はてなキーワード: ピグミーとは
これさあ、なんで「男」という性別の問題を「黒人」という人種の問題に置き換えてしまうのか
性別と人種ではその意味するところが全然違うので、ちゃんちゃら的外れなんだよ
白人やアジア人にはなくて黒人のみに存在し、白人やアジア人を害する事の出来る身体の器官なんてものは存在しないでしょ?
黒人にもピグミーのような小柄な民族は存在するし、黒人の方が体力があるとか犯罪率が高いとかいう統計があったとしてもそれはあくまでも統計であって個々の黒人に直結はしないでしょ?
男はそうではない
全ての男が女を害する事の出来る身体の器官を持ち、その何割かは実際に女を害する
つまり個々人を見るまでもなく、「男」という属性だけで警戒する理由が十分にあるの
https://b.hatena.ne.jp/tick2tack/20230218#bookmark-4732524849663618276
tick2tack 暴力への警戒の話は黒人に換えて考えること多い。白人だと信頼されやすいポーズを黒人がとると暴力的とみなされるなどの研究があったり、じっさい黒人の暴力事件は多かったりするなか、警戒ってどこまでありなのか
ふむふむ 好きとか嫌いといった感情の起伏を( ? )な価値基準で良しとしたり悪しとしたりするのはやめておけということだな
その結果は価値基準である( ? )が流動的だったり不安定だったり他人との共有や理解が簡単ではないからだろうな
無意味に足掻いて周囲を泡立てるのはたしかに何にしても見ていて心地の良いものではないな
たしかに端的にそうとしか表現の方法をもたない人間からはそういう意見がきているな 本当にとは真にダサいとか本当のデザインという基準からなのか
それは最初の( ? )ではないのか?
何理論において何学説において ダサいは本当ではない デザインが悪いは本当かどうか という言及に至るのか 本当にそうなのか とは?
「ダサい」といっているのは実際(本当・真に)は「ダサくない」ということになってしまうのか? それは( ? )に至ってしまう導入だよな・・・ 心配だ
「エッジがきいてない(風景と同調して取得したい一番大事な情報(金額)の認識に直接的でない)」とか
「デザインが悪い(肖像画の人物特徴として髪型や顔のパーツや衣服が印象に残りにくい)」だとしたら
( ? )のデザイン理論における真のカッコイイ本当のデザインはそこなど取るに足らない もっと大切な目標があるということなのだろうか
は? 良し悪しで語ってる・・・?
いや良し悪し は良いのだろう 良し悪しで好き嫌い だからな・・・
好きとも嫌いとも言ってないよな・・・
好きか嫌いかで それが良いか悪いかというのも 好きとも嫌いとも言ってないからな・・・
セーフだろう
その良し悪しで語ってる「良し」としているのは何なのだ?
とりあえず 優れている は解らないけれども 好きとも嫌いとも言ってはいない セーフだ
いや知らん わからん 目的が違いすぎて「ピグミーマーモセットはエゾシカとは違う」と言われても そうだ としか言えない・・・
「そうだ!」と言わせるためか そうなのか?
最新のサービスがそこにつまっているぞということか 前述をただ置き換えているだけだが お金は未来をひらく そうだ たしかにそうだ
お金がひらく未来と デザインの先進性とかけているのか それはまったく機能と視覚効果に関連はなく 無関係だが 大喜利的にはつながってる
その単純な理由がまったくわからん 逆説的につなぐことで「こんな簡単なこともわからないのか?」という文脈にしているのか?
工業デザインは機能性ありきなのでお札は四角くて紙だ それ以上のなにを求めるのだ単純に 理由として ということなのか?
たぶん古いファッションや演技の方法や工業製品の外装などは流行でないからダサイ(その時点において機能的に直観的でない)とは言えるそれか?
