はてなキーワード: バランス感覚とは
そうですね、関数やなんかも、中学校のときは、 f(x)ってただ書くだけなのを、ψ(x)とかって書いたりね、それからなんか、フェファーマンとかは私の時代はかなりスターで色々出来るという
ことでしたね。オヤジは物理をしていたんですが、物理はこうなんか、バランス感覚がないと出来ないような感じがして、人文社会の方では白か黒か分かってなくても数学はこうなんか非常に美しい
ということで、なんか、あこがれみたいなもんですかね、ただ単にそれだけでやろうとしていたような感じはありますね。そういえばそうですね、法学部だと道徳をやるだけなら一つの学部を作るはずがないので
法学部でやることは難しいんじゃないかと思いますね。常識で考えたら、経済学部が難しいのに法学部が簡単ということはありえないですからね。でも私の時代の法学部では難しいことは何も教わりません
でしたね、条文の規定は技術的に難しいはずであるし、解釈で判例もこうなんか、establishとかね、数学の定理みたいに書いているので、え? 数学の組み合わせ論で、 claimって書いてあって
それがestablishされてるっていって言葉だけしか知らないので、claimと定理は何が違うのかとか言っても言葉しか教わっていないので分からないということで
ロースクールのなんですか、佐伯仁志先生とかなんでもいいんですが検察庁や司法がその辺を教えないのは存在しないからだと思いますが、まあどうでもいいんですが、誰も分からないから2ちゃんねるの
法学板にも何も書いてないようなところがあると思いますが、もう忘れたんですがこうなんか2ちゃんねるって、日本私学や歴史学などの書き込みは多いですが、数学とか近代法って運営の方から
一番糞であると言われていてくだらない書き込みしかないのがばれたんですよね、2ちゃんねるってローマン的でアホなところがありますので、単純に、出来なかったからじゃないかと思いますね
なんだかいよいよ忙しい波の前に晒されていきそうな気がする気配がするわ。
異変を感じたら引き返すの!
そう!引き返すところも無いのがこの忙しさの恐ろしいところ。
忙しいのはいいんだけど、
精神的に参るのがなんとも解せないわ。
そんなこと言ってられないけれどね。
だからなんだか
1日があっと言う間に瞬く間に瞬間で終わってしまうのよね。
何のために暮らしているのかしら?って
日々の日常で皆が疑問に思うことを思っているんだけれど。
思ったときに休みのときにやりたいリストの希望を書いていたりするんだけど、
そのリストが実行できたらヤッター!ってなるけれど、
実行できなかったらまあ出来なかったとて
なにも科すことはないんだけど、
お休みの日にそうメモっておかないとついついやること忘れちゃうのよね。
かといって
そのリストがまた山積みになったら苦になること間違いない感も否めないところが絶妙なバランス感覚をもってリストを作るの。
瞬く間に早い日常では成し遂げられないことを
まあいつかやれたらいいわねレヴェルで書き留めておく私のそう言った意識した無意識の中を意識させる。
どういうことって思うわよね?
私もよく分からないわ。
でも意識していた時にリスト書いておいて忘れて無意識にリスト見直したら
あ!これやんなきゃ!って思い出すのが無意識を意識するって事なのかしら?って
そして、
お休みの日に向けて楽しいことを想像すべく空想してから寝てください!ってのはよく言う話よね。
もー
思考実験じゃないの?って思うの。
例の御託並べよ。
なので
今日は早々にフットワーク軽くテキパキと仕事をやっつける感じでこなして早くに帰っちゃいたいぐらいよ。
そう願うわ。
うふふ。
超美味しいかと言われれば、
そうでもないけれど、
とりあえず
なにかの1日の原動力のエネルギーや栄養を作業的に取り込むって理由なので
味は二の次三の次よ。
なぜか
まあいいわ。
暖かくなってきたので
ホッツと言えどもちょっと温めの入れたてをそのまますぐに飲める程度の温度なので、
セミホッツ?そんな具合?
