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はてなキーワード: 二の丸とは

2024-02-04

東京の「大手町」を筆頭に全国にある「大手」が付く地名って何が由来なんだろう?

門前みたいなもんだろうけど

つーか普通に大手門ってあるよな

で、大手門てなんだろう?

大手門(おおてもん)とは、日本城郭における内部二の丸または、三の丸などの曲輪へ通じる大手虎口に設けられた城門。正門にあたる

wikipediaより

(「曲輪」「大手虎口」というワードが出てきて謎が深まったけど別にいいや)

上記wiki概要欄には「追手門」(そして裏側は「搦手門」)というのもあって、城の門としてはそっちの方がしっくり来る感じだな

で、勿論のこと

大手町(おおてまち、おおてちょう)とは、日本各地にある城郭大手付近にある地名である

当県にも新発田城高田城があったので、ちゃん大手町存在する

(考えてみれば現在一番栄えている新潟市には城無かったんか?少なくとも戦国時代には万代島は無かったし、そもそも城を築く様な立地ではなかったかな?

その当時の新潟市辺りはたぶん新発田さんが管轄していた土地だよな。だからメインの城はやっぱり新発田城なんだろうな

調べてみると現在中央区から遠く離れた辺鄙場所に城が築かれていたようだけど、白山辺りや上所辺りにも平城はあったみたいだ。でも大手町が出来る規模の城ではなかっただろう)

そして今回罹災した七尾市にも大手町がある。七尾城門前七尾城山城みたいで、その7つの尾根から名を取って「七尾」だそうだ。素敵な名前だな

2022-11-30

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可児郡御嵩町にあるみたけ城に行ってまいりましたわ

マイナー国人領主小栗信濃守が根城にしていたお城ですわ

勢力拡大を目指して暴れまわったけれど周囲の連合によって返り討ちにあって滅亡ですわ

お城は二の丸の縁に沿うように藤棚が設けられていて、

本丸には合掌造り連想させるモニュメントが建っていましたわ

やりたい放題されてましたけどモニュメントから見下ろした御嵩町可児市の眺望は素晴らしかったですの

中山道みたけ館で🦀薬師の解体修理工事についての説明を読みましたわ

総工費11億5千万円を予定しているそうですわ

さら町役場の新設に78億円もかかるのは反対という看板をそこかしこで見かけましたわ

お嬢財閥に任せていただき鯛ですわ

泥棒ブレーカーを落とされて魚が全滅した土岐市釣り堀の前を通りました

幟が立っていて営業している様子でしたわ

2021-03-02

日本建築空間』における建築百選

anond:20210301191826

 

増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。

同種の百選としては2005年新建築臨時増刊『日本建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。

https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/

2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。

 

古代 592-1180

法隆寺西院伽藍飛鳥時代奈良
新薬寺本奈良時代末期 奈良
山寺八角763年奈良
平等院鳳凰堂 1053年 京都
浄瑠璃寺本堂 1107年 京都
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) 平安時代後期 鳥取
高蔵寺阿弥陀堂 1177年 宮城

中世 1180-1543

浄土寺浄土 1194年 兵庫
東大寺南大門 1199年 奈良
長寿寺本鎌倉時代初期 滋賀
西明寺本堂 鎌倉時代初期 滋賀
熊野神社長床 鎌倉時代初期 福島
法界寺阿弥陀堂鎌倉時代初期 京都
厳島神社社殿 1241年 広島
永保寺開山堂 1352年 岐阜
東福寺龍吟庵方丈 1387年 京都
正福寺地蔵堂 1407年 東京
吉備津神社本殿拝殿 1425年 岡山
慈照寺東求堂 1485年 京都

近世 1543-1853

妙喜庵待庵 1581年 京都
園城寺勧学院客殿 1600年 滋賀
園城寺光浄院客殿 1601年 滋賀
妙法院庫裏 1604年 京都
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 1607年 宮城
三渓園聴秋閣 1623年 神奈川
二条城二の丸御殿 1626年 京都
西本願寺飛雲閣 1628年 京都
西本願寺書院 1633年 京都
延暦寺根本中堂 1640年(再建) 滋賀
三渓園臨春閣 1649年 神奈川
曼殊院書院 1656年 京都
桂離宮 1663年 京都
慈光院書院 1672年奈良
江川住宅江戸時代前期 静岡
閑谷学校講堂 1701年岡山
東大寺大仏殿(東大寺金堂) 1705年(再建) 奈良
大峰山寺本 1706年奈良
大国住宅 1760年岡山
岡山後楽園流店 江戸時代後期 岡山
栗林公園掬月亭 江戸時代後期 香川
角屋 1787年京都
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) 1796年福島
大徳寺孤篷庵忘筌 1799年京都
渡邉住宅 1817年 新潟
羽黒山三神合祭殿 1818年 山形
高野住宅江戸時代後期 山梨
金比羅大芝居(金丸座) 1835年 香川
岩根沢山神社本殿庫裏 1841年 山形

