はてなキーワード: フランス人権宣言とは
前文
国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。この宣言が、社会全体のすべての構成員に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるように。立法権および執行権の行為が、すべての政治制度の目的とつねに比較されうることで一層尊重されるように。市民の要求が、以後、簡潔で争いの余地のない原理に基づくことによって、つねに憲法の維持と万人の幸福に向かうように。こうして、国民議会は、最高存在の前に、かつ、その庇護のもとに、人および市民の以下の諸権利を承認し、宣言する。
違うのは宗教そのものというより、宗教に代表される中間団体への警戒感だと思う。
フランスの場合、カトリックというのは国際的な組織でもあるし、何しろ「個人」というものを析出させるためにはキリスト教の否定が急務だった(もっとも政教分離法自体は20世紀に入ってからだが)。
一方の合衆国の場合はピルグリムファーザーズ神話以上に、やはり開拓の歴史からくる強烈な「自治」志向があり(銃所持が「権利」と憲法に明記されるのもこの歴史あってのこと)、そこから中央政府に対してはまず分権的・州権的な立場が存在する。
自分はたぶんどっちかというと死刑廃止派で、だけど自分の大切な人がむごい殺され方したら「犯人を殺したい」と思うはず、という人間です。
日本における死刑の議論において、当然のように前提となっているのが「司法は復讐の代行機関(たるべし)」という考え方です。
たしかにそうであれば胸がスカッとするかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか?
結論から言うと、歴史的経緯からは「NO」です。このあたりの話はこちらのエントリがよくまとまっているので、一度読んでみてはどうでしょうか。
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20071206/p1
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080707/p2
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080816/p1
もう一つは、西洋における死刑の歴史を紐解かなければいけません。
西洋に限らず、アニミズムに端を発する文化圏ではしばしば生贄という慣習がありました。
これは自然や不運という「命を奪いに来る制御しがたいもの」に対し、あらかじめ命をささげておくことでそれを鎮めるという狙いがありました。
なので、何らかの理由を持って定期的に人を殺害するというのは文化的には自然なことであり、その標的となるのは罪人や余所者であることが多いのも納得しやすいでしょう。
また西洋における近代法や人権の考え方として、国家や権力というものは暴走し、それを個人(市民)がけん制しなければならないというものが基礎としてあります。
フランス人権宣言以降、西洋の法というのは個人を縛るものであると同時に国家を縛るものでもあります。
よって、西洋の諸国家には国家があくまで法に則して虐殺・恣意的な死刑を執行した歴史があり、その反省として死刑廃止がトレンドになっているという経緯があります。
日本でもたまに、政府高官が不審死することがあるでしょう。あれも広義の国家権力の暴走による死刑です。
「冤罪だったらどうする」論もこの辺に含まれるものと考えていいでしょう。つまり裁く側の権力が間違ってたらどうする?って話なわけです。
ここで困るのは、そうした西洋近代法の成立に通底する思想と、天下り的にそれを”輸入”した日本人の仇討ち感覚との間で、死刑だけが異質なものとして浮き上がってしまっているのです。
刑法論には「応報刑論」と「目的刑論」というものがあり、簡単に言えば「刑罰で犯人に同じだけの苦痛や損害を与える」というのが応報刑論で「刑罰でその犯罪を思いとどまらせる」というのが目的刑論です。
例えば次のような命題がそろっているなら、論理的に考えて死刑廃止に賛成する人がいてもおかしくないはずです。
・「司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない」
・「死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない」(目的刑論)
・司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない
⇒知らねーよ輸入したんだから。こちとら150年前まで仇討ちやってたんだよ。
⇒でも犯人殺してすっきりしたいじゃん?(応報刑論絶対正しいマン)
日本には死刑廃止に至る十分なロジックがないということなのです。
私も親や配偶者や子供を殺されたりレイプされたら、それ以上の苦痛を与えてやりたいと思う程度には俗な人間ですが、でもそれって俺の感情であって司法のあるべき姿とは限んないよな~とも思います。
光市の母子殺害事件なんかで遺族の男性が会見している風景をテレビでよく見ていました。
非常に痛ましい事件ですが、あのあたりから「遺族の感情を司法に反映すべき」みたいな意見が増えて、なんかモヤっとしていました。
そして裁判員制度までもを輸入した日本ですが、上のような議論を経ずに来ているので変なことになっているなと思います。
