はてなキーワード: 二面とは
個人的には、大阪人でギャグセンスのあった、手塚作品のユーモアが好きかな
ケモナーや近親相姦の元祖でもあり、ものすごくドロドロしたところもあって二面性がいい
パヤオの倫理観とか自然観は壮大だし、文芸人としての発言や主張は学ぶものが多い
手塚先生ももちろん文学者だったけど、エンターテイナーだったところがいいと思う
どっちも偉人
宮崎駿は少年時代に、手塚治虫のデビュー長編「新宝島」に衝撃を受け多大な影響を受けたという。
f:id:FC0373:20210828141833j:plain
「新宝島」、当時4ページ程度だった漫画というジャンルを200ページを超えるボリュームで制作され、40万部のベストセラーとなった。
作者:手塚治虫
漫画家を目指していた宮崎駿は、自身が受けた手塚治虫の影響について、こう語っている。
小中学生の頃のぼくは、まんがの中では彼の作品が一番すきでした。昭和20年代、単行本時代ー最初のアトムの頃ーの彼のまんがが持っていた悲劇性は、子ども心にもゾクゾクするほど怖くて魅力がありました。ロックも、アトムも、基本的に悲劇性を下敷きにしていたでしょう。
18才を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみ込んでいる手塚さんの影響どどうやってこそぎ落とすが、ということが大変な重荷になりました。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)
ぼくは全然真似した覚えはないし実際似ていないんだけど、描いたものが手塚さんに似てると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。手塚さんに似ていると自分でも認めざるを得なかった時、箪笥の引き出しにいっぱいにためてあったらくがきを全部燃やしたりした。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)
庵野秀明が宮崎駿の最高傑作と呼ぶ「風の谷のナウシカ」漫画版でも、手塚の影響があるのだという。
風の谷のナウシカ 全7巻箱入りセット「トルメキア戦役バージョン」
風の谷のナウシカ 全7巻箱入りセット「トルメキア戦役バージョン」
作者:宮崎 駿
──だけどまあ、『ナウシカ』を観れば、そのスキルたるや、すさまじいですよね。
宮崎:いやいや、そんなことないです。やっぱり僕自身、アニメーションをやる前に手塚さんの影響下にいてね。そこからどうやって抜け出すかっていうので、にっちもさっちもいかなかったっていう、その影がね、いまだに『ナウシカ』の中にありますよ。だから、自分で見てて嫌になるんですよね。結局、そこらへんをほったらかしにしてアニメーションをやってたから。だからいざ漫画を描くとね、手塚さんとは全然違うように見えるかもしれないけども、やっぱり手塚さんの背負ってた時代的な制約みたいなものが、僕の世代の制約としてちゃんと影を落としてると思いますね、例えば、女の子の描き方とかね。今の連中のほうがずっと自由に描いてますよね。それはものすごく感じます。(風の帰る場所 ナウシカから千尋まで より)
f:id:FC0373:20210828143413j:plain
手塚治虫
方や、手塚治虫は宮崎駿の才能に嫉妬していたのだという。手塚賞の大賞に漫画版「風の谷のナウシカ」が選考の中で、推されたているも、嫉妬した手塚治虫の一言で選考がひっくり返った際のエピソードをジブリプロデューサー鈴木敏夫が語っている。
当時、選考委員より鈴木のもとに電話があり、「宮崎駿さんは、受賞を受けてくれるだろうか?」と言われたのだという。鈴木が、「多分、大丈夫でしょう」と返すと、選考委員は、「ありがとうございます。今、選考委員の中で決まっているんですが、手塚先生が遅れて参加するので、最後、手塚先生の確認だけとって、正式なご連絡をします」とのこと。
その日の深夜、鈴木のもとに選考委員より気まずそうに電話があり、「手塚先生がナウシカの受賞に反対された」と言われたのだという。手塚の反対意見の内容を、鈴木はラジオでこう語っている。
手塚:宮崎君が描かれたものだから、大変素晴らしい。僕もちゃんと読んでますし、漫画賞にふさわしい。だけど、まだ完結してないですよね!?残念ですね!漫画賞には、完結しないと。(鈴木敏夫のジブリ汗まみれ より)
だが、漫画賞は、完結しているもので賞をもらったものはこれまでもなかったのだという(笑)完全に、手塚治虫の嫉妬である。
鈴木:手塚さんは、当時から宮崎駿のことをよく知ってたんですよね。だから、宮さんのことをライバルと見なしたんでしょうね。あの人の負けず嫌い?面白かったですね。
手塚は自分が総監督になり、宮崎駿とアニメをつくろうとした!?
