「中庭」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 中庭とは

2021-09-07

コロナが出始めた頃に会社喫煙室が軒並み使用禁止になって、タバコ吸えるのがちょっと遠い中庭だけになった

雨でも風でも雪でもそこでしか吸っちゃいけなくて、喫煙者のみんなはめんどくさそうにしてた

俺はタバコ吸わないけど、仕方ないとはいえ遠くに追いやられて大変だなと思ってた

最近中庭生垣に吸い殻が捨ててあるのが見つかったらしくて、中庭も閉鎖するかもって話が出てきた

中庭にも灰皿は置いてあって、生垣に捨てないといけない理由がない

中庭以外だと歩いて10分くらいの喫煙所のあるコンビニまで行かないと吸えない

なんでわざわざ自分たちの首を絞めるようなことするんだ?

大変だなと思ってたけどあんまり同情できなくなった

この際にやめたらいいのに

2021-08-26

しょうもないのに忘れられない言葉

たぶん自分以外は全く気にしていないだろうふとした言葉が、どうしても頭から離れず残っていることはないだろうか。心に残る名言とかそういったものではなく、もう少し生産性のないもので、忘れてもまったく困らないようなことなのに、なぜか忘れられずに頭にこびりついていること。

暇になったので、私の人生の各地点におけるそういった言葉をいくつかピックアップして振り返ってみる。


高校時代:「利休かよ」

私の出身高校はお寺に附属している私立高校で、地域のお寺の跡取り息子という生徒が各学年に何名かいるような、ちょっと変わった学校だった。そのため、選択科目の時間は「書道」「茶道」「修行」を入学時に選択することになる。

(この「修行」については実際のところ別の名称があるが、それを検索すると容易に学校名が特定できてしまうため伏せている)

そのシステムを全く知らずに入学した私はこの3択の中で最も普通そう…と思い「書道」を選んだのだが、入学して話を聞いてみると、圧倒的に人気なのが「茶道」ということが判明したのであった。というのも、茶道先生がとても優しく、また授業中に毎回振る舞われる季節のお茶菓子が非常に美味しいとのこと。そういうことは入試要項に書いておいてほしかったが、1年間は選択科目を変えられない。

初めての選択授業の日、同じように事前の情報入手に失敗したと思しき私たちクラス情報弱者達の顔ぶれは見事というほかなかった。何故か毎日きっかり30分遅刻して来る奴、入学2週間目にして校内でキティちゃんサンダルを履いている明らかな不良、冴えんメガネ(私)、金髪、などなど、明らかにクラスの上澄みが茶室に出ていった後の底に溜まっている淀みそのもので、狙ってもなかなか出来ないような吹き溜まり感のある人選が逆に面白かった。余談だが、書道先生名前はジュンコ先生といい、ものすごく筆順に厳しかったため、書き順子と呼んでいた。

とにかく異常につまらない書道だったが、それでも半年ほど一緒に同じ空間にいるとなんとなく仲間意識のようなものが出来始めていた。この環境に置かれなければ絶対交流を持つことはなかったであろうタイプの人と話す機会はそれなりに新鮮でもあった。金髪の子は毎回私の墨汁を借りていった。

ある日、いつものように選択授業の時間(3時間目だったと思う)になり、茶道クラスメイトたちが「今日お菓子何かな〜!」とか楽しそうにキャッキャしながら教室を出ていくと、同じくいつものように逆アベンジャーズけが教室に残された。すると、キティちゃんサンダルの不良女子教室本体よりもでかいキーホルダーがジャラッジャラについた携帯をいじりながら、私に話しかけてきた。

お茶メンうるせー。あいつら茶道楽しみすぎじゃね?利休かよ」

(注:「お茶メン」…茶道選択している人のこと。なお書道にそういうのは無い。)

ちょっとした衝撃を受けた。普段ほとんど寝ているか怖い先輩と中庭で話しているだけにしか見えなかった子が、こんな知的ツッコミを!と雷に打たれたような気分だった。私はその頃、初期のダウンタウンVHSヤフオクで買い漁るのが趣味というしゃらくせえ高校生だったので、このセンスはあまりに眩しく私を貫き、大爆笑した。その記憶と、ギラギラネイルの指先に収まるラインストーンがジャリジャリついた携帯電話の様子を鮮明に覚えている。

以来、いつも一緒にいる親友というわけではないがこの子との交流は付かず離れず続き、その後色々あった結果わりと有名なトップスタイリストになった彼女に、私は今でも髪を切ってもらっている。頻繁にこの「利休かよ」の話をするのだが、本人は全然覚えていないらしい。

 


大学時代:「じゃ あなた誰なんですか」

上京し、とある弁当店レジ打ちのバイトをしていた頃のこと。締めシフト(21時〜24時)の担当は2名、私とSさんだけで回すことがほとんどだった。Sさん自称大学生の25歳で、毎日ギターケースを背負って出勤していたがそれ以外の荷物を手に持っているのは見たことがなく、客が誰もいないとバックヤードで店内有線の安っぽいメロディに合わせてGLAYの「BELOVED」を熱唱している姿が印象的だった。有線じゃなくてギター弾けばいいのにと思っていた。

ある日、(本来ルール違反とされていたが)23時半くらいになると全然客が来ないため、私は閉店前にレジ締め作業を始めていた。すると、1人のおじさんがふらつきながら入店してきた。

おじさんは、警察官の格好をしていた。だが、何か違うような、微妙違和感があった。妙にテカテカしているのだ。おそらく、コスプレ衣装であることが分かった。そして、おじさんは猛烈に酔っ払っていた。顔は真っ赤を超えて紅蓮に近い色になっていたし、前述のようになぜ転ばないのか不思議なほどフラフラしていた。酒臭いというかは、「酒」の概念入店したのかと思うほど一瞬で店内が酒の匂いに包まれた。

おじさんは這々の体でレジカウンターにもたれかかると、蚊の鳴くような声で「た、逮捕しゅる…」とつぶやいた。いま思い返してみるとこの時点でかなり面白いが、当時はけっこう普通に恐怖を感じ、完全にヤバい事になったと思った私は、バックヤードからSさんを呼び出した。Sさん仕事こそ猛烈に不真面目だったが、やたら体格がよく強面なのでクレーム対応などでよく矢面に立たされており、こういった事態には非常に手慣れていた。状況を話すと、おじさんの対応に行く前にさっそく交番電話してくれていた。

その後もカウンターにもたれかかり「逮捕しゅる…」しかさない、警官風おじさん。ほどなくして本物の警官が2名お店に来る(ものまねグランプリで後ろから本人が登場する時のようだった)と、店内の様相を見て完全に笑いをこらえているのがはっきりと分かった。とりあえず交番に連れ帰って話を聞くとのこと。

警察です。わかりますか〜?大丈夫ですか〜?警察です〜」

警官風おじさんの右肩を持った警官が彼に聞くと、警官風おじさんは

「…あ!?