よく分からないけれど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「俺は崩壊3rdをやって幸せになった!」みたいな戯言(著:西尾維新)が話題になってしまったのを見て、俺はそれが『大嘘憑き』であるということを皆に伝えなければいけないという使命感に駆られてこれを書いている。
連日残業続きで死にかけの頭で書いているので文章が滅茶苦茶かも知れないが、「そんな状態であっても、誰かがやらなければいけないことをやらなければ」という俺の使命感の強さを感じ取ってほしい。
俺が単なる売れっ子嫌いのアンチではなく、警鐘を鳴らしに来た正義の使者であること、その心にフェアプレーの精神があることを示すために、まずは崩壊を褒めることにする。
これはもう否定しようがない。
信者でさえこれを批判しているらしいが、そういった「宝具スキップが出来ないのだけが玉に瑕なんだよな~~~」みたいな態度で済ませていい部分ではないと思う。
死ぬほど頑張って「謎が謎を呼び手探りで答が明らかになるナラティブ感を演出」と擁護した所で、それによって失われる真っ当な物語理解の難しさと感情移入機会損失によるマイナスが半端じゃなすぎるのは大問題だ。
これに対して物語読解順序攻略情報を参考にして◯章を読んだら漫画を◯話まで読んで……このコンテンツは◯章まで進めてからにしないとネタバレがーなんてやるのは愚の骨頂だ。
手探りで進めている感さえも失われたらこの導線のクソさはゲームとしての崩壊を意味し、つまりは完全なる死が待っている。
賢いプレイヤーが選択するべき道は唯一つ、「全てのネタバレに体当たりでぶつかり、地雷原を無敵の心で踏み抜きながら、自分のやりたいように読み進めて、全然理解できない話をクエスチョンまみれになりながら眺める」ことだけだ。
は?狂ってんのか?だがそれしか道はない。
頭がイカれている。
俺は正直聞いたことがないぞ、「この作品をちゃんと楽しむには、おまけを読むことが絶対に必要です」なんて形になってるコンテンツ。
俺の話をちゃんと聞かずに崩壊3rdを始めてしまった頭崩壊人への配慮として、俺はネタバレを極力したくないのだが……それでもこれだけは言わせてくれ、本編を進めているのに突然操作がオープンワールドっぽくなる時が来たら「第二次崩壊編」だけでいいから読め。
もともと崩壊3rdは漫画や崩壊学園を通ってないと訳分からん話を平気で続け、通っている人でさえ訳分からんであろう話の連続なのだが、それでもここを意味不明のままゲームをクリアしたらまずいだろうという部分があるわけだ。崩壊している……。
公式に日本語版はないので、中国語に堪能でないなら有志が翻訳して公式が野放しにしている謎の日本語訳を読むしかない。
このゲームには律者という「エヴァの使徒×まどマギの魔女」のような存在がいるのだが、まどマギの魔女よろしく今まで味方だったキャラが突然律者になる展開が存在する。
律者になったキャラクターがどういう状態になってしまうのかについては伏せ・・・あーーーーーーめんどくせーどうせゲーム開始1時間後には分かるんだから言うわ!
プレイアブルになる律者がいるんだよ!
まどマギは魔女になったら終わりと見せかけて劇場版で味方として戦うだろ?!
それと同じ用に、律者になったけど味方として戦う展開があるんだよ!
これかなり重要なネタバレっていうかさ、「魔女になったけどそっから理性を取り戻して一緒に戦うんだぜ?というか魔女モードが本領発揮だぜ?」なんて話をさぁ、そもそも魔法少女が魔女になることさえ知らない状態でいきなり言われたらもう頭が崩壊するだろ?
誰がどの律者になりますよーっていう絶対にネタバレしちゃいけない要素が次々にネタバレされるわけですよ。
公式が用意したチュートリアルミッションを淡々と進めていくだけでですよ。
進めようとしなくてもなんとなくカチカチしてるだけでいくらでもネタバレを踏めるんですよ。
狂ってるだろ?
そうだそのとおりだ。
信長が裏切りにあって討ち取られることを知らずに戦国時代を追いかけていいのは天正10年より前に物心がついた奴だけの権利だからな!
リアルタイムで遊んでいても崩壊しており、ゲームクリア後の世界を描いた後崩壊書が全体の1/3も進んでないうちに始まるぐらい崩壊している。
これをエピローグとしてちゃんと楽しめるのなんて、せいぜい後から入ってきた人間だけだ(とっくの昔に開放されたコンテンツを第一部終了まで鉄の心で塩漬けした艦長を除く。いるのか?そんな奴)
だが、本当にそれでいいのか?
物語の結末の先を知ったうえで、そこにつながるミッシングリンクを追いかけるというデザインを公式は考えているのではないか?
