はてなキーワード: メルヘンとは
https://anond.hatelabo.jp/20201105120324
ちなみに救いようのないゴミと思ってるから、あれを好きな人はスルーで。
そうかー。完全に個人的なキャラ観なんだけど、果林がそこまで『スクールアイドルという競技自体』に思い入れがあるとは思わなかったな。
せつ菜とか絵里とか、『人』に対してライバル心を燃やすだけで、スクールアイドルはその手段かなって。
少なくともライバルが練習もできないのに、一人で己を高めるような人物とは見えなかった。
まあキズナエピの記憶も曖昧なので、そうでない描写があったのかもしれん。
ランジュがムカつくから、今は臥薪嘗胆でも絶対倒したるわ!って理由で行ったならまだ納得できたんだけど。
口ではいつか倒すみたいなことも言ってたけど、全く熱さを感じられなかったし、言い訳にしか聞こえなかったからね。お前はるろうに剣心の宇水か。
元増田は触れてないからどう思ってるのか分からんけど、私はあんな人情の欠片もない奴を愛さんとは認めないわ。あれは受さんだよ。
仲間が困ってるときに見捨てて! 監視委員で弾圧してくる糞野郎のところへ行き!
別に諫めるわけでも友達になるわけでもなく、間抜け面でバックダンサー!
なんかもう語るのさえ嫌だな…。アニメを見返そう。
虹ヶ咲学園がクズ理事長のもと縁故主義と人権侵害が平気で行われるゴミ学校となってしまったのも酷い。もう廃校になっていいよ。
でも仕方ないんだ。
オタクを続けていれば糞シナリオの一つや二つはどうしても遭遇するものだ。
自分の場合は十年以上付き合ってきた遊戯王がアークファイブで大炎上した記憶がやはり大きいし、艦これ3話とか、古いけどアニメCanvas2の最終回とか、つくづく酷かった。
(けもフレ2は1話切りしたので何も言えんが)
「仮にもプロが書いてるのに、素人でも明らかに駄目と分かるものが何で出てくるの?」と毎回思うんだが、とにかく出てくるんだ。理由は知らん。
そもそも当のラブライブが、無印1期のラスト2話でとんでもない糞展開を見せた。
当時はマジで体調崩したし、あの話のブルーレイだけ未だに買ってない。
今思い返しても、構ってちゃんのことりと無責任野郎の穂乃果の行動はカスだと思う。
でも今はことりも穂乃果も好きだよ。
それはやはり、あの後に大量の供給があって、糞シナリオの印象が薄れていったからだろう。
虹ヶ咲もアニメで2期や映画と続いて、スクスタなんて忘れさせてくれればと思う。
多少駄目な程度なら――例えば『本人に相談もなく独善で鞠莉を留学に追いやった果南』くらいなら、何とか擁護したり二次創作でフォローしたりって気にもなるんだけどな。
今回レベルで駄目だと、もう自分の中でなかったことにするしかない。
元増田ほど全体を見極めようって気にはならないし、21章はよっぽど世間の評判が良ければ見る、くらいかなあ。
20章が公開される少し前に、彼方ちゃんのメルヘンスター衣装のために1万5千円も課金してしまったんだよ!
