はてなキーワード: 一生のお願いとは
味見もしないんですね。
当店が考えて選びぬいた調味料では満足頂けないんですね。
個人的な好き嫌いとおいしいおいしくないの区別ができていらっしゃらないのですね。
ごく稀に唸らされることはありますが、大抵の場合はバランスのぶっ壊れたどぎついゲテモノに成り果てるのが関の山です。
著名人にそういう方が多いんですけど、名前使わせていただいたほうがCMになるから使ってるだけで、そのメニューがおいしいわけないですからね。
そういうメニューを見つけたら商売上手だなって思いながら別のメニューを選んだほうが賢明です。
人が苦労して作ったものを台無しにしておいて、そのほうが優れているといい出す人間は山程います。
その人達がしていることは、すでに出来上がっているものをより自分の好みに近づけただけであって、生み出した人に比べたらこれっぽっちも苦労なんてしていないんですよね。
調味料の黄金比を苦労して見つけました!とか、知ったことか!寸胴100杯分のスープ飲んでから言えってんですよ。
そもそもそんなものは自分個人で楽しむものであって他人やましてや作った本人にオリジナルより優れてるだなんて口が裂けても言うべきことではありません。
百歩譲ったとして、許されるのは「僕の好みはこういう感じです。」と宣言する程度。
おそらくは自分の好きなものこそが、世界で一番優れているものだと勘違いをなさっているのでしょう。
こちらも商売なので、そういう人は一切緊張する必要のない歩くお財布だと思って接してます。いつもありがとうございます。
相手に応じて、どうすれば一番労力をかけずにあしらうことができるかを考えるのが一番良いのではないでしょうか。
https://anond.hatelabo.jp/20180117102941
一言で言うと終わった。
先週の木曜日に夜帰ったら、家に嫁がいなかった。
置手紙もない。電話も出ない。嫁の実家にかけてもいないと言われる。
そのうち帰ってくるだろうと週末をやり過ごしてみても、帰ってきていない。
いよいよ本格的にやばいかもと思って、改めてさっき例の小町のトピを見てみたら、嫁がこんなレスを付けていた。
皆様、温かい叱咤激励ありがとうございます。
実家にいる。
電話を取り次いで貰えなかっただけみたいだ。
最後の最後にできる事といったら、この場を借りて謝る事くらいだ。
嫁が見てくれると信じて。
頼む。見てくれ。
スフィンクスは諦めるし、ツタンカーメンは倉庫にしまう。いや、捨てる。
だから戻ってきて欲しい。
お願いだ。一生のお願いだ。
死ぬまで一緒にいたいんだ。
さようでございます。あの男に殴られたのは、わたしに違いございません。わたしは昨晩いつもの通り、鳥取城北高校のOB会の飲み会に参りました。すると酒宴の途中で突然、あの男が殴りかかってきたのでございます。
凶器が何かは見えなかったか? いえ、頭を抱えていたので何も見えません。ただその側の机の下に、ビール瓶が一本落ちて居りました。それから、――そうそう、さらにカラオケのリモコンとその他にも灰皿が一つございました。あの男のまわりにあったものは、この三つぎりでございます。が、素手で四・五十発も殴られましたから、きっとあの男は怒り出す前に、よほど痛飲したのに違いございません。何、白鵬関は止めなかったか? あそこは一体白鵬関なぞには、はいれない所でございます。何しろ日馬富士関とは、年が一つ隔たって居りますから。
日馬富士関には、確かに昨日遇って居ります。あの男は白鵬関と一しょに、酒などを飲んでおりました。暴行でございますか? 殴打は四十もございましたか? ――何しろ酒の席の事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、――いえ、ビール瓶も帯びて居れば、カラオケのリモコンも携えて居りました。
あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真に力士の人生なぞは、如露亦如電に違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。
わたしが取り押さえた男でございますか? これは確かに日馬富士と云う、名高い横綱でございます。もっともわたしが取り押さえた時には、酒に酔っていたのでございましょう、既に貴ノ岩関を、十発ほど殴って居りました。
この日馬富士と云うやつは、角界に徘徊する力士の中でも、酒好きのやつでございます。ただ昨夜の酒宴の時に、酒に酔ったらしい貴ノ岩関が一人、「おまえの時代は終わった」と放言していたのは無礼だとか申して居りました。その説教中にも、貴ノ岩関がスマホを触ったとなれば、日馬富士関もどうしたかわかりません。差出がましゅうございますが、それも御詮議下さいまし。
はい、日馬富士が殴りつけた男は、手前の弟子でございます。が、日本のものではございません。モンゴル出身の力士でございます。名は貴ノ岩の義司、年は二十七歳でございました。いえ、優しい気立でございますから、遺恨なぞ受ける筈はございません。
義司は昨日、日馬富士と一しょに、酒宴へ参加したのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし頭の怪我はどうなりましたやら、これだけは心配でなりません。どうかこの年寄が一生のお願いでございますから、たとい草木を分けましても、暴行の責をお問い詰め下さいまし。何に致せ憎いのは、その日馬富士とか何とか申す、酒乱のやつでございます。裂傷ばかりか、頭蓋骨骨折までも………(跡はむっつりとして言葉なし)
あの男を殴ったのはわたしです。しかし酒のせいではありません。ではなぜ殴ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくら拷問にかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯な隠し立てはしないつもりです。
わたしは昨日の夕少し過ぎ、あの力士に出会いました。その時白鵬関の説教の拍子に、貴ノ岩のスマホが鳴ったものですから、ちらりと貴ノ岩がそれに触れたのです。ちらりと、――触れたと思う瞬間には、もうこちらを向いていたのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの男の顔が、小生意気のように見えたのです。わたしはその咄嗟の間に、たとい暴力に訴えても、男を叱ろうと決心しました。
何、若者を殴るなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ相撲を取るとなれば、必ず、弟子は殴られるのです。ただわたしは殴る時に、カラオケのリモコンを使ったのですが、他の親方はリモコンは使わない、ただビール瓶で殺す、金属バットで殺す、どうかすると「かわいがってやれ」の言葉だけでも殺すでしょう。なるほど罪は被らない、親方連中は立派に生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、これまでの親方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)
