はてなキーワード: ラーメン評論家とは
これはガチガチのガチにルッキズムの話になるので誰もおおっぴらにしたがらないが、
フェミ議連が揃いも揃って若くて綺麗だったら、あの要求は通っていた。みんなあの集合写真を見た時点で「あ、こっちに道理はない。たぶん」と直感して引いていった
ラーメン評論家と店主の件も外見が逆だったらまた違った結果になっていた
若いころの小山田圭吾は目がクリクリとして可愛げのある青年だったから、毒を吐いても許されたが、今は目がクリクリして気持ちの悪い中年だから何をしても許されない
北守さんがクボユウスケくらいの顔だったら、いや、せめて平林緑萌くらいの顔だったら、もう少しみんな彼の言うことを聞いていたし、彼も今みたいな社会的立場ではなかった
KuTooが一応の成功を収めたのは、石川優実が若くて小綺麗だったからだ
芸人でも156cmのちっちゃいオッサンは風俗堕ちを楽しみにしただけで半殺しに遭ったが、イケメン芸人は売春防止法違反でも活動できている
スポーツ解説者でもNHKは見栄えのまともな人間を使いたがる。サッカーなら中田浩二や福西崇史。良い顔から発せられる言葉には説得力が出るからだ
池江璃花子は若くて美人、、、なのに色々言われてたな。まあそういうこともある
はてブコメントで屢々「これはオタクの小児性、幼稚性を批判しているのであって、オタク『差別』ではない」というコメントを見ることがあるが、このようなオタク差別意識の根底には「いい歳をした男が、漫画やアニメにうつつを抜かすのは恥ずかしい」という考え方がある。
それを恥ずかしく感じて表明する人間は誰か、つまり「恥ずかしく感じる主体は何者か」ということを考えねばならない。それは「男性」であり、なかでも「いい歳をしたオッサン」である。特に「他人に対して説教やマンスプレイニングすることが大好きな、中高年オッサン」である。
マンスプレイニング大好きオジサンが、何故、漫画やアニメを恥ずかしく感じるのか?それは彼らが「漫画やアニメなんぞ、オンナ・コドモが熱を上げるクダラナイものに過ぎない」という意識を持っているからである。なお、この時に「オンナ・コドモ」という括り方がされるのも特徴的である。
はてブで「オタクの小児性、幼稚性を批判する」コメントを書き込む人間たちを見れば一目瞭然だが、彼らがそこで批判する対象は、常に男性オタクである。彼らが、女性オタクの小児性や幼稚性を「批判」することは決して無い。何故だろうか?それは、彼らのようにオタク叩きの説教が大好きなオジサンたち自身が、いい歳をした年寄りであり、オタク文化に関する昔の記憶を持っているからである。(そういう意味で言えば、オタク叩きは「近親憎悪」である。大なり小なりオタク文化に近しい人間でなければ、オタク文化に関する記憶など持ちようが無いのだから。)その記憶とは「漫画アニメはオンナ・コドモのもの」というものである。
漫画やアニメのオタク文化が成立するには、多数の女性ファンの力が大きく寄与してきた。これは事実である。昭和の頃からオタクをやっている人間ならば、あの頃の女性アニメファンは、ボルテスファイブやゴッドマーズの美形キャラにキャーキャー言っていたことをよく覚えている。雑誌アニメージュは、ゴッドマーズの美形主人公がベッドから飛び起きる場面を載せて「キャッ!もしかして裸?!」とキャプションを付けたり、ルパン三世やサイボーグ009に宛てた女性アニメファンからのイラスト付きラブレターを掲載したりしていた。
また、現代の萌え絵に連なる絵の描き方も、遡ればオタク文化に参加していた女性たちの感性やテクニックがルーツである。例えば、猫耳が『綿の国星』にルーツを持つのはその一例である。(したがって、現代のオタク文化においても萌え絵的な絵を描く女性クリエイターたちが少なくないのは、当たり前なのである。それは、そもそもの起源からして彼女たちのものだったのだから。)
マンスプレイニング大好きオジサンたちは、女性オタクの小児性や幼稚性を批判しないことは、既に述べた。しかし、それは何も、彼らが女性の意思や主体性や尊厳を尊重しているからではない。むしろ全くの逆であって、彼らは女性のことを心の底で見下しているのである。マンスプレイニング大好きオジサンたちにとっての女性とは、コドモと同じく「人間未満の存在」である。同じ人間未満の存在だから、十把一絡げにして「オンナ・コドモ」扱いするのである。人間未満の存在がクダラナイものに熱中する(ルパン三世やサイボーグ009に恋したりする)のは当たり前に思えるから、わざわざ叩くほどのことではないというだけの話である。最近セクハラで話題になった某ラーメン評論家が、得意気に「自分はオンナ・コドモには手を上げない」と書いていたのと、根っこは同じである。対等な存在として女性を見ておらず、犬猫に優しくするぐらいのつもりで、女性オタクをお目溢ししているのである。
オタク叩きが大好きな高齢マンスプレイニングおじさんたちは、女性が主導権を握る文化、女性が男性に影響を与える文化を憎んでいる。そして、男性オタクの存在は、そのような女性が主導権を握る文化圏の存在を思い起こさせる。それ故に、高齢マンスプレイニングおじさんたちによる攻撃対象になるのである。
https://togetter.com/li/1782825
タイトルまま。詳しくはこれをどうぞ。
こんなことがあったのにろくに謝罪も訂正もしないアニメ評論家やその周辺は全員糞。
https://note.com/ryuhga/n/n9454556b9eec
そしてこいつのせいであらぬ疑いをかけられて燃やされた当事者であるライターが反証記事を出してるのに触りもしない。
カルトと喚いて騒いでたクリエイターや物知り顔のオタクどもも無責任すぎないか?
