はてなキーワード: マルクスとは
「人はパンのみで生くるのではない」と言ったのはイエスであるが、とはいえ生きるためにパンは必要不可欠である。マルクスはキリスト教の布教以来、永らく西洋を支配してきたこの上部構造優位主義をひっくり返し、人類史をヘーゲル的な精神の発展史ではなく、労働あるいは階級闘争の歴史として解釈した。しかし、階級闘争の必然的な帰結としての共産主義社会の実現という展望には、判明な階級とその意識的な担い手が存在していることが前提となっている。
本邦において、小泉政権以来、階級意識は様々な仕方で言い換えられて来た。勝ち組/負け組、上級国民/下級国民、そして強者男性/弱者男性…などである。これらの区分に共通するのは、強烈な階級意識を内包しながらも、それらが政治経済的な問題を慎重に避けているという点である。
たしかに、上級国民/下級国民などは比較的強い政治経済的なニュアンスを帯びている区分のように思われるが、そこで意識されているのは政治経済という下部構造の問題ではなく、単に「どの家庭に生まれたか」という、不可逆的な問題でしかない。階級は、政治経済によって規定されたものではなく、単に生まれの問題でしかないのである。このような階級意識は、「親ガチャ」という言葉で端的に言い表さられることになる。他の区分についてもやはり同様である。そこにおいてはもはや変更すべき政治経済に対する抵抗は行われず、変更不可能なガチャの結果に対する諦念のみが存在する。現代日本人の階級意識をこのように捉えたとき、ガチャをやり直す「転生モノ」や、出世それ自体を否定する反出生主義などの思想が流行するのはある意味必然と言える。
他方で、積極的な闘争が行われている政治的な領域も存在している。人種やジェンダーなどに関わる、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスの領域である。本邦では主にジェンダーの分野で闘争が繰り広げられているが、近年ではそこから派生して表現の自由の問題なども盛り上がりを見せている。しかし、これらの領域の闘争も、根本的には資本制そのものを揺るがすものではない。というのも、これらの闘争が目指しているのは資本主義やそれが生み出す抑圧的構造の否定ではなく、むしろその内で自己のアイデンティティを確立すること、資本主義による自己の承認でしかないからだ。
どうしようもない諦念と強烈な承認欲求。この二つが現代日本の階級意識の帰結である。それらから生じる運動や思想は、きわめて政治経済的な性格を内包しながらも、実のところ政治経済的問題に対する根本的な抵抗を巧妙に回避することによって、資本主義をより堅固で絶対的なものとして確立することに資している。
塔は「ご維新」の頃落ちてきたという。
その塔の主人となる大叔父は「本を読み過ぎておかしくなってしまった」という。
どんな本を読んだのだろうか?
「ご維新」の頃というのがいつか? というと、例えて言えば黒船がやって来たのが1853年だそうである。
大叔父はマルクスの「資本論」を読んだだろうか。おそらく読んだであろう。
「君たちはどう生きるか」の主人公の父親は戦時下において軍需産業で儲ける男である。
軍国教育を行っているであろう学校に対して300円寄付をして「学校なんて行かなくていい」とも言う。
鳥である。
ペリカンはどんなに羽ばたいてもその「世界」から逃れることができない。
死を予期したペリカンは「ひとおもいに殺してくれ」と言う。
インコ大王と一緒に大叔父のいる場所に行ったモブインコ2匹は、
しかし、そこは極楽などではなく、まさにいま崩壊しようとしているのである。
そして、その世界の存続を願っているはずのインコ大王の暴走によって崩壊してしまうのだ。
石によって、世界を司ることができるのが大叔父の血縁でなければならないとされている。
例えば北朝鮮のような国であったり、もしくは江戸時代の日本かもしれない。(あるいはもしかしたら戦争以前の天皇制かもしれない。)
そして、支配層が「血縁でなければならない」理想の世界は、崩壊するのである。
「君たちはどう生きるか」は広告を一切しなかった。
広告というのは、資本主義の象徴のようなものかもしれないと考える。
北朝鮮や旧ソ連のような共産・社会主義的な「"理想"の世界は崩壊する」が、かといって「資本主義の象徴」を使用しないという選択をしたのだろう。
川上量生は一時期ジブリに所属していたが(宮崎駿に怒られているシーンの動画が有名だけれど)、
川上といえばニコニコ動画であり、今回はニコニコ出身といっていいだろう「米津玄師」の曲を主題歌として起用した。
ネット出身の米津を主題歌歌手として起用するというのも「資本主義の象徴」を使用しないという選択かもしれない。
「君たちはどう生きるか」はそういった作品であった。
