「一生のお願い」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 一生のお願いとは

2018-09-21

おじさんだってなあ、活力に溢れてるんだよ!

「我が研究所は豊かな感性と活力あふれる若者とともに未来開拓してまいります

「弊社では活力と知力溢れる若き人材募集しております

「弊校では柔軟さと若さを併せ持った(以下略)」

おじさんも活力あるんだからね!

それとおじさんにも門戸開放して! 一生のお願い

2018-05-30

一生のお願いから

投資に興味があるひとやサイドビジネスに興味あるひとと、

特定方向の政治関連のRTしかできないひとは

わたしフォローしてこないで

水の中に黒インクをスポイトで落とされているような気持ちになる

そんな綺麗なものではないんだけど汚れていく感じはある

わたしフォローしたら右乳首自動的ねじ切れるといいのに

2018-04-28

anond:20180428234500

わかります。僕は女性の思わせぶりな態度に、一生のお願いを使ってスカされてしまった

2018-03-30

工師なんてグルメ界隈ではうようよです

そこそこ流行ってるラーメン店経営者です。

僕がみた加工師を挙げていきます

一口も手を付けずに調味料に手を伸ばす匠

味見もしないんですね。

・マイ調味料カバンから出す匠

当店が考えて選びぬいた調味料では満足頂けないんですね。

・他の客やお店に自分アレンジした味を勧めてくる匠

個人的好き嫌いとおいしいおいしくないの区別ができていらっしゃらないのですね。

ごく稀に唸らされることはありますが、大抵の場合バランスのぶっ壊れたどぎついゲテモノに成り果てるのが関の山です。

著名人にそういう方が多いんですけど、名前使わせていただいたほうがCMになるから使ってるだけで、そのメニューがおいしいわけないですからね。

そういうメニューを見つけたら商売上手だなって思いながら別のメニューを選んだほうが賢明です。

人が苦労して作ったもの台無しにしておいて、そのほうが優れているといい出す人間は山程います

その人達がしていることは、すでに出来上がっているものをより自分の好みに近づけただけであって、生み出した人に比べたらこれっぽっちも苦労なんてしていないんですよね。

調味料黄金比を苦労して見つけました!とか、知ったことか!寸胴100杯分のスープ飲んでから言えってんですよ。

そもそもそんなもの自分個人で楽しむものであって他人やましてや作った本人にオリジナルより優れてるだなんて口が裂けても言うべきことではありません。

百歩譲ったとして、許されるのは「僕の好みはこういう感じです。」と宣言する程度。

おそらくは自分の好きなものこそが、世界で一番優れているものだと勘違いをなさっているのでしょう。

一生のお願いなので、門外不出でお願いします。

こちらも商売なので、そういう人は一切緊張する必要のない歩くお財布だと思って接してます。いつもありがとうございます

ただ、お金のやり取りないと辛いですよね。

相手に応じて、どうすれば一番労力をかけずにあしらうことができるかを考えるのが一番良いのではないでしょうか。

2018-03-07

一生のお願いだ。「海外公務員サビ残してるか」を教えて

お前ら普段日本労働環境文句つけてるんだから、そういうの詳しいんだろ?

