はてなキーワード: メイキングとは
個人的にワーキングメモリーを鍛えるのに役立ったなと感じた事を挙げる。
自分も増田の言及している人物と似たようなレベルだったが、これらを続けて別人レベルに改善されたと思う。
まだまだこういった情報は世の中に普及してないので、知らずにもったいない人生を送っている人がたくさんいるだろう。
これはマジで効く。騙されたと思ってこんまりの本を読んでから思いっきり断捨離してほしい。
(なぜ先にこんまりの本を読むかというと、物が多いやつが自分のそれまでの考え方を引き継いで断捨離したところで捨てられないままだからだ。外部からマインドに介入する必要がある)
物の多さに専有されてた脳内メモリーが解放されかなり頭がスッキリする。
何があるか、どの場所にあるか、いくつあるか、普段は意識してなくても無意識に脳が使われていた諸々の情報が一気にクリアされるのだから当然だ。
ADHDだから物に溢れるのではなく、物にあふれているからADHD傾向が高まるという側面も大いにあると思っている。
我々の脳は以前として原始のままで、現代に適応しきれていない。だから原始脳ベースで考える必要がある。
次の食べ物にいつありつけるかわからない時代の原始のままの脳は、食べ物を見ると自動的に脳の報酬系にスイッチを入れ食べたくなる。
我々は原始脳の「自動的に行われること」から逃れられない。ならばそれは環境でコントロールするしかない。
物が雑然と溢れている状態は敵がどこに隠れているかわからないような状態だ。
常に無意識的に周囲の状況を把握し気を配りマルチタスクが行われている。
物が多いとそれだけで注意散漫になるのだ。(※1)
(※1 参考1・https://wired.jp/2016/04/22/clutter-and-creativity/ )
(※1 参考2・https://studyhacker.net/what-is-dmn)
これだけでかなり効果がある
これも効く。脳の灰白質が物理的に増加するので効くに決まっている。
ただしこちらは即効性はない。根気よく続けることで徐々に効いていく。
最初は1分やるだけでも落ち着いていられないが、徐々に長い時間できるようになる。
20分以上が良いと言われているが、忙しさとの兼ね合いもあるので自分は毎日10分やるようにしている。
先延ばしにしている事があると、常に脳の中にその出来事がキープされていて、マルチタスクをしてるのと同じ状態になる。
これはワーキングメモリーを圧迫する一因となる。
これを処理するだけでもかなりワーキングメモリーが解放される。
郵便物や書類、未処理のまま溜まってませんか?こいつらの有害性はすごいよ
すぐ処理するか、いらん書類は捨てよう。経費と関係ないレシートとっててもWM圧迫するだけで意味ないよ?(かつての自分へ)
心配事や先延ばしにしていること、何でもいいので頭の中でわちゃわちゃしている事を一旦紙に書き出そう。
脳内だけで処理していたものを外部に書き出すことで、頭の中のごちゃごちゃが鮮明になりスッキリする。
厳密なやり方にこだわる必要はない。とにかく書き出して「全部見えるように」する。
とにかく選択肢を減らす事。
数十円のお得のためにワーキングメモリーを台無しにするのはもっと大きな損失を被っている。小を捨て大に就こう
あとこれは自分は試してないけど「Nバック課題」ってのが効くという噂→https://yuchrszk.blogspot.com/2016/11/2016_30.html
ちなみに自分はここに書いた情報の大部分をDaiGoやパレオな男さんから仕入れていたので、人間的弱者こそ侮らずに両名やその他エビデンスベースの人生指南に頼るといいだろう
ということでオススメの書籍も紹介しておく。どれもエビデンスベースの本なので人間の性質への理解が深まり、改善のヒントになるはずだ。
興味があったらぜひ読んでみてほしい
脳の神経可塑性、つまり脳は後天的な訓練で変えられるぞ!という内容が書いてある
脳には神経可塑性があるという事を知ってると知らずとでは、行動やモチベーションに大きな変容がある。
これを知らないと、どうせ何をやっても変わらない、何の意味もないと投げやりな人間になってしまいがちだ。