これまでのグデングデン状態から一転、いきなりビシッと立ちあがり警官2名を振りほどこうとした。

「おい!!離せ!!オレは警察じゃねえ!!」

警官を前に、誰が見てもわかることを絶叫しながら暴れる警官風おじさん。

すると、警官は極めて冷静に、

「じゃ あなた誰なんですか」

と返した。

その驚くほどの冷静さと、警官風おじさんと本物の警察官距離感の対比が面白すぎて、このバイトをやめて数年経つ今でも思い出して笑ってしまう。警官風おじさんはこの後わりと素直に連行されていった。Sさんはこの後、狂ったように笑いコケていたが、半年後に大麻で捕まりクビになった。

社会人:「あれ、歯 無ぇぞ!?

とある建設会社仕事をしていた(現在もしている)ときとあるリニューアル工事コンクリート躯体の大規模な斫り(コンクリートをいったん壊す作業)があり、おじいちゃんに近い職人さんが数人出入りしていた。夏場ということもあり、塩分補給用のラムネのようなタブレットを休憩時間に配布することが現場ルールとなっており、私も担当者として彼らにそれを配っていたのだが、ある日一人の職人さんがタブレットを受け取って口に入れると、

「あれ、 歯 無ぇぞ!?

と大声を出した。え?と思って近づくと、口の中にマジで歯がなかった。コンクリートを壊す作業振動工具を使って行うため、その振動で総入れ歯が取れ、歯がなくなったのではないか?ということらしい。周囲の全員が大爆笑していたが、本人には死活問題である。ひとしきり笑った後、解体ガラを探ってみたが歯は出てこず、歯無しのまま1日作業をしてもらうことになった。

粉塵の出る作業のため全員マスク着用で行っており、仮に歯が取れていたとすれば保護具の着用を怠っていたということにもなるため、それはそれで困る)

なお、結果的に歯は自宅で見つかったので事なきを得たのだが、振動工具を使っていて歯がポローンと出ていくイメージ想像するだけで未だに笑ってしまう。


とりとめもないことの割に随分文章量が多くなってしまった。人に伝えるには前提となる様々な条件の説明から始める必要があり、それなりに手間のかかることなんだなと思った。こういう、自分けが価値見出して大切にしている思い出の積み重ねで人間個別性を獲得していくんだなあと思った。

しょうもないのに忘れられない一言と、その思い出の話があったら教えてください。

2021-07-16

anond:20210716004404

田舎の広い庭で木登りとか畑で遊べる猫のが幸せだとおもう

あと海外結構ムチャをして猫の幸せ追求してる。巨大な猫中庭とか

https://youtu.be/VnP4uCE9NjQ

https://youtu.be/XLP-IS8Sx40

2021-06-06

anond:20210605224323

私の中の渡辺篤史リビング階段に座り中庭を観ながら「この絶景」とナレーションをつけるんだよな。

(心のBGM小田和正言葉と心)

2021-05-20

スーパーの猫

中庭に、猫がいて休憩場所から

よく見える。

なんか顔馴染みになって、

わしが座るとやってきて

ガラス越しを通過する。

さりげなく

猫にも心があるんだなあと実感。

2021-04-16

anond:20210416120205

内容に全く関係なくて恐縮だけど、もう珍味天一も3号館の中庭もなくなって、ごんべえの猫もいないし、記念会堂は地下化されてるんだぜ……

2021-03-26

病院中庭で狭い空を見ていた。

また誰かが入ってきた。おそらくこの時期しかまり使われない扉が軋んで、音を立てた。

鳬かと思った。こんなところに居るはずが無いのに。

2021-03-20

超軽量の中庭チャーシューメンをひとつ

超軽量を考えるとチャーシューメンは吹っ飛ぶ

2021-03-02

グエンさんがグエンマンションから落ちた女児を助け、

グエン首相から感謝状を贈呈される

 

https://www.viet-jo.com/news/social/210301140337.html

 2月28日午後17時30分ごろ、ハノイ市タインスアン区にあるマンション「グエンフイチュオン60B」で、12A階(13階に相当)のベランダから3歳の女児が転落するという事故が発生した。女児奇跡的に命に別状はなかった。

 

 部屋から出てベランダの手すりをよじ登って宙ぶらりんになった女児N・P・Hちゃんは、地面に向けて真っ逆さまに落下した。この様子は、騒ぎに気付いた向かい側のマンション住民ビデオ録画しており、一部始終が映されていた。

 

 力尽きた女児が落下し、もう駄目だと思った瞬間。たまたま現場居合わせ荷物配達員のグエン・ゴック・マインさん(男性31歳)が1階中庭トタン屋根に上って、落下する女児キャッチを試みた。落下の勢いがついており、完全にキャッチすることは出来なかったが、衝撃が弱まったため、女児一命をとりとめた。

 

 女児病院に緊急搬送されたが、家族によると、手足を骨折するなど重傷を負ったものの、健康状態は安定しているとのこと。

 

 危険を顧みず女児の命を救ったマインさんは、「私にも同じ年頃の娘がいます。あの瞬間、落ちてくるのは自分の娘だと思いました。女児の姿を見つけてから落下するまでは1分程度。勝手に体が動き、すぐ中庭屋根に上って落ちてくる少女を待ち構えました。連絡先も伝えずにその場を去りましたが、その後、どういうわけか少女家族から骨折したけど、命に別状はなかったと電話がありました。助かって本当に良かったですが、怪我をさせてしまたことが残念です」と語った。

 

 なお、このニュースを知ったグエン・スアン・フック首相3月1日マインさんの強い責任感と勇気ある行動を称えて表彰状を送った。

2020-12-21

ロックフェラーの胸像のたつ中庭の芝生の下の根のみが知る君

2020-12-07

アルゼンチンロックシーンへの愛が溢れてきた

https://m.youtube.com/watch?v=wCtzpUKmQe8

これ、別に音楽的に優れてるとかすごいパフォーマンスだとか言うんじゃないんだけど、俺が思う若いミュージシャンってこんな感じであってほしい!っていうのをカンペキに満たしてるんだよな

ベスティア・べべってバンドとラス・リーガス・メノーレスってバンドメンバーが、尊敬する先輩バンド(たぶんそういう関係だと思う)の曲を一緒に歌っている ゆるい雰囲気で!

