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2022-06-24

犯罪者物語にする意味わからん

平井権八

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E6%A8%A9%E5%85%AB

1655年

死没 延宝7年11月3日

1679年12月5日(満23-24歳没)

別名 白井 権八 (しらい ごんぱち)

墓所 瀧泉寺 (比翼塚)

幕府 江戸幕府

主君 池田光仲

鳥取藩

小紫

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平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本武士である[1][2][3][4][5][6]。講談浄瑠璃歌舞伎映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる[1][2][3][4][5][6]。

明暦元年(グレゴリオ暦1655年)に生まれた、とされる[1]。「享年25」からの推測である[1]。父は平井正右衛門。

因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄太夫須藤太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した[1][2][3][4][5][6][7]。新吉原三浦屋の遊女小紫と昵懇となる[1][4][5][6]。やがて困窮し、辻斬り強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる[1][2][3][4][5][6]。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたこから自首したとされる[7]。

1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した[1]。享年25(満23-24歳没)[1]。小紫刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる[7]。

これおかしいだろ。130人の未来を奪っておいて英雄気取りか。

2022-06-19

anond:20220619093419

タイトルだけ読んで

そりゃ気が利いたら弱者のままでいるわけがいからなあ

と思った

主君の草鞋を懐で温めるような男が出世するのだ

2022-06-09

関ヶ原戦後京の守備を命じられた福島正則は所用で

同じく京の守備を命じられた浅野幸長に使番佐久間加右衛門を派遣した。

しかし、この時家康福島等豊臣家譜代の者を全面的には信用しておらず、

別に徳川譜代の臣伊奈昭綱を日ノ岡に急行させ、検問するようにも命じていた。

佐久間加右衛門はこの検問にて通行証を持たぬゆえ通過を認められなかった。

しかし主命を果たそうとする加右衛門は関所の者と口論になった。

「我が主は内府様に命じられての京の守護役であり、これから使いに参る浅野殿も京の守護である

その御用筋にて使いに参るゆえ通されよ。」と頼むが

関所門番は「相成らんと申せば相成らん」と申すばかりで聞き入れない。

加右衛門はさらに強く頼むがついには数人に囲まれ六尺棒で打ち据えられてしまう。

※この時はこれを堪え頭を下げ主命を果たす逸話と果たせず追い返される逸話があるようです。

その後佐久間加右衛門は主君正則に経緯を話し

「あの場で刀を抜いて闘っては相手は多勢であり、手籠めにあえばますます恥をさらしてしまうと思い

刀も抜けずにおりました。なにぶんにも男の面目は立ちませぬゆえ切腹いたします。

されば今生の残る思いに、殿にお願いがござります。事の次第を殿より伊奈昭綱殿にご通知くだされ、

佐久間加右衛門は臆病者にあらず、立派に腹を切って果てたと。」

正則は加右衛門の話を聞き、加右衛門の名誉のためには立派に腹を切らせてやらねばならぬと思い

切腹を許しこの家来の不幸に泣いた。

そして福島正則事情を書いた手紙を添え佐久間加右衛門の首を徳川家康に送り

代償として関所責任者伊奈昭綱の首を要求した。

家康は加右衛門を追い返した門番達を切腹させ首を送り届けたが

正則はあくま伊奈の首を要求し、正則との関係を悪くできない情勢だっただけに

家康は仕方なく伊奈昭綱を切腹させ、その首を届けることで解決をみたのだった。

この事件幕府は強く恨み後年の福島家改易の罪状の一つになったという。

2022-06-08

このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物評価され、忠吉も関ヶ原本戦島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦経験していない。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している(「仁孝恭謙」と、儒教倫理上での最高の評価をしている)。しかし、当の徳川家による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。

それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている[17](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、貞観政要には「守成は創業より難し」という一文が存在する)。父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。

