はてなキーワード: 中国語圏とは
Matplotlibがデファクトになってしまっていて困る。遅い。
そしてQ&Aサイトを見ても、「Matplotlibは印刷品質を目的にしているので速度を考慮していません。」とか、「そんな数をプロットしても見えないので意味ない」と回答が付くが、
それでもこちらは描きたい。
4000万画素などの中からおかしい値をとる画素がいくつあるかを調べようとするので4000万行のcsvが条件違いで数十、数百ファイルできるがプロットできない。(最近1億画素が出たらしい)
あとプロット後、変なところにプロットされた値と座標を知りたい。
Numpy、Pandasで計算するところまでは問題ない。Python遅いならJuliaがあると勧められたがグラフを描く段階でmatplotlibベースのPyPlotに戻ってやっぱり遅い。
遅いのにデフォルトの見た目が悪かったり、縦軸横軸を他と揃える手間だったり、カスタマイズするのに検索で探し回ることになる。
デフォルトの色も気になる。
いくつか使った感じだが、
Qlik Senseの散布図はわかりやすい。地図のようにズームイン、ズームアウトができる。拡大していくと数値もわかる。
ParaViewみたいな大きくても動くのがあればいいが。。。
日本にいると、アメリカのベイエリアに住んでいるのが1番マウンティング力が高く、次はアメリカの主要都市。
ネットの主要メディアに毎週載るくらい変化が激しく、変化できるだけのお金が集まっている所ほど、SNSに載せるだけの非日常があるのでマウンティングし易い。
日本国内だと、武蔵小杉だとか港区など、マウンティング力はあっても、SNS上でマウンティング力を発揮すると電凸の恐れとか、
高級住宅地だが変化が乏しいところだとマウンティング力が減る。
地方に住んでいると郷土史や地図を見て、欧州で起こってた時代に家の周りではこんなことが起こってたのか、
などを調べるしかないので、たいそう羨ましい。
トラバでもらった質問(anond:20190511155122)にお返事。
1.「注」、「参考文献」に該当する学術英語はそれぞれなにか。参考文献はreferenceやref.1とおもうが注はnoteでよいか。
「参考文献」についてはreference(参考文献)とかbibliography(文献目録)ですかねえ。referenceは文字通り言及した文献の一覧という意味があり、bibliographyだと包括的な文献目録という意味にもなるのですが(「ディスコグラフィ」とかと同じ用法ですね)、まあたとえば学術書で最後にずらっと言及した文献並べているような場合はどっちでもいいのではないかなぁと思います。英語の本読んでてもどっちも見かけるし。むしろref.1って初めて見ました。
「注」はnotesですね。
2.note、注とも形式が一意に定まっていないのではないか。メモを書き入れているという意味にすぎないと思う。「脚注」とあればたいてい被引用部分のページ下部にあるとおもうが、注と参考文献をそれぞれまとめて巻末に置く場合も想定しているか。また訳注と原著者注があるばあいはどこにどのようにおかれる(べき、または探し当てるべき)か。
本によるとしか……。英語の本でもfootnote(脚注)もあれば文末注もありますし、なんなら章末注もありますね(英語ではおしなべてnotesと書かれてますが)。注と参考文献をまとめて巻末に置いてある本もあります。そういう場合はまず注を置いてから参考文献書いてあるのが普通じゃない?
訳注と原注の区別はふつう凡例に書いてあるからそれを読めばいいと思います。書いてないのはダメな訳書ですね。これは本によって違うので統一的な書式とかは特にないんじゃないかな。
3.著作権法32条の引用では使用部分を改変しない(とはいえ(中略)くらいは許されるべきと考えられるが)、かつ出典を示すことがもとめられている。またその場合は出典が参考部分から切り離され結合が全くわからないような場合は正当な引用に該当しないとされている。これによりref(引用に添える出典)とnote(改変あり)の法的使い分けが成り立つだけでは。つまり、そもそも(少なくとも学術分野の)文書で他人の著作を引用するのであればいかなる形でも改変せず出典を示すべきであり、出典の形式を日本独特の形式である「注か参考文献か」で区別すべきものでもないのでは。さらに改変を許すのが注であれば注は学術文書には許されないのではないか。
日本独特の形式ってw 英語圏の人文系の学術書ぜんぜん読んだことないんですか? あっ、そっか、当該分野には詳しくないってご自分で書いてましたね。なら仕方ないか。
というか、この段落は全体的に意味がわかりません。改変の話はどこから出てきたんですか?