数日後には起動すらしなくなるアプリのために1万5千円…。
あああ…アホなことした…。
20章にも不安はあったけど、1周年で反省文出してたから油断してたんだよなあ。糞運営は何があろうと糞運営だって気付くべきだった。
まあ、アニメ連動ストーリーは良いから日曜には起動するし、そのための金とでも思うしかないな。
スクフェスはUI改悪でとっくに引退してるし、自由な時間ができた。
来週の璃奈誕に向けて創作に励もう…。
youtubeで子供が見つけたので一緒に見始めたのだけど、ストーリーが面白くてはまってしまった。
最初は「メルヘンチックで甘々展開やな~ ミズキ可愛い」と軽い気持ちで見てたんだけど、中盤から不穏な空気になってきて、リリアンとミユラが心配でどんどん見てしまう。
こういうのって主人公ペアは必ず結ばれるからほとんど興味ないけど、ライバルポジの子が不遇な扱い、ヘタしたら消されたりするから心配で仕方ない。リリアン人間のままでいられるのか…
あと、50話くらいあるのにあまり販促的じゃないのもすごいなと思う。ジュエルポッド、パッド、ペンくらいかな? もっとグッズ展開してたのかもしれないけど、プリキュアや仮面ライダーに慣れてて子供向け=販促アニメと思ってたので、いい意味で意外だった。ストーリーもハラハラドキドキするし、サンリオすごいなと思った。
映画版キャッツ字幕版を観た感想(ネタバレ酷評)を長々と書いていきたいと思います。
公開初日に見て間が空いてしまったので、記憶が曖昧なところもあり、映画の内容と異なる部分があるかもしれませんし、ほぼ散文なのでご了承ください。
感想を書く際には公式ホームページやAmazon music unlimitedでサントラを聞くなどして記憶を呼び戻したり、整理しました。
あらすじ
ロンドンのとある晩に天上界に行くことができるたった一人の猫を決める猫たちの舞踏会が開かれる
あらすじというか、ストーリーを端的にまとめるとこんな感じ。シンプルで分かりやすい話ではあるが、ストーリーには深みが無く、薄っぺらい話が二時間弱続きます。
上映開始
最初に配給会社のユニバーサルのおなじみの地球のロゴの映像が流される。普通の映画であればこの先が本編であり、早く本編が見たいという気分になるがそうではない。今回はこの先どうなるのだろうという不安と恐怖でしかなかった。
映画館で10回以上予告を見ているため、化け物のような猫と人間の融合生物には多少は慣れたが、やはり得体のしれない気味の悪い生物であることは変わりない。私が子供であったら恐らくトラウマになって絶対観てないだろう。
今回キャッツを観ようと思ったのは映画館に月約4000円で見放題になるPremyに加入しているからである。加入していなければあんな映画にお金を払う気には到底ならない。
定額サービスでは本来では出会えない作品であっても、定額なら出会おうとする行動の機会が与えられることを改めて認識した。
さて本編が始まる。
説明しづらいが、遊園地のメルヘンなBGMや、映画ITチャプター1の終盤にベバリーがペニーワイズに連れ去られた後に地下水路の中で謎の踊りをしながらペニーワイズが登場したときのBGMのようなものを更に不気味にした音楽でした。
私はこういう音楽が苦手であり、共通で酷評されているポイントではないかもしれないが、既に作品への嫌悪感をさらに抱いてしまった(サントラ最初の曲として収録されています)
今までの人生で約300本近く映画を観ているが、開始数秒で観たことを(正確には音楽を聴いただけなのに)後悔したことは初めてだろう。あと何年生きるか分からないが、二度とそんなことは無いと思う。
本編は主人公猫ヴィクトリアがゴミ捨て場に袋に入った状態で捨てられるところから始まる。そこから未知の世界(観客からしても)に迷い込み、様々な猫と出会うこととなる。
ゴミ袋から出て早々いきなりミュージカルが始まる。この映画は基本的に新たな猫に出会うたびにその猫の自己紹介も兼ねたミュージカルシーンが繰り広げられつつ、ストーリーが進行していく。そう、永遠と猫の自己紹介を聞かされまくるのだ!
最初のシーンでは猫はジェリクルキャッツと呼ばれており、舞踏会で真のジェリクルキャッツを決めることが明らかにされる。
ただミュージカル内でジェリクルという言葉をクソ連発していたが、ジェリクルって抽象的すぎて何だよ、くどいんだよと見ていてイライラした。ジェリクルの意味を調べると、ジュエリーとミラクルを組み合わせた造語で、人などに頼らず気高く自由を謳歌する的な意味合い。
また、日本語字幕のはずだが、歌詞が意味分からなすぎて悲しくなりました。日本語のはずなのに全く意味不明で日本語の難しさを改めて実感しました。超シンプルなストーリーのはずなのに、理解するのが難しいという矛盾。観客に寄り添い、理解を促進させるための狂言回し的な役割を果たす猫がいれば理解、感じ取りやすくなるのではないのでしょうか。
何なんだ、このシーンは。こう戸惑っている間にもまた新しいデブババア猫が現れてミュージカルが始まります。この新しいデブババア猫のシーンが一番の問題シーンではないでしょうか。
このデブババアは本当にだらしない的なノリで歌い踊るのですが、その途中に猫以外の生き物が登場します。
まずネズミが出てくるのですが、ネコと同じく体はネズミっぽくて、顔は人面というトラウマ化け物なのです。人面ネコは予告で何とか慣れたのでいいですが、人面ネズミは想定外で気分が悪くなりました。
そこにとどめを刺すかのように登場してきたのは大量の人面ゴキブリ。
テラフォーマーズを観に来た覚えはないのに...
