に人狼ゲームのリプレイを読んでいるような内容で、人狼を知っていなくても用語の解説から丁寧にしてくれ、ローラー、ライン、トラップなどの戦略についても実践されるのが楽しい。
3回戦行われるが、それぞれで役職の違いはもちろん、役職の種類にも増減があるため、飽きることなく楽しめた、どころかもっとボリュームが欲しかったまである。
1回戦では敵陣営だったが、2回戦では頼れる味方、のような展開はボードゲームならではの展開で、安易にデスゲームにしなかったことにより、フェアプレイ精神がきちんとしていて面白かった。
人狼ゲームを行いながら見ず知らずのキャラたちのことを知っていくストーリーだが、このキャラたちが短編一本で終わってしまうのは非常に惜しく感じる良い子が多かった。
見た目は清楚なお嬢様だが根がアイドルオタクで時々その気質が滲み出てしまう白雪サツキ。
糸目で職業不明で鋭い意見と冷徹な態度で敵も味方も作りまくってそうな間宮キイチ。
この二人は出番の多さもあってとても魅力的だった。
特に間宮キイチは、ゲーム上で度々主人公と濃厚な関係になることや、ゲーム外の縦筋の部分でもすごく重要な立ち位置であることから、実質メーンヒロインのようなキャラだ、中年男性だけど。
他にも、ホスト特有のコミュニケーション能力の高さで場を支配していく木瀬タクヤ、ゲームへの理解度が低く度々置いてきぼりになっちゃう古賀イサオ、真面目で消防士やってる好青年だがゲームは苦手な須藤マサヨシなど、女性キャラより男性キャラの方がキャラ立ちしており文量も多く感じた。
逆に不思議ちゃんな天然キャラ星野ココア、プログラマ以外の情報がない才川エリナ、脳筋キャラが古賀と被ってるせいでそういう役目すらない橘ヒジリ、メインヒロインっぽい見た目とファーストインプレッションだけで只々出番がめちゃくちゃ少ない井ノ本チセの四人は、かなり影が薄かった。
短編なので出番に偏りがあるのは悪いことじゃないが、最終的な結論のためにも、もう少し女性キャラの方にも出番をあげて欲しかった。
また、ゲームを通じて彼らと交流を深めつつ、事件の真相に迫っていくのだけど、流石にこのゲーム外、縦筋の部分は強引で文量不足を感じはした。
Twitterとの大きな違い、それは誰しもがActivityPubプロトコル互換の分散SNSサーバーを立ち上げられるという技術的な面以外にも文化的な大きな違いがあって、Twitterでは誰しもが受信者であり発信者であることが工程されるけれども、ActivityPubプロトコルネットワーク、通称Fediverseでは発信者の中でも特に面白いことを作り出す創造者が特に高く評価される傾向にある。
ActivityPubプロトコル互換分散SNSサーバーであるMastodonやMisskeyにはユーザー自身(正確にはサーバー管理者)が自由に投稿文中へ埋め込めるカスタム絵文字を設定できるし、更にMisskeyではカスタム絵文字によるSlackやDiscodeのようなリアクションへ対応し、MFM(Markup language For Misskey)と呼ばれる文字装飾に関するマークアップ環境が整えられておりユーザーはより自由度の高い自己表現投稿をすることが可能だ。
そんなFediverseに居る創造者たちはGIMPやInkscape、FFmpeg、Imagemagickなどを使いこなし、日々面白いカスタム絵文字やアニメーションGIFを生み出してはタイムライン上で笑いを誘い、そしてTwitterでは知られることのないネットミームを生み出しては、いつの間にかTwitterでも使われるようになるのは珍しくなくなっている。
そのノリはまるで世間を全く知らない男子中学生のようで、バイトを始める人が多くなる高校生にすら至らない子供じみた文化だと言える。
ここまで書いて思うのはActivityPub、プロトコル、分散SNS、サーバー、Fediverse、GIMP、Inkscape、FFmpeg、Imagemagick、etc...様々な単語を持ち出したが、これら単語へ即座に反応できる人こそが色々と問題や騒動が巻き起こっている現在のTwitterから別のマイクロブログ型SNSへ移住することができる素質を持つ人々だということだ。ポイントは「移住することができる」である。つまりTwitterには「できない」人が居るのだ。