僕はビンボー学生だからコンビニでご飯を買うとき、カロリー的なコスパを考えて選んでる。つまり、安くて高カロリーなものを探している。
これにバッチリ当てはまるのが、ペヤングソースやきそば。
超大盛りだと約200円で1000kcalオーバーとなかなかの高スコアだからついつい買ってしまう。
ただこのペヤングソースやきそばの唯一にして最大の欠点が "かやくに入ってる茶色いヤツ"
とにかく不味い。不味すぎる。
昔飼ってたカメの餌っぽさをビンビンに感じる。
鶏挽き肉って書いてあるけど、どう考えてもカメの餌。
割といっぱい入っているせいで、あらかじめ取り除こうにも面倒くさい。
ペヤングソースやきそばにカメの餌が入っていないバージョンを発売してください。
真面目に生きているつもりである。
ゴミのポイ捨てもしないし、食事は残さないし、老人に席を譲るし、短い横断歩道でも赤信号では絶対渡らない。
だけど時々、とんでもないクズが顔を覗かせる。
7歳の時、お母さんを亡くしたばかりのクラスメイトに
「そんなことしたら○○ちゃんのお母さんに言っちゃうよ!」と言って泣かせた。
ウケると思った。「んもー、うちのお母さんもう死んじゃってるよ☆」って。
中2の時、教室に掲示されているクラス目標?のポスターに落書きして遊んでいたら
落書きを褒められて調子に乗った私は「■■ちゃん笑い死に」と書いた。
最初の落書き自体は苦笑いで見ていた担任も、これは許さなかった。
全然違う適当な紙で問題の落書きが覆い隠されたクラス目標のポスターは3月末まで掲示された。
「まだ妊娠したかどうか分からない、筋腫か何かできて生理が遅れている可能性に賭ける」と言った。
親友は子宮筋腫を始めとする様々な婦人病に悩んでいたし、病院に通うレベルで不妊に焦っていた。
そのこともよく知っていたけど、頭からスッポ抜けていた。
さすがに芽生えた命をこちらの勝手で殺すのは忍びなかったので、
生まれた子供は養子に出したいと里親斡旋団体から資料を取り寄せたりした。
泣いて夫に頭を下げた。「一生のお願い」と言った。
夫は「…そんなに嫌なの…?」と言ったきりだった。
幸いながら?見目麗しい男児が生まれたので、辛うじてなんとか育てている。
発育に合った食事を3食きちんと与え、清潔な衣類を着せている。
子供の排泄物に触れられるか不安だったけど、実家で犬猫を飼っている経験が役立った。
貧乏だけどちゃんとこどもちゃれんじも受講してるし。
私の子供の割には息子は快活でよく笑い、よく走り回る。
産んだ義務感から優しいお母さんを演じている部分がないとは言い切れないが、
子供のことは基本的に「かわいい」と思うし、大変だけど子育ても意外と楽しい。
糸目で豚鼻の女児を連れている親御さんを見ると哀れんでしまう。
しかし、少し辛いとすぐに「こいつのせいで私の人生めちゃめちゃ」とか
せめて息子本人には言わないようにだけギリギリ踏みとどまっている。
ここまで詳細ではないけれど、ポロッと漏らしてしまったおかげで
市の保健師さんから定期的に連絡がある。虐待のおそれがないかの監視だと思う。
ちなみに私の両親は教育に熱心だった。膨大な量の絵本に囲まれて育った。
けど、「教育を受けさせる」ことに熱心で子供と向き合うタイプではなかったように思う。
私が抱えているこういう部分についてもおそらく知らない。
10歳頃に「何を考えているのかわからない」と母に言われたことはある。
両親の育て方のせいでこうなったとか言うつもりはないけど。
なんで私はこんなクズなんだろう?4歳の時点で弩クズってなんだよ。
アスペルガーなのかな。「それをされた場合の相手の気持ちがわからない」みたいな。
本も映画も好きだし、婉曲的な表現が理解できないということはないんだけど。
(ADDっぽいところが多々あるが、診断がおりると病名にあぐらをかきそうで
自分の中で「面白い」と思ったことをすぐ言ってしまうのがいけないのかな。
読んでくださりありがとうございました。
※これは頭のネジがゆるいビッチのたわ言です。世の大多数の女性はもっと真面目に誠実に生きていると思います
2014/07/18 お礼を書きました。http://anond.hatelabo.jp/20140718205540
【結論】
【経緯】
彼は謝罪し、ちゃんと時間をかけて誠意を見せてくれた。人間だれしも過ちを犯す。一夜の火遊びぐらい寛大な心で許してやろうとその時の私は思ったのだ。
数年後、その彼と結婚した。
結婚するとき、少しだけ浮気の件を思い出し、本当にこれでいいのか?と迷った。
浮気は繰り返すと聞く。彼はもう浮気をせず、私だけを大事にしてくれるのだろうか?と。
悶々と悩んでいたが、客観的に見ると高学歴で大企業に勤め、身長も高く思いやりのある優しいイケメンが、薹の立った顔面偏差値20を切るほどの私を嫁にしてくれると言っているのだ。
こんな美味しい話が、今後の人生において降ってくることがあるだろうか。いやない。絶対ない。そう考えたら答えは簡単だった。
結婚後、3年間は何事もなく過ぎた。
子供は出来なかったけど、旦那は変わらず優しいままだったし、いまだに私のことを「世界で一番可愛い。愛してる」と言って憚らない。
こんなブスを相手に何を言ってるんだ。頭おかしいんじゃないか、と思わなくもないがブタもおだてりゃ木に登る。多少身なりに気を使うようになったことで容姿に対する劣等感は昔よりほんの少しだけ薄れたような気がした。
それでもふとした時、例えば旦那の帰りが遅い日とかは、やっぱり浮気の件を思い出しては一人でハラハラすることが度々あった。
大学生の男の子が私の職場にアルバイトとして来たのはそんな時期だった。
私の職場は学生バイトがそこそこいるところで、私はそこで一応管理職をやっている人間だ。
女子大生ばかりの中で久しぶりに入ってきた男の子に、周囲は浮き足立っていたが私は特に気にも留めず普通に仕事をしていた。
私は既婚者だし、年下は好みじゃなかったのでスルーしていたのだ。
ここまで読んでいる人ならもうお分かりだろう。何故かその男子大学生は私に懸想してしまったのだ。
今時の草食系っぽい外見でありながら意外にもガンガン押してくる子だった。
最初のアタックは職場の飲み会。私の隣にちゃっかり座り、帰り道は「途中まで送ります」とか言って気付いたときには二人っきりだった。
「うん」
「旦那さん、どんな人ですか?」
「すっごく優しい人」
「今でも好きですか?」
「うん、好きだよ。良い旦那様だと思う」
嘘は言っていない。だが、見栄を張っていたと思う。”私は幸せなんだ”と自分に言い聞かせていたと思う。
その返事で彼が何を思ったのかは知らない。だけどその次に私をしっかり見据えてこう言ったのだ。
「俺、増田さんのことが好きなんです」と。
ほろ酔い気分も一瞬でさめた。はぁ?というのが正直な感想だった。
「えっと、私既婚です」
「知ってます」
「なので無理」
「どうしてですか?俺のこと嫌いですか?」
「いやいや、そういう問題じゃないでしょう」
「じゃあ嫌いではないんですね?」