幸いロシアはウクライナと欧州の国々の支援による奮闘で日本や台湾と戦争する余力はありません
日本のリベラルやフェミニストを早急に追い出して準備を進めないと日本もアメリカのようにトンデモナイ事になる
リベラル派が反日親韓親中やってて、何故か共産党がリベラル政党面してるのも腑に落ちますよね
ブルームバーグ:アメリカの潜水艦 49 隻のうち 18 隻(ほぼ 40%)が造船所で修理中または遅れています。
自滅する米海軍、1年あたり12万9,600時間をメンテンナス遅延で浪費
米海軍は艦艇に対するメンテナンスサービスの遅れについて分析を行い、180日以内に報告書を議会に提出しなければならなくなった。
米海軍が艦艇に提供するメンテンナスサービスの大半は「時間を守る」という基本的な点を守ることが出来ず、円滑な艦艇運用の妨げになっている。
昨年、メンテナンスを受けた米海軍の駆逐艦の約7割はスケジュール通り港を離れる事ができず、大量のスケジュール遅延は新たにメンテナンスを受けるため帰ってきた駆逐艦にも影響を与え、ドックの空きを待つ駆逐艦が無意味に港に係留され多くの時間を無駄にしたという報告が議会に提出された。
報告を受けた議会の説明によれば米海軍は2014年以降、メンテナンスの遅れで計2万7,000日以上の時間を無駄に失ったらしい。
これは1年あたり5,400日(12万9,600時間)以上を失ったという意味で、これは300隻で割ると1隻あたり18日以上の時間を「予定外」に失ったことになる。
(中略)
このような問題の解決に米海軍も取り組んでいるものの根本的に問題を解消するには「予算」を増やすしかなと言われており、米海軍に報告書を提出させるなど議会が問題解消に乗り出してみても状況が好転することは期待できない。
因みに、ロシアはニューポートニューズ造船所とリマ陸軍戦車工場(全米唯一、M1エイブラムス戦車のアップグレードが行える施設)を破壊さえすれば「米国の戦争継続能力をへし折る事ができる」と言っている。
米艦補修、日本の造船所で
米海軍が日本の民間造船施設で自国戦闘艦を補修する見通しとなった。在日米海軍(総合2面きょうのことば)が日本に展開する20隻強が対象で、米側は将来は日米共同による日本での戦闘艦製造も期待する。日本の基地外で戦闘艦を恒常的に補修する枠組みは初めて。日本を含む同盟国の施設を活用し、東アジアで軍備を拡張する中国の動きに機動的に対応する。(関連記事国際面に)
またあのクソ大使!
だが、反対に言うと本当に修理できないことを意味している。
マルクス主義や批判的人種理論が米軍内で浸透! これを批判する将校が除隊に!(朝香 豊)
https://nippon-saikou.com/6706
陸軍士官学校で批判的人種理論が教えられていることが共和党議員によって問題にされた時に、米軍の制服組トップのマーク・ミリー統合参謀本部議長は、「いま社会で起きていることを軍幹部候補生が学んでなぜ悪いのか。私は士官学校でマルクスもレーニンも毛沢東も読んできた」との反論を行ったことが報じられた。
「批判的人種理論潰し」は、「第2のティーパーティー運動」になるのか
前嶋和弘
https://news.yahoo.co.jp/byline/maeshimakazuhiro/20211018-00263644
なぜ今なのか
それにしても研究者が40年間にわたって研究してきたのに、「批判的人種理論」への批判がなぜ今起こっているのか。理論に基づいている1619プロジェクトが注目を集めたこともあるかもしれないが、批判的人種理論の研究者が進めたというよりも、ニューヨーク・タイムズの記者たちで立ち上げられた特集であり、そもそも直接の関係はないはずだ。ブラック・ライブズ・マター運動がピークだった昨年の夏でさえ、多くのアメリカ人は「批判的人種理論」という言葉を聞いたことがなかったはずである。
直接のきっかけとみられているのが、昨年9月2日、保守層が最も好んで視聴するタッカー・カールソンが司会のフォックス・ニュースの番組(Tucker Carlson Tonight)であるとされている。
保守派のドキュメンタリー作家のクリストファー・F・ルフォが、この番組で「政府職員に多様性トレーニングが強要されている」として、その中の「批判的人種理論は連邦政府に浸透している」と批判し、一躍有名になった。トランプ氏もこの番組から「批判的人種理論」を知ることになったとされており、上述の大統領令につながる。
この番組出演で一晩にしてルフォ氏は「批判的人種理論潰し」の保守派のシンボル的な存在となった。その後、理論に対する保守派の猛反発につながり、今に至る。リベラル派にとっては「作り上げられた政治争点」となる。
筆者が「だれも知らない」と強調したのは、この理論が一般的に知られるようになったのが比較的最近であることを示すためとも思われるが、その背後には今まで取り上げようとすると黙らせてきただけでしょう。森奈津子に対する嫌がらせをみればわかります。