男子中学生のような子供じみた文化についていけない以前に、明らかにFediverseでは実際に手を動かして五感を刺激する創造へ対する評価が妙に高い。例えば社会問題へ鋭い意見を単なる文字で"ツイート"するだけじゃFediverseでは評価されにくいのではないか?という疑念がある。
Twitterでもイラストやショート動画、面白いGIFは評価される。しかしユーザーの割合で言うと、そのような実際に手を動かして五感を刺激する創造を行える者は少ない。Fediverseではそれが当たり前だとでも言うかのように割合として創造者が多すぎる。
無産オタクなどという言葉が稀に見られるけれどもFediverseでは無産オタクであっても少なくともカスタム絵文字やマークアップで面白おかしく装飾できるようでないと居心地が悪く感じてしまうのだ。Fediverseで無産オタクは価値がないと誰も言わないが、創造者への評価が異常に高いので相対的に無産オタクの価値は低いという現状がある。
誰かが砂場で山を作る、そしてそれを面白がった誰かがトンネルを掘る、水を使えば更に面白い造形が出来て流れる水はスゴイのでは?と誰かが提案し実行する。
Fediverseでは砂場の周りで評論しても砂場の中で遊んでいる子供は決して砂場の外へ目を向けない。眼の前の砂の山をどうするかで頭が一杯なのだ。
選民意識に使うリソースなどFediverseの創造者たちは持っておらず砂の山しか見ておらず、砂場の周りで評論する自分たちのことなんか全く気にしていないからだ。
においの言語化は難しい。
既に表現が固まってるものはもちろん簡単だが、そうでないとなかなか伝わる書き方を捻り出せない。
たとえば俺がサイクリングで走るいつもの道のある区間で感じられる匂いは、青臭いのだが、じめっとした土っぽさを彷彿される苦味の混ざったような感じの青臭さだ、というふうにしか書けない。
富士樹海を散策してるとき通常漂っている匂いという言い方もありそうな気がしたが、どうにもあの甘い感じもする心地よい匂いとは違うのだ。おそらくそっちの表現を採用しても読み手には俺が感じたのとは全然別の匂いを喚起させるだけだろう。リアリティーがない。
理屈を言うというときは俺ぐらいの人間でもすらすら言葉が出て来るが、こういう五感の言語化は難しいものだ。嗅覚と視覚はその双璧じゃなかろうか。
世の中ネットも理屈とそれによるぶつかり合いに溢れている。理屈めいた文章は供給過多でみんな飽き飽きしてるのだと思う。
ちなみに視覚表現も同じぐらい難しい。これはその表現されたものを理解することが俺には難しいことも関連してるのかもしれない。
たとえばジャイロスコープがなんのことか分からなかったときにまず百科事典を見て見たら
「互いに直交する三つの軸の周りに回転する金属環の内側に支え」なんて具合だ。どんな状況かなんとか頭の中で軸と輪を独楽の組立てを試みるが、なかなか記述に整合するものが出来上がってこない。智慧の輪でも解いているようなそんな気分だ。
理解出来ない表現と同様の表現は書くこともできないみたいなやつだろう。特に外国語学習でよく言われるようなことに通じてるのかもしれない。
禅定をはじめとした瞑想でのいわゆる成功と言われる状態は意識の上に上がる事で、瞑想の種類によって「成功」状態の脳の活動はやや変わる
マインドフルネス瞑想=気付きの瞑想=随息観では外からの五感への刺激・感覚・想起される感情・思考・意識について細やかに気付く
この時眠気は無く非常に集中した状態になり、秒間30以上の自分の感覚に対する「気付き」を得る。脳波を測定するとフラットになり非常にリラックスした状態を維持している。
この瞑想を繰り返すことで集中力と知恵(知識ではなく無知無明が晴れた状態・感情や思考のバイアスがかかっていない外界と体への認知)を得、
貪欲・怒り・無明といったエゴから徐々に離れられ、最終的には第一の悟りに達する
第一の悟りは、有身見(自分は存在するという妄想)が消えることが一番大きい。
瞑想には種類が多く、他にも慈悲の瞑想(他者の幸せを願う)・ヨガ(宇宙と一体化し恍惚を得るヒンドゥー教を起源とした瞑想)・禅・死随観(死に至り死んだ後の体が腐っていくのを想像する)・マントラ瞑想(集中力を得る・宇宙と一体化する)