そういうことじゃないだろう!と思いつつその後も進展のない話しを少しして、結局「私、不倫するつもりないから」とバッサリ切り捨てた。
10歳近く離れていたし、若さゆえの気の迷いだろうと結論付けてその後は努めてビジネスライクに振舞うようにした。
しかし、彼は諦めなかった。若さゆえの行動力というか、なんとかタイミングを見つけては二人きりになり「増田さん、好きです」と繰り返した。
職場にそういうことを持ち込むな!と叱ったこともあった。メールアドレスも電話番号も絶対に教えなかった。
そんなまま2年が過ぎた。2年もそんなことを繰り返すと誰しも情が湧くのではなかろうか。自分のことを好きだと言ってくれる人を嫌いになるのは難しい。(ストーカーは除く)
なのでその頃には個人的な付き合いは全くなかったが「増田さん、好きです!」「はいはい、ありがとねー。気持ちだけ受け取るー」と返すぐらいの関係にはなっていた。
自分を好きだと言ってくれる人がいる、という状況を楽しんでいたのだ。
状況が変わったのはその年の冬だった。
「うん、知ってる」
「うん、そうだね」
「へー、そうなんだ」
「寂しくなりますか?」
「そうだね、みんな寂しがると思うよ」
こちらがあえて曖昧な返事をしたことに気付いたのか彼は悲しさと諦めが混ざったような薄い笑みを浮かべて、すぐに真面目な顔になった。
「一生のお願いです!最後の思い出に一度だけ増田さんを抱かせてください!」
そう言ってすごい勢いで90度に頭を下げた。
意味を理解した瞬間、それ女子の台詞じゃない?と思った。「最後の思い出に抱いてください」とか、三文小説とかにありそうだなって。
でも目の前の男の子は、一生懸命でものすごく緊張しているように見えて。ああ、マジでそう思ってんだろうなぁと思った。
これがもし演技でも、だまされてやっていいかなって思った。それ以上に、これは旦那への素敵な復讐になるってどこかで冷静に計算していた。
「いいよ。最初で最後だからね」って言って驚いている彼の手を引いてホテルに行った。
正直、セックスは気持ちよくなかった。下手だし、勢いばっかりで。でも若さゆえのがっつき方がある意味楽しかった。
家に帰ったら旦那様はもう寝ていた。その寝顔を見ても自分でも驚くぐらい罪悪感は感じなかった。自分が旦那より最低の人間に落ちたんだと思って面白かった。
次の日が土曜だったので、寝ている旦那の布団にもぐりこんでセックスをせがんだ。旦那は喜んで優しく私を抱いてくれた。最高に感じた。今までで一番気持ちよかった。
あっという間に春が来て大学生の彼はバイトを辞めていった。約束どおり彼はあの夜以来、私にちょっかいをかけなくなった。
最後の送別会の日、彼は「増田さんを好きになってよかったです」と言ってくれた。なんだか気恥ずかしくて「そっか」とだけ答えた。
夫婦仲は更に良好になったと思う。彼が不倫をしてるんじゃないかって心配を全くしなくなった。したいならすればいい。私にばれないようにやる分には全く問題ない、とまで思うようになった。
もし、大学生の彼が将来、旦那にばらしたらどうしよう、ということも考えたことがあったが、その時は大人しく旦那に慰謝料を払って離婚しようと思った。
子供はいないし、仕事はある。捨てられても別にいいや、と今でも思っている。
あの後、わずかに芽生えた罪悪感から私は今、旦那にとても優しくなれる。大抵のことは笑って許せるようになった。
旦那は今でも相変わらず私を「可愛い」、「愛している」と言ってくれるし、お願いはだいたい聞いてもらえる。
私も毎日旦那に「愛している」と言うし、彼の望みなら何でも叶えてあげたいと本気で思っている。
周囲には「増田さんちはいつまでたっても新婚さんみたいでうらやましい」と言われる。
子供がいないのがちょっと残念だけど、まぁ、できなかったものは仕方ない。
先日、数年ぶりに職場に大学生の彼が遊びにきた。話を聞くと結婚するので彼女を親に紹介するため地元に帰ってきたらしい。
職場の皆と「立派になったね」、「男前になったね」と彼の成長を喜んだ。
彼女はどんな子かと誰かが尋ねると恥ずかしそうに皆に写真を見せてくれた。
つやつやとしたロングの髪が綺麗で上品そうな女の子が写っていた。青いワンピースがよく似合っている。
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、
父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。
裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。
のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、
だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。
私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。
二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。
25歳になってその人に出会いました。
それが兄でした。
他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌の仕事をしていました。
その弁護士は、上司に健康保険をねだるような、カリフォルニアの中流階級の娘である私に、
「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。
同僚編集者たちは騒然となりました。
それでも私は大好きなディケンズの小説の筋書きに放り込まれたようでした。
弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。
一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ。
私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズの後継者、
何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。
初めて会ったとき、スティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。
オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブかユダヤの顔立ちでした。
偶然にも二人ともそうするのが好きでした。
何を話したのかはあまり覚えていませんが、
とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています。
私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。
コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。
Cromemcoという名前でした。
彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。
これから、スティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います。
彼の充実した人生。
彼の病気。
彼の死。
彼は頑張って働きました。
毎日働きました。
彼は散漫の対極のような人でした。
彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。
スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。
彼はシリコンバレーの指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。
彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。
スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。
彼は流行や小道具を好みませんでした。
自分と同世代の人が好きでした。
「ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの。芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの」
スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。
彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。
パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーで NeXT に通い、
あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。
それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、
ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。
愛について話す時間の長さにかけては、スティーブは女の子並でした。
愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。
「独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。
彼がローリンと出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。
「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」
リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族に愛情を注ぎ続けました。
彼はどの子にとっても実の父親でした。
リサの彼氏と、エリンの旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。
リードの卒業パーティに出席した人はみな、リードとスティーブのゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。
ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。
私は今も、そのことを学ぼうとしています。
彼はそのことで孤独を感じていました。
私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。
ロスアルトスから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。
二人にとって、リサとリードとエリンとイヴを普通の子供として育てることは重要でした。
スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、
夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。
一種類の野菜をたくさん。
一種類だけです。
旬の野菜。
簡単な調理。
若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。
ジーンズを履いて待っていてくれました。
「お父さんは会議中ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。
リードが毎年ハロウィンに魔女のかっこうをしたがったときには、
何年もかかりました。
同じころ建設されていた Pixar のビルはその半分の時間で完成しました。
パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。
ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。
彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。
何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。
その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。
そして実際、買いました。
スティーブは学びつづけるのが好きでした。
彼はある日、育ち方が違っていれば自分は数学者になっていたかもしれない、と言いました。
彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードのキャンパスを歩くのが好きでした。
最後の数年間、彼はマーク・ロスコの絵画の本を研究していました。
未来のAppleのキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。
スティーブは物好きなところがありました。
イギリスと中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッド・オースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?
彼はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。
たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、
きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います。
彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム。
彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、
ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集をみたとき、
こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。
四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブは楽しい人生を送りました。
そしてスティーブが病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。
彼は京都で手打ちそばを見つけました。
もうできませんでした。
最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。
多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。
兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。
彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。
メンフィス病院の廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、
そこで座って一休みして、
引き返してまた歩きました。
ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。
彼は目を見開いて、唇を引き締めました。
彼は挑戦しました。
いつもいつも挑戦しました。
その試みの中心には愛がありました。
彼はとても直情的な人でした。
その恐ろしい時節、私は、スティーブが自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。
家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。
病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。
看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。
スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき、医師はすべてを、氷をも禁じました。
スティーブは普段割り込んだり自分の名前にものを言わせたりすることを嫌っていましたが、
このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。
「これが特別治療だよ」と私は伝えました。
彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。
挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。
そしてiPadを病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。
妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。
こちらを見上げて、お願いだから、と。
彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。
私たちは自分が何年生きられるか知りません。
彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。
オランダの造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。
私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。
ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、
スティーブの死は私たちにとって突然でした。
二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。
どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです。
火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。
声には熱と愛情がこもっていました。
同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまったかのようでした。
申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、
私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。
「待って。行きます。空港にタクシーで行くから。きっと着くから」
「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」
視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。
昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。
そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。
呼吸が変わりました。
つらそうに、やっとの思いで息をしていました。
彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。
これが私が学んだことです。
死がスティーブに訪れたのではありません。
彼が死を成し遂げたのです。
彼はさよならを言い、すまないと言いました。
約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。
そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。
フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。
彼はその夜を越しました。
ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。
彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。
やらなければならないことでした。
その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。
山を登っているようでした。
その意志、その使命感、その強さと同時に、
美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。
その数時間前に出た言葉が、スティーブの最期の言葉になりました。
船出の前、
彼は妹のパティを見て、
そして皆の肩の向こうを見ました。