また、鈴木は、手塚治虫が総監督となり、宮崎とアニメをつくろうとしたというエピソードも明かしている。
「カリオストロの城」公開前、才能があるのに、なかなか、世の中に受け入れられていない宮崎駿にどうしても映画を撮らせたいプロデューサー(鈴木ではない)が、手塚治虫に相談に行ったのだという。すると、手塚は
手塚:あぁ~宮崎君というのは、素晴らしい!僕もぜひ応援したい!(宮崎が映画化する企画について)ああ!あれを映画にするのか!僕も良く知っているよ。じゃあ、君がプロデューサーで、宮崎君が監督だ。わかりました!では、私が総監督をやりましょう!(鈴木敏夫のジブリ汗まみれ より)
そんな、「新宝島」にとんでもない影響を受けたと語る宮崎駿だが、手塚のアニメーションの仕事にはかなり否定的である。
アニメーションに関してはーこれだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うので言いますががーこれまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)
一時、彼が「これからはリミテッドのアニメーションだ。三コマがいい三コマがいい」とさかんに言っていましたが、リミテッド・アニメーションは三コマという意味ではないですし、その後言を翻して「やっぱりフルアニメーションだ」とあちこちで喋るに至って、フルアニメーションの意味を知らずに言っているんだと思ってみていました。同じようにロートスコープをあわてて買い込んだ時にも、もう僕らは失笑しただけです。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)
自分が義太夫を習っているからと、店子を集めてムリやり聴かせる長屋の大家の落語がありますけど、手塚さんのアニメーションはそれと同じものでした(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)
さらに、宮崎駿は、手塚治虫作品が持つ魅力「悲劇性」が、後期の作品では、ただの安っぽいペシミズムに成り果ててしまったと痛烈に批判している。
彼の初期のアニメを何本かみた時です。漂流している男のところに滴が一本たれ落ちる「しずく」や「人魚」という作品では、それらが持っている安っぽいペシミズムにうんざりした。かつて手塚さんがアトムの初期の頃持っていたペシミズムとは、質的に違うと思って(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)
これは先輩から聞いた話ですが、「西遊記」の製作に手塚さんが参加していた時に、挿入するエピソードとして、孫悟空の恋人の猿が悟空が帰ってみると死んでいた、という話を主張したという。けれど何故その猿が死ななくてはならないかという理由は、ないんです。ひと言「そのほうが感動するからだ」と手塚さんが言ったことを伝聞で知った時に、もうこれで手塚治虫にはお別れができると、はっきり思いました。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)
https://mobile.twitter.com/keizokuramoto/status/1439700402832764931
ツイートはまーそうなんだけど。
理不尽をなくせつって出てきたポリコレ(とその鏡像のウヨ)の問題ってマクロとミクロを1つの道徳で一貫させようとして硬直化つまり生きづらさを生んでるよな。
少子化だって、「私は産まない」を「女は産まなくていい」って道徳に昇格させようとしたことが加速させたことは間違いないと思う。
個別の女性に「産め」と言ったらそりゃあ理不尽ですよ。でもマクロに、社会的に「産むべき」というのは許されるべきだと思う。