自分をマシにするモチベーションのためにも読んでおくと役に立つ。
等々
どちらも自己コントロールをするエネルギーの源泉(意志力)について。
前者は平易な文章、後者はやや権威的な文章で書いてある。ちなみに意志力の提唱者は後者。
第6章から「ADHDも運動で改善できるぞ!」って事が30ページを割いて書いてある。
俗なタイトルからは脳筋な内容しか連想されないがきちんと科学的なエビデンスベースの本である。
等々
一部抜粋
ドーパミンとノルアドレナリンが注意システムの調整において主導的な役割を果たしていることを考えると、ごく大まかな説明ではあるが、運動によってADHDの症状が緩和されるのはこの2つの神経伝達物質が増えるためだと言える。それも"すぐ増える"のだ。(P200冒頭)
※ちなみにこの本で効果的と示されてるのは筋トレではなくジョギング等の有酸素運動のほうである。
この本に関しては自分が読んだわけではないがブコメで推薦されていた物。
中身の紹介を見てみたが、まさに自分がここに書いた内容が体系的にまとめられていて、とても良さそうだったので薦めておく。
他の4冊はワーキングメモリーそのものに言及した内容ではないので、時間がない人はまずはこの一冊だけで良さげ。
http://smoothfoxxx.livedoor.biz/archives/52112063.html
なんか思いの外バズったので、もしかしたらこういう情報が需要があるかもしれないので書いておく。
自分はこの増田を、かつての自分みたいな人を助けたい、役立ちたいと思って書いたので、もしこの記事を紹介、転載したいというメディアの方がいたらどうぞ無許可で広めてくださって結構です。フル引用も可です。
「ここに書いてあることを習慣化できたら苦労してないんだよ!」という人にオススメの書籍
脳は急激な変化を拒むがグラデーションのような連続的な変化には気付きづらい。
その脳の特性を理解し、自分の脳を騙して脳が気付かないくらいの小さな変化から習慣化していこうというアプローチの本だ。
自分の例でいえば、最初は瞑想を1分から始め、徐々に強度をあげていった。
挫折するのは気張るから。本当にバカバカしいくらいに意識の低い「しょぼい習慣」から始めよう。
歯磨きやシャワー・お風呂など、日常の中の既に習慣化されている事にフックして習慣化するIf-Thenルール(If-Thenプランニング)もオススメだ。(例・朝のシャワーあがりに瞑想する等)
miHoYoありがとう……オーケストラ映像見てると涙が出てくる、何もかもが素晴らしくて
https://www.youtube.com/watch?v=5El1WIS_neE
モンド地域のときのロンドンフィル、璃月地域の上海交響楽団によるメイキング映像が公開されたときも感動したが、それはどちらかというと制作のスケール感に圧倒された部分が大きかった
そこへ来て本日公開された、日本モチーフである稲妻地域の収録風景
東京フィルと民楽アーティストによる映像は、動画としてもより凝った見せ方をしているように感じたし、和を巧みに融合させた楽曲の構成にしても、miHoYoの本気、日本文化への最大限の敬意が伝わってくる
それに輪をかけて、今回の制作にあたられた時期は新型コロナのパンデミック下であったはずで、相当な苦労を乗り越えて出来上がったもののはずだ
これらはゲーム音楽ではあるものの、いやゲーム音楽だからこそ、世界や文化をつないでくれるものなんだという、音楽の力を真面目に語りたくなってしまう、それくらいの熱量を受け取った
原神はリリース一年弱で3つ目の国が公開されたが、この大陸には七国が現存しており、4年ほどかけてマップの広がりとともにメインストーリーが展開されていく予定らしい
少なくとも彼は障害者を人として扱っていなかったと思う。ここで言う人として、とは人道的にという意味を遥かに超え、認知として人に見えないものであると思っていたように感じる。人に見えない動物に類するのだからいじめても問題がない、という認識がそこにあった。人と動物のボーダーラインを知や自立意識に設定するなら、障害者の振る舞いは確かに人間的に映らなかったのだろう。では、小山田はなぜあんな事を言ったのか。