自動車が円盤の形をしているなどダサい(現在においては走行機能とおよそ関係ない形状をしている)とか
ロボットがもっさりしてダサい(およそ人の機能を果たすべき機械が人の形をしていない)など
「時間を経てダサイ」はある
しかしファッションは一巡りしてきたり 半世紀以上のおさがりがカッコよかったりもする
家電も機能とおよそ関係ない形状が「(ダサさが)かっこいい」場合もある 装飾としての無意味さが機能についているという点においてだ
工業製品もおおよそ機械プロセスはかわらないだろうけれども結局商品のバリューを高める「外装(無意味な部分)」の刷新である部分はあるので
機械の役割自体が劣化しない限りデザインの「一周まわってダサい」はそう多くはない気がするが・・・ それは素人考えからだろうな
なつかしいレトロなお札は「ダサくてデザインがいまいち」なのだろうな
聖徳太子の絵だったり500円札だったり 小判だったり和同開珎などはダサいのだろう あんなのお金として使うのは恥ずかしいな
・・・いや充分かもしれん ダサくないきがするが・・・ それは俺のデザインセンスが素人で一般人だから デザインを学んだものからいえばわかってないのだろうな
デザインを学ぶと好きか嫌いかで良し悪しを判断しないのだな なるほど
・・・いや一般人の知識がない人間でもそうでなくても それは一概にいえなくないか?
自分の生活をデザインしているという意味では一般人もデザイナな気がするが その良し悪しは好き嫌いで決めてる気がするが・・・
デザイナーもいかに嫌われようと醜いと蔑まされようとも ダサい悪いといわれようとも 良し悪しのために仕事をするのか・・・
タイトルの「好き嫌いを良し悪しで語るのはやめておけ」つまり良し悪しで好きや嫌いというのはちょっとまて というのは
もしかして「良し悪し」とは一見して一般人には理解しがたいが本当の( ? )や真の( ? )には意味や価値があり
それを知らずに直観的に「好き嫌い」というべきではない 嫌いといっているそれにも重要な機能がある ということなのだろうか・・・?
いやまて 良し悪し という機能的な価値ではなくて 個人の趣向の違いである好き嫌いで評価をしてる と言ってないか・・・?
個人の好きとか嫌いという感情は個人の生活デザインにおいて積極的に取り入れたいか 積極的に排除したいか それを基軸にしてるのでは?
それが良くないんだよな
実際ダサくて使いにくいものを作ることで そのデザインとしての効果が産まれうるってこともあるってことだよな?
たとえばダサくて恥ずかしいから現金もったら使いたくなくなる ついため込んでしまう 見たくもないからすぐ銀行にいれてしまう
それを意図してるとかいうデザイナーの思惑が あったりするってことだよな?
個人の感情としてダサイやとかデザインが悪いという感情の隆起は デザインされたものだ ということなのだろうか・・・
そうだな・・・
確かに個人が意見を代表者としてではなく発言する場合は全て個人の意見であり好き嫌いだよな・・・
あえてあなたは何の代表ですかと聞かないことには そりゃそうだよな・・・
個人が個人のライフデザインをするにあたっての監督は個人であるので 個人の用途においては 好き嫌いを表明しても そのデザインで機能的な良し悪しを語ってもよいのではないか・・・?
デザイナーはその個人の行動を誘導するために 貯めたり使うのをためらったりという動作をすることを予見してのデザインをしているわけなので 個人がそうするそう思うという感想を述べるのは
デザインどおりだったかどうかの答え合わせができる瞬間なのであったほうがよいのではないのか・・・?
デザイナーはもうすでに最初からそんなことはわかっているから答えなど合わせる必要もないし使用されてる現場をみる必要もないし 予見ができているので結果をしる必要さえないのか・・・?
おまえら操られてるぞ と
( ? )に入るのは 自分だった ダサいと批評して檻に入れていたのは 自分自身だと そういうことだったのか だったのか・・・?
