はてなキーワード: ママさんバレーとは
人生舐め舐め女の願望を書くね
気軽に人との関わりが欲しい
けど
Twitterやインスタみたいなベッタリ距離の近いSNSは好きじゃないし向いてない
だからサークルみたいなのに属してお友達が欲しい(年齢性別不問)
自分は田舎に住んでいるので、近所にはママさんバレーか年齢層高めなお料理サークルしかない。
所属するサークルも、出来れば節約とか読書とか色々、やんわり知識が付くようなのがいい。
それが無理なら、まったりカフェに行くだけでもいい。本当に気を遣わない関係を作りたい。
そこで関係性を作る中で、出来れば彼氏も欲しい。(年齢不問。究極おじいちゃんでも良いよ。)
そんな都合のいい集団に属したい。
人生、舐め舐め。
できれば友達になってください。
22時過ぎの道玄坂はダメな人間しかいない。ポケットに手を突っ込み、ハイヒールでズンズンと駅へ向かう私もその一人。あの男。18年ぶりにTinderで再会し、手コキで果てた神奈川大卒の男。美しい思い出を性欲で汚した愚かな男。そして、彼を見下し、利用しようとして報いを受けた慶應卒の愚かな私。
私は私の人生がかわいかった。腹を痛めた我が子のように。当然だ。様々な苦しみを食べてこの人生は育ってきたのだから。教育ママ。日能研のバッグ。中学受験。女子校の人間関係。大学受験。滑り止めの慶應経済。就職活動。いろんなものをすり抜けて、私のソコソコ幸せなこの人生があるのだ。
中央林間のあたりで生まれて、小学校までは地元の公立に行っていた。色んな人がいた。「じゅんやくん」とは母親同士がママさんバレーの友達で、家も近かったからよく遊んでいた。青い屋根瓦の古い平屋。中に入るとワサビみたいな匂いがした。夏も冬も、いつもヨレヨレのタンクトップを着ていた。
じゅんやくんはモテた。足が早くて、サッカーもやっていた。土曜日に校庭に遊びに行くと、真っ白いソックスを膝まで上げたじゅんやくんが中盤からいいパスを出していた。かっこいい。顔はよく覚えていない。小学生の恋愛なんてそんなもんだ。初めてチョコをあげたのもじゅんやくんだった。
女子学院への進学が決まった。じゅんやくんに伝えると、お前のことちょっと好きやったで(笑)と言われた。ちょっとって何だよ、と思いつつも純粋に嬉しかった。それからの人生で、ちょっとでもいいから私に好きだよと言ってくれる人は他にいなかったから。その日は二人でマックに行っておしゃべりした。
メルアドを交換して多少のやりとりはしたし、全然更新しない彼のアメブロくらいは見ていた気がする。でもお互い新しい環境で新しい友達ができて、思い出話と近況報告以外に特にネタもないし、そして何より、小学生の「好き」なんて、その程度の曖昧なものなのだ。大人のそれも似たようなものだけど。
JGの新しい友達はみんな「きちんとした子」が多かったし、母もそれを喜んでいた。特にじゅんやくんやそのお母さんの話はしなかった。もしかすると、私の人生を自分の作品のように思い込む短大卒の教育ママである母にとって、あんな公立校の人間関係なんて忌むべきものだと考えていたのかもしれない。
そんな背景もあり、私は次第にじゅんやくんのことを忘れ、何事もなく人生は進んでいった。第一志望の東大は落ちたけど、滑り止めの慶應経済に入った。慶應卒の父はそれはそれで喜んでいた。塾高生の目が届かない弱小テニサーでは、志木高生が俺たちこそが内部生と言った顔でオラついてて可笑しかった。
サークルやゼミの先輩たちに色々手伝ってもらって、リクルートスタッフィングに内定を決めた。キャリアの内定者の何となく見下してくる感じはムカついたが、腐ってもR。腐っても銀座OL。初めての一人暮らし。限りなく浜松町に近い田町の月10万の1K。まいばすけっとで自炊を頑張ってみたがすぐ飽きた。
仕事は楽しかったし、なによりRの空気は私に向いていた。JGと慶應経済の面倒なところを煮詰めたら多分Rのそれと同じような味がする。電話をかける。ビルを倒す。派遣された高時給のエンジニアたちがちゃんとやっているかフォローする。いくつか賞ももらった。私の人生は引き続き順調だった。
唯一の問題は私生活にあった。慶應卒のかわいくない総合職の女の子、ほどの恋愛における弱者はいないんじゃないかと思った。ルッキズムには排除され、オレが養ってあげたい派より年収が高い。共働きで尊敬し合える関係が、とか言ってるやつも、だいたい前掲のどちらかを心に持っている。行き場がない。
入社2年目くらいのときに、三菱商事との合コンがあった。商事の中でも三軍みたいな連中。微妙な顔面。高慢な態度。「派遣とか竹中平蔵じゃん(笑)」「お前はどうしたいの?っておれに聞いてみてよ(笑)」内心分かりやすいハイスペ好きで、今日の合コンのためにまつパに行った自分を殺してやりたかった。
そんな行き詰まりがずっと頭の中にあった。何となく始めたTinderはゴミの山だった。日東駒専大東亜帝国なんて現物と会ったこともない。なんと高卒も!世の中の広さを思い知らされる。この国では生きる世界が何層にも分かれていて、コンビニのレジとか、違う世界の人は目の前にいても透明に見える。
同じ社会に生きる透明な人たち。彼らが可視化されるのが面白くてTinderにハマった。何を売ってるのか、こんな国語力で本当に売れるのか分からない謎の営業たち。ホテルマンと車のディーラーはやけに多い。恵比寿のフレンチで働いてるシェフは何だか好感が持てる。そんな悪趣味なTinderをやっていた。
マッチのゴミの山を漁っていたら、一人の男が目に止まった。神奈川大学卒。神奈川大学?白楽だか東白楽だかの果てにあるらしい。体育会でサッカーをやっていた。今は営業をやっている。また営業。こんな営業が会社に来たら嫌だな。Junya。30歳。Junya?彼だ。
18年ぶりに幼馴染みと再会した。よりによって、このゴミの山で。身分を超えた恋、と言えば美しいので、そう呼ぶことにした。すぐに彼からメッセージが来た。はじめまして😆✨よろしくお願いします❗冷静になった。●●小のじゅんやくんだよね?すぐに返信が来る。当たりだ。
話すことはたくさんある気がするから、私からすぐに飲みに誘った。家も職場も横浜のあたりと言うから、東横線で出てきやすい渋谷にした。店知らんから任せていい?🤣と言われたから任せられた。ラフな感じがいいな、ラフな感じでいいやと思って道玄坂の「どうげん」を予約した。
彼が人生の曲がり角になる気がした。ハイスペを追っては追い返され、低スペは追われる前にドアを閉める。私のかわいい人生が恋愛ごときで躓かないよう、学歴や社名で相手を選んできた。スペックに依存しない私の新たな人生と幸福が、おそろしく低スペな幼馴染との再会で始まるんじゃないかと期待した。
金曜。どうげんに焼肉を食べに行くだけとは思えないほど気合いの入った格好で山手線に乗ってしまった。この日のためにアリエクで買ったスカートは思ったよりピチピチだし安っぽかったが、神奈川大の男にはこれくらいのほうがいいんじゃないかと前向きに履いた。慣れないハイヒールはやっぱり慣れない。
20時。彼は少し遅れて来た。黒のカナダグース。ピタピタの白ロンT。膝の破れた明るい色のピタピタのデニム。ナイキのスニーカー。顔は、調子悪い日の槇野に馬を足した感じ。真っ黒に焼けていた。TikTokで流行っている音楽に詳しそうな雰囲気をしていた。「久しぶり😆✨」発言の末尾に絵文字が見えた。
彼は私のアジアン隅田似の顔に少しギョッとしたが、お酒を飲むとどうでもよくなったみたいだ。よく飲む人だった。一息でジョッキを半分くらい飲み干した。杯を乾かすと書いてぇ〜😆顔カンパーイ😆✨よく食べる人だった。りんごを巻いた肩ロースを何枚も吸い込んだ。営業は接待で大変なんよ🤣
話は割と盛り上がった。中学高校でもサッカーを続け、インターハイにも少しだけ出場したこと。強豪大からは声がかからなくて神奈川大に進学したこと。プロを目指したがまるでダメで、今は横浜の部品の会社で営業をやっていること。大学時代のマネージャーと付き合っていたが、浮気されて別れたこと。
1時間も経っていないのに、彼はかなり仕上がっていた。てかスカートめちゃエロくない?😍(笑) 急に空気が変わるのを感じる。性的な質問が増える。テーブル席の向こうから、彼の鍛えられた足が妙に触れてくる。ZARAのいつ買ったかも分からない安そうな彼のデニム。昨日きちんとムダ毛を剃った私の脚。
私は変に冷めていた。話が合わない。共通の話題がないとかじゃなくて、会話の技法とか、語彙の辞書がそもそも違うような感覚。ロシア語とポーランド語のような関係。分かるが分からない。目に見えない学校から目に見えない会社に入り、目に見えない人たちとテング酒場で男梅サワーを飲んできた人。
私の期待は外れた。当たり前だ。私たちは同じ国の、目に見えない違う国で育ったのだ。それが交錯するのが首都圏の公立小学校であり、そこを出れば二度と交錯することはないし、交錯すべきでもない。美しい思い出は美しいまま、卒業アルバムと同じダンボールに入れて二度と開けなければよかったのだ。
迂闊にも、実家でホコリを被っていたそれを開けたのは私自身だ。それも、美しい思い出とその中にいる彼を、私は見下し、見下したそれらが私の人生を好転させてくれると期待した。最悪だ。そして最悪な彼は、自分のために着飾ってきたブスに勃起している。彼にはその権利があるような気がした。
例によって、このあとホテルに誘われた。お店に入って1時間余り。モクモクとしたどうげんのテーブル席。私の美しい思い出が、トイレから帰ってきたらこっそり近所のラブホを検索していた彼が、ニタニタと勃起しながら最悪の誘いを投げかけてくる。すべてが面倒になり、割り勘をしてホテルに向かった。
緊張緩和のためか、途中のコンビニで買ったストゼロを彼はガブガブと飲み、結果勃たなくなった。少し待つと復活したからまずは手でしてあげると、アッアッというピトーに脳をいじられたポックルみたいな声を出してすぐに射精した。そうして二度と勃たなかった。手を洗うときに鏡で見た私の無表情な顔。
時計を見るとまだ22時で、なんだか疲れたから私だけすぐ帰ることにした。ライン教えてよ、と言われたけど、ラインやってないので… とそのままドアを閉めた。通りに出るとゴミみたいな人たちがいっぱいいた。何の仕事をしてるのかも知らないが、おそらく一生知ることもない、違う国の人たち。
今年で30歳になります。帰りの山手線、窓ガラスに映った自分の顔にギョッとしました。頑張って生きてきたのに、恋愛で肯定されることがなく、そのことは私の人間的価値そのものが否定されたような気分になります。家につきました。男たちの欲求の狭間で、私は今夜も真っ白な天井を眺めています。
実は― きょう彼にああやって求められたのが、一瞬、少しだけ嬉しかったのです。でも、やっぱりダメでした。致命的な知性の欠如。合わない人とは合わないほうがよいのです。それが分かると見下してしまうから。じゅんやくんのお母さんを何となく見下していたのを思い出します。
当然の報いです。美しい思い出を利用しようと段ボールのガムテープを剥がした私。そんな私の手を汚い欲求で汚した彼。身分を超えた愛?Tinderを開くと彼からメッセージが来ていますが、何も見ずにマッチを解除します。ビールを飲みながら、早慶以上の人にだけいいねを送ります。今年で30歳になります。
出典元:麻布競馬場 @63cities https://twitter.com/63cities/status/1472400671387582467
念の為ぼかす。
一昨年、近所の庭のある1戸建てに一人暮らしのおばさんが引っ越してきた。
その家は前住居者が離婚して、家族が出ていき、その所有者がリフォームを施し貸家にしたものだ。
日当たりが良く、庭はその家と隣の家の間にあり南側の道路に面していたので、日照権を得られなかった私の家族はその家を羨ましがっていた。道路に面した部分はフェンスと門扉で覆われているが、野良猫がそのフェンスをくぐり、その庭の間を通るのを昔はよく見かけた。
独居中年女性の存在が結構珍しく、母の仲間たちも「未亡人なのかね」「子供が独り立ちしてるのかもね」「ママさんバレー興味あるかな」と引っ越し当初は持ち切りだった。
しかし、あまり周りとのコミュニーケーションを取りたがるような人ではなかったみたいで、周りもソッとしていた。
近所に大きな駐車場があり、そこに結構な数の野良猫がいた。過剰に猫に餌やりをする女がいて、そのせいか野良猫のたまり場になっていて、近所に庭のある家は糞尿の被害にあっていて、夏場の臭いは酷いものだった。
おばさんの家の庭も例外ではなかったのが容易に想像はついた。おばさんは園芸が好きみたいで、庭にはプランターや木の入った鉢など沢山おいてあった。
その横に開封してある猫缶らしきものが置いてあったのが驚いた。庭を荒らされても平気な程、猫が好きなんだろうなと思った。
ある日、珍しくおばさんを庭先で見かけた。おばさんはしゃがみこんで、菜箸で猫缶の中身を混ぜていた。その横に青色の不凍液のボトルが置いてあり、チョビチョビと猫缶に不凍液を混ぜながらかき混ぜているのだ。
ギョッとした俺は、見て見ぬふりを通り過ぎた。
今まで彼女はずっと、野良猫に不凍液を混ぜた猫缶を与え続けていたのだ。
今朝、そういえば最近野良猫全く見なくなったね。と母が言った。去年はふん尿のニオイも無くて良かった。窓を開けて喚起ができたから。そういえば駐車場でも冬場に野良猫1匹も見なかった。保健所に連れていかれたのかもね。車運転する時、誤っていつか踏むんじゃないかと思ってたから、ホッとしたよ。
そんな話をしていた。
俺は猫は好きでも嫌いでもないが、野良猫に餌をやる行為は間違いなく誤りだと思う。動物を飼ったことのある人間ならわかると思うが、餌やり、トイレの世話、健康チェックから看取りまで、全てこなして飼育なのだ。
去勢手術も施さず1番楽な餌やりだけやって猫を護った気になれるならそれは独善的すぎるし、なんなら雑食の猫の自活力を奪い、の不幸の連鎖を繋ぐ手助けをする悪魔的な行為だ。手えだすならしまいまでやれと、俺が子供の頃に働いていた湯屋で世話になっていた職人が言っていたのを思い出す。
おばさんが恣意的に野良猫を殺したことは、褒められたことではない。しかし、おばさんを責める事は誰ができるんだろうか。地域猫としての処置をされた野良猫なんて1匹も居なかった。
愛護法に動物はみだりに殺してはいけないとあるが、おばさんは自分の家の敷地内に不凍液を混ぜた猫缶を置いていただけだ。近所を歩き回って叩き殺したわけでもなく、猫のいるスポットに毒餌を置いて回っていたわけでもない。「みだり」の定義に反するかは疑問である。猫いらずでねずみを殺す感覚に近いのかもしれない。
俺にはおばさんを責める権利が見当たらなかった。
猫殺しの気味の悪い中年女の行為が、近隣住民のQOLの向上につながった事を知っているのは俺だけなんだろうな、と今はもう猫缶が置いてないおばさんの庭先を通り、ふと思った。
ベルマークはホントいらない。今時消費者キャンペーンでもシールを切り取ってハガキに貼って応募、とかないじゃん。
何が悲しくて数百円のためにチョキチョキペタペタやってるんだろ。
ウェブベルマーク、という楽天で買い物したらつけられるのが別にあるんだから、そっちに統一すればいいのに。運営が無能だと思う。
ママさんバレーは好きな人だけでどうぞ。うちの学校は趣味のサークルと化しているが、増田みたいに強制参加なところもあるのか。クソだな。
親子球技大会とか教育講演会とか、やる意味あんのか誰が来るんだ的なあれ。
平日昼間に教育講演会やっても人集まらないから、役員は強制参加。
実績作りのためにイベントをやり、次年度「前の年にやっていたから」と継続って、何のためにやるのか意味不明になってるやつ。
あと、P連のイベント。
こんなものに時間取られるから、みんなやりたがらなくなるのよ。
PTA自体は学校の内情が把握できるし、学校に親の意見をモンペではない形で言えるので必要だと思うけど、新興宗教みたいな面倒臭さが敬遠される一因だと思う。
こないだガストに行ったんですよね。ちょっとビールと山盛りポテトフライ食べようと思って。
そしたら隣の大きい席で、ママさんバレーのチームの打ち上げが行われていました。10人くらいの団体様。テーブル3つをくっつけて。
オバt,ではなくてママさんたちは、みな真っ赤な顔してて、声も大きいんですよ。つまりベロンベロンに酔ってる。
で、エキサイトしてるんです。
「チームの勝利に必要なポジションはセッターだ!」と、監督というかリーダー格のママさん。
「いやアタッカーだ!」「バックは黙っとれ!」「なんだとオイ!」
全体的にかなり口調も荒々しくて、ママさんの前に元ヤンがつくような方々でした。
しばらく観察していると、
「あいつは下手だ!もちろんワタシよりはうまいけど、でも普通に考えてあいつは下手。そう思わない?」
と、監督やってるオバ、じゃなくてママさん(一番酔ってる)が先導し、その飲み会に参加してない人の悪口大会になっていきました。
この流れを断ち切ったのが、それまでグッと黙っていた、バック組のテーブルの肥えたママさん。
「いない人の悪口言うのはやめようよ!」
と今日イチ大きい声で話したのでした。
全員がちょっとビクッとしたのが面白かった。でも一瞬の間のあとに、また一番酔っ払った監督らしき女性が
「バックは黙っとれ〜!!」と、また理不尽なでかい声で流れを元に戻しました。
そのあと、監督らしきクソ女は「スマホなくした。あれ、ワタシのスマホどこ〜!」とか
最後までギャーギャーわめいておりました。
私の母はいわゆるママさんバレーをしており、週に一度か二度夜にはいなかった。
そのため作ってもらったご飯を食べ、その途中か食べ終えた後に帰る父におかえりと言い、一緒にゲームをしたり、または一人でパソコンをいじって遊んでいた。
正直記憶はおぼろげだが、父に尻や腰を何度も触られた。
そのときはおそらく小学4-6年で、そのいかがわしさや気持ち悪さが女子として分かる頃だ。
気持ち悪い、やめてほしい、けれども母親には言えない。脅されたわけでもないのに一人でに思い込み、かわせそうでかわせないまま続いていたが、母との不仲や父親の性格の嫌悪から明確に避けたことからか、何とか触られることはなくなった。
その他に教養の本棚にポルノ雑誌があったこと、学生者のアダルトDVDが出てきたこと、PCでAVを見てること、アダルトグッズが父の部屋に置かれてたこと。明確に思い出せることもあれば、
8歳の頃に急に父と風呂に入らないと前触れもなく拒否したこと、夢か現か分からない、夜中の父親との擬似セックス。これらは私の妄想によるものか事実なのかわからない。
もてないわけでもない。告白も何度も受けた。ただ、同性異性問わず、体に触れられることがとにかく嫌なのだ。
おんなのこは何かと抱き着いたりしたがるがとにかく苦痛だった。体が一人でに強張り汗がにじんでくる。自然と逃げたくなる。ほとんどのおんなのこは、気付いてくれない。私が進んで誰かに触れようとしたことなんてないのに。
男性の接触はもっと嫌だ。がんばれよ、なんて肩や腰に触れられることがどれだけ気持ち悪いか。鳥肌が立ち、その感触がずっと残る。意図が性的でないと自分で納得できていたらばまだましだが、明らかな下心で触られることはとにかく恐ろしい。怒りや憎しみなど湧かず、ただ、こわい。
かよわい被虐者になりたがる女の深夜二時のポエムだと流してくれてもかまわない。
なんだか書いて、楽になったよ。
大阪都構想は"今"ではなくて"未来"の姿をイメージして投票してほしい。
大阪人は自分が儲かるか、儲からないか、だけを考えて簡単にメリット・デメリットで考えているが、単純に、大阪が今のままでいいのか、変わった方がいいのか、それを考えればいいと思う。
橋本さんは確かに色々問題ある人だとは思うけど、ここまで大阪のことを思って「変えるぞ!!」を言ってくれてるのを、なぜわたしたちは応援できないのか。改革に痛みを伴うは当然で、それをデメリットとして片付けないでほしい。
わたしは改革をこのまま進めてもらって、大阪を圧迫してる生活保護費の問題をなんとかしてもらいたいと思ってる。
わたしの友達の親家族は生活保護で暮らしてる。学生時代に何回も家に遊びに行ったけど、オンラインのFFで遊んでいたり、週2日のママさんバレー行ったり、働かずに超楽しそうに生活していました。わたしたちがこの人たちの生活を支えるために税金払ってるんです。
こういう働けるのに働いていない人、きっとたくさんいると思う。そういう人は改革を望んでいないので都構想反対してるんだろうなーって感じはしてる。
中学校にあがったとき、クラスに同じ小学校からきた子があまりいなかった。
入学してすぐ、座席は名簿順。仮名ではあるが、増田という名字の自分はクラスの後ろから二番目だった。
そして私の前は、西村さん(仮)という同じ小学校から上がってきた子だ。
西村さんとは、同じ小学校とはいっても、まともに会話をしたことがなかった。
6年生の頃同じクラスだったような気がするけど、今にして思えばそれもおぼろげだ。
私は小学生の頃、3,4年生のときに同じクラスだった子とずっと仲良くしていて、クラスが別々になった5,6年生の頃もその子達とばっかり遊んでいたからだ。
そして件の西村さんはいわゆる「いじめられっ子」だった。ような気がする。
多分、アトピーだったんだと思う。肌が荒れていて、膿んでいることもあり、多くの人達は西村さんを避けていた。
遠巻きに、ヒソヒソと「臭い」とか「気持ち悪い」とか、「あいつの頭、シラミいるぜ!」とかいってる男子もいた。
だから西村さんは、いつもオドオドしてビクビクして、決して自分から誰かに話しかけようとしなかった。
ペアを組む時だって絶対さいごひとりであぶれてた。
殴ったり蹴ったり、そういう肉体的ないじめはなかったけど、あれは確かにいじめだったと今にして思う。
私は西村さんとほとんど喋ったことがなかったけど、それは西村さんに限ったことじゃなく、あの6年生のクラス内では半分くらい喋ったことがない人がいたように思う。
それは多分、すでにできあがっていた友人関係に割って入るのが面倒くさかったからだ。
中学校1年生のそのクラスに、気心の知れた相手はひとりも居なかった。
3校程度の小学校から集まっているので、クラスの3分の1は同じ小学校から上がってきているはずなのだが、仲がよかった相手とはクラスが別れていた。
そんな中で唯一同じ小学校の同じ6年生のクラス出身だった西村さん。
違う小学校から上がってきたひとたちとイチからがんばって仲良くなってお友達がんがん作るぞ!というのはどうにも面倒くさくて、だから始業式の日に、西村さんに「また同じクラスになったね〜」と気安く声をかけた。
その時、ものすごいびっくりした顔をされたことを覚えている。
そりゃあ今までまともに話したことない相手から、そんなふうに話しかけられたら私だってびっくりすると思う。
でも当時、本当に面倒くさかったんだよ。「はじめまして!」からはじめるのが。
出席番号が後ろの方だから座席も窓際だから、教室のハジに追いやられてて、その場所から教室のなかほどに突入していくのも面倒だったし。
というわけで私は西村さんに物凄く気安く声をかけた。席順のおかげで班も一緒だったし。
私は母親が地域のママさんバレーをやっていたこともあって、中学校ではバレー部に入ろうと思ってた。
でもクラスの皆さんが「部活何はいる?」「私バスケ!」「えー、バドミントン部行こうよ〜」なんてワイワイキャッキャしてるのを横目に、ひとりでサッとバレー部に入りに行くのもなんとなく癪だった。
友達を作るのが面倒くさいなんていいつつ、私も友達とキャッキャしていたかったんだろうね、本当は。
その頃には私の後ろの座席の三田さん(仮)とも同じ班だから仲良くなってたけど、彼女は若干不良じみていて、部活なんか入んねーし、と言っていた。
西村さんに「部活きめた?」と聞くと、まだちょっとオドオドが抜けないものの「決めてない」と言う。
