はてなキーワード: 三角形とは
ある子が卒業を発表した
というか卒業は確定事項であり、そこまでの道程のやりとりがアイドルの要素のひとつだと思う
そろそろ卒業なのかな、というのは察せてしまうというか、最後に走り抜けようとしているんだってのを感じたりする
アイドルは卒業前にいちばん輝くんだよみたいなことをなんか聞いたような気がするけど、走り抜けようとしてる時って確かにそんな感じがする
その時に立ち会う時に思うのは「もうすぐ卒業なのかな…?」みたいな推測やら心配やら邪推めいた事はやめようという事
それは心がザワザワするし苦しいけれど、正直こちらに出来る事は見守る事しか無いと自分は思う
だからその瞬間瞬間をみつめて積み上げていきたい
1日時間が経てば1日が積み上がるだけで1:1の比例関係は崩れないわけで、日々の出来事が増加していくだけなのだから真正面から三角形を形作っていきたい
そんなことを考えてる折、仰角が1°だけ大きいんだったな と思い出した
推してるとか、応援してるとか、見守ってるとか表現は何を当てはまるかは何もピンとこないけど、きっと崩れる事なく進んでいく人生が出会えた事で少しずつ大きな三角形になっていくんだと思う
こういう奴がいるから強烈な嫌悪感を表現せざるを得ないんだよな
差別は、その基礎である人権や歴史や哲学とセットで理解しなければ分かったことにはならない
無教養でバカな日本人は教養がなく基礎がなく何も理解できてない。そしてバカどもが「俺の考えた俺だけに都合のいいサイキョーの差別」を適当にギャースカ言い出して国内の醜悪な差別は放置
汚染水を海に垂れ流してるのも放置でくらげがどうたらなんて寝言よく言えるよな
海を虐殺して壊しておいて、くらげなんてよく軽々しく海の生き物を喩えに出せるよな
哲学とか倫理とか人権とか差別とかは学問だからね。「三角形は3つの角と辺がある」という認識が、海外の文化の代表にはならないのと同じことなんだが?文化じゃねえんだが?
無教養すぎない?小卒アホが喋んな。
部屋の壁に三角形のフサフサ付いた布切れ飾ってたんでしょう~?😁
量子力学における観測者問題についてはよく知られるように、人間の主観性が量子実験の結果に重要な役割を果たしている。
ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによる有名な引用がある。
「私たちが観察するのは現実そのものではなく、私たちの質問の方法にさらされた現実です。」
例えば有名なダブルスリット実験では、スリットの後ろに検出器を置かなければ電子は波として現れるが、検出器を置くと粒子として表示される。
したがって実験プロトコルの選択は、観察する行動パターンに影響する。これにより、一人称視点が物理学の不可欠な部分になる。
さて、数学にも一人称視点の余地はあるか。一見すると、答えは「いいえ」のように見える。
ヒルベルトが言ったように、数学は「信頼性と真実の模範」のようである。
それはすべての科学の中で最も客観的であり、数学者は数学的真理の確実性と時代を超越した性質に誇りを持っている。
ピタゴラスが生きていなかったら、他の誰かが同じ定理を発見しただろう。
さらに定理は、発見時と同じように、今日の誰にとっても同じことを意味し、文化、育成、宗教、性別、肌の色に関係なく、今から2,500年後にすべての人に同じ意味があると言える。
さて、ピタゴラスの定理は、平面上のユークリッド幾何学の枠組みに保持される直角三角形に関する数学的声明である。しかし、ピタゴラスの定理は、非ユークリッド幾何学の枠組みでは真実ではない。
何が起こっているのか?
