はてなキーワード: 三月とは
私はアラサーの女だ。
最近転職した友達に、転職祝いのプレゼントをあげたくて、ディズニーストアで折りたたみの日傘を買った。営業職の子だから、日傘はあって困らないだろうと思って。友達は喜んでくれた。
友達も、三月が誕生日だった私にプレゼントを持ってきてくれた。友達がくれたのは、髪の毛用の美容液だった。シャンプーとリンスの間につけるとサラサラになるやつ。大谷選手が宣伝してるブランドのものらしい。使ってみたらいい匂いだし、髪の毛は本当にサラサラになった。私はここ数年ブリーチをしていて、だいたい髪の毛がキシキシになってるので、私にぴったりのプレゼントだと思った。そして同時に、私が友達にあげたプレゼントってセンスなかった?と不安になった。こんな気の利いたプレゼントをくれるような友達は、ミニーちゃんの刺繍の日傘は使わないかもしれない。
それにしても、世の中のアラサーの女って、どこでプレゼントのセンスを磨いてるんだろう。私、プレゼントを買う店ってディズニーストアかプラザしか知らないし、実用品くらいしか思いつかないんだけど。
寒くて雪が多くて除雪で腰は痛いし暖房費もかかるし大変だけど冬一番好きで冬終わってしまったのが寂しすぎて泣いてる
路面のアスファルトはもうほぼ出てて冬靴の底がすり減るし今日ついに夜歩いても全然寒くなくて本当にちょっと泣きながら帰ってきた
寒くて雪が多くて暖房費もかかるし除雪も大変だけど冬はヒグマもマダニもハエも出ないし(クモは出る)不審者も出足が鈍くて森も街も夜遅くまで気にせず歩けるサイコーの季節(ただし猛吹雪の日を除く)
川辺の道はきれいだし河畔の雪原には青紫の影がくっきり落ちてウサギとか狐の足跡が延々続いてるし街の道を歩いても小型犬中型犬大型犬の足跡がずっと続いてて散歩の記録がいつまでも残ってるから何が歩いたかありありとわかってかわいいし夜降ってくる雪は見上げればいつまでもずっときれいだし雪の結晶も肉眼で見られて外灯できらきらして最高だしコート着てればその下の格好はあんまり気にしなくていいし毛も剃らなくていいしあったかいコーヒーは常においしいし遠くのスーパーから溶けるのを気にせずアイスを買ってゆっくり歩いて帰ってこられるし汗かかないから街中まで1時間以上歩いても平気で行けるし冷凍パスタも溶けないしストーブの前でぬくぬくしてた猫の思い出もよく蘇ってくる
こんなにも冬最高なのに毎年終わってしまう
悲しい
日陰の雪を探して踏みに行っては名残を惜しむ三月
春くんな
東口から駅を出て歩いているとすでにスパイスカレーの匂いがしてきた
イスラム文化センターがある影響なのかよく知らんが箱崎駅周辺はカレー屋が多いらしい
九大箱崎キャンパスがあったためか、古めかしいアパートが並んでいて学生街の面持ちもあるが、九大移転したので今は誰が住んでいるのだろうと思いつつ歩いた
目当ての店に入り、メニューの書かれているホワイトボードを見ると、チキンカレーとラムチョップカレーの二択だった
ビリヤニが無かったので、日本人の店員さんに聞くと、いつも金曜日はあるけど、三月はイスラム教のラダマン(断食)だからビリヤニは置いてないとのこと
自分の食欲から発した質問がこんな文化な答えで返ってくることあるんだと思って、残念だけど面白かった
ラムチョップカレーは、大き目のラムチョップが2個ドーンとさらに鎮座し、別皿でバスマティライスがついてきた
スパイスの風味とラムチョップの弾力ある肉とパサパサの米が美味いなーと思って食った
ただ、食器はスプーンのみであり、ラムチョップの骨についた肉をどうやってスプーンでこそげとるかという問題が発生した
先の丸いスプーンで刺そうとしても弾力のあるラムチョップはするーんとスプーンを弾き、皿とスプーンが当たってこつーんと音がする
骨付き肉って美味いし、手づかみで食べてて楽しいよなと手をカレーまみれに汚しながら、スパイスの影響で大量に発汗しつつ思った
ごちそうさまをして、そんな辛かったですかと店員さんに心配されつつ店を後にした
夕方の箱崎の空をジャンボジェット機が飛んでいて、尾翼のJALが目視できるほど近くに見えた
帰りに博多駅の丸善で『その怪文書を読みましたか』や他に数冊の本を買った
『その怪文書を読みましたか』は怪文書をテーマにした展示があり、それをまとめた本らしく気になっていた一冊だった
帰りに博多口の方から地下に降り、カヌレの店を右に曲がり、地下鉄博多駅の構内に入ったすぐの右手の掲示板に今買った『その怪文書を読みましたか』の表紙と同じ写真と文字のポスターが3枚貼ってあった
ポスターを読んだら、博多駅のマルイでちょうどいま、3月末まで『その怪文書を読みましたか』の展示が行われているらしい
そのことを知らずに、自分はマルイとは逆側の建物に行き、そこの本屋でこの本を買ったという事実に、阿呆という感想が浮かんだ
下調べをしていれば、今日別の店でビリヤニを食うこともでき、展示を見てから本屋に寄って、他の本を買うこともできたよなと思いつつ、まあ別にカレー美味かったし、いい一日だったなとも思った
去年の暮れに、両親が離婚した。
薄々そうなる気はしていた。二人の間には会話もなかったし、一緒に何かをするという事が絶えて久しかった。
だけど、今か、と思った。
その年に始めた仕事が軌道に乗り、うつ病の治療も安定し、ここ最近では一番、元気だった。
その日は、月に一度の実家に帰る日だった。誰もいない実家の、自分の部屋に入って、デスクの上に、それはあった。
「お母さんとお父さんは、離婚しました。お母さんには、支えたい人が別にいるからです」
口で言えよこの野郎、と思った。言葉の代わりに、涙が溢れだした。
脳みそがパニックを起こしている気がした。書いてある文字がちっとも理解できなくて、頭に入ってこなくて、全部水滴になって落ちていった。
●