彼はダウナーの代表格だったことは紛れもない事実で、メジャーへの反権力的思想を持っていたと思われる。すると彼のとる言動とは、人間でないものを人間として扱うことはおかしいことだ、という反抗的精神をもって行われたと見ることもできる。小山田がいじめを行った当時からこのような明確さを持っていじめていたという話ではなく、いじめを行ったと大々的に述べた経緯から、いじめられるものはそれ相応の人間らしさを失していて、それに乗り切れないものは小山田認識の扱いを受けて当然だというものだ。ロッキンオンジャパンは文字通りロックの雑誌で、こうした反メジャーの言動が「キレ」ていて拳を世間に投げつけやすかったのだろう。
ではこの功罪がダウナー側だけに与えられるかというと、そうではないと考える。アッパー以前にはネアカ・ネクラという現在で言う陰キャと陽キャの分類があり、ネアカからはみ出した連中は皆非差別的な扱いを受ける傾向にあったからだ。結局小山田のやったことは人間の階級化であり、昔から人間がやっていることは普遍的で変わりがなく、その点で彼の行動は別段英雄視されるエポック・メイキングでもなく、極めて平凡で凡庸な叫びに相違なかった。その平凡な反抗心は今では本来の意味すら取り沙汰されずにいる。
しかしよく考えると小山田という平凡な人間が集団リンチを受けてキャンセリングされるに至って、彼という価値は全く異質で理解され難いものとして排斥されつつある。まるで彼自身がいじめ発言によってロックないしパンクな立場に――彼の音楽ジャンルは指していない――立ったよりも更に無機質で集団的な運動によってだ。
事件から2年たった今、ようやく自分の中によどんでいる想いを言語化する決心が出来た。
2019年7月、京都アニメーションの放火事件が起こった。当時、私は某動画サイトの広告でその一報を目にした。
そのとき目にしたニューうサイトの写真は建物が煙に包まれているところで、仔細についてはまだ明かされていなかった。
きっと小火だろうなと思った。絵に携わる会社で紙の焼失は痛手だろうが、今はデータ化もされているだろうしと、ただ名前を知っている会社の不幸を気の毒に見守っていた。
小火程度かと思った火事の程度は建物を崩すほどの甚大な被害で、搬送されたスタッフの数は会社に在籍している社員のほぼ半数近くだった。
情報はアニメ関連サイトから規模の大きなニュースサイトにまで拡がっていた。無事であってくれと祈らずにはいられなかった。
日を追うごとにして、被害に遭ったスタッフの情報も明かされていった。中には、大好きな作品に深く関わったスタッフの名前があった。
深く気持ちが沈んだ。その作品に触れたのは5年以上前のことでも、それでも好きだったその作品を世に送り出してくれたスタッフの命が志半ばにして絶たれてしまった事がとても悔しく、悲しかった。
知ることは痛みを伴ったが、情報が出てくれば気にかかった。事件の現場で逃げおおせたスタッフが語る当時の状況、怪我を負ってなお現場復帰を願うスタッフの胸の内、そして亡くなったスタッフが生前に取り組んできた作品への想い。
読むほど、実際にはあったこともない彼ら彼女らへの言いようのない感情が起こった。そしてしばらく引きずって、そのニュースを見かけるたびに情緒が荒れた。
おそらくは私を含め多くのファンは、もう京都アニメーションの作品を観ることは叶わないだろうと確信していたと思う。
建物の被害はもちろん、失った人材はあまりに多い。当時のニュースを思い起こすと、あの事件当日は取材のために主戦力級のスタッフが集まっていて、亡くなったと報じられたスタッフの中にはその主戦力級のスタッフの名前が多く載っていた。
京都アニメーションの緻密な作画を支えるのは人材だ。暗黙のうちに、もうあの大好きだった作品たちには触れることができない覚悟をみんな決めていた空気があった。
歩みを止めない、という言葉があった時、彼らの作品を望む自分ができることは何かを考えた。
お金だなと思った。人材として貢献できる実績や才能がなかった私にはそれが一番合理的にできる支援だろうと思い至ったので迷わなかった。
彼らが作ってくれた作品を蒐集した。イベントにも行った。再演の映画にも通い詰めた。同じような想いを抱いているだろう人たちの生の反応や声に共感すると、一人で憂いているよりかは幾分か心が慰められた。
