はてなキーワード: プラクティカルとは
フェミニズムは、男性にとって労働の代替物である。結局のところ。
フェミニズムに関わる女性が何を求めているかと言えば、それは、男女双方にとって住みよい社会――ではない。
あらゆる社会運動において言えることだが、その運動の究極目的やイデアールな理想像が運動の開始とともに即座に達成されることは無い。それらが達成されるのは、多くの場合その運動が開始されてから長い年月を経た後である。
その限りで、運動への参加者は時にその理想よりも、その理想を達成するまでの過程に惹きつけられる。目標達成へと浮き沈みしながら向かっていく運動そのものを、社会運動の参加者は求めるようになるのである。
特にフェミニズムという社会運動に関わる人々は、自分の行動や自分の自意識が、よりよく社会を変えていくという実感を求めているのではないかと思われる。あるいは、仮にその運動が目的達成に寄与しなくても、自分が社会をよりよく変えるための運動に従事しているという実感を得ることを、運動の参加者は求めている場合が多いのではないだろうか。社会生活を送る上での女性ならではの苦しみ、自意識、そして女性ならではの努力、そういうものが、個人の中で閉じて完結してしまうのではなく、社会の(よき)変化へと繋がっていること、その理想へと向かう道程に属していること。それこそが、社会運動に関わる人間が往々にして求めていることである。社会運動を行う限りで、そのような実感を求めていない人間はまずいないだろう。
(勿論、そのような社会運動に参加するていでいながら、実際には特定の人間を攻撃したり嗜虐的な感情を満たしたりすることを求めている人間もいる。しかし今回はこのような人々を「フェミニズムに参画する人々」からは除くことにした)
また、そのような運動に従事するもの同士での連帯感を味わうことも、社会運動に参画する人間にとっての滋味である。自分が現実社会のプラクティカルな文脈に含まれ、自分の自意識や思考や行動が、現実社会などのプラクティカルな実体と連続し、相互の作用を与えあっているという実感、また、運動に関わる他のメンバーとも連続しているという実感。それらの実感を、社会運動に参加している人間は求めるものなのだ。理想的な社会というものがすぐには手に入らない以上、運動の参加者は往々にして、そのような魅力的な過程に愛着を抱くものである。
して、男性にとってそのような実感を得る機会はあるのだろうか?
女性にはフェミニズムがそのような機会に当たり、参加者のプラクティカルな実感へと寄与する。自分の意識は社会から切り離されておらず、自分の思考や行動もまた切り離されておらず、また、自分以外の他人とも切り離されていないという実感。自分の思考や意識や行動は、社会や他人にとって大なり小なり意義を持つものなのであるという実感を得ることに、フェミニズムは大きく寄与することになる。
男性にはそのような機会――つまりフェミニズムに代わるような機会――があるのだろうか。
そのような機会は女性により独占されており、男性はそのような機会から遠ざけられ、社会やその社会に関わる人々とのプラクティカルな連続性から引き離されているのだろうか? 実際のところそうではない。
男性は、そのような実感をフェミニズムを通してではなく、労働から得るのである。労働によって、男性は社会と自分がプラクティカルに連続していて、よりよい社会に変遷していく過程の中に自分が属しており、また、そのような社会に属している他人との連続性の中にも属しているという実感を得るのである。
この問題は何度も世に出てきていると思うが、法治国家のことを勘違いしている人がけっこういる。
表現の自由界隈からも「法律を超えたら表現の自由はない」ってのが無邪気に言われまくってるけどさ、じゃあ、「本日から漫画を描いてはいけない」って法律ができた瞬間、漫画を描く表現の自由はなくなるの?逆なんだよ。表現の自由が先にあって、それを侵さない範囲で規制が許されるだけ。
これに対して
自由を侵害する法律が作られたら法の手続きに基づいて侵害されないように法改正をするのが法治国家の自由の行使なのだ。
法治国家原理は、法律の法規創造力の原則(国民の権利を新たに制限し、義務を課す法規範は国民代表議会のみが作ることができ、行政が立法してはならない※)、法律の優位の原則(行政活動は議会制定法に反してはならない)、法律の留保の原則(国民の権利を新たに制限し、義務を課す行政活動は、法律によって授権されていなければならない)から成り立つ。これらのどこにも、自由を侵害する法律が作られたら、法改正を待つべきであり、あえて規制に逆らうべきではない、という議論は含まれない。
※これは行政に関する原理であるというのがミソで、私人同士で新たな義務を課すのは、原則として自由である。たとえば、100万円を借りるという金銭消費貸借契約を結べば、あなたはカネを返す義務を課されることになる。それに先だって国民代表議会の授権規範が必要であるというのは馬鹿げている。しかし、原則が自由だからこそ、社会における事実上の力関係によって一方的に立場が弱い契約を結ばされるということが起きる。そこで、契約の自由を制限する法律が制定されたり(例えば借地借家法を思い浮かべよ)、裁判所の判例法理によって調整が図られることがある。