母のことは、よくわからないなりに、大好きだったと思う。
小さい頃からちょっとそりが合わなくて、よく反抗した。よく怒られた。よく泣かせた。
同族嫌悪、と言えばいいのだろうか。近すぎるから、同じだから、気持ち悪くて、心地よかった。
わたしはどちらかというと感性は父に似ており、本を読んだりゲームをしたり、小説を書くのが好きだった。
母は、街を歩くのが好きだった。手芸をするのが好きだった。お菓子作りが好きだった。
どれもこれも、子育てのために我慢していたから、私は彼女のことを「無趣味のひと」だと思っていた。ずっと。
そんな母が、ふらりと一人で出かけるようになったのはいつのことだったろうか。
増えた白髪を茶色に染め、ほうれい線に化粧を乗せ、元気に家を飛び出す背中を見送るようになって、どれくらいが過ぎただろうか。
そんな母と化粧の話をするのは楽しかった。服の話をするのは嬉しかった。やっとすきなものの話ができる。これからたくさんしていける。ずっとずっと、そう信じていたのに。
母は、家を出ていった。
●
飲む薬が一気に増えたし、涙が止まらないせいで仕事にも行けなくなったけど、元気だった。
わたしには、父が、弟が、パートナーがいる。結婚だってしたいし、子供だってほしい。来年のウルトラマンが楽しみでたまらなくて、予定はヒーローショーで一杯だった。
二月に入って、調子が悪くなってきた。
微熱が下がらない。検査をしても異常なし。横になる時間が増える。
頭がぼーっとして動かない。薬を変えたからだろうか。本が読めなくなる。
胃が鈍く痛い。食欲もない。下痢の日が続く。水は飲まなきゃ。
イライラする。他人といるのが苦痛。相槌さえうてない。パートナーに申し訳ないな。
最後に小説書いたのはいつだろう。母はあの手紙で私に「書け」と言った。だから書き続けないといけないのに。あれは遺言だ。遺言は守らなきゃ。守らなきゃ。
吐きそう。
三月になって、実家に泊まることになった。二月はしんどくてそんな余裕がなかったから、年始ぶりに父に会うのは楽しみだった。
父は飲み会ということで、一人で夕飯をなんとかしないといけなかった。誰もいない家に人でいるのも何だか寂しくて、せっかくだしマックでも食べようかな。そう思って私は、近所を散歩することにした。
やめときゃ、よかったのに。
店を見た瞬間、涙が出てきた。
そうだ。ここは、母とよく行ったスーパーで、母によくナゲットを買ってもらったマックだ。
わたしは立ちすくむ。両腕で自分を抱きしめる。気を抜くと口から何かが飛び出しそうで、自然と口呼吸になった。
親子連れがわたしの横を通っていった。母と娘だった。わたしは目が離せなかった。
釣られるように、わたしも店に入る。座席に座って、ネットオーダーをする。
涙が止まらない。子供の甲高い声が頭に突き刺さって、気分が悪かった。
ハンバーガーの味は分からなかった。胃からせりあがってくる何かに蓋をするみたいに食べた。泣きながら食べた。
そして、逃げるみたいに実家に戻った。
新居に戻れば、よかったのに。
わたしはベッドに倒れこんで、おかあさん、おかあさんと泣いた。
もうおかあさんと化粧品を買いに行くこともないんだろうな。
もうおかあさんと並んで料理をすることもないんだろうな。
もうおかあさんとテレビを見て笑い合うこともないんだろうな。
もうおかあさんに、抱きしめてもらうこともないんだろうな。
だけど、これから帰ってくる父にも、遠方に住む弟にも、仕事中のパートナーにも、誰にも、メッセージを送ることはできなかった。
ひとりで、眠りに落ちるまで、泣いた。
●
翌朝、腫れぼったいまぶたをこすりながら、父におはようと言った。父はわたしを見て何も言わなかった。だからわたしも、何も言えなかった。
あいかわらず体調は最悪で、熱っぽかったし、腹痛もあった。頭の中は真っ白で、身体がふわふわとしていた。吐き気だけが鮮明だった。
〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。
私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。
同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。
同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。
佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。
馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。
ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。
元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。
なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。
10.おわりに
これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。
大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。
ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。
ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。
この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)
文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。
〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。
改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。
註
(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。
(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。
(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。
(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。
(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す
(前part)
https://anond.hatelabo.jp/20231213191557
直情的なタイプだった。怒りだろうと悲しみだろうと、感情の振れ幅が大きいタイプである。
最初の方で説明した場面で、職場のコピー機が置いてある台を蹴っていたのが彼になる。傍目から見ても、「どうして採用されたのだろう……」と疑問が湧いてくるほどだった。
ストレスには耐えられないし、自分勝手なスタンドプレーは多いし、立場が弱い人間には辛く当たるし、自分は凄いといった主張をしていた(「俺の親、若くして自治会長だから!!」など)。相手の意見を曲解することが多かった。
私も手痛い思いをしたことがある。私がいた指導課には住民基本台帳ネットワークシステム(戸籍課や税務課の職員が使っているものと同じ)があったのだが、B君は特に許諾もなくそれを操作し、職務遂行に必要な個人情報を入手していた。本来であれば事前申請を要するし、厳しい自治体だと戸籍課以外の職員によるシステム操作を認めない。これが普通である。
ただ、ほかの部署から個人情報取得の依頼があった場合でも、身内だからということで、口頭による承認で住基システムを使わせることはあった(課員への一言)。能率を考えてのことだ。が、B君の場合は明らかに一線を超えていた。職務遂行に必要であることがわかるが……一度だけ、彼を思い切り叱り飛ばしたことがある。以降は、口頭で課員の承認を得てからシステムを使うよう徹底させた。
ところで、あなたの職場にもいるのではないか? 仕事でも家庭でも趣味でも、何でもいい。ストレスで精神的に潰れかけた人間の姿である。B君は、元々コミュニケーション能力に難があった。いわゆる話がわからないタイプだった。
残業も多かった。指導課や学事課の教員出身者と同程度と仮定すると、おそらく月60h~70h程度か。彼の上司は「仕事をたくさん振っていないのに……なぜ?」というスタンスだった。
市職員の場合は、予算がある限り時間外勤務手当が支給されるという。私が若い頃だと、時間外勤務をしていないのに、予算消化のために闇残業を認めるという慣習があったほどだ。
教員出身者の場合は、月20hまで支給されていた。学校現場から教育事務職に移った者にとって、長時間労働やサービス残業は避けて通れない。この試練があるからこそ、一定の基準に達した教育人材を育成することができている。
人は光を求める。そして、その光の見える方向へ動いていく。教職員にとっては、教育に関する哲学、という光を見出すための修行の場こそが教育委員会である。量・質ともに圧倒的なレベルでの修行。厳しい体験を幾度となく積み重ねるから人格や能力が磨かれ、玉になっていく。
さて、彼の上司はB君を徹底指導して残業縮減に務めた。だが結果は出ない。残業縮減の効果は僅かだった。ところで、B君の場合は学校歴がよかった。地元の名門公立高校を卒業して、大学も相応のところを出ていた。地元的には血筋もいい。それが採用に繋がったのだろう。
縁故が悪いか? といえば時と場合による。一概に悪いとは言えない(ex.公共の学童クラブの指導員は、その多くがスカウトである。特に、男性の場合はほぼ100%だ)。教職員の採用試験においても、学科・面接試験の点数以外で、非公式に評価すべき点というのは確かにある。
行政一般事務の職員のことはよく知らないが、彼らと仕事をしていると、確かに地元において血筋がいいとされる人に仕事のできる人が多かった。※主観的な統計である。
高等学校の入学試験ですらそうだ。学科試験以外で評価される要素がある。内申点などは、その典型である。本人の人柄や人格、学習態度や常識力、社会への順応性が点数化される。内申点以外にも、+-の評価がされる要素も一応はある。
プラス評価の例としては……今では絶滅した慣習であるが、昔は公立校でも縁故による入学があった。とある高等学校の名門運動部などが、どうしても○△中学校のあの子がほしいという場合、事前に保護者・児童や中学校側と話をつけておく。かくして3者が合意に至った場合、入試前に合格が決まっていた。内申点は中三期を満点にするなどして対応する。
マイナス評価の例としては……生活習慣だろうか。公立高校の入学試験の基本は、学科試験+内申点の合計で決まる。とはいえ、点数に関わりなく不合格になるケースもある。こちらは犯罪行為であるとか、補導されるのを繰り返したとか、入学試験の際に相当奇抜なことをしない限りは関係ない。
ただ、その子が合格基準点に達していた場合でも、入学試験の要綱要領に定めのある範囲で不合格になることはありうる。欠席数が極端に多かったり、在学中に異常な行動を繰り返したなどが内申書に書いてある場合だ。学校教育とはいえ、高校側も不用なリスクを取りたくない。名門とされる公立高校に問題児が少ない理由のひとつである。