この質問に答えるには、数学的定理を証明することの意味をより詳しく調べる必要がある。
定理は真空中には存在しない。数学者が正式なシステムと呼ぶものに存在する。正式なシステムには、独自の正式な言語が付属している。
つまり、アルファベットと単語、文法は、意味があると考えられる文章を構築することを可能にする。
その言語には、「点」や「線」などの単語と、「点pは線Lに属する」などの文章が含まれる。
次に正式なシステムのすべての文のうち、有効または真実であると規定した文を区別する。これらは定理である。
それらは2つのステップで構築されれる。まず、最初の定理、証明なしで有効であると宣言する定理を選択する必要がある。これらは公理と呼ばれる。
公理からの演繹は、すべての数学がコンピュータで実行可能な印象を生む。しかし、その印象は間違っている。
公理が選択されると、正式なシステムで定理を構成するものに曖昧さがないのは事実である。
これは実際にコンピュータでプログラムできる客観的な部分である。
例えば平面のユークリッド幾何学と球の非ユークリッド幾何学は、5つの公理のうちの1つだけで異なる。他の4つは同じである。
しかしこの1つの公理(有名な「ユークリッドの5番目の仮定」)はすべてを変える。
ユークリッド幾何学の定理は、非ユークリッド幾何学の定理ではなく、その逆も同様。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の場合、答えは明確である。これは、単に説明したいものに対応している。
数学は広大であり、どのように公理を選択するかという問題は、数学の基礎に深く行くと、はるかに感動的になる。
すべての数学的オブジェクトは、いくつかの追加構造を備えたセットと呼ばれるものであるということだ。
たとえば自然数のセット1,2,3,4,...は加算と乗算の演算を備えている。
集合論は特定の正式なシステムによって記述される。Ernst ZermeloとAbraham Fraenkelと、選択の公理と呼ばれる公理の1つに敬意を表して、ZFCと呼ばれる。
今日の数学者は、すべての数学を支える集合論の正式なシステムとしてZFCを受け入れている。
彼らは、無限の公理と呼ばれるZFCの公理の1つを含めることを拒否する。
言い換えれば、有限主義者の正式なシステムは、無限の公理のないZFCである。
無限大の公理は、自然数の集合1,2,3,4,...が存在すると述べている。すべての自然数に対してより大きな数があるという声明(「ポテンシャル無限大」と呼ばれる)よりもはるかに強い声明である。
有限主義者は、自然数のリストは決して終わらないことに同意するが、いつでも自然数の集合の有限の部分集合のみを考慮することに限定する。
彼らは一度にまとめたすべての自然数の合計が実在することを受け入れることを拒否する。
この公理を取り除くと、有限主義者が証明できる定理はかなり少なくなる。
正式なシステムを判断し、どちらを選択するかを決定することができるいくつかの客観的な基準...なんてものはない。
「時間と空間を超越した何かを象徴しているので無限大が大好きだ」と言えば無限大の公理を受け入れることができる。
ゲーデルの第二不完全性定理は、十分に洗練された正式なシステム(ZFC等)は、自身の一貫性を証明することができないと述べている。
数学者は、今日のすべての数学の基礎であるZFCが確固たる基盤にあるかどうかを実際に知らない。
そしておそらく、決して知ることはない。
なぜなら、ゲーデルの第二の不完全性定理によって、より多くの公理を追加することによってZFCから得られた「より大きな」正式なシステムにおけるZFCの一貫性を証明することしかできなかったから。
一貫性を証明する唯一の方法は、さらに大きな正式なシステムを作成することだけだ。
数学を行うためにどの公理を選択すべきかについて、実際には客観的な基準がないことを示唆している。
要するに、数学者が主観的に選んでいるというわけである。自由意志に任せて。
公理のための主観的な基準というのは、より豊かで、より多様で、より実りある数学に導くものを選ぶという人は多い。
これは自然主義と呼ぶ哲学者ペネロペ・マディが提唱する立場に近い。
特定の公理のセットを選択する行為は、量子物理学の特定の実験を設定する行為に似ている。
それには固有の選択肢があり、観察者を絵に導く。