二番目のツイートは、法治国家を(古代中国の法治国家の伝統もあって)遵法義務の問題と取り違えているだけで、些末な揚げ足取りではないかと思われるかもしれない。しかし、遵法義務の問題として考えてもおかしい。もちろん、国法は自らに従わない者に対して制裁の仕組みを用意することが多い。刑法にせよ、行政上の何らかの義務履行確保の手法にしても。刑罰という結果を避けるために従った方がベターであるというプラクティカルな議論としては意味があるだろう(事実としての強制秩序の問題)。しかし、それと服従義務とを混同するべきではない。たいていの法学者は、不正な法に対して服従する義務はないと考えているのではないか(例:ラートブルフ「法律による不法と法律を超える法」)。ラズなんかは、それを超えて、一般論としては国法への服従義務などない、と言っているようだ。
ただ、これは難しい問題で、誰が不正かどうかを判断するのかという問題がある。万人が自らに都合の悪い法を不正であると判断すれば、アナーキーとなり、宗教戦争の再来である※。しかし、実定法にただただ服従するべしと言えば、ナチスの法にも服従する義務があるのか(事実として強制されるからやむなく従うのではなく)と言われてしまう。結局、個々の法規範に則して個別的に判断する他あるまい。上記のツイートでいえば、一般論として漫画という出版様式の禁止を無視したからといってアナーキーに陥ると考えるのは馬鹿げているであろう。
現代の違憲審査制は、こういった正義と実定法のジレンマをなるべく起こさないようにするためにある。憲法に人権という形で示された一般的正義の原則に照らして裁判官が実定法を審査し、不正な法と認定した法規範の適用を拒否するという仕組みが我々の社会には導入されている。ただ、裁判官の目をすり抜けてどうしようもない実定法が作られることがないとは言えない。立法者と裁判官にさしあたって頼らずに正邪を判断する視点を持つことは、自由な民主的社会の市民であり続けるために必要なことである。・・・自分の頭で考えた結果、おかしな結論に到達する人もいるかもしれないのが頭の痛いところだが、それが自由であるということである。
悪法といえども国法に従う義務があり、悪法をただすには法改正に賭けるべきという態度は、肉屋を支持する豚と言われてもやむを得ない※。
※ひょっとすると熱烈なホッブズ主義者なのかもしれないが、ホッブズ主義者なら、本当に当該禁止によってアナーキーが避けられるのかをもうちょっと真面目に検討するのではないか。
参考文献
長谷部恭男『法とは何か[増補新版]』河出書房新社、2015年
おまけ:
それに反する法律は作れません。
こうした見解に対する批判は本文中にも書いた通りだが、この人の中では、薬事法(古い名前だ)の薬局距離制限規定が作られたことはなかったのだろう。薬事法は、自分に関連する分野ではないのか(薬剤師ではないから、違うかな・・・)。
私は「ポリコレ嫌い」が苦手だ。
私と似た観測範囲を持つ人はこの一文で過不足なく伝わるであろうが、もう少しだけこの背景を共有したい。
ポリティカル・コレクトネスという考え方は、社会を構成するあらゆる属性の人々が、その属性によって不愉快に感じたり不利益を被らないようにしようという理念である。
なるべく多様な人を包摂するような視野で表現しようということだ。
どういうわけかこの「ポリコレ」はいわゆる「オタク」と呼ばれる人たちにおよそ蛇蝎のごとく嫌われている。
何のオタクか?と問われると明瞭な回答を与えることができないのが歯がゆいが、おそらくアニメ・ゲーム・映画等に関心を持っていて、積極的にソーシャルメディアで語り合う人たちと言ってもいいかもしれない。
そして、私はこの「オタク」による「ポリコレ」の嫌いかたが苦手なのだ。
その嫌いようといったらまるで「ポリコレは倒すべき外敵、屈してはいけない」というような具合なのである。
マイノリティの属性を持つキャラクターが登場すると「出たよポリコレ」。
ポリティカル・コレクトネスが無謬の理念であるとは言わないし、理念の実装にあたってプラクティカルな問題が起こり得ないとも言わない。
極端な話ではあるが、例えば「日本の田舎の中学校」を描く作品にアフリカ系日本人と中国系日本人とヨーロッパ系日本人とアイヌ民族と琉球民族と大和民族の全てを出演させなければポリティカルにインコレクトであるとするような言説は、私の感覚では受け入れがたい(し、皆さんもそう感じるのではないかと思う)。
けれども、私の目に映る「ポリコレ嫌い」の批判はそういうことではないようなのだ。
私には「マイノリティが描写されること自体からポリコレを連想して、それに敵愾心を燃やしている」ように見えてならない。
先ほど挙げた「マイノリティを描かなければならない」という理念とは対象的に、「マイノリティを描いてはならない」という理念にすら映る。
おそらく私は、「ポリコレ」という「倒すべき外敵」に抱かれる敵愾心と、それに対する無自覚が苦手なのだと思う。
無邪気に使われる「ポリコレに屈した」という表現にも「負けてはいけない外敵に負け折れてしまった」という含意があり、屈折した被害者意識を感じてしまう。
ポリティカル・コレクトネスと向き合うことを避け、漠然とした怒りの感情を「ポリコレ」に仮託していると感じてしまう。
とにかく、鬱屈としているのだ。
改めて明言したいが、ポリティカル・コレクトネスというのは上でも述べた通り無謬の理念ではないと思う。
しかし、誰もがその属性によって必要以上に傷付けられない表現を目指すという素朴な理念自体は間違ったものではないだろう。
実装にあたって様々な問題が起こってしまう理念自体を陶冶していくためにも、我々はポリティカル・コレクトネスから顔を背けず向き合うべきなのではないだろうか。
1 仕事として成立する、と言える範囲を越える危険があるという理由で、そもそも仕事として認めるべきではないという意見
2 合法化によって従業員の安全維持を徹底しようとすれば(利用者から見て魅力が薄れて)多くの利用者が個人による非管理売春に流れるという意見
