はてなキーワード: ファンタジックとは
月に一回は「ツキイチ!生理ちゃん」という漫画を思い出してイライラしてしまう。
最初に1話を読んだ時は「少し引っかかるな」というくらいだった。次に2話を読み「腕から血が取られるのなら苦労はしない」と思い、3話は途中で読めなくなって閉じた。
それから生理ちゃんは読んでいなかったが、月に一度生理が来そうになる度に思い出し怒っていた。
もう思い出してイライラしたくないため、今回オモコロに掲載されている生理ちゃんを全て読み、どこに怒りを感じたか書いてみた。一旦吐き出したらマシになるかもしれないので。
この描写を初めて読んだ時に思った。
「わざわざ血の付いたナプキンを処理する必要もない、下着や服が汚れる心配もないなんて!楽で羨ましい」
腹痛と頭痛を抱えた状態で血の付いた下着を洗面所で洗わなくていいのだ。素晴らしい。なんで現実もこうではないのだろう。
しかしよく読むと2話では主人公の女性は生理ちゃんから注射器で血を取られながら、家にあるナプキンの残量の心配をする。
少なくとも経血を注射器で取るという世界観ならナプキンは必要無いんですよね。でもナプキンがある。
生理といえばナプキンという浅い発想が産んだ矛盾。この矛盾にイライラするのだ。
生理を擬人化して生理痛を腹パンに、経血を注射器で取るのに置き換える。生理による眠気をクロロホルムを染み込ませた布で呼吸器を覆われるという描写に置き換える。分かりやすくするためにはいいと思う。別に辛い要素を全てしっかり正しく描けとは思わない。しかし半端に現実の生理に寄せるからこれが現実を簡略し分かりやすくした物ではなく、ツギハギの適当な代物というのが分かってしまうのだ。それに怒りを感じた。
ちなみにこの注射器描写は3話から消える。徹底しろよと言いたくなる。
4話から生理ちゃんの紹介文が変わる「『男はぜんぜん生理痛のつらさを分かってない!とお怒りの方、こちらの漫画をぜひ彼氏や周りの男性にすすめてあげてください。」
いや、作者もぜんぜん分かってない!!これは高度なギャグなのか?と疑ってしまう紹介文。
4話のオチも良くない。生理が重い女の子を軽い女の子が叱る「私だって辛いんだから!」と。その解決方法、和解方法が最悪だ。
生理ちゃんが生理が軽い女の子の生理痛を重くさせるのだ。本当、ハンムラビ法典が作られたの何年前だか分かります!?
同じ目に合わせなくては共感も気遣いも生まれない、みたいな解決はして欲しくなかった。何故なら作者が男だから。彼に生理が来ることは無いから。自分は一生生理の辛さを理解しませんと晒してるようなものだから。
生理に幻想を持っています。生理に興奮します。だからこういうファンタジックな作品を描きます。みたいな感じだったら多分ここまで怒らなかったと思う。特殊な性癖の人なんだな……くらいで終わっていた筈だ。
私は生理が重い方だ。だから生理について人よりも考えこんでしまうのかもしれない。
しかし真剣に苦しんでいる事を茶化されるのはイライラする。生理とはなんか血が出るらしい、お腹も痛くなるらしいというぼんやりしたものではないのだ。
という作中の台詞があるが、作者は生理によって引き起こされる「大変」を知っているのだろうかと思う。
生理とは時に頭痛と腹痛を抱え、体は怠く精神は最悪なのに、血のついた下着を洗面所で手洗いしなければならないのだ。辛い現実で、日常の一部だ。人により症状が違うので、他人が理解をしたり正しい対処をするのが難しい。なのに性やタブーと結びついて、きちんと話せる機会が少ない。
こういった事をちゃんと知っているの?本当に?
