はてなキーワード: バリバラとは
たとえば昔流行った、ユーザ同士でお宝を奪い合うグリーの怪盗ドリランドというゲームはユーザに男女の偏りはなかったしユニセックスなデザインだったと思う。
今はクラクラとかがそういう位置づけなのかな。まああえてツムツムを女性向けとみなすならこっちは男性向けといえなくもないとは譲歩しとくけど。
そういう風にゲームには少なからずユニセックスなものがあるんだけど漫画にはなくない?なんなの?
4コマ漫画だってどちらかといえばきららなんとか以外は女性が読むものという空気があるし、コミック維新みたいな雑誌だって作品個々は男向け女向けの色合いを帯びていて、ようは個々ではユニセックスじゃない作品を雑誌レベルで偏りなく集めたってだけの話。
しかし漫画をコンテンツとして享受する単位は雑誌というよりも作品なので、それでは意味がないのだ。
女が二郎系ラーメンの店通ってたって度胸あるなとは思われるかもしれないけど変な人とは思われないじゃん?
それはラーメンそのものは本質的男女に好みの差があるようなものではない、つまりやはりユニセックスなものだから。
同じように男が裁縫嗜んでたっておかしくないし、美容師の男がいたって全然かま臭いとは言われない、むしろ技量を期待されるだけだ。
でも漫画だけは、男が女性の下着売り場に入ることぐらい不審なこととみなされている。
読んでいる漫画が、ターゲットとして想定している性別や、社会の認識からずれていると、その読んだ量に応じて、まるで性自認すら変えなければいけない度合いが上がるかのようである。そう、たとえば腐男子はホモであるか心が女であるかを常に世間から疑われているだろう。
歴女なんて言葉はあるが、花とゆめ男やハーレクイン男なんて、言葉すらない。まるで精神病院のように社会に存在すらしないことにされていると思う(NHKの番組「バリバラ」の受け売り)。
もっとも悪いのは漫画のデザインじゃなくて、あれは男性向けだ女性向けだと分類せずにはいられない読者諸君の方なのかもしれないけども。
Eテレのバリバラなんかを見ていて、障害者が人生を楽しんでいるのは素晴らしいと思うよ。
でもあの番組に出ている人達は、自分達が生きるために親や他の人達がどれだけ人生を楽しめなかったのかにはほとんど触れないよね。いつももやもやする。生まれつき障害があると、介護されてる状態が当たり前になってそれがどれだけ特別なことか分かってないんじゃないかと思う。
養護学校で、ある知的障害児が他の児童の助けを得て学習を進められたことが素晴らしいと紹介されていた。でもその助けた児童はそれのおかげで自分の時間を奪われていた。
生きているだけで素晴らしい?あーはいはいそうですね。その生きているだけを維持するために何がどれだけ犠牲になってるか。
本人が卑屈にならず堂々と介護を受けられるのが理想だと思うよ。でもそれは誰の人生も犠牲にしてない場合にのみ言えることであって、誰かの人生が犠牲になってるならやってることは奴隷を使役する主人と変わらない。
ホモソーシャル・マッチョな文化になじめず、不登校で引きこもっていた。情報探索処理能力がたりないのでオタクにもなれずにいた。
そんな中で昔フェミニズムの本を読んでちょっぴり救われたり、好きな音楽を抱きしめながらなんとか生きていた。
弱者男性論がホットエントリに盛んに上がってきているのは意識してはいるけど、丁寧に追っかける物理的、精神的な余裕もない。
一言で弱者男性といっても定義は定まっていないみたいで、結局のところ何がどうなれば多少なりとも救われるのか、一人一派なんだよね。
ソーシャルメディアでひとりひとりが個人の主張をできるようになって、それは民主的である一方、議論があまりにも拡散している。
おれは頭が悪いのでそろそろ「バリバラ」で取り上げてくれないかなと思う。
バリバラといえば、この前、LGBTQ×障碍者のことを取り上げていて、温度差が人それぞれ違うのでリスペクトしようっていうような趣旨だった。
よくわかるんだけども、それを言い出すと世界には76億通りの自己認識があるので、頭がパンクしそうになる。
弱者男性とかフェミニストとか非モテとかは音楽のジャンル分けに似ていて、これはロックだジャズだ、いや違うみたいな論争がバカバカしい一方、ジャンル分けは他者とのコミュニケーションでは便利なツールでもあってモヤる。人間の脳はまだすべての個人を個別に認識するまでは進化していない。
答え:できません。
この増田 a.k.a. id:muchonov は決定的な間違いをしています。