1と2はそれぞれ別の話ですが、どこか底の方でつながっているようにも感じました。つまり、管理化されると魅力が薄れるというその「魅力」は、逆から言えば、1のようなリスクをセックスワーカーが負っているからこそなのではないかと。つまり、単に性欲を満たすサービスとしての需要の底に、本質的にもっと暗い何かを潜ませているのではないかということです。
少し前に増田で読んだ記事ですが、小金をもった人が、若い女の子のYoutuberに法外な投げ銭をすることで、少しずつ相手の感覚を狂わせて、いわば合法的に一人の人間の人生を壊すことを楽しむ、という話がありました。売買春にもいくらかはそういう側面があるからこそ、そこにはぬぐってもぬぐい切れないリスクがあると言えるのかもしれません。そうなると、結局倫理の問題に行きつき、その先に想定されるのはつまるところ売春というモノの撲滅、しかないのでしょう。けれども、あなたがおっしゃるように、それが決して成功しえないところにこの方向の議論の限界もまたあると思います。サルでも思いついて実行することを、この地上から消し去ることができようはずがありません。
つまり、「どんなに正論をかざしても、売春が消えることは無いですよね?」というのがやはり議論の大前提であって、だからこそ「どうすれば不幸の総量を減らすことができるだろうか?」というプラクティカルな立場しか、この問題に対する対し方はないのではないかというのが、つまり最初に書いた(1)の主張ということになります。(1)によって上の2の事態が発生する、というのは、データをもちえないので肯定も否定もできないのですが、起こり得ないとまでは言えない気もします。ただ、明らかに組織的に業として行われることと、個人間で行われることの、規模や性質の違いを踏まえるならば、そこやはり別々に考えた方がよいのではないかという気もします。ソープランドはじめ、店を構えて業として性風俗を行うものは全国でおよそ1万軒。1軒あたり平均して20人ほどが勤務するとして、その20万人の安全を高めることは(仮にそのことで非管理売春に従事する人の数が1万人増えたとしても)優先されるべきことだと、プラクティカルには言えるのではないでしょうか。
結婚という個人の人生における選択でもアファーマティブアクションを適用すべきというなら、たとえばあなたがヘテロであっても一定の確率で同性パートナーをもつべき、ということになるわけだが、そういう世界が理想?なわけはないので、これが「女をあてがえ」論のおかしさ。
また、逆に「弱者男性はその意識自体を変えるべき」論というのも、上記に対して「そもそもヘテロであることに疑いをもたないのが悪い」と言ってるようなもんなので、これも奇妙な主張。
確かに、企業が性別や性的志向により不合理な採用選抜を行っているとすれば、それは社会全体を蝕み長い目で見れば結局企業自身にも利益がない。ただそういう社会の一角の下からではなかなか全体の意識が変えられず、変革の負担が一部に偏るから、社会全体として望ましい方向へと(半強制的に)リードしていこう、というのがアファーマティブアクションの意義である。それ自体は有効な社会政策なのだが、それはプラクティカルにそうであるというだけで、決して「いついかなるとき、ところ、対象においても絶対の正義」みたいなもんではない。だから、こうやって個人の行動にこれを適用しようとしたとたん、上記のような奇妙な誤解を引き起こしてしまう。
では、正解とは何か? とりあえず弱者男性に限って言えば、話は簡単である。「弱者男性」と言われる人は、自身を「弱者」に追い込んでいる社会構造そのものに怒るべきだ。働けど働けど結婚もできない、楽にならない暮らしに怒るべきなのだ。つまり、必要なのは労働運動であり賃金闘争であり政治運動である。なのに、「それは個人の努力の問題だから……」などと納得したような顔をしている、そうやって「新自由主義・自己責任論」に騙されているから、「弱者」は延々と食い物にされているのだ。
それに気付いて活動し、この社会から「弱者」が一人でも減れば、それはすなわち「弱者」が一人救済されたということである。これ以上簡単な話はない。恋愛がどうこうとかいうのは、このことに人を気付かせないようにするためのまやかしにすぎない。「弱者」よ、銃を取り、闘え。
両親は昔すごい仲良くやっていたのだと思う。物心着いた頃とかは父親が仕事に行く際玄関でキスとかしてたと思う。物心着いた頃なので定かではないが
小学生の頃から喧嘩が増えてきた。まあ増えたといっても精々月1くらい。主に父親が不潔(部屋にもの置きっ放しとか洗面所を散らかす)なのに対して母親が聞こえるような小声で愚痴を言ったりするところで父親がブチギレるみたいな。あとは仕事のこともある。父は自営業でデザイナーをやっているのだが母がその経理を担当していてそれを巡るいさかいも多かった
とはいえ離婚しようという程ではなかった。父も母も働いているが一人息子である俺を一人で育てられるほどの稼ぎが無かったし... 二人はがんばって働いて中学受験塾に通わせるお金を何とか作り、俺はその期待に応えるかのように都内の有名国立中高一貫校に合格した
自分が中学生になってからは父も母もお互い無関心になり喧嘩すら無くなった。いやあったかもしれないけど自分は家では耳栓かイヤホンを付けて過ごすようになったから気づかん。たまに喧嘩の声で目を覚ますことはある。そもそも父親が朝早く家を出て夜遅くに帰るようにしてるので姿を全然見ん
高校生になるころにはもう全然喧嘩しないしこの件はもう忘れかけていたことだったが、東大に入って学問だけではなく生き方についても考えさせられるようになった時に改めて男女関係のあり方みたいなものを意識させられている(中高は男子校だったので...