B君の話に戻ろう。その年の夏頃に聞いたところだと、どうやら事件を起こしたらしい。
梅雨が明けた頃に、霞が関の新卒キャリア官僚が研修にやってきたという。T区の各部署を廻って地方行政の実務を学習するのだ。T区は、その年の中央省庁の研修先のひとつに選ばれていた。
キャリア官僚達は、ごく普通にT区の歴史や成り立ちを勉強して、地方行政の実務を視察して、心ばかりの現場仕事をこなして、一週間ほどで霞が関に帰る――はずだった。
最後の日に行われた交流会(飲み会)で、B君はやってしまった。喫煙所のよもやま話で聞いたところだと、以下の流れだ。
ex.研修先部署の部長の肩に手を置く、女性職員の体に何度も触る、別省庁のキャリア官僚に「ぶっ殺す」と発言するなど
③国交省キャリアが「お前の区の国庫補助金ゼロにするからな」と言ったところで、B君がキャリア官僚を蹴り飛ばし、馬乗りになる
④ほかのキャリア官僚とB君の部署の係長が、彼を羽交い絞めにして止めた
……気持ちはわかる。侮辱されて悔しかったのだろう。だが、いくら何を言われようと、暴力だけは駄目だ。確かに、若手官僚の場合、調子に乗っている者は一定数いる。子どもの頃から勉強に勉強を重ねてきた自負があるとともに、仕事では自分の親ほどの年代から神輿を担がれるような扱いを受けるのだから。調子に乗るのも当然である(上に出てきた国交省キャリアは東京大学卒だった)。
かくいう私自身も、文部科学省の事業査定担当官であるとか、会計検査院の検査官から相当辛辣なことを言われたことがある。だが、怒りの感情に囚われてはいけない。駄目なのだ。
人間はいかなる状況の下においても、自己の衝動をそのまま表に出してはならないし、出すべきでもないし、さらに言えば、出したいとも思わない、という主張はまったくの真実であり、妥当な見解であると私は考える。衝動は制御することができるし、制御しなければならない。それは現実の要請というだけでなく、一人の個人としてのまとまりや一貫性および価値観の要請でもある。突き詰めて考えるならば、人生には実存的葛藤や解決不能な問題、さらには、あることのためには別の何かを諦めなければならないというような状況が数多く存在しているのだ。こうした状況こそ、人間が生きる上での本質的条件となっているのである。何らかの葛藤が常につきまとい、ある方向へ進もうとすれば別の道を諦めざるをえない。人間はこうした状況に苦悶しつつ、自己を制御しながら生きていかなければならないのだ。 完全なる経営(2001) A.H.マズロー (著), 大川 修二 (翻訳) P.295
私とB君が教委事務局で一緒だったのは一年だった。その年は、社会教育課にとって厳しい年だったらしく、彼は相当追い詰められていた。年度末の三月時点では、まるで50代のごとく自分が思ったことを脊髄反射で口に出すようになっていた。
声をかけようか、とも思った。あまりに辛そうだったからだ。係長も課長も、彼を見放しているところがあった。どれだけ残業が積み重なろうと、仲間によるフォローを呼び掛けたりはしなかったし、むしろ失敗に対して反省文を書かせていた。
B君は、口に出すのが憚られるほど救いようがなかった。もし、上司や仲間にとって彼が『かわいい奴』だったら、こんな事態にはなっていない。彼は、実際に不良な人間だった。職場の仲間から非人格的な言動を咎められるのはまだいい方で、はっきりいって見捨てられていた。自業自得だった。
しかし、やはり可哀想に感じることがあって、廊下をすれ違う時やトイレなどで「元気?」「今日は温かいね」「辛くないですか」など声をかけることがあった。
それから、彼がどうなったかというと、真相を確かめたわけではないのだが……私が定年になる前に退職したらしい。別の部署に異動しても活躍できず、しかしながら、何の因果だろうか――霞が関への出向を命じられたという。省庁までは不明。
本来名誉であるはずだが、その出向期間中に退職を申し出たということだ。もしや、生贄型の出向だったのだろうか?
現代社会において、感情が表に出るタイプの人間はしんどいのだと思う。彼が今、どうしているかはわからない。ほどほど幸せにやっていることを祈っている。
先ほどの2.3.でいうところの係長にあたる人物だ。この人は、冷血漢と呼ぶにふさわしい人間だった。サイコパスとは書いたが、私は臨床心理学の碩学ではない。仕事熱心で、結果を求めるタイプだったのかもしれない。目的のためであれば何でもする人だった。思い出してみる。
例としては、部下の叱責だ。普段は物静かで、部下の相談や報告を聞いている。が、一定レベルの何かに触れると怒号を発する。
C係長「お前、こないだできるっていったよな!」
若手部下「すいません」
「なんでできねーんだよ」
「……なんとかします」
「言ったな? じゃあしろよ。今週末までだ」
※部下ができなかった場合は、定時を過ぎても何十分でも説教していた。そして、できるまで残業をさせる。
後は、イベントだろうか。市区町村においてイベントを主催する部署はいくつかあるが、教委事務局もそのひとつである。教育○○大会などの厳かな発表会もあれば、○○総合フェアなど若い人や家族連れが多く集まる文化的なものもある。
さて、そのT区にとっての○○総合フェアの時だった。毎年過ごしやすい季節に、とある大公園で実施されるのだが、50以上もの出店が立ち並ぶ大イベントだった。
その年のイベントは、残念ながら雨天だった。初日は少雨で済んだものの、翌日以降の天気は崩れる可能性が高い。社会教育課は、教育総務課・指導課と並んでイベント主管課のひとつだった。
その初日の、夕方~夜にかけてのことだった。教育長を始めとする幹部級職員が現地に残って、明日以降の対応を話し合っていた(ほかの教委スタッフは全員帰っていた)。主な論点は次のとおりである。
□ イベント会場は維持できるのか?