ここまで書いてみて、怒りと悲しみが半々だったんだなという事が分かった。私が毎月毎月苦しんでいることを適当に漫画として描き、それに「生理の苦しみがわかる」「共感できる」というラベルを貼っているのに一番怒りと悲しみを覚えるのだ。
こういう人間もいるんだよ的な。
基本誰にでも合わせられる
その人が求めてるものがわかるから、その人の前ではそういう自分になる
年上の前では妹キャラ
年下の前では姉キャラ
うるさい子の前では話聞くキャラ
おとなしい人たちが集まると率先して明るい元気キャラをやる
キャラは作ってる訳ではなく
ただ自分の中に妹も姉も話聞くキャラも元気キャラも10%ずつ持っていて
それをただ増幅させてる感覚に近い
自分の周りにいる人のことはすきだ
だからその人の通りにしてあげたいとおもう
これは別に、誰かのためになってるわたしドヤでもなく、そうしないと嫌われるとかそんな恐怖でもなく
(昔はそれあったからまだ残っているのかな)
その人への思いやりだと思っている
この人今話聞いてほしいんだなと思うと聞いてあげたい。偽善なんだろうか。
それぞれ凹んでるところも素敵なところもあって
ちいさな子も同い年も年上も一回りくらい上もいろんな人間が周りにいてくれてすごく楽しいし
愛されているほうではあるとおもう。
こうやって自己肯定感みたいなのをみんなに貰った。親とか幼少期にはなかったもの。
優劣は特につけてない。
それぞれ平等にすき。
いろんなコミュニティにいられてほんとうにしあわせ。
多いときは週に3回くらい飲みに行く。
それでもすこし
胸がちくりと痛む日々が続いて
もっと我儘を言いたい
言ってないわけじゃない
思ってることは割とすぐ言うようにしているし
不満はなるべく溜め込まないようにする
でもそれはわたしのほんとに甘えたいことではない
わたしのほんとに言いたい我儘は
男の人といて
この人わたしのことすきなのかな、狙ってたりとかすんのかな
わたしの表面に惹かれているんだなと思うと悲しくなって拒絶してしまう
付き合ったことはあるけど
今思えば全部合わせていたな
セックスもデートもいっしょに部屋にいてもわたしと向き合ってくれてたのかな
いつも一方的に言われるだけだった
そんな日々が過ぎて、
あなたに合わせたわたししかあなたは知らないだろと言いたくなる
たまにイライラもする
こういう人に合わせてしまうようなわたしみたいな人間には負担なんだよ、と
どうしてそんな自己中に生きていられるの
言わないわたしが悪いとは思う
でも、わかろうとしてほしい
みんな解決してくれようとはする
話だって聞いてくれる
でもわたしのことをわかろうとはしてくれない
もっと話したい
知りたい、知ってほしい
向き合ってほしい
話し合いたい。
甘えられない
ほんとうに辛いことは話さない
話せないのか。話さないのか。
話したらきっと聞いてくれるんだろう
けどそれは、わたしに寄り添ったものじゃなくてみんなそれぞれの思う解決方法だ
けど言わなかったら言わなかったで
頼ってくれないのは悲しいって顔をされる
それはそれで悲しい。じゃあどーすりゃいいんだよ。
みんなのことすきだからこそ、つらいのかな。
じゃあカメレオンやめりゃいいじゃん、と自分でも思うのだが難しい
勝手にやりたくてやってるのにそれでストレス溜めるとかおかど違いだしバカみたいだね
それでもこうして辛かったりもするんだよ。
贅沢な悩みだな。ごめんなさい。
にたような人といっしょにいるととても楽だったりもする
ひさかたのおとを読んだ。こういう物語大好き。ゆるーいアニミズムというか、超自然的な非日常と日々の暮らしが隣り合っている物語は、読んでいてわくわくするし何だか安心してしまう。
今のところ一話完結の連作ものでまとめてあるのも読みやすくて素敵。精緻な描画に宿っている力と効果的なオノマトペがどんどん世界観を広げていく漫画になっていると思った。
内容としては、都会で学芸員をしていた主人公が、靑島という架空の島の学校に赴任してくるところから始まるんだけど、あんまり学校生活に傾倒していないのが珍しかった。
かといって島の暮らしを詳しく描く漫画でもないし、とにもかくにも神宿る自然とのファンタジックな触れ合いに重点を置いている漫画だと思う。
雰囲気漫画って言ってしまえばその通りなのかもしれないけど、独特な雰囲気に溶けてみたい人やじっくりと浸かってみたい人にはおすすめしたい。
透明感のある漫画だったので今後が楽しみ。
言葉が足りなかったなと思ったので説明すると、ここでの「ディティール」っていうのは世界設定に関してじゃなくて表現にかかってる。(一応タイトルにも雑なのは表現だと書いたんだけど)
山本某が「表現についてのディティールが雑だから」怒っているのであれば、そもそもこの作品の本筋的には表現が多少雑であっても問題がないのではないかとか、いやいや意図的に雑にしているわけじゃなくて雑でも問題がない程度であるならテンポが悪くならない程度には表現を使うべきだろうとか、それなりに前向きで建設的な話ができるんだけど。
ご本人はこう言ってるんだよね。
僕が我慢ならないのは、せっかくの異世界小説なのに、異世界要素とエロ要素がからみあっていないってことなんだよ。 普通の現代社会で女子高生が売春をやってるのと、何ら変わらない。じゃあ現代小説にすりゃいいじゃん。
これは「世界設定についてのディティール」が雑だから怒ってる、と認識するのが自然な文章だと思うんだけど。
シャワーにしたって彼はシャワーなんていう文明の利器が異世界にぽーんと出てくるのは世界設定として雑だろって話をしてるわけで。細部まで設定の練られた異世界ならではの話であるべき、って話でしょ?