それを誰かが2階からおそらくスマホ撮影してYouTubeにあげてるっていうのがまたいいんだよな とにかく良い

スリーガスメノーレスさんのほうは

https://m.youtube.com/watch?v=1xp4abUwzWw

この動画もメチャ好きで、何が良いってボーカルの女の人のチョー気だるそうな感じがいい 歌も微妙に下手なのがまたいいんだよな マジで表情が好き 同級生だったら間違いなくガチ恋してた

そのダルそうな姉さんが、ギタッラ・コムニスタのカバー中庭みたいなところでやる時はわりとニコニコしながら歌っている ホンマええねん

彼らの雰囲気が好きすぎる

どうしたらいいんだこの気持ち

ライブとかあったらすげえ行きたいけど絶対日本には来ないだろうし、南米に渡るにしたって今は無理だ

待つしかないのか ウオーーーーー

2020-11-28

天井の高い場所でのお茶食事をするのが好き。

天井近くで風と光が舞っているとき

外は雨でも、ほっとする。

あるいはほの暗くて天井も低い間接照明バルみたいなところ。

すみっこでうとうとしていたい気持ちもある。

学生時代、よく中庭でお弁当食べたなぁ。

みんなで鯉に餌を上げながらとか。

なんとなくだけど、山歩きとか

ピクニックがしたいんだけど

いまの処無理だよね。

せめて健康のために

買い出しの時にでも

一駅分歩くとか、そんな感じ。

いつもありがとう感謝してます

2020-11-27

「この世の一番暗い場所で誰かと誰かが邂逅する」シーンが好き

 暗い場所、なんか精神世界みたいな場所で誰かと誰かが邂逅するシーンが好き。以下、ネタバレを含みつつそれらのシーンを解説していく。

 エヴァ最終話近辺も似たような感じのシーンあるけど、あの辺は演出としてかっちりし過ぎているのでそこまで好きではない。


輪るピングドラム

 物語終盤において、主人公兄弟である高倉冠葉と高倉晶馬は、真っ暗な空間において隣り合う二つの独房にそれぞれ入れられている。飲み水も食べ物も見当たらないその場所で、二人は飢えていく。なお、二人の姿は物語中の青年の姿ではなく幼少期の頃の姿を取っており、したがってこのシーンが、現実ではない抽象化された世界出来事であることが示唆されている。

 お互いに独房から励まし合いつつも、飢えてかつえていく二人であったが、やがて兄である冠葉が叫ぶ。

「あった!」と。

「何が?」と晶馬が疲れ切った声で問うと、冠葉は「林檎があった。今まで気付かなかったけれど、独房の隅に落ちてた」と晶馬に伝える。「晶馬の方にも落ちているかもしれない、探してみろよ!」

 暫くの間晶馬は林檎自分独房で探すものの、そこに林檎はない。やがて諦めを含んだ声で晶馬は言う。「僕の方には無かったよ。おめでとう、冠葉は選ばれたんだ」

 この「林檎」はこの場合、「両親から愛情」のメタファーである。晶馬は幼少期において様々な事情により、母性愛情が欠落した生活を送っていたのである。冠葉はその乾き切った晶馬の言葉愕然とするのだけれど、自らの手で林檎を二つに断ち割り、そしてその一方を、独房鉄格子越しに、晶馬の方へと差し出すのであった。

 先程、愛情の例えになっていると説明した林檎であるが、同時にこの林檎は、旧約聖書における「善と悪の知識の実」のメタファーにもなっている。

 ピングドラムにおけるキャッチコピー複数あり、その内の一つが「僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」である。愛と罪を共有する、というテーマが、この暗闇のシーンにおいては描かれているのである

「『列車』はまた来るさ」


リトルバスターズ!

 飼い猫「レノン」の後を追って、寮が併設されている学校敷地内を走る主人公。その主人公の目の前に、幼い頃の主人公の心の支えとなり、今もなお親友として日常を共有する棗恭介が現れる。夜の暗い中庭において、恭介はレノンを腕に抱えていた。これまで、レノンは度々メッセンジャーとして主人公翻弄していた。その尻尾に結び付けられた何者かのメッセージが、時に主人公を誘ない、時には誰も知りようのない個人的秘密示唆しもしたのである

 そしてその夜、いつものように主人公の理樹を誘なったレノンが最終的に辿り着いたのは、親友である恭介の元へであった。それを追ってやって来た理樹は、これまでレノンを介して自身メッセージを与え、様々な示唆を与えてきた人物が恭介だったことを悟るのである。恭介はこれまで理樹に対して、「この世界には秘密がある」とレノンを介して度々伝えてきた。そのメッセージを目にした理樹は半信半疑ながらも、示唆に従い様々な問題解決などを手伝う羽目となっていたのである

 全ては恭介の悪戯であったと悟った理樹は、「結局世界秘密とは何だったのか」と冗談めかして尋ねるのだが、「世界秘密は本当にあるんだ」という思いもしなかった答えに直面する。

「それは形而上学的に存在していたとされる世界のことか何かなの?」「そんなもの存在しないよ。この世界には秘密なんてない」そう困惑しながら言葉を返す理樹に対して、恭介は笑いながら身を翻し、闇の中へと消えていく。結論から言うと、恭介の言った言葉は本当であった。彼の言う世界秘密とは、恭介を含めた理樹の友人の一切は全て故人だったというものである。その事実に直面することで、主人公精神的に廃人となってしまうことを避けるために、超自然的な力を用いて恭介は理樹に対して幻影を見せ続けていたのだ。


ワンパンマン

「私はブラストヒーロー活動をしている者だ」

 原作ワンパンマン第106話、類稀なるエスパーとしての才能を見出され、施設に半ば幽閉されることとなったタツマキは心の調子を崩し、超能力の発揮を躊躇するようになる。その結果研究員たちによって部屋に監禁されるタツマキであったが、やがて研究施設飼育されていた実験動物暴走事故が発生し、あわやタツマキもその犠牲になろうとしていた。

 そんな時やって来たのが、後にヒーロー界を席巻することになる「ブラストであるブラストは危なげなく暴走中の実験動物抹殺すると、タツマキに対して自身趣味ヒーロー活動をしていると告げる。普段は働いているのだけれど、これはあくま趣味なのだと。

 とは言えブラストの強さは圧倒的である。彼はタツマキに「何故能力を使わなかった?」と問いかける。当時十歳の幼児だったタツマキは、一時的に心身の不調で能力が使えなくなったと釈明するも、ブラストはその言葉が嘘であり、自身根本的に人間扱いしてくれない施設研究員に対する、自己主張の一環であることを看破していた。「今後の君のために一つだけ教えておくよ」

「いざという時に誰かが助けに来てくれると思ってはいけない」

 ブラストヒーローであり、誰かを助ける側の人間ではあるものの、自らが異常者であることを自覚していた。つまり普通ならば、人は人を助けなどしないのであるタツマキは幼いながらにその事実を突きつけられ、やがて自身職業的ヒーローの道へと進むことを決意するようになる。誰も人を助けようとしないのであれば、自らが助ける側に回るしかないという事を彼女は悟ったのである