為政者としての評価

公家諸法度、武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を高く評価する意見もある[注釈 6]。娘の和子を後水尾天皇に嫁がせ皇室牽制、また紫衣事件では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。家康没後は政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の元和2年(1616年7月小倉藩主の細川忠興は息子・忠利に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候」(最近将軍様政務に余念がない)と書き送っている[19]。

秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的政務を見ている。作家海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」としている。

江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると神罰が当たるという三島明神の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れで磔に処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。一罰百戒、厳罰主義の秀忠らしいエピソードである

大名たちの家族関係には些細なことにも気を配り、それを解決する時には茶目っ気もあった。小倉藩細川忠興は父・幽斎譲りの脇差「大三原」(『享保名物帳』の同名の刀とは別物)を愛刀としていたが、嫡子忠利が所望しても与えないので、親子関係がぎくしゃくしていた[25]。どういうわけか、この事情は秀忠の耳にも及んでいた[25]。そこで、ある年、細川父子を伴として浅草川に水浴に出かけ、忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘った[25]。忠興も、水浴びとなれば、大三原を腰から外さざるを得ない[25]。秀忠は、忠興より先に水浴びを済ませ、川辺に置かれていた大三原を手に取ると、一人川に入らず側に控えていた忠利に気を利かせて、「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。(将軍仲介しているのだから、)越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」と堂々と宣言して、大三原を忠利に与えてしまった[25](『細川忠興公年譜』[26])。このときのやりとりは実は忠興にも聞こえてはいたのだが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという[25]。秀忠の大物ぶりに感化されたのか、忠利は後に大三原を気前よく弟の立孝に譲っている[25]

2022-06-02

黒田騒動(くろだそうどう)は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。

経緯

黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西商人になるか、千石知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽新規に雇い入れるなど、軍縮時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫高野山追放された。なお、十太夫島原の乱黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。

題材にした作品

江戸時代中期には江戸中村座などにて黒田騒動を題材にした歌舞伎が数多く上演された。最初瀬川如皐作、外題『御伽譚博多新織』。のちに河竹黙阿弥により狂言『黒白論織分博多』として加筆集約化された。また幕末には合巻としては最長編である『しらぬひ譚』も歌舞伎化され、こちらも大好評を博した。

また、この事件森鷗外小説栗山大膳』において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色して描いている。十太夫は、島原の乱一揆軍に加わり戦死したことになっている。滝口康彦小説『主家滅ぶべし』では、利章は真面目で実直なものの、その忠義独善的であるため主君家中からまれしまい、忠臣としての自身を保つために引き起こしものとして描かれている。

1956年には東映映画黒田騒動』が公開されている。監督内田吐夢、主演の栗山大膳役は片岡千恵蔵

1965年海音寺潮五郎が「列藩騒動録」新潮社上梓、のち講談社文庫化

2022-04-26

anond:20220426022847

あれ、掘り下げるとショタBLっぽい描写多くて普通にBL二次創作が盛んなジャンルだし、公式であるNHKもそれを意識してるのかカップリング人気投票をやったりしてる。

で、舞台となる室町時代男色ポピュラーであり少年が色小姓として主君に仕えたりしてたって背景もある。

そりゃ、今「忍たまポルノ」って言ったら笑い話だよ。

でも、現状でのGoogleApple二次元児童ポルノに対する神経質さがエスカレートした先に、忍たま児童ポルノって世界観があってもそんなに不思議ではないと思ってる。そういう危うさはあるよ。

2022-03-19

プーチン権力保証しているものって何なんだ?

プーチンが「ウクライナを攻めろ!」と言ったところで「それはおかしい」と思った兵士がやめれば終わりじゃね?

兵士命令を聞かないと軍規違反処罰される…と言ってもその罰を課す監察(?)とかも命令を聞かなきゃ意味なくね?

ロシア国防相だか上級大将だかが「いやプーチン狂ってんだろ」と思ったら命令に従わなくてよくね?

プーチンの側にいるボディガードとかがふと気が変わってプーチンを撃ったら終わりじゃね?

