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はてなキーワード: 主観的とは

2024-04-22

anond:20240422200945

口で不幸ですは幾らでも言えるけど、それが甘えなのか気の持ちようで改善できない真の不幸なのかは証明不能だよな。主観的幸福か…… 考えたことなかったけど、これは確かに言えてる。

「男は不幸」に違和を感じる

統計データ自己申告に基づくものだった。つまり主観的幸福」だ。

だけど社会問題にするのは、個々人の内心ではなく「客観的幸福であるべきかと。

給料の差、辛い生理がないこと、親類による出産プレッシャーもなく、メイク圧力もない。

客観的に見ると明らかに男性幸福だ。

anond:20240422143750

主観的に見ても不合理な行動をしてしまうのが人間だと行動経済学学者は言ってた。

行動経済学って経済学心理学を導入したものなので、つまり人間心理ってやつは常に合理的に行動するようにできてない。

2024-04-21

白紙

 『人生』っていう本の登場人物って、多分沢山居て。少女AとかBとか、そういう有象無象の頂点に立つのが、主観的物語を見ている、私たち。どんなにクソみたいな人生でも主役はどうしたって変わらないし、変わったように見せかけて実はずっと自分人生を生きてる。

 そんなことを思ったって、今日バイトがあることに変わりない。重たい頭をかかえてクロワッサンを頬張る。時刻は13時。今起きたばっかり。思考が上手く働かない、ふわふわする。日曜日の昼からバイトで潰れるって、一番気分が重たくなる。苦虫を噛み潰したような顔で喉を鳴らす。強化ガラスのコップに、飲みかけのペットボトルから麦茶うつす。

 麦茶って、癖がないから飲みやすい。私がそう思うだけ?麦茶みたいな人生を送ってみたい。さっぱりしていて、透き通った褐色だけど、深みがある。これに氷を入れたら完璧人生。澄み切った氷が心臓になって、溶けた頃には成熟して死ぬ。いいかもしれない。私も麦茶みたいになろう。コップを持って、一気に飲み下す。息を吐けば、頭もすっきり冴え始める。

 結局、どんな人生になるかはこれからの私次第。実は今、こうして悩んでいるけれど、まだ20歳にすらなっていない。酒の味も知らないし、煙草はなんだか不味そう。でも、バイト先でちらと箱を見た、紺色に金の…あの箱は何だったかしら。きっと煙草だ。そこまで考えて、はっとする。私、話がとびすぎるのだわ。口を手で覆う。今何を考えていたか…そう、人生。これからの私のことだ。

 人生色んな可能性がある。事故死ぬかもしれないし、不治の病で夭折するかもしれないし、はたまたギネス記録に認定されるような長寿にもなれちゃったり。でも普通は、適当に生きて適当死ぬ。のだと思う。人生って、主役側で過去は書き換えられないから面倒臭い。でも、先はちょっとだけ変えられるかも、っていう希望だけで生きてる。人間って面白いだってバイト行きたくないだけで、人生のこと考え出すし。

 考えすぎちゃった。精神辛くなる前に、さっさとバイトに向かってみよう。まずはメイクしなきゃ。今日ちょっとアイシャドウラメ多めにしよう。テンション上げたいし。哲学ばっかり考えていたら、人生もたない。

 程々に生きていたい。メイク道具を適当に放り込んだ紙袋を、怠惰に引き寄せる。この瞬間、『人生』のページにはなんて書いてあるんだろう。とりあえずメイク盛れてるといいな。

2024-04-19

anond:20210317115504

いっきり『自由強制された選択』でワロタ

まり、こういう事。お前は選択する自由がある。しかし、その正解が予め決まっていて正しい方を選ばなければならない。間違えた場合罰せられるか共同体の中に存在しながら無視される事になる。