学者はそれに加担し、沈黙してきたのです。オープンレターをみればわかりやすいでしょう。
しかし、タッカーは黙らなかった。
このように米軍は頼りになりません。そして、ロシアはどこを攻めればいいかわかっています。
このままでは中ロと台湾がまともに戦えることはないです。
※ほぼメモ書きです。
ローズマリー・サトクリフ(Rosemary Sutcliff, 1920-1992)といえば、『第九軍団のワシ』をはじめとするローマン・ブリテンシリーズで有名な作家である。このシリーズは、一般にローマン・ブリテン三部作(『第九軍団のワシ』、『銀の枝』、『ともしびをかかげて』)ないし四部作(『辺境のオオカミ』も加える)と呼ばれている。岩波書店でもそう書いている。
https://www.iwanami.co.jp/book/b269788.html
一方、英語版Wikipediaのサトクリフの項目を見ると、『第九軍団のワシ』シリーズは他にもある。要は、4部作で終わっているというわけではないのだ。ファンサイトSutcliff Wikiでは、正式名称ではないとしつつ、"Dolphin Ring"と呼称している(一方、第九軍団のワシ、銀の枝、ともしびをかかげてを指してRoman Britain Trilogyという言葉遣いもされている。実際、1980年にThree Legionsというタイトルでセット本が出ている)。その作品群について整理しておく。
(1)作中時系列順
2世紀:第九軍団のワシ(The Eagle of the Ninth)
3世紀:銀の枝(The Silver Branch)
4世紀:辺境のオオカミ(The Flontier Wolf)
5世紀:ともしびをかかげて(The Lantern Bearers)
9世紀:剣の歌(Sword Song)
1954年:第九軍団のワシ(Oxford University Press)→岩波書店、1972年
1956年:盾の輪(同)→山本史郎訳『シールド・リング ヴァイキングの心の砦』原書房、2003年
1961年:夜明けの風(同)→灰島かり訳『夜明けの風』ぽるぷ出版、2004年
1963年:落日の剣(Hodder and Stoughton)→山本史郎・山本泰子訳『落日の剣 : 真実のアーサー王の物語』原書房、2002年(2巻本)
1980年:辺境のオオカミ(Oxford University Press)→岩波書店、2002年
1997年:剣の歌(The Bodley Head)→山本史郎訳『剣の歌 ヴァイキングの物語』原書房、2002年
これらの作品群がファンWikiでDolphin Ringと呼ばれているのは、言うまでもなくアクイラ一家のあのイルカの指輪(=古代ローマ人のハンコ)が共通して登場するからで、時代の流れとしても共通した設定を持っているからである。ただ、『三銃士』シリーズのような一貫した主人公や陣営を描いているわけではない。第九軍団のワシの主人公マルクス・フラーウィウス・アクィラ(訳書には従っていない)は、元々属州ブリタンニアに駐屯するローマ軍団に属していて、家のルーツはエトルリアにあるから、もとはといえばイタリア半島の人間なわけだ。ところが、彼が色々あってブリタンニア定住を決め込んだことが指輪の運命を決めている。『銀の枝』の主人公ティベリウス・ルキウス・ユスティニアヌス(ジャスティン)とマルケルス・フラーウィウス・アクィラ、『辺境のオオカミ』のアレクシオス・フラーウィウス・アクィラ、『ともしびをかかげて』の主人公アクィラ(上の名前は不詳)は、いずれもマルクスの子孫にあたる。
もっとも、ローマ軍団が描かれているのは『辺境のオオカミ』までであり、『ともしびをかかげて』はローマ軍団がいなくなったあとのブリタンニアを描いている。基本、サクソン人とブリトン人との戦争が描かれる。『落日の剣』はその後日譚にあたるが、主人公はアンブロシウス・アウレリアヌス(この人は実在の人物で、サクソン人と戦っていたブリトン人の指導者)の甥アルトス(アルトリウス)となっている(もちろんアクィラも登場するが)。つまり本書はアーサー王伝説の翻案なわけである。しかも『ともしびをかかげて』よりも長い。『ともしびをかかげて』は、20年ほどを描くが、後者は40年ほどのスパンがある。本書は明らかに大人向けであり(ファンWikiにもFor Adult Readersとある)、児童書である他書と毛色がかなり異なる。
『夜明けの風』はアルトスよりも100年ほどあとの時代で、デオルハムの戦いで壊滅したブリトン人の王族の生き残りオウェインが指輪を持っている。『剣の歌』では主人公はヴァイキングの少年ビャルニ(指輪は、ウェールズで暮らす少女アンガラドが持っている)になっている。そして時代的にはもっとも最後にあたる『盾の輪』の主人公もまたヴァイキングの少女フライサと孤児ビョルン(後者が指輪を持っている)で、湖水地方に立てこもってノルマン人に抵抗する様が描かれる。