「うるせぇ、俺は加害者殺して気持ちよくなるんじゃ!」とクールジャパンな法整備をしてもそれはそれで結構なんですが、外国から「お前の国って法学無くなったん?w」って笑われるのがオチだと思います。
まず最初に、こちらフェミニスト業界では、昨今の性教育関連エントリの各所でのプチブームを、大変嬉しく思っていることをお伝えしておくよ。
本当は、性教育を語るには、セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康と権利)から入らなきゃいけないんだけど、ちゃんと書くとそれだけで元田が眠くなるくらいの長い記事になるので、ここでは簡単に触れるだけにするよ。
セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(SRHR)とは、男性も女性も、それ以外の性別の人も、同性愛者も異性愛者もそれ以外の性指向の人も、とにかくあらゆる人が性(性欲を満たすこと。以下、セックスとしよう)や生殖(子どもを産み育てること、以下、出産・育児としよう)に関して自分の意思を持つことが許され、その意思が尊重され、セックスや出産・育児についてのやり方を自分で決めることができる権利のことだ。
例えば、親や親戚、近所の人に「あんた長男なんだから、はよ結婚して子ども産みなさいよー」って言われて無理やり見合い結婚させられるのは、SRHRの侵害だ。逆に、結婚して子どもを産み育てたいのに、「あんたには家事・介護をして欲しいから結婚は許さない」とか、望まない妊娠(これ自体がまずSRHRの侵害だ)をした時に、産もうと決心した女性を無理やり中絶させたり、逆に中絶しようと思った女性を法律や説得で無理やり出産させるのはSRHRの侵害だ。
セックスと出産に関する体の部品(男性なら主にペニス、女性なら主に子宮)の使い方、政治家さんの好きな言葉を流用するなら「子どもを産む機械」は、持ち主である男女が自分の意思で自由に使い道や使い方(使わないことも含めて)を決める権利だ、と言ってもいいかな。
純潔も、淫乱も、本人の好きにすればいい。ただし、他人に迷惑をかけない(他人の道具を相手の同意を得ずに使わない)ことが条件だよ。ってことね。あと、好きに使うためのメンテ(性感染症の予防や、妊娠出産に伴う医療リスクの軽減)ができる環境が、全ての人に与えられなければならない、っていうのが、SHRHの考え方だ。
そんでね、性教育っていうのは、この権利について学ぶ、人権教育なんよ。
元田も、多分これを読んでくれる多くの人も、日本で育っていれば性教育っていうのはほとんど受けたことがないと思う。保健体育でちょこっと生殖の仕組みについてやったり、性感染症について学んだり、あと女性なら初潮が来る頃に生理について学んで生理用品のサンプルもらうくらいかな。
でも、実はこれは国際的に見るとかなり遅れている。
国際的に、って言ったな。うん、言った。
実は、ユネスコが「性教育の国際的ガイドライン」を出してるんだ。英語、フランス語、中国語などはここで見れるよ(これは2018年の改訂版。初版は2008年に出されている)
https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000260770
https://www.akashi.co.jp/book/b297731.html
性教育は、「性の認知、感情、身体、社会的な側面を学ぶこと」というのが、ユネスコの定義だよ。これは通称「包括的性教育」と呼ばれる。
日本でやることは、あくまで身体面の、生物学的な性(というか生殖)についての教育でしかないんだよね。でも、「包括的性教育」では、自分と他人の体の仕組みを学び、それに自信を持つことから、他人を尊重すること(ここには、シスヘテロでない少数派の人たちの多様性を理解し、尊重することも含まれる)、自分と他人の感情を理解・尊重することなども含まれる。当然、セックスの前の合意の確認の仕方や、嫌なら嫌と言っていい(むしろ言うべき)っていうことも教わる。
この手の問題になるとよく「セックス同意書ないと安心してセックスもできない」と言い出す人達がいるけど、その発言自体が日本に包括的性教育が欠けているということの証明になってるわけだね。(日本では性犯罪の構成条件が難しすぎて現実的に無罪になりやすい、というのは、それとはまた別の問題だ)
そう考えると、男子が生理を含む「女性の生殖器の特性について知ること」と、女子が勃起や射精を含む「男性の生殖器の特性について知ること」は、表裏一体なんだ。
同時に、男女それぞれが自分の生殖器について理解し、例えば男性なら「仮性包茎は問題ない」とか、女性なら「生理の辛さには個人差があるから、必要なら産婦人科に診てもらう」とか、知識を持ってきちんと自己管理することを学ぶのも、性教育の大切な意義だ。
さらにいうと、男女問わず子どもが性的なパーツを触られた時に、「それは犯罪であり、拒否する/拒否できなかった(暴行された)時は、大人に報告するべきだ」という理解を持つことに持つことにもつながる。
実際のところ、未成年の性的虐待っていうのは、当初は「子ども自身がおかしいと気づけないから」表に出ないっていうことがすごく多い。たまたま性について学んだことがきっかけで、気づいて病院を訪問するケースが、かなり多いそうだ。
さて、ユネスコの定義に戻ろう。性教育とは、「性の認知、感情、身体、社会的な側面を学ぶこと」だったね。
元田のいう(1)は、「性の感情面の理解」という文脈に含まれる。これは明確だからいいよね。