先日昼に小腹が空いたのでフランチャイズ展開している喫茶店に寄ってミックスサンドを注文した。
出てきたのは、サンドイッチを想像したら出てくるものと全くもってイメージが同一のものであった。
三角形の焼いたトーストにレタスとトマトとスクランブルエッグが混ぜ込んであるものである。
ここまではまあ良かったのだが、食べ始めると事態は変わった。
食べたそばから卵があふれてきて皿の上に落ちる、トマトの汁が溢れてきて皿の上に落ちる。
こぼれないようにかぶりつこうとしても、だんだんパンと具の位置がずれてくる。
途中からそういうのが気になってきて味に集中できなくなってきた。
そうだよな…まあ三角形とか円とか簡単な問題なら大体の人類は意味わかりそうな感じする
それも厳密に言うとそう言い切れるのかどうかはわかんないけど
そんで複雑な事象になってくとちょっとずつの勘違いが重なっていって
結果的にすごい大きな食い違いになるとかそういうことはありそう
人の意見の違いってそういう風に起こるのかな…
三角形のイデアや円のイデアを見た時も、あなたは数学の問題とかにプリントされてる三角形の図以上に「三角形らしさ」を感じると思うよ。
まあ条件付きで、線で表現された三角形のイデアは線がなくなっちゃうから不可視になるけど、単色の塗りつぶしで表現された三角形ならそう。
「三角形の近似」と判断できるのは、定義を理解してるからで、その判断がイデアに向き合ったときすら可能なのなら、それは定義を本当に理解してるということで、三角形を理解してると言っていいんじゃないかな。
数学における自然数みたいなものの定義、が形成する概念を、たとえば数式の3という表記が指示する概念が、我々が日常見てる、3個のりんごやひもとその3倍のひもが並べられてる光景や、時計の長針と短針が三目盛り分ずれてるみたいなのから得られる共通の世間一般に3とよばれる性質と同じだと思うのは、すでに「解釈」なんだよな。
数学において3、「0の次の次の次の数」と自然言語では説明されるような概念はただの操作対象である記号列でしかない。
その記号列にどんな意味を持たせるかは、「物理現象の中に見いだされる3という性質」以外にもあるかもしれないし、ないかもしれない。
「直線と呼ばれるものの定義」についても、幾何的なイメージで解釈するのも、イデアル?だかで解釈するのも勝手。日常生活の個数や順番などとして見出される3の性質も、それと同程度に解釈でしかない。
トポロジーなんかが典型的だと思う。あれが示す証明が、幾何的なイメージとしての立法を内包する何かに対する性質を示してると考えるのは解釈でしかない。
そうすると自然言語で認識してる3や△というのは、たとえそのもっとも理想的なものを持ち出しても、数学の定義にとっては一段レイヤーの低いイデアということになるかもしれない。
数学の定義に対して、複数の3や三角形というイデアが解釈として結びつくなら、数学の定義はメタイデアか。
その前は、定義もまたイデアとするなら、3や三角形は物理的イデア、と物理的を冠して存在する領域を区別すればいいのかなとか思った。
Q「これは三角形ですか?」
A「はい/いいえ」←やり取りになってる?
Q「これは三角形ですか?」
私はあなたの言う通り「イメージをよりどころにしたら無限後退する」から、そして数学もまた原理的にどこかでイメージによりかかざるを得ないので、数学の定義は厳密ではないと言っている。
イメージをよりどころにしたら無限後退するからイメージをよりどころにするのは間違ってるんだという主張をされてもそりゃ永遠に平行線にしかならんよ。
だいたい意味を見たら行われるイメージは、その意味を満たす対象のなかで自分にとって対象的なものを描く確率が強いってだけでしょ。
不等辺三角形でも直角三角形でも正三角形でもある、量子力学的な?イメージの基?みたいなのがあって、実際その言葉を見たとき、自分にとっての代表的なイメージが高い確率で描かれるという感じ。
意味を見たときのイメージが意味に対する必要十分条件だというような主張が詭弁なのは、正三角形をイメージした人に対して、不等辺三角形を見せて「これは三角形ですか?」と問うたら当然というように肯定するのが想像されることわかるでしょう。
別に正三角形とか直角三角形をイメージするのは意味にあてはまる一例をあげただけでしょ
イメージする時意味全体にあますことなく適合するイメージを構築するみたいな考えをするほうが無理がある。ストローマン長文だよね?