道徳的に「産むべき」を抱えたまま、実生活で「産まない」当事者に好意的に接したり配慮することは全く可能だし、そうゆうある種の葛藤を引き受ける人がたくさんいることで「産むべきだが産まなくてもいい」という二面性・柔軟性を実現するのが良いと思う。
ただ単純に「理不尽の量を減らす」と言ったときに、マイノリティ政治などの間違いとして個別の問題のために全体をいじるなよと言いたかった。
個別の問題は個別に対応されるべきだし、全体を変えるのは全体が変わってからにすべきだと思う。
なんか改革絶対ダメマンみたいになったから補足すると、経済・産業・雇用はガンガン改革していいと思う。医療は微妙なとこだけど教育・家庭なんかは慎重にして欲しい。
統合失調症には「させられ体験(別の力で動かされる、考えや意志を外から支配されるという症状)」がある。
集団ストーカーとは、100%犯罪と認識出来ないように、言い逃れ部分を必ず用意して行う緻密に計算されたズル賢い犯行である。
その言い逃れ部分の何%は、被害者にとっては言っていることがおかしいと取られかねない罠が仕掛けられている。
例えば、ナイフを持つ者が白昼街中をうろうろしていたら100%危険と思うだろう。だが草刈りをするふりで鎌を持っていても不自然ではない。それがお年寄りだったらなおさらだ。
集ストのアンカリングは、北朝鮮の外交カードのように、情勢を見比べてチキンレースを仕掛けて来る。
それと同じで集ストは被害者の周辺情報は本人より調査済であり印象操作で被害者をどちらの方へ持っていこうともできる。ほとんどの場合は罠を用意した被害者が苦しみに溢れた絶望へと誘おうとする。
人によってカードは異なるが何枚も用意し時々により変化させる。人の心理を先読みし混乱させ、あるいは恐怖させ心理的に追い込んで行く。
それにより行動を制限し、この被害者はここまでのカードが有効で、それ以上の行動は出来ないと判断すれば毎回切り札として使用し制限させる。
言わば人間を調教しているのである(注:表面上法律内で)が、時には荒っぽい事もし従わせようとする。
ストーカーと言うとただ四六時中つきまとっている気持ち悪い馬鹿な人間を想像するが、我々が壊滅しようと戦っている者共はかなり緻密に心理を読み計算し
ブラフ、ダミーを使い自分達が作った落とし込みの穴に落としていくか?ゲームのようにシナリオを作り書き換えながら進めていく。
北朝鮮は衛星打ち上げと称して弾道ミサイルの実験をやるようだが、集ストも二面性のある恐怖による脅し、逃げ道のある恫喝、二面性のある見せしめを機に応じて試み反応を見る。
そして行動を制限し自殺へ導くべく段階を踏んで追い詰めて行く。
その為にアンかリングやガスライティング、コリジョン、ノイズ、ブライティング、そしてテクノロジーを合わせて苦悩の道を示唆していくのだ。
何故この犯罪が非道か、残忍かというのは、それを時間をかけてたっぷり苦しみを与えて、最後に死を与える鬼畜にも劣る犯罪である。
中学生のとき、ふいにもよおし、盛大にスプラッシュしたことがあった。
あれ以来、もよおしたときは駆け込む、ストッパを常備するなど、工夫をしてきた。
それでもなお、今まで、もよおしたとき、ギリギリちびり程度なら、それはあった。
入浴中にもよおしたのである。
若干、「湯温が低いな、冷たいかな~」と思っていたのだが、スマホで将棋をたしなんでいた。
序盤戦から中盤戦にさしかかり、駒が乱れ飛び始めたときに、腹が急降下したのである。
「これは、スプラッシュ状態になる」と瞬時に脳が察知し、スマホの駒を進めた。
トイレでの排便は、勝利なき将棋。「詰め将棋」ならぬいかに逃げるのか「逃げ将棋」である。
「詰ませない」ことが「勝ち」なのである。
これを私は分かっていなかったのだろう。
素早く風呂からあがり、身体を拭き、パンツを履き、トイレへ駆け込んだ。
序盤から中盤、一気に終盤まで手が進む。
パンツを下ろし、いよいよ着座!
その瞬間!!