何というか、自分の両親は子育てについてはプラクティカルな結果を残しているので家族としては大成功だけど夫婦としては大失敗という感じで... この子育てと夫婦仲の2つを両立させるのはとても難しいんじゃないんだろうか。反例はあるだろうか
ともかく自分は結婚はしたくない。一人の方がお金を自由に使えそうだし。そもそもバイトと家族以外で人と会話するのが二週間に1回くらいだからまあ無理なのだが...
【追記】
(この文章を書いている)自分が(学歴が良いとしても)人間としては失敗作だから、むしろ両親仲と子育てが上手くいくかは正の相関があるのでは、という批判もあり得そうだった。
痴漢が発生しないようなシステム作りは、男性も同じく望んでいるわけです。ということは、女性専用車両はそのもっともプラクティカルな解決方法の一つだから、男性もこれを歓迎するのが当然じゃないですか。やはりあなたとは女性専用車両は必要という点で合意に至れそうですね。
アホか。
なんで自分の人権を、それをゴミとも思わない人間に差し出す事を歓迎するものか。
上で「女性専用車両がもっともプラクティカルな解決方法の一つ」と書いたのはそういう意味です。速やかに実行でき、コストが少なく、しかも効果が高い。
女性専用車両のコストが低いとか言ってる時点で、男性の人権を軽く見てる差別主義者だと分かる。
仮にあったとしても到底認められないが、そもそも効果自体が検証すらされてない。
これに代わる案があなたにあるなら聞きますが、代案もないのに文句だけつけそのくせ痴漢被害については目をつむって知らんふりする、という姿勢では、誰もあなたに理解を示すことがなくても仕方ないのではないでしょうか。
何回でも言ってやるよ。
無関係の男性には、自分とは関係ない痴漢の対策を、それも現在進行形で自分を差別してる奴のために考えてやる義務はない。
まずは差別をやめろ。
これも何回でも聞いてやるが、
なるほど! あなたと同意が得られるポイントが、もう一つありましたね。そうです。痴漢は男女共通の敵です。痴漢が発生しないようなシステム作りは、男性も同じく望んでいるわけです。ということは、女性専用車両はそのもっともプラクティカルな解決方法の一つだから、男性もこれを歓迎するのが当然じゃないですか。やはりあなたとは女性専用車両は必要という点で合意に至れそうですね。
将来的には男性車両と女性車両を別にするというのもそりゃ一つの解決です。ただこれを徹底するには相当のコストがかかりますね。たとえば「痴漢が発生したら、鉄道会社に賠償責任がある」という判例が出れば、鉄道会社は今より本気で痴漢対策をすることになるでしょう。痴漢しやすい状況を作り出している鉄道会社は、潜在的に痴漢の共犯だという考え方です。ブラックボックス展で主催者が訴えられたのと同じ理屈ですね。
そしてそうなれば、鉄道会社はものすごい数の警備員を雇い死角のない防犯カメラを設置することになりますが、その費用は運賃に上乗せされ結局社会が負担することになります。できればそういう高コストなことは、誰もが避けたい、というのが本音のところ。しかし、ものすごい数で今日も実際に被害に遭っている女性たちのことを考えれば、一刻も早い対策が必要です。だから、当面低コストで実効性の高い対策を行う必要がある。
上で「女性専用車両がもっともプラクティカルな解決方法の一つ」と書いたのはそういう意味です。速やかに実行でき、コストが少なく、しかも効果が高い。これに代わる案があなたにあるなら聞きますが、代案もないのに文句だけつけそのくせ痴漢被害については目をつむって知らんふりする、という姿勢では、誰もあなたに理解を示すことがなくても仕方ないのではないでしょうか。人のことを馬鹿だ馬鹿だとおっしゃるなら、ぜひ社会に役立つような「賢さ」を見せてください。
でも、女性専用車両はとりあえず物理的に「男性から女性への痴漢被害」をなくすわけで、これは分煙と同じく単なるプラクティカルな「対策」に過ぎない。分煙した方が客が増えるという判断で飲食店が「分けた」だけなのに、痴漢被害に悩む人々に対して「優遇だ!」と騒ぎ立てるのはほんと痴漢の仲間にしか見えないからやめた方がいい。まあほんものの痴漢がこんな目立つあほみたいなことしないとは思うけどさ。
当然だろ?