個人に先立つ社会存在しない前提のはずなのに、多様な思想の一形態である個人主観的感想が劣っていて、集団的意見の方が優れてるとはとんでもなく酷い逆説。

>強制された選択の状況は、主体が、自分選択とはかかわりなくすでに属している共同体自由選択しなければならないのである

問題は、彼は実際にはけっして選択する立場にないというこである。彼はつねに、すでに選択たかのように扱われる。

しかも、こうした強制選択全体主義的な〈権力〉が主体(人民)を捕らえるために利用する罠であるかのような第一印象を与えるにも関わらず、そこになんら「全体主義的」なところはない。━━スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象

誤った選択をした場合精神障害者レッテルを貼るところもファシズムのもの。「そっち側」って言って自分から切り離そうと異化してるけど君も「そっち側」の人間だよ。直接明言しないだけで。

民主主義自由は間違ってても尚当人がそれを支持できる愚行権が備わって初めて非-排他的社会構成することが可能なんだから報復を超えた直接的実害性(ヘーゲル歴史哲学講義で例に挙げた放火に類するもの)の伴った行為でなければ例え悪意に基づいていても民衆それぞれに主権が具わる共同体では許容される。(不能犯を不可罰にする判例等)

なのにその思想を持ったというだけで構成である元増田排除しようとしているってわけ。

根底価値観は全く同じにも関わらずより効率的排除するために慣習的常套句まで利用して排他的社会を推進しているのに、まるで民主主義番犬のような顔をするからより質が悪い。共同体主義のドイツファシズム選択するぐらいなら『アルファヴィル』のような実証主義管理社会の方がマシだろ。

anond:20210317115504

いっきり『自由強制された選択』でワロタ

まり、こういう事。お前は選択する自由がある。しかし、その正解が予め決まっていて正しい方を選ばなければならない。間違えた場合罰せられるか共同体の中に存在しながら無視される事になる。

個人に先立つ社会存在しない前提のはずなのに、多様な思想の一形態である個人主観的感想が劣っていて、集団的意見の方が優れてるとはとんでもなく酷い逆説。

>強制された選択の状況は、主体が、自分選択とはかかわりなくすでに属している共同体自由選択しなければならないのである

問題は、彼は実際にはけっして選択する立場にないというこである。彼はつねに、すでに選択たかのように扱われる。

しかも、こうした強制選択全体主義的な〈権力〉が主体(人民)を捕らえるために利用する罠であるかのような第一印象を与えるにも関わらず、そこになんら「全体主義的」なところはない。━━スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象

誤った選択をした場合精神障害者レッテルを貼るところもファシズムのもの。「そっち側」って言って自分から切り離そうと異化してるけど君も「そっち側」の人間だよ。直接明言しないだけで。

民主主義自由は間違ってても尚当人がそれを支持できる愚行権が備わって初めて非-排他的社会構成することが可能なんだから報復を超えた直接的実害性(ヘーゲル歴史哲学講義で例に挙げた放火に類するもの)の伴った行為でなければ例え悪意に基づいていても民衆それぞれに主権が具わる共同体では許容される。(不能犯を不可罰にする判例等)

なのにその思想を持ったというだけで構成である元増田排除しようとしているってわけ。

根底価値観は全く同じにも関わらずより効率的排除するために慣習的常套句まで利用して排他的社会を推進しているのに、まるで民主主義番犬のような顔をするからより質が悪い。共同体主義のドイツファシズム選択するぐらいなら『アルファヴィル』のような実証主義管理社会の方がマシだろ。

anond:20240418212609

孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。

サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身一人二役して会話していた。

それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまり一面的すぎる。

それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。

だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。

これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。

仮に合意形成の結果から相手心理状態類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。

復讐意図弱者男性が持ってるかは動機主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。

そして主観的には人間自己幸福を測り間違える。

これはデイヴィッド・ベネターが統計引用して例を挙げてるが人というのは身体障害知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。

どの立場であれ心理抑制環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。

隷属か破壊かはニーチェが扱っている議論だが、

ニーチェ正当防衛についてこう述べている。

━━正当防衛一般正当防衛道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義ほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまり人間的』

そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価正当防衛基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。

一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造寄与している。よって社会機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者価値付けの基礎となる社会進歩前進はありえない。