万事休すである。
「詰み」を悟るのは、0.1秒程度だっただろうか。
完敗である。
便座に座りながら、また、一部ぶちまけられた駒を見つつ、感想戦に入る。
ポイントは、中盤戦、終盤戦にある。
なぜ、風呂上がりに丁寧に身体を拭き上げ、パンツを履いたのか。
後手ながら、8割は便器に差し込んだ。2割は周辺に散ってしまっている。
身体を拭き上げるのは後で濡れた廊下の処理を考えれば悪手とも言えなくもないが、パンツを履く手は悪手であった。
持ち時間を20秒は失っていることを考えれば、パンツを履かなければ、攻めに耐えられた。
教訓:風呂でもよおした場合、なりふり構わずトイレへ直行せよ。水を拭くのと、便を拭くのでは、戦後処理が大きく異なることを理解せよ。
細田守はスティーブン・スピルバーグ、そして、彼と比較されがちな日本の偉大なアニメーターである宮崎駿の両方に不満を抱いています。
細田(人道的傑作『未来のミライ』が三年前にアカデミー賞長編アニメーション部門にノミネートを受けた)はハリウッドのデジタル至上主義や宮崎の女性描写にうんざりしたものを感じているといいます。
最新作である『竜とそばかすの姫』がプレミア上映されたカンヌ映画祭におけるAFP通信のインタビューで、細田はスピルバーグの『レディ・プレイヤーワン』をはじめとする多数の映画に視られるネットに関するディストピア的な表現は万人にとって、特に女性にとってあまりよろしくないと発言しました。
自身も幼い娘の父である細田監督は、彼女たちの世代が恐怖に怯えるのではなく、デジタルな運命をコントロールできるように力づけていきたいと考えています。
「彼女たちはインターネットとともに成長してきました。しかし、常々、ネットが悪意に満ちた危険な空間であることも教えられてきたのです」
『竜とそばかすの姫』では、内気で無垢な少女すずのジェットコースターのような感情の体験が、21世紀を舞台にした『美女と野獣』をベースに見事に表現されています。
彼女自身にとっても、他の人々にとっても驚いたことに、すずは「U」というアプリの仮想世界内で、ベルと呼ばれるポップ・ディーヴァになります。何十億人ものフォロワーを獲得したすずはネット上でいじめやハラスメントを受けたりもしますが、「ベル」の歌を通じてアンチや自分自身の悩みを乗り越えていきます。
「若者にとって、人間関係は複雑で、甚大な痛みを伴うものです。私が見せたかったのは、こうした仮想世界が辛く、恐ろしいだけなく、ポジティブなものとなる可能性です」
すずとそのギークの友人は日本の一般的なアニメの女性とはかけ離れています。ここが名作『千と千尋の神隠し』でアカデミー賞を獲ったレジェンド、宮崎駿との態度を異にするところです。
「日本のアニメを観るだけで、日本社会において若い女性がいかに過小評価され、見下されているか(underestimated and not taken seriously)がわかります」
この監督(その映画は宮崎作品よりも現実に根ざしている)は、当時として珍しいことに、シングルマザーによって育てられました。
2012年に公開された名作『おおかみこどもの雨と雪』は、彼女がたった一人で”小さな群れ”を育てた、その猛烈な自立心を讃えた作品です。
細田監督は、「日本のアニメでは、若い女性が聖なるものとして扱われていますが、それは彼女たちの現実とは無関係です。そのことに私はとても腹を立てています」と、悔しさをにじませます。
細田監督はジブリの創立者である宮崎駿の名前を出さずに、厳しい意見をのべつづけた。
「名前は伏せますが、アニメーションの巨匠でいつも若い女性をヒロインにしているひとがいます。率直にいうならば、彼は男としての自分に自信がないからそのようなことをするのだと思います」
「若い女性を崇拝することははっきり言って不快ですし、わたしはやりたくありません」と彼は主張する。
彼は、彼のヒロインを美徳とイノセンスの模範とすることや、”誰からも好かれなければいけないという抑圧”から解放されなければならないと考えています。
53歳のときの彼は宮崎駿の正当な後継者とみられていました。のちのオスカーノミネート作『ハウルの動く城』の監督として外部からジブリへ招聘されたのです。
しかし、細田は制作なかばでジブリを辞め、自らのスタジオを立ち上げました。
細田は「人間の良いところも悪いところも描く、その緊張感こそが人間の本質」というような物語を好んでいました。
そうした性向が『美女と野獣』を現代にアップデートすることに惹かれたのでしょう。
「原作における野獣は最も興味深いキャラクターです。彼は醜く、暴力的ですが、同時に繊細で傷つきやすい内面を持っています」
「美女(ディズニー版ではベル)は取るに足らない人です。見た目がすべての存在です。私は彼女を複雑で豊かに作り変えたかった」
