はてなキーワード: 一義的とは
行政法学において、許可、認可などは明確に別のものとして定義されてるけど、実際の法律では許可、認許、特許、免許、承認、認証などなどの語が出てきて、厳密に使い分けられてはいないから勘違いしちゃったのかな?
勘違いしてない。党派性もまったく入っていない。行政手続法の立法経緯の議論と極めて分断化された建付けをちゃんと確認していないのは皆さんの方でしょう。(あなたが一番知識がありそうなので、代表してあなたに回答しておきます)
処分とは、公権力の主体たる国・地方公共団体が行う行為のうち、その行為によって直接国民の権利義務を形成し、またはその範囲を確定することが法律上認められているものをいう。法令上、許可、認可、免許その他名称の如何を問わない実質概念である。
ただし、この先が細かい。今回の議論に関係しそうな部分だけ指摘すると、
要するに行政手続法は行政手続の一般法ではない。対象を極めて限定している。もっとも、一般原則としての適正手続の要請に配慮して、行政主体が自発的に審査基準(法5条)や標準処理期間(法6条)を事前に定めることが禁止されるわけではない。したがって、実務の運用で審査基準、標準処理期間を定めている例があるから、行政手続法の対象になるはずという逆推知は機能しない。(長野県のくだりに対する回答)
これらを踏まえて、宗教法人法について考える。申請はそれに続く認証に利益を付与する処分としての性格が認められなければ、行政手続法にいう「申請」には該当しない。そこで規則の認証の性格が問題となる。認証それ自体は、一定の行為や文書の成立・記載が正当な手続によってなされたこと(事実)を行政が確認する行為に過ぎない。直接国民の権利義務を形成し、またはその範囲を確定するわけではない。したがって、原則として処分には該当しない。
もっとも設立手続の認証(宗教法人法12条1項)は、法人として権利能力が認められるのに事実上必須の手続といえるから、直接権利を形成すると評価し得るかもしれない。一方、名称の変更の認証(宗教法人法26条1項)は、宗教法人の権利義務を直接形成するわけではない。また、いずれも処分性があると評価し得るとしても、申請に対する拒否処分に過ぎないと考えるなら、適用対象外とされる。
以上より、宗教法人の名称変更の認証が、行政手続法にいう処分に該当するとは考えにくい。もちろん終局的には裁判所の判断を仰がなければ、誰にも断定できないわけですが。(註2)
行政手続の透明性という利益だけに着目すれば、文化庁のやり方が好ましいものとはいえない。実際、1997年の時点で統一教会が不受理を違法として裁判を起こしていたら、(抗告訴訟か国賠訴訟かという問題もあるが)国の不受理は違法と判断された可能性もあると思う。そこを強調するのもひとつの「リーガルマインド」だろう。
しかし、悪徳商法まがいの献金集めで多数のトラブルを起こしている宗教法人が、その悪名を隠すために名称変更をしようとしている場合、国民をさらなる被害の拡大から守る必要性がある。名称変更申請の不受理が一義的に違法とまではいえず、他に阻止する手段が存在しない。このような必要性と許容性が認められる条件下で、統一教会の名称変更の利益と国民が霊感商法から守られる利益を比較衡量して考える。これだってひとつの「リーガルマインド」じゃないかな。
以上、細かい知識は大切だと思います。「リーガルマインド」などという薄いマジックワードに頼る論証では、学部の定期試験すら厳しいのではないだろうか。頑張ってね。
註1 適用除外の場合でも、行政運営における公正の確保と透明性の向上を図るため必要な措置を講ずる努力義務が規定されている(法46条)。しかし、法が適用除外とした趣旨から、法を下回るレベルの手続条例が定められても、当然に違法となるわけではない。その意味で手続法は、いわゆるナショナルミニマムを定めたものではない。(塩野宏)
註2 仮に違法と判断されるとしても、その根拠が、行政手続法、憲法、法の一般原理いずれに違反すると考えるかは論点となる。元官僚を名乗る元増田は、行政手続法違反と主張している。
こないだの人か。
https://anond.hatelabo.jp/20220702070421
もちろん正しさなんてものは、人間である以上は、一義的に決められないが、
今の日本は民主主義国家なので、「民主主義の視点からの正しさ」はあると思うよ。
「それに反発する人間の意見も封じ込めない」、ってのも民主主義だし。
「言い切る」ってことは独裁主義ってことになる。日本ではそんな状況ないと思うけど・・・?
2022-07-12
なんというか、具体例を挙げると
なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん
なにかふわふわした良く分からん文章や表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエムを蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん
こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが
もっと深刻なことでいうと
ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本の美術教育は実践的になっておらず無責任な大衆を大量生産しうんぬんかんぬん
不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境の頽廃うんぬんかんぬん
なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別、日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん
なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義は日本の悪癖で、ガンダムやひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん
みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。
言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。
相対主義を漫画やアニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。
でも実際、大勢の人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場にこいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間が再生産されている以上、
「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆の理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。
もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別の問題にあるにせよ。
東大や慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ(制作者自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、
この国が資本主義・自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見と理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?
相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。
「相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。
というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術の見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか?
ホリエモンの部下からマエザーンの部下になって両方をリスペクトしている田端信太郎さんの魂に祈りを捧げましょう
まず生命保険に入りましょう。そして洗面器を用意し水を張ります。水に顔をつけて10分もすれば!凄い時給でお金が貰えます!!
自殺だから一義的に自己責任なのは当たり前でしょうが。上司が屋上から物理的に突き落としたりしたのですか? そんなに追い込まれても、会社なんて辞めて生活保護受ければいいわけです。あなた達、弁護士は訴訟になったほうが儲かるけどね。
https://twitter.com/tabbata/status/1002900777000566784?s=21&t=nePAOjzOckx7WvA_PkrBkA
過労死には本人の責任もある。なぜならば物理的な拘束はなく、使用者側に殺意もないから。使用者の過失責任はあるかもしれないが、本人の責任もゼロではないというのが私の見解です。36協定もない一方的な残業強制が違法ということは同意OKですよね?だとしたら組合や従業員代表の責任もゼロではない。
https://twitter.com/tabbata/status/1293711567503032320?s=20&t=kLwl0eQFwYHKnKdqArQdSw
↓
でも今ごろ、上司の佐俣アンリ氏は頭を抱えておるはずw。いまさらクビにできないが、あんなメンヘラ社員のネガ発信は、VCにとしてマイナスでしかない・・・・。政治的な意見の問題でない。「いかなる反論もご遠慮ください」とかパブリックに書いちゃうのが、PRセンスなさすぎて、無能丸出しなのが問題
https://twitter.com/tabbata/status/1434113973679366144?s=20&t=KVhJSXG63563lnEsd0vgvQ
関連増田:田端信太郎氏の失敗で人生に悩んでしまった(anond:20210912095445)
関連増田:なぜ田端信太郎は情報商材をはじめたのか(anond:20211006214542)
このブログの事ね:
>https://amamako.hateblo.jp/entry/2022/04/14/064715
お前みたいな「男性差別は男性側に問題があるんだ!」的な事をいう奴が、
「そうだ、男性が悪い!」って賛同する馬鹿(ブコメに例が沢山)が男性を揶揄するから男性は黙らざるを得なくなるだろ。
第一、お前のいってんのは「差別の原因は差別される側にある」って言ったも同然だろ?
>男性の自殺率の高さは(中略)、一義的には「本人のこころの問題」です。誰かが明白に「おまえは自殺しろ」というわけでもない
ああ、直接は言わないな。「あの人、(男性のくせに)無職なんだって、ヒソヒソ」とか言って追い詰めるだけで。
お前がこの手の無自覚な差別主義者の一員だから、自殺の原因がわからないだけだろ。
それともこの手の事を言って男性を追い詰めるのは男性だけで、女性は言わないとでも思ってんの?
>このような議論を「『お気持ち』は議論に値するものではない」として揶揄してきたのは、他ならぬ男性自身
あー、やっぱり男性を追い詰めるのは男性だけだと思ってんのね。証拠は?