上記3点のうち、2点目がなかなか結論に至らなかった。イベント会場には、テントも備品も野外展示物も並んでいる。風雨によって損傷する可能性があった。そして、2点目の解決手段を提示したのがC係長だった。
彼は、「業務委託している会場警備員がいるでしょう。数十人。彼らにやらせましょう。折り畳み式テント(※鉄パイプではない)の屋根を低くする作業や、野外展示物の収納もです」といったことを述べた。
私は「それは契約内容に入っているのですか?」とC係長に問うた。すると、彼は「緊急事態です。契約内容にあろうがなかろうが、現場の指示に従ってもらわないと」と言っていた。
教育局長は「後で問題にならないか?」と聞いたが、「私の責任で収めます」と彼は返した。教育長に「本当にできるんだな?」と聞かれると、「問題ありません。警備の発注は当課です」と返していた。ここから先はうろ覚えだが、C係長は警備会社の現場責任者と交渉を始めた。
夜7時頃だったか。私がトイレに行く途中で、社会教育課長とC係長、警備会社がロビーで交渉しているのを見た。当然ながら、相手方は渋い反応だった。
私はそのままトイレに行って、また帰り際にロビーを通りかかったところ、「契約切るぞ。ええんか!?」というC係長の声が聞こえた。この人は、気分が高まると大体こうなる。
以下、会話を手帳にメモしているわけではない。思い返してはいるが、やはりうろ覚えである。
「切るといっても来年からね。今年はもう契約してるし。来年は、こちらの権限でほかの警備会社と契約します。それでいいなら、あなたの判断で断ってください。テントの作業OKなら、これから私の責任で指示しますが」
「いや、でも。ちょっとの量じゃないでしょ? テントの数は何十個もあります。それをひとつひとつ、高さを下げていくんでしょ? それはもう――」
「あなたが決めるしかないでしょ。責任者なんだから。この時間、あなたの会社に上司がいるんなら電話で伺ってください」※このあたりから方言になる
「判断ができません」
「毎年、あんたの会社と契約しとるんやぞ。しっかも言い値で。本来なら正式に競争入札せんといかん金額やのに。こういう時のために、うちは権限使っとるんやぞ。官製談合みたいなこと、してやっとるんやぞ。俺らとあんたの会社のためを思って。で、上の人間に電話するか、あなたの判断で決めるかのどっちかや。あなたが決める場合は、契約切られても全部責任とるんやぞ」
「……」
「俺が責任を持つ。あんたが上司に怒られんようにする。後で言っとく。知り合いだから。頼む!」
「わかりました。指示をお願いします」
C係長のこの判断が正しかったのか、誤っていたのか。今でもわからない。
結果だけ見れば正しかった。その夜は雨も風も激しかった。(鉄パイプ式でない)テントを張ったままだと、風雨で確実に潰れていた。テントや野外展示物を片付けるといった作業は絶対に必要だった。それを怠って、一般スタッフを帰した私たち幹部の落ち度である。
手続き的には違法である。正しくない。警備会社をロハで使ってしまっている。C係長のことだから、きっと事後処理はうまくやったのだろう。あの後、彼やその上司が処分を受けたという話は聞いていない。
個人的には、C係長の行いは正しかったように思える。実際、あの場面だとああするしかなかった。組織のために泥を被ってくれたとも言える。ただ、それが未来に繋がる行為だったかというと怪しい。
例えば、テントが崩壊する未来を選んでいれば――教委事務局が「組織として学習」することができていた。それがいい未来につながった可能性もある。
(次part)
国宝を所有する寺の孫であり、父親が一級建築士、母親が介護士のパートである。親戚に
元市長がいる。職業は工場のアルバイト(借金200万持ち)新興宗教の会員でもある。
食品工場、高校時代にアルバイトの面接は全て落ちた。小学校の時に遊具から落下し、控除に。その為、エスカレーターの下りが苦手
トンカツと天ぷらと唐揚げは塩で食べる。ソースは嫌い。キャラメルコーンを10年以上食べてない。爽健美茶と生茶を15年飲んでいない。コーヒーを生涯で5度しか飲んだことがない。ゆるキャラのハロウィンイベントに行ったらAV女優に遭遇していたこともある。
日本で数少ない(?)歯痛フェチという性癖を持っており、絵本を読んで普通に勃起する。
初めて歯痛で性的興奮を感じたのは小学校高学年の時にみた幼児向けビデオであり、親のいない内に何度も観ていた。ちなみにその他の性癖として、メスケモ、触手、ロリなどがある。趣味は短歌と読書と料理。得意な料理は焼きそばとステーキ、苦手な料理はカレー(めんどうだから)好きな漫画はメイドインアビス、三月のライオン、ちいかわ、ねこ神さま、heavenなど。母親が女性向け漫画をたまに買ってくるせいか、女性向け漫画もいくつか読んだことがある(例 花より男子 アラミス パタリロ など)母親はゴシップ紙の性的なページを破って捨てるほど性的なものには厳しかったが、女性誌の性についての特集ページは普通に読むのを許していた。そこで性交通、陰毛の処理の仕方などを覚える。ちなみに母親はオナホールを未だ知らない(50ぐらいなのに)父親の仕事現場には小さい頃からよく連れて行かれたようで、記憶の中で最も古いのは小学校二年ぐらいの時である。中学の時には既に手伝いをやらされており、高校の時には足場を組まされたことも。
アイドリッシュセブン(アイナナ)を知って今日でちょうど100日経った。
我ながらもの凄いハマりようなので、心が荒んだおっさんにこそアイナナを薦めたい。
アイナナは女の子向けのコンテンツとして男が疎外してしまうのは、非常にもったいない。
だから、主にこの文章はおっさん、そして特に子持ちのおっさんに向けて書くものになる。
何を書けばよいのか全然まとまらないうちに書きはじめたし、そこそこ酔っていることもあり収拾が付かない可能性が高い。先に謝っておく。
