はてなキーワード: ファウンデーションとは
SF小説好き1480名に聞いた「絶対に読んどけ」っていうSF小説ランキング - 俺だってヒーローになりてえよ
https://www.orehero.net/entry/bestsf
以下、数が多いので省略
ファウンデーションがそういう話じゃなかったっけ?
それは何かの原理から定まるものではない。「有意水準を0.05と設定したならばこういう結論が言える」までしか統計学に言えることはない。
このことは別にネイマンピアソン流の統計学に限らずデータだけから何かを言う統計的方法ではすべて同じで、何らかの恣意的な仮定をおいた時に結論はこうです、という論理構造にしかなり得ない。
そういうところをちゃんと理解したいなら統計学のファウンデーションを勉強するとよいだろう。これ一冊読めばOKみたいなのは思いつかないけど、竹村の現代数理統計学とかなら一通り書いてあるんじゃなかろうか。あんま読んでないからわからんけど。
ググったら統計学極右の書いた本が落ちてたわ。https://www.gwern.net/docs/statistics/decision/1972-savage-foundationsofstatistics.pdf パッと見かなり面白そうだなと思うけど、読むのは全くオススメしない。
何も分からずに難癖つけてるだけなのがよく分かるなーー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88
「コルセット(英: corset)は、女性用ファウンデーションの一種で、近代から現代にかけてヨーロッパ大陸で一般に使用された。胸部下部よりウェストにかけてのラインを補正する役割を持ち、ヒップの豊かさの強調と対比的に、胴の部分を細く見せた。」
つまりコルセットって女性の性的魅力を強調するために流行ったものなんだよね。
今回のフェミニスト議連の抗議は公の場で女性を性的対象として強調するのをやめてほしいというものなので、方向性としては真逆だよ。
「20世紀初頭、ココ・シャネルが婦人服にジャージー生地などの新たな素材や男性服のエッセンスを導入して日常生活における利便性とファッション性を両立したスーツを発表すると窮屈なコルセットは衰退し始めた」
読みたい本は山のようにあったが、なんとなく暇つぶしに端末に読めるもの、読み返しても面白いもの、を基準に選んだ。
例えばギャラリーフェイク、例えば蟲師、例えばファウンデーションシリーズ。
それでも100冊までは余ったので続きが気になってるけど買ってはいなかった本を買った。
で、それが違国日記。
7巻まで出てる。
どんな漫画かっていうと、姉夫婦が突然死んでしまい姪を勢いで引き取ってしまった少女小説家の話。
へんくつな少々コミュ障気味の小説家の話す言葉、つまりは語彙が姪にはむつかしくて、違う国の言葉に聞こえる、と言う。
ちょっとこの漫画の少女小説家の思考方法には、うなずけるところとそうでないところがあって、実のところそれについては
語りたいのだけど久しぶりにここに書きたくなったのは、その最新刊、35話で、姪の同級生の女の子のエピソードを読んだせいだ。
彼女は医学部志望で、例の医学部女子受験生は男子と違って下駄はいてない、というニュースに激怒する。
自分は生き方を否定された、と絶望して学校に一時期いけないのだが…
男子が下駄はいている理由は「医師が体力勝負で、24時間対応が求められることもあり、女性という生物学的機能(妊娠・出産)に
よる離脱が想定されうる」ので、「男性医師が欲しい(同僚としても部下としても社会的にも)」という理解でいたのだが(認識が
違っていたらごめんなさい)、作中の彼女は「人間扱いされてないってことだよね!」と叫んでいる。
両親が医者で病院を継ぐことが目的で夢で存在理由なそんな彼女が、女ってだけで不合格になる、それは理不尽だと思う、思うのだが…
少し「もやっ」とした違和感があった。
作中の彼女は15歳で、その子に現場のニーズでそうなってしまったんだ(正しくない選択だとは思うけど)、とつい言いたくなって
色々もっと方法があったかもしれないが、「入口で障害を作るしかない」という「悪手」を取ってしまったのは彼女を否定したいわけ
でも受ける資格がないとでも言ってるわけでもないはず。
…とはいえ、ここまで書いてきて思ったが、ニーズがない、と言われたと彼女が取った、のかもしれない。
男が怖いから世の中の男全て消えてしまえ、みたいな文章に出会ったときと同じように、少しもやっとする。
…自分が物書きのくせに言語化できないのは修行がたらん気がする。
しかし医学部志望の子のエピソードは、なぜかちょっと違和感があったのだ。
個人のありよう生き方は社会と関連するとはいえ、内面だけ深く深く掘っていく漫画であってほしいな。
勝手な読者の言い分だね、まったく
幼いころ、何かのイベントでフェイスペインティングをやる機会があったのだけれども、当時の僕は顔に何かが付着するのが不快に思われて、断った記憶がある。
それ以来、身体に何かを塗ったことはない。皮膚科の薬くらいか。女性の場合、ファウンデーションを使うので、フェイスペインティングは男性よりも抵抗が少ないと思われるのだがどうだろう?