スポーツ仲裁裁判所(CAS)は1日、五輪の陸上女子800メートルで金メダルを獲得したキャスター・セメンヤ(28、南アフリカ)の、男性ホルモンの値の高い女子選手の出場資格を制限する新規定撤回を求める訴えを退けた。
第1に、(おそらく)スポーツの世界で男女を分けることは差別ではないということ。
男女平等が重要な価値とされている現代で、なぜスポーツだけは男女が競わないのか。いうまでもなく男女の間に無視できない生まれながらの体力の差があるからです。上半身の強さに関して女性と男性の差は標準偏差が3です。つまり街で1000人の男性を無作為抽出した場合、998人は平均的な女性よりも強い上半身を持っています。平均的な男性の上半身の筋力は女性よりも80%多く、足の筋肉量の差は50%です。男性は女性よりも脂肪が少なく、骨密度が高く、持久力や痛みに耐えるために重要な赤血球も多い。女性は男性よりも骨盤の幅が広いため、脚の付け根から膝までの角度が男性よりも大きくなります。そのため走ったりジャンプしたりする場合に使われるエネルギーが地面に垂直に伝わらず、前進、上昇のためのエネルギー効率が悪くなります。男女差は上半身を使った競技、瞬発力を要する競技で大きく、それ以外ではより小さい傾向があります。具体的にいうと格闘技、投擲系で極めて大きく、跳躍系で大きく、走る競技でより小さく(なお走る競技は20メートル以上なら瞬発力のみではダメです)、もっとも小さな競技は長距離の競泳です(ある程度の脂肪が浮力の点で、丸みのある身体が抵抗の点で、広い骨盤が接水面積の点で、多少のアドバンテージになっているのでしょう。)。ハンマー投げの世界記録の男女差はハンマーの重量を考慮すると51%差がありますが、走り幅跳びでは19%、ほとんどのランニング種目で11%、水泳800メートル自由形では6%です。世界のトップ女性アスリートでも、記録はおおむね日本の中学男子のトップクラスと同レベルです。吉田沙保里も男子高校生と対戦したらあっという間にフォール負けでしょう。「そもそもスポーツで男女をわけること自体が差別である」という意見もあるのかも知れませんが、もしも男女でわけなければ、およそ半分の人は、女性として生まれた瞬間にアスリートになる道を事実上絶たれることになります。
第2に、テストステロンには明確な男女差があり、かつテストステロンの値がスポーツのパフォーマンスに影響を与えるということ。
95%が睾丸で作られるテストステロンのレベルは連続スペクトルにならず、女性が分泌するテストステロンは血液1デシベルリットルあたり75ナノグラム以下で、男性は240から1200ナノグラム(つまり男性の下限値は女性の上限値よりも200%以上も高い)、例外的に副腎等から高レベルのテストステロンを分泌している女性トップアスリートでもそのレベルは一般男性の下限に達しない程度であるとされています。また、スポーツのパフォーマンスの複雑さゆえにテストステロンがアスリートに与える影響を正確に説明できる科学者はいないものの、テストステロン値が影響を与えること自体はおそらく確実です。テストステロンレベルを下げて身体を女性に変えるホルモン療法を始めたアスリートのパフォーマンスが短期間で急激に落ちることが確認されています。テストステロンの人為的な投与は、典型的なドーピングの一種です。
第3に、第1、第2とやや矛盾するが、男女の差は実は相対的なものであるということ。
受精の際に性染色体がXYとなるかXXとなるか。XYなら男性、XXなら女性だが、これは遺伝的な性であって、性別はそれだけでは決まりません。胎齢4~5週で性腺が卵巣になるか精巣になるか。Y染色体があってもSRY遺伝子がなければ、あっても働かなければ卵巣が作られるし、Y染色体がなくても遺伝情報の特殊性で精巣が作られる場合がある。胎齢6~7週でミュラー管が卵管や子宮、膣になるか、ウォルフ管が精管、精嚢、前立腺になるか。精巣が作られてもミュラー管抑制因子がなければ子宮や膣が作られるし、テストステロンの分泌がなければウォルフ管が精管や精嚢に発展しない。外性器が陰核や陰唇、陰茎や陰嚢のどちらになるか。胎齢8週間まではどちらにも分化できるが、テストステロンが働かなければ陰茎や陰嚢は作られない。脳の性中枢がどちらになるか。胎生90日頃までテストステロンが少ないと視床下部は女性と認識する。それ以前の過程が女性でもテストステロンが過剰であれば男性と認識する。すべての過程で「男並みに」テストステロンが分泌されていてもアンドロゲン不応症ならそれが性分化のために働かない。さらに生まれてから男の子として育てられるのか、女の子として育てられるのか。親の教育方針や環境の問題ですね。男性と女性は確かに違うけど、偶然に左右されつつ、これだけ複雑な過程を経て分化していく。「女子と男子は違う」「テストステロン値は連続にならない」のは事実だけど、それだけで男女の差が説明できるものではないし、そもそも男女の差はそれ自体が相対的なものに過ぎないとも言える。だから「トランスジェンダー」と呼ばれる人がいるわけです。
