はてなキーワード: フェイスレスとは
恋愛不要をやたらと叫ぶ人達って日本では本当によく見掛けるけれど、アメリカもなのか
なんでなんだろうな
具体的な作品に関して、このキャラクター、このカップルの恋愛はやめて欲しかったと言うならば、自分もそういう不満は沢山あるしよーーく分かるんだけど(例えば米に出てるゲーム・オブ・スローンズだとブライエニーやアリアのセックスシーンに関しては自分も嫌だと思った)
でもそうでなくて作品名も挙げずにただただ恋愛は不要だとだけ言われても反発しか感じない
恋愛が見たいなら恋愛ものを見るって言ってる人もやたら多いけれど、その理屈も意味不明なんだよね
だって、恋愛って生活の一部だろ…現実の人間だって勉強したり部活したり仕事したり家事したりしながら恋愛してるじゃん
他の事を一切しないで恋愛「だけ」している人なんて存在する?女王蜂と雄蜂の擬人化か?そうじゃなければあまりにも不自然では?
この手の言い分ってあまりにも、恋愛ものを馬鹿にし過ぎだと思うんだよなぁ…
天使なんかじゃないや君に届けでは、進路と恋愛で悩んで希望の進路に進む事を選んで遠距離恋愛を決意した女の子が描かれていたけれど、
恋愛ものが本当に恋愛「だけ」書いているならばこの種の描写はなかったでしょうに。
物語における恋愛ってキャラクターの行動の動機を分かりやすく示すものとして有用だろ
寧ろ思いっきり本筋な事が多くない?
どうしてそれを理解せずに簡単に「恋愛は不要」と言ってしまうのか
例えば天空の城ラピュタはパズーがシータを銀貨で軍に売ってめでたしめでたしになるし、ふしぎの海のナディアはノーチラス号まで辿り着かない、
スラムダンクはバスケを始めない不良漫画になるかバスケ部に入ってもしごきに耐えられずすぐに辞める、名探偵コナンは蘭の家にお世話にならないので眠りの小五郎が爆誕しない、
からくりサーカスはフェイスレスが誕生せずゾナハ病の脅威もなく、NARUTOはオビトがマダラに騙されないので無限月読計画が発動せず、
天気の子はあっさりヒロインよりも世界を選ぶ、東京リベンジャーズはうだつの上がらないフリーター生活を続ける、葬送のフリーレンは人間の仲間の事なんてすぐに忘れて陰遁生活、
ロード・オブ・ザ・リングは王の末裔が種族違いの恋で悩まない、ゲーム・オブ・スローンズは不義の子である主人公も三兄妹も生まれない、
そんな作品面白いか?まぁそれはそれで別のアプローチで面白く出来たかもしれないが、今ある作品とは完全に別物になるじゃん。
今ある作品で恋愛要素があるものは殆ど、それが作品に不可欠な要素として組み込まれていて、抜いたら別物になってしまうと思うんだが。
あと、「要らない」という表現の傲慢さ。恋愛要素が要るか要らないかは表現者が決める事であって視聴者が決める事ではない。
「嫌い」「苦手」「やめてほしい」「見たくない」なんかならあくまで個人の感想だし普通に共感するんだけど、なんでそう言わずに敢えて「要らない」って言うんだろう?
個人の意見である事を誤魔化したいという心理というか、すっげー卑怯さを感じる
不思議なのはこの手の意見を表明する奴等に限って何故か久保帯人の埃だけ食ってろ発言は称賛してそうなんだよな
個人の意見を個人の意見として尊ばないって点では共通してそうだが。
あと、この手の恋愛アンチって何故か友情ならOKな事が多いのがさらに不可解(唯一シン・ゴジラだけはそれも含めて「余計な人間ドラマがなくて良かった」って評価だったけど)
仕事上や偶然の成り行きで組まされたバディなんて、寧ろ恋愛以上に友情が成立する方が不自然じゃない?