それはともかく、同様の理屈でボディペインティングはやったことがない。とはいえ、ドラえもんの学習漫画で、水着を忘れたのび太が絵の具を塗ってごまかそうとするが、前だけを塗って尻を塗り忘れて恥をかく場面があり、それが自分の野外露出・CFNM願望とマッチしていたのを思い出す。気づいたしずちゃんが顔を覆って赤面しているのも高ポイント。
実際に水着やショートパンツを描いて野外を全裸で徘徊する女性の動画は、各種動画サイトで閲覧可能だ。
人々が顔や身体を様々な色彩で飾ってきた歴史は長く、世界中で見られる。ブラックベリーやサフラン、粘土や木炭などで様々な色合いが用いられてきた。つまり、赤、黄色、青、黒、茶色などが利用できたわけである。
欧米では、顔や腕を塗ることが多かったし、今でも大道芸人やピエロなどもそうだ。全身をカンバスとして用いるのがメインストリームの芸術やファッションに導入されたのは、1933年のシカゴの万国博覧会でだった。Max Factorがバーレスクの大女優Sally Randを映画のためのモデルにしたが、裸を公衆の面前に出すのは同時としては当然挑発的に過ぎたし、社会的通念からは外れていた。そして、全裸のアートは人気にならなかった。
これが60年代から70年代のヒッピー文化の時代になってくるともう少し人気が出てくる。花やピースサイン、その他サイケデリックな模様を、大義を信奉していることを表現するために描いた。今でも海外のヌーディストたちがワークショップか何かで全身にそうした絵を塗っているのを確認できる。くすぐったそうである。この時代もまだ、カウンターカルチャー的なもので、主流ではない。
革新的であったのが1992年、Vanity Fair誌をDemi Mooreが飾った時だ。彼女は全くの裸であり、芸術的でかつタイトなスーツを着ているようにみえるペイントをしていたのである。今までこうしたものがメインストリームの前面に現れたことはなかった。
一応、乳首が見えているので、直接のリンクは張らない。Demi’s Birthday Suitで検索してほしい。
身体に名画を直接描いたり、人体の形を活かして生き物の姿を描いたりする。全裸も多いのでリンクが晴れなくて申し訳ない。中には会田誠の作品のように、セクシーさというよりはシュールさで有名なものがある。漫画のすごい顔の絵を描いていて、おっぱいに目がある。たぶん現代美術好きな人だったら見たことあると思うのだけれど、ものによっては普通に割れ目までも見ているのでリンクしない。女性器は猥褻だとは思わないが、残念ながら規約違反になってしまうおそれがあり、ブルマーの記事まで削除されてはたまらない。
例えば「アバター」なんかの映画で用いられるメイクアップで用いられる。他にも、Playboy誌が時折ボディペイントを使うことがある。2005 年のカレンダーでは皆がビキニを着る中で、Karen McDougalやHiromi Oshimaはボディペイントだった。そのほか様々な広告でも用いられる。
フットボールの試合、レイヴパーティー、その他の祭りなのでボディペインティングが行われる。また、国際的なボディペインティングのフェスティバルもあるようだ。World Bodypainting Festival(1997年より開催、50か国以上より3万人が参加)など。
Fantasy Festなるフロリダのストリートパーティでも用いられるようだ。おそらく、全裸・半裸になりたいけれどもファッションは楽しみたい、という需要にボディペインティングは応えている。
PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)が動物の模様を身にまとって抗議することがある。また、全身を様々な色で塗っている写真も英語版のウィキペディアで確認できた。