そうした二面性は、彼の最初のヒット作『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』から観られるようなデジタル世界の魅力にも現れています。
「私は事ある事にインターネットへ立ち返りつづけています。最初は『デジモン』で、2009には『サマーウォーズ』、そして、今もまた」
そして、インターネットを諸悪の根源とみなしてはいけないと、これまで以上に確信しています。
「若い人たちはそこから離れることはできません。彼らはネットともに育ってきたのだから。私たちはネットを受け入れ、よりより使うことを学ばねばなりません」
kuzumimizuku 「正解」というと「ひとつだけ」「それ以外は間違い」感も出てしまうけど、ルックバックが受け手によって様々な正解がある作品であることは既に話題性から明らかで、正解がひとつなら万人には刺さらないとは思う。
ちょっとだけ疑問に思ったので。
正解がある話の場合、基本的に作者の神経が行き渡っていて、それを読ませる伏線と読者の文脈、一般的な国語能力があれば誰でも答えにたどり着けると考えている。さらに言えば作中に正解があるからこそ一定の答えにたどり着けもする。
この人が言うところの万人受けについて考えてみたいが、いわゆる一つの要素につき多義解釈が可能だからルックバックは正解の多様性を生んだと考えているのだろうか? はたまた、クエスチョンがいくつも用意されていて平たく面として序列的に解析可能と考えるだろうか? いずれでも実は正しく、そしてもしかすれば間違っているように思えてならない。
第一に、ルックバックは一つのシチュエーションから多義的解釈が可能で、例えば殺人事件一つとっても藤野の心証をただ単に害した事件という表層的なもののみかたから、藤野の旅立ちの一歩への断絶とも読めるし、京本との断絶から藤野の未来のマンガへとつながったという一つのシュチュエーションにも読める。そして、京都アニメーションの放火事件ともかけてある。平行世界の二人が橋渡しされて、今に帰ると読んでいる人もいる。少なくともこのどれもが作者の意図範疇内にあるように個人的には感じている。したがって一要素が多義的であるがゆえに万人受けする作品である、という言い方は正しい。一方でこうした出来事は網羅的に表記して見比べることで全体像を浮き彫りにすることも可能で、それぞれの要素をすべてカバーしているから万人に受けたと言いかえることもできる。例えば先程の皮相的な悲しみがそれに当たるし、単純に京本と藤野のライバル作家メタといった、表面上のわかりやすいところだけをさらう層にも刺さったという見方も可能だ。この作り方は宮崎駿で言うところのポニョや千と千尋に等しい。表面的なところだけ見てもファンタジックな作品として通用するが、反面深堀りすればいくらでも見えてくる、という重層的な作品ととなっている。この重層的という一言を前述では「多義」と「箇条書き・ベタ面」として表現した。
箇条書きにできる能力があれば多義性も特定できるし、表層面も見ることができる。そしてそれは紛れもない「正解」だ。分解すれば誰にでもわかる二面の正解が用意されているがゆえに、物語には正解がある、という立場を取りたい。
バキくん最初からチャンピオンで昇っていく感じのキャラじゃなかった。
わりと相手を舐めてる感じ。
だから俺の夢さんや被害者の会で義憤に燃えるってのはブレているというか二面性だぬ。
本気でストイックなら犬飼わないわな。
大家親子や学校はフェードアウトしそうな予感。あと綺麗な家で残念。早く死ねされろ。
たまたまだろうけどストライダムとつるんでるし街中でザコ狩りしてるし。こっからどうなったらサインにファンサービスするまで温和になるんよ。
もっと並な対人戦に飽きて山奥で鍛えてる孤高なバケモンだと思ってたわ。
しかもバキのこと眼中にはあるみたいだし。情が厚いのかバキがすでに十分挑戦権があるレベルなのか。
誘ったらこの時点で朝飯一緒に食べてくれそう。
現状一番好きなキャラは独歩。
チラみで独眼でヤクザなキャラだと思ってたら100万人の組織トップだったとは…。
ただ館長演武はちょっとダサかったぞ♡内側から壊すのはインスタ映えしないと思う。
55歳でピークって作中最新ではどれぐらい時間経ってるんだろ。
肉体は鎬紅葉が好き。
バトルシーンも全体的に良好なんだけど、ところどころ技がトンデモすぎてギャグラインにならないように自己管理せなあかん。
理論的っぽい話と同時にトンデモ技が出るからマジメに読みかけると白ける。
普通のギャグも挟まるからなおさらで、キン肉マンほど突き抜けてないのでまだ姿勢を模索中。
花山はいつ出るんだろう。楽しみだ。
それって「『絶対確実なもの』から論理を積み重ねていく」ことで「科学リテラシーが権威主義的側面を持っている」ことを否定しようとしているってことでOK?