このように引用でない自己メモでも注にできることを考えると、出典を注に入れるのってかなりインフォーマルな形式であり、逆に注があれば良いんだろみたいなバカも呼んでしまうので、うまくないのでは。そもそも出典と注とで全く意味が異なるのだと思う。
いやー、そうかー、日本語圏のみならず英語圏でもドイツ語圏でもフランス語圏でも、なんなら中国語圏やロシア語圏でも通用する形式がインフォーマルかぁ。面白すぎますね。発想がいかにもガラパゴス。他の分野に対する知識が皆無でドヤ顔で物申して恥をかくという意味で。
で、notesは別に出典以外のことも書けるだろ、というのはその通りですね。だから私、出典を示す注と説明的な注は分けるべきだと思ってるんですけど、まあ難しいですよねー。author-date方式もMLA styleも向き不向きがあるからなあ。なんだかんだでfootnoteは見やすいよな、というところに帰ってくる感じ。
なるほどです。再変換というか、メッセンジャーとか会話のノリ書いてからローマ字入力から英数のままで、書いてたことに、送信後に気がつくことってことですね。
日本語(や韓国・中国語圏とかの)ユーザーでないと分からない悩み事でしょうか。
全ての漢字がパソコンで表示できるようになったとか、utf-8とShift JISとかのテキストエンコーディングの問題で書けるようになったとか、まだまだ、色々と日本語と英語の翻訳とかよりも、その方が、解決したら良いことかも知れないですね。。
(ちなみに、私、MacのATOKユーザーです。vimというテキストエディターを使うときは、なんか日本語変換も一つのモード変換みたいで、面倒なので、他のエディターに変わりました。)
Googleが汚染された方が影響度がでかいのはわかるけど、Youtubeも中々無視できない酷さだよな。
単純な汚染レベルで言ったらYoutubeの方がずっと酷いように思える。
例えば『ノーベル賞』なんかで検索してみればわかりやすいと思う。
「韓国人『本当に羨ましい!!』」
仰々しいフォントと色のこんな感じの見出しをサムネに載っけた動画が『検索1ページ目に』山ほど出てくる。
内容はこの主義主張が良い悪いとか以前に静止画に文字が流れるだけという、もはやこのコンテンツを動画サイトでやる意味が一切わからないといったものばかりだ。
政治、時事ネタ、芸能、この辺りは汚染ひどすぎて検索する度に「うげぇ」となる。
Youtuberや実況者も個人的にはあんまり好きではないが制作者の熱意や努力は感じるし、業者の半自動生成動画に汚染されるのとはわけが違う。
英語圏や中国語圏で似たようなワードを検索してみたりもしたが、ここまで酷くなってるのは日本だけのようだ。
こっちも同じくらい問題になればいいのになぁ。
はてブに時折ホッテントリされる英語勉強法エントリ。最近は海外居住者も増えたりフィリピン英語留学学校の煽りもありより多いように感じる。そこでお前はそろそろ英語勉強しないとな、と言ってブクマして、記事の下のアフェリエイトリンクを押したり、本屋に行ったら英語コーナーに立ち寄ったりして、一冊買ってみて、はじめに、だけ読んで、おしまい。また今回のお前の英語ブームも一週間もせずに終わってしまった。知ってるよ。俺がそうだったからな。
はっきり言っておく。お前は今の環境にいる限り、何度やっても失敗する。考えてほしい。今日のお前が今後の未来において一番若い。今日できなければ脳が老いてくる未来においてもやり遂げることはできない。
俺は精神論を言いたいのではない。俺が死んだときに葬式で周りの人にどんな人だったと言われたいか考えてを目標に行動しろ、なんて自己啓発書みたいなことは言わねえよ。できると思ってないからな。なんでお前が続かないのかを伝えたいのだ。それは、目標が明確でないからだ。英語ができるようになる、という目標は漠然としすぎている。TOEICのスコアなら数値だからわかりやすい思うが、体調で100点くらいのブレがあったり、何よりも「このスコアが取れたからといって俺はどうなるのか」というゴールがないから、目標が達成できてもできなくても何も残らない。なぜこうなるのか。今、お前に英語は必要ないからだ。ただお前はそれに気づいていない、もしくはそのその決断に不安があるだけだ。よく考えろ、今できないのならば今後もできない。英語もやもやがあれば今すぐ、英語ができるようになりたいという緩い目標みたいなのを捨てろ。一言でいう。英語を諦めろ!