いい機会なのでPETAについての記事を斜め読みしたのだが、増田ではよく叩かれているとはいえ、捨てられたペットの保護や、ヒツジの臀部から皮を剥ぎ取るミュールシングの代替手段の模索に向けての活動については知らなかった。もっとも、セクシーな抗議がフェミニストの怒りを買っていたり、殺人・虐殺の犠牲者と屠畜された動物を同列に並べて猛反発を受けていたりしてもいるようだ。
一番安全。すぐに落ちてしまう恐れがあるが毒性がなく、アレルギーもほとんど引き起こさない。加えて、石鹸と水ですぐに落とすことができる。手入れが必要で長続きしないが、皮膚の敏感なひとや妊娠中の女性に適している。
汗や水に強いのが特徴なので、夏の音楽フェスやパフォーマンスに適している。落とすときには専用のリムーバーを使うか、アルコールで拭く必要がある。ただし、少し時間がかかる。
ラテックスや油性の画材は全身を塗るのに適しており、目を引く視覚的効果を上げられるし、芸術的な目的にも使われる。取扱説明書を事前にしっかり読む必要があり、塗る前に全身の毛をとり除くひつようがある。毛が残っていると脱毛ワックス的になって痛いためだ。
多くの化粧品に含まれているのと同じもので、前衛的な外観を作りやすく、長続きするが、割れたり摩耗したりしやすい。利点としてはアルコール系と同じように汗や水に強いことが挙げられる。しかし、完全に乾燥することがないので、仕上げのスプレーやパウダーで駄目になるのを防がないといけない。
アジアやアフリカの熱帯地域の植物から採れる色素で染める。髪を染めたり、ボディペインティングの材料にしたりするだけでなく、繊維を染めるのにも用いられる。落とせるタトゥーとしても使われる。
Brown hennaは基本的には天然素材で毒性はないが、black hennaは金属が含まれており、長期にわたって使われると皮膚を害する恐れがある。
多くの人がボディペインティングのときに実際に何を着ていくか迷うらしい。特に野外で行うときには最低限、皮膚の色に近い紐パンや、ペイスティース(乳首の前貼り)だけを身にまとうことがある。トイレに行くときにはローブが必要であり、加えてペインティングスタジオは寒いことがあるとのこと。
WNBR(ワールド・ネイキッド・バイク・ライド)なんかだと普通に全裸に人もいるし、そういうイベントでだったら全裸も普通にOKだろう。
今回は、野外露出目的ではないボディペインティングについて調査した。今後は、ヘナタトゥーなどについてももう少し情報を得たい。
また、ヌーディズムそのものの歴史、ストリーキング、ムーニング(尻を見せる行為)などについて調査予定である。すなわち、身体が自然と触れ合う喜び、抗議・無防備さの象徴としての全裸、宗教的な全裸、それから、祝祭としての全裸についても調査したい。
Significance and Origin of Body Painting - Lynn Schockmel Body Art
History of Body Painting - Facts and Types of Body Painting
History of Body Painting - Ancient Body Paint Art
イギリス人のブルマーの調査から、ずいぶん遠くまで来た。脱線に脱線を重ねてきた結果だ。しかし、昔から気になっていたので、バレエのチュチュ(ふわっとしたスカートみたいなあれ)についても調べておこうと思う。子どもの頃に、やっぱりこれがエッチだと思ったからだけではない。どんなことでも、疑問を持ったならば調べることは大切だからだ。それに、こういう素朴な疑問だけれども面と向かって聞きにくいことについて調査し、書き留めておくことは、誤った憶測に対抗する上での価値があると信じている。