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
「言葉の意味とは何か」という問いが一般的であることが了解されたとき、それに対して与えられる解答として未だにしばしば出会うものがある。
それは、言葉の意味を何らかの心的なイメージ(心象)であるとするものである。たとえば、「赤」という言葉の意味とは、この言葉に出会ったときに心の中に生ずる赤い(物体の)イメージである、といった具合である。
こうした考え方を基礎とする「意味の理論」は、その洗練度はさまざまであっても、どれも根本的に誤っている。
言葉の意味に対するこうした考え方(「意味の心象説」とでも呼ぶことができよう)は、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』のなかで徹底的に批判したものであり、その批判は決定的なものであるとみなすことができる。
そして、意味の心象説を批判するにあたって、ウィトゲンシュタインがフレーゲに多くを負っていることは疑いが無い。
フレーゲが主として問題としたのは、数学の哲学、特に算術の基礎づけにおいて、心理的な要素を持ち込むという当時の風潮(心理主義)であった。
『算術の基礎』においてフレーゲが出した問いのひとつは、「数詞、たとえば『5』、の意味は何か」というものである。
言葉の意味とは心的なイメージであるとする、フレーゲ以前に伝統的であった答え(=意味の心象説)の弱点がもっとも鮮明に現れるのは、フレーゲが出したような問いに、その答を当てはめようとするときである。
(言語哲学大全)
さて、元増田は、"語の意味"は究極的には個人の経験、感覚から想起される心象に基礎づけられる、と主張しているのだから、元増田は「意味の心象説」論者です。
意味の心象説論者は、以下のプロセスを経て、言葉の意味を理解します。
1.何らかの言語表現を(音、または視覚、触覚から)受け取る。
2.言語表現に紐づく心象を、こころの中に想起させる。(この時点では、言葉の意味はまだ理解できていない)
3.こころに浮かんだ心象にたよることによって、言語表現が表そうとした"意味"を理解する。
では、元増田は「三角形」をご存じでしょうか?(三角形の意味を理解しているでしょうか?)
意味の心象説論者は、以下三つのプロセスを経て、言葉の意味を理解する、という主張に同意するでしょう。
1.『「三角形」をご存じでしょうか?』という言語表現を、視覚から(もしくは聴覚から)受け取る。
2.かつて、どこかで経験した「三角形と呼ばれたなにか」を、こころの中に想起させる。
3.こころに浮かんだ「三角形」を参照することによって、"三角形の意味"を理解する。
「三角形の意味を再確認」できましたね?では、あなたが想起させたその三角形は、どのような三角形でしょうか?
もしも、あなたがこころに想起させた三角形が、正三角形だったとしましょう。
もしそうだとするならば、直角三角形は三角形ではないということになります。
なぜならば、
・「語の意味は個々人がこころに想起させたイメージである」と(『意味の心象説』論者が)主張するならば、
こころに浮かんだ三角形(正三角形)と異なる図形(直角三角形)は、"意味が異なる"がゆえに、三角形ではないと主張しなければならないからです。
逆も同じです。直角三角形を想起させたのならば、正三角形は三角形ではありません。また、「直角三角形であり、かつ、正三角形であるような三角形」は存在しません。
ところで、あなたがこころに想起させた三角形とはどのような図形なのでしょう?
仮にどのような"三角形"であったとしても、「その図形と異なるにも関わらず三角形であるような図形」は、容易に示すことができるでしょう。
もしもあなたが「私は、あらゆる三角形を含む集合そのものと、集合に含まれるひとつひとつの図形を想起させることができるがゆえに、三角形の正しい意味を理解している」などと言い逃れしてみたとしましょう。
その時、私はこのように問うことができます。「あなたがこころに想起させた図形の集合の中の、一つ一つの図形すべてが、"同じ"三角形であることをどのように知るのですか?」と。
「意味の心象説」論者は、語の意味は個々人の心象に基礎づけられる、などと主張します。
しかし、三角形の意味を心象に浮かぶ図形に求めるならば、異なる性質を持つ三角形を示されたときに"三角形の意味"を説明することができず、
無限の三角形を連想できるなどとうそぶいた場合、「では、あなたの(無限の)心象にうかんだうちの、二つの"異なる三角形"が、"同じ三角形である"ことをどうやって知るのですか」と問うならば、
「意味の無限後退」に陥るのはむしろ「意味の心象説」論者のほうであることになります。
なぜなら、その人は三角形の意味を心象に浮かぶ図形に求めたのだから、心象に浮かぶ二つの三角形が"同じ言葉(三角形)"に対応することを、またさらに心象に求めなければならないからです。
つまり、あなたが主張する「三角形の意味」=「"三角形の集合"の心象」のなかに、実は四角形がまぎれこんではいないでしょうか?という疑いをどのように晴らすのでしょうか?
