はてなキーワード: 万引き癖とは
それなりに名前が知れていて、金銭的には全く困っていないであろう俳優・アイドルが万引きを繰り返していたというニュースが報道された。
彼が出演していた特撮も楽しく視聴していて、ゆるい人間性含めふわっと好きだったので衝撃的だった。
そして、長年忘れていたけど、自分自身が万引きを繰り返す子どもだったことを思い出した。
時期としては確か小学校2、3年のころ、関西のど田舎で祖父母、共働きの両親と暮らしていたときのことだ。
そのころスーパーへの食料品の買い出しは祖父母の役割で、自分も車に乗せられ同行するのが常だった。
基本じっとしていられない子どもだった私は、カートを押して店内をまわる祖父母の元を離れ、お菓子売り場や文房具売り場をうろつくことが多かった。
そしてその際、私は誰にも気づかれず、何度もポケットに入るサイズのお菓子や文房具を万引きした。
私の家は田舎にしては収入が安定した世帯であり、チョコでも飴でもかわいい消しゴムでも、「これ買って」と祖母のもとへ持っていけば、大概はすんなり買ってもらえた。
今回真剣に思い起こしてみたけど、盗ったお菓子を食べたり、文房具を使った記憶は全くない。
また、そのころの私は「万引き」という言葉を既に知っており、それが犯罪にあたるという認識もあった。
「警視庁24時」的な、顔にボカシがかかった万引き犯がGメンに取り押さえられる場面をテレビで何度も見ていた。
「窃盗症」や「クレプトマニア」で検索すると、「監視の目をかいくぐるスリルに病みつきになり…」といった記述も散見されるが、そういう高揚感を得てもいなかったと思う。
今の私の語彙で言うなら、「やっぱり大人は私のことをちゃんと見ていない」ということを確認していたのだと思う。
私が生まれる前から続く父の不倫、父との関係の破綻を仕事にのめり込むことで見て見ぬふりをする母、破綻した夫婦に変わって「家」の役割を担う祖父母、早々に実家に見切りをつけ都会の大学に進学した兄、その全員が、私のことを「若干落ち着きがないが聞き分けの良いいい子=放っておいてもいい子」と認識していた。
たぶん万引きをするたび大人を嘲り失望しながら、いつか見たドラマのように万引きが発覚し両親が店に呼ばれ、母親に泣きながら「なんでこんなことをしたの!」と聞かれる展開をどこかで望んでいた。
そしたら私も泣きながら、「さみしい」「かまって」「口を聞いて」と主張できるのに。
別に聞かれなくても「さみしい」と主張する権利ぐらいはそのころの私も有していたし、お店に迷惑をかけていい理由には全くもってなっていない。
結局、私の万引き癖は突然終わりを告げた。
たまたま休みの日に父が私をスーパーに連れて行くことがあり、調子に乗って小さいサイズの折り紙を盗った私は、不自然なポケットの膨らみを父に看破され、往復ビンタ等の激しいお叱りを受けたからである。
その際「以前にもお菓子や文房具を盗った」ことを白状し、父とともにスーパーに謝罪をし、お年玉貯金から盗品に相当する額の弁償を行った。
「子どものしたことですから」と謝罪を受け入れてくれた店長さんには、改めて本当に申し訳ない気持ちだ。
ちなみにこの過程で、「なんでそんなことをしたのか」とは家族の誰からもついぞ聞かれることがなかった。
「いい子」からはみ出そうが、この人たちが自分の内面に関心を寄せることはないのだ、と悟った私は、「じゃあ優等生でいた方が得じゃね?」という発想に至り、以後自立まで「聞き分けのいい子」で通した。
その後、家族は祖母の大病、両親の離婚と再婚などを経て、見る影もなく離散している。
あのころ言えなかった「さみしい」は、心の隅っこの方にまだいる気がするが、別に家族に期待せずともそれなりの人生が送れることも学んだ。
クソ長い自分語りになったが、要は万引き、あるいはその他の嗜癖も、その時のその人に必要な、なんらかの役割を持っているから嗜癖になっている。
不器用な、笑顔の似合う、お菓子作りの得意な、彼にとって万引きとはなんなのだろう。
彼はそういう道を歩めるだろうか。
歩んでほしい、と思う。
尾木ママの子育てに魔法の言葉 福井、講演で叱らない持論紹介
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/event_calture/44550.html