まずは簡単に自己紹介をしておこう。私は30代の2男1女の子どもを持つマネージャー(アイナナファンの通称)だ。
アイナナの存在を知り、メインストーリを6部まですべて読んだ後、アニメを3期(53話)最後までみて、ムビナナ(先日千秋楽を迎えたアイナナの映画『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』)に8回通った。アイナナを知ってから全部一ヵ月以内のことである。
もちろん仕事はフルタイムだし、土日は家族サービスDayである。なにか狂気的なもの感じるかもしれないが気のせいだ。大したことはない。ムビナナに関してはもっと行っておくべきだったと反省すらしている。
仕事関係者も見ているTwitter一ヵ月アイナナのことしかツイートしないなど大事故を起こしたのも懐かしい。(今はアカウントわけたよ)
そんな私がなぜアイナナになぜハマったのかを説明する前に、何故アイナナを知ったのか。まずはそこから説明させていただきたい。
今まで私は重課金されるようなゲームを触ったこともなく、重課金税の気持ちがわからないでいた。いわゆる落とし切りのゲームしか知らなかったのである。
このままだとなんだかビジネス的にもエンタメ的にも機会損失しているような気がしていたので、何かしらやってみたいとは前々から思っていた。
「ウマ娘は競馬のことよくわらかんし、とりあえずアイマスは聞いたことがあるからアイマスやってみるか」とアイマスをAppStoreで調べはしたが、アプリが複数出てき、そこで挫折した。まさにおっさん。
若いころはOSのアップデートなんて嬉々としてやっていたが、年を取った今、OSのアップデートなんて恐怖の対象になってしまうようなお年頃なのだから仕方がない。
身近にアイマスのことを聞けば教えてくれる知人は数人思いつくものの、そこまでする必要はないと思い続けてきたからこそ、今まで手を付けられなかったともいえる。
ちょうどそのタイミングで知人同士(この先輩マネの存在がものすごく大きかった)がアイナナの話で盛り上がっていた。「じゃあアイナナにしてみるか」とアイナナを調べたらアプリが一つしか出てこなかった。
さあこれで第一の難関である「インストール」をクリアしたわけだ。
インストールしたはよい。何をやればよいのか。やたらとメニューがあるぞ!これは冷静に考えれば当たり前で、当時は知らなかったがアイナナは8年前にリリースされたアプリだ。
そこで先輩マネージャ達が「とりあえずストーリーをやれ。ただし〇部の前にこのサイドストーリを読め」と初心者が陥りがちな罠をあらかじめ封じてくださったのである。(アイナナはストーリー+音ゲーで構成されているゲーム)
もうここまでお膳立てされたなら走るしかない、見つけ出したチャンス絶対逃せない!
ゲームシステムの解説だったり、各種グッズ関連(代行注文してもらったり映画の半券を譲ってもらったり)、過去イベントの解説をしてもらったり、過去の8年間と今をつなぐようなフォローをいまだにして頂いている。
つまり、よき先輩マネがいたことがとても大きかった。これは私の最大の奇跡だったといってよいかもしれない。その二人の存在がなければ私はアイナナを知ることすらなかったし、知っていたとしても挫折していたに違いない。
ストーリーは無料で最後までフルボイスで読めるので、ぜひお時間がある人には読んで頂きたい。最悪、相性が悪くても溶けるのは自分の時間だけである。推し活につながるかもしれない期待値に比べればたかが知れている。
掻い摘んで言ってしまうと、16人のアイドルが自分の過去を乗り越えたり、芸能界の荒波に揉まれながら成長し輝いてく物語である。
ストーリが完璧にできているかというと必ずしもそうとは言えないのだが、16人のアイドルが個性的で実に良いのである。
「16人?多すぎじゃね」と思ったそこのあなた。そう、最初は多く感じる。私もそうだった。名前すら覚えられなかった。しかし、それを乗り越えるための仕掛けが名前や音楽記号(キャラクター毎に音楽記号が割り当てられている)等にちりばめられている。しかも声優の仕事が良いことも相まって自然と覚えることができる。おっさんでも覚えられる。心配しなくてよい。ポケモンに比べれば全然少ない。昭和生まれのおっさんでも151匹程度は覚えただろ?
1/10だ。
メインとなる16人のアイドルは年齢で言えば高校生~20代前半というのも良い。数年後の自分の息子達と重ねてしまうし、新卒で入社してくる子たちと大差ない。
つまりストーリーを読むということは子どもたちや新卒の子たちのプライベートを見守るのと同義で、荒波に揉まれ、過去の自分と対峙している姿をみれば「頑張れ!」と応援してしまうのは必然なのだ。
そして、彼らには我々おっさんが仕事で目にする人間の汚さというものが全くない。清いのである。清すぎて尊いと言っても良い。メンバー同士で喧嘩していても名言が出てきてしまうくらいに相思相愛な彼らだ。自分の子どもにもこんなに思いあえる仲間ができてほしいと思ってしまうくらいだ。
そうなると、もう彼らは自分の子どもと見分けがつかないくらいに愛おしく感じてしまうのは時間の問題で、かくして私には新しく16人の息子ができたのである。きっとあなたにもできる16人の息子。
さぁ、そんな各アイドルのキャラクターも良いのだが、極めつけがムビナナだ。先日千秋楽を迎えたが、まだ上映している劇場はあるらしい。
あの映画の完成度はおかしい。狂気と言ってよい。千秋楽を迎えた後の今いうべきことではないかもしれないが、絶対に大画面で見るべきだし、欲を言えばドルビーシネマで見てほしい。
映画といってもストーリーなんてほとんどない。16人が歌って踊って合間にちょっとMCをはさみながら、ひたすらライブとして彼らがアイドルをしている姿を観る映画だ。後述するが20~30回程度見てからが本番であとは観れば観るほど寿命が延びるようなシステムだ。