見ての通り、厳しい立場に立たされた者を主人公にするというプロットはほぼ一貫している。『第九軍団のワシ』は父親の不名誉(ちなみに時代はあのハドリアヌス帝の治世にあたる)、『銀の枝』はカラウシウス帝に忠義を尽くした故に叛逆者となってしまった二人(なおこの頃の皇帝といえばディオクレティアヌスだ)、『辺境のオオカミ』は軍人としての失態だが、同時にローマ帝国と辺境民族(ピクト人)との戦いが背景にある。『ともしびをかかげて』は撤退するローマ軍から脱走して敢えてブリタンニアに残った主人公の苦労が描かれるが、彼の立場を厳しくしているのは、サクソン人のブリタンニア侵入である。サクソン人と戦う側が主人公になっているのは『夜明けの風』が最後で、『剣の歌』以降はヴァイキングが主人公になっている。アングロ・サクソン人のブリテン島征服が一段落して平和になったと思ったらデーン人がやってきたわけだ。さらにそのデーン人もノルマン・コンクエストで痛めつけられる(ノルマン・コンクエストは、思いっきり誇張すればデーン人(+アングロ・サクソン人)対ノルマン人の戦いであり、こいつら全員元をただせば海賊である)。ローマ人、ピクト人、ブリトン人、サクソン人、デーン人、ノルマン人とイギリス史に登場する諸民族の融和がシリーズのコンセプトとなっている(それは第一作の時点から明らかで、イルカの指輪は父を殺害したピクト人の長老がマルクスに返却している)。
出版年代を見ると、最初の『第九軍団のワシ』とシリーズ最終作となる『盾の輪』がもっとも早く出ていることが分かる。そして63年の『落日の剣』まではほとんど2年おきに出している。それから間が空いて80年の『辺境のオオカミ』と遺作の『剣の歌』がある。特に『剣の歌』は推敲が十分でないように思われる箇所もある(作業途中で亡くなってしまったのだろう)。日本語訳では『ともしびをかかげて』が一番早い(おそらく、内容的に最も評価されているのではないかと思う。カーネギー賞もとっているし)。明らかに児童文学ではない『落日の剣』はともかく、児童文学作品でも猪熊訳と山本訳(と灰島訳)とに分かれる。版権取得の問題かもしれないが、あるいは猪熊の作業量の限界だったのだろうか(1928年生まれだし)。そもそも『夜明けの風』は『ともしびをかかげて』の割と直接的な続編といって良いだろう。なお、自分の親は子どもの頃に『第九軍団のワシ』と『ともしびをかかげて』を読んでいたようだ(サトクリフの名前を出したら「あの小説か」と反応があった。結局「三部作」を貸している)。年齢が結構高い人でも、その二つは知っているのではなかろうか。
英語圏では多分されていない「四部作」(第九軍団のワシ~ともしびをかかげて)という言い方も理由がないではない。この四つはシンメトリカルな構成をしている。『第九軍団のワシ』『辺境のオオカミ』と『銀の枝』『ともしびをかかげて』(つまり13・24)と並べられる。前者では、主人公は百人隊長として失敗したあと、北方辺境で名誉回復を遂げる。後者では、大陸への渡海という選択肢を捨て、ブリテン島南部で戦う。「四部作」はアクィラ家のアイデンティティがローマからローマン=ブリテンへと移り変わっていく物語なわけである(既に『銀の枝』でカラウシウス帝の口からローマ帝国亡き後にどうローマを残すのかというテーマが語られる)。そしてもはや「アクィラ」という名前が語られなくなった世でも、困難に立ち向かうアクィラ家の精神は、イルカの指輪に象徴されてあとからきた民族へと受け渡されていく。そして現代のイギリス人にも・・・というのがサトクリフの言いたいことなのだろう。
友人と語らい、カラオケにでも行き、趣味にかまけ、結婚でもする。
ニーチェやブッダやハイデガーみたいに強くなれる自信なんてないし、もう心はかなり限界になってる。
実存的な苦しみから逃れるには目先の生活にまるっきり埋没して忘却するのが一番。
そんな事は分かっているのだけど、根源的な不安と向き合う事が誠実な生き方に思えてならないし、手放したら「私」が終わってしまう気がする。
一切の妥協なき自己実現を諦めたり、初めから関心がない人から何を言われても全く心に響かない。
命そのものには何の価値もなくて、命を使って意志を持ち自分の信念を追求する事をやめたらそれは石ころと変わらない。
早起きして奴隷船に乗ってしたくもない賃金労働をして、残り少ない余暇も気力を充足させる気晴らしに充てるばかり。
より多くの余暇を得るために少ない余暇を使って金稼ぎのスキルを身につけるなんて、そんな回りくどい真似をするのももう面倒臭い。
世捨人になりたいと思っても、半端に内面化された社会性が邪魔をしてくる。