はてなキーワード: ミロのビーナスとは
ミロのビーナスにも顔はあるんだよな…
アプデ(アップデート)
ウルセ(ウールセーター)
エアプ(エアプレイ)
キャトミュ(キャトルミューテーション)
ジェッコ(ジェットコースター)
ジグパ(ジグソーパズル)
チムワ(チームワーク)
トマジュ(トマトジュース)
ヌドシ(ヌードシーン)
ノーリ(ノーリアクション)
ヘドフォ(ヘッドフォン)
ホムパ(ホームパーティー)
マグカ(マグカップ)
マドサ(マッドサイエンティスト)
ミロビ(ミロのビーナス)
メンシ(メンバーシップ)
モタショ(モーターショー)
ヤーポ(ヤード・ポンド法)
ユニセ(ユニセックス)
ヨシャテ(ヨークシャーテリア)
レサパ(レッサーパンダ)
ロルキャ(ロールキャベツ)
ワイグ(ワイングラス)
パラリンピックを見ていると、自分の中にとても複雑な気持ちが生じてくる。
体の一部を失ったアスリートたちを見て、素直に美しいと思ってしまった。
同時に、過去に障害者を扱ったポルノを見て強い嫌悪感を抱いたことを思い出した。
その時の心情に立ち返って、その嫌悪感は本当に正義と言えるのだろうかとふと疑問に感じた。
パラアスリートは美しかった。その瞬間、わたしにとって健常者よりも美しいと思えた。
素直に気持ちを表現するなら、その美しいと感じた感情に性欲が含まれていたことも否定はできなかった。
その時の自分は、素直に美しいものに対し美しいと感じ、そして少しの欲情をもよおしたのだ。
果たして、パラアスリートたちを美しいと思う気持ちは許されないのだろうか。
そこに少しでも性欲が介在した瞬間に、その美しいと思う気持ちは不謹慎なものとされてしまうのだろうか。
恋愛から性欲だけを切り離すことは絶対にできないし、それがあるからこそ子孫は反映してきた。
健常者に性欲を抱くことは許されて、障害者であることを理由に性欲を抱くことは不謹慎なことなのだろうか。
そう考えれば、そもそも障害者を扱ったポルノを不謹慎なものとすることさえ、差別的ではないかと思うようになってしまった。
ミゼットプロレスが不謹慎という理由で中止に追いやられた結果、障害者たちがレスラーという数少ない働き口の一つを失ってしまったという話を見たことがある。
もしポルノ業界に障害者が働く余地がないとしたら、それは逆を返せば健常者だけが働くことを許されているという職業差別と言えなくもない。
当然十分に職業選択の自由があり、消去法的ではなくても選択できる一つの職業であると認められることが必要だとした上での話だ。
しかし、ある側面では、そこにもしニーズがあり、お金を稼ぐ手段として確立されているにも関わらず、福祉や道徳という規制で制限されてしまうとしたら、それはまたやはり差別的ではないかと考えてしまう。
そこに想像の余地があるからこそ、誰もが自分にとって最も美しい姿を空想できることが傑作である理由とされている。
わたしはパラアスリートたちにそれと同じ美しさを見た。(四肢の一部がないのだから本当は見えていない。)
その姿を美しいと思ってしまった自分を偽ることはできないし、障害を理由に美しいと感じたのであれば、それが差別的であると言われても否定できない自分がいた。
そこまで考えても、はやりパラアスリートたちが美しいという気持ちを止めることはできなかった。
彼ら彼女らの美しさは、もっと広告としての価値があってよいと思った。(いわゆる芸能人たちがルッキズムをもとに広告的価値が高いとするのと同じ意味で。)
障害を理由に、それの美的価値を不謹慎と言う言葉で押さえつけることのほうがよほど差別的ではないかと思うからだ。
パラアスリートたちは美しい。
導入部分はよかったけど、テンプレートが見えてからは急激に読む気が失せた
1話完結はいいとして、内容が薄い・浅すぎてまったく面白くない
主人公の女子高生が新聞記者を目指してるから日常的な謎にも目が行きやすいってのはまあわかるけど、
ただの日常会話とかがメイン
それでも一応読もうかと思ったけど、嫁姑問題に上から目線で女子高生がクソバイスするのみて、
くっそうぜえなんだこいつと思って読むのやめ・・・ようと思ったけど一応次の話みたら、
次の話では唐突に男子高校生が女装してるのをみかけてとくに掘り下げもせずに終わるし・・
そのまた次の話は単なるミロのビーナスのうんちくで1話おわるし・・・
なんだこれ・・
マンガのテーマっつか距離感がいろいろ気遣いやら繊細さがなさすぎでドン引きするわ・・・
そういうマンガじゃなくてそういうのにさっと知らないうちに触れてるかもっていうのがテーマにしても、