偉そうに語っておきながらも自分たち知識量ではヤフーの連中にすら勝てる自信がないっていうなら尻尾巻いて逃げてくれてもいいけど

2018-01-22

小町嫁が家(エジプト)を出ていった

先週これを書いた増田ファラオです。

嫁が小町ユーザーだった(俺はエジプト

https://anond.hatelabo.jp/20180117102941

一言で言うと終わった。

先週の木曜日に夜帰ったら、家に嫁がいなかった。

手紙もない。電話も出ない。嫁の実家にかけてもいないと言われる。

そのうち帰ってくるだろうと週末をやり過ごしてみても、帰ってきていない。

いよいよ本格的にやばいかもと思って、改めてさっき例の小町のトピを見てみたら、嫁がこんなレスを付けていた。

皆様、温かい叱咤激励ありがとうございます

ただ主人がこのトピを見てしまった事が明らかとなり、気持ちの整理がつけれずにいます

しばらく実家に戻って改めて結婚生活、及び結婚について考え直したいと思っています

実家にいる。

電話を取り次いで貰えなかっただけみたいだ。

増田ファラオ、完全にもうやれる事がなくなった。詰んだ

最後最後にできる事といったら、この場を借りて謝る事くらいだ。

嫁が見てくれると信じて。

頼む。見てくれ。

スフィンクスは諦めるし、ツタンカーメン倉庫しまう。いや、捨てる。

ボードゲーム死ぬまでにピラミッドを一緒にまたやろう。

お小遣い制にする。勝手に買い物するのもやめる。

俺には君というクレオパトラいるから。

から戻ってきて欲しい。

お願いだ。一生のお願いだ。

死ぬまで一緒にいたいんだ。

2018-01-11

もうセックスとか子作りとか諦めたか

せめて女子と手を繋いでおでかけデートしたい

死ぬまでに一度でいいから手つなぎデートしたい

サンタ神様とか諸々の神様、よろしくお願いしま

一生のお願いです

2017-11-29

俵の中

検非違使に問われたる貴ノ岩物語

 さようでございます。あの男に殴られたのは、わたしに違いございません。わたしは昨晩いつもの通り、鳥取城北高校OB会飲み会に参りました。すると酒宴の途中で突然、あの男が殴りかかってきたのでございます

 凶器が何かは見えなかったか? いえ、頭を抱えていたので何も見えません。ただその側の机の下に、ビール瓶が一本落ちて居りました。それから、――そうそう、さらカラオケリモコンとその他にも灰皿が一つございました。あの男のまわりにあったものは、この三つぎりでございます。が、素手で四・五十発も殴られましたから、きっとあの男は怒り出す前に、よほど痛飲したのに違いございません。何、白鵬関は止めなかったか? あそこは一体白鵬関なぞには、はいれない所でございます。何しろ日馬富士関とは、年が一つ隔たって居りますから

検非違使に問われたる照ノ富士物語

 日馬富士関には、確かに昨日遇って居ります。あの男は白鵬関と一しょに、酒などを飲んでおりました。暴行でございますか? 殴打は四十もございましたか? ――何しろ酒の席の事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、――いえ、ビール瓶も帯びて居れば、カラオケリモコンも携えて居りました。

 あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真に力士人生なぞは、如露亦如電に違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。

検非違使に問われたる白鵬物語

 わたしが取り押さえた男でございますか? これは確かに日馬富士と云う、名高い横綱でございますもっとわたしが取り押さえた時には、酒に酔っていたのでございましょう、既に貴ノ岩関を、十発ほど殴って居りました。

 この日馬富士と云うやつは、角界徘徊する力士の中でも、酒好きのやつでございます。ただ昨夜の酒宴の時に、酒に酔ったらしい貴ノ岩関が一人、「おまえの時代は終わった」と放言していたのは無礼だとか申して居りました。その説教中にも、貴ノ岩関がスマホを触ったとなれば、日馬富士関もどうしたかわかりません。差出がましゅうございますが、それも御詮議下さいまし。

検非違使に問われたる貴乃花親方物語

 はい日馬富士が殴りつけた男は、手前の弟子でございます。が、日本のものではございません。モンゴル出身力士でございます。名は貴ノ岩の義司、年は二十七歳でございました。いえ、優しい気立でございますから、遺恨なぞ受ける筈はございません。

 義司は昨日、日馬富士と一しょに、酒宴へ参加したのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし頭の怪我はどうなりましたやら、これだけは心配でなりません。どうかこの年寄一生のお願いでございますから、たとい草木を分けましても、暴行の責をお問い詰め下さいまし。何に致せ憎いのは、その日馬富士とか何とか申す、酒乱のやつでございます。裂傷ばかりか、頭蓋骨骨折までも………(跡はむっつりとして言葉なし)