もちろん・・・NOだ!バカ公式はどうせなにも考えていませんよ(真顔でなんてこというのブローニャちゃん
FF7だってそうだったしマリオRPGもそうだったという意見は正しい。
だが、物語が一つのピークを迎える直前に、突然『斑鳩』の偽物が始まったり、『ドラッグオンドラグーン』の偽物が始まったりしたらどう思う?
スタッフの頭が崩壊しているんだろうなという感想以外の感情は漂白されてしまうのではないのか?
本編外ではあるものの編年史ブローニャ編のニセマリオの数々は熱病にうなされた時にみる夢としかいいようがなく本当にもうなんだそのこうマジでキツかったっす。
流石に1秒間に999無量大数ダメージを叩き出したりはしていないのだが初期キャラと現在の一線キャラは100倍ぐらい性能が違う。
ある時を境に猛烈なインフレを迎えたのだろうなとうっすら分かるぐらい、キャラの性能に活断層が生まれている。
なにがヤバイって作中における超重要キャラであるはずの空の律者が今の基準では絶望的に弱すぎて、なんでコイツこんなに調子こいてるんだろう……と不思議になってしまうことだ。
ゲームというのは物語をコントローラー越しに追体験する遊びである以上、物語上で強いキャラは強くあるべきだし、弱いキャラは弱くあるべきだ。
多少の調整ミスはあっても仕方がないが、作中でそれなりにチャンチャンバラバラしてた同士が全くもって比べるべくもないほどに性能差があっては流石に不味いと感じるわけだよ。
まあね、キアナちゃんの精神的な成長をキャラ性能のインフレを通して感じ取らせてくれようという公式の域な計らいであると擁護することは可能ではあるんだけどね。
駄目だ……崩壊エネルギーが溜まってきて俺の頭も崩壊してきた。なぜ俺はこんなクソゲーを擁護しているんだ。
ぶっちゃけキャラ性能に差がありすぎるって以前に、アクション要素やコマンド入力があると言っても基本的にはお手軽本格アクションスマホRPGの域を出てないわけで、ゲーム性あるかって言われるとかなり微妙なんすよ。
強いキャラは強くて弱いキャラは弱いが明白な古のバシーンバシーンポチポチゲーと大差ねーだろと言いたくなる瞬間が多すぎるわけです。
ストーリーモードでお試しキャラ触ってるときなんて本当にもうキャラに性能差がありすぎてビックリするというか、ただ連打してればいくらでも勝てるキャラがいる一方でちゃんと回避しないとザコにもボッコボコにされるキャラがいるバランス感覚どうなってんねん。
ほんまにな、このゲームは強いキャラ使ってバシーンバシーンする以外に正解がないねん。
強いキャラ使って敵をボコってる時のテンポを基準に作られているからなんか弱いキャラ使って遊んでるときは妙に敵が固くてモッサリ感がパナい。
物語自体はまあそれなりだと思うが、ゲームとして面白いかって言われるとぶっちゃけまあ無料だから遊んでいるがーの域を出てないと思う。
美少女ばかりだしスカートひらひらしてるしで、太もものあたりが非常にえちえちなことによって男脳から快楽物質がチョロチョロ出てくるので気づいたら遊んじゃう感じのポルノでしかないよこんなの。
90年代の空気を残したまま現代的なオープンワールドになりつつミニゲーム盛りだくさんの原作を膨らませて
90年代の雰囲気を現代のリアルなグラフィックでやるのは明らかに変なんだけど、その奇妙な味が個性的な魅力になっている
フォトリアルなグラフィックから必然的に生じるコスプレ感をギャグとして見せるバランス感覚が素晴らしい
カッコつけるだけじゃダメで、ゲームならではのユーモアに落とし込むのが正解だったんだよね
とにかくボリュームと作り込みが異常で欧米のオープンワールドに全然負けてない
大規模なAAAゲームでは日本のメーカーも全然負けてなくて、エルデンリングやティアキンは言うに及ばず龍が如く8もすごいし
3つに共通
・親しみを感じるが唯一無二でもあるビジュアル
2作に共通
・協力要素あり
なるほど。
今のゲームはネット環境が前提であるとでもほざくつもりだったが、よく考えたらブルアカもパルワールドもソロクリア可能なんだよな。
ぶっちゃけパルワールドもマルチがメインってほどではなく、ソロの延長としてマルチがある感じだな(ARKと比べてサクサクだから皆で協力しないと何も始まらんって状態じゃないのがデカイ)。
ビジュアルでまずプレイヤーを惹きつけられないと何も始まらないってのは間違いない要素だろうな。
どこかで見たことがあるようなビジュアルでは似たようなゲームに埋もれて終わりだ。
ゼルダが毎回チマチマちょっとずつデザインを変えるのもユーザーに飽きられたら終わりだと思っているのだろう。