他のボディガードも「まあプーチン死んで当然だよな」と思ってたらプーチン殺してもその場で射殺されなくね?

そこでプーチン命令に従うべき理由なんてどこにもないじゃん。

いくら鍛えてるったって数人がかりでボコれば何の抵抗もできないただの爺さんだろ。

みんなで命令無視すればプーチン一人では報復も何もできないはずだろ。

プーチンに限らず歴史上の皇帝とかでもそうなんだけど、なんで暗君でも「主君から」ってだけで家臣は従ってんだ?

可能性1. 外から見れば暗君でも部下はガチで心酔してるから

可能性2. 命令無視するにしてもみんなで示し合わせないと怖いから(そして示し合わせることができないから)

可能性3. プーチンが失脚すれば自分死ぬしかいくらい一蓮托生の関係になってるから

可能性4. 思考停止して命令に従う方が楽だから

可能性5. 洗脳されてるから

どれ?

2022-02-12

https://anond.hatelabo.jp/20220212010453

平家はなぜ後白河法皇を殺さないのか

殺してしまったら上から下まで総スカンやで。天皇自体権威があった (古来から儀式とかの継承者) からというのはそうだけど、洋の東西を問わず権力掌握のために主君殺すってなかなかない気が...「主君すら簡単に殺す奴が他の勢力ならもっと簡単に潰しに来る」みたいに思わるので相当な根回しが必要やと思う。

臣下に殺されたっていうので思いつくのは三国魏の高貴郷公やけど、これは高貴郷公自らが兵を率いて司馬昭を始末しに行って逆襲されて殺されたから 、後白河が直接平家にぶつかれば殺されるかも?高貴郷公の件は名ばかり皇帝に落ちぶれた東晋皇帝がこのことを知ったときにそら(皇帝殺して皇帝になったら)そう(権威なんてなくなって名ばかりになる)よ...orz ってなってたので、主君殺すってなかなかできないんちゃうか。

あと、後白河平家が決定的にこじれたのって鹿ケ谷の陰謀さらに後の重盛の死後処理で後白河やらかしたからで、その先は後白河がいようがいまいが戦乱になってたんちゃうか?源平合戦に火をつけたのは後白河じゃなくて八条院周辺だし。後白河にしても平家にしても自分ところの利益だけを場当たり的に追及するところがあって、それがgdgdの源泉だと思う。

なんで天皇がここまで尊くなったか不明なんだけどやる夫スレでよければ やる夫が大海皇子になるそうです というのを読むといいかも。長いけど。この作者の前作が やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです でちょうどこの時代やな。こっちも長いけど。

反乱を起こした高倉上皇兄弟は殺していた

以仁王のことか?そりゃ天皇でもなければ自分で反乱起こして戦場に出ちゃったからね。後白河も後鳥羽戦場に兵を率いて出てはいないのに注意。どちらも合戦は部下に戦わせて自分のところまで敵が来たら素直に従っている (法住寺合戦承久の乱等)。ここで抵抗したらなにかのはずみで殺されていても不思議ではない、が天皇とはそういうものではない。また当然ながら尊さにも位があって 天皇上皇 >> 皇太子 >> 親王 >> ただの王 で、天皇家に連なっていても親王宣下されなきゃたいしてえらくはないで。

天皇でもないのに後白河法皇の死にそこまでの重さはあるのだろうか

このころの上皇とか法皇とかは事実上最高権力者やで。平安中期は摂関家自分の甥である天皇後見をすることで権力を握ったが、平安後期では天皇直系尊属である上皇法皇天皇家の家父長権でもって天皇後見をすることで権力を握った。最高の権門である天皇家の家長として荘園も集積しているので財産も持っている。まあ後白河は中継ぎって見られてたから前任の白河とか鳥羽とかみたいな盤石の権力ってないけど。ついでに父の鳥羽から財産を受け継いでないし。