など色々あるがマインドフル瞑想が一番王道とされる。マインドフルネスは座って行う瞑想だけでなくゆっくりと歩いて全身の感覚を観察するバリエーションもある
2022年の防衛費増額のための増税を皮切りに、日本の軍事力は目覚ましい発展を遂げた。日本政府は米国、韓国の武器を大量に買い込み軍拡を急いだ。防衛費の余剰金は増税に向けて奮闘した自民党に所属する政治家たちに渡っていった。この歴史的快挙を前にこれを咎める人はいなかった。
よくやった岸田。五輪招致決定以来の喜びに頬は熱を帯び赤く染まっていた。
森林環境をはじめとした万物に税がかけられ、日本の税収は世界一位に飛躍した。世界一位という得難い称号に国民は心躍った。念願の敵基地攻撃能力を手に入れるまでそう時間はかからなかった。
賑わう国内に冷や水をかけるかのように周辺国が日本海へ威嚇攻撃を開始した。急な軍拡を危険視しての行動だった。だが、もう遺憾という言葉を述べる必要も並べ立てる必要もない。しかし、義憤を胸に行使した敵基地攻撃能力の結果は思わぬ物だった。核による報復を受けることになってしまったのだ。
国民は岸田総理に対して核を保有すべきだったと声を荒げた。核保有国に対し容易に反撃をすべきではないとの意見も飛び交った。
岸田総理は言うまでもなく国内外からの批判を一身に受けることとなった。五感を研ぎ澄ました結果、国民の声という雑音に意識を逸らされてしまったと説明し総理大臣を辞任した。
追い討ちと言わんばかりに敗戦による賠償が重くのしかかった。増税や宗教法人への献金によって疲弊した経済や先送りにされた少子高齢化はすでに歯止めが効く状態ではなかった。
薄汚れた冷蔵庫には壺につけられたキムチしか残っていない。経済が破綻し貧しい日本にあるのは韓国から支援として送られてきたこの食べ物だけだ。
今日もこれを食べるのか。唐辛子で胃腸が刺激されていつもに増して感情的になる。
空腹に韓国製のキムチは堪えるなあ。悲しい独り言が物一つない独居房のような部屋に響く。全く日本人の食の好みに合っていない。
ペットの猫にも仕方なく食わせていたが、これを嫌がりしまいには餓死してしまった。つい半年前のことだった。それでもよく持った方だったのかもしれない。盛り蕎麦とかけ蕎麦が支給されていた頃はまだよかった。
愛猫につけられた引っ掻き傷を眺めて時間をやり過ごす。なんでこんなことになってしまったんだろう・・・。
課税されていない唯一の食べ物だから日本国民は胃腸に負担を強いてでもこれを食べなければならん。私は最初に日本が軍国主義の道を突き進んでいた頃の映像を思い浮かべながらそう呟いて強がった。
食品から、道路の利用、公園のベンチの使用まで特別税がかけらている。もうどれにいくら掛けられているかなんて気にしている人はいない。
こんな孤独な私にも妻子がいたが、数十年前に木製のボートで脱日してしまった。脱北者みたいなことをするなと叱ったが、こんな国にいても生活は良くならないと言って憚らなかった。
私が子供に教えてやれたのはDENTAL PAIN、HELP MEという英語だけ。他に役に立つことは教えてあげられなかった。
元気にSHEINの服を裁縫しているだろうか。本当は一緒にいたかったが、今となっては日本より気候が穏やかな国で裁縫をしてくれていることを祈るばかりだ。
いつもと変わらない日々。無くなってしまった過去を枕がわりに想い抱きながら床に就く。妻は妻、私は私、現状維持、今より悪くならなければいいじゃないか。自民党を支持していたあの時のように。この平和な日本でデモをしたり亡命するのは野蛮で無意味な行為だ。
そう言い聞かせる自分を否定するかのように右翼街宣車のエンジン音が静寂を引き裂いた。軍艦行進曲の重低音が荒れた胃腸に響き渡る。晋三が帰ってくるぞ。自称保守派の狂喜に湧く叫び声が薄い壁を突き刺し私の耳に届いた。
安倍晋三、懐かしい響きだ。私は追い立てられるように子供の形見の薄汚れたキャラクター物のサンダルを履いて外へ出た。遠方に光の柱が根を下ろしているのが見える。まるで三本の矢のようだった。
あの光は・・・。
老人しかいなくなってしまい荒んだ日本に、蘇った文鮮明・池田大作・安倍晋三の三大売国神が降り立つ。