フィクションだと特に、年齢や社会階層、時には人種も違ったりするし、そんな間柄で友情が成立するのも大分不自然だと思うんだけど何故かそういう指摘は全然見ない
例えばTIGERandBUNNYとか、そもそもおじさんなんて言わずに礼儀正しく表面上の付き合いだけして波風立てずに他人行儀な付き合いのまま終わるのが現実だよね
年齢や階層の異なる者同士が、仕事上の付き合いで本気で意見を戦わせるってフィクションならよく見掛けるけれど現実では全然なくない?って思うよ
男女バディならばさらにそう。男女だとそれだけで性差別により置かれた環境が異なる訳で、最初は反りの合わなかった男女バディが事件を経て固い友情で結ばれ~なんてあまりにもリアリティないよ
恋愛ならば性的魅力で説得力が出る場面も、友情だとお互い得もないのにどうして?と説得力がさらにダウンする
そういうの一切考えずに「恋愛は低俗!」「恋愛は要らない!」「男女バディ尊い!」だから苛つくんだよな
メモを取っているので一冊にかける時間が長い。とはいえ、世界史の教科書では一行で終わっていた出来事の細部を知るのは面白い。
東アジア史が中心。
価値観が現代とは変わってしまっている点が多数あり、今読むときついと感じる箇所も。
旧約聖書を読み始める。
旧約聖書を読了。学生時代に新約聖書を通読したから一応全部読んだことになる。
生物の標本にまつわる本を読みだす。やはり生物学は面白い。ネタが尽きない。
ジョジョを読み終えた。それにしてもハルタコミックスばっかりだ。
十三機兵防衛圏については友人に薦められたからクリア後のノリで買った。
今年はたくさんいけた。行かない月もあった気がするが、それはそれ、そのときの気分に従った。
「シン・ウルトラマン」★★
「プラットフォーム」★
「12モンキーズ」★★★
(長くなったのでブコメ)
『無惨戦はクソ』『黒死牟までは面白かった』『薬で全部解決』とか言われてたので期待してなかったが、十分面白いやん!
薬ぶっかけて倒したわけでもないし、薬はあくまで補助で、しっかり当初の作戦を貫徹して日光で焼却するのが良かった。
(「分裂阻止の薬」のピンポイントさはどうかと思うけど)
最後の方は本当に総力戦で、モブも活躍したし、車とか大正時代なのも生かして、積み重ねて届いた勝利なのがいい。
『ヒノカミ神楽の意味がなかった』とかの批判も見たけど、元々延々と攻撃続けて足止めするための技だし、継戦の役には十分立ったからいいんじゃない? 主人公のすごい技で倒すよりは。
ジャンプの最高傑作はダイの大冒険だと思ってるが、ラストバトルは『最初からダイが竜魔人化してれば済んだんじゃね?』という印象は拭えない。人間に戻れないかもってリスクも、戦い終わったらあっさり戻ってたし。
ディオ戦は『最初から手袋燃やしてれば』、DIO戦やフリーザ戦は『最初からプッツンしてれば』、双子座のサガ戦は『最初からアテナの盾取りに行ってれば』とどうしても思ってしまう。
吉良吉影戦は割と積み重ねの勝利だったけど、偶然要素が多かったのは否めない。
その点で鬼滅はこれ以外に勝つ方法がない道を、苦労しながら着実に積み上げて達成したのが新鮮だった。
カナヲちゃんどこ行ったんだよ!と思ったら最後に大活躍してくれて萌えオタにも優しい。
無惨が赤ちゃんになると聞いて白面のパクリかよとも思ってたが、実際は防御の肉団子がそう見えただけで、本人に白面みたいな殊勝さは皆無なのも安心した。
新聞広告にもなってる『人の想いは不滅』に感動して改心したと思わせておいて、その結果が最後まで本当に身勝手で迷惑なのが笑える。
フェイスレスの『信じれば夢は叶う!』もそうだけど、悪役がこういうこと言うの、綺麗事が綺麗事でなくなる皮肉な感じがいい。
『私を置いていくなァァァ!』はツイッターで散々流れてきたので知ってたけど、こう繋がるのか。ざまあとしか言いようがない。
本当に印象深い悪役だった。
現代編は……別になくてもよかったし、特に甘露寺と伊黒は同じ顔の別人が幸せになったから何なの?とも思うが、まあ物語としては一つ前の回で終わってるからな。
あってもなくてもいいエピローグに目くじら立てるほどのこともない。
本編を過酷にしすぎた作者の罪滅ぼしなんだろう。
鬼滅が傑作だと評されることへの個人的違和感を言語化すると「面白いのに凄い傑作と言われると首を捻ってしまう」であり、その理由は「巨悪と戦う漫画の割に世界観が壮大でない」からだと思う。
ナルトにしろブリーチにしろワンピースにしろ、個々のエピソードが面白いのとキャラがいいのは勿論、世界観の情報量が膨大(露骨な言い方をすればWikipedia読み込まんといかん位用語が多い)で、これの真似は確かにできんわって思うのが大きいと思うんだ。二次創作するには楽しいけど、これ1から自分で作れって言われたら時間いくらあっても無理だと思ってしまう。キャラとかエピソードは思い付くけど、世界構築はできない。