第4に、これまた第1、第2の点を混ぜっ返すことになるが、生まれもった素質によりある種の公平さが失われるというのであれば、スポーツは多かれ少なかれそういうものであるということ。
女子であっても身長が180㎝以上に伸びなければリベロになる場合を除き世界的なバレーボール選手としての未来はほぼなくなります。陸上トラック競技も五輪や世陸の決勝のスタートラインをみれば、ほとんどの種目で人種的な特質が程度の差こそあれ影響しているのは否定できません。モンゴロイドがトラック種目で金メダルを取るのは不可能とまでは言えないけれども相当に難しいでしょう。将来にわたってピグミー出身のNBA選手は生まれそうにない。さらに障がいがあればほとんどの競技で障がいのない人とは競えません。
以上すべてを踏まえて、今度のCASの決定をどうとらえるか。そもそもIAAFは正面切って「セメンヤ選手を標的にした」とは公言しないが、「400メートルから1マイルまでの距離」というターゲットからは、800メートルで「絶対女王」に君臨し、最近は1500メートルにも進出してきた彼女を想定していることは誰の目にも明らかなので、彼女を例に考えてみます。
一部の報道が正しければ、セメンヤ選手は、遺伝子はXXで、膣があるが、卵巣と子宮を持たずに精巣を持ち、通常の女性の3倍-平均的な男性の下限レベル-のテストステロンを分泌し、パートナーは女性です。彼女の持って生まれた一般の女性と異なる「男性に近い」特質が、競技者としてのアドバンテージになっていることはほぼ確実で、勝利をめざして彼女と競う他の競技者が不公平感を覚えるのは、理解できます。かつて彼女と競うことに不満を漏らした選手は世間から強い批判を受けましたが、例えばセメンヤ選手が、陸上800mの選手ではなく、ボクシングやMMAの選手だったらどうでしょう。同じ体重であっても圧倒的な体格を持つ女性が、典型的な女性選手を滅多打ちにしてノックアウトする凄惨なシーンが展開されればどうでしょう。強い選手だと喝采するどころか、感情的にはなかなか受け入れられない部分があると思います。
しかしながら、上記のとおり、生まれもった素質によりある種の公平さが失われるというのであれば、スポーツは多かれ少なかれそういうものです。とすると、いずれの性に分類するかの前に-セメンヤ選手はもしも男子の競技に参加すれば五輪の参加標準に遠く及びません。日本の高校生に混じってインターハイの決勝に残れるかどうか微妙、というレベルです-セメンヤ選手のみが生来の体質ゆえに希望する競技に参加できないというのは避けなければなりません。
スポーツは勝負事です。勝利を、記録の向上をめざさないスポーツは、スポーツの重要部分を欠いています。だがスポーツには公平さという価値があります。勝ちさえすればよい、記録がよければよいといわんばかりに、競争における公平な条件を無視する人も、優れたアスリートではありません。そしてスポーツは社会的な存在です。勝負と記録にこだわり、競技における公平さを追及するあまり、プライバシーの尊重や人種差別の禁止、個人の尊厳といった社会で認められた価値を軽視し、限られた人にのみ開かれ、あるいは一部の人の人権を傷つけるのも、正しいスポーツのあり方ではない。
ジャッキー・ロビンソンが人種の壁を打ち破る前のMLBのように、かつてスポーツには有色人種を閉め出した時代がありました。特定の種目について女子ゆえに参加を禁止された時代がありました。でも現在はこういう扱いはありえません。「黒人と競わされるなんて不公平だ」「女はこの競技をするな」などという発言は許されない。セメンヤ選手のような事例をどう受け入れていくのか、競技団体のみの判断ではなく、社会が彼女のような人をどう受け入れていくのかという問題として考えなければならない。
いろいろ考えるべきことは尽きないし、悩ましい問題で、今後考えが変わらないとも断言できないのですが、私はやはりセメンヤ選手は「女」として競技に参加すべきと思います。それは人は持って生まれた資質に規定されつつ自認する「性」で自己実現を図るべき権利があり、その権利を尊重することは、個人の尊厳としてこの社会においてもっとも重要な原理だからです。IAAFの決定、CASの裁定には賛成できません。
codingalone 良いまとめをありがとうございます。過渡期って感じあるよね
ありがとうございます。陸上中距離大好き、女子陸上も大好きのヘテロ男性です。自分も10年前なら鼻で笑っていたかも知れません。今でも悩んでいます。
追記2
「これは世界に喚起を促すための闘いで、競技やスポーツの枠を超えたもの。人間の尊厳と誇りの問題で、世界に喚起を促すためにやるべきこと」