などなど

 他にもるろうに剣心追憶編の、剣心が巴を手に掛けるシーンで、巴の墓前の幻影を見る剣心のシーンとかも好き。

 そのシーンに至るまでに、巴のこれまでの記憶が暗闇の中でリフレインするシーンとかもかなり好きである

 これらのシーンに限らず、「暗闇の中での邂逅」は多くの場合その作品におけるハイライトと直結している場合が多い。凝縮された幻影とも言うべき、強烈なシーンとして、これらの暗闇は描かれるのである。恐らく、これらのシーンを描く作家の、作家性の極地が、これらのシーンには反映されていると言っても過言ではないとも思われる。

2020-11-09

社会人が楽しすぎてワロタ

毎月決まった日に決まった額のお金がもらえるし、体調悪かったり天気が悪かったり災害警報が出てたら簡単に休める。何なら上司が先に当日欠勤の申請してる。信じられないことにお金もらいながら休むこともできる。

9時間拘束は面倒だったが、実働はその半分にも満たなかったし、どちらかというと残りの時間つぶしに苦慮してた。それは俺だけではないらしくて、たまに中庭意味もなくうろついてる同僚を見かけていた。今は半分テレワークでそこらへんもあいまいになったので解決。定例で行われる飲み会あんまりきじゃないけど、状況により業務時間にあてられるし、会社から補助が出るので大きな不満はない。ただ自分から振れる話題ほとんどないのでつまらない人間だなと思う。他人の意外な趣味や家庭の話が飛び込んできたりして、聞かせてもらう分には面白い

忙しい時は残業宿題もあるけど、その分お金はもらえるし、もともとプライベートが充実してるわけじゃないので、あんまり困らない。大体の休日ちゃんと休めるし。

そんな態度でやってる仕事から年収は平均に結構劣るけど、物価も安いところに住んでいるので暮らしていく分に不便は少ない。自分としては平穏のもの人生で、不安は親の老後と自分孤独死ぐらいしかない。

それに比べると、学校に通っていた頃は本当につらかった。学年が違うというだけで廊下すら聖域扱いされる上級生とは、距離感を見誤ってよく怒られていた。名指しで呼び出されたこともあった。たかだか数年早く生まれただけでなぜあんなに偉そうなのか、進級して同じ立場になってもわからなかった。俺は人間関係が下手だった。

学校が終わったあと、やりたくもない部活動強制で放り込まれ、全く興味がないことに心身を疲弊させられるのは死ぬほど嫌だった。実家お金がなかったので、課外授業とか教材費とか合宿とか部費とか、出費がある度にお願いするのも心苦しかった。

バイトをすればよかったのかもしれないが、学業のために休日放課後に何かできるほど人生真剣ではなかった。そういう意味では、親に甘えていた。そのうち幽霊部員になった。部活に行かなくなった最初はほかの部員にドヤされたが、そもそもまじめにやっていなかった人間なのですぐに無視されるようになった。後ろめたさはすぐになくなり、心も軽くなった。修学旅行も、旅費を出してほしくなかったので行かなかった。多くの人間と寝食をともにすることに強いストレスを感じる性分だったので、もともと行きたくなかったのもあった。部活修学旅行も、強制されるものだと思っていたので、拒否することが可能なのに驚いた。やらない/行かないという選択肢そもそも目の前に存在していなかったが、選ぶことができるのを知った。

学校では出席日数がすべてであり、どんな体調、どんな天気だろうが通い続けることが美徳なのは悪夢ですらあった。高熱だろうが出校をうながされ、大雨だろうが台風だろうが大雪だろうが、まずは連絡網を待ち続けるのは不快しかなかった。休みにはならないと言うので学校に向かったら、朝のホームルーム帰宅指示が出された豪雨の日のことは、今でも呪っている。

教師ともソリが合わずいつもにらまれていたが、それは俺の思い過ごしかもしれない。ただ、こんな態度なのだから、好かれてはいなかっただろうと思う。授業はまじめに受けているつもりだったけど、勉強にはついていくことができていなかった。遅れた部分を取り戻すこともできないまま、内容はどんどん先に進んでいき、完全に一周遅れとなった俺はいしか学校に行っても何も学べなくなっていたので、授業中は椅子に座ってぼーっとしているだけだった。苦痛だった。問題を当てられて黒板の前に立たされても、どうせわからないのだから棒立ちしていることを繰り返していたら、指されなくなった。

それでも勝手単位が出てきて進級したし、進級したら高認をとれたので、そのまま学校をやめ、就職活動をしてみた。それしか道がなかった。奇跡的に就職できた後は一人暮らしも始めた。それまでの世界に比べると、そのあとはまるで天国だった。俺に対して決して捨て鉢にならなかった親にはとても感謝している。昨今は社会情勢的に実家に帰ることがなかなか出来ないので残念だ。連絡はときどきしているし、できる限り孝行をしたいと思っているが、敬愛の示し方がわからないため、なかなかままならない。

さておき、学校本来学ぶはずだったことが、仕事において必要なことはたくさんあった。日本語がうまくなくて困ったことがあった。確率割合計算ができなかったり、放物線がグラフで描けなくて困ったことがあった。世界の略歴を知らなくて困ったことがあった。グローバルな会社ではないが最低限の英語必要になることはあり、当然そこでも困った。野球サッカーゴルフ将棋麻雀ルール全然知らなくて困ることすらあった。義務教育の内容や、集団生活での経験社会必要ないなんて思ったことはなかったけど、俺が社会必要なことを学校で学ぶのに失敗していたのは事実だった。学校に通い、必要なことを必要な時にちゃんと学べている人は本当に立派な人間だと思う。

だがそれらが俺の責任である以上、学生のころは全くわからなかった学問を、小中学生レベルからやり直した。社会人になってから勉強することでお金がもらえるし、もらえるお金も増えるようになるので嬉しい。スポーツや遊びは俺を幼稚園児だと思って教えてほしいと伝えて学ばせてもらっている。強制されない、ノルマ存在しない運動楽しいということは社会人になってから知った。さかあがりはいまだにできないけどね。

今でも学生のころは夢に見る。そのほとんどは良くない思い出のごった煮で、目が覚めた時の気分はいつも最悪なのだが、それと同時に、現実ではもう社会人であれてよかったと安堵する。社会人になってから人生が楽しくてしょうがない。

2020-10-09

幼少期のこういう出来事をたまに思い出す

保育園クラスドーナツ作りをする時、生地から作った事がなかったし完成したドーナツの形を思い浮かべ過ぎて、最後までドーナツ生地で輪を作れなかった(生地の端と端をくっつけても「なんかこんな形じゃない、間違ってるんだ」って思い込んで永遠に1人でやり直してたら最後まで生地作るテーブル自分けが残ってて、見かねた先生自分生地を取って輪を作ってくれた。なんだこれで良かったのか…という気持ちになった)。