下手すぎる
放課後の話がメインだけどたそがれ感もまったくないし
絵柄は割と好きなんだけどなあ・・・
5年ぶりの富野ガンダム。今の所ガンダムというよりもイデオンやブレンパワードに近い匂いがする。牧歌的な世界観とは裏腹に随所に不穏な空気が漂っているが、登場人物の表情には活力を感じる。1話ラストの「地球はいいぞー」のシーンからものびのびとした爽やかさがあり、Vガンダム終盤にあった抑うつ気分に満ちた作風からすっかり立ち直ったのを感じる。同時に、この穏やかな世界をこれから戦争という火の海に投げ込もうとすることへの恐ろしさもある。物語が終わったとき地球がどうなっていることやら。
メカニックデザインにブレードランナーやスタートレックで知られるシド・ミードが迎えられており、今までに発表されたMSはどれも艶めかしさとレトフューチャーが混ざりあったどこか人間味溢れる機体ばかりだ。1話冒頭に登場したフラットも手足の動きから人間じみた表情が伺え、「相手がザクなら人間じゃないんだ」と斬りかかるのは躊躇われるような作り込みがされている。
1話は戦闘シーンではなく徹底した日常シーンの描写により、登場するキャラクターが戦争ゲームの駒ではなくあの世界で生きる1人の人間たちであることが強調されていた。ロボットアニメにありがちな、まず最初にロボットがあり、その為に戦争が生み出され、最後にそれを行わせるための人間が生まれるという作品とは一線を画している。時代が時代なら玩具メーカーから怒られそうな作品だが、これが作れる所まで来たのだからアニメ業界もまだまだ捨てたものではないな。
恋愛シミュレーションゲームを原作とする恋愛アニメ。PS版も発売されて勢いにのる中でのアニメ化。お色気要素よりも幼馴染との恋愛をじっくり描く方向にシフトして純愛っぷりをアピールする戦略の模様。
現状の展開が続くようなら、神岸あかりが好きじゃないとこのアニメはそこまで楽しめないんじゃないかなって気がする。まだ話は始まったばかりなんだけど本当に強くそう思う。正直言うと自分はマルチの方が好きなんだけど、ここからマルチや志保が入ってきてハーレム展開になって、それで最後にマルチが選ばれたとしても、俺は素直に喜べない気がする。このアニメ見て改めて思ったんだけど、ギャルゲーの幼馴染は皆が心の中にある「俺にも居たかも知れないメインヒロインとしての幼馴染」の幻影を描いているんだよね。両腕がくっついたミロのビーナスの幻影の如き、もしかして自分の傍らに居たかも知れない幼馴染の幻影を。妹ゲーが「俺にも居たかも知れない最高の妹」っていう幻影を描いているの同じかそれ以上に。作品によってはそれをあえてひっくり返してくる天の邪鬼もいるんだろうけど、それもこの基本があってのことな訳で。
このアニメ版Toheartにおける神岸あかりはまさにその「居たかも知れない幼馴染」が描かれてる。運命の恋が物凄いゆっくりと、そして確実に進行していってる様子が伝わってくるんだよ。これでくっつかないはずがないと分かるんだけど、それがいつなのかは分からないじれったさ。
電脳空間を舞台にした魔法少女モノ。CCさくらとアキハバラ電脳組の中間みたいな感じ。狙ってる客層的にもCCさくらと一緒で大きなお友達と子供の両天秤の模様。戦う魔法少女モノは昔から全年齢層向けで鉄板っちゃ鉄板だよね。
サイバー系の作品には珍しく主人公がパソコンおんち。一昔前はこういうのってパソコンマニアが主人公になるって法律で決まっているような状態だったので新鮮ではある。デジタルがそれだけ身近になってきたということなんだろうけど。作品としても「コンピューターの世界に、悪いことをしている人達がいる」という設定であり、今までによくあった「悪いコンピューターの世界」を舞台としているようなデジタルそのものを悪し様に描くような作風でなくなってきているのも時代の流れを感じる。
ガオガイガーが世紀末の怪電波で突然変異したようなアニメ。なんかよく分からないけど多分最後までよく分からない系のアニメで終わりそう。シリーズ構成がTo heartと同じ山口宏なんだけど……多芸だなあ。
やあ (´・ω・`)
ようこそ、バーボンハウスへ。
うん、「また」なんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。
でも、このマスタイを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
そう思って、この増田を立てたんだ。