たとえば、僕は身体障害者ですが、「身体障害者キモイ」という人に対して、実力でその口を塞いでも免責されることはありません。また、警察に通報しても相手にされません。そして、これらが立法を通じて規制できるようにすれば、憲法違反になる可能性があります。なぜならば、この発言に「具体的な権利侵害(含む内心の静穏の権利)」や「明白かつ現在の危険」があるとは言えないからです。
これは、「オタクキモイ」でも「LGBTに生産性が無い」でも「黒人は犯罪者ばかり」でも「朝鮮人は帰れ」でも、同じです。
もちろん「〈誰かが(他者の同じ権利を侵害しない限り)自分自身として存在できる自由、本来のかたちで生存する自由〉」を尊重するべきだという主張は尤もです。しかし、それらの自由を一切侵害しない表現しか存在をゆるされない(=規制しうる)のでしょうか? そんなことはありません。たとえば、ポルノ雑誌やSNSにアップされるエロイラストの存在は、女性の自由を阻害しているかもしれません。バリバラのような、障害者のエンパワーメントのための番組が、却って羞恥心や社会への恐怖を煽る結果になってしまう人だっているかもしれません。あるいは、ピンカー研究がマイノリティの申し立ての力を削いでしまうこともあるでしょう。
増田 a.k.a. id:muchonov の見解に従えば、これらは容易に規制可能でしょう。違うと言うならば、何を規制出来て、何を規制できないかということを明確に説明しなければなりません。
さて、しかし、「社会的少数派を偏見に基づいて「嫌いだ」と口にする自由は制約される」ことはあります。たとえば、何度も事件を起こした暴力的な差別主義団体の指導者が、その集会で具体的な日時を示して、マイノリティが集住する地域の襲撃を扇動したような場合です。しかし、逆に「KKKの指導者が、集会で白頭巾被って十字架を燃やしながら、抽象的に黒人を差別する発言をした」場合は、アメリカで合法(規制は違憲)であるという連邦最高裁の判例があります。これは、有名なブランデンバーグ基準の基になった裁判です。
はっきり言いましょう、増田 a.k.a. id:muchonov は、「マイノリティを嫌いだと公言する」こと一般が、規制しうるほどのことかを証明する必要があります。もし、論旨を変更して「特に甚だしいものだけ」といった条件を付すとしても、その条件を明晰に説明しきることが必要です。なぜならば、これは「規制」、つまり「人権の制約」の話だからです。仮に、曖昧な基準で雑に人権が規制できるなら、それは特別高等警察の仕事になるでしょう。
なお、「周囲から総攻撃を食らった」ことを「社会的に制約されること」と評していますが、これは、単に個々人は当該の発言に対して批判をする自由があるというだけのことです。当然に、「社会的な制約」として、リンチによる暴力行使、逮捕監禁、威迫、契約に基づかない契約解除、不当な懲戒処分、村八分行為などを行えば、むしろその違法性・不法性が問われることになるでしょう。よって、あくまで問題は「権利の制約」を合法的に行いうるのか、という部分になります。
「どうして障害者のことをかわいそうだと思ってはダメなのですか?」
私が参加していたアクセシビリティの授業で、こう問いを発した学生がいた。
そのとき現場には衝撃が走った。問われた講師も、明確に答えられてはいなかった。確かに、なんとなくそう思ってはダメなことは知っているが、なぜだろうか。
私は障害当事者なので、密かにその言葉にショックを受け、なんとなく見下されていると感じた。そのことを悶々と考えた軌跡を忘れないうちに書いておこうと思う。
今年も24時間テレビが始まる。障害者の方がなにがしかにチャレンジし、芸能人は24時間走るらしい。毎年のことで、私のTwitterのTLには良い反応は流れてこない。当事者の間で、この番組が好きだという人はあまり見たことがない。かくいう私も好きではない。当事者でなくても、批判している人は多い。NHKでは「バリバラ」という裏番組を放送し、それが24時間テレビを揶揄したような内容で話題になった。
「障害」のことを知ってもらうという役割はあるかもしれないけど、それにしたって切り取り方があまりに一面的である、もっと理解につながる番組だったらいいのに。
私もそう思う。でもそうならない。なぜ?たぶん、それがウケるからで、視聴率が取れるから。
私が24時間テレビ良く思っていないのは、この構図をまざまざと見せつけられるからだ、と気づいた。障害者ががんばる、それを見て感動する。だけどそこに、私や私の大切な人がああならなくてよかったという感情がないと言い切れるか。私の人生はそんなにいいものじゃないけど、下には下がいる。その人たちが頑張っている!私はまだマシだ、明日から頑張ろう。そう思ってなんかいないと言い切れるか?