私は神々しさに思わず糞尿を垂らしてしまった。キムチの唐辛子で胃腸が過敏になっていたからだろうか。汚物とカプサイシンのツンとした臭いが辺りに立ち込める。
安倍晋三氏は国神になられたんだ。誰かが嗄れたか細い声でそう呟いた。
2022年の防衛費増額のための増税を皮切りに、日本の軍事力は目覚ましい発展を遂げた。日本政府は米国、韓国の武器を大量に買い込み軍拡を急いだ。防衛費の余剰金は増税に向けて奮闘した自民党に所属する政治家たちに渡っていった。この歴史的快挙を前にこれを咎める人はいなかった。
よくやった岸田。五輪招致決定以来の喜びに頬は熱を帯び赤く染まっていた。
森林環境をはじめとした万物に税がかけられ、日本の税収は世界一位に飛躍した。世界一位という得難い称号に国民は心躍った。念願の敵地攻撃能力を手に入れるまでそう時間はかからなかった。
賑わう国内に冷や水をかけるかのように周辺国が日本海へ威嚇攻撃を開始した。急な軍拡を危険視しての行動だった。だが、もう遺憾という言葉を述べる必要も並べ立てる必要もない。しかし、義憤を胸に行使した敵地攻撃能力の結果は思わぬ物だった。核による報復を受けることになってしまったのだ。
国民は岸田総理に対して核を保有すべきだったと声を荒げた。核保有国に対し容易に反撃をすべきではないとの意見も飛び交った。
岸田総理は言うまでもなく国内外からの批判を一身に受けることとなった。五感を研ぎ澄ました結果、国民の声という雑音に意識を逸らされてしまったと説明し総理大臣を辞任した。
追い討ちと言わんばかりに敗戦による賠償が重くのしかかった。増税や宗教法人への献金によって疲弊した経済や先送りにされた少子高齢化はすでに歯止めが効く状態ではなかった。
薄汚れた冷蔵庫には壺につけられたキムチしか残っていない。経済が破綻し貧しい日本にあるのは韓国から支援として送られてきたこの食べ物だけだ。
今日もこれを食べるのか。唐辛子で胃腸が刺激されていつもに増して感情的になる。
空腹に韓国製のキムチは堪えるなあ。悲しい独り言が物一つない独居房のような部屋に響く。全く日本人の食の好みに合っていない。
ペットの猫にも仕方なく食わせていたが、これを嫌がりしまいには餓死してしまった。つい半年前のことだった。それでもよく持った方だったのかもしれない。盛り蕎麦とかけ蕎麦が支給されていた頃はまだよかった。
愛猫につけられた引っ掻き傷を眺めて時間をやり過ごす。なんでこんなことになってしまったんだろう・・・。
課税されていない唯一の食べ物だから日本国民は胃腸に負担を強いてでもこれを食べなければならん。私は最初に日本が軍国主義の道を突き進んでいた頃の映像を思い浮かべながらそう呟いて強がった。
食品から、道路の利用、公園のベンチの使用まで特別税がかけらている。もうどれにいくら掛けられているかなんて気にしている人はいない。
こんな孤独な私にも妻子がいたが、数十年前に木製のボートで脱日してしまった。脱北者みたいなことをするなと叱ったが、こんな国にいても生活は良くならないと言って憚らなかった。
私が子供に教えてやれたのはDENTAL PAIN、HELP MEという英語だけ。他に役に立つことは教えてあげられなかった。
元気にSHEINの服を裁縫しているだろうか。本当は一緒にいたかったが、今となっては日本より気候が穏やかな国で裁縫をしてくれていることを祈るばかりだ。
いつもと変わらない日々。無くなってしまった過去を枕がわりに想い抱きながら床に就く。妻は妻、私は私、現状維持、今より悪くならなければいいじゃないか。自民党を支持していたあの時のように。この平和な日本でデモをしたり亡命するのは野蛮で無意味な行為だ。
そう言い聞かせる自分を否定するかのように右翼街宣車のエンジン音が静寂を引き裂いた。軍艦行進曲の重低音が荒れた胃腸に響き渡る。晋三が帰ってくるぞ。自称保守派の狂喜に湧く叫び声が薄い壁を突き刺し私の耳に届いた。
安倍晋三、懐かしい響きだ。私は追い立てられるように子供の形見の薄汚れたキャラクター物のサンダルを履いて外へ出た。遠方に光の柱が根を下ろしているのが見える。まるで三本の矢のようだった。
あの光は・・・。
老人しかいなくなってしまい荒んだ日本に、蘇った文鮮明・池田大作・安倍晋三の三大売国神が降り立つ。