喜んでRTしてキャッキャしてたから触れられないのだろうがごめんなさいしようよ。
結局アニメ評論家どももラーメン評論家界隈となにも変わらないのやな。
はてブコメントで屢々「これはオタクの小児性、幼稚性を批判しているのであって、オタク『差別』ではない」というコメントを見ることがあるが、このようなオタク差別意識の根底には「いい歳をした男が、漫画やアニメにうつつを抜かすのは恥ずかしい」という考え方がある。
それを恥ずかしく感じて表明する人間は誰か、つまり「恥ずかしく感じる主体は何者か」ということを考えねばならない。それは「男性」であり、なかでも「いい歳をしたオッサン」である。特に「他人に対して説教やマンスプレイニングすることが大好きな、中高年オッサン」である。
マンスプレイニング大好きオジサンが、何故、漫画やアニメを恥ずかしく感じるのか?それは彼らが「漫画やアニメなんぞ、オンナ・コドモが熱を上げるクダラナイものに過ぎない」という意識を持っているからである。なお、この時に「オンナ・コドモ」という括り方がされるのも特徴的である。
はてブで「オタクの小児性、幼稚性を批判する」コメントを書き込む人間たちを見れば一目瞭然だが、彼らがそこで批判する対象は、常に男性オタクである。彼らが、女性オタクの小児性や幼稚性を「批判」することは決して無い。何故だろうか?それは、彼らのようにオタク叩きの説教が大好きなオジサンたち自身が、いい歳をした年寄りであり、オタク文化に関する昔の記憶を持っているからである。(そういう意味で言えば、オタク叩きは「近親憎悪」である。大なり小なりオタク文化に近しい人間でなければ、オタク文化に関する記憶など持ちようが無いのだから。)その記憶とは「漫画アニメはオンナ・コドモのもの」というものである。
漫画やアニメのオタク文化が成立するには、多数の女性ファンの力が大きく寄与してきた。これは事実である。昭和の頃からオタクをやっている人間ならば、あの頃の女性アニメファンは、ボルテスファイブやゴッドマーズの美形キャラにキャーキャー言っていたことをよく覚えている。雑誌アニメージュは、ゴッドマーズの美形主人公がベッドから飛び起きる場面を載せて「キャッ!もしかして裸?!」とキャプションを付けたり、ルパン三世やサイボーグ009に宛てた女性アニメファンからのイラスト付きラブレターを掲載したりしていた。
また、現代の萌え絵に連なる絵の描き方も、遡ればオタク文化に参加していた女性たちの感性やテクニックがルーツである。例えば、猫耳が『綿の国星』にルーツを持つのはその一例である。(したがって、現代のオタク文化においても萌え絵的な絵を描く女性クリエイターたちが少なくないのは、当たり前なのである。それは、そもそもの起源からして彼女たちのものだったのだから。)
マンスプレイニング大好きオジサンたちは、女性オタクの小児性や幼稚性を批判しないことは、既に述べた。しかし、それは何も、彼らが女性の意思や主体性や尊厳を尊重しているからではない。むしろ全くの逆であって、彼らは女性のことを心の底で見下しているのである。マンスプレイニング大好きオジサンたちにとっての女性とは、コドモと同じく「人間未満の存在」である。同じ人間未満の存在だから、十把一絡げにして「オンナ・コドモ」扱いするのである。人間未満の存在がクダラナイものに熱中する(ルパン三世やサイボーグ009に恋したりする)のは当たり前に思えるから、わざわざ叩くほどのことではないというだけの話である。最近セクハラで話題になった某ラーメン評論家が、得意気に「自分はオンナ・コドモには手を上げない」と書いていたのと、根っこは同じである。対等な存在として女性を見ておらず、犬猫に優しくするぐらいのつもりで、女性オタクをお目溢ししているのである。
オタク叩きが大好きな高齢マンスプレイニングおじさんたちは、女性が主導権を握る文化、女性が男性に影響を与える文化を憎んでいる。そして、男性オタクの存在は、そのような女性が主導権を握る文化圏の存在を思い起こさせる。それ故に、高齢マンスプレイニングおじさんたちによる攻撃対象になるのである。
タイトルのまま。
某ラーメン屋が反社との繋がりというデマを流されて取引を切られてしまった件が記憶に新しい。