元の記事(http://s-scrap.com/7509)は男女両方がジェンダーロールを押し付けて男女両方が苦しんでるって趣旨だっただろ。
なのにお前は男性だけが男性にジェンダーロールを押し付けてると思うんだ。へー。
あと、まさにおまえが今現在進行系でやってるのが、「お気持ちを否定」だよな。
せっかく「男性から「ことば」を奪ってる」って声を上げてくれた人が出たのに、それを否定してんだから。
>僕も一応男性
ごめん。俺が悪かった。
確かに男性の「ことば」を奪ったのは男性(=このブログの著者)だったわ。
追記:
このブログの著者が言いたいのが「男性も言葉を持て」なのは分かってる。だがそれを「ことばを持てない原因が男性側にある」って言った瞬間に被害者叩き&さらにことばを奪う原因になるだろって話。
男女逆にして「女性差別は女性自身がことばを自己検閲するのが原因」って書いたら意図はどうあれ明確な差別発言だってわかるだろ?
追記2:
私がここまでハッキリ「苦しかろうが何だろうが男性の自己責任にされる差別が辛い、差別に声を上げても被害者叩きで自己責任扱いされて辛い、そのせいで男性自殺率が高くなるほど辛い」って趣旨の事書いてんのに「いいからさっさと男性の辛さを語れよ」って言ってるコメ何なの?
TPOで終わる話
こんなんTVで乳首がばんばん出てた頃にだってTPOとしてあり得なかったのに日経がやらかすんだもんな
というか東京オリンピックの時も思ったが特定階層・界隈にサイコパスが多過ぎて草が生えない
まず生命保険に入りましょう。そして洗面器を用意し水を張ります。水に顔をつけて10分もすれば!凄い時給でお金が貰えます!!
自殺だから一義的に自己責任なのは当たり前でしょうが。上司が屋上から物理的に突き落としたりしたのですか? そんなに追い込まれても、会社なんて辞めて生活保護受ければいいわけです。あなた達、弁護士は訴訟になったほうが儲かるけどね。
https://twitter.com/tabbata/status/1002900777000566784?s=21&t=nePAOjzOckx7WvA_PkrBkA
過労死には本人の責任もある。なぜならば物理的な拘束はなく、使用者側に殺意もないから。使用者の過失責任はあるかもしれないが、本人の責任もゼロではないというのが私の見解です。36協定もない一方的な残業強制が違法ということは同意OKですよね?だとしたら組合や従業員代表の責任もゼロではない。
田端信太郎氏は目立ってナンボ・炎上して上等ってスタンスで、障害者に対する差別発言で役員を解任されるまで野放しだったし、氏を問題視する企業もまさかのなかった
いくら飛ばし記事が多いとはいえ経済誌が田端信太郎氏のスタンスを真似るとか日本堕ちるところまで堕ちた感しかない
ちなみに会社四季報を発行する東洋経済は日経以下のPV稼ぎの低知能記事を発信してるので言うに及ばずです
ほんと日本ヤベーわ
昭和から平成の前半では、ポルノグラフィー・猥褻物への禁止圧力は主に保守系の政治運動と結びついてて、左翼側はそういう禁止圧力の緩和やポルノ開放みたいな要求だったけれど、今では政治的には左翼側の人間が、猥褻を理由とせずに「性差別を助長する表現」を理由として、萌え絵に代表される様な一部の表現の禁止を政治的に主張し、保守右翼側の人間が「性差別的」と決めつけられた表現を表現の自由を旗印にして守ろうとする、俺みたいな者の目から見ると「なんだか変な」時代になった。
日本の右翼保守(要するに自民党)は、本質的には民主主義ではなく「統治者にとって都合よく制度設計された、民主主義と称するもの」を追求しているが、それ故に正面切って表現の自由を否定することは出来ないので、刑罰を以て表現を禁じるやり方(猥褻図画や小説の取り締まり。チャタレー裁判とか、愛のコリーダとか)をなるべく露骨に使わずに、出版業界や映像業界に自主検閲組織を作らせて「自主的に検閲しているので、法的には何の表現規制も存在しない」状態を作り上げることで実質的な表現規制をする様になってる。なので、公共の利益、公序良俗の保護を理由に法的に制限できる猥褻ならともかく、表現の自由が一義的に示す表現である「思想的・政治的表現の規制」はさすがの日本国でも不可能になってる。(少なくとも現状はポルノほどあからさまな実質的表現規制の犠牲にはなっていない)
で、昭和の頃の左翼だと、こういった猥褻表現の禁止であっても、国家による国民活動への制限は最小限であるべきで、猥褻規制はその限度を超えている、みたいな話をするものだったのだけれど、今やその左翼、とりわけフェミニストの中で「猥褻だから」とは言わずに「性差別的であるから禁じられるべきで、規制は全く十分でない」という意見が主流を占める様になってきたのが2010年代じゃないかなと思う。
何を以て性差別的かという理由付けは色々見るのだけれど、メディア効果論(それも強力効果論)に基づいたものが多いと感じるが、(多くは女性である)自分にとって極めて不愉快であり加害的であって、公共の場での存在は許されない、ってものもかなり見かける。これ、伝統的な右翼によるポルノ撲滅運動の題目が「子供の教育に悪い」だの「破廉恥で見るに耐えない」だったのと、ほぼつながってないか?と思うのである。極右と極左は政治的主張は逆だが、粗暴さや残酷さ、頑なさや頭の悪さは同じに見えるのと似た感じだが、そう言ってしまうと純然たる悪口になるので止めておく。
左翼側・フェミニズム側の表現規制主義者(本人たちが自分をそう認めることは絶対に無いが、それは右翼側でも同じこと)も、自民党と同じ様に自らが表現規制者と呼ばれる事を非常に嫌う。そうした中で憲法の示す建前を崩さずに「実質的な表現規制」を行おうとするなら、自民党政府のもとで成功してきた、自主検閲組織を業界に作らせて『自主的な規制を権力側から強いる』事で実質的な表現規制を行うやりかたがやはり踏襲される。
特にフェミニストとされる人達が特定の表現(宇崎ちゃんとか)を特定の場所(日赤)で禁じようとする時には、これが権力による直接的な規制ではなく、在野の民間人による公的機関や企業に対する言論圧力によって当該機関や企業の「自己規制を促した」のだから、これは絶対に表現規制じゃない、って言い方だった。彼らの言う通り、確かに憲法上の建前は守られた上で(彼らにとって存在の許し難い)不快な性差別的表現を「実質的に刈り取る」ことに成功していて、最初にこの自粛要請という「単純だが案外に強力な仕組み」を考えた政府役人や自民党の政治家達、そのアイデアをそのまま利用したフェミニストは賢いなと思う。
左右の違いが全然ないかと言うと、それはそうでも無い様で、大昔の矯風会の様な保守的アンチポルノ団体はあらゆる猥褻表現をあらゆる流通ルートにおいて消滅させようとしている感じなんだが、今の左翼・フェミニズム的な「反性差別表現」をやっている人達は、流石に左翼であるだけあって「ポルノであるならこの世に存在を許さない」などということは主張しない。存在が許されない表現はある程度は絞り込まれていて、大体それが「男オタク好みの性的な表現物」に被さっているし、流通に関しても「表通りに出てこなければ許す」という感じである。 ポルノショップで無修正ポルノが販売されることまで禁じろという主張はしてない。(コンビニ、一般書店で水着グラビアの雑誌販売を禁じろは言ってるのがいるが)
良く知らない世界なのだが、腐女子の世界における「学級会文化」というものがあり、世間に対して目立たぬように「厳しく自粛」(恐らく自己認識としては自粛ではなく相互批判によるコミュニティの自浄作用だろう)する傾向があって、それは同性愛を正面から扱う表現であるために『世間の目を憚る代物』である自覚があり、それ故に何かと謂われなく侮辱されたり非難されたりする『腐女子の表現の世界』を守ろうって云う同調圧力が(人・場所によっては)やたらに強い、って話を聞く。
そういう文化があるためなのか、同様な「当然の自粛」が男オタクの表現物でも行われるべきで、それが全く行われずに結果として表通りの世間に流出し、そこで調子良くのさばるべきではない、って理念が、腐女子でもある一部のフェミニスト(一部じゃなくてマジョリティなのかもしれないが)には潜在的にあるのではないかと考えているが、ちょっと確認が難しい。
この「表現自粛」に対する積極的な考え方は男オタクの世界にはあまりなさそうなもので、この部分では政治的には極右のオタクでも昭和左翼的な「政府による自由の規制は最小限であるべき」って建前を大事にしてたりするし、左翼のオタクならもちろんそう考えるはずなのであるがそうなっていない。これは恐らく今の左翼・フェミニスト達による「最小限の規制対象」の裁定基準が「表現の自由戦士」と悪意と侮辱を込めて呼ばれる人達にとっては理不尽に厳格であるってことなんじゃないかと思う。かくいう俺もフェミニスト達、とりわけネトフェミと悪罵される人達の基準はちょっと、いや全く受け入れられない。
昭和左翼は自民党政府による「公序良俗=保守的性道徳観」の保護に反対した訳だが、基本的に右翼である「表現の自由戦士」はフェミニズム側からの「公序良俗=反女性差別的性道徳観」の保護に反対している訳で、その意味では政治的立場と主張の食い違いは無いとも言える。
どちらにせよ、憲法の建前からして最優先で守られている政治的表現と違い、その殆どがエンタメである文学や映画マンガアニメといった表現は、我国が戦前も戦後も内務省=警察権力が強い強権的国家であったこともあり、公序良俗の保護を理由・目的として簡単に規制を受けがちであることは戦後の歴史が証明してる。
それを守りたいと思うのであれば自分が右翼であれ左翼であれ、機会を捉えて発言して意見し議論することはどんなに嫌でも避けられないのであろう。 ああ嫌だねえ……
具体名挙げてしまって著者には申し訳ないのだが「未来からのホットライン」の核融合炉の施設内部の描写がてんで理解できない。説明が緻密なのがむしろネックになってる感じで、キャットウォークとかトンネルとか配線とかの位置関係が三次元的に脳内に構成されていかないんだよ。本当に上下左右という程度の確度でしか把握できない。
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
小説は漫画とかと違ってイメージが押し付けられないのがいいという意見を聞くことがある。個人的にはこれはイメージという単語の前に「自分が気に食わない(特に人物の容姿)」という文言が省略されているように思える。
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
想像することって、はっきりいえば単に手間でしょ。小説は想像することを楽しむものって手段と目的が逆転してる感じで、本来は「筋書きを楽しむもの」だと思う。筋書きさえ面白ければ、そして挿絵とかが適切なら、想像しなくて済むのならそれに越したことはない。
くだんの小説も建物の「構造」について図があるからといってイメージを押し付けられたと感じる人は例外的だと思うから、文章で全て言い尽くそうとしないで見取り図ぐらい添付してもよかったと思うんだよね。
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
私と同じ考え方っぽい人を二つ挙げとく
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
https://modernclothes24music.hatenablog.com/entry/2014/02/21/090746exit
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1514063554/exit
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
そしてどうしてもこれだけは抜粋しときたい(5chのレスから)
文章だけで考えてると「この馬はどこから走って来てどこに行ったの?