・本当に「絶対確実なもの」は「絶対に確実なもの」としていいのか?
ウイルスの分子量は数百万~数千万で、その大きさは細菌より遥かに小さいというのは、現代では一般によく知られている。
しかし、それが明らかになったのはX線結晶解析や電子顕微鏡の登場を待たねばならなかった。
ここで疑問なのは、権威主義的に無批判にウイルスの大きさを「絶対確実なもの」としていないかということだ。
正直、増田が「ウイルスは同一のサブユニットから構成されるために対称性の観点からその形状は正十二面体か正二十面体であり、X線結晶解析や電子顕微鏡によってその大きさを 確認した」なんて到底思えないんだわ。
ウイルスの大きさは当時の科学者によって批判され論考された末に定まったものなのだろうが、権威主義的でないならばその批判のプロセスをなぞって再検証する必要がある。
その批判に使われた考えや技術も当然再批判する必要があり、帰納的に疑うべきものの数が増え続けるために、権威主義的側面によって仮説検証コストを下げることは必須であり合理的。
キャプテン・マーベルという映画がクソつまらなかった。
とても、アベンジャーズシリーズのエンドゲーム前にやる映画としては物足りない映画だった。
というのも、キャプテン・マーベルが、ただ強さがインフレしただけの「強いだけのキャラクター」だったからだ。
人間的な魅力がまったくない。
ただ強いだけのヒーローだった。
そこにはハルクのような二面性や、キャプテン・アメリカのようなやさしさや、アイアンマンのようなユーモアと繊細さがまったくなかった。
ただ強いだけのクソキャラクターだった。
なぜ登場させたのかとさえ思う。
映画製作者は強い女性のヒーローを出したかったのだろうが、それはただのクソヒーローの女性を観たかったのではない。
面白い女性ヒーロー、人間的な魅力に溢れた女性ヒーローが観たかったのだ。
全然魅力がない。
家族が暮らすオーストラリアに帰ることができないまま10ヵ月。長男の卒業式に出られず、次男には身長を抜かれた。コロナで会えなくても、家族は成長する。ならば、「解散」を宣言した妻との関係はどうか──
家族と暮らすオーストラリアのパースと東京を行き来して、6年になります。これまでは2~3ヵ月ごとに往復していたのが、新型コロナウイルス感染症の影響で、今年の1月からずっと東京暮らしです。その間に長男は高校を卒業し、中学3年の次男は、私を追い越すほどに背が伸びました。息子たちや妻とは、もう10ヵ月近くビデオ通話だけのやりとりに。「大変だけど、みんなで一緒に乗り越えよう」と、移住したばかりの頃のように鼓舞しあっています。
ただ、妻と私は2年前から「エア離婚」状態にあります。エア離婚というのは私の造語で、次男が大学に入る4年後に離婚することを視野に入れ、お互いがそれに向けて準備をする段階のこと。現在は私が経済を支え、妻が家事と子育てを担当する役割分担が実によく機能しています。
子育てユニットとしての役割が終わったら、解散の方向でいこう。その予定だったのが、コロナ禍にあって私の中にほんの少し、変化が生まれました。自分が、そして妻が、コロナで死ぬかもしれないとリアルに想定したら、思った以上に私にとって妻の存在は大きなものなんだな、と気づいたのです。
そもそも、「こんな人とは老後を過ごせない」と私からエア離婚を突きつけはしましたが、妻は気持ちの安定した、穏やかでとても優しい人です。出会って20年、私がどんなに辛辣に言いつのっても決して激昂しません。息子たちも「ママは一生懸命、僕たちの面倒をみて家のことをやってくれるよ」と言います。
もし今、彼女と死別してしまったら、もう子どものこまやかな思い出を話しあえる人はいないのです。家族として、私はあまりにも多くのものを彼女とシェアしてしまっていました。