源頼朝を殺さな

頼朝は蔵人を務めていた上西門院(統子内親王・後白河の姉にして准母)と母親実家である熱田大神宮家助命に動いて助命されたんやで。これらの貴人達の反対を押し切って殺すのは政治コストが高すぎる。そもそも平治の乱時点での清盛は財力武力はあっても正四位大宰大弐にすぎないわけで政権の中枢にいたわけでもないし、反乱鎮圧立役者ではあっても処刑にどこまで関与できたというと疑問な気がする。平家政権ができあがるのはこのあと後白河法皇二条天皇の間を上手に泳ぎ回った(平時の乱もその上手に泳ぎ回ったの一部だが)上で1165ごろに二条天皇政界の大物複数名が相次いで死んだ結果なので、このときの清盛に平家政権全盛期の公卿殿上人数多という未来を言っても信じなかったんではないか

そもそも天皇家は神道権威だろうに、後白河法皇は何で出家してるんだろう。

昔は仏教神道密着してたのか?神の子孫の天皇家がバンバン出家していた頃って、どんな宗教観なんだろう。

仏が神より高い位置にいたとか?

日本古来の伝統がたった150年ほどで忘れさられるとは嘆かわしい。明治政府のなんと罪深いことよ。仏教日本に受け入れられる際に神道を取り込んでこのころには不可分になってるで。そのあたりの理屈をつけたのが本地垂迹説やな。出家すると神道儀式主催するのは不適切という概念はあったらしいので、神道儀式は現役の天皇にまかせて退位したら出家して仏教儀式に専念する、というのはありかもしれない。神道仏教もどちらも国を護るには重要やしな。

あと神の子孫ということなら大体の平安貴族神の子孫やで。

2022-01-17

anond:20220117152810

武将が「やあやあ我こそは○○の住人、○○なり!~により~参った」といった感じで自分名前出身地主君名前などを大音量で名乗って

実は大音量自分名前出身地を名乗ってから戦うことで、戦場で誰が誰を討ち取ったのかを明らかにするという意味がありました。討ち取った相手が大物であるほど多額の恩賞を与えられるため、ちゃん自分が討ち取った証が必要だったのです。

その証を示すだけなら短くてもいいのですが、長いものでは自分の姓名や出身地主君大義名分だけでなく、家系まで長々と語ったのだとか。

証拠づくりだけでなく、自分のこれまでの戦功や武勇を高らかに語って敵に知らしめ挑発したり、味方の士気を上げる役割もありました。

https://sengoku-his.com/199

2021-12-25

anond:20211224172419

いや元増田には「どうしてそうなるの?」っていわれたから「他国の考えではそうなってるよ」っておしえたあげただけなんだけど。別の人とダンスして楽しんでて楽しかったならそれでいいよ。

クリスマスケーキも食べ終わったから一応答えておくけど。別にだれの義務でもないね

 

中国なんかだとたとえば関羽は神だけど呂布だったか主君を裏切っ」て死んだ人は未だに墓に唾を吐きかけられる一種正義娯楽物として扱われるらしいね

なんでそうなるかっていうと、中国文革宗教を廃棄したよね(チベットラマ僧もひどい目に合わせてるんだっけ?https://president.jp/articles/-/39632?page=1

日本ほぼほぼ形骸化してる、クリスマスケーキを食べてから神道やお寺に初詣にいくくらいにはね(キリスト教からすると邪教崇拝だね)

 

でも形骸化していない国では宗教はまだ生きていて、死刑だけはやめろ、獄中でも人間としてと政治に働きかけている

あとはこのへんでもよんでよ

https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/reason.html

みんなが思い込んでいるのと事実は違って、殺しても別段だれも得しないんだよね、遺族感情ってのは。

一応被害者支援金なんかで金ももらえたりするけど、金でも死刑などの相手への罰則でも悲しみは解決できないわけよ。

そんなことよりどうして「そんなことが人間にできてしまったのか」を深く考えるわけ。

 