なんでそんなとこから馬が走ってくるの?」
みたいな変な部分が必ず出てくる
読む側からしてもまさしくそういう感じで、結論としては始点と終点が一致したループだと言っていても、今までも風景の説明から本当にそのことが導けるのだろうかという感覚になることがある。
各部分の描写から全体を統合できない感じで、整合性を認められないことがある。
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
前記の小説の施設を見学するシーンでも各区画を主人公たちの足取りに沿って説明していってるのだが、いつのまにか前いたところが主人公達の頭上にあることになっている。
確かにエレベーターで地下に降りる描写はあったけど、上下の関係で足取りが立体交差できるような文章だったか。
区画という各部分の風景だけは十二分に頭に浮かび上がってくるんだけれど、ジグゾーパズルでいうならそれはピースの凹部や凸部があやふやになっている状態にたとえられる。
なのでそのパズルを組み合わせる=建物全体の構造を把握することもできないとなる。これが読後感にもやもやを生む。
そもそも自然言語というものはねじれの位置とか含めた抽象的な位相関係を表現するのに不向きなのかもしれない。
そうでないにしてもせめてPISAとかは単純な論理パズルで読解力を測るんじゃなくて風景の説明文に対して、少なくともこれは与えられている文に矛盾しないという図を選択させる問題も導入してほしい。
ネックが読者側にあるかもしれないかもしれないのにその問題が十分には剔出すらされていないように思われるから。
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
「船べりに足をぶらぶらさせていた」文学事典に載ってるような作家の手になる表現だ。しかし「船べりに」とは一体どういう状況なのか。
「船べりで~」であれば人がデッキの手すりでも背にして寄りかかって片足をぶらつかせる風景が想定される。
この話は作家自身の航海記であって大西洋を横断できるような鉄の船の話だから「船べりに」何かをするにはへりは高すぎると思われる。和船の小舟のように足をへりに置けるような状況じゃない。
たとえれば無理に腰よりも高い塀の上に片方の足を足の裏を外側に向けて乗せるイメージでただでさえ不安定な姿勢だから、せいぜいへりをかかとで擦るようなことはできても、重力に逆らってぶらつかせるとは描写として不自然と言わざるをえない。
思い込みで文章を書くとそういうことになると聞いたことがあるから、ちゃんと正確に書いてほしい。
正確に書けば書くほど想像の余地が少なくなるから小説としてつまらなくなる、というものではない。
想像する楽しみと小説の楽しみ方としては二次的なものだとは前にも書いた。限定的で端的な例だが、泥のように眠るという慣用句を小石のように眠るとアレンジすることで生まれるような詩的な妙味を味わうことも小説の楽しみ方の一つだ。
酒などを希釈しないで飲むことを生一本といっても、水で薄めずにといっても、神の創りたもうたままにといっても、どれも全く「希釈しない」という全く同一の事態を指しているうえでにその同一性こそがその描写が正確であることを示す必要条件でもあるわけだが、こうした同義のフレーズが畳みかけられている箇所にも、同じ事態の概念への落とし込み方の多様さに面白みが認められるだろう。
俳句は小説じゃないけれど、あれなどは兼題写真があるのが普通だ。写真というこれ以上なく正確な像を前提としているからといって、そこから派生される俳句の数々に「想像の余地がないからつまらない」と批判する人間がいるだろうか。
むしろ想像の喚起を重視する人のブログとか見ると「容姿の描写ほとんどされてないのを逆手にとってわざと金髪美少女のイメージで読んだ」とか言ってるような人もいて、想像するのを楽しむというやり方は小説をカップ麺の重しにするのと同じぐらいひねくれた本の使用法なのではないかとさえ思えてくるわけだ。筋書きを楽しむ、表現そのものを味わうというのが文句なく一義的な意義であるとすればなおさらだ。
ㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
必要だと思ったとこだけ読み込んで不必要だと思ったところは読み飛ばせばいい、授業だって教師の言うこと全部覚えてない、それと同じだというような人もある。
しかし授業内容と違って小説は内容を問い合わせることができない点で致命的に異なる。
不十分だと思って読み込もうとした箇所も独力では一生かかっても理解できないかもしれない。
作者は思い描いた風景を必死に文に落とし込もうとしたかもしれない。作者は情景を読者と共有したがってる。なのに十分に伝わらない。こんな悲惨なことがあっていいのだろうか。
小説には攻略本もITの専門書にありがちなサポートダイヤルもないんだ。
二重回しとか大島紬みたいな名詞の指すものが単に想像できないとかだったら画像検索すれば済むことだけど、実際に読んでてつまづくことが多いのは文や文章という総体がどういう具象や抽象を指し示しているかとことで、でもこうなったときには打つ手がない。
人工知能は与えられた文章をイメージに接地させずに意味を理解できるが、人間としてはイメージに還元できないことには文章を味わうことはできない。
もちろん読者側の能力の問題かもしれないからそこは見極めなければならない。
先述のようなPISAなどの結果によりそういう能力が不十分と分かれば、出版業界に小説には抽象的な構造に関して図解を挿入するよう働きかけるか、さもなくば教育を刷新するか、そういう判断の指針が得られる。
教育を刷新するというのは単に文章を多読すれば読解力を身に着けさせられるはずだという今の態度が不十分という意味で、一つ文を読ませたらその文が一般的に指し示すことになる図を提示するといった訓練を導入するべきだと思うということ。
単文が示す風景(あえて情景とはいわないでおく)すらもまともにイメージできないようでは複文や文章の指し示す風景もまたイメージできるはずがない。
基礎(単文)を固めることでしか応用(文章)を扱えるようにはならないということではむしろ数学と同じだ。そういう心持で読解の養成には取り組むべきだ。
たとえば百聞は一見に如かずといっても社会生活のうえでいつも文章が指し示す現物を持ってこさせられるとは限らないから、文章をイメージに還元する力は実務的な能力でもあるわけさ。
日本語というか言語全般の話になってるかもしれないけど何で学校の先生は「本の解釈には正解がない」みたいに教えるんだろうか。問題として出してるとき正誤を出すことに対しては苦しい理由をつけるくせに、自分で読むときは自由に読みなさいとか言っちゃう。
だったら全ての場面において「文章には一定の解釈がある」と教える方がまだ筋が通ってるし合理的だと思うんだよね。
現状の教育だから、一部の人間は話し言葉もまた文章を読み上げたようなものに過ぎないから解釈には答えがないんだとか思い込んじゃって、あらゆる会話は自分に都合のいいように受け取ってしまう無敵くんになったりする。
対話を求めてどんなに問い返しても論破を志向した天邪鬼な解釈で逆ねじを食わせるばかりの人間になってしまう。また、マスクをつける意義を唱えられたら「こいつらは自分達の利権のために真実とは正反対のことを言ってる」などと妄想するような陰謀論者になったりする人が出てきちゃうんだよ。
確かに言葉の解釈が一つに定まらない状況もあるが、それだってまずセンテンスとして一義的に定まる部分があって、そこから枝分かれするように生じるようなものだ。
文学とかでよく言外の意味とか言われるようなものもあくまで本義に照らされた影の、蜃気楼にも似た不明瞭な「ふち」ようなものであって、その本義を担っている話されたり書かれたりした言葉そのものの真実性を疑ったり無秩序な解釈したりするようでは、影の見え方そのものが変わってしまう。
