はてなキーワード: ビッグネームとは
赤松健議員は自分が「族議員」であることを理解していないんだと思う。
族議員なら、もっと、弱者のどぶ板をして、心のなかでは「無理だなー」と思っても、「貴方の気持ちわかります」って、零細クリエイターの話を聞いて、握手をして欲しい。
心のなかでは無理だなと思っても、だ。
動画に、仕事を失うのではないかと恐れているイラストレーターを呼ばなかったの、致命傷になるなと思ってる。
実際に言ってることは、そんなに間違っちゃいないのだが、浮世離れしすぎていて困っている。
ぶっちゃけて言うと、赤松健の言ってることすべてって、「メガヒットした漫画家の理論」なんですよね。
カネに困ってないメガヒッターが考えるクリエイター論で、周囲の漫画家から聞いた意見も「超メガヒット」連中の強者クリエイター理論が多すぎる。
9割以上の大半を占める、零細個人事業主のことなんか「切り捨てるような発言」を結構してしまう。
言ってる方向性は間違ってないのにだ。
インボイスの流れで押し切られた後、画像生成AI使用の理論も、全て「どんな波が来てももう稼ぎ終わった強者」の視点で冗談を言ってしまう。
ぜんぜん零細個人事業主クリエイターのことは考えてない言い方をしている。
「マクロで長期的に見ればいいだろ」って、ユーモアのつもりで言ってしまうんだよな。
って思う。
「その長期的に見ればいずれ安定する」っていうのは、歴史家か評論家の役割で、族議員は「わかります! なんとか努力します! 安心してください! 私がこの状況をなんとかします」ってとりあえず握手して言うことだよね。
AIも、神絵師以外の水飲みイラストレーターについては、今そこにある危機で、実際に仕事が減って需要がなくなっているんだよな。
「それが歴史の流れだ」「長期的視点に立っているんだ」と思っていても「言う」のは、政治家の役割ではない。
ほどほどのところで妥協点を見出して、「新しい技術との折衷案を見つけました」と言うべきところで、「日本が勝てる」とか言ってしまう。
日本が勝つことになんか興味ねーっつーの。
明後日の依頼がAIに食われて廃業するっていう状況で「日本が画像生成AI開発に勝てる」なんて言われてもうれしくもなんともない。
赤松健の政策主張は、どれもこれも言い方が浮き世離れしている。
AIについても、いずれ安定するって言ってるけれど、それを観て、あーこれハサウェイのタクシー運転手の気分だって理解した。
実際に「学がありすぎるんですよ。暇なんだねぇ、その人さぁ。暮らしって、そんな先考えている暇は無いやね。」
って思う。
AIと人間の関わりの軋轢が放置されたり、インボイス制度が織り込まれる1000年後には、おそらく多くのクリエイター(零細)は耐えられない。
だから、取材を受けたり発信したりするのは、「推進したいなら推進側じゃなくて、反対している人を呼ぶ」ことなんだよな。
AI反対してる人達を呼んで、話をさせてないで、推進側のひとたちとばかり、話ししてるでしょ。
でも、実際に投票したクリエイターの大半は、「貧乏で金もない零細」なんだよ。
それを、「いずれ安定する」とか「夢がある」とか言うのは、族議員じゃないんだよな。
https://note.com/hoshinomaki/n/n1c2fd844ed21
これ。毎日、(短編)物語1つ、詩を1つ、論考(essay)を1つ。
面白そうだけど、3種×1000個も探してらんないじゃん。今こそ集合知じゃん。よろしくお願いします。
そうしたときに気づくことは上手い人はやっぱり上手いということ。
先日も近所に新しい美術館が出来たってことで暇つぶしに行ってきたんだけど、
その展覧会はひとりの画家がメインなんだけど、同時に同時代の画家の絵も展示されてたのね。
そういう形式のときには私は展示室に入ったときにパッと全体を見渡すのね。
それで遠目から、あああれ上手いな、って感じた絵に目星をつける。
で、ゆっくりと一点ずつ絵を眺めていくわけだけど、あっあれいいな、って最初に感じた絵ってやっぱり超一流の画家のやつなんだよね。
もちろん展覧会にかかるような絵なんだからみんな一流の画家なんだけど、それでも超一流とはなんかが違うんだろうね、超一流の描いたやつはわりかし習作みたいなやつでも人の目を惹きつけるようなものを埋め込んでいる。
抽象画の私には意味の分からないチンプンカンプンなものでも他の人とピカソの描いた(たぶんピカソの中ではしょうもないやつなんだど思う)絵では魅せられるものが違う。