まあ日本人って隠ぺい体質だからちょっと理解できないかもしれないけど

エラー連続的に発生してる工程エラー結果を消すことで「エラーが起きていないことにする」ほうが好きなんだろうな

からね、遺族感情勝手に憑依して「死刑したほうが遺族にもいいにちがいない」ってとなえちゃう元増田みたいなのは無宗教の上に安易怠惰で調べものもしない単なる正義娯楽者、「正義」のみを求めるおこちゃまなわけ

ちなみに死刑推進の先鋒たる中国さんはこんな感じよ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%AD%BB%E5%88%91

どうやら人間の扱いに困ったらとりあえず殺してるふうに見えるんだけど、一人っ子政策から3人っ子政策にきりかえて人口増を狙ってるのにこれではね。

矛盾という言葉が生まれた国だけのことはあるね。

2021-11-27

まさか現代避諱(ひき)に気を遣うことになるとはね

新型コロナ変異株がν(ニュー)、ξ(クサイ)をとばしてο(オミクロン)と命名された。

νを避けるのは分かる。「new」との混同を避けるためだ。

ξを避けたのは、ξは英語で「xi」と記され、習近平が「Xi Jinping」と記されるため、それを避けたとの話がある。

https://globe.asahi.com/article/14490168

まさか現代の世の中で、中国トップ名前は一部でも用いることができなくなるとは思わなかったなぁ

避諱

中国では古来、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なことと考えられていた(実名敬避)。特に皇帝およびその祖先の諱については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその諱を口にしたり書いたりすることを慎重に避けた。

ある王朝皇帝に関する避諱範囲はその時代のあらゆる言語表現に及び、例えば、避諱に触れる文字を含む人名地名があったときには適宜諱に当たらない名前に改められ、更にはその諱字に通う音の字を改めること(嫌名(けんめい))さえも行われた。

宰相意味する「相邦」が漢の劉邦の諱である「邦」の字を含むことから漢代以降は「相国」に改称された(これについては、漢より後の王朝も「相邦」に戻さなかった。)

楚漢戦争の説客、蒯通の諱は「徹」であったが、前漢武帝劉徹の諱を避けて「徹」と同義の「通」に差し替えられた(漢代以降も訂正されずに定着している)。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BF%E8%AB%B1

(抜粋)

2021-11-19

anond:20211119192623

養子は基本そうだから

地縁とか血縁とか主君とかそういうとこからもらうものであって

なんの縁もゆかりもないとこからガキ持ってきたりはしない

2021-09-10

日本人は誰一人として武士の血など引いていないのに

全員が「主君絶対服従」という武士の掟を押し付けられる。

2021-09-04

anond:20210904143630

当時の価値観で例えるならば、学者が遣明使として派遣された事に相当するのであって、裏切って主君を殺した武将で例えるのは的外れでしょ

2021-08-13

無能な味方の分類法

無能な味方という枠組みを制作するに当たり、もっとも分かりやすく、かつ納得がいく枠組みが宗教と呼ばれるジャンルの中に大量にあったりする。中でもユダヤ人十戒は、いかにして無能な味方を見分けるかという視点で見るならば、笑っちまうほど的確で分かりやすい形でそれぞれの戒律が定められている。あわせて、キリスト教における七つの大罪についても、同じことが言える。

せっかくなので、双方の戒律から見る無能な味方の判別法についてを簡単に述べる。

十戒

主が唯一の神であること

基本中の基本。一つの集団形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。

また、無能な味方を排除する際にも、一言背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である

偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止

これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。

神の名を徒らに取り上げてはならないこと

ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。

恐ろしいことにユダヤ人祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。

安息日を守ること

休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。

父母を敬うこと

家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。

殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)

当たり前。でも、別に生存競争否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在集団内にいていいわけがない。

姦淫をしてはいけないこと

昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。

盗んではいけないこと

これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。

偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)