反社は本当にやばいからこそ、安易なデマがきっかけで実害が出てしまった。「噂が出た時点で無理だよ、すまんけどね、、、」で取引を切られてしまうのだ。
そんなことは誰もがわかってる。だからこそ「反社に関係してる」なんて冗談でも言うべきではない。
では統一教会で似たようなことが起こった今回はどうか。
デマの拡散に加担した者やブコメでVtuberを非難した者たちはどうか。
「あくまで危険性について説いただけ」と責任回避に徹し、なんなら「某氏は統一教会への意識が低いから実際取り込まれそうとは思いましたね」等と上から目線で被害者を批評し新たな風評を作る始末。
他人に統一教会への危険性を説きながら「その危険性と自分の安易な行動によって、被害者に案件の取り消し等といった実害が出かねない」とはこれっぽっちも思っていない。
どれほどのことをしているのか認識できてないのだ。
統一教会が危険であればあるほどに、己の安易な行動もまた危険なものであったはずなのに。
この件でデマを流してる者も、
デマに乗っかって講釈を垂れてデマだとわかった後もまともに反省してない者も、
「教会の恐ろしさを理解できてない」と他人に説教しながら、その実自分自身もその恐ろしさなんて理解できていないのだ。
だからこそあのラーメン評論家と同じように、情報精査せずに安易にデマに乗っかってしまうのだ。
air77et1980 はぁ?実際に署名活動に統一が潜り込んでたのは事実なんだから、そこ無視して統一ネタ=一律デマで思考停止すんのやめろよ。まともなオタクが切断処理出来なくなるだろ。やっぱ国語力増田じゃない増田は駄目
要はこう言うのだ。見ての通りの話の聞いてなさ。こちらではデマの拡散や風評被害、危険性の認知について焦点を当てているので、同時に起こっていた別の案件の内容がなんであっても、この主張が変わることはない。
「統一教会はやっぱり危険だね」と、それはそれとして「デマを拡散した時はごめんなさい」「デマを広めないように慎重になろう」が同時に存在する世界であるべきなのだが、統一教会が他人への叩き棒でしかない人にとっては、謝罪はプライドが許さないのだ。
「よくわからないことは双方の話を聞いてみないと判断できない」
と思ってる人でも、あのblogを読んだら事実関係が確認できなくても
「絶対こっちが悪い」
と思わせるような力を持つ文章です。
という記事を読んで、私はハッとした。
ハンツ遠藤はご存じの通り、過去に多くのメディアで記事を書いており、TPOに合わせてきっちり文体を変えられる、
だから、本気で謝罪しようと思えば、いくらでも理想的な謝罪文を書くことができるのだ。
だが、敢えてそうしなかった。
それはひとえに梅澤さんを守り、これ以上彼女に批判が向くことを避けるためであった。
彼は文中で、女子供は叩かないと何度も繰り返し書いている。
それは自ら悪役を買って出て、その責めを一心に背負うという覚悟のあらわれだったということだ。
あぁ、彼はなんとうい太っ腹な男なのだろう。
ラーメン評論家の一件を見ていて思うことは、評論家なんか信じるほうがアホということ。
すごい簡単な説明で、ラーメン評論家がラーメンの味について語れない理由を証明する。
味覚というのは刺激で、繰り返すほどに慣れていくもの。
つまり評論家レベルでラーメンを食べ続けている人間の舌はすでに刺激に対して慢性的な麻痺状態にあり、絶妙な味覚の差を感じることはできない舌になっているということ。
ましてや繊細な味付けの料理を食べ比べる評論家ではなく、ラーメンにしぼった評論家なら尚更。
例えば塩分や糖分の感じ方は、その時の血中の濃度によって濃かったり薄かく感じたりする。運動直後のジュースがやたらと甘く感じるのはそのせい。
インパクト重視の濃い味付けばっかり食べてる人間の塩分や糖分の血中濃度が正常なわけがなくて、そんな人間の味覚なんてまったくもって信用に値しない。
じゃぁ評論家が何で評価するのかといわれれば、身内の評価とか店主との関係。あとは個人の好き嫌いだけ。
二郎系ラーメンばっかり食べてる高血圧糖尿豚野郎に「ぶひぶひ!おいしい!」って言われて食べたくなるか?