大量の動く人面ゴキブリの出現を見て気持ち悪さのピークが急上昇。人面ゴキブリが出てきた瞬間、見てられなくなり、入場で貰ったキャッツのポストカードで自身の目をとっさに覆い隠し、途切れ途切れに見ることに。おまけに人面ゴキブリをデブババアネコが食べるシーンがあり、それを一瞬見てしまい、我慢の限界で一時退出。
今まで映画の上映途中でシアターから出たことがないのですが。わずか20分で耐えれなくなり退出してしまいました。
ネコのCGですら気味が悪いのに、ネズミやゴキブリはマジで地獄です。
今まで映像を見てられなくなったことは二回あり、ウォーキングデッドのシーズン7の1話の2人の処刑シーン(グロイからではなく、いなくなるのが辛いから)と1984の主人公ウィンストン・スミスがババアと売春するシーンなのですが、それらを上回る嫌悪感と恐怖と衝撃でした。
ウォーキングデッドも1984も過激な作品であり、万人が見るような作品ではないからまだしも、キャッツはR指定もなく話題のミュージカルを映画化したものです。そんな映画で気持ち悪い物を見せて何がしたいのでしょうか。
ネコのリアリティーを出したいのか、製作者の意図はよくわかりませんが、映画館の予告やテレビスポットで散々見せてきた華々しいシーンを観客は見たいと思ってるはず。なのにあんなものを見せられたらたまったもんじゃない。
海外のメディアがあれだけ語彙を振り絞ってレビューしているのがうなずけました。
退場して数分後には心も落ち着き、全部見るかこのまま帰るか正直悩みましたが、まだ本編開始20分しか経過してないのでまだ見どころはあるに違いないと信じて席に戻りました。
結局見どころは特になかったけどね。
特にストーリーの展開のない自己紹介クソミュージカルをして悪役ネコ(作中では珍しく服を着ているのですが、そのせいか特有の嫌悪感があまりありません。みんなまともな身なりをすればネコのふりをした化け物から脱却できるのはず)が自己紹介をしたネコを特殊能力で連れ去るくだりを何回も繰り返していきます。特にミュージカルが面白いわけでもなく相変わらず意味不明かつ単なる自己紹介で話が進まず、永遠に悪夢が続きます
悪夢を繰り返していくと遂にジュディ・デンチが演じる親方長老ネコが登場します。
MI6のボスとして007に無理難題を突き付け、嫌みを言い時には対立もするも頼れるあの方がまさか長老ネコに転職するとは誰が想像したのでしょうか。器だけでなく、胴体も大きいです。007に出演している所以外見たことないので、キツメのおばあ様という印象なのに、やさしいハルク並みの体を持ったネコのおばあ様に変身してしまい、終始困惑していました。とにかくこの親方長老ネコがネコ界の有識者であり、舞踏会のチャンピオンを選ぶ決定権があるそうです。
親方長老ネコが現れてから今まで街中や家などで自分勝手にミュージカルという名の歌い騒ぎ踊る狂乱発狂が少し収まり、舞踏会らしいステージ会場に一同終結しました。いや、なんでみんな会場に最初から集まらないで好き勝手に暴走してんの?