事件から2年が経ち、精神面では当時に比べれば大分落ち着いた。
それでもふとした時、部屋の中で彼らの作品を目にすると、どうしても思うことがある。
努力して、夢を叶えて、そして多くの人に希望、展望、癒し、楽しみを与えてくれた彼らが、その未来を不条理な理由で絶たれてしまった事。
何にも為せずに生きて来た自分が、無為に人生の時間を空費している事。
児戯に等しいとはいえ、私も絵を描く。多少なりとも絵を描く人間ならば、彼らのもつ技量がいかに素晴らしく、そして得難く、価値の高いものかがわかるはずだ。
才能が人の命を測るものではないと十二分には承知しているが、それでもただ生きている自分が申し訳なくなる瞬間があの日から続いている。
憐れむことも、引きずることも、彼らに失礼にあたるかもしれない。ましてかかわったこともない他人が、さぞ悔しかろう悲しかろうと訳知り顔で悼むのは所詮自己満足で、傍から見たらその過剰な反応に気味が悪くも映るだろう。
それでもどうしてもその思いが捨てられない。作画の参考にメイキング動画を見るとき、知らない技術の解説に触れるたび、これらを会得し作品を織り上げあそこまで美しい世界を作ってくれた彼らが永遠に喪われてしまった事に馳せてしまう瞬間がある。
今まで、人生を費やして打ち込んだものがない私は、それを見つけ目指し努力して獲得した人間が、悪意の第三者に不意に理不尽にそれからの未来を奪われた現実が、ショックだった。
自業自得ではない不幸がある、と知ってから何事にも不安が伴うようになり、そして価値の低い自分は、その時にはその理不尽を受け止めようという変な覚悟が決まっていった。
心を整理するために書いたはずが、未だ、向き合えていないのだと思い知る結果になった。
目指すもの、人生を費やし、心を注げるものへの出会いはいまだ果たせていないが、彼らの遺してくれた作品の未来に繋げるよう、まずは収入を得て買い支えることを心の支えにもして生きていこうと思う。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/81804
白饅頭さんやデヴィッド・ライスさんのことは応援しているけど、この記事はフェミニストと男性学者が受け入れられるものにはまったくなっていないね。
これは統計的差別という概念を正面から否定するものになっており、現代フェミニズムが統計を駆使しながら戦ってきた歴史をも否定することになってしまっている。
例えば、女性専用車両を合法的に成立させている基盤はなんだろうか。
統計上無視できないレベルで男性から女性に対する性犯罪が多く、その逆は圧倒的に少ない。
政策としてもこの統計的傾向は無視できないからこそ、最大多数の最大幸福を優先して専用車両を設けるに至ったんだよ。
加害性の強い属性を強制隔離しない限り、電車内の性犯罪は防げないから。
あれだけ世界各国から勧告されてもなお日本が共同親権制度を拒み、主に母親に親権を付与する形で単独親権制を維持する理由は何か。
父親の加害性、妻や子に対する家庭内暴力とモラルハラスメントの発生件数が母親によるものと比べても圧倒的に多く、共同親権にした時のリスクを無視できないからだよ。
家庭どころか、未成年の時点で既に男子学生と比べて女子学生の方が交際相手からの加害(デートDVと呼ぶことも)を受けやすい傾向にある。
フェミニズムだけじゃない。
EBPMという概念があってね。
https://www.cao.go.jp/others/kichou/ebpm/ebpm.html
EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング。証拠に基づく政策立案)とは、政策の企画をその場限りのエピソードに頼るのではなく、政策目的を明確化したうえで合理的根拠(エビデンス)に基づくものとすることです。
政策効果の測定に重要な関連を持つ情報や統計等のデータを活用したEBPMの推進は、政策の有効性を高め、国民の行政への信頼確保に資するものです。
有害な人物の排除一つとっても、十分な統計的エビデンスを集めてきた上でようやく可能となる。
これだけ統計が重視されている中で、全体の傾向があっても個々の人間には問題がないなどと言っていては、専用車両もアファーマティブアクションも成立させることなどできなかっただろう。