といっても心配があるだろうから俺の話を聞いてほしい。俺は会社の辞令によって英語圏での生活を余儀なくされた時期があった。英文書かせたら動詞が抜けているようなレベルの俺であったが、行ってしまえば生きるしかないのだ。家を借りる、苦情を言う、仕事をする、英語を使わなければいけない状況になる。英語圏サバイバルの環境下においてコミュ障の俺でも専門分野の単語を並べて仕事はなんとかできるようになったのだ。必要に迫られれば誰だって低いレベルであってもできるようになるのだ。そして思う、今必要なのは英語力ではない。思考のフレームワークだったり、専門分野の知識が最も必要なのだ。今、お前は英語が必要に迫られていない、ならやらなくていい。中途半端に始めるくらいなら自分の専門分野の知識を深めるべきであって英語なんて必要に迫られたその日が来るまで忘れててよいのだ。お前は煽りに負けているだけだ。
一つ付け加えたい。わかっていると思うが日本語圏の人口より英語圏の人口のほうが多い(中国語圏の人口のほうが多いけどおいといて)。お前の今の仕事ができる人間は日本語ができないだけで世界にはごまんといる。お前に専門性のスキルがあろうがなかろうが同じだ。同じ勉強してきたやつは世界にもっといる。うちはブラック企業だ!と叫んでいる場合ではない。お前の工場のラインの仕事、レジ打ちの仕事、システム保守の仕事、半分の賃金でもやりたいという外国人は必ずいる。ただ今の日本は日本語しか使えないという鎖国によって俺たちの雇用が守られているにすぎないのだ。そこで俺たちはどうするべきか? 英語を勉強することではない。俺たちは専門性を高めて日本語圏ダムが決壊したときに備えて俺たちは個々の専門性を高めることを優先すべきなのだ。だから英語はやんなくていい。諦めろ。
予備校講師の安河内はCMでこう言った。英語なんて言葉なんだ、こんなもんやれば誰だってできるようになる。荻野は俺にこう叫ぶ。安心して君たちはぁ、今の仕事に打ち込めばいいんだよぉ。俺は決めたんだ。いつもの仕事をそのまま続けて、そこから少しずつ専門性を高めようと。だって資格を取得して専門性高めよ!って言ってもできないでしょ? 英語勉強法なんて読んでも俺の英語は上達しなかったんだから。
ブラック企業とは、一般的には、低賃金、長時間労働など社員に過酷な負担を強いる企業の総称をいいます。
WikiPediaによると、
とか、
解釈によっては、どんな企業もブラック企業に当てはめる事ができてしまうかもしれません。
また、「ブラック企業はブラック消費者が作り出した」という、いかにも企業側に責任が無いような意見もあります。
しかし、英語圏では、スウェットショップ(Sweatshop)と呼ばれている他、中国語圏では血汗向上とも呼ばれており、ブラック企業問題を抱えているのは日本だけではありません。
社会問題にもかかわらず、なかなか問題の本質が見えてこないのは、この「定義の曖昧さ」にあるのではないでしょうか?