障害者を取り巻く「上下」の構図を「感動」というもので見せつけられている気がしてならない。もっと悪く言えば、感動のための道具で、人間扱いされていない。そういう番組が世間でウケる。
その構図を突き付けられる事件は、ここ最近頻発しているように見える。おそらくSNSの台頭がきっかけである。視聴率というオブラートにまだ包まれていた刃よりも、個人の意見という生身の刃があちらこちらに存在している。相模原障害者施設殺傷事件のときの、あのしらけた雰囲気。京アニの事件との反応の差を指摘した意見もあった。参院選での、れいわの舩後靖彦さん、木村英子さんの当選や公費負担に対して巻き起こる議論。信じられない…と思わざるを得ないツイートに何万件ものいいね。
障害者のことを人間扱いしないということが、時には感動として、かわいそうだとして、反応の差として、議論として、いいねの数として現れてくる。それは結構辛い。自分はその世界に生きていることが、恐ろしく思えてくる。エグい現実だ。結局、差別用語の禁止なんかで見た目はそれらしく変わったように見えても、障害者を積極的に排除してきた頃から根っこは何も変わっていないのじゃないか。
だけど、ちょっとした希望もある。それは、れいわのお二人が当選して、参議院の改修や制度の検討についてすごいスピードで進められていったこと。知人と、当事者がいるとあんなに早く進むんだねという話もした。現場にいると分かるが、変化というものはそんなにすぐは訪れない。前例が、予算が、人手が、時間が無いといって。その間に私の時間はどんどん減っていくのだけれど。まあそれはおいといて、変化は起こせるものなのだということを実感できたことはすごく勇気づけられた。
問いに自分なりに答えてみる。
なぜかわいそうと言ってはいけないのか?かわいそうという言葉がまずどこから来ているのか考えたほうがよい。たとえ何もやましい気持ちがないという結論になっても、その言葉は当事者を下に見る、人間として対等に扱っていませんという文脈を予想させる。それで世の中は溢れている。それが君個人の言葉として、より鋭利に変化して当事者を刺すこともある。障害を「欠落」としてみるのではなく、「異なる」部分を持つ人として見てほしい。
今治タオルがマスコミ好みのネタというけどマスコミは今治タオルの炎上を全然取り上げてないから問題なんだが。
NHKの放送も、「報道」じゃないからな。「ノーナレ」というアナウンサーのナレーションも専門家解説もないドキュメンタリー番組だからこそ、この映像を放送することができたといえる。これがニュース7とかおはよう日本とかニュースウォッチ9とかで「報道」しようとしてたら直前になって止められてたか内容は大幅にマイルドになってたと思うよ。2月の「バリバラ」での放送も、「報道」じゃなくて「福祉番組」だからなあれ。
しかもな、BuzzFeedとかねとらぼとかの有名ニュースサイトが今治タオル問題で最初に取り上げたニュース内容は「今治タオルに風評被害」という切り口だぞ。NHKが放送した会社は今治タオルの組合企業じゃないのにネット民が今治タオルだとデマ流してる!ってBFやねとらぼは記事にしたんだからな。
組合が下請けがやったと認めるに至って、奴らもそのこと記事にしたけど、記事での今治タオルへの追及具合が、今までのコンビニのフランチャイズ問題の記事や他の労働人権問題の記事と違って全然甘いの。こりゃ今後もやつらネットニュースすら深く追及することないだろな
ある時、テレビで映画「フォレストガンプ」が放映された翌日、学校でセンセイが俺に言い放ちやがった。「お前は無能なフォレストガンプだな」って。その時は腹が立ったけども、よく考えたら当たってた。そうだよな、映画じゃ主人公のフォレストガンプは知恵遅れだけど、底抜けの優しさと脚の速さで皆から愛された。少なくとも才能があった。卓球だってアメリカ代表になるくらい強かった。
あぁ、わかるよ。とにかく愛されないんだ「俺たち」は。
ちなみに、製作者はフォレスト・ガンプをどう思っていたんだろうな。結論から言うと、彼らはガンプを愛したが、知的障害者は愛していなかった。監督のロバート・ゼメキスはDVDの副音声でこう言ってる。
監督が求めたのは、自分の意思がなく、状況をただただ受けいれるだけの純粋無垢なキャラクターだった。90年代の映画にしてはちょいと古くさい知的障害者像だ。
じゃあさ、「フォレスト・ガンプの時代に現実の知的障害者たちはどうだったの?」っつー疑問が浮かぶわな。そこで調べたんだが、1950年~1990年のアメリカは知的障害者にとっても激動の時代だったことがわかった。