幼稚園自分の鉢に土を入れてチューリップか何かを植える時、土が入ってるビニールの真ん中に先生が切り込みを入れる→切り込みを自分の手で広げて鉢に移し替えるの流れだった。けれど、ビニールの切り込みを手で広げる作業について聞き逃してたからか、1人だけ一生懸命小さい切り込みから移し替えようとしてた。これも一番最後まで残ってしまい、自分が土の過程で止まってるところを先生が見かねて手伝ってくれた。

小一の頃はクラス全体で朝顔を種から育ててたのに、自分朝顔だけ多分芽すら生えてこなかった(記憶あやふや)。理由は今も不明。これも見かねた担任先生が授業中に朝顔育ててる場所自分を連れてきて、「みんな蕾が出てるのにあなたのだけ芽がないよ、おかしいと思わなかったの?」って言ってきた。自分でも言われる前からおかしいと思ってたけどなぜか言い出せず、いざ「どうするの?」と言われると「もう一度種から育てますしか言えなかった。これも間違ってたみたいで「遅すぎる」と言われて中庭に植えられていた朝顔たちの中から1つ選んで、自分の鉢に先生と植え替えた。

この他にも、小五の頃は学芸会で使うはずだった学年共通の小物のリボン自分の分だけ本番当日に無くなって先生に急遽作ってもらったりもした(後日教室ロッカーと壁の隙間みたいな所からリボンが出てきたから当時自分嫌がらせしてきてた奴がここに捨てたんだろうなと何となく思った。未だに真偽不明)。

今の自分効率の悪さや作業の出来なさを感じた時、たまに「そう言えば昔からこういう事あったな」と思い出す。何なんだろうこの感じは。他にも「昔から同級生に下に見られてたよな」とか、具体例を挙げながら話すとキリが無いけど今の自分の出来なさと昔の出来事が思ってる以上に繋がってるような気がしてどうしようもなく惨めに思える時がある。本当に何かが足りてないのかもしれない。

2020-09-20

今年の夏は、田舎でもないのにアマガエルが鳴いていた。

私の住んでいるマンションには緑地があって、中庭水路が貫いている。暑い季節にはそこに水を流して涼をとる。子どもの頃はそこでびしょ濡れになりながら遊んだものだけれど、人工の池だから生き物なんているはずがなく、寂しい。水路の末端の池の水が秋になっても抜かれていなかったときには大量のミジンコが発生していたけれども、彼らは水と一緒に干上がるか、下水に流される運命だった。

けれども、今年の夏はなぜかアマガエルの鳴き声がずっとしていた。夜になるとかわいらしい声がして、夕立のあとの夜風が気持ちのいい晩などには、どこか避暑に来たみたいな気分だった。コロナ禍で自粛余儀なくされた身としては幾分気が紛れたし、仕事中にカエルの声がするというのもよかった。

それにしても、カエルたちはどこから来たのだろう。このマンションに住んでいる子供水路に放してやったのか。こうして生き物の声がするのは風情があるのだけれども、秋になって水路に水を流さなくなって、カエルたちはどうしたのか。現に、今聞こえるのは緑地に潜んでいるコオロギやマツムシばかりで、アマガエルはいつの間にか姿を消している。

私も、子どもの頃に祖父母の家の近所でやっていた夏祭りで取った金魚を、飼えないからと祖父母の家の近所の噴水に放してしまたことがある。今になって考えればずいぶんと勝手な話であるし、餌も少ない分長生きできなかったことだろう。悪いことをした。

カエルを放したのも、私が考えの足りなかったときと同じ年ごろの子どもだろうか。そもそも、その子カエルをどこで捕まえてきたんだろう。うちのマンション敷地には虫がそれなりにいるのだから飢えることはないだろうが、オタマジャクシたちが育つ場所が今はない。

カエルたちが、雨水の通る溝をぴょんぴょんと跳ねて行って、近所の広い川にまで、できることなら生まれたところにまで、たどり着けていることを祈るばかりだ。

2020-09-18

学生時代、住んでたアパート廊下(中庭のようなものがあって建物の内側に廊下がある構造だった)でゴキブリを見かけ、絶対に俺の部屋に来ないで欲しい!と思い追い払おうとしたことがある

サンダル履きだったから踏み潰すのは嫌だった そもそもサンダルじゃなくても踏み潰すこと自体嫌だが、サンダルだと万が一仕留め損ねたときに足を這い回られる可能性があるなと思い、それはできなかった

かと言って他に武器もない

とりあえず足を踏み鳴らし、音と振動ビビらせて追い払う作戦に出た

しかし安いゴム底のサンダルから片足でぱんぱんやっても全然迫力が出ない

俺は反復横跳びのような動きをし始めた

と、そこでアパート共用のランドリーコーナーに来た知らない女の子階段から現れた

俺は傍目には廊下で反復横跳びをしてるヤバい

違うんだ!と思い、会釈をして「ゴキブリが…」と言った

ヤバ…という顔をしていた女の子は合点がいった顔になり、「がんばって下さいっ」と言って消えていった

手伝えよ!お前もここの住人だろ!と多少思いつつ、部屋から食器用洗剤を出してきて垂らそうとした記憶ぼんやりある

結局外に逃げられたな あるいは平和裏に解決できたというべきか

青春の淡い思い出だ

淡くはねえな

2020-09-13

統失のワイが部屋で喋ってる独り言

土曜日学校終わって、家に帰ってご飯食べて、自転車に乗って塚本君ちまで行く。青い空が高く風が涼しくて、田んぼ黄金色稲穂が垂れて揺れているから、文化祭の打ち合わせの用事


農耕具の横に自転車を止めて中庭に入って行くと、ガラスの引戸を開けた居間ファミコンをやっている塚本君が、ワイを見て片手を上げた。ワイはそのまま庭から居間の縁に半身で座って、テレビ画面を覗いた。ドラクエ4だった。


「いま新しい大陸に来たところ」。眺めてる。「スライムがさ、8匹くらい出てきて、合体したりするん」。ジャンプに出てた。そんな話をしていると、エンカウントして4匹の「メタルスライムがあらわれた」。「たたかう」と「メタルスライムはなかまをよんだ!」。「「おおっ」」。「メタルスライムは合体して キングメタルスライムになった!」


画面にはメタル色の巨大なスライムが居た。言わずもがな、二人の気持ちは「これを倒したら」「10くらいレベルが上がるん」。「どうぐ」を確認してせいすいかどくばり持ってないかコマンドは手動でこうげき選んで、塚本君が「よしっ」と意を決した後ボタンを押すと、


ピッ。ざざざッ「キングメタルスライムはにげだした」「「ああ〜っ!」」


「私、男の人にこんなに見せるの、初めて。女の子にも見せないし、自分で見るのも、なんか怖い」「僕も、勃起してるのを他の人に見られてるの、恥ずかしい、です。オナニーするときは一人でだし、銭湯では小さいし。。見て興奮してるのがバレバレなのが恥ずかしい」「。。ずっと興奮してるんですか?」「はい」。キスをしようと顔を近づけると、彼女も同じように自然に動いて、唇を合わせた。指先で彼女股間に触れるとぬるんと滑った。「濡れてる」とそのまま声に出すと、彼女は恥ずかしく俯いて、「増田さんもですよね!」と言う勢いで、ワイのちんこを握った。「温かくて、硬い」。

2020-07-21

京都の幻の蕎麦屋

はてな京都話題が出ているのでまた蕎麦屋のことを思い出した。

15年くらい前に修学旅行で行った蕎麦屋がある。

詳細を忘れてしまった為に残っている記憶を頼りに時折ネットで探すのだけれど、土地勘もないので探してもわからない。閉店してしまってるのかもしれない。

雑誌るるぶのページ下のちっこい欄で、お好み焼き屋ジャンボの隣に並んでたからそのあたりの店なのだろうか?