(この時あなたは、三角形の形式的定義を利用して証明したい、と思うことでしょう。しかし、「三角形の形式的定義」に含まれる語彙は、本来感覚によって基礎づけられると主張したのは『意味の心象説』論者自身です。)
ここで示された無限後退は、あくまでも「意味の心象説」がもつ問題によるものであり、
言葉の意味の厳密な定義を求める方法が、(ほかの)なんであるにせよ、「意味の心象説」がその役目を果たさないことだけは明らかです。
話を元に戻します。
何をするにせよ、少なくとも、語の意味を(さらに限定すると、数学的語彙の意味を)感覚、心象に基礎づけようとする方法が誤っていることだけは明らかでしょう。
先日、スイスのブルマーについての記事を書いた。その際に韓国のブルマの名称はわからないと書いた。だが、改めて念のため「ブルマ」をハングルで表記した「블루머」で検索すると、この記事がヒットした。
そして、驚くべき証言が見つかった。
일본의 영향을 받았던 한국도 1970년대 이전까지는 여학생 체육복으로 쓰이기도 했으며, 미국이나 영국 등지에서는 사실상 할머니들만 입는 속옷으로 인식되어 있다.
和訳するとこうなる。
日本の影響を受けた韓国も1970年代以前までは女子学生の体育服として使われており、アメリカやイギリスなどでは事実上祖母だけを着る下着として認識されている。
一部意味が通らないが、1970年には韓国でもブルマーが採用されていたようだ。
なお、日本語版ウィキペディアによれば、これはナムウィキという韓国ではウィキペディアに並ぶウィキらしい。しかし、出典の管理がウィキペディアには及ばないそうだ。
ブルマーについての証言があるのなら、当時の写真があるかもしれない。そう思って改めて検索した。キーワードは「한국 체육 수업 1970」つまり、「韓国 体育の授業 1970年」だ。すると、一枚だけだが写真がヒットした。年代も完璧に一致する。
こうして、韓国では1970年代に学校教育でブルマーが採用されていたことが示せた。
(追記:背番号もあるし部活かも知れないが、少なくとも学校にブルマーがあったことは示せる。なんにせよ、民主化以前のブルマーとは興味深い)
上記のナムウィキには学校のブルマーだけでなく、バレーボールや陸上ブルマーについても記載がある。
そこで興味深かったのは、次の記述だ。
이는 규정으로도 남아있는데 대한배구연맹의 유니폼 규정에 따르면 '허리와 길이(하지장 12cm이내)는 타이트해야 하며 몸선에 맞아야 한다. 반바지 스타일이거나 골반 쪽으로 파인 삼각형 모양이어야 한다'로 남아 있다.
すなわち、
これは規定でも残っているが、大韓バレーボール連盟の制服規定によると、「ウエストと長さ(下着12cm以内)はタイトでなければならず、身体に合わなければならない。ショートパンツスタイルであるか骨盤の方にファイン三角形の形でなければならない'として残っている。
ところで、韓国語で「体操着」、つまり「체조 착용」と検索すると、レオタード画像ばかりがヒットする。ブルマーが出てくるかと思って「女子高生の体操着」、「여고생 체조 착용」とやっても同様だった。しかし、レオタードをグーグル翻訳で韓国語にすると、「레오타드」(reotadeu)と音訳される。
これは先日の記事のように、体操着とブルマを表す言葉を、単純に和訳できないという問題だ。
実際問題、「陸上ブルマー」「陸上パンティ」のどちらを翻訳しても、一応は画像はヒットする。
先日ネットサーフィンをしていたら、yabantuってチャンネルが紹介された。アフリカの文化を紹介するというサイトだったのだが、上半身裸の女性で釣っているような感じがした。
いいんだろうか、これ。
韓国にも1970年代には体育の授業にブルマーが採用された。しかし、諸外国と同じようにそれ以降の例はほぼ見られない。ショーツ型のブルマーが90年代、遅くとも00年代まで残っていた日本の状況は特異である。また、提灯ブルマーからローカット、さらにはハイカットのブルマーへと変化していった点も特筆すべきである。
また、体育の授業でのブルマーが世界各地で見られるものの、横断した研究はほとんど見られない。これだけネットが発達しても、世界の様々な知識が統合されていない事実を目の当たりにさせられる思いだ。ChatGPTが発達したとしても、まだ画像を適切に処理できていない以上、世界のブルマーについてAIについて尋ねて適切な答えが戻ってくるには、もう少し時間がかかりそうだ。
知識を5ちゃんねるか何かに書いて、まとめブログに拡散してもらえないだろうかと空想することもあるが、そもそも5ちゃんねるが重すぎるし、アフィリエイトに使われるのも何か違う気もするのだ。