これは、単純にお尻フェチだとかパンチラ萌えだとかだけの話ではない。僕たちの欲望がどのような仕組みになっているのか、そして欲望を喚起するシステムがどのように働いているのかを理解することは、逆説的に欲望の暴走をコントロールすることにつながるはずだ。言い換えるならば、社会が求めている女性像/男性像から自由になる手段であり、政治や広告から発せられる都合のいいメッセージから身を守るすべにもなる。
前置きが長く、堅苦しくなってしまった。どうか肩の力を抜いて読んでいただきたい。
https://tutusthatdance.com/blogs/faq/parts-of-a-tutu
これは、クラシック・バレエのチュチュの基本的な構造である。pantyと書かれている項目に、「ここにフリルが縫い付けられる」と書かれている。要するにお尻の曲線はそこまで丸見えにはならないのである。
しかし、このフリルにもいくつか種類がある。英語版wikipediaのtutuの項目には、現代のチュチュとして、次の4つが挙げられている。
短く硬い、釣り鐘状のスカートを持ったチュチュ。通例、パンケーキ・チュチュより長い。ドガの作品で多く見られる。
これだけを調べるのにも、意外と時間がかかった。当たり前だが、カタログの写真では普通、スカートの中まで写さない(というか、写すべきでもないだろう)。「inside pancake tutu」では、こういう資料は見つけたが。
https://www.pinterest.jp/pin/560487116124411506/
http://4.bp.blogspot.com/_Ozo7z2zkqWs/S-i2wVfcR1I/AAAAAAAACYQ/zDek9ewzWno/s1600/platter.jpg
世の中には私と同じような疑問を持つ御仁もいらっしゃるようである。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11205496201
さて、ウィキペディアのチュチュの項目を見ると、「ツン」というパンツ部分を指す言葉が出ている。引用すると「ツン(Tune)はスカートと一体になったチュチュのパンツ部分。……(中略)……構造的にロマンティック・チュチュには存在せず、ロマンティック・チュチュではバレリーナは下着としてステージ・ショーツを別途着用する(広義では、これもツンと称する場合もある)」となっており、幾分ややこしい。
また、その下着の項には「チュチュを身に付ける際は下着として薄手のキャミソールレオタード状をしたバレエ・ファウンデーションを着用する……(中略)……色はほとんどの場合ベージュ系である」との記載がある。
要するに、レオタードみたいになっている場合は普通に下着を身に着けるし、パンツ部分がチュチュと分かれているものでも、オーバーパンツをはいているわけである。当たり前ではあるが。
ロマンティック・チュチュは1832年、「ラ・シルフィード」で初めて案出されたらしいので、先ほどのツンについての記述と比べれば、現代につながるフリル付きの見せパンの起源はそこにある、と判断できそうである。ただし、英語版wikipediaには「ツン」の項目はなかった。
また、興味深いのは注釈の「ただし、アンダースコートとは異なり、ツンのフリルは横方向よりも縦方向に付けられる場合が多い」という個所だ。確かにさっきの画像でもそうなっていた。フリルの趣味の時代的変遷だろうか?
