はてなキーワード: パソコンの大先生とは
職歴はないけど大学のときは学祭委員として毎日企画書をつくって会議に出てプレゼンしたり色んな業者へ営業したり調整したりしてきたし
組織として働くことは分かってるつもりだし毎日めちゃくちゃググってるおかげでパソコンの大先生だから俺は偉いということで脳内で決着ついてる
20年前から自宅サーバーとか独自ドメイン使ったギルドホムペとか作ってたしMIDIでDTMっぽいこととかもできたしな
今も家事手伝いしつつ月1万で最大限楽しむためにガジェットの情報を英語圏とかから調べてきて中国や香港やシンガポールから輸入したりできてるから一般人より買い物うまいという自信によって自我を保っている
みたいなのってモヤっとするよね。
「性癖」は元々「性格」+「癖」で、特定個人や集団の行動特性を指している言葉だ。
だが「性的な趣味」を意味する短い言葉が存在しなかったため、いつからかその意味で流用されるようになった。
そこから派生したのか、「性癖に性的な意味はないよ」という誤用指摘を曲解したのか、性と無関係の趣味の話に性癖を持ち出す人が出てくるようになった。
言葉の扱い方としてこれは流石にどうなんだろうか?
たとえば単に「ハードルが高い」と言えばいいだけの場面で、「敷居が高い」と言ってしまったりすることによって起きるわけだ。
「敷居が高い」が「後ろめたい」に限定されなくなったというのは事実だ。
だからといってなんでもありになったわけじゃない。
流石に「敷居」が存在しない場面でまで使って良いものではないと思う。
一度誤用されてしまった言葉が更に誤用されることはちょくちょくある。
そもそも元の意味が分かりにくいというのもあるのだろうが、それ以上に「誤用ではありませんよ」と言われたのを「じゃあもうなんでもありでいいのかな?」と拡大解釈されることが多いんじゃないだろうか。
いや、分からんな。
小学生の頃からPCを触っていて、小中学校では明らかに同級生よりPCに詳しかったし、実際同級生からも「パソコンの大先生」と認識されていて、長い間自分のことをPCに詳しい人間だと思っていた。
でも、俺も30歳になって、同窓会とか結婚式とかで時たま同級生と会うと、動画制作の仕事してますとかですごい綺麗な動画作ってる奴とか、エンジニアでコードをバリバリ書いてます、Web制作請け負っていますとかいう奴がいて、いつの間にか俺よりも圧倒的にPCに詳しくなって、使いこなしている奴が目の前に現れ、なんだか虚しくなった。
ああ、いつの間にか俺は「パソコンの大先生」ですら無くなっていたのか、と。
子供の頃はパソコンの大先生であることは数少ない、いや唯一の俺の取り柄であったはずなのに、PCを使って価値を生み出しす側になることはなく、今も昔と相変わらず5ch(2ch)とTwitterをして、エロ動画を見てシコるだけの、まさに「何者にもなれなかった者」なんだなって。
あのノリでしかないでしょ。
単に知識と経験が溜まったことで技術力が向上した人もいたりするけど、基本的にはクラスメートとワイワイ言いながら見せ合う程度のものだろ。
Twitterや増田の書き込みも広い意味で言えば創作活動でしょ。
そこにそれぞれの美意識があるんだったら。
長い作品を完成させるのは大変だけど、それだって1000文字の増田を書き切るのは100文字のブコメを完成させることの10倍以上の難しさがあることの延長でしか無いと思うんだよな。
「最後までやりきるのが凄い」ってのは確かにあると思うし、「上手だね凄いね」ってなることは自分もあるんだけど「創作活動することそのものが凄いね」ってのは違うと思うんだよな。
生まれつき大食いの人が沢山食べるのを凄いって言われても「むしろそんだけで足りるお前らが凄いよ。地球に優しいよな」って感じるようなもんじゃね?
最近見た『江戸前エルフ』ってアニメに「エルフは寿命が長いから凄いと言われても、自分にとっては当たり前過ぎて、あんよが上手って言われてるような気持ちになるんだよな」みたいなくだりがあってさ、創作が出来る人が凄いって言われるときの感覚ってそういうパターンが多いのではと。
「むしろ消費だけして満足できる人って省エネだし創作に使う時間で色々味わえるから人生の使い方上手いよな」ぐらいな感じはあるじゃん。
なんか創作することに対して過剰に評価が高い人がいるのが驚きなんだよな。
たとえばエクセルで関数色々知ってるのを「パソコンの大先生は凄いのう」みたいに言われてるのとかあるけど、あれってむしろ「関数とか使わずに根性で全部やりきろうとするのも凄いよ」って気がするんだよな。
楽する方法考えるほうが時間かかるようなクソデータ前にしたときに淡々とそれを処理できる人ってたまにいるけど、アレはマジで凄いと思うんだよな効率化を目指さないことへの耐性みたいのは間違いなく才能だと思う。
創作って結局は「思いついちゃったから形にするしか無いみたいな強迫観念に対しての耐性が低い」ってだけな気がするんだよ。
「俺の頭の中でボンヤリと一度完成したのでもう満足です」みたいな割り切りが出来ないというか、思いついたことを短い言葉だけで伝えきれる自信がないから時間をかけて伝わりやすくしてでも相手と共有したいと考えすぎるというか。
消費メインか創作メインかみたいのは。
二次創作しない人の多くは、変な解釈とかしないで素直に読んで終われてる人が多いと思うんだけど、それって作者としても変に読者の脳内にしか無い妄想広げられながら読まれるより嬉しいって感じる人は結構いるんじゃないかなと。
だって嫌じゃん自分が作ったものに対して「でも俺はこう考えるんだよね―」みたいなことやたらと言われるのって、お前読んでる間ずっとそういう事考えながら読んでたの???みたいになるじゃん。