変にビジュアルが毎回一緒だとユーザーに新しい体験をさせようとしているうちに変な方向にズレてくか、ユーザーがガチで飽きて終わりだからなあ。
映画が3作目ぐらいからおかしなことになりがちなのも、ユーザーを飽きさせない工夫が迷走した結果だろうな。
だからといって全く真新しいものが来るとユーザーの警戒心が高まりすぎるので、どこか既存の物に近い感じにする。
そうすることで個々人の頭の中にあるクラウド的な所に保存されたイメージでどういうゲームなのかがキャプ画像を見るだけで想像もできて相乗効果だ。
たとえば、パルワールドはコミカルな雰囲気でえぐいことをするというゲーム性と絵柄はマッチしている。
全部アクションRPGってのも見逃せないな。
コマンドポチポチ型のRPGはいい加減飽きられてきてるんだろう。
客を熱中させたいなら画面にずっと釘付けにさせた方がいいってことだ。
プレイヤースキルの要求が低いゲームは段々とダレてくるのもあるな。
だからといって難易度が高すぎるとプレイヤーが絞られすぎるのでアクションオンリーではなくRPGにする。
遊ぶ側が自然と自分のレベルに合わせた進行度で遊べるように勝手に調整されていくのがアクションRPGの魅力なんだろうな。
上手くなれば早解きが出来るし、下手くそでもいつかはクリア出来る。
でもこれをちゃんとやるならゲームバランスの調整は難しくなる。
正直この辺は運も絡むかな。
これは実にシンプルで爽快だ。
敵を全部倒せ。はい終わり。
何よりこれは現代人に未だに組み込まれっぱなしの狩猟本能を適度に解消してくれる。
敵を殺して問題解決というシンプルな世界を現代人は求めているんだなあ。
一見すると暴力が支配する世界に見えるが、やってみると意外と牧歌的な部分もある。
だけどやっぱこの世界は暴力が全てを解決するんやっていう割り切りがある。
その割り切りの元でエグいことが色々起きていて、そのエグさを眺めてプレイヤーは安全の愉悦に浸ったり可愛そうな被害者を笑ってたりするわけだな。
そうしてリセットされた意識に再び暴力を叩き込むことで新鮮な脳内物質が出てくるわけだ。
なにより重要だと思うのが、結局のところソロでクリア出来るのかってことだ。
ゼルダはほぼ完全にソロゲーだが、ブルアカはソーシャルなゲームだし、パルはオンラインなゲームだ。
もしここで「このゲームは4人用なんだ。でもネットで友達が見つかるから大丈夫だよ^^」と言われたら、ビビって遊ばない引きこもりが日本には大勢いる。
ネットで出会う仲間たちはクソの役にも立たない初心者だったり、説明を聞かない文盲、挙げ句99999ダメージを無限に出し続けるチーターだったりの可能性がワンサカだ。
こんな状態ではクリアしたときにあるのは達成感よりもクソ味方を引かなかったことへの安堵感だろう。
まあそれはそれで独特の快感があるが、万人向けじゃない。
自分のペースで、自分の手で、ラスボスを手に掛けるっていう体験がやっぱ求められているんだろうな。
こうしてアレコレ言ってみたが、なんかこうマジで「売れているものにありがちな要素」って感じだな。
振り返ってしまうと売れるべくしてく売れているものが売れたって感じは強い。
そりゃそうだ。
刺さる人にはめっちゃ刺さるとしても、その刺さる範囲が狭いほどに売れなくなる。
スレスパはあのジャンルにおいて売れる要素の塊だが、それでもあのジャンル自体が刺さらない人が大勢いる。
アクション要素がないなら遊ばないとか、やるたびにリセットじゃ嫌だとか、そもそもカードゲームはルールがごちゃごちゃしてて嫌だとか、ストーリーが重厚じゃないと嫌だとか、売れなくなる要素が目白押しだ。
ストーリー的なゲームをアーケード的にぶつ切りで遊ぶのは不可能ではないが、アーケード的なゲームをストーリー的に遊ぶのはそもそもが無理という構造上の代替不可能性なんかもこの辺に絡んでくる。
たとえば、ブルアカはエッチな見た目だから皆の前では遊べないけど、スマホゲーだから一人でこっそりは遊べるし、人前に見せて自慢したいならスクショを裏垢で公開すればいいわけで、ユーザー側の自由裁量で好きな遊び方が選べるゲームほど最大公約数的な条件下で有利って話だ。
こっからが、この話のオチなんだが、そもそもゲームの良し悪しを売れた売れてないで測るのはやっぱ無理なんじゃねえかな。
狭い範囲にしか刺さらないけど、俺には滅茶苦茶刺さったから神ゲーだって作品が皆にもいくつかあると思うわけだ。
それこそ、outer wildsやLoLを人類全員が遊ぶべきだって主張するやつがいたら、そいつが今後変なイデオロギーに染まる前に人格矯正されて欲しいと願ってしまうだろ?