そもそも言語は意思伝達のためにあるのだから、あらゆる場面で無秩序の解釈をしてよいというなら何のために言語は存在するのか。
自然科学の学術書も、地の文は自然言語で構成されているからといって自由に解釈してよいという態度で読まれては用をなさなくなるのは言うまでもないし、そういう人間は何を読んでも、つまりどんな情報を与えられてもそれとは全く無関係に思考を走らせるだけなのだから小説を与えられる価値もない。材料があってもなくても同じように思考するのだから、一人で死ぬまで妄想してればいいだけだ。
なんでも自由に解釈していいと教えるのではなくて、そうでない場面もあるからそれを見極めよという、読み方の切り替えの重要さこそを教えるべき。
リベラルな非モテ論に共感できない理由 ―絶対的恋愛不可能性と無限に開かれた恋愛可能性の相克― - あなたとあなたの話がしたい https://bit.ly/3itLVHd
この記事、冒頭で「この記事では「非モテ」と言ったときに「交際経験が一度もないが潜在的に恋愛を経験したい欲望のあるヘテロ男性」を主な対象として想定している」と書いてあって、非モテ男性の問題について考察する文章ですよとはっきり断っているのに、トップブコメが
論考の対象でないものが含まれていないのは当たり前の事だわな。
非モテに関しては女性の非モテも大勢居るし、男女同じメカニズムでそれが生じているのだから、女性の非モテに関しても同時に論考しないと結論が得られないという主張であるなら、そういう論旨の文章を引用するなり自分で書くなりすべきだろう。
フェミニズムが基本的には抑圧された女性の開放を目的とし、女性とは別の枠組みで抑圧されている男性の問題についてまで「一義的に関わり合う」必要がないのと一緒だ。
もちろん男性の抑圧をも同時に考察することで、女性の開放の一層の展開や、男女を問わない抑圧された人間の問題を解決するという視点はありうるし有意義だと思うが、それを主張するのがミソジニストなら嗤わないのが無理というものだ。
未だに絵文字のことを顔文字と言ったり、顔文字のことを絵文字と言ったりする人。
😷:絵文字
(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`):顔文字
似たようなものに似たような名前がついていて紛らわしいのは分かるんだけど、間違えたら相手にはそう伝わってしまうよね。
絵文字だと言われたら絵文字のことだと思っちゃうよ。顔文字って言われたら顔文字だと思うし。
何でそれぞれに名前が付いているかと言えば、やはり区別するためなんだよね。
絵文字も顔文字も聞いたことあるんだろうから、区別をちゃんとして欲しかった。
確認不足はこちらの落ち度と言うこともできるかもしれないけど、やはり一義的にはあなたが間違いを犯さないように努めるべきだと主張させてもらう。
これは決して細かい話ではない。大事なことだ。違うものを区別する精神を持ってほしいという意味で。
ふざけるなよ。
https://anond.hatelabo.jp/20200322025040
They walked along by the old canal
A little confused, I remember well
And stopped into a strange hotel
( ・3・) ふたりは古い運河に沿って歩いた。少しまごついていたのをわたしはよく覚えている。そしてふたりはネオンの輝く奇妙なホテルに入った。
――「奇妙なホテル」とは?
( ・3・) ホールにフランク・ザッパの蝋人形でも飾ってあったんじゃないか? ああ、この strange というのは unfamiliar ということだな。――ネオンの輝く見知らぬホテルに入った。彼は夜の熱気に打たれるのを感じた。まるで運命のひとひねりと共に走る貨物列車がぶつかってきたようだった。
( ・3・) 夕暮れの公園にいたふたりが歩きだす。ネオンが光っているから、あたりはもうすっかり暗くなったんだろうな。「わたし」の記憶によると、少しまごついていたようだが……。
――「わたし」が出てきましたね。
( ・3・) ふたりの背後に忍びよる謎の人物……。落ち着かない心の内までお見通しとは、たいした観察力だ。
――……。
( ・3・) いや、分かってるよ。賢明なる読者諸氏ならば、「わたし」の正体は説明せずともお分かりになるはずだ、ってことだろ? 分からないとおかしい。ナボコフの『 』を読んで、「 」と「 」とが同一人物だと気づかないようなものだ。
――『 』は読んでいないのですが……。
( ・3・) だから少しは本を読めって。ただしまともな本だぞ。『死にたくなければラ・モンテ・ヤングを聴きなさい』みたいなのは読書にカウントされないからな。
――話を元に戻しましょう。
( ・3・) 三人称の物語だったはずなのに、一人称の「わたし」がぱっと現れて、さっと消える。聴き手は混乱するんだけど、何事もなかったかのように、彼と彼女との物語が続いていく。
――はい。人称の問題は後で見直すとして、脚韻についてはどうでしょう。
( ・3・) 1行目と2行目、canal と well は母音が合っていないんじゃないか?
――子音しか合っていません。脚韻は、強勢の置かれた母音以降の音が一致しないといけないので、この箇所は韻を外していることになります。そのうえ、1行目と2行目とでは旋律も違います。
( ・3・) 違ったっけ。
――違うんです。第一スタンザでは、1行目・2行目・3行目はきれいに韻を踏んで、旋律も同じかたちでした。ところが、第二スタンザでは、1行目・2行目で母音が揃わず、canal は上昇する旋律、well は下降する旋律です。というか、"I remember well" のところは、はっきりした音程がありません。そこだけ語りのようになっています。
( ・3・) 例の「わたし」が出てくるところだな。ひょっとしたら、わざと韻を外して、旋律も外して、「わたし」に対する違和感を際立たせようとしているんじゃないか?
――わざとかどうかは分かりませんが、定型から逸脱することで、聴き手の注意を喚起する効果はあると思います。
( ・3・) となると、韻を踏まないことにも意味がありうるわけだ――あれ、6行目と7行目、train と fate も韻を踏んでいないぞ。
――6行目は train ではなく freight train の freight が脚韻にあたります。
( ・3・) まず列車の概念があって、それからより具体的には貨物列車、という思考の流れではないんだな。まずフェイトという音の響きがあって、その響きが無意識の言葉の渦からフレイトをひっぱり出してくる。それから列車の概念がフレイトにくっついてやってくる。意味が音を追いかけているみたいで面白いな。
A saxophone someplace far off played
As she was walkin’ by the arcade
As the light bust through a beat-up shade
( ・3・) どこか遠くでサックスを吹いている人がいた。――これは順番をひっくり返さないとうまくいかないな。――彼女がアーケイドを歩いていると、どこか遠くからサックスが聞こえてきた。くたびれた日よけから光が差し込み、彼は目を覚ました。
――まだ覚ましてはいません。
( ・3・) ――彼は目を覚ましつつあった。彼女は門のところで盲人のカップにコインを入れた。そして運命のひとひねりのことは忘れてしまった。
( ・3・) 夜から朝になった。どこか遠くでサックスを吹いている人がいる。時を同じくして、彼女はどこかへ歩いていく。そしてまた時を同じくして、夢うつつで横になった彼の部屋に光が差す。一行ごとに場面が切り替わって、映画みたいだ。
( ・3・) どこかへ歩いていく彼女は、そのまま消えてしまう。盲人のカップにコインを入れる、というのが何か象徴的な行為なんだな、きっと。運命、盲人、テイレシアス、と連想が働くせいでそう感じるのかもしれないが。
――何を象徴しているんですか?