全てのネコが会場に集結してミュージカルが再開するのですが、結局は新たなネコの自己紹介です。
落ちぶれた演劇俳優のよく分からない怖い話と、鉄道社畜ネコのタップダンスを見せられ、パフォーマンスが終わると悪役ネコに連れ去られるお決まり。
その後悪役ネコと愛人ネコのミュージカルが始まります。この愛人ネコはテイラー・スウィフトです。テイラー・スウィフトの曲は高校の時に友達が紹介してくれたアルバム1989に収録のwelcome to new york とblank spaceとshake it offぐらいで更新が途絶えていてあまりよく知らないので特に感動もしませんでした。ただ、悪役ネコと違い服を着てないのにあまりネコのCGに違和感を覚えませんでした。キツメの美人顔だとちょうどいいのでしょうか。とにかく悪役ネコのコンビは唯一のネコだと個人的には思います。
パフォーマンスが終わると何とジュディ・デンチが悪役ネコの超能力で連れ去られます。先に連れ去られたネコと一緒に船の上にいて、悪役ネコに天上界に行けるネコに選ぶように脅迫をされます。
そのころ舞踏会ではジュディ・デンチがいないことに気づき大騒ぎになります。そこでネコたちはマジシャンネコにマジックで瞬間移動のマジックで連れ戻すように要求してマジックをさせられます。
マジックは種と仕掛けがあるからマジックであり、勿論ジュディ・デンチを連れ戻す種も仕掛けもなく、超能力者でもないので当然連れ戻せません。連れ戻せないのにネコたちは
Oh magical Cats~~ Oh magical Cats~~ Oh magical Cats~~
しかしこれはご都合主義の映画なので何故かミラクルが起きてマジックでジュディ・デンチは戻ってきて喝采を浴びます。
あくまでも個人的な意見ですが、デスノートは死神のノートだから名前を書くと死ぬ、ルフィは悪魔の実を食べたからゴム人間、キャプテンアメリカンは実験で超身体能力を得たなど、特殊能力には何かしらの最低限の根拠があるべきで、いきなり根拠もなく奇跡だけでおこるのはどうなんでしょうかね(性格悪くてごめんなさい)
戻ってきたので、天上界に行くネコを決める審査が再開され、そこに見ずぼらしい姿をしてネコが現れます。そのネコは舞踏会に行く直前で主人公ヴィクトリアが美声を聞いて励ましていたネコです。見ずぼらしいネコはミュージカルを見たことがなくても聞けばわかるであろう有名曲メモリーを皆の前で披露、見事天上界に行くネコに選ばれます。
これで終わればいいのに、ジュディ・デンチがネコ版のトリセツみたいな曲を歌いだして困惑しながら謎のエンドクレジット。ネコは話しかけてほしいけど、気高いから馴れ馴れしくしないでほしいらしい。いや意味わからないし、この曲いらないだろ。
エンドクレジットの瞬間悪夢から逃れたくてすぐ退出。テイラー・スウィフトのビューティフルゴーストは聞いてません。
総括
ネコの方も修正の無い初期版はそんなに酷いのか気になるところ。
ストーリー要素の面白みは皆無でほぼミュージカルが永遠と続く。
曲もメモリー以外はそこまで好きになれず。
ミュージカル版は面白いらしいのに映画版を微妙に感じるのはミュージカル部分がクソだからでしょうか。
目を閉じて鑑賞するといいのかもしれません。人を究極的に選ぶ映画。
全編自己紹介ミュージカルで途中気分を害する映像が流れると覚悟した上でみれば、そこまで酷評をしなくてもいいと思うが、面白いわけではない。
こんなのにお金払うならジョジョ・ラビットかパラサイトかフォードvsフェラーリを見てほしい。
4505字
この前のことだ。
私はその日、大事な用事があったのでいつもより気合を入れたメイクをして、下ろしたてのブランド物ワンピースを着て居た。
美味しいアフタヌーンティーを堪能し、女子会を終えて帰宅しようと最寄駅からバスに乗ろうとした時である。
突如として見知らぬ男に立ちはだかられた。
「すみません!信じられないと思うんですがさっきお見かけして一目惚れしてしまいました!」
「あの、よければ連絡先、あの、帰りも一緒に帰りたくて、」
そこには冴えない眼鏡の男が立って居た。手には買い物袋を提げていて、それが確かに私の先程目の前を通った店の名前であったから偶々見かけたというのは真実なのだろう。
いや気持ち悪っっっっっっっっっっっっ
アプリゲームしてるのが見えないのか?お前の連絡先よりガチャの方が大事なんだわ。
誰?この人に一目惚れとか教えたやつ。ちゃんと遺伝子から教育してくんない?