同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである

隣人の家をむさぼってはいけないこと

宗教集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である

七つの大罪

やけに生活観のあふれるユダヤ十戒と比べて、キリスト教七つの大罪は、完璧戦時中、もしくは争乱に特化したつくりになっており、飢饉や疫病、戦争といった中世暗黒時代かほりあふれる、無能な味方の割り出し方法となっている。

傲慢

主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位自分世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。

嫉妬

これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。

憤怒

喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実

怠惰

これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。

強欲

これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉場合集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。

暴食

これは、完璧飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。

色欲

十戒姦淫の部分と同じである

七つの美徳

上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須技術となる。

忠義希望勇気純潔、慈愛、純愛友情、誠実、知識正義分別節制貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品

・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望純潔上品といった要素が含まれるのも仕方がない。

もし、ネガティブ好色下品な仲間がいたら、あなたのいる集団にどんな未来がありますか?

無能な味方の分類法

無能な味方という枠組みを制作するに当たり、もっとも分かりやすく、かつ納得がいく枠組みが宗教と呼ばれるジャンルの中に大量にあったりする。中でもユダヤ人十戒は、いかにして無能な味方を見分けるかという視点で見るならば、笑っちまうほど的確で分かりやすい形でそれぞれの戒律が定められている。あわせて、キリスト教における七つの大罪についても、同じことが言える。

せっかくなので、双方の戒律から見る無能な味方の判別法についてを簡単に述べる。

十戒

主が唯一の神であること

基本中の基本。一つの集団形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。

また、無能な味方を排除する際にも、一言背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である

偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止

これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。

神の名を徒らに取り上げてはならないこと

ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。

恐ろしいことにユダヤ人祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。

安息日を守ること

休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。

父母を敬うこと

家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。

殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)

当たり前。でも、別に生存競争否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在集団内にいていいわけがない。

姦淫をしてはいけないこと

昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。

盗んではいけないこと

これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。

偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)

同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである

隣人の家をむさぼってはいけないこと

宗教集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である

七つの大罪

傲慢

主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位自分世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。

嫉妬

これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。

憤怒

喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実

怠惰

これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。

強欲

これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉場合集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。

暴食

これは、完璧飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。

色欲

十戒姦淫の部分と同じである

七つの美徳

上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須技術となる。

忠義希望勇気純潔、慈愛、純愛友情、誠実、知識正義分別節制貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品

・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望純潔上品といった要素が含まれるのも仕方がない。

もし、ネガティブ好色下品な仲間がいたら、あなたのいる集団にどんな未来がありますか?

2021-08-07

anond:20210807133448

世代とか文化とか時代とか色々ある。

時代劇と同じと思っていいい。時代劇で唐突切腹させたり主君仇討ちをしたり人助けをしたりとかは全然いまの世にないけど、そういうもんかなって思えるでしょ?想像力の話でもある

2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

2021-06-26

三国志はおじさんが感情移入できる要素がたくさんあるからおじさん向け

登場人物がおじさんしかいない。若者中心にすると八王の乱を起こすほどにおじさん賛美のホモソな作品

特に劉備髀肉の嘆なんてのは多くのおじさんに心当たりがあると思う。

諸葛亮自分にふさわしい主君を得るまで引きこもっているのも共感できるかもしれない。

関羽が腕の骨を削る手術中に平然と碁を打っていたというのにも憧れるだろう。ワクチン接種のとき関羽のことを考えれば痛みに耐えることができる。

感情移入たからといって実際彼らのようにはなれないが。

2021-05-17

anond:20210511011851

自分漫画アニメとか好きだけど、宅建試験や(平成30年合格率15.6%!!!)FP1級学科試験2021年1月実施試験合格9.95%!!!)に合格するレベル人間から他人精神幼児とか言ってる投稿主君よりも人間としてのレベルは高いと思う

2021-02-02

殺人が悪ってのは現代価値観に過ぎないか過去の人物を見てもなー

仇討ちで「何で殺しに行かねーの?行かないなら主君の後を追って死ねば?」とか言われてた時代とか現代からしたら地獄しかない

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