よく絵が上手くなる方法の締めに「絵を描くのが好きという気持ちが一番大事」というのがありがちだが、自分はその好きという気持ちすら持っていない。
二次元キャラのイラストを見るのは大好きだし眺めているだけで楽しいが、絵を描くのはただの線を引く作業としか思えないしもちろん楽しいとも思えない。
だからできるだけ手抜きをしてそれっぽく見せたいので、デザインドールみたいなトレス可能な3Dモデルを使うしメイキングもパクるしクリスタの素材も使いまくる。
なぜ楽しくないのに絵を描いているのかだが、多分自分の脳内イメージをイラストとして出力したいという欲求があるからだと思う。
自分の好みを一番分かっているのは自分なので、自分の好きなキャラやシチュエーションを思い通りに描けたら楽しいだろうなという安易な考えだ。残念ながら脳内イメージは少しも再現できていないし、自分の描いた絵に萌えたことは一度もない。
解決を拒否し過ぎは同意
『センスメイキング理論』ガーとかいうのもあるけどアレも結論は
センスメイキング理論に関係する諸研究は、組織の構成員をどう納得させるか、説得するかを探究する。それは、それぞれが客観的に状況を理解し、合理的に判断してもらうことを必ずしも期待するものではない。重要なのは、組織の構成員が行動することである。目標に資する行動がとられるのであれば、論理的、合理的な理解は必ずしも必要ではない。
なんだよね、とりあえず動いて貰うところまでしか期待していない
マッキンゼーの『非合理な職場 ―あなたのロジカルシンキングはなぜ役に立たないのか』ってのもあってこちらは未読だけれど
『本物のリーダーは引っ張らない チームをつくる4つの感情スイッチ』(こちらも未読)みたいな結論じゃないかなって思う
イケてるアニキ/アネゴになって『うん、そうだね』の共感をしようが説かれているのだと思う
『なぜ人と組織は変われないのか――ハーバード流 自己変革の理論と実践』はなんか面白そうではある
どんなエリート集団にもアガリ型(ポジションを手に入れたら成長と変化を放棄する)の人たちはいるが
ポジションを得るまでは主体的に動いてきたというのは大きな違いではないか?って気がするよ
そういう人らにも適用できるかどうか
起きる
↓
枕として使っていたクッション類を退避させる
↓
ソファベッドの上に置いてる低反発マットレス、掛け布団、毛布を畳んで押入れにしまう
↓
↓
背もたれの後ろに無駄に空間ができるので部屋が広くなるように押して移動させる(割と重い)
↓
退避させておいたクッション類をソファに良い感じに配置する
眠くなる
↓
ソファクッションとして使っていたクッション類を退避させる
↓
ベッドモードにする空間がないのでソファベッドを後ろに引っ張って移動させる(割と重い)
↓
↓
押し入れから低反発マット、毛布、掛け布団の順で取り出しベッドメイキングしていく
↓
退避させておいたクッション類を枕として配置する
↓
布団に入って寝る
最初は毎朝夜にカチカチやって毛布をソファベットの裏に隠す/出すくらいだったんだけど
引っ越しして高い重めの掛け布団買って寝心地最適化するために低反発マットレスとか揃えて部屋全体もインテリア揃えてオシャレにしたりして、
気づいたら作業がここまで膨らんでいた
ベッドじゃなくてソファベッドにした理由は面倒くさがりでなるべくベッドの上から動かず生活できるように、だった気がするんだけどこれじゃ完全に本末転倒だよ
このソファベッド割とお高かったんだけどもうゴールしていいですか?
セッションでどうしても腑に落ちなかったので、整理も兼ねて吐き出し。
要約すると「PvPあります、と事前説明のないシナリオでPLから奇襲をくらったんだけどクトゥルフ神話TRPGシナリオでPvP組み込みたいなら注意書きしてほしい」という話。※個人的要望
以下は経緯。ギミックの内容やトリガー明記してません。シナリオのバレも含んでいないつもりですが、この「騙し討ちPvP」がそもそもシナリオの楽しいところらしいので少しでもシナリオに触れるのが嫌な方は読まない方が良いと思います。
PLは5人。
KPが自信を持って集めてきた(らしい)PLで、PL同士も少なくとも1回は同卓経験があるメンツだ。