社会弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在搾取する主体である強者必要としてるからこそ残り続ける。

まり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマ流行規定するモード存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)

万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態規制しているのは社会報酬である。それが除かれた場合上記行為当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。

しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群智慧である

2024-04-18

母性神話?】「子どもはパパよりママが大好き(になるものだ)」

子どもはパパよりママが好き(になるものだ)」

たまに聞く話だ。

正確には母性神話とは異なる、子ども側の話題だが母性神話一種と言っていいと思う。

これについて考察したい。

子どもはパパよりママが好き(になるものだ)」論の理由はどこにあるのだろうか?

(1) 本能的に子ども母親を求める(父親祖父母ではない)

(2) 子ども乳児期に多くの場合母親から授乳を受けるので愛着アタッチメント)が形成される

(3) 子ども母親の胎内にいて出産されるので愛着アタッチメント)が形成される

(1)は論としての体をなしていないと思うので却下

生物学者の出典も無しに、あれは子ども本能だと言っても意味がない。

(2)は一見最もに見えるがよく考えると疑問がある。

長い子育ての間で授乳育児の一要素のはずだがそれが何故巨大な影響を持つの不明である

人工ミルクでないならば母乳母親しかできないが、これは逆に考えると母乳以外は父親でも同じことが同じ質で出来るはずである

出来ないというのであれば夫婦の子育て時間の違いに起因するものでありただの社会的な影響だろう。

子どもママが好き」ではなくて「ママが好きになるような子育て結果的にしている」と言うべきだ。

(3)も主観的すぎる。

ここの部分はむしろ子ども視点ではなくて大人視点というべきではないだろうか。

母親の胎内にいた事がどう子どもに影響するのか未検証だと思うし、母親が産んでくれたありがたいなんて発想は子どもが大きくなってから感じる事だろう。

特に乳幼児であれば、「母からまれたから母が好き」は不自然に思う。むしろ大人の発想なのだ

簡単に言えば「子どもはパパよりママが好き(になるものだ)」というのは科学的根拠が怪しい。

しか母性神話のように、母子特別な結びつきを疑問視すると何故か反発してくる人がいる。

科学的に確かであればそれは最もな主張だと思うのだが科学的な出典もなしに母子の結びつきを強調してもそれは母性神話か何かの思想に影響された発言のように思えてしまう。

今後も科学的な研究が待たれる分野ではあるが、母子の繋がりを証明出来てはおらず、今のところ可能性は高くはなさそうと思っておいて良いと思う。

根拠のない母性神話は親のためにも子どもの為にもならないのだから

2024-04-17

https://anond.hatelabo.jp/20240417165018

   抗告状なんか出すわけないだろ。1000人いたら999人がそこに客観的美的原則を感じないようなことをする時点で終わっている。

   プリンターが起動するかどうかも分からない状況下でワード作成して印刷して、切手買って貼ってポストに入れる。なんの趣味になるのか?単なる苦役であって主観を離れた客観的快楽原理

   すらない。徒労なだけである。 人間はいかに主観的な快楽(単なる原始的行為など)を離れて客観的快楽としてもその目的は美の追求であり、美によって快楽を感じるところ、本件の

   手続き手順は、いかなる方向から検討しても、そこに客観的快楽の要素は存在しないものという他ない。ヒトは見たくないものは見ないのであり、発見したもの等をみたときに、どの角度からみても

   そこに快楽発見できないときは、認識しないで通過するか、対抗するかのいずれかであり、みずから他者から認識されていると思い込んでいる方が不合理であるというものである

anond:20240414224825

/r/teslamotorsで工作員発狂させて遊んでた増田として言えば、あれは恐らく肉入りで、母語話者じゃないと違和感激しすぎて人間と映らない日本の文化発狂してるだけ。