霊園か寺の横にある細めの道を入ったところに店はあった。がっつり和風のお店で屋根付きの和風門があって、飛び石?が玄関まで続いている。店内は狭くはないがとても広い、という印象もなかった。

「御用蕎麦本家尾張屋」に外観の雰囲気は近い。けれどこんなにテーブル席がたくさんあった記憶がない。店の前の道の雰囲気もなんだか違うような。

平安神宮北野天満宮を見たあとに行った。タクシー移動だったのと記憶うろ覚えなのでこれはあまり当てにできない。

班の三人で各々ニシンそば海老そばを注文した。ニシンそばが美味しくて感動した記憶がある。中学生修学旅行予算を考えると蕎麦1つはそこまで高い値段ではないはず。(ランチ価格だろうし、高くても1200〜2500の間だと思う。当時の話だが)

店内の奥の方を見ると中庭が見えた。京都古民家あんな感じなのだと思う。

修学旅行から何年か経って記憶が朧気になっても、ニシンそばに感動したことだけは鮮明に覚えていたので、京都駅に寄ったときにはせめてと思ってそのあたりの店でニシンそばを注文した。こんなもんか、と思った。

母が子供のものは何でもとっておくタイプのため、実家に当時自分で書き込んだ行程表修学旅行のしおり)も保管してあるのではと思い聞いてみた。

あるとは思う、けれどどこに仕舞ってあるかはわからないと言われた。家のあちこちに分けて仕舞っているというので、それらのデジタル化に踏み切るまでは手を付けなさそうだ…。

2020-06-12

anond:20200612145701

すぐ隣でセットみたいなもんだからね。

間に毛利庭園共通中庭スペースがある。

ヒルズにはGoogleとかがある。

よこ。

2020-06-04

まんじゅう恐怖症

和菓子屋は避けて通ってるけど、たまに見知らぬ街に行くとばったり遭遇してしま

陳列されているアレが視界に入ると、心臓バクバクしてしま

たまに、とかではなくいつも瞬時に恐怖が頂点に達する

油断しているときに来るので、常にそれを意識せざるを得ない

温泉街に行った時なんて最悪で、危険回避しながらなんとか旅館につき、

一休みしたあと温泉卵でもと思い中庭の蒸気で蒸らされた籠を開けると

いきなり対面することとなった、今でも思い出したくないトラウマ

2020-03-21

バレンタインチョコ

女なんだけれども、バレンタインチョコレートが机の中に入ってた。

から男に渡す日と思っていたから、何かの間違いかイタズラかと思って、後ろの黒板に置いておいた。

あとから、それを見つけた男子が、「やりー!チョコレートげっと!」「え?なになに?中庭で待ってますだってー!」と騒いでた。

あれって、やっぱり自分宛の物だったのかね。悪いことしちゃったかな、と最近思い始めてきた。

でも、彼氏いたのは校内で周知の事実だったし、もらっても困るんだが。

ひどい事やってしまったんだろうか?名前も書いてなかったし、それもそれだと思うよ。

2019-10-14

朝鮮のある少年物語

 その朝、ぼくは学校に行くのがひどく遅くなってしまい、それに高森先生がぼくらに連体詞について質問すると言ったのに、まだ一言も覚えていなかっただけに、叱られるのがすごく怖かった。いっそのこと授業をさぼって、野原を駆け回ってやろうかという考えが頭をかすめた。

 すごく暖かくて、よい天気だった!  森の外れではツグミが鳴き、原っぱでは、製材所の向こうで、アメリカ兵たちが教練をしているのが聞こえた。どれもこれも連体詞規則よりはずっと面白そうなことばかりだった。だが、ぼくは誘惑に打ち勝つことができて、大急ぎで学校に走って行った。役場の前を通りかかると、金網を張った小さな掲示板そば大勢の人が立ち止まっているのが見えた。二年このかた、敗戦だの、徴発だの、アメリカ政庁命令だの、悪いニュースは全部そこから出て来るのだった。で、ぼくは止まらずに考えた。

 「今度は何かな?」 すると、ぼくが走って広場を横切ろうとしたとき見習い小僧を連れて掲示を読んでいた鍛冶屋親方が、ぼくに向かって叫んだ。

 「そんなに急がなくてもいいぞ、ちび。学校なんて、いつ行っても遅れはしないからな!」

 ぼくはからかわれているんだと思った。で、はあはあ息を切らせながら高森先生の小さな学校中庭に入って行った。ふだんだと、授業の始まるときは大騒ぎで、勉強机を開けたり閉めたりする音や、よく覚えるため耳をふさいで、みんながいっしょにその日の授業を大声で練習するのや、それからまた先生が大きな定規で机をひっぱたいて、「ちょっとかに!」と怒鳴るのが、道まで聞こえてくるのだった。

 ぼくはその騒ぎを利用してこっそり席にもぐり込むつもりだった。ところがちょうどその日は、まるで日曜の朝みたいに、すべてがひっそりしていた。開いた窓から、仲間がもうきちんと席に並び、高森先生が恐ろしい鉄の定規を小脇にかかえて、行ったり来たりしているのが見えた。戸を開けて、それほどしんと静かな真ん中に入って行かなきゃならなかった。ぼくがどんなに赤くなり、びくついていたか、分かるでしょう!