子持ちのおっさんなら子どもの授業参観というイベントには参加したことがあるだろう。こんな友達とこんな環境で勉強をしているのかと色々な発見があって楽しいイベントだ。
では、もし自分の子どもが仕事をはじめたとして、仕事参観ができるとしたら?本当にしっかり仕事できてるの?お前の能力は発揮できてる?授業参観とは比にならないくらい色々と見てしまうはずだ。いろいろと思うところもあるだろう。でも現実的ではないんだよなぁ。
しかし!!!それを実現しているのがムビナナだ。おわかりか。子どもたちが目の前で仕事をしているんだよ。それも、とてつもなく素晴らしい仕事を。凄い演出と音楽と舞台とで。そうなると自分の子どもを引き立ててくれるすべての関係者に感謝を覚えるようになり、それが生きとし生けるものすべてに感謝できるだけでなく、それが存在するこの宇宙に感謝。そして、それらを育んできた過去の全ての出来事に感謝できるようになる。つまりムビナナを見るということはアルファからオメガまで感謝できるようになるということだ。
故に全てのストレスから解放される。だから寿命が延びる。ムビナナおよびアイナナは決して沼なんかではなく名湯であるとここに明記しておこう。
話を戻す。
ムビナナは狂気と言った。どこまでこだわればこんな作品ができるのかいまだに理解できない。
「個性的な16人」と前述したが、立ち絵のストーリしか見てないのに、ダンスの動きを見るだけで誰のダンスか見分けることができるほどの個性であることをあなたはまだ知らない。
意味が分からないかもしれない。だがストーリーを読み切った人に「ダンスで一番動きが大きそうなキャラは?」と聞くと多くの人は三月と答えるだろうし「ステージから客席に手を振るときに両手で振ってるのは?」と聞けば環と答えるだろう。
ストーリーにダンスの描写なんてほとんどないにもかかわらず各キャラクターの「らしさ」がストーリーにはふんだんに埋め込まれている。それをとことん回収していくのがムビナナなのである。モーションつくったソリッドキューブの仕事がマジ凄い。
それを16人やってのけている。驚異的なことだ。あなたは思ったかもしれない「だったら16回見れば良いの?」と。全然違う。違うんだよ。素人は黙っとれ。
私のムビナナの初回の感想は「目が足りない」だった。アイナナだけでも独立する眼球が最低でも7つはないと全く追うことができないなと。
彼ら自身も十分に魅力的ではあるのだが、同時に彼らの「関係性」もまた美しく尊いのだ。
つまりムビナナを楽しむためには人類を超越した何かにならないとならない。
しかしそれは叶わない。何かをササゲても叶わない。だから数をこなすしかないのである。
故に20回くらいは普通に超えてしまうものなのである。むしろ20回を超えたあたりから、ようやく2つの眼球で見るスタート地点に立ったといってもよく、そこからが本来のムビナナを楽しめるといっても差し支えない。そこ、脳筋とかいうな。
ムビナナに通っていると、自分の精神状態を大きく二つに分類することができるようになる。「ムビナナを見ている自分」と「ムビナナを見ていない自分」だ。
ムビナナを見ている自分は大体「尊い」の感情に支配されている。そして見ていないときは「ムビナナが見たい」という思いに支配されている。
それに気が付いた私は思った。「あ、自分って単純」と。そう思えると、今の自分の悩みなんて大したことはないんだと、ムビナナのおかげで気が付けるようになる。
だが、寿命が延びるなら治療する必要はあるまい。むしろ大いに歓迎されるべきではないか。公衆衛生の観点から言えば、ムビナナ鑑賞券は国民皆保険制度の適応対象とすべきだろう。厚生労働省は仕事しろ。
言いはぐっていたが、実はアイナナは音楽もよい。すごくよい。ランティスだ。何十回だって、何万回だって聞ける。
楽曲提供は小室哲哉やヒャダインもいるし、先月の新曲はANCHOR、今月は浅倉大介だった。つまりマネージャがお金を落とすサイクルを確立しているコンテンツなので、楽曲にも力が入れられる強者の運用をできるのがアイナナだ。
故にストーリーなしで曲だけ聞いても楽しめる。全方向からのアプローチを受け止めらるアイナナ凄い。あやかりたい。
このように楽曲にも恵まれ、8年という時間も相まって100曲以上の楽曲をリリースしてきたという実績がアイナナなのである。
書きたいことの5%も書いてないし、終始取り留めない文章になってしまったが、時間も時間なのでこのあたりで勘弁してやる。いえ、勘弁してください。
何か思うところがあったらアイドリッシュセブンをぜひインストールしていただきたい。掴み取れば明日は何色にも変わることをおっさん達に知ってほしい。
田村団長は内容について「瑕疵はなかった」と正当化した上で、登下校に防犯ブザーを持たせるなど各家庭で安全に配慮していれば放置にならず「心配の声のほとんどは虐待に当たらない」と従来と異なる見解を示した。既に条例で規定する「安全配慮義務」が果たされていれば虐待に当たらないとした。これまで説明しなかったのは「安全配慮義務は大前提で当たり前すぎた」と釈明した。改正案を再提出するかどうかは「ゼロベースで全く何も考えていない」と答えた。
第6条がその「安全配慮義務」が記されている条文であり、そして今回の修正案はそこに条文を追加することとなっている。
第六条の二 児童(九歳に達する日以後の最初の三月三十一日までの間にあるものに限る。)を現に養護する者は、当該児童を住居その他の場所に残したまま外出することその他の放置をしてはならない。
2 児童(九歳に達する日以後の最初の三月三十一日を経過した児童であって、十二歳に達する日以後の最初の三月三十一日までの間にあるものに限る。)を現に養護する者は、当該児童を住居その他の場所に残したまま外出することその他の放置(虐待に該当するものを除く。)をしないように努めなければならない。