英語圏の連中は言語が全世界共通じゃないことやネット文化言語ごとに独立してることを認められず、英語圏流行ってるネタは全地球的に流行ってると考えたがり、観測範囲の全てつまり主観的世界でバズりまくり北米話題投稿すれば話題操作できると考える。奴らは2ch文化日本の高度に発達したメディア文化免疫が無いため、全く知名度の無い海外ミームテンプレを持ち込んで滑りまくり叩かれ放題の機械的対応を繰り返し、対応する術を持たず無防備のまま叩きに屈して病み、ああなるキリスト教的な原理主義にのめり込んでいるため過ちや現実を認める能力を欠き、身勝手な己の宗教原理を貫徹すれば現実が伴うと考えて消耗し続ける傾向がある。仮に根本的な間違いを認めた所で、外資系の奴らはその知を展開すれば人間を辞めた動物認定されるので周囲に明かす事は出来ず余計に病んでいく。

ブコメで一律に知能が無いAI扱いされてるのが本当に可哀想だと思うわ。ネタでな、本気でなく。N1取るの大変だったよねえwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwって感じ。

2024-04-12

アニメ響け!ユーフォニアムは、当初主人公部活に対して一定心理的距離を置いていて、客観的に見ているようなところから、最終的には部長になって主観的ものごとを進めるようになっちゃっているから、吹奏楽部のある種のおかしさに対する批評性が薄くなってしまうんじゃないか

2024-04-09

自責の念に駆られる理由

自分自分に「なぜこうしたんだ!?」「バカじゃねーのか!?」っていう自責の仕方する

で、今日彼女とメシ食ってる途中に「かじりかけのフライドポテトそのままだよ」って云われたけど完全に身に覚えがなくて、普段の俺ならそんなことしない、それもそのはずフライドポテト以外の食べ物は齧ってもちゃん自分の皿に置いてたのにそこだけ別人格に入れ替わったかのよう

言動とかも覚えてないことがおおい

でも多重人格みたいなことはなくて、むしろ人格がないのではないか?と思ってしま

メタ視点から見すぎて主観的感情がない

から状況次第の行動や言動が多い

他の人の自責とか責められてるの見てても俺みたいな感じじゃなくてちゃん本能とか意思に従ってやった結果だと思うのに、俺の場合は現に俺自身客観的に見てもおかしいと思う行動をやってるから頭を殴らずに居られない