 ところが、そうじゃない! 高森先生は怒りもせずにぼくを見て、とても優しく言った。

 「さあ、早く席について、ジソン君。君がいないけれども、始めようとしていたんだ」

 ぼくは腰掛けをまたいで、すぐに自分勉強机に坐った。その時になって、やっといくらか怖さがおさまって、先生が、視学官の来る日や賞品授与の日にしか着ない、立派な羽二重の紋付袴を着込み、細かいひだのついた帯飾りをし、刺繍した黒い絹の絹の帽子かぶっているのに気がついた。その上、教室全体が何かふだんと違って、厳かな感じだった。

 けれども一番驚いたのは、教室の奥の、ふだんは空いている腰掛けに、村の人たちがぼくらと同じように、黙って坐っていることだった。三角帽子かぶったスニル老人、元村長、元郵便配達人、それからまだ多くの人たちも。その人たちはみんな悲しそうだった。そしてスニルさんは縁がいたんだ古い初等読本を持って来ていて、それを膝の上にいっぱい開き、大きな眼鏡を両ページの上にまたがって置いていた。

 ぼくがそうしたことにびっくりしているうちに、高森先生は教壇に上がり、さっきぼくを迎えてくれたのと同じ重々しい声で、ぼくらに言った。

 「みなさん、私がみなさんに授業するのは、これが最後です。朝鮮学校では、これから朝鮮語だけを教えることという命令が、アメリカ政庁から来ました……。新しい先生明日ます今日はみなさんの最後日本語の授業です。熱心に聞いて下さい」

 その言葉を聞いて、ぼくは強いショックを受けた。ああ!ひどい奴らだ、さっき役場掲示してあったのはそれなんだ。ぼくの最後日本語の授業だって!…… ぼくときたら、やっと日本語を書ける程度なのに! このままの状態でいなくちゃならないわけだ!……

 今になってぼくは無駄に過ごした時間のこと、鳥の巣を探して歩いたり、川で氷遊びをするため、欠席した授業のことを、どんなに悔やんだことだろう!

 ついさっきまではあれほど嫌で、持って歩くのも重く感じていた文法歴史などの教科書が、今では別れるのがひどく辛い友達のように思われた。高森先生も同じだ。先生はいなくなり、もう二度と会いないのだと思うと、罰せられたり、定規でたたかたことも、みんな忘れてしまった。お気の毒な人!

 先生はこの最後の授業のために立派な晴れ着を着て着たのだった。そして今になってぼくは、村の老人たちが何で教室の隅に着て坐っているのかが分かった。それはもっとしょっちゅうこの学校に来なかったことを、悔やんでいるらしかった。そしてまた高森先生が四十年間も尽くしてくれたことに感謝し、失われる祖国に敬意を表するためでもあったのだ……

 そうした思いにふけっている時、ぼくの名前が呼ばれるのが、聞こえた。ぼくが暗唱する番であった。あのややこしい連体詞規則を、大声で、はっきり、一つも間違えずに全部言えるためなら、どんなことだってしただろう。だが、ぼくは最初からまごついてしまって、悲しみで胸がいっぱいになり、顔も上げられずに、自分腰掛けのところで立ったまま体を揺すっていた。高森先生の言う声が聞こえた。

 「怒りゃしないよ、ジソン君、もう十分罰は受けていはずだからね…… ほらそうして。誰でも毎日思うんだ。なあに! 時間たっぷりある。明日覚えりゃいいって。ところがその結果はどうだね…… ああ! そんなふうに教育などは明日に延ばしてきたのが、わが朝鮮の大きな不幸だった。今あの連中にこう言われたって仕方がない。なんだ! おまえたちは日本人だと言い張っていたくせに、自分言葉を話せも書けもしないじゃないか…… でもそうしたことはみんな、かわいそうなジソン、君が一番悪いわけじゃない。われわれはみんなたっぷり非難されるべき点があるんだよ。

 君たちの両親は、君たちにぜひとも教育を受けさせようとは思わなかった。それよりほんのわずかな金を余分に稼がせるため、畑や紡績工場に働きに出す方を好んだ。私だって自分とがめる点はないだろうか。勉強するかわりに、よく君らに私の庭に水をやらせなかったか? それから釣りに行きたくなった時、平気で休みにしなかったろうか?……」

 それから高森先生は、次から次へ日本語について話を始めて、日本語世界一番美しく、一番明晰で、一番がっしりした言語であると言った。そして日本語自分たちの間で守って、決して忘れることのないようにしなけらばならない。なぜなら一つの国民奴隷となっても、その国民自分言語を持っている限りは牢獄の鍵を持っているのと同じだと…… それから先生文法の本を取り上げて、今日課業を読んでくれた。ぼくはそれがあまりによく分かるのでびっくりした。先生の言うことが、みんなやさしく感じられた。これほどぼくがよく聞き、先生の方でもこれほど辛抱強く説明したことはないと思う。気の毒な先生は、自分がいなくなる前に自分の知っている限りのことを全部教え、それをぼくらの頭に一気にたたき込んでしまおうとしているみたいだった。

 課業が終わると、次は習字だった。この日のために、高森先生は真新しい手本を用意してきていた。それには美しい丸い書体で、「日本朝鮮日本朝鮮」と書いてあった。まるで小さな国旗勉強机の横棒にひっかかって、」教室中にひるがえっているみたいだった。みんな熱心で、それに静かだったことだろう! ただ紙の上を走るペンの音しか聞こえなかった。一度などは、黄金虫が何匹か入って来た。だが、誰も気を取られたりせず、うんと小さな子供たちさえそうだった。彼らはまるでそれも日本語であるかのように、心を込めて、一所懸命、縦線を引っぱっていた…… 学校屋根の上では鳩が小声でクークーと鳴いていた。それを聞いてぼくは考えた。

 「いまにあの鳩たちまで、朝鮮語で鳴けと言われやしないかな?」

 時々、ページの上から目を離すと、高森先生はまるで目の中に自分の小さな学校建物そっくり収めて持って行きたいと思っているように、教壇の上でじっと動かずにまわりの物を見つめていた…… 考えてもごらんなさい! 四十年来、先生はその同じ場所に、中庭を正面に見て、まったく変わらない教室にいたのだった。ただ腰掛け勉強机が、長年使われて、こすれて磨かれただけだった。中庭くるみの木は大きくなり、彼が自分で植えたホップは今では窓を飾って屋根まで伸びていた。気の毒な先生にとって、そうしたものにみんな別れ、そして頭の上での部屋で妹が、荷造りのために行ったり来たりしている音を聞くのは、どんなに悲痛なことだったろう! なぜなら明日は二人は出発し、永久にこの土地を去らねばならなかったのだ。でも先生勇気をふるって、ぼくらのため最後まで授業を続けた。習字のあとは歴史勉強だった。それからさな生徒たちが声をそろえて「五十音」の歌を歌った。あちらの教室の奥では、スニル老人が眼鏡をかけて、初等読本を両手で持って、子供たちといっしょに字の綴りを読んでいた。老人も一所懸命なのがよく分かった。感激して声が震えていた。それを聞いていると実に奇妙で、ぼくらはみんな笑いたく、そしてまた泣きたくなった。ああ! ぼくらはその最後の授業のことをいつまでも忘れないだろう。