日馬富士の白状

 あの男を殴ったのはわたしです。しかし酒のせいではありません。ではなぜ殴ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくら拷問にかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯な隠し立てはしないつもりです。

 わたしは昨日の夕少し過ぎ、あの力士出会いました。その時白鵬関の説教の拍子に、貴ノ岩スマホが鳴ったものですから、ちらりと貴ノ岩がそれに触れたのです。ちらりと、――触れたと思う瞬間には、もうこちらを向いていたのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの男の顔が、小生意気のように見えたのです。わたしはその咄嗟の間に、たとい暴力に訴えても、男を叱ろうと決心しました。

 何、若者を殴るなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ相撲を取るとなれば、必ず、弟子は殴られるのです。ただわたしは殴る時に、カラオケリモコンを使ったのですが、他の親方リモコンは使わない、ただビール瓶で殺す、金属バットで殺す、どうかすると「かわいがってやれ」の言葉だけでも殺すでしょう。なるほど罪は被らない、親方連中は立派に生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、これまでの親方が悪いかわたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/179_15255.html

2016-12-20

ペヤングソースやきそば のかやくに入ってる茶色いヤツ

僕はビンボー学生からコンビニでご飯を買うときカロリー的なコスパを考えて選んでる。つまり、安くて高カロリーものを探している。

これにバッチリ当てはまるのが、ペヤングソースやきそば

超大盛りだと約200円で1000kcalオーバーとなかなかの高スコアからついつい買ってしまう。

ただこのペヤングソースやきそばの唯一にして最大の欠点が "かやくに入ってる茶色いヤツ"

とにかく不味い。不味すぎる。

昔飼ってたカメの餌っぽさをビンビンに感じる。

鶏挽き肉って書いてあるけど、どう考えてもカメの餌。

割といっぱい入っているせいで、あらかじめ取り除こうにも面倒くさい。

まるか食品さん、一生のお願いです。

ペヤングソースやきそばカメの餌が入っていないバージョンを発売してください。

2016-11-03

VRでセックスしたい

FFとかで、超絶かわいい女出てくるじゃん。

あれとセックスしたい。

  

本当に。

俺の人生、なんもいいことなかった。

頼む、夢をかなえてくれ。

美少女セックスしたい。

リアルでは無理だから、VRで普通に

  