それなのに、自称かどうだかわからないような「評論家」の言うことを信用してしまうのはただのバカ。まじでやめたほうがいい。
翻って、自分が料理を評論するときも、おいしい、まずいの使い方は本当に気をつけたほうがいい。
でも、それを他の人に勧めとき「おいしい」って理由で勧めるのはやめたほうがいい。
例えばピーマンを嫌いな子供にしてみれば、ピーマンの苦味はまずい。
しかし、当然その苦味を好きな人間からしてみれば、ピーマンはおいしいと感じる。
つまりはどこまで行こうとも、味覚というのは個人の好き嫌いでしかなくて、それを評価である「おいしい」「まずい」で他人に伝えようとすること自体が間違いだということ。
どれだけ信用している人間から言われても、本当にそうなのかは自分で確かめてみないと絶対にわからないのだ。
これは芸術全般にも言えることで、音楽や映像、絵画、デザインやアートを「良い」「悪い」で語る人間を信用すべきではない。
そもそも評論家の意見を信用してものを買う人間が後をたたないことが問題。
今の世の中なんて、悲しいかな品質よりも宣伝がうまいものばかりが評価されてしまう。
そういう世の中で自分好みのものに出会うには、自分の好き嫌いをしっかりと認識すること。
好き嫌いで割り切って情報を眺めれば、自ずと失敗は減っていく。
ラーメン業界の健全な発展とかを望むなら、ラオタをとにかく排除する事から始めなきゃなね
ラーメン店主と異様に馴れ馴れしくしようとするラオタや、変に評論しようとするラオタ、太ってるラオタ、態度の悪いラオタ、逆恨みするラオタ、他の客にデカい態度とるラオタ。ラーメンばかり食ってるラオタ。
それにそもそも、ラオタってのがさ、他に何も自慢も何も出来ることがなくて、唯一出来ることが誰でも出来る「ラーメンを食べる」ってただけ。それにすがりついてアイデンティティ保とうとしてるから、他人にマウントとって自分の地位を高めることに必死なんだよね。だから、ラオタに品性なんて者を求めるのがそもそもの間違い。奴らの行動原理はマウンティングと結びついてるからあの連中排除しないと同じ事は必ず起こる。
https://somethingorange.biz/archives/7069
kaien氏の力作なので読んであげて。
この問題って、要は
マナーの悪い中国人が多くて困るから、中国人は出入り禁止ねって言う事案で、
人種差別だ、いや、中国人全体がその責任を負うべきだ、と揉めるのと同じ構造。
痴漢や性犯罪は大半が男性がやるから、女性限定ねっていう事案で
男性差別だ、いや、男性全体がその責任を負うべきだ、みたいなのと同じよね。
私個人としては、やはり、ある属性を持つ集団が糾弾されたとき、
正直、ラーメン評論家の主張とプライベートの顔を本人からぶちまかれたら、出禁にしたほうの苦労は嫌ほどわかるよ・・・。嫌だって理由が分かってる以上は、理論立てて話す段階は終わってるもん。
「ラーメン評論家」って相手の仕事に影響力ある立場で「ラーメン屋の店主」に対して行ってるんだからばっちり「ハラスメント」の要件満たしてるだろ。
どこをみて満たしてないと思ってるの?
なんかさあ、これまでのセクハラ事件に比べると事実関係の証拠が乏しいように思うんだよね。
確かにはんつ遠藤のブログ記事は気持ち悪いし自白もしているようにも読めるんだけど
あれは本人的には事件性のあることはしていないから冗談めかしているようにも見える。
両者の話で整合性があるのは人妻シリーズに載せる写真を断られたってことくらいで。
SNSに載せる写真撮っていいですか、お断りします、というやりとりくらい普通によくあるし、
まあ、それが写真を撮られることに神経質になっている元アイドルということで同情すべき点はあるんだけど。
ニュアンス次第という感じはある。
たとえば、録音した音声とか同席者の証言があれば証拠になるのにそういうのが全くない。
個人事業主なのに専務を自称する人が同席したとか、どういう経緯で自分の店で会食することになったのかとか
その辺も謎。
それにしても本気で刺すつもりなら、大森靖子のパワハラ音声くらいの証拠あげられたんじゃないの?
別のラーメン評論家S氏とのやりとりも、一方的な被害者というには弱いし。
なんていうか、嫌な思いをしたのは多分本当なんだろうけど、微妙な本人証言をもとに
先入観で気持ち悪い側をセクハラ認定するのにちょっと怖さを感じてる。
いまのところ実際に起きたのが微罪なのか重罪なのかの判断つかなくね?
デブでコミュ障でマウントしがちな中年男性だって、無条件で気持ちよくフルスイングで殴っていいわけじゃなくて
犯した罪に応じて適切な力で殴られるべき。