劇中、フォレスト・ガンプ少年はIQの低さから公立小学校への入学を拒否されかけたのだが、ママが校長にファックを決めたおかげで難を逃れた。
愛する息子を守るため、裏技に手を出すのも当然だ。当時、知的障害者は施設にぶち込むのが当たり前だった。そして、施設はひどいなんてもんじゃなかった。
1965年にウィローブロック州立学校という知的障害児の施設がリークされた。
潜入リポーターが残した記録によると、4000人しか収容できないにもかかわらず、6000人にものぼる障害児が押し込められ、服を着ていない人や、ほとんど介助されず放置状態の人など、人間が生活する環境とはとても思えない状況だった。
とにもかくにも、この時代に知的障害であると判定をされたら終わり。その先に人間の尊厳はない。
1950年代には知的障害者の親たちが施設への批判を始めたという動きもあったらしいので、ガンプのママが知っていても全然おかしくない。
ちなみに、映画では校長から特別支援学校への入学をすすめられ、ママが「そんなところでタイヤの修理方法を勉強させません」なんて言い返している。
個人的には、史実に基づいたやり取りなのかという点でちょっと疑ってる。
というのも、当時の特別支援学校には簡単には入れなかったらしいからだ。教育を受けられる障害者は全体の5人に1人程度。軽度だからほいほいと入れるのだろうか。
それに、修理工の授業なんてあったのだろうか。卒業後、施設にぶち込まれるのであればそんなもの必要ないわけで。ここは有識者のコメントを求む。
血の日曜日事件のアラバマ州が舞台でありながら公民権運動をスルーしたことで、白人礼賛の保守映画と認定されがちな本作であるが、1960年代は黒人だけでなく障害者にとっても革命的な時代だった。
1963年には脱施設化の転機である「精神病及び精神薄弱に関する大統領教書(ケネディ教書)」が発表され、
1972年には、Wyatt vs. Stickneyの訴訟で、軽度の知的障害のある人たちは入所施設に収容されるべきではないという判決が出された。
公民権運動だって知的障害者に大きな影響を与えた。アメリカの障害当事者団体の中で一番強力な権利擁護運動団体といえば「ADAPT」だ。(まあ、身体障害者向けの権利団体なんだが)
設立者のウェイド・ブランクはガンプのお膝元アラバマ州で公民権運動にかかわっており、その運動のノリでADAPTを設立したってわけだ。
個人的には、ガンプがキング牧師に会わなかったことより、ウェイド・ブランクにスカウトされてないほうが疑問なわけだ。
アメリカ全体が脱施設化に向けて動きはじめたのはいいが、「じゃあどうやって地域で暮らすの」というのが目下の問題だった。
ガンプは走りたいから走っていたが、現実の知的障害者たちはそういうわけにはいかない。
結局デモなりなんなりで、「地域で暮らしていいよね!」、「俺たちにだって権利があるよね!」と市民の了解を得るしかない。
というわけで長い年月がかかったわけだが、1990年に「ADA法(障害を持つアメリカ人法)」という決定的な法律が成立した。障害による差別を禁止する公民権法だ。ダン中尉、政府のおっぱいは限界です的な裏事情はあるものの、いよいよ連邦政府が障害者の権利を認めたのだ。
「マイレフト・フット」、「レナードの朝」、「ギルバート・グレイプ」、「フィラデルフィア」。
90年代ハリウッドでは障害を肯定的に捉える映画がたくさん作られた。フォレスト・ガンプもこの延長線上にあることは間違いない。
革命的なのは2000年代のファレリー兄弟だろうな。いよいよ障害者ご本人が登場しちゃうんだもん。
さて、冒頭のロバート・ゼメキスの話に戻る。彼は障害を肯定的に捉える映画の企画が通りやすい状況を苦々しく思っていたのかもな。
「だって俺、興味ねーし」っていう。
結局ADA法に逆行するような、意思のない愛されキャラのフォレスト・ガンプが作られたし、世間もそれに乗った。
まあ、素の「俺たち」は苦々しく思われているわけだ。
「知的障害者」だって苦々しく思われてる、それは同じだ。それでも権利を主張してきたし、いくつかは勝ち取ってきた。
今じゃグループホームなんかで暮らしながら、地域生活をエンジョイしてる知的障害者もいる。
日本の話だけど、この前バリバラに地域で子育てしてる知的障害者の夫婦が出てたぜ。ハロー・1950年代、これが2019年だ。
だから、俺は無能な「フォレスト・ガンプ」をやめて、こいつらを参考にすることにした。権利があるんだって言いつづけてやるさ。
当然のように、俺たちにはその権利があるんだ。