 突然、学校の大時計が正午を打った。それに続いて鐘の音が。それと同時に、教練から帰って来るアメリカ兵のラッパの音が、窓の下で鳴り響いた…… 高森先生は真っ青になって、教壇に立ち上がった。先生がそれほど大きく見えたことはなかった。

 「みなさん」と、彼は言った。「みなさん。私は…… 私は……」

 でも、何か胸につまった。終わりまで言えなかった。そこで先生は黒板の方に向き直り、一片の白墨を手に取って、全身の力を込めて、精いっぱい大きな字で書いた。

 「天皇陛下万歳

 それから頭を壁に押しつけたまま、そこに立っていて、口はきかずに、手でぼくらに合図した。

 「おしまいです…… 行きなさい」

2019-09-15

軽井沢、田崎美術館で、愛らしいお嬢様出会うことについて

 私はときおり家族軽井沢に行く。何度も行っているので、めぼしい観光地はほぼ巡ってしまたかもしれないが、まだ行っていないところもそれなりにあり、それを目当てに足を運んでいる。それ以外はおいしいものを食べたり、宿で温泉に浸かったり、一人でふらふら近場を歩き回ったりと、各々が好きなように過ごしている。

 別に家族の仲が悪いわけではない。ただ、趣味が違う相手に無理して付きあうこともないし、その方が互いにいい時間が過ごせると思っているのだ。興味がないものにつき合わせてしまうと、こっちとしても心苦しい。それだったら、昼間は好き勝手に過ごして、夕飯時に一日の感想を共有する方が楽しい

 そうしたわけで、私は一人でふらふらとバスを乗り継いで美術館巡りをしていた。朝のうちだったのでバスの遅延もなく、目的地のハルニレテラス近辺についた。グーグルで調べたところ、目指す田崎美術館はそこから歩いてそれほどかからない。だから私は、ふらふらと美術館まで足を運んだ。

 軽井沢は大小さまざまな規模の美術館がある。それぞれは離れていてアクセスがやや不便だとはいえ、私のように緑の中でぼんやりと絵を観るのが好きな人にとっては、都心喧騒を忘れさせてくれる場所だ。小規模なところはすぐに観おわってしまうし、ほとんど同じ作品ばかり展示されているのだけれど、それでも久しぶりに同じ絵と対面するのは、旧友と再会するみたいな気持ちになる。

 ただし、田崎美術館を訪れるのは今回が初めてだった。というのも、開いている期間が短いからだ。軽井沢美術館は概して冬季は閉館していることが多い。ゴールデンウィークになってさえ、まだ閉まっているところが多いくらなのだ。ここはやはり避暑地なのだな、と思われる。冬になると鬼押し出し園と絵本美術館くらいしか空いていない。

 入るとそこは自然光が差し込むコンクリート空間だった。作品保護のため直射日光は直接当たらないが、中で歩き回るには十分に明るい。私は田崎廣助の描いた山岳の威容を眺めつつ、自分は山に関してはまったくの無知だな、とつくづく思い知らされた。もしも私が山に詳しかったら、峰の形や周囲の地形からどこが描かれているのか、題を読むことなく知ることができただろうに。そして、どれほどその土地雰囲気を伝えているかを感じ取れたはずだ。

 環境省かどこかの国立公園写真の小コーナーを見終わり、中庭を挟んだ向かい建物ぼんやりと眺めた。もしかしたら、向こうの建物にも展示の続きがあるかもしれない。そう思ったが、向こうの建物入り口らしきものが見当たらない。現に、中庭で困ったようにうろうろしている女性がいるではないか

すみません

 と私はその女性に声をかけた。彼女は首を傾げた。

「私も入り口がわからないので、ちょっと係の人に尋ねてみます

 彼女は驚いたようだが、すぐに会釈した。

ありがとうございます

 私はすぐにとって受付のベルを鳴らし、事情説明した。係の人は親切に、道なりに行けばいいと教えてくれた。歩いていくと、確かにドアらしいものがあった。入り口がわかりにくかったのは、そこにカーテンがかかっているからだった。つまり風呂場のカーテンのように磁石で留めるしくみになっていて、そこが扉だと遠目にはわからなかったのだ。珍しいタイプ入り口があるものだ。

私は女性を案内し終えると、ゆっくりと展示を眺めた。作品ばかりではなく、色紙や葉書もあった。中には欧州から出した手紙もあり、興味深かった。文体が私の祖父によく似ているのだ。田崎廣助は私の祖父よりも三十ほどは年上になるはずだが、戦前教育を受けた人に特有なのだろうか、きびきびとして気持ちの良い文章だった。

 そうして夢中になっていると、後ろから呼び止められた。振り返ると先ほどの女性である

「先ほどはご親切にありがとうございました」

 そう告げて一礼し、微笑んだ。

 私は驚いた。というか、恐縮した。ただ係の人に道を聞いて案内しただけのことだ。それなのに、ここまで丁寧に頭を下げられるとは。いえいえ、と慌てている私に、彼女は重ねて感謝言葉を伝える。女性にこんな笑顔を向けられたことなんて、ない。

 もしかしてこれはチャンスなのではないか、と頭の片隅で声がする。一緒にお茶ぐらい飲めるのではないか。片隅にティールームらしいところがあるが。もう一つの冷静な声がする。彼女は単に育ちが非常に良いお嬢様なだけだ。私のような人間に、そんなチャンスがあるはずがないだろう。さら皮肉な声がする。君は最近美術館で現れる迷惑男性の話をネットで読まなかったか女の子浅薄知識を自慢をしたり、つきまとったり、そんな人間だと思われてもいいのか。美術館ナンパスポットではない。そして、私の引っ込み思案な性質が頭をもたげた。知らない人と話すのはつらい。ひとりになりたい。

 そういうわけで、私は彼女と丁寧な会話の応酬をして、田崎美術館を立ち去り、セゾン現代美術館に向かった。徒歩だったが、想定していたよりも時間がかかった。歩きながらも、私は後悔していた。思い出してみれば、本当にきれい上品な人だった。私は、丁寧な日本語を使える女性に弱い。はっきり言って理想タイプだった。なのに、みすみす逃すとは。私はとんでもない馬鹿なのではないか。よく後輩の女の子が、旅行先でいつも親切な人にお茶をごちそうしてもらって嬉しい、って笑っていたではないか

 そんな思いも、セゾン現代美術館を一周し、テラスサーモンサラダを食べているうちに薄れてきた。自分はいつも、そういうちょっとした親切心を行為と取り違えてみっともない真似をしてきたではないか。気にすることはない。これはいい思い出になった。それに彼女はせいぜい女子大生、対して私は三十を超えてしまった。釣り合うはずがない。

 せいぜい、きれいな思い出としていつまでも覚えていて、どこかでまた会えたらいいな、と妄想するくらいにしておけば十分なのだテラスナボコフを読みながら、そんなことを考えていた。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん