はてなキーワード: ポストモダンとは
「ザ・ピープル(国や民族や階級で差別しない)」の平等や人権が世界常識。
「国民」━━自国と自民族だけの平等や人権というおかしな条文は🇯🇵だけ。
国民でないガイジンに平等や人権がないという頭のおかしい発想も🇯🇵だけ。
そのクセ、憲法の英訳では「国民」を「the people」にしてる。
ザ・ピープルなんて主義以前の常識なんで、君主制のクニでも知ってるよ。
「The」をつければ【人を国や民族で区別しない意味】と子供でも知ってる。
【民】━━目を突かれた奴隷。
「国家(帝国豚小屋)」「国民(帝国奴隷)」を語る汚らわしい島🗾。
「恥」「世間」「努力」「頑張る」「仲間」「仲良し」「甘え」は海外にない価値基準。
でも、🐷はウソ翻訳、ウソ字幕、ウソ吹き替えをうのみにしちゃう。
ドイツ国家、アメリカ国民、フランス人民等の失礼はやめなさい。
ホームはブラザーを「兄と弟」に分けない、シスターを「姉と妹」に分けない。
ホームに「年上と年下」「先輩と後輩」「目上目下」の年齢不平等はない。
「自然」はウソで、日本のタテ社会は人工的で家畜的なカースト制度。
ジャパニーズの権利と平等と努力はすべてウソ。誰も頑張っていない。
ジブリも鬼滅も進撃もワンピもFGOもFFも何万のなろうも差別用語だけ!
「兄弟姉妹」「先輩後輩」「皇帝」「教皇」「王」「大臣」「国民」
の偽ホーム、偽ネイチャー、偽ファンタジーで子供を洗脳するだけ。
リアルで具体化しない、フィクションで物語化しない。どんだけ怠けるの?
「ネイチャー」「ホーム」「ブラザー」「シスター」すらわからない。
ピープルやパーソンやインディヴジュアラティの「ヒト」すらわからない。
ヒトとクニとイエがわからない16億の🐷🔗とか嫌すぎる。
まずは姉なる“日🇯🇵”って不平等なニセ太陽を改名しないとな。
憲法。和。恥。自然。世間。努力。頑張る。仲間。仲良し。甘え。
1964年のピューリツァー賞を受賞したRichard Hofstadter(1963) “Anti-intellectualism in American Life”は40年後の2003年に日本語訳が出版された。
「反知性主義 (Anti-intellectualism)」という言葉が内田樹などにより、日本で普通に用いられるようになったのは2003年以降のことのようだ。
アメリカのポストモダン文学を代表する小説家Robert Cooverの最も重要な作品である1977年出版の”The Public Burning”にいたっては未だ日本語訳が出版されていない。
こういう本を読むとき「英語を読むことができてよかった」と感じる。
フランス語の場合は反体制とは関係なく20世紀の重要な著作でも日本語訳されないことがしばしばあるようだ。
さらには、重要な著作なのに英語訳もされないことも、しばしばあるようだ。
例えば、ガストン・バシュラールの一連の著作がそれに該当する。
僕はフランス語の本の場合、1冊読み終えるのに数百時間かかってしまう。
従って、上記のような興味深い作品でも、それを読む時間を捻出することはとても困難だ。
本当にとても残念だ。
おっさんが飲み会で真実の愛について延々語るだけなので、哲学書の入門編にいいんじゃないかな。楽しそうにしてるおっさんはいいぞ。
どうしてフィクションで人は感動するかについて述べた本の走りで、後半は散逸しているんだけど、カタルシスについてはなるほどなあ、とは思った。作家になりたいんだったら普通にハリウッドの三幕構成の本を買ったほうがいいかもしれないが、この読書リストを読んでいる人は実用的な知識よりも読んでいて楽しいかどうかを求めている気もする。
読もうと思ったまま長い時間が過ぎてしまった本で、まだ読めてない。アウグスティヌスが若いころややりたい放題やっていた時期のことも書いてあるらしいので、宗教書として以外にも楽しめるんじゃないだろうか。
塩野七海がエッセイですごく推していたから読んでみたけれども、普通に面白い。例えば、中途半端に生かしておくと復讐されるから、いっそとどめを刺しておけ、みたいなことが書いてあって、優しいと人から言われてしまう自分には大いに刺激になった。ところで「孫子」もそうだが、戦争や政治学について書かれた本はたいてい「そもそも戦争は大悪手で、戦争になる時点で何かやらかしてる」という趣旨の言葉があり、全くその通りだと思う。