それそのものはまあ否定はしないけど、あの小説を最後まで読んだならJKハルは異世界で娼婦になったという作品は現実世界でも成り立つ、とはとても言えないと思うのよ。(序盤だけ読んだ状態での感想ならある程度は理解する)
あれは現代日本ではできない、というよりはご都合主義で雑な設定の異世界でないと成り立たない作品ではあるのね。その結果出来上がったものが面白いかどうかは別として。
だから「雑な世界でしかなりたたない話を書いてるんだから世界設定が雑になるのは当然だよね」「雑だけどその雑さこそが物語の核でもあるんだよね」って話。それに対して「そもそも雑な世界観の作品が好きじゃない」という話をするなら好みの問題だし俺は嫌いで結構なんだけど、こんな雑な世界設定に意味があるのか、ないだろう、って言われたら「実はこの先この雑な世界設定が意味を持ってくるんですよ。面白いかどうかは別として無意味なおためごかしってわけじゃあないんです。雑だけど」っていう。
だから「こんな雑な世界設定で異世界ものをやるなんておかしい」という主張は無理筋でしょ、っていう。これは「雑な設定の異世界」ものであって「異世界」ものじゃないんですわ、雑であることにあえて意味を持たせた作品なんですわ、っていう話かな。
そして「雑な設定の異世界」ものをまとめてなろう系とする新しいテンプレができつつあるのかもねっていう話でもある。(その中には雑な設定だからこそ意味があるものも、雑で意味のない異世界設定も、どちらも混ざっているんだろうけど)
そして世界設定が雑か否かっていう話と、世界を読者に伝えるための言葉が雑か否か、って同じ雑でも種類が違う雑なんだよね。
例えば「私はシャワーを浴びた」は雑な表現だけど、仮にあの世界においてシャワー的な機能を有した何かファンタジックな装置Xが存在したとして、特に何の説明もなく「私はXを浴びた」って表現されたらそれって読者がどんな形状のどんなものを想像すればいいか分からない、場面の想像が容易でないって点では同じぐらい雑だけど、世界設定としては細かい部分まで練られてるから雑とは言えない。
そして世界設定そのものが雑でもそこでシャワーという単語を出さずに「私は水浴びをした」とか「私は身体を洗った」くらいだと、まあそれでも思い浮かぶ風景が統一されないという点で見れば雑かもしれないけど、少なくとも解釈違いで怒り出すような人はシャワーと比較したらだいぶ減るよね。そういう解釈違いを起こさないように表現に気を使ってる=雑じゃない。だけど具体的にどうやって異世界で身体を洗うのか触れられてない以上、世界設定としては雑と言えるよね。
ということを前提に、雑にシャワーを浴びたって言えちゃうのは表現面で雑で、その表現面の雑さはメインターゲット層には特に問題なかろうけど、それ以外の人にも興味を持ってもらうことを考えたい、客層を広げたいなら直した方がモアベターだと思うよ、っていう話。
そしてそれに気が付くべきは作者よりも、これまでに色々と本を見ているはずの編集者であるべきだったのでは、という一点においては山本某の言葉は割と正しいんじゃないかって思ってるよ。
入口はオクトパスアーミーではないし、アンナ・ミラーズはもう高輪にしか無いらしい。中腹あたりの人間関係はずっとあるけれど入ったことがない。なんといっても総本山のPARCOがない。
そんなスペイン坂の頂上近く、裏の代表だったはずの猿の服屋の下、たしか映画館があったあたりに、その日の会場であるライブハウスWWWはあった。
Haru.Robinsonの音楽を初めて聴いたのは『愛が降る街』が公開される少し前、まだその名義になる前のYouTubeの生配信だった。
声の伸びがしなやかで、少年のような外見とあいまって美しい。高音の少しの危うさがそれをなおさら強調させ、これは女性は好きだろうなと思わせる。
その印象通りに会場内は7割位が若い女性。男性は本当に少なくて、そのほとんどが関係者か付き添いかといった感じ。
アーティスト然としていない近所の服屋の店員のような格好で、かすかに照れながら「シンガーズ・ハイ(本人談)」の状態で歌う彼は、ポエジーなその歌詞を本当にすべてを信じているようにも見え、その彼の創り出す音楽を女性たちは恋をしているように聴いている。