Wikipedia英語版のballetの記事でバレエの歴史を振り返ると、拾い読みだが、次のような流れになっている。
まず、バレエの起源はルネサンス期の宮廷でのダンスにさかのぼる(ルイ14世も踊ったほどだ)。それが徐々に劇場で公演されるようになった。
17世紀の頃は、女性の衣装は重たい生地と膝丈のスカートで構成されていて、動きやしぐさを出すのが難しかった。しかし、これでは動きやジェスチャーに制限ができてしまう。これが18世紀になると、スカートは地面から数インチの高さになる。色はパステルカラーが主流となり、さまざまな飾りが華やかでフェミニンなスタイルを強調するようになる。現在踊られているバレエでは一番古いものがこの時代で、「ラ・シルフィード」「ジゼル」が知られる。以下は18世紀の絵画だ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/MarieSalle.jpg
19世紀初頭には、身体にぴったりとフィットした衣装が用いられるようになる。具体的にはコルセットが導入され、身体のラインが見えるようになった。また、花冠、コサージュ、宝石などの小道具も導入された。クラシック・バレエでは「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」がよく知られる。次の画像では、少しスカートが短くなっているのが確認できる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Giselle_-Carlotta_Grisi_-1841_-2.jpg
そして20世紀、バレリーナのスカートは膝丈のチュチュとなった。正確なポワント(足の技)を披露するためである。舞台衣装の色も鮮やかに変わった。20世紀の作品としては、「牧神の午後」「春の祭典」が名高い。1910年の写真を貼る。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Agrippina_Vaganova_-Esmeralda_1910.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Grace_in_winter,_contemporary_ballet.jpg
画像をご覧いただければ、スカート丈がどんどん短くなっていくのがよくわかる。
さて、結論を述べよう。Wikipediaによれば、衣装が重いと細やかな表現ができないのと、脚を使ったテクニックを見せるようになったため、スカートが短くなったようである。
ちなみに、海賊というバレエでは、へそ出しの衣装も存在しているらしい。確かにbunkamuraに食事に行ったとき、バレエの衣装を展示していたが、そこにへそ出しファッションの衣装があったことを思い出した。バレエにしては大胆だと思った覚えがある。
ブックマークのコメントはありがたく読ませていただいており、不快だというお叱りも真摯に受け止めたく思っている。確かにパンツじゃないのにパンチラに見えてしまって欲情する人がいるってのは幾分デリケートな話題であり、増田ではないとやりづらい。また、どの程度ユーモアを交えて描くか匙加減も難しい。それを受けて、少し考えておきたい。
僕は割と美術鑑賞が好きで、ドガの作品も好きなのだが、その背景を知っていると、手放しで褒めることはできない。再びウィキペディアから引用しよう。日本語版からだ。
エドガー・ドガがバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサーは現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。主役以外のダンサーは薄給で生活しており、パトロン無しでは生活するのが困難だったとされる。パトロン達は当然男性が多く、女性ダンサーを娼婦の如く扱っていたと言われる。かくして、フランスのバレエ界から男性ダンサーはいなくなり、フランスのバレエは低俗化することになる。
もちろん、どんな事情があったとしても、弱い存在を表現しようとしたドガの作品の価値は損なわれない。しかし、僕は問わねばなるまい。スカートが短くなったのは、果たして本当にダンサーの意志だったのか、と。そして、女性が身体を見せるようになった流れの誕生は、観客も共犯だったのではないか。こうして性的好奇心を持ってしまう僕も、同じではないか。