未読なんだけど、結婚とはある種の契約なんだから、まず処女と童貞がお互いに裸を見せ合ってからだ、みたいなディストピア的な描写もあるらしく、ディストピア文学好きの人は楽しめるんじゃないかな。あとは非モテ界隈の人とか。実際、完全な平等な社会を目指そうとするとどっかしら歪みが出るもので、それについて考えるのにも使えそう。
自然科学的な考え方、ロジカルシンキングのマニュアル。長くないのですぐ読める。得るものがあるかどうかはわからないけど、逆に普段している論理的思考がそもそも存在しない時代があったことは、実感しておくと歴史を学ぶ上で面白いかも。
平凡社の上巻を読んで挫折。純粋な理性っていうけれども、ヒトの心にはデフォルトで時間とか空間とかの枠組み、基本的な概念が組み込まれているよね? 的な話をやたら細かく述べていく内容だったように記憶している。長いので三行でまとめたくなる。
この本に限らず、いくつかの哲学書は「この本さえあればあらゆる哲学的論争をおしまいにできる」「この本からあらゆる結論が導き出せる」的なスタンスで書かれたものが多い印象。
エヴァヲタなら読まなきゃという謎の義務感から読んだ本。要は、どうすれば自分を信じることができるか、について語った本であったような気がする。自分は救われないだろうという絶望から、それでも神を信じるという境地に至るまでの道筋を延々と語ったようなものだった、はず。
自分は特定の信仰を持たないが、どうせ自分なんてと己を見捨てた境地から、まあ自分は自分だよね、的な気分に至った経験がある人が読むと楽しめるだろう。
「善悪の彼岸」と「ツァラトゥストラはかく語りき」なら読んだ覚えが。自分はカトリックの中高一貫校出身であったせいか、キリスト教思想にある欠点を指摘したこの本を面白く読んだ。キリスト教になじみがなくても、たとえば来世があると考えることで現在を生きることがおろそかになるといった指摘は、興味深く読めるんじゃないだろうか。あとは、増田で定期的に出てくるルサンチマンがどうこうとかいう話が好きな人にもおすすめ。マッチョぶってるところはあるが。
新潮文庫の「夢判断」「精神分析入門」「トーテムとタブー」「一神教の起源」なら読んだ。フロイト自身はヒトの心を脳から探りたかったらしいのだけれど、当時はMRIやら何やらはまだないので対話式の治療法を導入したらしい。
彼の理論は今となってはツッコミどころがたくさんあるのだろうけれど、クラインだとかビオンとかについて触れるなら頭に入れておきたいし、心理学特にパーソナリティ障害について読むなら知っておきたい。自分はフロイトやアドラーよりもユング派だが。
ラブストーリーの「ナジャ」だけ読んだ。謎めいた女のあるある的な話だ。
「論理哲学論考」だけなら読んだ。これもカントみたいに「俺が哲学のくだらない争い全部終わらせてやる」的な立場で書かれている。定理がずらずら並んでいるだけで、余計な表現がなく、簡素。
ただ、言語の限界について今の人が持っている感覚ってのは大体この時代の人が言っていたことだった気がするし、そういう意味では面白いんじゃないかな。この辺は数学ともかかわっていて、ペアノとかゲーデルとかヒルベルトとかその辺興味があったらいかがでしょう。
ちなみにウィトゲンシュタインがポパーとの議論でキレて火かき棒を振り回したヤバいやつだというのは哲学界隈では有名らしい。
シン・ウルトラマンの予告編でちらっと映っていたので読んだらいいかもしれない。
この本そのものは未読で「悲しき熱帯」ともう一冊なんか専門書を読んだことは覚えている。面白かったエピソードの一つは、ある民族は身分を入れ墨にするんだけど、入れ墨のない人間(白人たち)を見て面食らう。要するに身分証明書を持ってないようなものだから。
定期的に異民族と共に暮らすドキュメンタリーが読みたくなる性分なのだが、それはたぶん、自分のやり方や考え方が絶対じゃないってことをよく教えてくれるからで、これも本を読む効用の一つだろう。趣味なので効用なんて本当はどうでもいいが。
面白い。僕自身のスタンスとしては、日本人が海外で誤解されていることを批判するんだったら、自分も外国に対する偏見や無知を減らそうと努力するのが筋だと思っていて、それの理論的な補強をしてくれた本。身近に外国人の多い環境ではないが、すぐに役に立たないからと言って読まないというのはなんか違うんじゃなかろうか。自分はイスラーム世界やインドについて、どれほどわかっているのだろう?