でも何故こういうことが多発するのだろうか

2024-04-08

anond:20240408090753

1hあたり666円のゲーム体験

ふむ、自分にあてはめて計算してみるか

俺はここ数年引きこもって一日中崩壊3rd、原神、スタレの3タイトルやってるんだが

年にかける額が1タイトルあたり、月額610*12=7320、6週おきのバトルパス1220*8.6=10492、年1リセットの2倍石買い切るくらいだから24350

合わせて42,162だけどググプレの割引やカード還元もあるからおおよそ4万ジャストと考えよう

一日にゲームにかける時間家事の主に料理趣味情報検索を除いてずっとやってるからまあ9hくらい、3タイトル等分で3h

いやスタレとか絶対3hもやってないと思うが攻略とか調べてる時間も含めるならまあそれでいくか

とすると1タイトルあたりの年間プレイ時間が1095h

1hあたり36.5円しか使ってないかめっちゃリーズナブルだな

まあ楽しんでる時間常人レベルじゃないとはいえ3タイトル合計で月あたり1万円ジャストくらいの出費で済んでる

楽しんでるゲームの質もMMOでひたすら反復作業やお使いしてた時代と比べると

格段に凝ってて物語演出に涙したり景観に圧倒されたりすることも増えてるから

まあ俺は対人ゲーあんまりきじゃないかゲーセンでのゲーム体験との比較はできんけど主観的には負けてないと思う

MMOMMOゲームプレイ自体陳腐でも仲間とワイワイやる別種の楽しさはあったからあれはあれでいいけど

歳とったからかそういうワイワイ系がもう合わなくなってきたんで仕方ない

2024-04-07

anond:20240407101239

あー、見てくる人らが何を意識してるか、ってことか。

女性の体型は多様なのに、それをパターンに押し込めようとすると必ず無理が生じる。

それをみて女性側の主観的ファッション意図とはズレた認識をしてしまう、と。

2024-04-06

anond:20240406141254

理屈で勝てなくなると「乗り心地」みたいな主観的ものに逃げる。と。詭弁のガイドライン通りだな

anond:20240406015151

主観的には大事でも、現実世界では誰も相手してくれないレベルのどうでも良いことだからネットで言うのかもね

あとは加害者側なのに被害者のフリできたりするし

2024-04-04

anond:20240404103033

[文献]自称性同一性障害と本物をどう見分けるか

精神科,18(3):326-329,2011

https://ameblo.jp/mydreamchaser/entry-12330537320.html

自称性同一性障害と本物をどう見分けるか

針間克己

性同一性障害本質的に「自称である

まず指摘すべきは、性同一性障害とは、ある意味において本質的にはそもそも自称のものであるという性質を有するということである。すなわち、性同一性障害とは、客観的事実としての性別が明らかに男性ないし女性であるにもかかわらず、主観的には、その性別とは反対に自己性別認識し、ジェンダーアイデンティティを有する疾患なのである。この「主観」を「自称」という言葉に置き換えるならば、医者を含めた周囲の認識いかんにかかわらず、自分性同一性障害だと自称することこそ、性同一性障害の根幹的な特徴だと言えるかもしれないのである

さまざまな性別違和の中で、どのような程度、種類のもの性同一性障害といえるのかは、診断基準の中で必ずしも明確にされているとは言い難いため、なにをもって「本物」と診断するか、その境界不明瞭なのが実状である

女装すると興奮してマスターベーションする」のように、性的興奮を目的として、女装するものや、コスプレのように楽しみ、気晴らしを目的として異性装をするものもいる。彼らの場合自分自身の身体や、普段性役割に関しては、強い違和感はない。ただ、「女装した時により一層女性らしくなりたいから」といった目的で、女性ホルモン投与を希望したりするものなどもいる。

2024-04-03

どうして分かってくれないの? とは思う

静岡県民の気持ちを分からないのに、リニア問題に首を突っ込まないでほしい。

はてブでもニュース記事でも、解説は十分充実してる。

客観的説明も、主観的な主張も両方ある。ちょっと検索するだけで簡単に行き着く。

それなのに、未だに静岡県民の気持ち理解してくれてない人がいて、悲しいよ。

他人立場に立って考えられない人たちにビックリ

あなた静岡県民として生まれ育てば、同じ気持ちになって同じ意見を持つのよ?

2024-04-02

anond:20240402110322

そう言う表面的な事では無くて、何故自傷行為を辞められないかという事に焦点を合わせてみて。

あなたの「現実」は、いわゆる主観的事実というもの一般化できるようなものではないのよ。だけどこれが全てだと思ってしまっているところを見つめてみて。

2024-04-01

参加型宇宙と量子観測

「参加型宇宙」は、宇宙物理学者ジョン・ホイーラーが提唱した概念で、観測者(行為主体)が世界を捉える視点を重視し、世界記述必然的主観的になるというものである

この概念は量子ベイズ主義(QBism)という量子力学の新しい解釈とも関連がある。

量子ベイズ主義量子力学に現れる「確率」の概念を、「客観的」なものではなく「主観的」なものとして解釈する。

量子ベイズ主義(QBism)、情報理論、量子観測エントロピー関係は非常に深く、それぞれが相互に影響を与えている。

より一般的な測定のモデル記述するためには、量子測定理論の枠組みが必要となる。

2024-03-29

もう受験生でもない自分高校レベル参考書問題集いつまでも解いたりするべきなのか分かりません。

解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。

以下から持論です。

まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います

から私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います

それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚場合が混ざるおそれがでてくると思います

まり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからいかからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。

そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります

まりその高度な理論理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論概念複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。

理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。

しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。

単に用語意味を知らないといったことなら、その用語ネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。

しか学術文章理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからいから」というような、わかりやす輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。

大学レベル参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます

それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。

その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います

特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述シンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます

それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。

これは大学高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります

これは、角度のことについてなら、中学受験算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます

しか書き手にはすべての読者のレベル対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。

そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないか理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なもの特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。

上記高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造問題を共有していると思います

因数分解極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています

なのでその人たち自身が見てきた高校レベル参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。

ですから大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。

でなければ結局「何がわからいかからない」「なんでわからいかからない」という状況に陥ると思うわけです。

予備校講師数学アドバイスで「数3は数1Aと数2B知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2B完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います

まり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。

一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。

また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います

先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベル文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。

そして、どの大学レベル理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。

なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベル文章高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合高校レベルだけど初見だと解けない問題死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。

たか高校レベルから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。

しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。

2000年上前ならピタゴラスの定理理解することも十分意義深いことだったでしょう。

時代が進むことによって、より高度な定理理論発見され、既存定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。

このような文脈での主語あくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。

あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。

一方実際に世界経験する主体単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。

ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類文明主語である場合、それが最先端知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値規定されていたのですから個人主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。

まりその個人理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。

大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界現象に対する理解解像度をあげると思うのです。

から大学レベルのことには書いてない高校レベル問題の解法も赤本や難関大意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばし大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。

まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。

ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。

なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。

2024-03-28

anond:20240328190853

下手くそというのは相対評価なので

しかも音声の演技の評価って定量化された基準存在できないので

しか主観的なので

下手くそ基準を知るためには逆に上手だったキャラとかを知らないとなので

特にクール系のキャラサンプルとしていいので

のでので

声優の声が無理ってやつ

大体これってアニメでは問題ないけどゲームだとダメって人も多くて、おそらくそういう人は声優に演技じゃなくて朗読をして欲しいんだと思う。

俺は昔放送部だったんだけど、アナウンス朗読は文頭から文末まで抑揚を付けず、右肩下がりになだらかに読む方が良いと指導されてた。

強調したいところをちょっとだけ声の高さを上げて読む必要はあるんだけど、それを意識しすぎて声がうねる様な読み方にしてはいけないってのが鉄則だった。

こういうのってNHKアナウンサーへの指導ベースにしてて、実際に地域放送部合同での合宿とかでNHKからアナウンサー指導役的なポジションの人を招いて指導を受けたりしてた。