痛いニュース(ノ∀`) : 尾木ママ「叱らない子育て」提唱 「万引きしても『どうしたの?』と優しく声掛けして」 - ライブドアブログ
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1770569.html
子育てに愛情は必要だが、叱らない事がイコール愛情だと単純な理解をしてしまうと、大変な事になってしまうだろう。
はてブで叱らない育て方に賛同している方がいて、ちょっと心配になったので自分の体験を書いておこうと思う。
近所に大きスーパーがあって、そこのおもちゃ売り場で船(ボート)のプラモデルを万引きした。
そこには近所の友達と子供だけでよく行っていたのだが、その日は自分一人だった。
計画的だったのか衝動的だったのかは覚えてないけど、とにかくその日自分は店員の目を盗んでプラモデルを盗んだ。
まんまと盗みを成功させて、家に帰るとすぐにそのプラモデルを組み始めた。
そしてパートから帰ってきた母に「そのプラモデルどうしたの?」と聞かれた。
今考えればお小遣いでは買えないようなものを子供が持っているのだから、母が疑問に思うのは当たり前の事だ。
これはお店の人が僕が盗む瞬間を見ていて、そのことを母に連絡したのだと思って絶望的な気分になった。
お店のプラモデルの什器の前でこちらを見ながら何度も歩いていた店員のおばさんのことを思い出した(このビジュアルは今でも思い出せる)。
残念ながらどういう言い訳をしたのか思い出せないのだけど、たぶん知り合いに貰ったとか言ってごまかしたのだと思う。
子供の考える言い訳なので、母は怪しんだのではないかと思うが特にそれ以上追求されることはなかった。
よく覚えているのは、完成したそのプラモデルは水に浮かべて遊べるようになっていたのだが、まったく楽しくなかった事だ。
組み立てている最中は完成させて浮かべるのをわくわくしていたのに、母に「どうしたの?」と聞かれてから、楽しかった気分は完全にどこかに行ってしまった。
たぶん一度遊んだだけで押し入れにしまったように記憶している。
どうして楽しくなかったのか。
母に盗みがばれてるような気がしたのか、盗んだ事の罪悪感なのか、あるいはその両方なのか、残念ながら言語化されていない当時の気持ちを詳しく思い出す事は出来ないが、とにかく楽しくなかったのは覚えている。
子供騙しの言い訳で引き下がらずに、あそこで母はもっと厳しく追及しておくべきだったのだ。
その中で母親にばれたのは、駄菓子屋から盗んだカードの束、友達のお金、自転車の三回だった思う。あとボヤ騒ぎもあった。
自転車を盗んだのは高学年のときだが、その頃には「どうしてうちの親は怒らないんだろう」という疑問、というよりも強い不満が明確にあった。
漫画の中では悪い事をした子供は親に叱られているし、近所の子も親に叱られているし、自分もその近所の子と一緒に(その子の親に)叱られたことはあるが、自分の親に叱られるという事は全く無かった。
この頃から思春期を通して「普通の家庭」というものに強く憧れたし、自分の親の普通じゃない部分が全て憎く感じるようになった。
おそらく母にとっては、冒頭に書いたように叱らないことイコール愛情という認識なのだろうが、結果として自分はまともな大人にはなれなかった。
紆余曲折はあったが今現在30過ぎのニートだ(こうなったのは母のせいだと思ってる時点でクズですよね)。
叱らない事は簡単かもしれないが、叱らずに子供を正しく導くのには大変難しい技術がいるのだと思う。
「例えば万引で捕まったときには褒められない。そんなときにも怒鳴らず、魔法の言葉『どうしたの?』を優しく声掛けして」と秘けつを伝えた。
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/event_calture/44550.html
私だって『どうしたの?』くらいは言われた。でもそれは魔法の言葉なんかじゃない。
自転車を盗んだ時には「欲しかったから」と答えたので、すぐに新しい自転車を買ってもらえた。
悪い事をした時に普通に叱る場合と比較して、全く叱らない場合ではたぶん1000倍くらい難しい、ほとんど稀にしかマトモな大人に育たない、そういう認識でトライしなければ取り返しのつかない事になると自覚した上でやってもらいたい。