( ・3・) 何かをだよ。メルヴィルの白鯨は何を象徴しているんだ?
――何かをですね。
( ・3・) そう。ある行為や対象が何を意味するのか一義的に定まらないとき、その行為や対象は象徴性を帯びるんだ。ひとつ賢くなったな。
――とはいえ、門のところの盲人は運命を告げるわけではなく――
( ・3・) それどころか、彼女は運命のひとひねりなんて気にしてないんだな、ちっとも。
――強い。
( ・3・) 強い。運命に抗う者は悲劇的な最期を遂げるが、運命に関わらない者はいつまでも幸せに暮らすんだ。――じゃあ、ありがたい教訓も得られたことだし、次に進もうか。
――その前にひとつだけ。わたしが面白いと思うのは、彼女が去っていくのを誰も見ていない点なんです。まず、どこか遠くのサックス奏者は物語に関与しない。
( ・3・) 音だけの出演。
――部屋では彼はまだ寝ている。そして門のところの盲人には――
( ・3・) 彼女は見えない。なるほど、興味深い指摘だ。きみ、名前は?
――……。
( ・3・) 名前は?
( ・3・) アルトゥーロ、ありがとう。そんなところにも彼女の強さというか、優位性が表れているのかもしれないな。
He woke up, the room was bare
He told himself he didn’t care
Felt an emptiness inside
To which he just could not relate
――ハーモニカの間奏を挟んで、ここからは後半です。彼と彼女とがいっしょにいる、あるいは少なくとも近くにいるのが前半でしたが、ディラン先生のハーモニカを聴いている間に、彼女のいた世界は彼女のいなくなった世界に変わってしまいました。――では、どうぞ。
( ・3・) 彼が目を覚ますと、部屋は熊だった。
――クマ。
( ・3・) 「かすみの間」「うぐいすの間」みたいに、「グリズリーの間」だったんだよ。泊まった部屋の名前が。
――真面目にやりましょう。
( ・3・) 彼が目を覚ますと、部屋は空っぽだった。彼女はどこにもいなかった。どうってことはないと自分に言い聞かせ、彼は窓を大きく押し開いた。心の内に虚しさを――
――虚しさを?
( ・3・) 虚しさを感じた。で、その虚しさというのは、彼がどうしてもリレイトできない――
――He just could not relate to an emptiness inside ということです。
( ・3・) どうしても関わることのできない虚しさ?
( ・3・) おまえが引きたいというのなら。
――ランダムハウスにちょうどいい例文が載っています。I can’t relate to the new music of Miles Davis. マイルス・デイヴィスの新しい音楽はわたしにはしっくりこない。――1972年に『オン・ザ・コーナー』を聴いた人はそう感じたかもしれません。そもそも1967年の『ソーサラー』からして、もう調性は不
( ・3・) 自分自身の虚しさとうまくつきあっていけない、と考えればいいのか。――どうしてもなじむことのできない虚しさを感じた。運命のひとひねりによってもたらされた虚しさを。
( ・3・) さっき "he was wakin' up" のところで「まだ目を覚ましてはいない」って添削が入ったのは、このスタンザの "He woke up" が念頭にあったからなんだな。
――そうです。ここではっきりと目を覚ます。
( ・3・) 彼女はいなくなっている。大丈夫だと自分に言い聞かせるってことは、大丈夫ではないわけだ。窓を開けたら心の内に虚しさを感じた、のくだりはなんだか分かる気がするな、感情の流れが。ぐっときたぜ。
――まず部屋が空っぽだという状況が語られる。でも本当に言わんとしているのは、彼の内面が空っぽになったことです。開いた窓のところに立って外と内とを画定することで、内面という言葉が自然に導かれています。
( ・3・) きみ、名前は?
He hears the ticking of the clocks
And walks along with a parrot that talks
Hunts her down by the waterfront docks
( ・3・) 時計がチクタクいうのが聞こえる。言葉を話すオウムを連れて歩く。水夫たちがやってくる港で彼女を捜す。また彼女が彼を見つけてくれるかもしれない。どれだけ待たなければならないのか。もう一度、運命のひとひねりが生じるのを。
( ・3・) 時計の音が聞こえてくるのにあわせて、時制が現在形になった。ここからは彼にとってまだ過去の出来事ではないんだな。
――彼女のいない現実が、一秒ごとに動かしがたいものになっていく。コンクリートが固まるみたいに。
( ・3・) 「言葉を話すオウムを連れて歩く」は何を意味するんだ? アメリカ文学で鳥がしゃべるといったら、ポウの「ザ・レイヴン」だな。死に別れた恋人と天国で再会できるだろうかと訊くと、鳥は「二度とない」と予言するんだ。
――このオウムは実在するんでしょうか? どこからともなく現れましたが。
( ・3・) そこを疑うの? 「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」「エヴィデンスは?」みたいなものじゃないか。
――いえ、そうではなく、おそらく肩の上、耳元でオウムが話しているわけですよね、彼女を捜して歩いている間ずっと。それは暗喩ではないかと思うのですが。
( ・3・) おじいさんは暗喩としての山へ暗喩としての柴刈りに行きました。
――「周囲の人たちの話が、オウムの言葉のように空疎に聞こえてしまう」を暗喩的に言い換えると「言葉を話すオウムを連れて歩く」になりませんか?
( ・3・) 心ここにあらずだから、「よう、調子はどうだい?」と声をかけられても、「ヨウ、チョウシハドウダイ」と聞こえるわけか。まあ、そうかもしれないな。
To know and feel too much within
( ・3・) 内面を知りすぎてはいけない、感じすぎてはいけないと人は言う。わたしは今でも信じている。彼女はわたしの双子だったと。しかしわたしは指輪をなくしてしまった。彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた。運命のひとひねりのせいで。
( ・3・) 「わたし」が出てきたな。二番目のスタンザでは存在をちらっと匂わせる程度だったが、ようやく正体を現した。
( ・3・) そう。三人称・過去のかたちで物語が始まり、彼女がいなくなって時計の秒針が意識に上ったときから三人称・現在になる。そして今、一人称・現在で「わたし」=「彼」が胸の内を明かしている。
――すべて過去形で書くこともできたし、すべて三人称、あるいは一人称で書くこともできたと思うんですが、どうしてそうしなかったんでしょう?