女性専用車両は「アファーマティブ・アクション」ではないよ。実害の出ている被害者を隔離するだけのごく実際的な対策に過ぎない。
「アファーマティブ・アクション」で議論があるのは、それが「白人の多い会社がいくら『公平に』選考したつもりでも、黒人は雇われねえだろ。公正な状況(人口比と同じ)にするには無理矢理黒人を雇わせるしかねえだろ」という理屈で、まあ、それが本当に社会をよくするのか、効果的に機能するかは二の次の、かなり乱暴な施策だからだよ。その施策が実際にどのように機能するかについては、確かに議論があり得る。
でも、女性専用車両はとりあえず物理的に「男性から女性への痴漢被害」をなくすわけで、これは分煙と同じく単なるプラクティカルな「対策」に過ぎない。分煙した方が客が増えるという判断で飲食店が「分けた」だけなのに、痴漢被害に悩む人々に対して「優遇だ!」と騒ぎ立てるのはほんと痴漢の仲間にしか見えないからやめた方がいい。まあほんものの痴漢がこんな目立つあほみたいなことしないとは思うけどさ。
もしどうしても女性専用車両をやめさせたいなら、たとえばこれがミソジニーやミサンドリーに基づく「社会的分断」を生む危険がある、人と人とはもっと信じ合わなくてはいけないのです、ラブ&ピース、みたいな主張にしたらいいんじゃないかな。それなら、もう少しみんな話を聞くかもしれない。あんな不気味なおっさんがむすっとして女性専用車両に乗ってたらキモいだけだよ。それよりも、いっそみんな裸で電車に乗るようにしましょう。そしてもしちんこ立ったら即ひきずりおろしてリンチだから、みたいな主張をした方が受けると思う。
まあ、実際の痴漢はちんこ立ってないという話もあるけど、すくなくとも今より鉄道内の雰囲気が明るくなって、痴漢する雰囲気じゃなくなるのは間違いないと思うな。というわけで、私はヌーディスト専用車両の実現を主張するものであります。まあオレはヌーディストじゃないんだけどね。
トラバありがとう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091207151753
hokusyu 典型的な<冷静にプラクティカルな話をできる>男と<感情的な>女という構図。たとえ出来が悪い例え話だろうと、書き手のダダ漏れな内面が理解できることはいいこと。
hokusyuさんは理論が通ってる話がすごいうまい人でそこはすごく評価してるし正直勝てないと思ってる相手だけど、その分見下しっぷりもすごいね。
内面ダダ漏れとか言ってるけど、あえて典型的な構図に落とし込んだ意図とか、そういうのは考えないのだろうか。
まぁそんな親切期待してないし、増田だから、いいけど。
Francesco3 なんだろうもしかして例えで話しをするのが知的とでも思ってるのだろうか。間抜けはなにをやっても間抜けなだけなのに。
間抜けは否定しないけど、そういうことをズバっとかける人が「言葉の暴力で人を傷つけるな!」とかいう感じの主張をしてるのがすごいよね。
http://anond.hatelabo.jp/20090401200113
ども、↑の元増田です。
僕はイデオローグでも何でもなく、個人の体験談として書いただけで、それがこんなにブクマされるとは思っていませんでした。ただ、これだけブクマされたら少しは補足しないと変なことになりそうなので、昨日までに自己レスで書いた分もふくめてタイトルをつけて書きます。トラバだけだと読んでもらえないようなので。
p_shirokumaさんの指摘ですが、客観的に見て正しい指摘だと思います。ただ、観点が当然違うのでそこを指摘させてください。
これはたしかにそうなんですけど、むしろ、僕にとってはこれは前提で、僕みたいな症状の人は低血糖症を疑ってはどうでしょうか?と言いたかったというのがあります。これは書き方が悪かったかもしれません。
おっしゃる通りです。参考にします。炭水化物を少しずつとっているというのはその通りです。なんで炭水化物を完全に絶つって短絡されるかな。
このポイントは重要だと思います。治験やなんかでエビデンスがない以上、そうであると医者の人は言ってはいけないと思います。僕もエンジニアなのでそれが科学的な態度だと思います。僕の場合、5年前に強烈な鬱病になりました。その時の感覚は、ホワイトノイズにつぶされているようで、腕を上げることもできませんでした。なので、もとのエントリーの最初に書いた症状は、その鬱病が治ったあとの症状です。「20年来のつらさ」なんていうと、メンタルをずっと病んでいたのが治ったみたいですが、そうじゃなくて、体の症状とそれにともなう、ひどいうつ病に比べたらまだましな精神症状が良くなったと言っています。エントリーの最後に「長期のうつ病」と書いてしまったのでそうとられてしまったんだと思います(これは言いすぎです)。そういう意味で食事っていうか、血糖値で気分が変わるというのは、DSM-IVの一般身体疾患による精神疾患に分類するのは正しくて明快ですね。テクニカルにはまったく私も同意します。