シナリオはそこそこロスト率が高くシビアだとKPからは説明があった。クトゥルフ神話TRPGプレイヤーとしてはなんともやりがいを感じる難易度だ!と喜んだ。
「探索者がPLの意図しない行動をとらなくてはいけないかもしれない」とも。ただ、RPに比重を重く置けばままあることではあるのかな?と思ったのでこの時は「そうか、わかった〜」と了承。思えばこれはPvPに発展するギミックのことだったわけだが、自分はこの文言でそこまで察せなかった。
PL同士は、PL会議(探索者目線ではなくPL目線での話し合い)をしてお互いの行動をすり合わせるのが得意な人たちばかりだったので協力は問題なく出来ていた。探索はそれなりに順調に進み、最終的な行動指針も見えて来ていた。
ただ、物語の中盤以降からPLの1人に秘匿行動が多く見られるようになる。
このPLをAとする。
KPとAが秘匿チャットしているのは明らかだったが、「何かオープンにしづらい情報を得て、情報確認中なのかな?」と思い口を挟まなかった。他のPLもKPとAの秘匿やりとりには言及せずにいた。これは秘匿シナリオでも無ければ、現時点で誰も単独行動をとっているわけでもないのに秘匿を打っている、のにだ。
なぜなら、これはクトゥルフ神話TRPGという基本的にPL間の協力を前提としたゲームであり、Aも同卓時はいつも協力的なPLだったから。信頼していた、これに尽きる。
そして物語が進み、1人の重要なNPCが死んだことがわかる。「なにか我々は見落としたのだろうか?」と不安に思いつつシナリオを進行させていく。そして、とある局面でAが突然NPCを攻撃した。明らかに今後の展開に必要不可欠なNPCを。
KPは淡々と「奇襲成功で、これから戦闘に入ります」と続けていく。
PLに動揺が走る。Aはシナリオギミックにより、「PLの行動を阻害」しなければならなくなっていた。そのために重要NPCを殺して回ろうとしていたのだ。先のNPCを殺したのもAだった。殺害されるとシナリオクリアに多大な影響が予想されたため、殺害を阻止するためにAの探索者と対峙を何度も何度も強いられた。正直に言うが、すごく厄介だった。敵エネミー、もしくは敵性NPCならば倒せる。二度と立ち上がれないように殺し切る選択をとるのもPLとしては自然だ。
だが、相手は同じPLであり探索者。こちらは気遣いで「殺せない」し、Aは「シナリオギミックにより死なない限り絶対に阻害し続ける」。縛り上げたりスタンも試みた。しかし、A探索者は肉体強化されていていずれの対策も無意味だったし、こちらを殺そうと追ってくる。最終局面まで本当に厄介で邪魔だった。こんなことを同じ探索者として協力していた人に思うのが辛かった。
これが「PvPあります」とは一言もないシナリオで巻き起こっているのだ。
幸いにもセッション慣れしているPLメンバーのおかげで笑ってセッションは終えられたし、なんやかんや全員生還は出来た。それは良かったが、個人的な印象は最悪だった。
何が嫌だったのだか、個人的に整理した。
①協力という根底の信用を裏切られた。
中には自分が得た情報独り占めにしたいって人もいるだろう。しかし「クトゥルフは協力してクリアするもの」と思って情報共有をしているのに予期しない裏切り者がいた。結果的に誰が何の情報をもつNPCかも敵に筒抜けになっていた。PvPあり、と書かれていればある程度精査して伝えるとか警戒しようがあるのに…非常に不愉快だった。こちらが情報共有している間、Aは先手を考えられるのだ。PL間の「じゃあこうなったらこうしよう」という少々メタなこの先の行動も全部聞いているわけだ。PvPが前提にあれば秘匿ないし部屋わけなどするところを。例えばAが「探索者がきいていないことは、しないようにした」と言っても完全に切り分けて考えることが簡単に出来るとは思ってない。ていうか、聞いちゃってるじゃんこっちの作戦全部……こんなにPL会議があほらしくなることあるだろうか。
奇襲の折に、攻撃していいものかPL間で悩んだので「なにか共有できる範囲で話せない?」と困り果てたPLからAに声かけがあった。KPから「話せることは何もないですね!」と返答。三重くらいに不愉快だった。言わなかったし「だよね〜」で流したけど、AってSKPとかNPCだっけ?