なんというか普通(?)の一流の画家の絵って傑作はあるけど全部が全部当たり前だけれど傑作ってわけではない。んだけど、超一流って全部が全部光ってる感じなんだよなあ。っていうのはまあビッグネームとかブランドに踊らされる哀れな消費者目線ってのは含むとは思うけれど、実感としてもあるっちゃある。
細田守が『おおかみこどもの雨と雪』や『竜とそばかすの姫』などの作品の中で「社会福祉制度の存在を無視している」「それらの社会制度は役立たずで無意味と見做している」「それらの仕事に携わる縁の下の力持ちの人たちの存在意義を軽視している」として批判されているようである。そのような細田守の特徴そのものについて争うつもりは、私には無い。
しかし、現代日本のエンターテイメント系クリエイターたちの中で、社会制度を軽視したり無視したりしている人間は、別に細田守一人ではない。そういう意味で言うならば、むしろ細田守だけが矢面に立たされて、不当に批判に晒されているようにも見える。
細田守がビッグネームになったのは高々ここ十年ぐらいの話であるが、細田がブレイクする遥か以前から長年に渡ってゴミクズみたいな作品を量産し続けてきた日本の実写ドラマ・映画では、その間ずっと、社会制度の存在意義や、名も無き縁の下の力持ち的な人々の役割を軽視し続けてきたではないか。
ゴミクズ作品揃いの日本の実写ドラマ・映画で主流として用いられてきた物語作りのフォーマットと言えば「やる気も能力も無い無能な人間たちしか存在しない学校や職場に、型破りで能力が高い主人公が現れて、独力で難題を解決する」というものである。このような物語世界における脇役や敵役は、主人公を引き立てる為に、徹底的に無知・無能・無気力であるように設定される。
こういう物語作りはラクである。しかし、主人公を取り巻く社会を構成する庶民たちに対する想像力を奪う。観客からではなく、物語を作る監督や脚本家から奪うのである。正確には、奪ってしまったと言うべきだろう。だから実写ドラマ・映画作品は、細田守作品と同じぐらい社会制度や名も無き縁の下の力持ちの存在意義を無視・軽視したものばかりである。医者とか刑事とか検察官とか銀行マンとかが主人公のドラマを観れば、よく分かるだろう。
いやたしかに日本の仏教がふにゃふにゃなのは同意なんだが、大乗仏教の歴史をざっと見ると、龍樹とか世親とかのビッグネームがいるじゃん
こいつらが説いた理屈はかなり強度がありそうに思えるから、潜在能力としてはなかなかしっかりした教理がありそうに思える
ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。
仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。
ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。
でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。
大乗仏教はプレモダンのように思えて、実はポストモダンを超克し得る可能性があるらしいんだわ
(色即是空空即是色つってるからここで言及されてる「仏教」は大乗仏教のことだわな)
こんな感じで、上座部を現代思想として捉えたとき、どういう視点を提供できるのかについてわりと気になってるんで、詳しい人いたら教えて欲しい
呼んだか?(当時エロゲオタだったやつが満面の笑みを浮かべながら
型月がヒットしたのはいくつも理由があってそれらの複合によるものだろうから一言ではとても説明できない。ただまあその「複合」を当たらずも遠からずぐらいで表現すると、「ネットに対する信頼があったから」ということになろうか。
俺自身はたしか2001年ごろにまんだらけで『月姫 完全版』を買った。なぜかというとネットで話題になってたからだ。当時はまだtwitterがなくGoogleもこれからという時代。情報の仕入れ先は主に個人ニュースサイトやエロゲレビューサイトだった。カトゆーだったかsawadaspecial.comだったか。他にもいくつかのサイトを見ていたが既に名前すら忘れたし、果たしてどこで知ったのか定かではない。ただネットで『月姫』が面白いという情報を得、当時学生だった身としては決して安くない金額を払って購入した。噂に違わず面白かった。ネットへの信頼性が増した。