最近では、企業側が「ブラック企業」の記事を書いた記者を訴えるなど、本当に混沌とした状況です。
バブル崩壊の時期には、「リストラ」の名の元に、数々の非人道的な人員整理が行われ、社会問題になりました。
山一證券倒産の際には、高額所得者への色々な形の「いじめ」が行われたそうです。(幹部を配置換えと称して新入社員の下に配するなど)
住専(住宅金融専門会社)の倒産の際には、営業成績の高かったある個人をスケープゴートとして、社員全員で「ゴキブリ」などと言わせて、いじめぬいていたそうです。
また、人員整理に留まらず、企業同士のいじめとして、「拓殖銀行倒産」のきっかけとなった、コール市場での「総スカン」なんていうのもありました。
金融機関の中小企業に対して行われた「貸しはがし」が社会問題になりました
最近の長く続いているデフレでは、裁判も頻繁に行われたサービス残業問題。
また、昔から定番の、短時間労働、高収入がうたい文句の求人(これは分かりやすいので、気を付ければ引っかからずにすみます)
「規制緩和」の名のもと、非正規雇用形態が広がり、社員や企業同士の「悪徳」が日常化していると考える事ができそうです。
日本は法治国家です。国民は「法」に守られていますので、企業側は安易に「不正」行為をはたらくことはできません。
そこで、「法」に触れないギリギリの線で、個人なり相手企業を攻めてくるわけです。
これが、いうなれば企業の悪徳行為は「いじめ」と言えるのではないでしょうか?
ただ、「いじめ」と聞くと、「いじめられる方にも責任がある」と感じてしまいます。
これは、「いじめ」から子供のイジメを想像してしまうからだと思います。
企業の行うイジメは全く異なります。背景には利害が絡んでおり、明確な目的があるのです。
戦略も伴います。場合によっては興信所や暴力団を使うなど、お金が動きます。
「暴力」と聞くと相手を、叩いたり蹴ったりなど、物理的に力を加える事を想像しがちですが、精神的に相手を追い詰める事だって立派な暴力です。
そもそも暴力というのは、自分だけの都合により、相手を排除したり、相手の力を奪う時に、「相手に加える力」だと思います。殴ったり蹴っ飛ばしたり、暴言を吐いたりなど様々あると思います。
その「力」のうち、直接相手に加える力が、一般的に「暴力」とされていると思いますが、間接的に相手に加える力も「暴力」のはずです。
例えばリストラを考えた場合、相手が働きにくい環境を作り出して、自ら辞職に追い込む事は「暴力」です。
仕事に無関係な作文を何枚も書かせたり、ブライドを傷つけて社内での立場を奪ったり、或いは精神的にうつ状態になるまで追い込む行為、これ等全ては「暴力」なんです。
※相手を精神疾患に追い詰める行為は厳密には「傷害」(刑事罰)になりますが、立件が困難な為この手を使う企業も少なくないハズです。
「暴力」というのは、自分だけの都合で相手を排除したり、力を奪うわけですから、企業が「暴力」を乱用すれば、収益を上げる事が出来るのは、当然の事でしょう。
「暴力」というくくりで考えてみますと、直接的暴力、例えば、コンビニ強盗では、お金を払わずに商品を手に入れる事が出来ます。短期的に見れば、一番効率の良い物資の調達方法です。
間接的な暴力は多少効率が落ちますが、やっている事は同じなのです。
その企業に「暴力」があるという事は、逆に言えば、「安全、安心」が無いという事です。
「安全、安心」がトレードオフになっているのです。その結果、以下の現象が生じるハズです。
「暴力」の元では人は常に緊張状態に置かれ、落ち着くことが出来ません。
こんな環境では人は育ちません。
暴力をふるう両親の元で、ちゃんとした子供が育たないのと同じです。
当たり前ですね。
ただし、「どの人の下に付けば自分は安全なのか?」を絶えず気にして行動しますので、人の上下関係はきっちりします。
ヤクザと同じです。
社内で、地味かもしれませんが「暴力」が行われている事を目の当たりにするわけです。
そんな中では、誰も、一生懸命仕事をしようとか、難しい事を習得しようとかという発想にはなりません。
社内で出来る人がいなければ、派遣を安く使って、やらせればよいわけです。
社内では色々なノウハウも蓄積されません。
そうなると、経営陣は社員たちを追い出して社名を変えてまた会社をやり直すわけです。
技術大国と言われるほど、ものづくりが上手だったり、皆勤勉(識字率がほぼ100%)だったり、「絆」を大切にしたりなどの前提には、「安全、安心」が有ったからだと思います。