(3)は、身体面と社会面になるかな。例えばテクノブレイクは都市伝説だし、AV男優とペニスの形が違う(=包茎)も大抵は問題ないし、手マンは爪を切って手を洗ってからやらないと膣を傷つけて女性が大変なことになるし、潮吹きはAV女優側が水とかいっぱい飲んで頑張って出してるもので普通は起きない。そういうことをきちんと知ったり、あとは「女性は男性に従うもの、好きなら生でセックスさせて当然」みたいな社会的規範はおかしいというのも、当然教える前提になる。
(4)は、身体面だね。マスターベーションは普通だし、テクノブレイクなんて存在しないし、女性だってオナニーしていい。オナニーって言い方がなんかやだったらセルフプレジャーって言おう、みたいな。
(5)は、社会面と認知面かな。恋愛工学なんて典型的な認知の歪み(自己中心性バイアス、投影バイアス、多集団同質性バイアスあたりか)に基づく行動原理だしね。
さて、問題は(2)なんだけど、これは典型的な権利(自由)に関する問題だ。
日本人は自由を「無制限に好き勝手する権利」と考えがちなんだけど、実は自由というのは、近代では「他人に迷惑をかけない範囲で、自分の好き勝手をする権利(バカなことも含む)」だと定義されている。フランス人権宣言第4条とか、ジョン・スチュアート・ミルの自由論とかが、この辺の定義として著名なソースだね。
そこに基づいて考えると、「他人の自由を害さなければ、好きにセックスしたりオナニーしたりしていい」し、逆に「他人の自由を害するならば、セックスやオナニーをしてはならない」ってことになる。
こういう部分は当然、包括的性教育にも含まれるわけだけど、それ以前に「社会生活をする人間としての常識」なんだよね。
たとえば私は「SRHRは最終的にはKKOもインセルも救うことを目的としている」と思っているんだけど、それは「KKOやインセルに彼らの望む可愛い恋人をあてがう」という形では実現し得ない。なぜなら、それは「恋人としてあてがわれる個人」の自由を侵害してしまうからだ。他人の自由を侵害する自由は、存在しないのだ。
彼らを救うには、「モテないことが悪いことではない」という認知を全ての人が持つように働きかけることや、相手の感情を理解し合意の取り方を知ることで交際の入り口をなだらかにすること、同時に他人を尊重し、断る権利・断られたら(少なくともその時は)諦める責任を腹落ちしてもらうこと、などが必要だろう。
これらは全部、包括的性教育のカリキュラムに含まれるものでもある。
包括的性教育は、男性の性欲を管理するだけのものでも、女性の性欲を解放するだけのものでもない。これまで、日本を含む多くの社会が男性の性欲に寛容・女性の性欲に抑圧的であったがために、一見そう見えるけれども、本来は「あらゆる人が、自分のセックスと出産・育児について、自分で決断できるようなライフスキルを身につけること」なんだ。
だから、増田の意識しているものは当然のように含まれるけれど一部でしかない、ということと、そういうことを教えるためのノウハウは欧米諸国を中心にすごく普及しているよ、ということを伝えたくて、長々と書いちゃったよ。
本当は日本は女性のSRHR、特にヘルスではなくライツの部分が世界でもかなりやばい状況にあるとか、そういう話もしたいんだけど、若干オフトピックなので今回はぐっと我慢するよ。
「立憲主義に立脚した憲法」って恐らく「立憲的意味の憲法」のことなんじゃない。
一般に「立憲的意味の憲法」はフランス人権宣言を援用して「人権を保障し権力分立が定められている憲法」のことを言う。
この「人権を保障し権力分立が定められている」というのはつまり「憲法による権力制限と権利保障」を軸とする立憲主義に等しい。
普通現代において憲法と言えば立憲的意味の憲法を言うわけで、例えば刑法典の名前を憲法と変えても形式上は憲法だけど実質上は憲法に分類されない。
結局のところ、立憲主義に基づいた憲法がなければ「権力制限と権利保障」を成し遂げる具体法がないのだから立憲主義は成立しない。
要するに立憲主義が成立するには「権力制限と権利保障を謳った立憲主義に基づく憲法が存在」(1)し罰則が無い場合も多いので「その憲法を政治家が尊重擁護する」(2)という2点が必要。
”立憲的=立憲主義に立脚した=「憲法は権力制限と権利保障を軸とするのだ」という思想に基づいて作られた(=立脚した)”
”立憲的=憲法に立脚した=立憲的憲法に立脚した=「憲法は権力制限と権利保障を軸とするのだ」という思想に基づいて作られた(=立脚した)憲法を尊重した(=に立脚した)”
という意味として使われる。
”民主的=民主主義に立脚した=民が決定権を握り行使するべきだという思想に基づいて運用される(=立脚した)”
”民主的=民主主義制度に立脚した=民が決定権を握り行使するべきだという思想に基づいて運用される(=立脚した)制度を尊重した(=に立脚した)”
というような意味としても捕えることができるのとほぼ同じパターンなんじゃね。
正直書いてて自分でも混乱してきたがな!
日本国憲法には犯罪者である刑事被告人の権利については大量に書かれているが犯罪被害者については一切かかれていない。
犯罪者に人権を蹂躙された被害者はどうやって権利を回復すればよいのだ!
現在の憲法は国家権力と個人の対立でのみで考えられている19世紀の時代遅れの憲法なのだ。フランス人権宣言の啓蒙主義のまま進化していない!
先進諸国の憲法が細かく改正されているのは個人と個人の問題にも憲法で規定しているからなのだ1
日本も21世紀にふさわしい日本国憲法に変えるべき時に来ているのだ!