ただ問題は、現場の医師がそこまで意識しているかどうかです。私の知っている心療内科の医師でそういう判断をする人はいません。食事で気分が変わるんですがと言ったとしても、単に抗鬱剤や安定剤を出されるだけでしょう。その原因は、低血糖症に対する理解が日本ではほとんどないからだと思います。本当にしつこいですが、糖尿病の人がなる低血糖と低血糖症は別です。http://d.hatena.ne.jp/yachimon/20090403/1238685142にあるような感じで血糖値が食事でおかしくなる現象です。私はここのグラフで上が200以上、下が50くらいで、山は一つです(yachimonさんは山が二つあって気分の動きが相当つらいだろうなと思います)。
トンデモとか疑似科学とか言われてもプラクティカルに効果があればどうでもいいんですが、英語だとDummiesシリーズの本が出ています。
"Hypoglycemia for DUMMIES" Cheryl Chow and James Chow, MD
この本にも、symptonとしてanxietyとDepression/mood swingsがあります。もちろん医学書ではありませんが、アメリカの本屋だったら絶対にあるDummiesシリーズになるくらい一般的なんだろうと思います。
で、病院に行かずに素人の浅知恵なんてコメントをする人もいますが、まず病院には行っているし、この本もふくめ学術的ではないけど相当研究はしました。普通に血液検査をしても標準値内に入ってしまうし、運動(筋トレとランニング)もしているし、いい妻にも恵まれているのに、なんでいつまでも朝は憂鬱で、昼食後はだるくてイライラして不安と焦燥感に駆られるのか、が不思議でしょうがなく、、あとは元のエントリーに書いたとおりです。
もしかして、以下のサイクル自体が信じられないという人も多いのかも知れません。
糖質とる→(糖尿病になりかけているせいで)血糖値上がりすぎる→眠くなり、インスリン出過ぎる→血糖値が急に下がりすぎる→血糖値を上げようとアドレナリンとノルアドレナリンが出る→イライラしたり、不安になったり、無気力になったり
↓
糖質減らす→血糖値上がらない→眠くならず、インスリンもあまり出ない→血糖値下がらない→アドレナリンとノルアドレナリンが出ない→いい気分
毎食後勝手に飢餓状態に置かれてしまうこの現象と解決法を否定されたら意味がないんですが、p_shirokumaさんやfinalventさんの指摘はここではなく、この現象がメンタルヘルスの対象である精神疾患かどうか?ということであるととらえています。
もともと言いたかったことの一つは、もし同じような症状っていうか現象が出ているなら、この食事はそんなに大変じゃないからちょっとためしてみてはどうですか?ということです。一度寝る前に無糖ヨーグルトやSoyJoyを食べてみてそれで朝が楽になるならそれだけでもいいし、昼食を軽めにして卵やチーズや豆の間食をしたら夕方が楽になるならそれでもいいでしょう、ということです。その変化が劇的だったら、医者に行って詳しく見てもらうといいでしょう。ただほとんどの医者は低血糖症を知りませんが。あと、食事の取り方はindividualizeしないといけない、というのは別のhypoglycemiaの本なんかにも書いてありました。確かに腎臓が悪い人がこの食事は良くないでしょうね。
少し覚悟はしていたけど、左右両方に曲解されて極端なコメント(メンヘラがマクロビやったらすべてがうまくいった!のレベルの賛否になっていたりする)をもらうのはちょっと疲れたので、こういうことを増田に書くのはやっぱよくないですね。なのでこれでおしまいにします。
個人的にうれしかったのは、文章がうまいと数名の方に言ってもらえたことです。それだけで十分かも。
学生のころからつい最近まで、僕は生きるというのは基本的につらいことだと思っていた。ところが、そのつらさの大部分が簡単に消えてしまったのでこんなこともあるんだという意味で伝えてみたい。長いので興味があったら読んでください。
中学生のころから、いつも体のだるさを感じていた。お腹も弱く、何かあると下痢してばかり。当然元気なんかあるわけなく、高校生のころもあんまり前向きな人間ではなかった。でも頑張ればなんとかなると思える若さもあり、インスタントコーヒーに砂糖をぶちまけて勉強をしたら大学には合格した。大学では典型的な怠惰な学生で、起きるのはデフォルトで午後、授業には半分も出ていないと思う。無気力で今にして思うと鬱状態だった。