レビューの点数でさえそれぞれの好き嫌いが延々と喧嘩してるわけだ。
まあでも強いて言うなら「一見してイメージした内容から少しでもズレがないゲームであって欲しい」と思ってしまうよ。
そういう意味じゃ、ゼルダの最新作も、透明感のある学園銃撃スマホゲームも、ポ◯モンっぽい見た目のマイクラ風ARKも、ちゃんと見た目や看板やPVや広告通りのゲームになってる。
昔は親しみやすいキャラで売っていたのに、今となってはアンカーマンなる肩書で小難しい顔して「大石の視点」と称し誰もが思うような月並なコメントを流している。
一方で新型コロナワクチン関係では明らかにデメリットを強調した報道演出となっており、事実を報道しているという体での事実の取捨選択にバランス感覚は乏しい。
すっかりいわゆる反ワクチン界隈に祀り上げられる人間となってしまい、彼のコーナーに出てくる人間もその界隈が目立つ。
彼のコーナーの宣伝文句である「物事の核心に迫る」とはなんだったのかと思わされる。
段々と上記の傾向が気になってきて、現在はこの人の顔や声、コーナーに当たるとチャンネルを変えるようになってしまった。
毒にも薬にもならないコメントだけならまだしも、特定の方向にアンカリングを試みるアンカーマンは情報番組の顔としてはひたすらに危うい。どうしてああなってしまったのだろう。
PV見たんだけど、
(YT Music だとフルPV見れる https://music.youtube.com/watch?v=0vXpw_RXcgA&si=N5sIez9xVbtfvtfa )
なまらめんこいギャル言うタイトルなのに、徹底的にオーイシとリアルアキバボーイズの面々がひたすらダンスというPVなんだけど
オーイシのリアルアキバボーイズの面々の、絶妙のバランス感覚でずらしてあるダンスとか(ダンスズレてるのに所々キッチリ合わせてるあたり手の込んだ手抜き案件)
https://www.youtube.com/watch?v=OPf0YbXqDm0
アルペンのアレとか
好きすぎる。何この感情。
おしごとがんばります
男も女も、類似性で仲間を形成する。男の場合、概ね以下のカテゴリになる。
1.スポーツが出来る奴
2.ガリ勉
4.無能
5.何考えてるかわからん奴
スポーツ、ガリ勉、オタク、無能の順番でモテる。高知能集団だと社会で活躍できる要素がモテに反映されてガリ勉の方がモテることもある。
上位の序列と親しいことは喜びで、
下位の序列と親しいことは汚点となる。
この軸を基本に、暴力性が掛け算される。暴力性とは、態度の大きさとそれを正当化する筋力、身長、武術、人脈を示す。人脈とは、主に不良コミュニティとの交わりを指す。
暴力性が高いと、序列が上がる。序列が上がる理由は、モテるからだ。
なぜ母親が男の育てをしてはいけないかと言うと、母親には暴力性の概念がわからないから。
将来のために沢山お勉強してほしい、優しい子に育ってほしい。
これは同性に対するベストプラクティスであり、男子学生にとっては舐められ要素だ。
小さいうちに同性から舐められると、学校での活動が大きく制限される。自分の意見を伝えて、受け入れられる確率が下がる。
学校の活動で成功体験を得るためには、意見を通すための裏打ち、つまりモテ要素、スポーツ、身長、筋力を養って行く必要がある。
お母さん方は、自分が若い頃に感じたトキメキ、強くて怖い男に対する妙な安心感や頼りがい、
これを思い出すべきだな。
そして、息子にもそういった要素がないと、
クラスの端っこで勉強して、話も面白くない、とにかく関わる価値のないのない陰キャ扱いされてしまう。
そこを考えてあげた方がいいな。
ワイも最初これがわかってなかった。らだが息子の学校の男子らの喧嘩や力関係を大概試合や行事の観察で理解した。男社会は力が支配する。力がなければダメだ。
それは父親がルールを教えなければならない。女にはわからぬ世界だよ。
だからワイは一歩引いている。母やが細かく世話を焼くのもダメだ