その日最高に高まった私のテンションは全く知らないロマンチストな気色悪い他人に台無しにされましたとさ。
メルヘンなんて信じてんじゃねえ
3일
3日目
日本でいうところの令和2日目。
光州の朝は晴天だ。
香港で見た夢は習近平と麻生太郎が出てくるというぶっ飛んだものだったが、光州で見たのは同僚に「韓国旅行どうでした?」と聞かれて「良かったよ」と答えるという現実的なものだった。
今の所、インプレッションは上々だ。
今日はまず光州で起き、映画「タクシー運転手」のテーマにもなった民主化運動の記念碑が立つ、5.18記念公園に向かう。
オシャレだが簡素なhotel stay 53では朝食もない。
行きすがら何か食べようと、街を歩くが、朝9:30の光州では空いている店もまばら。歩いている人も多くない。
やっぱりノンビリした街だなぁ。
韓国ではキャッシュカードやT-money、普及中のバーコード決済でキャッシュレスが進んでいるという。
光州の街は人口で言えばちょうど京都市と同じくらいなのだが、緑が多さと人口密度の薄さを考えると、札幌市の印象に近い。
しばらく歩くと公園に到着した。
民主化運動の聖地というが、緑豊かな市民の憩いの場という感じで、丘状の公園の中腹にある人場では、設置された宙に浮いて足踏みをするタイプの運動器具でオバちゃんが健康づくりに励んでいた。
予想外に日常的で平和な光景に少し驚いたが、公園をグルリと一周すると、3人の男性が宙に手を伸ばす民主化運動のモニュメントに出会った。
筋骨隆々としていて、さすがにちょっと理想化されてるんじゃないかと思ったが、その自由を求めて闘う表情には迫力があった。
中に入って一瞬目を見張った。
この闘争で亡くなった人か。
平和な光景の地下に、この日常を目指して亡くなった人たちの記憶が眠っている。
さすがに空腹になったので、近くの店に入ってソルロンタンで昼食をとる。
オバちゃんの指摘は優しく控えめな感じだった。
エネルギッシュな印象のある韓国人だが、光州の人はどこか柔和な感じがする。
8000ウォンを支払い、歩いて行けそうなカラフルな集落、「青春発散村」に向かった。
20分ほど歩くと、川沿いの坂道にカラフルな集落が出現した。「青春発散村」だ。
坂道に張り付くような民家がカラフルなペンキアートで彩られている。
らしいと言えばらしいのだが、パステルカラーの家々ではどう見ても普通に生活が営まれており、どでかい少年のコンクリ像のすぐそばの家からは小学生程の少年が飛び出してくる。
学習塾か何かだろうか?