シナリオギミックで何喋るのも相談するのも全面禁止されてるならやっぱり前提として、途中秘匿かPvPありって明記してくれと思った。
個人的に協力ってめちゃくちゃ気を使うし、しなくていいなら単独行動して情報集めして必要な時だけ集まるってしたい。でもそんなに遠慮なくいれるメンバーでもないし、ちゃんと協力協調の姿勢をとろうと動いていたところで、この裏切りにあったので、「今までの協力しようって気遣いや声がけしあってたのバカらしい〜」って思ってしまった。自分でそんなこと思ってめちゃくちゃテンション下がった。
②PLの負荷が不平等
探索者に情報が偏ったり、役割が不平等なことはままあると思う。ただ、今回はAにかかる負荷が大きいと思った。
「私はこういう事情で協力出来ない」と伝えられない、相談できないギミックだったので5人PLがいながらAは孤軍奮闘だった。また、「PLの阻害役」と「PLとしてシナリオを皆でクリアしたい」の噛み合わなさにとても悩んでいた(後程聞いた話)行動指針を決めたり、考えること、精神的な負荷が他のPLと比べて重すぎやしないか。いやニヤニヤしてたなら良いけど、どうしよう…と他PLの心情を慮る人だったので後程聞いて心が痛んだ。一瞬でも邪魔とか思ってすみません…。
これ、シナリオギミック的には誰でも敵性になり得るシナリオだったのでたまたま立ち回りの上手いAがあたったけれど、苦手な子が当たっていたら雰囲気最悪になっていたのではないかと思う。自分があたっていたらと考えるとゾッとする。どう考えても何も知らない側より、PvP仕掛ける側に勇気がいる…。PvPシステムは好き嫌い、得意不得意がはっきりしているから棲み分けているものとして認識していた。こういう油断が今回のセッションのショックにも繋がったんですけどね。
昔からあるシナリオに、たしかに神話生物に操られて〜とかあるけれど、PL会議も駄目、というような規制をされたことはないし大体何かしら救える手段があった。今回は無かった。本当に、クリア後にきいたら「一度なったら終わり」でロスト率はここに直結していたらしい。シナリオ難易度っていうか騙し討ち成功率であった。PvP前提シナリオだったんだな〜と。
④KPが集めた最強メンツ☆〜PL間の信頼〜
今回はKPは個々人に声をかけて集まったPLだった。PLが「やろう!」と集まってKPとマッチングしたわけではない。KPからそれぞれに信頼があったのはわかる。みんな常識的で空気を読む良いメンバーだったと思う。
ただ、PL同士はそこまで仲良くないし遠慮のない間柄ではない。少なくとも相手の探索者に躊躇なく殴る選択をとれるような気安さはなかった。これが所謂「身内」と呼ばれるくらい仲が良いPL間であったなら遠慮もなく互いにボコボコに殴り合ったかもしれない。なにかしら言い合えたかもしれない。しかし、KPとPL1は仲良くても、PL1とAはFF内というだけで殆ど日常的に話したりはしない。そんな仲で、急に奇襲うけて冗談も飛ばせないので気遣いが飛ぶ。つらい。今この瞬間、Aが、PL1が2が不愉快になってないかと考えて発言するのがつらかった。
KP→PLの信頼はPL⇄PLの気安さや信頼とは何ら関係がない。何をもって大丈夫とKPが安心していたのかは謎だし、自分含め何人かはPvPあり告知の別シナリオで「苦手だけど…」とか「得意ではないけど大丈夫?」といった発言をしている。その上で告知がなかったのだ。
個人的にPvPは嫌いではない。むしろ好きだ。ただそれは、「PvPが前提となっている」場合についてだ。パラノイアやるのに、「PvPあった!むかつく!」とはならない。何故ならパラノイアはPvPを楽しむゲームだからだ。PvPいやならパラノイアはやめておけ、というだけ。
クトゥルフ神話TRPGシナリオにおいて、昨今のシナリオでPvPの注意書きをするのは「そもそもPvPを想定として作られていないゲーム」だからだと思ってる。クトゥルフで単独行動はよくないぞ…、とかよく言われるように基本的には協力型だと認識している。だからPL同士も自然と情報共有をするし、探索者も協力できるようにRPしたりキャラメイキングする。探索者のキャラクターを幅広く作れるということはキャラクターの能力に偏りが出やすくPvPが起こる状況で能力的に対等ではないことが多いのだ。
PvPあり、と書いてあれば相応のRPや探索行動を行ったり、それはそれで楽しくセッションを終えたこともある。
シナリオバレになるから、シナリオの根幹に関わるからといわれたが、ゲームシステムの底にある信頼を裏切る意外性を「面白さ」というなら自分とは面白く感じるところが違うのだと諦めるしかない。