近代 1853-1945 ※は現存しないもの

柏倉家住宅座敷蔵 1866年山形
旧大明寺聖パウロ教会堂1879年愛知 ブレル、大渡伊勢吉(棟梁)
宝山寺獅子1882年奈良吉村太郎(棟梁)
風間住宅1896年山形
武徳殿 1899年京都 松室重光
花田家番屋 1905年北海道
吉島住宅1907年岐阜西田伊三郎ほか(棟梁)
古谿荘 1909年静岡
高松城披雲閣 1917年香川清水
住友ビルディング1926年大阪住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造)
聴竹居1927年京都藤井厚二
大倉精神文化研究所本館 1932年神奈川長野宇平治
軽井沢 夏の家 1933年長野 アントニン・レーモンド
※両関第二工場酒蔵 1933年秋田
日向別邸 1936年静岡ブルーノ・タウト
近江神宮1940年滋賀 角南隆、谷重雄
前川國男1941年東京前川國男
吉田五十八1944年神奈川吉田五十八

現代 1945-2005 ※は現存しないもの

神奈川県立近代美術館 1951年神奈川坂倉準三
斎藤助教授の家 1952年東京清家清
コアのあるH氏のすまい 1953年東京 増沢洵
南台の家(吉村順三邸) 1957年東京吉村順三
八幡浜市立日土小学校1956年愛媛松村正恒
香川県庁舎 1958年香川丹下健三
スカイハウス(菊竹清訓邸) 1958年東京菊竹清訓
ホテルオークラのメインロビー1962年東京谷口吉郎
日本生命日比谷ビル(日生劇場) 1963年東京村野藤吾
国立屋内総合競技1964年東京丹下健三
大学セミナーハウス1965年東京 吉阪隆正
千代田生命本社ビル1966年東京村野藤吾
白の家 1966年東京篠原一男
塔の家(東孝光邸) 1966年東京東孝光
※虚白庵(白井晟一邸) 1970年東京白井晟一
KIH7004 1970年東京鈴木
中銀カプセルタワービル1972年東京黒川紀章
大分県医師会新館 1972年大分磯崎新
プロジェクトマグネット1973年店舗模型倉俣史朗
阿部勤邸 1974年埼玉阿部
北九州市中央図書館1974年福岡磯崎新
幻庵 1975年愛知石山修武
上原通りの住宅1976年東京篠原一男
中野本町の家 1976年東京伊東豊雄
小篠邸 1981年兵庫安藤忠雄
弘前市斎場1984年青森前川國男
SPIRAL 1985年東京槇文彦
バーオブローモフ1989年福岡倉俣史朗
海の博物館1992年三重内藤廣
豊田市美術館1995年愛知谷口吉生
ウィークエンドハウス1998年群馬西沢立衛
せんだいメディアテーク2000年宮城伊東豊雄
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル2002年神奈川アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ
金沢21世紀美術館2004年石川妹島和世西沢立衛

2017-02-19

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名前が可愛らしい岐阜県久々利城に行ってきましたわ。

織田信長につかえた森一族に攻め落とされた大変かわいそうなお城ですの。

周辺の木々伐採されて良く整備されており、

お城の構造がじっくり観察できました。

特に二重堀切の遺構が見事です。

構造はいわいる連郭式で、南から北に四段の郭が連なっています

本丸から二の丸三の丸の内部と、三の丸への虎口が見下ろせ、

重層的に虎口を遠距離攻撃できる構造になっていました。

三の丸への虎口に接近するためには三の丸真下

左側面をさらして通らねばならず、

攻め手にはなかなかハード構造ですの。

けれども、守り手にとってもお城の構造には問題が観られます

三の丸二の丸入り口が一カ所しかなく、

坂路を押さえられたら、上の郭に移動することは困難ですわ。

ただし、下の郭は上の郭から全体がみえるので、

攻め手が奪っても集結場所に利用することはできませんわ。

また水の手が最初の虎口の後ろという低い位置にあり、

攻城戦序盤に落とされると三段の多重攻撃を活かす前に、

水不足で苦しむかもしれません。

本丸と北の丸の間の窪地に石で門がつくられた水路跡とおぼしき

構造があったので、そこから水が得られた可能性はありますわ。

後世の改修の可能性もありますし、

さすがに大手口の守りはよく考えられた構造をしていますわ。

久々利城の位置は、県道84号線を見事に管制しており、

本丸周辺から麓の道と人家を見下ろせました。

郭一つに50人ほど詰めることができそうでしたので、

四段と北の丸で250人、踏査できなかった谷を挟んだ西の郭に

地図でみた感じで100~150人に、腰曲輪への+αで、

350~500人くらいが配置できそうでした。

パンフレット地図によれば登り口から本丸までの比高は65メートル

わたくしの鰭では、寄り道しながら13分で登れました。

歩行距離ざっと500メートルでしたわ。

看板によればイノシシマムシに注意ですわ。斎藤道三ってとっても長生きですのね。

縄張図の載っていたブログを参考にリンクしますわ

http://ameblo.jp/tkjsk0231hzannitiroku/entry-11949051251.html

 
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