メルヘン大盛りの集落で少年時代を過ごしたあの子達は、どういう記憶でこの日々を振り返るのだろう。
路線番号518
当初の予定には無かったが、時間的に間に合いそうだったので、光州事件の犠牲者が眠る5.18民主墓地に向かう。
外国の市内バスは何が何だかわからないのだが、このバスに限っては間違いようがない。多数の路線の中でただ1つの3桁ナンバー、ズバリ518なのだ。
緑豊かな山の上に、モニュメントが建っている。
天を衝く槍のようなその下に、民主化に立ち上がって倒れた人々が眠る墓があった。
仄暗い空間を見渡す限りの壁一面に、額に入った遺影が並べられていた。
歩いたし、衝撃も受けたので腹も減っている。
コーヒーでも飲みながら友達とSNSで話そうかと思ったが、夜に早い光州のこと、急がないとまた行きたい店が閉まってしまう。
バスを降りてすぐに光州松汀駅に向かった。
途中、T-moneyカードをチャージしよう思ったが上手くいかない。
身振りぶりで行き先を示すと、切符の買い方や乗るべきホームまで教えてくれた。
相手が何語だろうと自国の言葉で臆せず押し切るのは、万国共通のオバちゃんフォームなのかもしれなかった。
俺は一体この旅行記で何回「オバちゃん」というワードを書いたのだろう。
店に入っても日本語メニューなどは無かったので、壁のハングルを指差して注文、相手はもちろんオバちゃんだ。
やがて、10皿ほどの小皿おかずと、牛モツ煮込みスープ、山盛りの青菜がやって来た。
やがて焼きたてのトッカルビがやって来た。
小皿のキムチなどをつまみながら、トッカルビを青菜に包んで食う。
トッカルビは肉の味なのか、一緒に練りこんだ調味料の味なのか、少し甘い。
いい意味で見た目通りの味がする。
そしてキムチは辛い。
全羅南道のキムチは辛いと聞いていたが、辛さのアタック力が日本で売られているキムチとは違うし、もっとシンプルな味がする。
韓国人からしたら、日本のキムチは辛くない上にしつこく感じるだろう。
テーブルに乗せられた料理は一瞬圧倒されそうな量だったが、空腹のためか、ついでに頼んだビールの作用かどんどん食い進めることができた。
食の都といわれる光州、これだけ食えば上出来だ。
店長とされているおじさん(ビジュアルはちびまる子ちゃんの友蔵)と二人でスタッフルームに詰められている。
おそらく4畳半もないスタッフルームだが、パソコンが2台あり、ぼくはせっせと作業をしている風にこの文章を書いている。
GWだってのに暇である。何が令和だ、こどもの日だ。ぼくには無関係なのである。
エロい事を期待していた、というのは少し語弊がある。
女の子と宜しくしようだなんて考えてなかったし、
かつて利用したことがある風俗店でみた、幻のようなエンターテインメントを演出する”キャスト”になるのだから。
それはもう、メルヘンかつ刺激的な業務内容になるのだろうと思っていた。
実際に身を置いてみると、こんな状態だ。
平成初期に造られたであろうボロボロの建物、狭いプレイルーム。
真っピンクなタオル、漂う香りはイソジンとファブリーズに、タバコくささのエッセンスを交えた様。
働く女の子はみんなどことなく目が虚ろで、偉い人たちは「あいつはGW中がギリかなw」とか話している。
商品は磨耗して扱いが雑になる、新人は大切に育てるが、それもベルトコンベアーに流れるが如く、磨耗していく。
バックレる女の子たち、予約して楽しみにしていたお客さんに頭を下げながら「これだから風俗は」と愚痴をこぼす大人たち。
元気な新人の女の子は口を開くたびホストの彼氏との近況を報告してくる。歯が汚え。ホスト行く前に歯医者行け。
働く様になって一週間が経ち、仕事も覚え、だいたい一人で店を回せる様にはなってきたが
たまに内面が大人に成長しないメンタルピーターパンの様な人は多く見かけるが、
ネバーランドでもない。
鯔のつまり、何が言いたいかというと、風俗店で働くという事はあんまり楽しくなかったよ、という事である。
比較的自分は女の子とコミュニケーションは取れる方だと自負しているが、それにしても楽しくない。
広い意味で調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまいます。
けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカやアシカにショーをさせ、イエイヌを人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります。
けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。そうだとするとヒトの業はアンチテーゼとしては機能しないです。ただ、テーマについて、議論を受けて改めて考えなおしてみたのですが、それぞれ責任の取り方を示唆する決着にはなってたと思います。イルカ・アシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える。イエイヌは不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います。木村監督は仕事受けたあとインタビューで「娯楽なので、ぶっちゃけ監督なんて誰でもいいんですよ」とお話したそうです。この言葉は謙遜、およびプロとしての矜持だった、道具に徹するという意志の現れだったのでしょうが、騒動で傷ついていたファンには「たつき監督への侮辱か」と受け取られてしまったようで、残念なことです。作劇のプロとしての基準がどのようなものか存じませんが、一般的なエンタメの方法論の尺度では、(見得を切った割には)十分な水準に達していなかったということでしょうか。俺としてはとっちらかっているとまでは思えなかったです。
野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。性格の自己申告の目的がわかりやすくするため、と申しました。サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者は最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。むしろ俺は貴方のレベルでそれを見落としたことに驚いています。すくなくとも演出の目論見は失敗したと言っていいでしょうね。
ミドリがケムリクサ自体を回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。