何とか卒業してIT系に就職したが、そこでの仕事の仕方も追いたてられてやっているような感じで、いつも綱渡りをしているような気分で全く余裕はなかった。それでも20代のうちはなんとかなったし、結構業績もあげたので30前半も20代の貯金でなんとかやっていけていた。けれど30半ばになって全く新しい仕事をやらなくてはならなくなり、そこでクラッシュして休職した。復職してからは自分の頭や体の調子を冷静に見るようになって、ヘビースモーカーだったのを禁煙したり、ランニングを始めたり、食べ物に気をつけたりしたところ、少しずつだけど調子は上向きになっていったけど、根本的に何かおかしいと思っていた。以下ここまでで出ていた症状。
(追記)
仕事は、失敗するのが怖くて異常にワークロードをかけてやる。だからうまくいくときはいいけど、失敗すると目も当てられない。うまくいってもうまくいかなくても疲弊してしまう。うまくいった仕事は、人の手助けとか責任がなくて気軽にやったものがほとんど。
こういう状態だから、とても悩んでいろんなメンヘルの本や啓発系の本を読んだけど解決にはならなかった(違う意味で色んな示唆は受けたけど、特に瞑想とか)。ある時アメリカ人の書いた本を読んだところこんなことが書いてあった。
炭水化物を減らす
炭水化物は"全粒"がキーワードです。白いパンや白いご飯、白いパスタなどの精製された炭水化物は血糖値を急激に変化させ、気分をコロコロ変えてしまいます。
「脳にいいことだけをやりなさい」マーシー・シャイモフ、三笠書房
アメリカの啓発系の本は説教くさくなくプラクティカルなので好き(追記:個人的にこの本全体を評価するわけではありません。最後のほうにはカルトっぽい記述もありましたし。要は部分的にでも役立てばなんでもいいということです。)なんだけど、早速玄米やライ麦パンを試してみたところ、頭がすっきりした感じがした。のでさらに調べてみたところ「低血糖症」のキーワードにたどりついた。特にこの本には驚いた。
「低血糖症と精神疾患治療の手引き」マリヤ・クリニック院長 柏崎良子、イーグレープ
この本によると、低血糖症患者(反応性低血糖症の場合))は食後の血糖値が急激に上昇するために、インスリンが出過ぎてしまい3-4時間後に血糖値が異常に低くなってしまうとのこと。血糖値が低くなりすぎたりすると、血糖値を上げるためにアドレナリンやノルアドレナリンが分泌され、
分泌されたアドレナリンやノルアドレナリンが情動を司る脳の分野(大脳辺縁系)を刺激し、感情的興奮(怒り、憎しみ、敵意、焦燥感、恐怖感、落ち込み、悪夢、不眠、自殺観念)を引き起こすため、脳全体の機能のバランスが悪くなり、感情をコントロールできずに「キレる」症状を起こす原因の一つともなります。
攻撃的行動、うつ的衝動、性格の異常化、感情の抑制ができない、判断の統合ができない、引きこもり、自律神経失調症、完璧主義になる、健康の認識基準が低い、自責の念が強い、過度に目的志向型になる、幻聴幻覚の症状、不眠と悪夢、「キレて」止まらない症状、ストレスへの対応、感情表現の欠如
また、コルチゾールも分泌されるが、血糖値を上げるためだけに使われてしまい、アレルギーや炎症が出るとのこと。これも症状ぴったり。
極め付けはこの文章。
青少年期から低血糖症の患者は、低血糖の異常状態に慣れていて、それを通常の状態であると誤認していることもあります。低血糖症がもたらす他の症状のために来院し、検査の結果、低血糖症であることがわかり、治療して後、体質も性格も変わり、自分の健康状態、正常な状態を知って驚くことも多くあります。
これだけ言われたら試すしかないと思い、これで駄目だったら田舎にでも引っ込んで低位安定の人生を送ろうと決心して食生活を試行錯誤の末こんな風に変えてみた。
朝食:ライ麦パン、生野菜、卵、カフェイン抜きコーヒー、果物少し、ジュースなし
間食1:コンビニのミックスナッツを150kcalくらい
昼食:肉か魚でご飯は2口くらい、玄米が選べたら茶碗半分くらい
間食2:ゆで卵
間食3:プロテインとナッツの残り
間食4:寝る前にナッツとプロテイン
(追記:最適な食べ方は人によって違います。低GIで少量頻食にするのがポイントですが、ミネラルバランスを気にして、内臓疾患がないか検査は必要でしょう。)
ポイントは、お腹半分でまでしか食べないことと、空腹のタイミングを作らないことと、ソースも含め砂糖とブドウ糖果糖液を徹底的に避けること。食べるものは基本的にマクロビオティクスに肉と卵を足したものだと思えばいい。最初はSoyJoyも食べていた(症状が重くなければ十分効果があると思う)。酒は翌日に残っていたのが残らなくなったのであんまりセーブしていない(追記:飲む種類は蒸留酒と赤ワインがメインになりました。ビールを飲むととたんにおかしくなるので)。むしろ野菜と肉と魚で飲むと眠くならないし飲むのが楽しくなってきた(甘いつまみは厳禁だけど)。ちなみに、頭が働かない時にブドウ糖や甘いものを、と宣伝されているけど、あれは砂糖業界の陰謀だとしか思えない。その一瞬はいいけど、すぐに悪循環に入ってむしろ悪化する。たんぱく質だって脂肪だって時間はかかるけどブドウ糖に分解される(追記:厳密に言うと糖新生ですね)ので最終的な効果は一緒で、いきなり吸収されないぶん血糖値を上げず安全だったりする。だから泰葉みたいに砂糖を食べてはいけなくて、ふらふらする前にたんぱく質か低GI食品を食べるのが正解。