頼む、頼むよ。

一生のお願いだよ。

VRセックスさせてくれ。

2016-08-07

私に潜むクズ

真面目に生きているつもりである

ゴミポイ捨てもしないし、食事は残さないし、老人に席を譲るし、短い横断歩道でも赤信号では絶対渡らない。

音楽漫画違法ダウンロードすることもない。当たり前か。

感動屋で、泣ける映画なんか見ると絶対泣く。


だけど時々、とんでもないクズが顔を覗かせる。


4歳の時、幼稚園クラスメイトがしゃがんでいるところを

後ろからうりうりー」とグリグリ踏むフリをしたら、

担任先生ものすごい剣幕で叱られた。


7歳の時、お母さんを亡くしたばかりのクラスメイト

「そんなことしたら○○ちゃんのお母さんに言っちゃうよ!」と言って泣かせた。

ウケると思った。「んもー、うちのお母さんもう死んじゃってるよ☆」って。

これは放課後ことなので担任の知るところにはならなかった。

一緒にいた別のクラスメイト罵倒されたけど。


中2の時、教室に掲示されているクラス目標?のポスター落書きして遊んでいたら

何かの拍子に爆笑が止まらなくなったクラスメイトがいて、

落書きを褒められて調子に乗った私は「■■ちゃん笑い死に」と書いた。

最初落書き自体苦笑いで見ていた担任も、これは許さなかった。

授業中だったので、静まり返った教室で皆の前で叱られた。

全然違う適当な紙で問題落書きが覆い隠されたクラス目標ポスターは3月末まで掲示された。


入籍してすぐに生理が来なくなり、動揺した私は親友相談して

「まだ妊娠たかどうか分からない、筋腫か何かできて生理が遅れている可能性に賭ける」と言った。

親友子宮筋腫を始めとする様々な婦人病に悩んでいたし、病院に通うレベル不妊に焦っていた。

そのこともよく知っていたけど、頭からスッポ抜けていた。

小2から親友だったけど、絶交されてもうすぐ3年になる。


さすがに芽生えた命をこちらの勝手で殺すのは忍びなかったので、

まれ子供養子に出したいと里親斡旋団体から資料を取り寄せたりした。

泣いて夫に頭を下げた。「一生のお願い」と言った。

夫は「…そんなに嫌なの…?」と言ったきりだった。

私の「一生のお願い」は結果として黙殺されて現在に至る。


幸いながら?見目麗しい男児が生まれたので、辛うじてなんとか育てている。

発育に合った食事を3食きちんと与え、清潔な衣類を着せている。

子供排泄物に触れられるか不安だったけど、実家犬猫を飼っている経験が役立った。

貧乏だけどちゃんとこどもちゃれんじも受講してるし。

の子供の割には息子は快活でよく笑い、よく走り回る。

産んだ義務から優しいお母さんを演じている部分がないとは言い切れないが、

子供のこと基本的に「かわいい」と思うし、大変だけど子育ても意外と楽しい

でもこれが糸目で豚鼻の女児だったら育てられなかったと思う。

糸目で豚鼻の女児を連れている親御さんを見ると哀れんでしまう。


しかし、少し辛いとすぐに「こいつのせいで私の人生めちゃめちゃ」とか

「欲しくて作った子供じゃないのに」みたいな思想が出てくる。

せめて息子本人には言わないようにだけギリギリ踏みとどまっている。

ここまで詳細ではないけれど、ポロッと漏らしてしまったおかげで

市の保健師さんから定期的に連絡がある。虐待のおそれがないか監視だと思う。


ちなみに私の両親は教育に熱心だった。膨大な量の絵本に囲まれて育った。

けど、「教育を受けさせる」ことに熱心で子供と向き合うタイプではなかったように思う。

私が抱えているこういう部分についてもおそらく知らない。

10歳頃に「何を考えているのかわからない」と母に言われたことはある。

両親の育て方のせいでこうなったとか言うつもりはないけど。


なんで私はこんなクズなんだろう?4歳の時点で弩クズってなんだよ。

アスペルガーなのかな。「それをされた場合相手気持ちがわからない」みたいな。

本も映画も好きだし、婉曲的な表現理解できないということはないんだけど。

(ADDっぽいところが多々あるが、診断がおりると病名にあぐらをかきそうで

病院には行ってない。受診して薬をもらった方がいいのかなー)

自分の中で「面白い」と思ったことをすぐ言ってしまうのがいけないのかな。


という気持ちをまとめるために文章しました。

読んでくださりありがとうございました。

不快気持ちにさせてごめんね。

2014-07-17

不倫して良かった。

※これは頭のネジがゆるいビッチのたわ言です。世の大多数の女性もっと真面目に誠実に生きていると思います

無駄に長文で、読んだら胸糞悪くなると思います

2014/07/18 お礼を書きました。http://anond.hatelabo.jp/20140718205540

【結論】

不倫して良かったわー!おかげで旦那ラブラブだわー!

【経緯】

結婚する前、旦那浮気をしたことがある。

その時は半年くらいの反省期間をあけて復縁した。

彼は謝罪し、ちゃんと時間をかけて誠意を見せてくれた。人間だれしも過ちを犯す。一夜の火遊びぐらい寛大な心で許してやろうとその時の私は思ったのだ。

数年後、その彼と結婚した。

結婚するとき、少しだけ浮気の件を思い出し、本当にこれでいいのか?と迷った。

浮気は繰り返すと聞く。彼はもう浮気をせず、私だけを大事にしてくれるのだろうか?と。

悶々と悩んでいたが、客観的に見ると高学歴大企業に勤め、身長も高く思いやりのある優しいイケメンが、薹の立った顔面偏差値20を切るほどの私を嫁にしてくれると言っているのだ。

こんな美味しい話が、今後の人生において降ってくることがあるだろうか。いやない。絶対ない。そう考えたら答えは簡単だった。

結婚後、3年間は何事もなく過ぎた。

子供は出来なかったけど、旦那は変わらず優しいままだったし、いまだに私のことを「世界で一番可愛い。愛してる」と言って憚らない。

こんなブスを相手に何を言ってるんだ。頭おかしいんじゃないか、と思わなくもないがブタもおだてりゃ木に登る。多少身なりに気を使うようになったことで容姿に対する劣等感は昔よりほんの少しだけ薄れたような気がした。

それでもふとした時、例えば旦那の帰りが遅い日とかは、やっぱり浮気の件を思い出しては一人でハラハラすることが度々あった。

そういう杞憂は地味にしんどかった。

大学生男の子が私の職場アルバイトとして来たのはそんな時期だった。

私の職場学生バイトがそこそこいるところで、私はそこで一応管理職をやっている人間だ。

女子大生ばかりの中で久しぶりに入ってきた男の子に、周囲は浮き足立っていたが私は特に気にも留めず普通に仕事をしていた。

私は既婚者だし、年下は好みじゃなかったのでスルーしていたのだ。

ここまで読んでいる人ならもうお分かりだろう。何故かその男大学生は私に懸想してしまったのだ。

今時の草食系っぽい外見でありながら意外にもガンガン押してくる子だった。

最初アタック職場飲み会。私の隣にちゃっかり座り、帰り道は「途中まで送ります」とか言って気付いたときには二人っきりだった。

増田さん、結婚してるんですよね?」

「うん」

旦那さん、どんな人ですか?」

「すっごく優しい人」

「今でも好きですか?」

「うん、好きだよ。良い旦那様だと思う」

嘘は言っていない。だが、見栄を張っていたと思う。”私は幸せなんだ”と自分に言い聞かせていたと思う。

その返事で彼が何を思ったのかは知らない。だけどその次に私をしっかり見据えてこう言ったのだ。

「俺、増田さんのことが好きなんです」と。

ほろ酔い気分も一瞬でさめた。はぁ?というのが正直な感想だった。

「えっと、私既婚です」

「知ってます

「なので無理」

「どうしてですか?俺のこと嫌いですか?」

「いやいや、そういう問題じゃないでしょう」

「じゃあ嫌いではないんですね?」

そういうことじゃないだろう!と思いつつその後も進展のない話しを少しして、結局「私、不倫するつもりないから」とバッサリ切り捨てた。

10歳近く離れていたし、若さゆえの気の迷いだろうと結論付けてその後は努めてビジネスライクに振舞うようにした。

しかし、彼は諦めなかった。若さゆえの行動力というか、なんとかタイミングを見つけては二人きりになり「増田さん、好きです」と繰り返した。

職場にそういうことを持ち込むな!と叱ったこともあった。メールアドレス電話番号も絶対に教えなかった。

そんなまま2年が過ぎた。2年もそんなことを繰り返すと誰しも情が湧くのではなかろうか。自分のことを好きだと言ってくれる人を嫌いになるのは難しい。(ストーカーは除く)

なのでその頃には個人的な付き合いは全くなかったが「増田さん、好きです!」「はいはい、ありがとねー。気持ちだけ受け取るー」と返すぐらいの関係にはなっていた。

自分を好きだと言ってくれる人がいる、という状況を楽しんでいたのだ。

状況が変わったのはその年の冬だった。

ちょっと残業が続き、職場で久しぶりに二人きりになった。

増田さん…俺、本当に増田さんのことが好きなんです」

「うん、知ってる」

「今年で大学卒業なんです」

「うん、そうだね」

就職したら東京行くんです」

「へー、そうなんだ」

「寂しくなりますか?」

「そうだね、みんな寂しがると思うよ」

こちらがあえて曖昧な返事をしたことに気付いたのか彼は悲しさと諦めが混ざったような薄い笑みを浮かべて、すぐに真面目な顔になった。

一生のお願いです!最後の思い出に一度だけ増田さんを抱かせてください!」

そう言ってすごい勢いで90度に頭を下げた。

一瞬、何を言われたのか意味が分からなかった。

意味理解した瞬間、それ女子台詞じゃない?と思った。「最後の思い出に抱いてください」とか、三文小説とかにありそうだなって。

でも目の前の男の子は、一生懸命ものすごく緊張しているように見えて。ああ、マジでそう思ってんだろうなぁと思った。

これがもし演技でも、だまされてやっていいかなって思った。それ以上に、これは旦那への素敵な復讐になるってどこかで冷静に計算していた。

私は自分で思っているよりもずっとエグい人間だったみたいだ。

「いいよ。最初最後からね」って言って驚いている彼の手を引いてホテルに行った。

正直、セックスは気持ちよくなかった。下手だし、勢いばっかりで。でも若さゆえのがっつき方がある意味しかった。

家に帰ったら旦那様はもう寝ていた。その寝顔を見ても自分でも驚くぐらい罪悪感は感じなかった。自分旦那より最低の人間に落ちたんだと思って面白かった。

次の日が土曜だったので、寝ている旦那の布団にもぐりこんでセックスをせがんだ。旦那は喜んで優しく私を抱いてくれた。最高に感じた。今までで一番気持ちよかった。

あっという間に春が来て大学生の彼はバイトを辞めていった。約束どおり彼はあの夜以来、私にちょっかいをかけなくなった。

最後送別会の日、彼は「増田さんを好きになってよかったです」と言ってくれた。なんだか気恥ずかしくて「そっか」とだけ答えた。

夫婦仲は更に良好になったと思う。彼が不倫をしてるんじゃないかって心配を全くしなくなった。したいならすればいい。私にばれないようにやる分には全く問題ない、とまで思うようになった。

もし、大学生の彼が将来、旦那にばらしたらどうしよう、ということも考えたことがあったが、その時は大人しく旦那慰謝料を払って離婚しようと思った。

子供はいないし、仕事はある。捨てられても別にいいや、と今でも思っている。

あの後、わずかに芽生えた罪悪感から私は今、旦那にとても優しくなれる。大抵のことは笑って許せるようになった。

旦那は今でも相変わらず私を「可愛い」、「愛している」と言ってくれるし、お願いはだいたい聞いてもらえる。

私も毎日旦那に「愛している」と言うし、彼の望みなら何でも叶えてあげたいと本気で思っている。

周囲には「増田さんちはいつまでたっても新婚さんみたいでうらやましい」と言われる。

子供がいないのがちょっと残念だけど、まぁ、できなかったものは仕方ない。

先日、数年ぶりに職場大学生の彼が遊びにきた。話を聞くと結婚するので彼女を親に紹介するため地元に帰ってきたらしい。

職場の皆と「立派になったね」、「男前になったね」と彼の成長を喜んだ。

彼女はどんな子かと誰かが尋ねると恥ずかしそうに皆に写真を見せてくれた。

つやつやとしたロングの髪が綺麗で上品そうな女の子が写っていた。青いワンピースがよく似合っている。

それを見てほっとした。私とは正反対タイプだ。

後になって、安心したことに笑いがこみ上げた。私は何を心配していたんだろう。自意識過剰だ、ばーか

少しだけ職場の人たちと挨拶をして、彼はすぐに帰っていった。

幸せになれよー、と心の中だけでエールを送っておいた。

2013-04-02

http://anond.hatelabo.jp/20130402212510

すいません、猫を何十匹も飼ってるってのも加えてくれませんか。

お願いします。

一生のお願いです。

お願いします。

2011-10-31

からスティーブ・ジョブスへの弔辞

A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

モナ・シンプソン (Mona Simpson)

2011年10月30日

私は母子家庭一人っ子として育てられました。

しかったので、そして父はシリアから移民だと教えられていたので、

父については、オマル・シャリフのような人ではないか想像していました。

裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。

のちに面会したとき、私は、父は理想燃える革命家で、アラブ新世界を導く人だったのだと、

から転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。

私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。

二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。

25歳になってその人に出会いました。

それが兄でした。

私は当時、ニューヨーク処女作を書こうとしていました。

他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌仕事をしていました。

ある日、弁護士が私に電話をかけてきました。

その弁護士は、上司健康保険をねだるような、カリフォルニア中流階級の娘である私に、

「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。

同僚編集者たちは騒然となりました。

時は1985年、そこは新興文芸雑誌の事務所、

それでも私は大好きなディケンズ小説の筋書きに放り込まれたようでした。

弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。

一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ

私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズ後継者

何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。

初めて会ったときスティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。

オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブユダヤの顔立ちでした。

私たちは長い散歩しました。

偶然にも二人ともそうするのが好きでした。

何を話したのかはあまり覚えていませんが、

とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています

彼はコンピュータ企業で働いていると言いました。

コンピュータのことはあまり知りませんでした。

私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。

コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。

Cromemcoという名前でした。

スティーブは、そのときまで待ったのは良かったと言いました。

彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。

これからスティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います

つの期間、合計27年間に渡って、私は彼を知っています

期間を区切るのは年数ではなく、生き様です

彼の充実した人生

彼の病気

彼の死。

スティーブ自分の愛するもの仕事しました。

彼は頑張って働きました。

毎日働きました。

とても単純ですが、本当のことです

彼は散漫の対極のような人でした。

彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。

スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。

彼はAppleを追い出されて、つらい時期を過ごしました。

彼はシリコンバレー指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。

スティーブはそこに招待されなかったのです

彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。

スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。

イノベーターにしては珍しく、スティーブは物事に忠実でした。

シャツが気に入れば、同じものを百枚注文しました。

パロアルトの家には、黒いコットンのタートルネックが、

おそらくこの教会にいる全員分はあると思います

彼は流行や小道具を好みませんでした。

自分と同世代の人が好きでした。

彼の美学はこういう言葉を思い起こさせます

ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの

スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。

彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。

パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーNeXT に通い、

あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。

それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、

ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。

愛について話す時間の長さにかけては、スティーブ女の子並でした。

愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。

はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。

女性が気に入るかもしれない男性を見つけると、

独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。

彼がローリン出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。

「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」

リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族愛情を注ぎ続けました。

彼はどの子にとっても実の父親でした。

リサの彼氏と、エリン旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。

リード卒業パーティに出席した人はみな、リードスティーブゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。

ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。

はいつでも、どこでも発露するものだと彼は信じていました。

スティーブ皮肉や冷笑や悲観とは無縁でした。

私は今も、そのことを学ぼうとしています

スティーブは若くして成功した人でした。

彼はそのことで孤独を感じていました。

私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。

ロスアルトから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。

二人にとって、リサとリードエリンイヴ普通の子供として育てることは重要でした。

彼らの家には押し付けがましい美術品などはありませんでした。

スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、

夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。

一種類の野菜をたくさん。

一種類だけです

ブロッコリー

旬の野菜

簡単な調理。

とれたてのハーブなど、適切なものを適切なだけ。

若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。

ジーンズを履いて待っていてくれました。

家族会社電話をしたときには、秘書のリネッタが

「お父さんは会議ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。

リードが毎年ハロウィン魔女のかっこうをしたがったときには、

スティーブ、ローリンエリンイヴ魔女になりました。

彼らはキッチン改装に取りかかったことがあります

何年もかかりました。

そのあいガレージでホットプレートを使って料理しました。

同じころ建設されていた Pixarビルはその半分の時間で完成しました。

パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。

バスルームは古いままでした。

ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。

スティーブは目利きでしたから。

彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。

何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。

パロアルト自転車屋に行って店内を眺めて、

その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。

そして実際、買いました。

スティーブ謙虚でした。

スティーブは学びつづけるのが好きでした。

彼はある日、育ち方が違っていれば自分数学者になっていたかもしれない、と言いました。

彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードキャンパスを歩くのが好きでした。

最後の数年間、彼はマーク・ロスコ絵画の本を研究していました。

それまで知らなかった美術家を知ってから

未来Appleキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。

スティーブは物好きなところがありました。

イギリス中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッドオースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?

はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。

たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、

きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います

彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム

彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、

ニューヨークタイムズを開いて会社特許の特集をみたとき

こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。

四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブ楽しい人生を送りました。

彼は幸福大事しました。

そしてスティーブ病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。

それまで彼は、パリ散歩するのが好きでした。

彼は京都で手打ちそばを見つけました。

スキーでなめらかに滑降しました。

ドタドタとクロスカントリーしました。

もうできませんでした。

最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。

ですが、私が驚くと同時に彼の病気から学んだことは、

多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。

兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。

彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。

メンフィス病院廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、

そこで座って一休みして、

引き返してまた歩きました。

彼は毎日歩みを数え、毎日より遠くまで進みました。

ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。

あなたならできる」と彼女が言うと、

彼は目を見開いて、唇を引き締めました。

彼は挑戦しました。

いつもいつも挑戦しました。

その試みの中心には愛がありました。

彼はとても直情的な人でした。

その恐ろしい時節、私は、スティーブ自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。

目標をさだめていたのです

息子リードの高校卒業エリン京都旅行

家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。

病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。

看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。

トレイシー、アルチュロ、エラムです

スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき医師はすべてを、氷をも禁じました。

私たちは標準的なICUユニットにいました。

スティーブは普段割り込んだり自分名前ものを言わせたりすることを嫌っていましたが、

このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。

「これが特別治療だよ」と私は伝えました。

彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。

挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。

そしてiPad病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。

新しい液晶X線装置設計しました。

特別さが足りないと言ってユニットをもう一度描き直しました。

妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。

一生のお願いから、頼む、と彼はメモ帳に書きました。

こちらを見上げて、お願いだから、と。

彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。

私たちは自分が何年生きられるか知りません。

スティーブ健康だったころには、その最後の数年にも、

彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。

オランダ造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。

三人の娘はまだ結婚していませんし、二人はまだ女の子です

私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。

私たちはみな、最後には、途中で死にます

物語の途中で。

たくさんの物語の途中で。

ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、

スティーブの死は私たちにとって突然でした。

二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。

どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです

火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。

声には熱と愛情がこもっていました。

同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまたかのようでした。

申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、

私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。

彼がさよならを言おうとしたとき私は引き止めました。

「待って。行きます空港タクシーで行くから。きっと着くから

「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」

着いたとき、彼はローリン冗談を言い合っていました。

毎日一緒に暮らしてきた夫婦のように。

視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。

昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。

そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。

呼吸が変わりました。

つらそうに、やっとの思いで息をしていました。

彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。

これが私が学んだことです

彼はこのときにも努力していたのです

死がスティーブに訪れたのではありません。

彼が死を成し遂げたのです

彼はさよならを言い、すまないと言いました。

約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。

そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。

フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。

彼はその夜を越しました。

ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。

彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。

やらなければならないことでした。

はいまだに、厳しいハンサムな顔立ちをしていました。

絶対主義ロマンチストの顔立ちをしていました。

その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。

山を登っているようでした。

その意志、その使命感、その強さと同時に、

そこにはスティーブ不思議を求める心、

美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。

その数時間前に出た言葉が、スティーブ最期言葉になりました。

それは三度繰り返す単音節言葉でした。

船出の前、

彼は妹のパティを見て、

子供たちをゆっくり見て、

人生の伴侶ローリンを見て、

そして皆の肩の向こうを見ました。

スティーブ最期言葉は次の通りです

OH WOW. OH WOW. OH WOW.

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