他のジャンルでも同じことがあった。個人制作なのに映像がすごいらしいという情報をたよりにヨドバシまで『ほしのこえ』のDVDを買いに行ったのもそうだし、Sound Horizonの『Thanatos』をサンプルさえ聞かずにオフィシャル通販で買ったのも2chで話題になってたからだ。今ほど選択肢はなく、今ほど情報が流通していない時代にあって、それでも取り立てて情報感度が高くない平均的なオタクのところまで到達するコンテンツはおしなべて面白い。そう無邪気に信じていい時代だった。
型月に話を戻せば竹箒時代に『空の境界』を出したときは6部しか売れなかったという。最初からビッグネームだったわけじゃない。だから拾い上げたやつらがいる。それが個人ニュースサイトやらエロゲレビューサイトやらそこからさらに口コミやらで広まって葉鍵に並ぶ同人ジャンルまで成長していった。
コンテンツが人口膾炙するにはネットで語りたくなったり二次創作したくなる魅力がないといけない(こんにちにおいてオタクコンテンツの人気は≒同人人気とも言えるだろう)。そういう意味では型月の作品にそれだけの魅力があった(俺もネットでいっぱい語った)。
時代のめぐり合わせが良かった面もあるだろう。サウンドノベルから派生したビジュアルノベル(『雫』、『痕』)によって“読むエロゲ”という文化はできていたし、葉鍵の隆盛によってネットでエロゲについて語ることや、それらを題材にした同人文化もすっかり馴染み深いものになっていた。そんなコンテンツの“最低限”が低い玉石混淆の時代に月姫がブチ込まれればそりゃ話題にもなろうってもんである。型月は『Fate』で商業に移行したため同人ゲーム文化の爛熟は『東方』とか『ひぐらし』とかあの辺りによってピークを迎えるのだが。
ところでハード面の話としてパソコンの普及も個人的には見逃せないと思う。Windows95が出た頃はメーカー製PCで50万とかくだらない時代だったが、00年頃になると自作PCも敷居が高くなくなり15万~20万ぐらい出せば一式組めるようになった。ネット回線もADSLやFTTHみたいな定額かつ安価なサービスが始まっていた。今の学生がスマホを持つような気軽さはないが、それでも充分身近になった感はあったのである。俺のまわりはエロゲがやりたいからPC組んだやつ(俺)、『BM98』がやりたいから組んだやつ、『RO』がやりたいから組んだやつ、と概ねこの3つのパターンに分かれるのだが、いずれにしても(95年頃に比べれば)安価になったPC市場もそれらを後押ししたのは間違いない。
話がとっちらかった感はあるが、ざっくりまとめると…
・葉鍵を始めとした先行作品によって、エロゲを語ったり同人にしたりする文化が醸成されていた
・個人ニュースサイトやwebリングのようなハブとなるサイトがインフルエンサーとなって上記を広めた
・新規プレイヤーが入ってこれるぐらいにはPCが身近なものになった
・00年前後はPC+ネットでできること、いける場所がオタク文化の最先端な感じがあった(2ch、エロゲ、ネトゲ、テキストサイトetc…)
ちなみに俺自身は典型的な葉鍵厨で、型月にはそこまでハマらなかった。『空の境界』は講談社ノベルスを模した同人版が出たときにけっこう熱中した(腕に仏舎利を埋め込んで直死の魔眼を無効化する荒耶宗蓮とかやっぱカッコいいでしょ)けど月姫はそれなりって感じ。『歌月十夜』はついぞ未開封で終わったなあ。そんな俺でも『Fate』の盛り上がりは覚えてるよ。発売日、日本橋に買いに行ったんだけどすごかった。どこのエロゲショップだったかフロア1つまるまる『Fate』売り場になってたとかね。なんかあの頃のエロゲオタにとって最後の共通言語みたいな感じはあったなー。みんながやってみんなが語るエロゲはこれが最後だろうなっていうね、なんか祭りが終わるなーみたいな感じがね、何処かしらにあったよ。多分それは、俺の思い込みなんだろうけどさ。
図書館行けば小学生向けの本棚にさえ置いてある世界中で読まれてるスパイの図鑑「新訳スパイ・ブック」の中で、IBM産業スパイ事件の主犯として、顔写真と実名がデカデカと乗ってる
世界中の治安関係者や情報機関の基礎教育で習うほど有名なビッグネームの産業スパイは何を隠そう日本人ITエンジニアだぞ、しかも意識高い系の元祖で勝手に会社のためとか言ってIBMから機密情報パクって防諜のプロのFBIにとっ捕まって泣き顔で連行されるの新聞の一面記事にとられた、増田の元祖みたいな奴
まぁ図書館で借りてみてきてみろって、キム・フィルビーやロバート・ハンセン、ウサマビンラディンとかラムジ・ユセフとか、オクラホマ連邦ビル爆破テロとかの犯人たちみたいな歴史に名が残るレベルの極悪犯罪者の顔写真と並んで実名と顔写真入りで出てるから