でも鬼滅の世界観は割と狭めなのだ。鬼がいる以外は現実に近く、チャクラだの念だのといった説明が必要な特殊設定はなしで技のエフェクトは※あくまでイメージである。
組織については敵味方双方、あまり複雑ではない。階級はあるが、主に「柱とそれ以外」でありたとえばワールドトリガーのような部隊ごとの特色や上司部下関係といった要素は少なめである。敵も強さはヤバイが、無惨というトップの他は序列はあるものの複雑な組織体型はなく派閥や上司部下の無惨を介さない関係性も(元からセットの鬼以外では)あまりない。例外である蜘蛛山も、独裁者と奴隷という割と単純な図式である。
武器や戦法や技についても、呼吸とか型とか確かにかっこいいんだけど、斬魄刀や血継限界やスタンドに比べると設定的に語れるところは少なめである。
敵の目的に関しても、ただの長生きしたい性格の悪いやつのわがままでありぶっちゃけ無惨の言うとおり小規模な災害なので、考察の余地も少ない。似た悪役にからくりサーカスのフェイスレスがいるが、あれの場合「滅茶苦茶壮大な悪事だからさぞ遠大な計画がと思ったのに女にふられたからとかふざけんな」というオチなので、最初から小物の私欲というのとはまた別である。
勿論、設定が複雑であればあるほど素晴らしいと思っているわけではない。設定を扱いきれない位ならない方がよいとさえ思う。規模だって、世界を救わなくても町一個をサイコ殺人鬼(たまに殺す以外は小市民)から救う話だって全然面白いのだから。ただ、ガワが王道少年漫画で千年の巨悪に立ち向かう話なのでどこかに壮大さを求めて読んだら肩透かしを食らった、というだけの話である。
つまり、鬼滅とは「いろんな意味で設定が壮大で(かつ細かく)ない傑作」なのだと思う。逆説的にいえば「巨悪と戦うバトルもので設定が異様に凝っていて壮大なうえでそれがおおむね生かされていて面白い」という、これまでのバトルもの傑作の特徴を持たずに売れたという点ですごい漫画なのだと思う。
ミストバーンと暁美ほむらと鷹野三四という愛着障害者が物語における敵になる理由 - tyokorataの日記
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20140209/1392025251
邪悪とか漆黒の意思とかそういうちゃちなもんじゃねえ……もっとドス黒い吐き気を感じるッ!
ブコメを見てみるとあの人の事をどんな奴なのか知らない人もいるようで纏めてみる。
名前の由来はジョジョ第五部のゲスこと「チョコラータ」が元ネタだって昔バカッターで言ってた。
原作ジョジョを知らない人に説明すると虐殺を楽しむクズ野郎であって、こいつの数ページにわたって無駄無駄ラッシュがかまされタコ殴りにされるというキャラ。
でも結局は自分に自信がない現れらしい。
口を開けば母親への恨みをしょっちゅう吐いてる。あの人と少しでも絡んだ人なら「母親を憎んでいる人」という事はよくわかるんじゃないかな。
ぶっちゃけまどかマギカ(特にほむら)に執着してるのも、その碌でもない母親を投影してるらしい。溜まったもんじゃないけどな。
そのせいでミソジニーもこじらせてる。昔の作品に拘るけど「強い男、弱い女」がいいらしい。
今までよくTogetterとかで炎上しなかったなこの人……。
最初に言っておくけど、あいつの見てるほむらは原作のほむらじゃない。
「ゼロ年代セカイ系的な糞ヒロイン」としてのテンプレを詰め込んだモノらしい。
だから叛逆で見せたマミさんや杏子に対する捨てきれない情とか、さやかやなぎさを蘇生させた部分があるという「功利」はない。
からくりサーカスやフェイスレスみたいに改心して反省して後悔のままくたばらないと許せないらしい。
その一方でまどマギ以外の虚淵作品にはどうもそれほど執着してないらしい。
Phantomや鬼哭街、沙耶の唄やFate/Zeroとかもそれほど執着してない。男が活躍するから。
サイコパスの槙島の方がよっぽど「愛着障害者」だと思うんだが、多分あいつクレイジーサイコホモだし。
でも狡噛からある種の友情みたいなもの向けられてるからどうでもいいらしい。
それが多分見てないか、ぶっちゃけあいつが見てるのは「俺の理解出来るもの」であってそうしたものから逸脱してる作風にも興味ないんだと思う。
ちなみに彼にとって虚淵は藤田和日郎先生に似てるらしいが、俺は全く思わんけどな。
少年漫画は大なり小なり「悪い奴は反省させるか後悔させるかして負けなければいけない」という要素があるのもわかるし、荒木飛呂彦先生や藤田先生がそういう人なのは分かる。