もちろん、過去のことだからわからないことが多いし、究極的には真相は明らかにならないかもしれない。女性が美しい肢体を見せたいと思ったとしても、それは男性が主流だった時代の文化の中で育ったからそう思っただけなのかもしれず、どこまで本当に主体的に判断したかの判断は難しい。とはいえ、過去の人間が何を考えていたのか、それはどの程度自分だけの決断によって決められたことか、証拠が不十分なままでこちらが断定するのは越権行為だろう。
しかしながら、現代に生きる僕らは、自分が主体的にしていると思っている行動の多くも、無意識のうちに同時代の文化に支配されていることには、自覚的であることが求められるだろう。欲望の仕組みを知るとは、そういうことだ。読者諸氏も、自分のフェチの起源を考えてみると、きっと得るものがあると思う。
身体を使った表現と性の問題は扱いが厄介だ。ただでさえスポーツは厳しい師弟関係でパワハラになる危険があるうえに、新体操などの身体表現のあるスポーツでは、性暴力にまつわる訴訟は絶えない。
スポーツではないが、芸術と性も深い関係にある。どちらも人間の根源に根差しており、安易に善悪を論じることが困難だ。バレエも例外ではない。師弟の間で身体が親密に触れあい過ぎて恋愛関係になってしまう例がある。美しさへの憧れが恋愛感情や欲望と混同されることだってある。現に、男女だけでなく、ディアギレフとニジンスキ―の同性愛関係もよく知られている。こうしたことが、後から振り返ってみれば不適切な関係だった、師弟の力関係を利用していた性暴力だった、と判断されることにもなるかもしれない。とはいえ、これらは個々の具体例によって判断すべきだ。正直なところ手に余るし、多くの人の人生について書くことになる。ここでは語りつくせない。
今までこうした社会的な側面から女性のファッションの歴史に触れてこなかったのは、元々は衣装そのものの歴史を書きたかったのであり、社会の反応まで行くと本題がその中に埋もれてしまうことを恐れてのことだった。しかしながら、ドガが好きな自分としては、いい機会なのでここで一言断っておく必要がある、と感じた次第である。
何を好きになっていいし、対象にはどんな感情を抱いてもいいと思うけれど、歴史や経緯は知っておきたい。それが、芸術やスポーツに励む女性に性的な魅力を感じてしまう僕なりの折り合いのつけ方だ。そして、盗撮などの犯罪には断固反対する。
今回の調査では、見せパンの起源と推測される年代までは確認できた。しかし、細部は依然として明らかではないため、何らかの形で補完したい。
そこから、メイド服、またはロリータ服における、見られても恥ずかしくない下着について調べるかもしれない(知識がほぼないのでとんでもない誤解かもしれない)。または、キャバレーでのラインダンスやバニーガールについて、になるかもしれない。あるいは、再びブルマーに回帰するかもしれない。それは明日の気分次第だ。
とはいえ、しばらくは休みたい。自分の欲望やその起源について考えることは有意義であったし、文章化することで過度のブルマーへの執着やフェティシズムは手放すことができたからだ。一段落した感じがある。この言語化は妖怪に名前を付けて対処法を見つけたようなものだろうか。どろどろ、もやもやした不可解なブルマーに対する欲望が、知的なものとして把握できるようになった。
つまり、増田に欲望を垂れ流すことで、落ち着くことができた。知識が増えて勉強になったという肯定的な意見、ねちっこく不快だという否定的な意見、どちらも自分の姿を客観的に見せてくれた。すべての意見に対して、ここに感謝の言葉を述べたい。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando#/media/File:Edgar_Degas,_Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando,_1879.jpg
宮部みゆきなら『火車』が鉄板だが、『今夜は眠れない』『夢にも思わない』がめっちゃいいから読めとか(少年大好き作者の面目躍如。主人公が中学生男子であるという設定がめちゃくちゃ生きてる。特に後者が主人公に没入するほど、ぐさっときていい)。
アシモフといえば『ファウンデーション』シリーズか『ロボット』シリーズだけど、『神々自身』が神だとか(ヒューゴー賞・ネビュラ賞長編部門受賞作なのに絶版。古本は流通してるから手に入るうちに買って読め。いや読んでください。神だから)。
クリスティでは『オリエント急行の殺人』『そして誰もいなくなった』が有名だが、『葬儀を終えて』がミステリを読んでるほどツボに入るはず(霜月蒼も星5だ。なぬ、霜月蒼を知らぬ? クリスティ好きならググれ)。
そういうの教えてくれ。
そんでファウンデーションを作るわけやな