なんでそんな事になるかというと、当時は放送部にとっての大会NHK放送コンクール(今はどうか知らん)だったから。

審査基準NHK関係者のそれだから、当然普段指導もそれに合わせるよね。

地域による指導傾向の差もあったとは思うんだが、少なくとも俺達が受けた指導では朗読する際に『演技は禁止』が鉄則だった。

情景を伝える為にある程度の抑揚は必要だとしても、『演技』というほど主観的であってはならない。

放送部のそれは文章を読み上げるテクニックを競うのであって、演技力を競うのではない、ってのが放送部における朗読指導だったんだ。

どうしたって演技が入ると抑揚が強くなって文章がうねって聞こえる様になり、単純な聴きやすさでは劣って聞こえる傾向あったしね。


ゲームでの声優さんの演技が合わないって人も、これと似たような事なんじゃないかと思うんだ。

声優さんがやってるのはあくま朗読じゃなくて演技だから、どうしたって抑揚が強くなって文章としては聞きにくくなるんよ。

演技関係ほとんど分からないけど、演じる際に聞き取りやすさを最優先するかって言ったらそうではないだろうし。

それに加えて声優さんの演技の為に作ったキャラ像と自分の中でのゲームキャラ解釈が合わないと、違和感はより強くなるだろう。

特にその声優さんが得意とするパターンの演技に聞こえたなら、その声優さんの色でキャラが塗りつぶされたと感じる人もいるんじゃないだろうか。

そういう人にとっては極力演技はいらないから、セリフを聞きやすく読み上げて欲しいんだと思う。

ただ、だからってそれを理由声優さんにヘイト向けるのは違うよね。

役者に対して演技の質を云々するならともかく、「お前の演技なんからいらんから朗読だけやってろ」って言ったら相当な侮辱でしょ。

そもそも声優さんはこういう演技してくださいって言われてやってるだけだし、それを制作側が嫌だって言うなら宮崎監督みたいに素人連れてくればいいだけ。

そっちの方が売れるならそっちを選ぶでしょ。

需要があるなら、そのうち自分の好みに合わせて聞こえる音声をAIが変化させるスピーカーとかヘッドフォンイヤフォンみたいなのが出てくるでしょ。

立場でいえば下請けに近い声優さんにヘイトが向くのはやっぱおかしいと思うんだよなぁ。

2024-03-27

ケモナーで繋がった知人がソシャゲイケメンジャンルの男にハマった

愚痴

ケモナーで繋がった知人がソシャゲイケメンジャンルの男(以下、彼)にハマった。

これまでイケメンジャンルに興味があるように見えなかったのに、ある日突然、急にのめり込んだ。もちろん彼のデザインバックボーンケモノの要素はないし、キャラデザの方もゲーム自体にも、ケモノ界隈と関わりのあるコンテンツではない。

知人は絵を描けた。彼のあらゆる公式立ち絵ダウンロードして、FAを描こうとしてるのを見たのが最初だった。その次にロック画面が彼の公式絵に変わって、友人と彼の缶バッジを交換し合い、コラボイベントに泊まりがけで参加し、通販で三桁ほど使い、徹夜してイベントを周回し、ぬい布を作った。

彼のどこが好きなのかと聞くと、とにかく顔がいいと言う。

いや、それだけじゃないでしょ……?私にも好きなキャラがいるけど、バックボーンやモーションのカッコよさ、制作意図や当時の社の方針クリエイターの話を聞いて感動したり憤慨したり絶望してはまた好きになってる。顔がいいのはそうだよ。私の好きなキャラも顔がいいし、そもそもゲームキャラなんだから顔がいいに決まってるよ。

私がそのジャンルについて深く知らないから、それ以上話しても伝わらないし、ばからしいなぁと考えたんだろう。それ以上を知りたいと伝えても、ヘンだと思ってるんだよねと捻くれた興味としてあしらって、それ以上話そうとしなかった。

そりゃそう思うよ……。

とんでもなく失礼で、捻くれた見方をしてるよ。

どうせイケメンが好きなんだな……。みんなで盛り上がってるジャンルって楽しいもんな。何年も昔のケモキャラを擦り続けるのも、ちょっとは飽きてくるし、また違った辛さもあらぁな……。

そう思った。

どうしても捻くれた見方をしてしまう。あなたを昔から知っているから。

ケモノ同人誌を出したり、顔以外で、自分環境や悩みや目の前の問題で手一杯だった時期と重ねて、大変な時期に知ったキャラに救われた思い出を話してくれたり、勢いがあったいくつかのイケメンソシャゲをやっては2ヶ月ほどでやめていたり、そうやって20年くらいケモノジャンルでやってきたのを知ってるから、長く一緒にいるから……急に変わってしまったように見える。

推しを見たら周りの仲間とキャーと叫んでグッズを買い漁る人じゃなかった。推しのために一日中イベントを周回するような人じゃなかった。彼にのめり込んでから、知人はどこにでもいるオタクになった。

顔がいい男なんて、そんなやつ昔からたくさんいたじゃん。そいつらを選ばずに、彼を選んで急にのめり込んだ。

キャラを好きになる理由に顔だけとか浅いよね〜なんて子どもじみたことは言ってない。知人の人生と噛み合ってない行動に違和感を感じている。知人に勝手に期待して、今勝手絶望している。知人は別段何も変わってないんだろうと常識的な目と、明らかに趣味嗜好が曲げられているという主観的な目が入り混じっている。

ケモノジャンルというマイノリティにいて、少ない仲間たちの中で細く同人活動していた人が、マジョリティに入ってマジョリティの反応をして、マジョリティの行動をしている。

それでも何も変わってない。

なぜ変わったんだろう。

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