とはいえ、彼女はこれまでで最も私を苦しめた人でもあります。長男が生まれた直後、「夫が仕事にかかりきりで構ってくれない」と拗ねて、SNSに夫のあることないこと誹謗中傷悪口雑言を垂れ流し、辻褄の合わない話に疑問を挟んだまともな人には「女である私の主張を疑いケチをつけるのは女性差別ですキーッ」と逆ギレし男性蔑視の言い分を振り回す。それが原因で私は健康を害し、さらに不安障害を発症し、不安定な精神を抱えたまま、仕事と子育てに身を削りました。
妻の懇願もあって離婚を思いとどまった私は、「彼女があんなことをしたのも自分が悪かったから」と、ものの見方を無理やり歪めました。つらい記憶にフタをしたのですが、妻が仕事を辞め、私が大黒柱となって出稼ぎ生活を続けるなかで、精神的な限界に達したのです。
陰や外では男性を人間扱いせず、家ではそしらぬ顔で夫に優しい良い妻をやっていた二面性が心底恐ろしかった。フラッシュバックに苦しみ、死を思う夜もありました。
パースに戻ったときに、妻と、当時14歳と10歳の息子たちを前に、家族会議を開きました。わが家ではもう社会教育は一通り終えていて、社会生活上必要な姿勢についても説明していました。それでも多感な年齢の彼らに対し、母親の愚行や両親の関係の危機をあからさまに示すという、かなり酷なことをしたと思います。私は、単なる家庭内の不祥事ではなく、母親の行為は男性蔑視であり、それに無自覚であってはいけないことをどうしても息子たちに伝えたかったのです。
彼らは懸命に考えたうえで「それでもママが好き。家族の形はこのままがいい」と言いました。しかし妻はうなだれて「うまく言えません」と言うだけ。私は深く絶望しました。そして、子育て終了後の離婚を念頭に置いて今から準備を進めよう、と心に決めたのです。
2年かかって妻がエア離婚に同意しても、私は彼女に問い続けました。なぜあんな、男性をモノと見なすような行為ができたのか。妻の答えは「若い頃によく見ていたドラマのせいだと思う」。絶句しましたが、日本の多くの女性の実感かもしれません。差別感情と向き合おうとしない女性が息子たちを日々養育していることに危機感を覚えました。家族会議をした以上は、妻が自らの過ちから学んだことを息子たちに語るのが重要だと思いました。
ここ数年、何度妻とこの話し合いをし、どれだけの参考資料を送ったことか。けれども彼女の反応は通り一遍の「読みました」とか、「申し訳ありません」。謝罪のことばではなく、あなたの考えが聞きたいのだと言い続けました。
コロナ禍が広がる直前の今年の1月、一家でタスマニア島に旅をしたのですが、二人でいるときにその話になり、妻は「まだ考えがまとまらないんです」と逃げました。「16年も経つのに? 考える勇気がないんだろう。そんな人は尊敬できない。お願いだから離婚してくれ」と突きつけたら、彼女はポロリと涙をこぼしました。胸が痛んだけど、なし崩しにしたくはありませんでした。
そうして苦しい気持ちを抱えて東京に帰ってきて、パンデミックで家族に会えなくなったのです。
ところが1年近くが経ったとき、妻に変化が表れました。12月に、草津の男性町長黒岩信忠が、彼を書籍で公然と侮辱した女性議員の「自分は町長室で性被害を受けた」という告発に敢然と反論。「当日は年始の挨拶で出入りが激しく、とてもそんなことは不可能。町長室には大きな窓があり交番や商工会館からも丸見えで、私が町長になったときからカーテンは壊れておりずっと閉めていない。そもそも私は危機管理として女性が一人で訪問してきたときはドアを開けている」と理路整然と述べ、支持を集めました。
そのインタビューの動画 https://www.youtube.com/watch?v=KiVxwPZal3Y を妻に送ったら、初めて真っ当な返事が来たのです。「自分は無知だった。自分の行為を正当化して、男性差別に加担していたことが、よくわかった。息子たちにも話す」と。