いや、けっして男性がいられないような空間ではないし、男性だからこそ楽しめるところもある(と思う)のだが、このエモさはなんだろう。
楽曲はYouTubeやSoundCloudで聴けるものを中心に、新曲は最初と最後に。
セットリストを最初はメモっていたのだけど、途中で面倒になってそのまま左にフリックしてしまったのが悔やまれる。
1曲目はライブのタイトル曲にもなっている『Urban Days』。アルバムは当日発売なのにもう一緒に歌っている女性がいて、Haru.Robinsonとこの曲のファン層の強さを感じた。
『愛の降る街』は安定の名曲だが、続く『降雪歌』の潔さと合わさって、より孤独感が感じられる。遠い街で空を見上げる時には孤独を受けいれなければならない。その寂しさと力強さをギリギリのラインで保ち続ける声と姿が素晴らしい。
今回のアルバムには入っていない『Howl』のアレンジが良かった。メロディアスで浮遊感のある、しかし安心させてくれないキーボードがどこか『ヘッド博士の世界塔(フリッパーズ・ギター)』を思わせる。渋谷だからかな。懐かしい感じがして。ネオンテトラの色彩がサイケデリックさえ感じさせる。
欲を言えば今回(たぶん)歌わなかった『Lyrical Parade』で、道玄坂から公園通りまでを間奏のBaroque Hoedownに合わせてマジカルでファンタジックに突き進むようなHaru.Robinsonも見せて欲しかった。それは、また、どこかで。
ラスト曲『Brand new day』は今回のアルバムには入っていない。何もない日常がたったひとつの何気ない出来事で、ほんの少し進んだ世界に描き変わる瞬間に立ちあえる曲。これが入っていないのは本当にもったいない。しょうがないからYouTubeの再生回数を増やそう。
アンコール1曲目は『Identity』。イントロで女の子たちの歓声が上がる。たしかにこれは生で聴きたかった。できればダンスも見たいのだけど。
アンコール2曲目の新曲『春風』も良かった。スロウでメロウなバラード。3月発売らしいが、実はFacebookでファンの女の子がアップした路上ライブの動画が見れる。配信時代ってすごい。
最初のMCで彼は「なんとなく揺れて気持ちよくて楽しいって曲はHaru.Robinsonにはないんです。頑張って歌うから頑張って聴いてください」と語った。
たしかに全曲が全力で、縦ノリでも横ノリでも休める曲がない。バンド構成も見事で、ずっとパンフォーカスの状態だから、これは正直疲れる。
しかし「頑張って歌うから頑張って聴いてください」というそれは「寿命を少しだけ削って 聞いてくれたことまず感謝します(『Identity』)」という彼からの、僕らへの挑戦でありまた僕らがたったひとつ果たすべきアンサーであると思う。
それに続く「でも 睡眠時間を削って 君に書いた歌はまたボツになる」という歌詞は、同じこの日に発売となった椎名林檎の『人生は夢だらけ』にある「こんな時代じゃ手間暇掛けようが掛けなかろうが終いには一緒くた きっと違いの分かる人はいます そう信じて丁寧に拵えて居ましょう」と同じく、すべての届けたい相手(つまりリスナーであるわたしたち)に対するアーティストからの最大のリスペクトだと思うのは僕だけだろうか。ここでいう「君」は特定の恋人でもいいが、もっと不特定多数の彼の音楽を待つ誰か、もしくは彼が贈りたいすべての誰かでもいいんじゃないかと思う。
彼のそのへんの兄ちゃんのような風貌からは、真摯的という言葉はまったく出てこない。
そして彼のサウンドは純粋に音楽として楽しめるものではあるが、僕はどうしてもその節々から、音楽に、またそれを求めている誰かに対する誠実さを感じずにはいられない。
チュンリーさんは美しくかっこよくセクシー(たまにちょっとかわいい)
単純にデザインとしても女目線で見るとまじでかわいくないんだよ
エロじゃなくてかっこよくてセクシー! ホントお願いします(バーディ使い)
最近のだとパーティ衣裳(チャイナドレス+ファー+タイツ)みたいなのは素敵だったけど
部屋着みたいなの超きしょいし、
今日追加された奴もなんだよあの穿いてないみたいなやつやめてほんと