3 県は、市町村と連携し、待機児童(保育所における保育を行うことの申込みを行った保護者の当該申込みに係る児童であって保育所における保育が行われていないものをいう。)に関する問題を解消するための施策その他の児童の放置の防止に資する施策を講ずるものとする。
どうみても「安全配慮義務」を強化するだけの内容であり、既存の安全配慮義務を満たしていれば放置しても許されるといった読み方ができる条文ではない。田村団長の認識とこれがズレているのであればこの条文は完全にバグっており、レビューでRejectされて当然である。正しくした改正案を再提出すべきである。
さらに上記の2にある「(虐待に該当するものを除く。)」に至っては全く意味不明で… これが通ってしまうとなれば自分は埼玉県全体の知的レベルを疑ってしまったことだろう。
面白くてグイグイ読んでしまうんだけど、なーんか嫌いで避けている漫画家。
この文章に特に意味はないです。なんで嫌いなのかうまく言語化できないので自分なりにまとめてみました。名指しで批判みたいになってしまってすいません。
「ハチクロ」途中で嫌になって脱落。「三月のライオン」読んでみたけどやっぱ苦手だな…と思い脱落。
いきなりはてなー大好物の羽海野先生で申し訳ない。絵もフワフワ可愛いと思うんだけどなぜか好きじゃない…。ゴキブリで騒ぐところからもうダメだった。SNS上でフレンドリーなところは好印象なんだけどな。
「海月姫」の無料分を読んだときは特になんとも思わなかった。「主に泣いています」「かくかくしかじか」も普通に面白かったけどだんだんそもそも読まなくなった。
読んだら確実にすごく面白いのはわかっているのだが、時間を吸い取られる感じがして苦手。絵もすごく綺麗なのになー。ヒモザイル騒動の影響はあるのかもしれない。こういう美人でグイグイ表に出てくるタイプの女性漫画家は結構好きなんだけどな。安野モヨコとか内田春菊とかさ。
この人も時間泥棒。すごいグイグイ読ませるんだけどなんかイヤ…。女の子(の絵)が可愛くないからかな…(ヒロインの性格はすごく可愛いというかいじらしいと思います。先輩フィリピーナのお姉さんも)。そういう綺麗事だけじゃない人間の闇みたいなのを描くのが持ち味なんだろうと思うけど…。なんかもういいやっていうか…。全巻読んだのはKindleの読み放題にあったから。
「ボーイズオンザラン」ボクシング始めたあたりまで読んだと思う。「ルサンチマン」も少し。
この人もめっちゃ読ませるよね。でもなんかイヤ。この人は逆に女の子の顔はかわいいけど性格がクズでエグかった。ボーイズオンザランの前半ヒロインだけかもしれないけど。
…
以上。うーん。たぶんグイグイ読ませるところを「あざとい」と感じてしまっているのかな、感情を揺さぶる刺激的な展開が多すぎるのかもしれない…?
しつこく触られ続けて最初は気持ちよかったけど「ちょ…痛い痛い!!やめれ!!」って突き飛ばしてしまう感じ?飽きるというのとも違う気がする。
時間吸い取られる、と繰り返してるけど決して意識高い系の人間ではないんだけどな。漫画読んで役に立った!とか勉強になった!とかバカみたいだと思ってるし。面白けりゃいーんだよ。時間吸い取られてナンボでしょ。…って思ってるのにイヤなのが謎なんだよなぁ。
そもそも絵が苦手ってのはあるかもしれない。絵柄で食わず嫌いするのは損だって長年の経験でわかってるけど、いざ読んでみるとやっぱ無理!ってなるのかも。
崩壊3rdのゲーム内イベントで先着8000名の原画集ゲットしたわ。
去年も似たようなイベやってて、無料で頂戴するのはこれで二度目。
今年もやるとは、さすがアニメ系で世界一売れてる麒麟児デベロッパだけある。
というか、HoYoverseはゲーム外の映像・催し・コンサート等でファンへの還元が半端ない。
こんだけ熱意ぶつけられたら誰だってチョロリンするだろ俺みたいに。
去年のは200ページ弱で定価3000円ほどの本をサービス提供してる地域鯖ごとの先着枠でイベント景品にしてた。
日本語版は普通に日本で印刷出版したやつだったな。今年も同様だと思う。
ただ去年は同時期に一般発売もされたんだけど、今年のは日本発売がなさげなんで、気持ち競争が激しい気がするね。
抽選でもなくゲーム遊んでるだけでモノ貰えるってだけでレア事象なのに、発売しないのに無料配布分だけでも刷るってなると並大抵じゃない気が。
イベント内容自体は、その時やってる通常の時限イベントや週課をこなしてポイントを溜めて交換するだけ。過剰な周回は必要ない。
ファンサービス的な側面が強いから古参が有利になってて、アクティブな古参が交換ポイントに達する今日のうちに半数くらいが捌ける。
その数日後くらいに追加獲得可能な分のポイントで、おサボり古参や熱心な中堅が残りを争奪する、って感じ。
ちなみにこれを見て復帰or開始しても間に合わんのであしからず。まあやってないゲームの原画集なんていらんだろうし、景品チョイスも妥当。
てか、この枠数で日本のアクティブプレーヤー数がだいたい察せるよね。ゲームの凝りようと比べるともっと人増えてもいいと思うんだが。
中国では普通に売れてるゲームで、中国サーバーの先着枠は50万冊。マジカ。コッチ8000ヤゾ……。ケタガチガウ。
調べてみたら東南アジア2.5万、北米1.25万、欧州1.25万、韓国1.2万、台湾1万で日本は全鯖中最弱ッッ――アレ?台湾って人口こっちの1/5ですよね?
しかしこういう本って原価いくらくらいなんだろうな。分厚くてそれなりにデカいカラー本となると、プラや塩ビのキャラグッズなんかより相当かかるはず。
本ゲットできるユーザーの大半は、今verでついに実装された死生の律者ゼーレちゃんに画集代分以上の課金してそうではあるが。
58万部タダで配るってことはコスト億は軽く超えるよな……正気なのか?三月なのか?