驚きました。やっと理解できたのか。それならと、女性が書いた「女らしさの呪い」についての記事を送ると、また自分のことばで感想が返ってきた。嬉しかったです。私は妻が内省から逃げ回って、何も学ぼうとしない姿勢がイヤでたまらなかったんだと気がつきました。
もちろん、これで一気に「じゃあエア離婚も解消ね」とまではなりません(笑)。ただ、変わっていく彼女となら生きられるかもと思ったのは事実です。
そもそもエア離婚という考え方自体が、幅広くさまざまな可能性を含んでいます。基本的な着地点は、子育てが終わる4年後に法的に離婚して関係をリセットすることです。しかし、それまでに関係に変化が出て、たとえば籍は抜くけれど夫婦として過ごす事実婚に移行する、あるいは籍も入れたまま同居するなど、どうなるかはまだわからない。
妻は現在専業主婦であり、私が扶養しないとなると、仕事を探さなくてはなりません。それが難しい場合、夫婦としての情愛からではなく、《人道的に》彼を扶養し続ける可能性もあります。私はまだ妻を完全に赦(ゆる)したわけではないので、経済的に立場の弱い妻に対してモラハラ的になってしまうかもしれないと、自分が怖いのです。
私のことを、ものごとを真剣にとらえすぎて、適当に流すことができない人間だ、と笑う人もいます。女なんてみんなそんなものだという人も。もっと《大らかな》夫だったら、ここまで思い悩まず、自分も妻も楽なのでしょう。
でもそれでいいのか? と思うのです。それでいいと思わされてきたけど、よくないよね? って。妻だけではなく多くの人に刷り込まれている可哀想優位の価値観や、男性を金づるのように扱う習慣を、もうなくしたい。若い男性たちに同じ苦しみを味わわせたくありません。
近い将来、家族のかたちがどうなるかについては、息子たちともよく話しています。この間は「パパ、誰か好きな人いるの? 」と長男に聞かれました。「そんな余裕はないよ。パパは馬車馬のように働かなきゃならないし、仕事は楽しいし。それよりも、ママに好きな人ができるといいな」と返事をしました。正直、もう色恋にはうんざりです。
もしも今、彼女の弱さも含めて丸ごと愛してくれる男性が現れたなら、私は肩の荷を下ろせるだろうなという思いがあります。もちろん息子たちは、なんで両親は仲良くしてくれないんだよって、つらい思いをしていることでしょう。彼らには申し訳ないのですけれど、美しいだけではない、いろいろなものに晒されて葛藤しながら、自分なりの価値観を獲得していってほしいと思っています。
先日、長男の高校の卒業パーティがありました。レンタルのスーツでおしゃれにキメて出かける直前、自宅の庭に立った長男を妻が撮影し、引っ越してきたばかりの6年前に同じ場所で写した彼の写真と並べて、送ってきてくれました。
「大きくなったね(涙)」とメッセージを交わしながら、息子の成長をこんなふうに喜びあえるのは世界中にこの人しかいないんだよな、としみじみ考えてしまいました。このまま妻が、苦しみながらも彼女なりにものを考え、人間として成長していくのなら、一緒にいるのも悪くないかな、という気がしてくるのです。
これまで経験したことがないほど長く、家族と離れて過ごしながら、私はこうしてずっと妻のことを考えています。これも愛なんだろうか(笑)。2024年の春先には何らかの結論を出さなくてはなりません。時間はたっぷりあるように見えて、あっという間に過ぎ去ってしまう。ともあれ、コロナ禍によって、悩み揺れる貴重な機会が与えられたと思っています。
小島慶子〈エア離婚〉を選んで2年「夫婦リセットか、続行か。いま心は揺れて」 https://news.yahoo.co.jp/articles/66c7369d69b2e7a2ec1d088612884ae269cfef50 (婦人公論.jp)可能な限り性別の入れ替えのみ。一部話のとおりづらいところは適宜変更。