どっからがいきでどっからが野暮なのか、直方体を使った図があった気がするが忘れた。
「遠野物語」しか読んだことがないし、それも「マヨヒガ」のことしか覚えていない。
自分が現代思想に出てくる名前がわからなすぎて最初に読んだ本の一つ。四コマ漫画だがかなり本質をとらえており、いしいひさいちの本業は何だったのかよくわからなくなる。素直に笑っておきましょう。勉強ってのは楽しみながらするもんだ。
上のリストでは省略した20世紀哲学者が実名で登場するミステリなんだけど、フーコーがサウナで美青年とイチャイチャしたり、七十年代の音楽を聞きながら薬をキメたりしているので、現代思想だのポストモダンだのをかじったことがあるならおすすめ。著者がやりたかったのは、たぶん上の世代の脱神話化というか、強すぎる影響の破壊なんだろうけれども、ここも素直に笑っておくのがいい。
以上。
いやたしかに日本の仏教がふにゃふにゃなのは同意なんだが、大乗仏教の歴史をざっと見ると、龍樹とか世親とかのビッグネームがいるじゃん
こいつらが説いた理屈はかなり強度がありそうに思えるから、潜在能力としてはなかなかしっかりした教理がありそうに思える
ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。
仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。
ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。
でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。
大乗仏教はプレモダンのように思えて、実はポストモダンを超克し得る可能性があるらしいんだわ
(色即是空空即是色つってるからここで言及されてる「仏教」は大乗仏教のことだわな)
こんな感じで、上座部を現代思想として捉えたとき、どういう視点を提供できるのかについてわりと気になってるんで、詳しい人いたら教えて欲しい
今の時代、若書きが通用するのって小説だと純文学とライトノベルだけだよ。
で、なんでそういうことが日本の文芸だけで起きるのかっていうと、出版社が一種の芸能事務所化しちゃっている日本の特殊事情に原因がある。
海外では基本的に在野のエージェントを通すなどしてそれなりに選別されたうえで出版するかどうかが決まるから若くしてデビューと言っても日本ほど早くないし、また欧米は特に文学の全体を貫く文化的な文脈があるから批評家が機能していて、文学理論を無視した雰囲気小説は全く評価されないので学んでいない勢いだけの作家は頭角を現しづらい(ほぼ不可能)。
日本の現代作家ってあんまり文学理論学ばないからそもそも世界的にはレベルが低いんだけど、とりわけ純文学は作家が育たない。その原因は80年代ごろから顕著になるけど出版に広告代理店が絡んでマスメディアと癒着し始めたため(著名な流行作家とかが昔テレビに出てたのはこの流れのせい)、ほそぼそとやるだけでは純文の編集部が肩身が狭くなる一方なので注目を集める素材じゃないと売り出せない状況になったから、売りどころがわかりづらい純文学はしだいに「若い女性」とか「アウトロー」みたいなので広告的に盛り上げられる人選になっていったため。で、売り出したら売り出しっぱなしで育て方がわからないのでモブ化するしかなくなる。
いわゆる「瑞々しい感性」っていう売り文句はこういう雑な売り方を強引に肯定したもの。
エンタメ小説は技術体系が比較的出来上がっているので良否の判断がつきやすい。だから結果的に技術的に未熟な作家は取り上げられにくい。
ライトノベル(ジュブナイル小説ではないいわゆるオタクが好むタイプのラノベ)はある意味ポストモダンの申し子で構造が破綻していた方が面白いから未熟さが売りにできるので、純文学に近いスタンスになっている。
ちなみに明治大正のころも若い文豪がいっぱいいたという反論がありそうなので先に封じておくと、あれらの作家は同人誌から出発している半同人作家で、そもそも出版業界自体も未熟で小さく尾崎紅葉や夏目漱石などといった作家の弟子であったり同じ大学のよしみみたいなコネデビューしかなかった。
ずっと当てこすりしかしてないような奴も「おっ、やっとるやっとる」くらいに見てるからユーザー非表示にしたことなかったんだけど、とんでもなく的外れで存在しないものを知覚している感じのブコメがあって、「おっ、大司令症候群案件か?」って思ってそいつのブコメ見に行ったんだよ。そしたらびっくり、全部が全部、極めて日本語として正しく意味も通る文章なのに、確実に的が外れてるコメントしかない。それも多様な方向に的が外れてる。同じ方向に外れてたら「おっ、やっとるな」案件なんだが、10000以上のブコメがあってパラパラっとしか見てないけど、どちらかといえばリベラルな傾向がある程度しか読み取れない。しかしどれも、大喜利やウケ狙いでもなく、おそらく本気で、明らかに的外れなのだ。
私はこういう文章を書く人を知っている。「自分は洞察力と地頭は人一倍良い。その証拠に大して勉強してないのに成績はソコソコだし、ネットの洞察力テスト満点だったし、先生から洞察力を褒められ云々」と思い込んでる奴だ。そう、かつての私だ。かつての私は、適当に賢そうな人が書いた賢そうな文章の上っ面だけを拾って勝手な解釈をして、「つまり問題Aと問題Bは相似形だな!ソースは俺の地頭と洞察力!」をやって、今思い出すのも恥ずかしい逆張り、逆張りが増えてきたら斜め張り、斜めも増えたら裏張りと、とにかく「私は人と違う、なぜなら洞察力のバケモノだから」をやってた。幸いなことに日本語構成能力はソコソコだったので、結果としては「賢そうだけど的が大いに外れてる、言語明瞭・意味明瞭、でもなぜそれが出てきたかは理解不能、しかも四方八方に意見が飛び散ってて行動と書いてることが全く一致しない」というマジモンのバケモンになっていた。ダメな方のポストモダンかよ。
というわけで、そんな私の黒歴史を思い出すので、非表示。いつか抜け出せるといいな、多分君が洞察力と思ってる考え方、ほぼ100%妄想だよ。それっぽい言葉を上っ面だけ拾って関係ないとこに適用しようとしても、それは深い洞察とか君だけが気づいた関連性とかじゃなくて、的が外れてるよ。論理の三段跳びならまだしも、論理のフリーフォールだよ。じゃあな。
うわあぃえあああああああああ
なぜだ?
なぜ我慢できなかった??
ウケると思ったのか?
こんなものが?
皆が書き込んでないのはウケないのが分かっていたからで、下ネタをかます勇気がなかったからじゃないぞ。
単なる自制心の故障だ。
汚く金を稼ぐ勇気があったわけじゃなく、自制心が壊れただけだ。
ホリ何とかさん?だって、軽蔑されるポストモダン教授だって、自制心が壊れた果てに恥知らずなことをして勝利したんだ。
俺も勝てるのか?
いや、負けたほうがいい。
こんなことをして勝ってどうする?
勝ってなんていない、人生を買われただけだ。
それなりの額で人生が売れただけだ。
1日を1万円2万円で売っぱらうぐらいなら、もっと高値で売るべきだろ?
もう駄目だ。
分からん!
何もわからん!
何回でもいうけど卑屈な奴のそばには誰も居たくねえんだよ。他人を見下さず、笑顔を絶やさず、背筋伸ばして、元気に声張って生きろ。難しく考えるのはやめろ。筋トレとか女慣れとかじゃない。人間として真っ当になれ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200724163613へのトップブコメになったのがこれである。
内容のひどさには改めて触れないが、このブコメに対する擁護コメントがhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/entry/4689047200149897538/comment/Mirocにて散見されたので反論する。
こういう現実的な指摘に対しては一斉攻撃で癇癪を起こすのに、一方で指摘されているような「卑屈な」人間同士ですら寄り添おうとしないという現実が男性の孤独死の多さに繋がっているのだろうな…
「真っ当な人間になれ」というのが「現実的な指摘」ですか?単なる中傷以上の何なのでしょうか?また、それに対する批判を「癇癪」と形容するのは、例えば女性差別を指摘した際に「フェミがファビョってるwww」と馬鹿にすることと全く同じですよね。
これに否定的なブコメつける人たち、言葉尻つついて揚げ足取ってるだけに思える。自分に自信が持てるようになることと交際相手を求めることは両輪の部分もあるとはいえ、原則、前者のほうを先に満たすべきだと思う。
つまりあなたは「自分に自信を持ってから交際相手を求めるべき」、つまり「自信のない人間は交際相手を求めるべきではない」と言っているのですよね。それはおかしくないですか?悪いのは交際相手を利用して自尊心を満たすことで、自信がない人間にも交際相手を求める自由はあると思います。
「他人を見下さず、笑顔を絶やさず、背筋伸ばして、元気に声張って生き」る人だけを「真っ当な人間」とする価値観を小学校の授業で教えるべきでしょうか?確かにそれぞれの要素は他者から好意的に受け止められやすいとは思いますが、そうでない人間も否定されるべきではないでしょう。
女性はこの辺「プリキュア」期から言われるけど、男性は放置なのは気になっている。この辺の精神の成熟がないと他人なんて愛せないから。子育て担当が女しかいないのはこういうのも問題なのよ。成長時期が違うから
女性は小さいころからこのような価値観を押し付けられているのですか。そうであれば変えるべきは女性への押し付けであって、「男性にも擦り込むべき」ではないですよね。また、これを「精神の成熟」と表現するあなたは、元増田を見下しているのではないでしょうか?
とりあえずスターの多くついたコメントを掲載したが、全体として「人間として真っ当になれ」の一文を都合よく読み飛ばしているように感じられた。
前半でどれだけ正しいことを言っていようと(前半もそれほど正しいとは思えなかったが)、この一文が入っているだけですべて台無しになるのにどうして無視できるのか本当に不思議である。
一般はもちろん、オタク界隈でも大ブームになったとは言い難いはずだよな?
エロゲが一定の評価を受けたのはゼロ年代ネット空間における、評論においてではないか。
ここら辺のルーツはまず、西洋人を真似て芸術を評論してみようとした
浅田彰らの批評空間が、ベースにあるはずでそこの影響を受けて、大塚英志や東浩紀がオタク文化評論をしてる。
一方で別の文脈でオタキングや同人誌における作品評論もあって、
彼らはフロイトの精神分析や民俗学を用いて(解説書・新書レベルだが)、評論を行っているので近親交配のように
指摘しておきたいのは、上述の流れは偏差値65以上の人たちと50~65の人たちが合流しているのであって
50未満のオタクたちは、かなりのボリュームが存在しているであろうに取り残されている。
(こういった背景が、なおざりにされているので、質アニメvs美少女動物園という対立軸や
最近のオタクはルーツを探らない論に通じてしまっているのがあると思う)
で、重要なのは芸術の評論というのは、実は人文エリートの中でもトップクラスの作業領域で
実家が太くて、曾祖父の代やそれ以上から文化資本潤沢な、文化貴族のやるもんなんだよ。
西洋で言えば、フロイトやT.S.エリオット、W.H. オーデンみたいな人たちね。
こういう人らは学術用語ぶん回して評論するとかしなくて、すごいハイコンテクストで
「青、いいよね」をさらに嫌らしく発展させたような、言語ゲームをばりばり行う人たちなので
上述の浅田彰等々でもくらいつくのは、すごく難しい領域なんだな。
でも、一応は日本人としてもそれを真似してみたいという欲求はあるわけだ。
ここで登場するのが、大塚英志や東浩紀が薫陶を受けたポストモダン。
この哲学思想において、これまでメジャーとされた文学や価値観より
マイナーとされた文学、価値観も光るものがあるぞ!って流れが強く打ち出された。
いや、皮肉のつもりだろうけど、そうなんだよ。同じなんだよ。
ネトウヨが発生するのも楽しいからだし、ワイドショーが不倫を叩くのも楽しいからだし、安倍批判が盛り上がるのも楽しいからだし、悪を倒すヒーローショーを子供が見るのも楽しいからなんだよ。
お前は、その中でも、特に理想的と考えられる正義だけを「正義」と認定したいと言っている訳だが、ポストモダン以降の相対主義の極致では、客観的な正義は決めれないんだよ。「正義」は「お前個人が正義と思っている内容」や「今の社会の法律がたまたま正義と決めてる内容」となってしまう。
いじめが起きるのは、コミュニティに悪いとされた誰かを社会から排除するのが楽しいからなんだよ。