男社会のルールを知らないから。うちの婆さんはシンママだったから叔父さんも苦労したらしい。女所帯は近所からも舐められて石を投げられバカにされまくった。
単に力って言うとあんまり面白くないんですどね。男社会には男社会のエレガンスもあるんですよ。
紳士協定みたいのがある。
男は敵にも加減する。敵も友になる。
女はそれがない。手心を加えない。加減がわからないから叩きのめしてしまう。
自分はただの会社員だが、なぜだか芸人さんほどカッコいい職業はないと思っている。
そんな自分にとって、M1は日本一の芸人を決める大会で、「勝って人生変えてくれ!」と思いながら熱心に見ていた。
ただ、今年のM1は見ていて色々と考えさせられることがあった。
それは、「M1も結局、資本主義的なゲームの1つなのではないか」ということだ。ただし、これはネガティブな意味ではない。
こう思うきっかけになったのは「令和ロマン」と「さや香」の戦い方だ。
令和ロマンの戦い方は、本人談にもあるように非常に戦略的。ライバルたちの動向はもちろん、抽選順まで分析し尽くした戦い方は、まるでM1という競技のルールを完全にハックしているようだった。
その姿を見ている時にふと思い出したのが、なにかの本に書かれていた「資本主義社会において、目標は必ずハックされる」という言葉だった。(うろ覚えなので、詳細は異なるかもしれないが…)
実際この社会において、企業は自社の成長のため、トレンドを必死で探したり、どうにか自社商品をバズらせようと苦心したりする。そこで働く社員たちは、「本当にやりたかったことってなんだったっけ…?」とか思いながら、目標達成というゲームの攻略にジタバタしているものだ。かくいう自分もそう。
そしてM1は、会場にいるお客さんの笑いの量がかなり審査に影響する。少なくとも、「全然ウケてないのに審査員評価で逆転優勝」なんてことはまずない。
そう考えると、「大衆のニーズにいかにウケるか」という点で、M1も資本主義的なゲームの一つなんじゃないかと思うのだ。だからこそ芸人さんも、「自分のやりたいネタ」と「M1用の戦略」の中で、苦心するんじゃないだろうか。
そんな中、令和ロマンの「M1に最適化された戦略を緻密に練って勝ち抜くスタイル」は、まるでクールな敏腕サラリーマンを見ているかのようだった。
ただ令和ロマンの凄いところは、その緻密さを「自らの勝利」だけでなく、「M1というゲームをどう盛り上げるか」というレベルまで俯瞰して考えているところだ。
「勝ち組になるのが全て」と盲信するかつての《モーレツサラリーマン》的価値観とは相反し、ゲーム冷静にメタ認知し、かつ楽しんでしまうその姿は、まさに「令和っぽい」魅力があった。
そして「令和っぽさ」といえば、もう一組のさや香もすごく興味深かった。なんせ、誰もが勝つことを目指すM1で、「勝たなくていいから好きなことやるぜ」という価値観を提示したからだ。
しかもさや香が凄いのは、決勝に連続で勝ち上がれるくらいの戦略家ではあるというところ。
「好きなことして生きていく」的価値観は平成から台頭しているが、だからといってハナから全くニーズを考えずにいると、そもそも食えやしない。「日の目を見れるくらいの戦略は現実的に持っておき、最後は自分のやりたいことを優先する」という絶妙なバランス感覚が、とても現代的だと思ったのだ。
つまり何が言いたいかというと、一見勝つことが全てに見える資本主義的なゲームでも、ゲームをメタ的にハックして楽しんでしまう「令和ロマン的スタイル」や、ある程度計算しつつやりたいことを優先する「さや香的スタイル」で、自分らしく乗り切れるんじゃないか、ということだ。
ちょっと前にM1の価値観が固まってしまうことに「提言」して炎上した芸人さんがいたが、YouTubeのような全く従来と異なるルートを極めることも、自分は立派だと思っている。
それは「ウケるかウケないか」という資本主義的なゲームの中で、それぞれがもがく姿に勇気づけられるからかもしれない…そんなことを思った、今年のM1だった。