( ・3・) なんだか「学習の手引き」みたいになってきたな。時制が変わるのは、彼女の不在が彼にとって現在の出来事でありつづけているから。人称が変わるのは――そうだな、最後のスタンザの心情は、客観的に、距離をおいて語れないんじゃないか。まだ傷が生々しくて。
――第四スタンザの「部屋は空っぽだった」から「窓を大きく押し開いた」のあたりはハードボイルドの流儀で、あまり感傷的にはなるまいという抑制が働いているんですが、最後のスタンザになると――
( ・3・) 抑制が外れて、ついでに三人称の仮面も外れる。他人の物語であるかのように体裁を保っていたのが、保てなくなる。こういう効果を生むためには、人称の変化が必要だったんだな。
結論をまずかくと狐の人は文章をろくに理解できてないし、論証は雑でおよそまともに評価できる点が一つもありません。私が「小宮友根の文章を読んで反論せよ」という問題を出した大学教員なら、理解力も論証も雑すぎて、さらに知ってる知識を喋りたいのか余事記載とでも言う部分もあり不可としたいが、お情けでゴミだけど長い文章を書くことはできてるので可にしようか迷う感じですね。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20191212/1576136093
まず、初手のビキニアーマーに関して。
普通「私は第二次世界大戦の軍用機といえばゼロ戦くらいしかしらない」と言ってる人が第二次世界大戦の軍用機(日本のみならず各国の)について何か発言していたら、無知な人が抱くイメージの1サンプルにはなっても、その妥当性に関しては「全く耳を貸す必要がない」と判断します。
https://anond.hatelabo.jp/20191222150200
実際ビキニアーマーは1つや2つでなくメインビジュアルで全面に押し出されることは少なくとも、確実にオタクカルチャーに根付いてます。
そして、提示されたイラストに「主人公の性別を選択してください」に引っ張られてか、オタクカルチャーが商業化して30有余年という時間的な長さ、さらにジャンルもアニメ、ゲーム、漫画、など多種多様なのにゲームの主人公選択の問題に矮小化しています。絵は読解できても文章は理解できてないのかもしれません。沖縄の貧困問題を議論してるのに日本の貧困率を出してきたり、「安室奈美恵は沖縄県民だけど超金持ちハイ論破!」とか言い出す人かもしれません。
だから、出てくるキャラクターの露出度の問題なのに、それにまったく答えきれていません。
さらにナーガ云々は意味不明です。フィクションの中のお話と現実が区別できてないと言わざるを得ません。
詳細はこちら↓
https://anond.hatelabo.jp/20191222154831
男女の露出度の差に関してはたとえば
http://www.jp.square-enix.com/DFF/character/
を見ると、あからさまに男性キャラより女性キャラの方が露出度が高いのが見て取れます。
まあ、職業だ、なんだと設定の違いとか言い出すかもしれませんが、たとえば0年前後に流行ったMMORPGだと職と性別だけで一義的にグラフィックがきまってました。
以下2つは韓国産ですが日本でも広く受け入れられたMMORPGです。
リネージュは君主、ナイト、ウィザード、エルフが皆女性キャラの方が露出度が高かったです。
職 | 露出度 |
---|---|
ノービス | - |
ソードマン | - |
ナイト | ○ |
クルセイダー | - |
マジシャン | ○ |
ウィザード | ○ |
セージ | ○ |
アーチャー | ○ |
ハンター | ○ |
吟踊 | ○ |
アコライト | - |
プリースト | - |
モンク | - |
シーフ | ○ |
アサシン | ○ |
ローグ | ○ |
マーチャント | - |
ブラックスミス | ○ |
アルケミスト | ○ |
女性キャラの方が露出度が高いのは「○」同等は「-」男性の方が高いのは「☓」のつもりでしたが男性の方が露出は高いのは一つもなかったです。
さらに言えば最近のキャラクターの外見をカスタマイズできるゲームだと女性キャラは男性キャラと比べ露出度が高い傾向がありますね。
ビキニアーマーの件も『アレサ』や『ラングリッサー』はそれこそ男性はフルアーマーなのに女性はビキニアーマーの良い例ですし、ゲームにおける露出度の差もオタクのくせに社会学者より詳しくないって驚きですね。
「このような顔を消されたキャラクターが描かれた事例が、この数年間の炎上であったことはない」
この文章は呆れますね。「炎上の背景にある性的客体化の表現技法」の話なのが理解できてません。
というか、これが反論になればそもそもビキニアーマーに関しても、炎上案件にビキニアーマーはなかったで反論は終わりです。
なんというか文章を理解できてないので、有効な反論ができていませんね。
この手法を多様する漫画家としては桂正和あたりが浮かびますし、ポル産アニメの「神田川JET GIRLS」では多用されてますし、そこまで露骨でなくとも、胸やお尻などをアップで写して主人公の視線がそこに集中している事を表現するのは漫画アニメで多用されていますね。
オタクなのにやっぱり社会学者よりオタクカルチャーに詳しく無いみたいで本当呆れますね。
繰り返します「炎上の背景にある性的客体化の表現技法」の話なので、その起源がオタクカルチャー外にあるかないかは問題ではなくて、オタクカルチャーにそういう表現があるかどうか?と言う話です。「定番」とか適当な言葉使って誤魔化してません?
それこそ「神田川JET GIRLS」にも出てきましたし、正直この人、本気でオタクカルチャーになど興味がないのではないかと不安になります。
人文科学なり社会科学を大学で学べば「である論」と「べき論」の違いは初歩的な段階で習うかと思います。もちろん、区別が難しい事例もありますが、この小宮友根の文章は「である論」なのに「べき論」だと解釈してる段階で、正直問題外なんですけど。
もう、いい加減、こういうまともな理解力も知識も論理的な思考もできない「オタク」代表の人は完全スルーするくらいがいいんじゃないかな?
煽りでも何でもないので教えて欲しい。
「反社会的勢力は時代とともに移り変わる」←これ正論じゃない?戦後間もない頃は今でいう反社会的勢力が闇市を立ち上げて、国民に物資が行き渡るようにしたわけでしょ?その時代は少なくとも反社会的勢力ではないわけだよね?
もっといえば江戸時代に「切り捨て御免」とかやってた物騒な連中だって、当時は反社会的勢力どころか士農工商でいえばハイエストソサエティに位置していたわけでしょ?
それを追認するだけの閣議決定がなぜここまで叩かれるのか、さっぱり意味不明。
それに、ウチの会社でも契約書に暴排条項を入れているけど、あれだって一義的に決めてしまうと、必ず抜け道をついてくる勢力がいるはず。そうすると、無理にフィックスするよりは、フレキシブルに運用するほうが良いともいえる。この意味でも、閣議決定は理にかなっている。
それがなぜ叩かれるのか。安倍憎しの感情論で突っ走っているだけのように思えて仕方がない。
反安倍は一度冷静になったほうが良い。
わかる範囲で。
はてなブックマーク民は、知らないことを知らないと言えない人間が多すぎ。
なお、筆者は機関投資家勤務、SBI証券に口座はあるけれど(機関投資家勤務なので)売買は出来ない立場。なので、個人のトレーディングには詳しくないところはある。
個人で利用できる株式の売買執行市場は、東京証券取引所と、他に私設取引所(PTS)。これらは個人も機関投資家も利用する。
他の売買方法としては、ToSTNeTの利用、証券会社との相対取引、証券会社等が提供するダークプール等もある。ほぼ機関投資家のみが利用するし、利用できる。
今回の減少は、SBI証券で、プリセットの設定のまま、成り行きで売買したときに起きる。
SBI証券で売買する個人は、株を発注するとき(便宜のため、売りオーダーにする。)、スマート・オーダー・ルート(SOR)をONにしたままにすると、東証か、PTSの中で一番良いプライスの市場で売買される。
そこに、従来は「Immediate or Cancel」条件で執行されていたので、発注数量のうち一部でも執行できれば執行して(partial fill)、残りはキャンセルする執行方法だった。
これが、「Time in Force」条件、つまり、一定時間は「成り行きのまま板に晒す」という方法に変えられたことと、加えてその残存時間があまりに短い(日経によれば何百ミリ秒)こと、これが問題となっている。
Time in Force条件そのものは一般的にも使われる取引で、まあ、ノンビリと成り行きで板に晒しておくという意味になる。
ただ、その残存時間がミリ秒の世界になると、実質的には機関投資家のうち高速取引業者(HFT)しか取ることのできないオーダーということになる。
A市場とB市場(例えば、東証とPTS)の値段の差をついて、A市場で安く売られている証券を買ってB市場で売ることそのものは、悪い行いではない。
これが流動性の提供につながるし(市場が繁盛する、という意味)、市場間の裁定取引が働くことで値段が収れんするから。