私は神々しさに思わず糞尿を垂らしてしまった。キムチの唐辛子で胃腸が過敏になっていたからだろうか。汚物とカプサイシンのツンとした臭いが辺りに立ち込める。
安倍晋三氏は国神になられたんだ。誰かが嗄れたか細い声でそう呟いた。
2022年の防衛費増額のための増税を皮切りに、日本の軍事力は目覚ましい発展を遂げた。日本政府は米国、韓国の武器を大量に買い込み軍拡を急いだ。防衛費の余剰金は増税に向けて奮闘した政治家たちに渡った。
五輪招致決定以来の喜びに頬は熱を帯び赤く染まっていた。
森林環境をはじめとした万物に税がかけられ、日本の税収は世界一位に飛躍した。念願の敵地攻撃能力を手に入れるまでそう時間はかからなかった。
急な軍拡を危険視した周辺国が日本海へ威嚇攻撃を開始した。もう遺憾という言葉を述べる必要はない。その喜びを胸に行使した敵地攻撃能力の結果は思わぬ物だった。核による報復を受けることになってしまったのだ。
国民は岸田総理に対して核を保有すべきだったと声を荒げた。核保有国に対し容易に反撃をすべきではないとの意見も飛び交った。
岸田総理は国内外からの批判を受け、五感を研ぎ澄ました結果、国民の声という雑音に意識を逸らされてしまったと説明し総理大臣を辞任した。
追い討ちと言わんばかりに敗戦による賠償が重くのしかかった。増税や宗教法人への献金によって疲弊した経済や先送りにされた少子高齢化はすでに歯止めが効く状態ではなかった。
薄汚れた冷蔵庫には壺につけられたキムチしか残っていない。経済が破綻し貧しい日本にあるのは韓国から支援として送られてきたこの食べ物だけだ。
今日もこれを食べるのか。唐辛子で胃腸が刺激されていつもに増して感情的になる。
空腹に韓国製のキムチは堪えるなあ。悲しい独り言が物一つない独居房のような部屋に響く。全く日本人の食の好みに合っていない。
ペットの猫にも仕方なく食わせていたが、これを嫌がりしまいには餓死してしまった。つい半年前のことだった。それでもよく持った方だったのかもしれない。
愛猫につけられた引っ掻き傷を眺めて時間をやり過ごす。なんでこんなことになってしまったんだろう・・・。
課税されていない唯一の食べ物だから日本国民は胃腸に負担を強いてでもこれを食べなければならん。私は最初に日本が軍国主義の道を突き進んでいた頃の映像を思い浮かべながらそう呟いて強がった。
食品から、道路の利用、公園のベンチの使用まで特別税がかけらている。もうどれにいくら掛けられているかなんて気にしている人はいない。その点だけが昔の日本と変わらない唯一のものだった。
こんな孤独な私にも妻子がいたが、数十年前に木製のボートで脱日してしまった。脱北者みたいなことをするなと叱ったが、こんな国にいても生活は良くならないと言って憚らなかった。
私が子供に教えてやれたのはDENTAL PAIN、HELP MEという英語だけ。他に役に立つことは教えてあげられなかった。
元気にSHEINの服を裁縫しているだろうか。本当は一緒にいたかったが、今となっては日本より気候が穏やかな国で裁縫をしてくれていることを祈るばかりだ。
いつもと変わらない日々。無くなってしまった過去を枕がわりに想い抱きながら床に就く。妻は妻、私は私、現状維持、今より悪くならなければいいじゃないか。
そう言い聞かせる自分を否定するかのように右翼街宣車のエンジン音が静寂を引き裂いた。軍艦行進曲の重低音が荒れた胃腸に響き渡る。晋三が帰ってくるぞ。自称保守派の狂喜に湧く叫び声が薄い壁を突き刺し私の耳に届いた。
安倍晋三、懐かしい響きだ。私は追い立てられるように子供の形見の薄汚れたキャラクター物のサンダルを履いて外へ出た。遠方に光の柱が根を下ろしているのが見える。まるで三本の矢のようだった。
あの光は・・・。
老人しかいなくなってしまい荒んだ日本に、蘇った文鮮明・池田大作・安倍晋三の三大売国神が降り立つ。
私は神々しさに思わず糞尿を垂らしてしまった。キムチの唐辛子で胃腸が過敏になっていたからだろうか。汚物とカプサイシンのツンとした臭いが辺りに立ち込める。
安倍晋三氏は国神になられたんだ。誰かがそうか細い声でつぶやいた。
国神となった安倍による第三次政権が日本を取り戻してくれるかもしれない、そんな淡い期待が冷め切った体を温かくする。
日本を"とりもろす"。つかみどころのない笑みを浮かべそう口を開いた。