効果は笑っちゃうくらいすぐ(2-3日で)出た。まず仕事の集中力が圧倒的に戻ってきて、いい資料は作れるし、ミーティングで効果的な発言はできるし、客に嫌味を言われてもこたえない(冷静に指摘としてとらえる)ようになった。寝る前に食べるせいだろうけど、朝は気持ちよく目覚めるし、いらいらすることがないから性格も丸くなった。なによりうれしいのは、以前だったら調子のいい時に思いついたアイデア(プライベート、仕事を問わず)が、昼食をとるとリセットされて全然進展しなかったのが、継続して発展させられること。結構ややこしい問題に関する説明資料を1ヵ月かけてつくって客のお偉方に説明したりなんてことが簡単ではないにしても充実してできるようになって、もしもう少し若い時に同じことができたら、高給取りのコンサルになれたのになと思ったりした。今や仕事の企画を考えるのが楽しくて仕方がない。
ランニングも調子よく、以前だったらハーフマラソンに出るたびに怪我をしていたのが、今回はフルマラソンを走っても3日後には練習が再開できるくらい。胃腸については、お腹を壊すことはほぼなくなり、肉を大量に食べても難なく消化できるようになった。
おまけに、インスリンダイエットとプロテインダイエットを同時にやっているようなものだからいい感じにやせてきた。(追記:もともとやせていましたが、体型は良くありませんでした)
一応病院にも行って、保険適用外の5時間糖負荷検査というのを受けた。検査の最中から慣れ親しんだ嫌な身体的心理的症状が出て、結果は見事に反応性低血糖症(200以上に上がった血糖値が4時間後に50近くまで落ちた)だった。念のためこれも保険適用外のサプリ(結構高い)も買ったけど、なくても食事だけで十分効果があるのはわかっているのでいつでもやめられる。低血糖症を治療することでうつ病だけでなく、統合失調症も良くなるらしいとのこと。統合失調症になったことはないのでよくわからないけど。ただ、不定愁訴系はかなり治るような気がするし、いらいらしてキレやすい犯罪者やDQNは、自分もそうだったから治療可能だと思う。
何をやったらいいかわからなくて無為に時間を過ごして、無力感と自責感にさいなまれながらだらだら遅くまでいた以前とは大違い。一日集中できるということがいかに素晴らしいか痛感する。マネージャーだったころに人系のぐだぐだでとても疲れたことがあったけど、そういう仕事も懐深くできるような気がする(あくまで気がするだけだけど)。
プライベートでもランニングがこれまで以上に楽しくなったほか、もともと好きだった音楽や映画も心の底から楽しめる感覚が本当に久しぶりに戻ってきた。今はドアーズを聞きなおして曲の良さにほれぼれしているところ。味覚も鋭くなって、豆や野菜の自然なおいしさがよくわかる。自然のおいしさを理解して生かしている料理を食べると嬉しい。二度とチェーンの居酒屋なんか行けないけど。妻や友人と過ごす時間も増え、こんな簡単に幸せになっていいんだろうかと思う。経済的な不安はまだまだあるけど、幸せっていうのは結局自分の状態のことなんだなと実感した。
ともかく空腹感や満腹感で良くも悪くも気分や体調が変わってしまう人は試したほうがいいかも。症状が治まった目で見るとそういう人がとても多いように見える。アメリカでは保険適用で、4,000万人くらい潜在患者がいるとのこと。日本で普通の治療になったら、長期のうつ病や進行した結果としての糖尿病やメタボが過去のものになるかもしれないと思う。
(凄い久々の追記)
基本的に同じ食生活を続けていい調子ですが、最近もしかしてセリアック病なんじゃないかと考えだしました。セリアック病による自己免疫不全でお腹の具合が悪く、小腸から栄養が吸収できないということなのかもしれません。糖尿病の併発も多いようで、結局は低血糖症で言われているのと同じ現象が発生し、治療法もほぼ同じとのことです。将来的にここらへんが統一的に説明がつくようになるのかもしれません。
(またまた追記)
セリアック病のテストではネガティブでした。ただセリアック病を疑うのと前後して、ハーフマラソン後に誤って飲んだオレンジジュース(炭水化物30g)で体が発狂(痙攣と胃腸障害)したので炭水化物不耐性なのだろうなと思います。炭水化物不耐性→現象としての低血糖症という感じです。