別にそういう作風が好きでもいいさ。問題はそれを虚淵に押し付けるのを当然だと思ってるからその妄言に吐き気を催すわけで。
母親ほどではないけど父親やお姉さんにも複雑らしい。
姉だか忘れたけど(もしかしたら母親かもしれないけど)「ナウシカ原作は気持ち悪い。アニメの方が好き」という家族の意見に対してキモオタ的な蔑視のコメントを吐いてたと思う。
他に好きな作品はジョジョ・ダイの大冒険・藤田和日郎作品・荒川弘作品・トライガン・ヒラコー作品あたりはよく引き合いにしてるね。
あの人どうも最近の作品についてこれない節があって、作品の引用は70年代~90年代が多い。
別にジョジョネタや懐古ネタだけに特化してれば結構面白い人だと思う。そこは彼の強みだと思うし、ほんと勿体ない。
問題は嫌いなキャラはかなり多い。
まどマギキャラ全般(特にほむら)・ドラゴンボールの悟空はしょっちゅう叩いてるし、絶対に彼らを認める発言はしないどころかジョジョや藤田作品の下衆キャラと同類扱い。
エヴァのアスカを初めとした暴力ヒロイン全般・母性キャラ全般もしょっちゅう叩いてる。怖いらしい。
嫌いなものに対して絶対に認める事とかしない。(例に出すなら、彼がほむらや悟空に抱いてる「憎悪」はエターナル東方が艦これに対して抱いてるような「憎悪」に近い)
しかもエヴァ時代のノリをまどマギに投影しちゃってて、しかも虚淵とかシャフトとかと全く無関係の「俺が好きな作品の方が作風は上なんだ!」「虚淵先生だって俺の好きな昔の少年漫画と同じなんだ!」って偏執性がある。
虚淵が昔の少年漫画好きなのはわからんけど(多分好きだと思うがわからん) それが作風に投影されてるかっていうとね。
「悪いことした奴は苦しむか反省しなきゃいけない」という倫理に囚われてるんだと思う。
そういう善悪も結局は流動的なのにね。
『ドラゴンボール』の悟空と碇ゲンドウの共通性について - tyokorataの日記
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100512/1273598659
こんな記事描いてたけど、こういう時期はまだ楽しめてたよ。
あんまゲンドウの事触れてないけど、少なくとも悟空のキャラ性はあながちブレてなかった。
問題は彼の思考は90年代くらいで止まっちゃってる所でね。
ただ今思えばあのマンガの「正義」「邪悪」の倫理が彼が頭おかしくした原因なんだと思う。
まどマギ10話ですごい勢いでぶちギレたらしくて、その日に「ほむらはキュゥべえの同類だった」とか言い出してすごい剣幕でほむら叩き出してなんだったんだと思った。
賛否分かれるのは分かるけど俺はあの話すごい好きだったし、何言ってんだこいつと思ったよ。
しかもどんどん「邪悪なほむら」像が蔓延して行って、「まどかがほむらをキモがってる」とかそういう前提でね。
ほむら=フェイスレスという説 - tyokorataの日記 - はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20110313/1300032043
いやほんとこの人何言ってんだろ。
つーかこの人まどかも嫌いなはずだけど、エレオノールと一緒にしていいのだろうか。
だからほむらは「反省するか倒されるしかない」と思ってるのかもしれんけど、それキャルとルイリーと沙耶と切嗣と槙島とシドさんの前でも言えんの?
別にほむら叩いてもいいんだけど、あの人のほむら像って「自分の中で知ってる作品で培われたもの」だからな。
叛逆ほむらが民間人に直接的な危害を加えることしなかったし使い魔にもさせなかったこととか都合の悪いものを無視してるでしょ。
そして織莉子さん(スピンオフ「おりこマギカ」の主人公)を引き合いにしてほむらdis(笑)か、織莉子さんも可愛そうだな。
>ジョジョや少年漫画に埋め込まれた意図や作者の描いた哲学を掘りだすことがモットーです
要するにtyokorataに感じる「吐き気」は「邪悪」なんかそんなものでもない。
ですよ。
> 自分しかここにいないのよ! その自分も好きだと感じた事ないのよ!
ほんと、この人はまどかマギカに触れておかしくなったと思うのでそういう意味ではすごい同情してます。
別にほむらがどうとかじゃなくて、彼の言う「暁美ほむら」への自己投影がうんざりするというだけです。
「碇シンジは俺なんだ!」的なそういうノリなのかもしれませんけども、あれは自己投影するようなキャラでもないし、
そもそも「自己投影しやすく屈折したほむら」なんですよね。ヘイト創作でキャラをゆがめる手法そのもの。
他の漫画は見れてるけど、まどかマギカに関しては間違いなくあの人作品を見てないし、自分しか見ていない。
もうちょっと他人を認めてもいいのに。