どういう事なんだよあきまん
露出すんなって事ではない、全部露出するんじゃなくてメリハリきかせた方が可愛いんだよ
出すところは出す、隠すところは隠す! セクシーポイントのメインを決めろ
ララとかレインボーミカはセクシーだが、キャラクターとか職業にあっているし、
ララはおっぱい出てるけど足元はズボンで、セクシー部分を一点集中しててまとまりがある
ミカはプロレスというショービジネスだから派手で肉体を誇る衣裳を着ている わかるよ
キャミィだって下半身は丸出しだけど、谷間は隠れてるしまぁギリギリセーフなんだぞ(でも迷彩タイツなくなったのは納得いかないなんで生脚)
水着コスは露出してるけど、水着として納得できるので全体的に異論はない
スク水着てた者の意見としてはスク水って、材質がごわごわしてて分厚くてマジでダセーのよ
※すべて個人の感想です
リベラルっていう用語は今では多義的になっちゃって拡散しているんだけど、源流をたどると「絶対王政などに見られる巨大な権力者に対して個人の自由を守り社会を安定させ豊かにしていく思想」があるよね。国の命令で、一般的な民間人の生命やら財産やらが奪われてはならない。思想や発言には自由があるべきだし、職業や結婚相手を強制されるべきではない。個々人は個々人で自分の人生を生きる自由がある。古典的な自由主義としてのリベラル。
いま日本では、リベラルが退潮とか危機とか言われているけれど、どう考えても歴史上もっともリベラルが花開き成果があるのが現代だと思う。古典的な自由主義者が目指した自由と繁栄の国が、いまの日本だよ。
もちろん、リベラルという語の示す意味合いは歴史によって徐々に変わっていった。いま死のうとしているのは、後発の変化した後のリベラルなのだ、という指摘は正しい。
しかし、でもだとするのであれば、その主張方法も変えていくべきだったのね。一番古典的なリベラルは上記のように「巨大な権力者の恣意的な権力乱用から市民と市民の自由を守る!」というものだったから、その主張手法は「だから、権力者(日本の場合首相とか与党とか政府)を厳しく監視してそれを咎めていかなければならない」であるわけ。日本の野党が国会で、やたらに与党に噛み付いたり、「安倍政権が九条を変更すると即座に戦争を開始してしまう!けしからん、断固打倒!」というのは、たしかに、古典的リベラルの主張としては正しいわけ。なにせ彼らは「巨大な権力者の恣意的な権力乱用から市民と市民の自由を守る」が主張なのだから。
でも最初に述べたように、古典的リベラルが憂いていた社会問題――たとえば王様が個人的鬱憤やら貴族の内輪もめで戦争を開始して農民の命がゴミのように消費されるとか、身分差の下位の側が奴隷としてなんの自由も選択権もなく酷使されるとか、餓死するとか――そういうのは、現代日本においてほぼ解決された。こういうことを言うと顔を真赤にして「現代のブラック労働問題が!」とか叫ぶ人はいるけれど、少なくとも法的な側面ではかなりのケアが進み、運用側の問題へと問題は進んでいる(日本の生活保護の捕捉率はたしかに大問題だけど、運用の問題ではある)。
つまり古典的な自由主義者は、打倒すべき問題の殆どを失ってしまった。日本の社会で言えば、1970年代の公害訴訟あたりの時期で、社会的使命を一旦果たした。そこで寿命を迎えたと思うのね。
もちろんそこで社会問題がなくなったという話じゃないんだけど、それらを指摘して解決していくためには、リベラルは名前を変えるか、名前を変えなかったとしても少なくとも主張方法は進歩させるべきだったわけ。なにせ古い主張とその手法は、古い問題に最適化されているわけだから。「安倍政権が九条を変更すると即座に日本は戦火に包まれる」なんて主張を、現代日本国民の誰がどれだけ信じている? 1%もいないとおもう。現代日本人の殆どは「政権を監視して非難すれば問題が解決する」なんて、もはやファンタジックなおとぎ話だと感づいているんじゃないかな。
現代に残る社会問題は、格差にせよ人口減にせよ、少数の絶対悪者が陰謀の結果日本に振りまいた災厄ではなく、すべての日本国民が利害関係者として今まで行ってきた選択の結果起きた、避けえない出来事であって、誰か少数者をリンチしてスッキリしたとしても、解決なんて出来はしないって気づいているんじゃないかな。