いただいた他の論はあまり説得力を感じませんでしたが、この解釈は的を射ていると思います。考察によって筋を通すことができる、それに耐えられる作品になっている。そういう信頼がたつき監督にはあり、木村監督には無かったのでしょう。見返しておられるとのことで詳しくは控えますが、あらゆるポイントに伏線と回収があります。りんが記憶の草を触られて居心地悪くしているシーンは流し見るとなんかエッチな雰囲気に見えてしまいますが、きちんと意味のある描写です。内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。俺はけもフレ2もSFアドベンチャーとして設定を考察しています。しかし先に触れてらっしゃいますが、全体的な伏線-回収のスタイルには2つの作品は確かに大きく異なっています。
「さぁとっとと野生解放するのです」… かの名言を忘れているとは。おっしゃる通りで返す言葉もないです。やれやれ、咀嚼が足りてないですね。噛めば噛むほど味が出る、これがたつき監督のけもフレ1以後の作品の凄さでした。個人的には、けもフレ2もそのスピリットを色濃く受け継いでいるように思えます。
ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾や意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなります。けもフレ2は、そういう作品ではないので、
これには異を唱えておきます。けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合を意識しなくてはならなくて、キャラクターもかぶらないようにしなければならない。ヘラジカとプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています。舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテルの位置。時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。ボスウォッチでキュルルちゃんを探すことができてしまうと、けもフレ1で海に落ちたボスをラッキービーストは探せなかったのと矛盾が出る。伏線だけでなく視聴者の印象にも配慮しなくてはならない。最終話で唐突にボートが出てくると、あれ? けもフレ1のかばんちゃん出立でバスを使ったのはなぜだよ、というショックを与える可能性があるので、うみのフレンズ回で予め出しておく。”うみのごきげん”はそのタイミングで合わせて出す。パーク内でのボスウォッチの在り方は、けもフレ1では”脳みそソコについてんのか!?”というビックリ要素でしか無かったですが、バスのハンドルディスプレイにウォッチをかざせというようなGUIがあるところからみて、ウォッチはボスの形態の一つだったと考えられます。そして引き出しに大量の異型筐体のボスウォッチ。「コレを持っていって」っと手渡す。様々な疑問に筋を通す解釈を俺は見つけることができました。見逃してしまうような設定開示を考察で結ぶことができる、これはたつき監督のお家芸だったはずですが、継いだ最初の仕事で再現できる手腕には舌を巻きます。
このようにけもフレ2では設定が矛盾しないように、しかもそれを前面に押し出さず(制作が苦労している感が出ないように)背後で処理している。考察を進めると考える上でヒントになる(あるいは制限になる)情報があちこちにあるわけです。視聴時の情報の引っかからなさが、けもフレ2の優れたポイントです。キュルルちゃんの出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズなら、コレは擬似的に不老不死を実現していることになる。そうすると、けもフレ1の山頂の戦闘機にも理屈がつけられるような気がしませんか。よくある批判に、キュルルちゃんの正体が最終的には謎じゃないか、というものがありますがそれを言うと、わかばの正体も最終的には謎でした。俺から見ると、どちらも読み解くのが… とても楽しい。貴方ほどのレベルの視聴者にこの作品がメルヘン扱いされているのは、勿体無いことこのうえないです。”義憤”や”同調圧力”などがそうさせてるとしたら… ううむ、最初の諍いのときに制作はプライドを曲げてでも頭を下げて、互いに許し合うべきだった。残念です。
あのシーン(引用者注・けもフレ1の全員集合シーン)を、フレンズ化セルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。
牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空からの俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。
「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラの基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレ1ファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います。
それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃんを誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者の視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界」概念のスピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思います。けもフレ1でも博士はサーバルの図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウの能力の表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズを酷使して、かばんちゃんを、りょうり要員として使役しています。視聴者を全面的にエンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない。
一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます。問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品が問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記・とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。