今後シナリオ誘われた際に「シナリオバレになってもいいからPvPの可能性はある?」とその時のKPに伺わなければ怖くて参加出来ないな……と思ったセッションだった。
遊びなので、それ以上の感情はないけれどルールや前提は同じくして遊びたいなと思った。
ーー追記ーー
自身がKPのときはPvPあり告知や確認をしています。自分が苦手なので。
今回KPを努めて頂いた方にも確認したことがありますし、以前に自分はクトゥルフのPvPは苦手だと伝えたこともあるので今回のシナリオについては必要以上に不快な気持ちを抱いたのだと思います。今回自身の身に起きたことを鑑みて自分がKPやるときはよりいっそう気をつけようと思いました。
狭いコミュニティでの出来事で不和を恐れて口に出せずにいたので書いて少し落ち着けました。
ひどい乱文、長文失礼致しました。
ニコニコでは「#VOICEROIDキッチン」とかよく見てたけど、料理動画見ながらお腹を空かせてせてしまうことが多い(椅子から動くのと家から出るのがダルくて動画見ながら「はらへったー」って一生言ってる)
これも料理系のやつ。
「Street Food Icons」とか「The Pizza Show」の再生リストたれ流して見るかも。(ピザの方は1つだけ見て体験が良かった)
プロ格闘ゲーマー ウメハラさん自身の体験から出る自分自身の言葉の重みに学ぶことが多い。
切り抜きで見ることは多いけど、通しでは2~3個しか見れてない。
カラシニコフ系の銃をぶっ壊れるまで連続で撃ちまくるだけの動画シリーズ。
アップロードしてるのが「Kalashnikov Group」なので頭がイカレてる(誉め言葉)。
銃はずっと休みなしに撃ち続けると銃身とかの放熱が間に合わなくなってぶっ壊れる。
銃名と「meltdown」とかで検索すると似たような動画がいっぱい見れる。
https://www.youtube.com/watch?v=q2qD_P10paA&list=PLZiIt5hH4tKkAftOq5vIYFC58Dan0jh7F
詰まった水道管とかを高圧洗浄機で掃除していくだけの動画。基本的に汚い動画だけど、詰まりが取れるの見るとスッキリする。
https://www.youtube.com/c/DrainAddict/videos
今でもたまに見るけど、特定の配信者とか再生リストとか追ってないので、おすすめ表示されたら見る、というのを繰り返してる。
馬とか牛の伸びてきた蹄を切る動画。関連動画を辿って一生見続けてしまう。馬が好きなこともある。
馬などは脚にケガを負って自立不可能になると、心臓や内臓疾患にかかって後は静かに死を待つだけとなってしまうので、安楽死の措置が取られる。なので蹄のメンテも結構大事な作業だと思われる。
動画投稿者本人には一切興味ないんだけど(なんならミュートして見る)、課題と制作過程が面白い。
営巣とか子育て動画。スズメバチ類が異常に攻撃性が高いだけでアシナガバチ類は「比較的」穏やか。寄生蛾に幼虫や蛹が狙われたり色々苦労が絶えない。
猫よりは犬が好きだけど見てて学びもあるし癒される。
APEX最強バンガロール使いのShiv氏の配信に日本語字幕ついてるやつ。喜怒哀楽が常に大爆発しているので笑ってしまう。美人女性配信者の前では急に紳士になるのも面白い(Shiv氏の本質的な人の良さみたいなものが感じられる)。
見ててFPS酔いすることがあるので、その気配を察知したら、その日は見るのをやめる。
こっそり映画館に居座ってブレードランナー三周観た話でもすればいいんだろうか
夜通し喋るかもよ?
というか、フィリップ・K・ディックを激怒させたというのは本当なんだろうなあ
俺がディックだったとして、いくらリドリー・スコットが巨匠だとしても原作まったく無視された映画観せられたら怒ると思う
あれ?俺の小説は?俺が原作って書いてあるのに意味ねーじゃんw俺の文章を完全に無視すんじゃねーよ(怒
(映画の幻魔大戦も平井和正を特に大友克洋が激怒させたらしいけど
あと、スポンサーとか制作サイドから、ルナ姫を可愛くしてほしい、という要求を大友が却下した話は本当に凄いと思うw)
なんとなくだけど、ディックの原作に沿った方向で作り直したら今の時代ならウケる気がする
彼の現実と虚構の境目が危うくなる、白昼夢みたいな世界観は今ならウケる気がするんだよなあ
逆にブレードランナーのような未来感は今からするとありえないというか、古さを感じる
まあ、あの治安の悪い歌舞伎町と昔の秋葉原を中国で合体させたみたいなロサンゼルスというのも面白いのだけど、
ブレードランナーはあまりにもビジュアルを優先させすぎた嫌いがある