にも関わらず、いわゆるリベラルと言われる組織や政治家が懐古的な「邪悪な政府の陰謀論」を卒業できないのは、本当に卒業できないわけじゃなく、そういう手法を卒業しないことで利益を得ていた既得権集団だっただけなのだ。そういうことがほとほとわかっちゃった。そういうのがこの数年の政治状況じゃないかな。
いま日本でリベラルに愛想を尽かしたり、叩いたりしている国民も、一番最初に述べた「国の命令で、一般的な民間人の生命やら財産やらが奪われてはならない。思想や発言には自由があるべきだし、職業や結婚相手を強制されるべきではない。個々人は個々人で自分の人生を生きる自由がある」という意味では、立派なリベラリストなわけね。それらは当たり前にいつでも手に入る無価値な宝物ではなかった。たとえば北朝鮮ではそういう社会が実現されてないもの。
だからその部分は歴史に対して胸を張っていいとおもうのだ。そして同時に、自分たちがそういう意味ではリベラリストなんだから、リベラルを必要以上に憎むべきではない。少なくとも歴史のある時期、それらは社会に必要で、現代の豊かで平和な社会につながる重要な役目を果たしたわけだから。
一方で、そういう言う意味では、リベラルという看板は役目を終えたし成仏すべきだと思う。現状、Webやらマスコミで「リベラル最低だ」っていってるのは、かなりの程度死体蹴りだ。「リベラルという少数悪が邪悪だったので社会が悪くなった」というのは、まさに駄目なリベラルがすがりついていた思想そのものだよ。すがる側も、嫌悪する側も、もうリベラルから卒業しても良い時期だ。
おじさん、悲しい
生体兵器が出てきた
おじさん悲しい
主人公くらいカッコよくなる、可愛くなる
ちがうでしょーが!
敵は醜い、グロテスクにして、
全ての生命を殺そうとしてくるような、
「「「こいつは、俺たちがここで倒さなければならない!!!」」」
という緊迫したムードがでないでしょーが!
単にリアじゅうを気に入らないから根暗がボッコしてるだけでしょーが
それがヒーローでしょーが!
おじさんプンプンだよ、もう
超えなければ未来が無い壁を前にして
ならその超える壁にイケメンや美少女の顔かいてたらおかしいでしょうが
ラスボスが悪にならないといけない理由とかをツラツラと書いてたら
1目みて悪人だと分かるようにしないと駄目なんだーい!
仲間オチさせたがったり
おじさんそういうのもう見たくもない死やりたくもないよお!
男も女もキモくて金のない人々は、ますます下がり調子のこの国で今後死ぬまで愛も金も貰うことなく生きていくだろう。
彼らの唯一の救いとなるのはアイドルやアニメであるが、その正体は性欲を利用した金持ち達による搾取であり、
その裏には性的行為を共用される未成年の少年少女や、まさしく奴隷のような扱いのアニメーター達の犠牲があって成り立つ産業であるから、
宗教は決まりを守っていればキモくて金のない人にも愛を与え、施しを与える。
放っておけば絶望で何をしでかすかわからない彼らに決まりを守らせることで、彼らにとっても社会にとってもwinwinの関係をもたらすことができる。
そして死後の世界のファンタジックな話を信じさせることで、現世で何一ついいことなく死んでいくであろう彼らに希望を与えることができるのだ。
地味めのシーンから始まって、ブワーッと世界が広がった時の快感は得難いものがあるのも確かだがな。
冒頭に見せ場のシーンを持ってきて作者の技量のほどを見せつけて、先のシーンを予告して読者の期待を煽るのと同時に、作品の方向性を示す重要性は増していると考えねばなるまい。
無論、アクションシーンでなければならないという事はない。
要は、先まで読めば面白くなるのに早めに見切りをつけてしまって結果的に損してしまう事を避け、
また逆に、合わない読者が先まで読んだ時に「期待したのと違って時間のムダだった」と思わせない効果が見込めるシーンであればいいのだ。
なお、ちょっと意味合いは違うが、耳をすませばのポスターみたいに本編の方向性と関係ないファンタジックな画で期待を煽るようなのは詐欺なので良くない。