ただ、今回SBIがセットしてた設定は(SORで、TIF設定で、しかも非常に短時間のTIF)事実上、高速取引業者(HFT)のみがテイクできるさや抜きで、不公正という感じはする。
※なお、TIFの残る時間がもっと長い時間だったとしても、結果的にはHFTがオーダーを取るとは思う。結論はかわらないと思う。
SOR設定かつ短時間のTIF設定を、利用者にわかりにくい形でプリセットにしていた点は、道義的な非難は浴びると思うが、金融庁や監視委員会が処罰する法令上の理由までは無いと思う。
形式的な該当条文は無い。誠実公正義務くらいしかない(第三十六条 金融商品取引業者等並びにその役員及び使用人は、顧客に対して誠実かつ公正に、その業務を遂行しなければならない。)。
とはいえ、個人投資家も、オーダーの際の条件(SORなのか、TIFなのか、Fill or Kill(一部出来なら約定しない。)なのか etc.)、細かい取引条件は自ら確認する注意くらいは負わないといけないと思う。
一義的には、金融商品取引法で定め、開示が求められている裁量執行方針に反していないのか、という形式面になる。
https://search.sbisec.co.jp/v2/popwin/info/home/bm_171129_16.pdf
問題となる可能性があるのはSOR対象銘柄の選定のプロセスの妥当性があると思う。
SOR対象として、東証以外の市場(=PTS)に回していた銘柄が、本当にそれで良かったのか? 発注者の利益のみを考えた選定だったのか?(あるいは、PTSに参加するHFTに便宜を図ったりしていた形跡がないのか。)。こういう検査は、やった方がいいと思う。
あと、SOR時の利用条件変更の同意の取り方は、不誠実だったと思うので、行政指導がされる可能性はあるかも。
HFTに明らかに有利な執行体系を、特にSBIが使っているXマーケット(個人投資家とHFTが両方利用する市場)で残しておくのは、不誠実かと思う。
明確な法令違反事項ではないが。
海外では、HFTだけだオーダーを取れないように、スピード制限があったりするので、取り入れるべきだと思う。
・速いコンピュータを使っている。
・東証が提供する、東証の処理サーバーのラックの至近に、サーバーを設置する権利を借りて、東証の近くでオーダーを処理している。
たぶん、そう。 HFTが居ないと売買量が減り、個人を含めた参加者の売買がやりにくくなる。
例えばダークプール(証券会社内部で、証券会社が抱える顧客のオーダーを、内部でぶつけて、約定させる。)での取引情報を、一部のHFTが得ているのではないか?という噂は常にある。
ダークプール内での大口オーダーの流れ(例:売りが強い)を見て、つまり市場にオープンになっていない情報を見て、市場で有利執行をしているのではないか?という疑念はある。
「セクハラは笑って許すのがいい女」的風潮はクソだなと思うし、
世の中アップデートしていくべきだとも思うけど
最近の性表現にまつわる流れには釈然としないものがあるのでつらつら考えた。
なお公共の場に置く表現や少年マンガの表現はゾーニングや配慮が必要だと思うが、
R18指定の表現、同人表現、深夜番組なんかはそこまで厳しく基準を設ける必要はないと思うし、
某弁護士みたいにゾーニングされた場所から引っ張り出してくるのもマナー違反だと思っている。(後述)
とりあえずグラビア的表現とセクハラ表現は別々にかんがえるべきじゃないかなと思う
・グラビア的表現 「性的だ」と感じる我々の眼差しを故意に喚起しようとするような表現。宇崎ちゃんや秋葉原の広告はこっち。グラビアアイドルの水着写真もこっち。
・セクハラ表現 物語の中で登場人物にセクハラ行為を行わせる表現。漫画でのスカートめくり等はこっち。セクハラ=性加害行為。
(結論を先に言うならば、これらはどちらも性表現であり、適切にゾーニングされるべきものである。)
「少年誌のセクハラ表現は真似する奴が出て来るからそれ自体が問題だ」という主張がたまに見られるけれど、
物語の中でセクハラ行為がきちんと「許されない物として扱われている(報復が為される、周囲から非難される等)」場合、
子どもにとっては「セクハラ行為は駄目だぞ!」という教材になるのではないかとも思う。
なので今の段階ではセクハラ表現を無くすより、教材として活用していく道を模索する方が建設的かなと思うし、実際時代の変化と共にそうなってきているようにも思う(これはただの個人的なイメージ)。
その一方で加害者が報復や非難をきちんと受けていればセクハラ表現がOKなのかどうかはまだ考える必要があるよな~と思う。
(「漫画みたいにちゃんと報復すればいいのにw」というクソ意見の蔓延→報復できないタイプの現実の女性が泣きを見ることになるからだめかな~…。)
世の価値観がアップデートされていくにつれ(実際に存在するセクハラおじさんが淘汰されていくにつれ)少年誌からはなくなっていくべき表現なのかもしれない。
さっき『「性的だ」と感じる我々の眼差しを故意に喚起するような表現』と書いた。重要なのはこの故意性だと思う。
どういうことかというと
作者が、「鑑賞者に「エッチだ!」と喜んで貰おうと思って描いた表現」は、グラビア表現であり性表現ってことなんだよ。
宇崎ちゃんの作者さんだってエロ広告の絵師だって、大きなおっぱいをみんなに喜んで貰おうと思って描いてるはずで、その努力を無視して「性的じゃない!」と否定するのは逆に表現者に対して失礼だと思う。
宇崎ちゃんの作者はそういう意図で描いてないのでは?とか言い出すのもナシだと思う。一般女性より過度に不必要に大きく作為的に描かれたおっぱいに向かってそんな擁護し出すのは流石に欺瞞でしかない。
でも宇崎ちゃんの作者は作者で、献血ポスターの依頼が来たときに、「自分のイラストから一般人がどんな印象を受け取るのか」ということを想像できなかったのなら、創作者として致命的に想像力が欠けてるんじゃないのと思う。
うーん…それとも忙しくて編集者に丸投げだったのかなぁ。同人作家なら性表現の責任は基本的に同人作家本人が負うべきだけど、商業作家の場合、作家の性表現をどのように取り扱うかは編集者に責任があるかも。
(勿論作家本人の同意なく掲示されたような場合はその限りではない。その時は掲示した者が表現者として責任を負うべき。)
一方グラビア表現を見て性的だと感じる我々の「眼差し」について、私はこれを責めるべきとは思わない。
なぜなら我々には内心の自由があるためだ。
グラビア的表現が女性に対する実害に結びつくのは実際のセクハラ行為の道具として用いられた時(絵を指して「この子おっぱい大きいね~」と女性に向かって言う、など)であって、鑑賞者が内心で何かよからぬ事を考えた時ではないんだよね。
内心でどう思ってようがそれを人目のある所で表明しないし危害を加えないようにするのがまともな大人というものだと思う。
裏を返せばセクハラしてきたおじさんに対し「コイツマジ気持ち悪いな死ねばいいのに」と思うのも思うだけなら自由。
ちょっと良いなと思っていた先輩の家の本棚に宇崎ちゃんの漫画を見つけて「うわー…こういうのが好きなんだ…」と思うのも自由。
たまたま本屋で見掛けた知り合いがジャンプを買ってるのを見て「うわ…」と思うのも自由だ。
特にオタクは他人からどう思われても構わない人達なので女性に内心でこう思われたとしても全然気にしないだろうな。
でもそれでいいよね。
オタクはそのまま自分らしく生きればいいし、女性側は逆に近寄るべきでない人を見分ける目印として活用すべきだ。それがお互いのためなんだきっと。
なお今週のジャンプ(居間に放置されていたもの)に限って言えば、性的な表現としていくつか見られたのはこちらのグラビア的表現だった。(下着姿、湯気で局部の隠れた裸、女性同士のベッドシーン未遂)
「2次元女性の綺麗に完璧に鑑賞用として整えられた裸体に慣れ親しんでしまうと現実の女性に勃起できなくなる可能性があるので少年誌に2次元のグラビア表現を載せるのは教育的に問題だ」みたいな意見も、わからなくはないんだけど、実際にそういうデータがあるか私は知らないので、なんとも言えないなぁと思う。
これは「(2次元に限らずあらゆる物語に登場する)イケメンの性格の完璧さに慣れ親しんでしまうと現実の男性を愛せなくなる」という意見と大差ないと思うし、データが無いならどちらも邪推でしかないと思う。
ただデータがあってもこういうのは自己申告でしかない以上正確性に疑問がのこるし、心配な親御さんだけ気を付けてあげれば良いのではという感じかな。親御さんが気を付けても友達ネットワークから回ってくる場合もあるのでもうそこは運だろうなぁ。
私の中で結論は出た。
セクハラ表現もグラビア的表現も、どちらも性表現であり、適切にゾーニングされるべきものである。
だが、この世から消し去るべきとまでは思わない。
例えばそれはチョコレートやコーヒー、煙草、精神安定剤のように。
ただ性表現を楽しみたいならゾーニングされた場所でやるべきだよ。これは2次元エロに限った話ではない。
やめた方がいい。本当に。
オタクの中には「ゾーニングしてたのに引っ張り出されたんじゃ意味ないじゃん=ゾーニング無意味じゃん=公共の場にエロ持ち出してもいいってことじゃん」と考える人達が出て来ている。
グラビア的表現について故意性を強調したのにはもう一つ意味があるんだった。
現実に居る胸の大きい女性、ミニスカートを履いた女性、制服を着た女子高生は、