私はそんな西村さんを「じゃあ一緒にバレー部入ろうよ!」と言って、物凄く強引に一緒にバレー部に入部した。
運動神経があまり良くないことも、だからあまり運動好きじゃなさそうなのも知ってたけど、とにかく私はひとりでバレー部に入るのが嫌で、西村さんを道連れにした。
大人しい性格の西村さんは私に逆らうこともできず、嫌ともいえず、それでも「でも……」と言うから、「じゃあ仮入部でいいじゃん。とにかく一緒にいこうよ、一緒に部活やりたいよ」とズルいことを言ったのを覚えている。
あなたと一緒に部活をやりたい、という言葉は、小学生の頃ずっと独りぼっちだった西村さんにとって、どんな威力を持っていたんだろう。
とにかく西村さんは私に引きずられるようにバレー部に入って、結局3年生になって引退するまでずっとやめないでいた。
私たちの学年でバレー部に入ったのが、私と西村さんを含めて4人だけだったから、結束が強かったのも理由のひとつかも知れない。
私は西村さんのことを、1年生の5月くらいから「西村さん」ではなく下の名前をとって「なっちゃん」と呼ぶようになった。西村さん、と呼ぶのが面倒くさかったからだ。
西村さん改めなっちゃんは、徐々に性格が明るくなっていった。部活中に顧問に怒られたりすると、やっぱりオドオドした態度になるけど、そうじゃない限りはよく笑うし、冗談も言う。
小学生の頃にすごく汚かったような気がする肌も、そういえば中学生になってから(というか私が一方的に馴れ馴れしく話しかけた頃から?)気にならなかった。
授業中にくだらない手紙をまわしたり、同じ班の男子も含めて遊びにいったりした。
多分それらは全部、なっちゃんが小学生の頃にはやったことのないことだったんじゃないかと思う。
なっちゃんとは2年生でクラスが別れて、でも3年生でまた同じクラスになった。
高校は別の所に行ったけど、高校1年生の終わり頃、中学校のバレー部、後輩達の最後の試合(3年生は7月頃の大会が終ったら引退するけど、その後3月にある「3年生さよなら大会」的なものに出るのがならわしだった)に応援に行っては一緒になって後輩達を応援してハシャいだりしてた。
結局なっちゃんは、高校2年生の頃に病気をして1年休学し、ひとつ下の子達と同級生になったらしい。
けど、その頃すでにすっかり明るくなってたなっちゃんは、そんな境遇もまったく気にしてないようだった。
その時彼女は、幼稚園か保育園の先生になるんだ、といって専門学校に行っていると言っていた。
そんなふうにしてお互い近況を話しあって、「元気でよかったよ〜」「またね〜」なんて言い合って別れたのだけど、結局なっちゃんに会ったのはそれが最後だ。
それから数年後、なっちゃんは引っ越したらしい。だから地元で行われた成人式になっちゃんは来ていなかった。
中学校1年生の頃から成人するまで、私はたいして深くなっちゃんのことを考えたことがなかった。
最近、年をとったせいだろうか、昔仲良かったあの子は元気かな、と思うことがたまにある。
それは小学生の頃仲良かった子達であったり、中学生の頃一緒に部活に打ち込んだ仲間であったり。
そうやって思い出してみた時、小学生の頃、あんなにオドオドしてビクつきながら過ごしていた西村さんが、まるで人が変わったように明るくなったことにようやく気付いた。
まるで別人みたいだよねって。
私は別にいじめられてた彼女を可哀想に思ったから構いにいった訳じゃない。
ただただ、知らない人達の輪に入っていくのがひたすら面倒くさくて、ちょっとでも楽な手段で、それなりに楽しく過ごしたかっただけだ。
そんな自分本位な考えと行動だったけど、もしかしたらそれが彼女の人生を変えたのかもしれない。と、そんなことをふと考えた。
お母さんみたいになりたい。
明るくていつも笑顔
早寝早起き
素直で一生懸命
人の役に立つの大好き
ママさんバレーでもそろそろ最年長になるけど頑張ってる
そもそも体を動かすのが好き
よく笑うからたるみがない
使ってる基礎化粧品はわたしのより慎ましい
お化粧もドラッグストア
歌ったり踊ったりたくさんする
変なゲームも思いついてすぐする
怒っても次の日になれば元通りにしてくれる
いやなことはすぐ忘れる
今でも仕事と家庭と両立してる
すごい大変だと思う、それでも今ある幸せに目を向ける
わたしたちからするとおばあちゃんお母さんに厳しすぎだろって思う
おばあちゃんは教えてるだけだって言う、確かに普段は普通だけど、
実際わたしたちはお母さんもおばあちゃんも好きだから、すごい複雑
でもお母さんはたまに喧嘩はするものの、わたしたちにおばあちゃんの悪口は言った事ない
お父さんのことが大好き
お父さんのことが大好き、なんて優しくて頑張り屋で偉いんだろう、お父さんよりいいひとはいないって言う。
デートに行くと、すっごく喜んでる。お父さんだーいすきって言葉にして言う。
そうやって育てられたから、わたしたちは思春期でもお父さん臭いとか思ったことないし、嫌いになったことない
はっきり言って育児とかすごい協力的ってわけではなかったと思う。
仕事すごく頑張り屋、体が心配になる、お父さんも人の役にたつこと、喜ばれることがだいすき。
すごくいいお父さんではあったけど、所謂仕事忙しくてあんまり家に居れないお父さん。
それでも、お父さんへの不満より、感謝の方が多いんだと思う。
もうとっくに成人したわたしたちにも、抱きしめぎゅっぎゅーとか歌いながら抱きしめてくれる
いつもより少し長い時間話をすると、ありがとう、しあわせだなーって言ってくれる
お母さんみたいになりたい
ここのとこ2ちゃん脳になりすぎて、女であることに恐怖しか抱けなかった
どうせみんな本当は女が嫌いなんだろって、どんな立場になっても叩くんだろって
家庭板とか鬼女とかきだんとかでまとめられてるようなことばっかり起こる
自分もどんどんひねくれて、醜い心になって、なにかを磨り減らして生きていくのかと思うと真っ暗だった
可愛くて若い女の子にしか生きる資格はないと思って自分で自分をいじめてた
なにもかもを信じる心を失ってた
でもお母さんみたいに生きればいいんだってなんか今気づいた
お母さんありがとう
お母さんの子どもだから頑張ればお母さんみたいになるのは無理じゃないはず
そう思うと頑張ろうって気になれた
のほほんと育ってきたから、色んなことを真に受けちゃって、
正直ひねくれきったこの心だけど、
今からでも遅くはないかもしれない、頑張ろう
<追記の追記>
なんかたくさんブコメとかありがとうございます
お母さんのいいとこ並べたかったり、自分の気持ちをメモりたかっただけなので想定外ですが、嬉しいです
一度消したのですが、少しだけ言いたくて無粋ながら追記します
色々言葉やお話を並べてもきりがないので、なるべく短く済ますのですが
なんかお父さんおばあちゃん下げみたいになっててすごく罪悪感が。
お父さんもおばあちゃんもいいとこいっぱいで、色んなことや見方があって
だから、そこにお互いに大前提として大好きの気持ちがあるのとないのでは、違うかな、と。
今回はお母さんのお話だったので、なんだかお父さんとおばあちゃんはそういう側面だけの話になってしまいました。
もしみなさんにそう思われちゃってるって知ったらお母さんも悲しむ気がするので、書かせてもらいました。
とりあえずこの度のわたしはお母さんが、お父さんのことずっと好きでいれてるってことが、希望になったので。
どんなところで生きるかよりどんな風に生きたいか、みたいな。心のおはなしです。
そういう心を持ったお母さんみたいになりたいなって思ったんです。
やなことないことなんてなくて、やなことあるけど、いいとこたくさん集められるようになりたいなって。
せっかくコメントくれたのにごめんなさい。
助言どうもありがとうございます。
お母さんの環境については今後もわたしなりに努力してもっと幸せにできるよう頑張ります。
すごく急いで書いたので支離滅裂な乱文でごめんなさい。
気分を悪くした方居たら、ごめんなさい。