例え男性の目から性的に見えたとしても、“「性的だ」と感じる我々の眼差しを故意に喚起しようとしている”わけではないということ。
それはただ持って生まれた体型であり、ただのファッションであり、学校に指定されてるから仕方なく着ているものなのだ。
そういう眼差しを故意に喚起しようとしてファッションを選ぶ場合も、ないわけではないけれど、恋人のためやお金を払ってくれる客のためであって、少なくとも見知らぬ人間のためではない。
それだけははっきり書いておきたいと思う。
「局部が見えているかどうか」みたいな分かりやすい指標は別として、昨今の性表現について“「客観的に性的に見えるかどうか」でゾーニングしようとする試み”には限界があるんじゃないだろうか。
ツイッターの有志が取った統計によるとオタクと20代一般男性でさえ宇崎ちゃんポスターに対する感じ方は違ってたらしいじゃあないか。
表現を観賞側がどう捉えるか、解釈するかなんて一義的なものになどなり得ないんだから、新たに客観的な基準を設けても新たないちゃもんを付け始める奴が表れて堂々巡りになるだけだと思う。
だから上に書いたような表現者自身の主観に基づいた基準で、まず表現者が自主的にゾーニングするべきなんじゃないの?と私は思うのだ。(勿論その「主観」に欺瞞がある場合はその都度批判されるべきだけどね)
これは表現者にとっても決して悪い話じゃないと思うんだけどな。
宇崎ちゃんポスターなんて、表現者が不特定多数から「エッチだ!」と思って貰いたくて描いてるのが明らかなのに、性的じゃないと言い張る嘘が嗅ぎつけられるから批判も沢山寄せられるのであって、
そもそも表現者が自主規制してれば文句つけられることも減るだろうし、令和の一般人ならオタクの味方をすると思う。そうなったら私もオタクの味方するんだけどなぁ。
それにしてもツイフェミ寄りでもオタク寄りでもない意見は全然歯牙にもかけられないんだなぁ…って軽く絶望感を感じるね。
反論もほとんど来ないから自分の論のどこが悪いのか自覚することさえできなくて悲しいよ。
私は結構本気でここが着地点だと思うんだけどなぁ…
子ども子育て支援法では、特定保育・教育施設として、認可保育所、地域型保育事業(小規模・家庭的・事業所内)、認定こども園、幼稚園(給付型)などがある。
運営事業者は、株式会社、社会福祉法人、NPO法人、個人(個人運営は、都市部だと、家庭的保育事業でもない限りないと思う)など様々だ。
また、運営している園の数もまちまちで、株式会社だから多くの園を運営しているというわけでもない。(割合としては多いけど)
子ども子育て支援法は、個人給付のため、園数が増えれば増えるほど収入が増える。
また、株式会社は人件費比率が低めな傾向があり、利益を上げる。
認可保育所ではこの利益を30%以上保持することは許されない。
(そもそも、そこまで余る設計にしていないし、余るなら職員の給与や施設充実などに充てろということ)
しかし、弾力運用という制度があり、自治体と協議することで、新設園の整備資金などに回すことが出来る。
(確か、地域型保育事業だと協議すらいらない。これが地域型保育事業の増えた理由ともいえる。)
その場合、多くの園を経営することで、規模のメリットを享受し、利益を上げ続けることが出来るという算段なのかもしれない。
そのため、現在、株式は有象無象の勢力がひしめき合って、新規開所を競っている。
【良いところ】
株式会社の園は、組織的経営をしていることが多く、園運営に対する費用対効果で効果の方が高ければ、費用徴収はするが、保護者へのサービスも結構してくれることがある。(例えばオムツの処理など)
そのため、保護者と園側のルールが明確で、延長保育料などの費用負担が明確なことが多い。
【悪いとこと】
・保育士不足になると一気に回らなくなる。
採算性の点から、各園の保育士の配置をギリギリにしている傾向がある。
保育所は子どもの大きさに合わせた狭い設備のなかで、大人が働いており人間関係によって、大量退職などが起きることがある。
そうなったときに、一時の赤字を被ってでも保育士を配置するということが出来ない法人が多い気がする。
たぶん、貯めた給付費を前述した新規園の整備費用に回していたり、事務費とか委託費とかいう名目で本部へ吸い上げているからだと思う。
拡大路線を取っている法人がほとんどのため、営業推進部隊はいるが、管理部門が脆弱だったり、前述の人材確保能力・資力がない本部のことがある。
特に子ども子育て支援新制度(H27)以降に、拡大しはじめた法人はその傾向がある気がする。
昭和時代から運営している事業者などは比較的、安定した経営基盤があり、また地元にも根ざした園が多い。
新しい法人も比較的しっかりしていることが多いが、余裕は無い場合がある。
東京近郊以外の法人(京阪神や九州・四国)、一部北関東の法人が都内近辺に進出しているイメージ。(社会福祉法人に限らないか。)
【良いところ】
・余裕のある考え方をしてる。
古くからある園では、運営が安定していることが多く、余裕を感じる。(特に単園または2~3園位を運営している法人)
【悪いところ】
・トップの考えが古かったり、組織として機能不全を起こしていることがある。(特に組織としてのコンプラ面)
福祉とはこういうものだという考えが強い園や、逆にビジネスライクを超えたルールへの厳格性を求めてしまうことがある。
その場合、雇われ園長や主任が問題であるならいいのだが、法人のトップや実務担当者がそういう考えだった場合に、修正することが難しい。(株式のように風評や採算などを超越することすらある)
複数の園を運営している場合、本部機能が脆弱なことがある。また、地方の法人は株式会社に比べてレスポンスが遅い気がする。
また、東京都近辺のニーズを把握しきれていないことがある。(例えば園のルール。株式だとそこは考慮してくる。)
ここで気を付けてほしいのは、株式だからダメ、社福だからダメということではないという点。
認可保育所と幼稚園が違うように、地域型保育や認定こども園も全く違うものであることを知ってほしい。
①幼稚園
一義的には教育施設のため、教育カリキュラムが充実しています。特に絵画や図工、音楽系は保育所などに比べると熟す回数の差だけの効果は期待できます。
一方でほとんどの幼稚園は私立のため、児童が付いていけなかったとしても、徹底的にフォローするということ点では認可保育所に譲る気がします。
これは先生のスキルというよりも、幼稚園はあくまで私立学校であり、出来なかったり、したくないのであれば、園に来なくてもいいですよというスタンスが見受けられるためです。
そのため、事前に保護者にも行事への協力や費用負担を求める園が、認可保育所に比べて多い傾向です。
なお、預かり保育を行っている園が多くありますが、夏休み期間中はやっていない園も多くあるので、働きながら幼稚園に通わたい場合は注意が必要です。
幼稚園と認可保育所のいいところどりのような位置づけですが、結構曲者です。
確かに教育をしつつ、保育も行うという高い理想があり、それを実践している園もあります。
気を付けなければいけないのは、認定こども園は昔は幼稚園だった園が多いということです。(認定こども園は民主党政権時代に高い理想と待機児童解消に生まれた制度です。)
①で書いた考えの法人が認定こども園になった場合、産休を取るときに、実質的な退園勧奨をしてトラブルになったりしています。
今は下の子が生まれて育休を取ったとしても、育休が終わったら復帰するんだから、上の子は育休中も継続して同じ園に通えるというのが現行制度です。
しかし、3歳児神話でもないのに、「一義的には子どもは親が見るべき」という考えのもと、トラブルになったりします。
…何考えているんだろうね、こういう法人。そんなことしても少子化が加速するだけで、最終的には園が運営できなくなるのに寄与するだけなのに。
(この考え、保育園の運営法人でも持っている人がいて、考えを変えるのは大変なことなんだなと思うことがあります。)
いわゆる保育園です。入所可能年齢が低く、預かる時間が長いこともあり、一義的には生活の場であり生活を覚え、人とのかかわりを経験していく場と考えられています。
そんなの当り前だろうという人がいるかもしれませんが、例えば育休明け1歳児で預けたとして、一日12時間くらいいたりするのです。
しかも、大人のように社会のルールや、人との会話・接し方、食事の仕方、靴の履き方…
(もちろん一日の食事のうち2回は家だからとか色々ありますが、働いている親が土日にしていることを毎日保育士がしているわけです。)
そのため、教育(幼稚園のところに書いた絵画や音楽とか)という点では、どうしても熟す回数に差があります。
近年はそこに力を入れる園も増えましたが、一日12時間いる中で、そういったことを行うには、子どもも慣れる時間や訓練が必要ですし、保育士側にも相当なスキルや経験が求められます。
ということは、登園前やお迎え後、土日の保護者にもそれなりの余裕やスキルが求められるという点に注意してください。
(幼稚園は保護者に対して、元々求めています。保育園だけでやれば幼稚園並みの経験、教育が出来るというわけではないということです。)
つらつらと書いてしまいましたが、要は保育所や幼稚園を申し込むときには口コミや友達の話だけでなく、ちゃんと見学に行くんだよ!ってことです。