はてなキーワード: バケモノとは
俺の中のバケモノなんだよもう
以前なら「誰か早く近代麻雀で書くんだ!」とか言ったりもしたのだろうが、
今年は麻雀漫画の歴史を総括する名著「麻雀漫画50年史」が発行されており、そこに全てが詰まっている。
しかし、500ページ超という大ボリュームとは言え定価2640円の本を誰もが気軽に読めているわけでもないだろうから、
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近代麻雀初期の重要作品は、明らかにこれ。なぜそんなにヒットしたのかは現代の感覚で判断するのは難しいが、大ヒットしたのはまぎれもない事実。経営危機に陥っていた竹書房が、本作の単行本をいきなり30万部刷るという大博打に出て勝利したことで、以降に続く全ての近代麻雀作品を時空を超越して救ったという逸話も持つ。
これは満場一致になると信じている。『麻雀漫画50年史』においても麻雀漫画史で最も重要な漫画家として紹介されている片山まさゆきの近代麻雀デビュー作。泥臭い麻雀劇画の世界のイメージを一気に明るくポップなものに変えて、麻雀漫画というジャンル全体の流れをも変えた。『ノーマーク爆牌党』などなど他にも入れたい作品が多々あるが、ここが原点ではあるし、一人一作ということで。
この時代の作品になるとリアルタイムで読んでいたわけではないので歴史的評価を語る形になるのだが、まだ麻雀漫画というジャンルが下に見られていた80年代前半に、マイナージャンルでもしっかりと個性と実力を発揮して、後によりメジャーなジャンルで大ヒット作を作るための第一歩にするという、福本伸行・西原理恵子・せきやてつじ・本そういち(須本壮一)などの、近年にも通じる流れはこの作品から始まった気がする。
★3/4(ほんまりう)
麻雀漫画という題材に真摯に向き合い、当時の新しい戦術を積極的に作品に取り入れたり、麻雀は4人でやるゲームであることを活かした「立体的な闘牌」を意識して、それを実現するため「闘牌原作」というシステムを確立したことが本作を最も重要と位置づけるべき点だろう。『麻雀漫画50年史』曰く、「麻雀に詳しい作家は、このシステムが確立していなくとも傑作を書いただろう。だが、そんな作家がそう多くいるわけではない以上、彼らのみで誌面を埋めることは不可能だ。闘牌原作システムが確立していなければ、誌面全体のレベルが史実よりも下がり、また『哭きの竜』のような「麻雀に詳しくない漫画家の手による傑作」は生まれなかっただろうと思われる。そういった意味では、片山作品をも凌ぎ、本作こそが80年代麻雀漫画で最も重要な作品であるのかもしれない」。
前述の通り、闘牌原作システムによって麻雀に詳しくない漫画家の手による傑作。「あンた背中が煤けてるぜ」という現代でもなお受け継がれる決めゼリフを生み出し、麻雀漫画というジャンル全体のイメージの何割かを本作が数十年に渡って背負い続けることとなる。
★mahjongまんが王(喜国雅彦)
筆者の年代的に本作のパロディはあまりハマってはおらず、個人的に大好きなのは『3年B組一八先生』の方なのだが、あの「有名作を麻雀漫画として堂々とパロディする」という手法の原点は明確にここであり、より重要度の高い作品として本作を選びたい。
言わずとしれた超超超有名作。ブレイクしたのは『天 天和通りの快男児』だが、連載期間の長さ=世間への影響力の大きさや、世界観やキャラクターを共有した「スピンオフ」という手法が麻雀漫画というジャンルとビッタリ合ったことで後世に与えた影響はあまりにも大きいだろうということでこちらで。
麻雀というゲームをハックした「全自動卓天和」という技術を巡る駆け引きを行う、今なお残る名作。運だの流れだのとは別なルートで麻雀の「答え」を見つけ出したことで、わずか全2巻にして、麻雀というゲームを題材にした作品の1つの到達点へと辿り着いた作品と言えるであろう。
★兎-野性の闘牌-(伊藤誠)
高校生代打ち集団ZOOの個性豊かなキャラクター作りやシュッとした絵柄、そしてキャラクター固有の能力を活かしたいわゆる「能力麻雀」というジャンルは、90年代から00年代にかけて福本作品と並ぶほどの人気を博していた。本作で広まった能力麻雀というジャンルが後に他誌で生まれる「咲-Saki-」にも大きな影響を与えていたであろうことは想像に難くなく、「咲-Saki-」シリーズの超絶大ヒットによって、麻雀漫画とはそういうものだと思われるくらいにはジャンルを超えて広く飛び出すこととなる。
御無礼。「無敵の主人公」「高レート麻雀」などの麻雀漫画らしい要素を、高い技術で異様に読みやすいオムニバス形式にしたことで、25年以上ずっと新鮮な気持ちで生み出し続けているバケモノ作品。
<次点>
・あぶれもん(来賀友志+嶺岸信明) 人によっては、こっちを10選にいれる人も多いとは思う。筆頭候補。
・まあじゃんほうろうき(西原理恵子) 人生切り売り形の麻雀漫画は全て本作の影響下にあると言ってもいいのかもしれない。
・ショーイチ(神田たけ志) 桜井章一は麻雀史上最も重要な人物10選には入るのだろうが。
・ムダヅモ無き改革(大和田秀樹) おそらく00年代以降で最大のヒット作だが、作者の個性と麻雀漫画というジャンルが噛み合った「だけ」であるのもまた事実か。
最近の作品が無い(それどころか2000年代開始作品ですら無い)のは寂しいが、最近の近代麻雀作品が「史上最も重要」と謳えるかと言うと難しい。
知っている人も多いと思うが
ヤバかったので報告する。
プロ棋士達ですら負かされることもある。
そんな魔窟に巣食うバケモノ共を生配信をしながら倒してみせるという香川女流。
「こんな可愛らしい声をした、棋力なんてたかが知れてるアイドルくずれの女流棋士なんかに勝てるわけないだろ」
そう思っていた。
そうではなかった。
圧倒的な棋力と、
華麗な指し回し。
序盤、中盤、終盤。
隙がない進行のまま対局は進み、
どんどん相手を追い詰める。
どんどんと、
どんどんと、
追い詰める。
その瞬間、
ファンサービスをしていた、
それは相手玉の詰みを探す瞬間。
相手の命を奪う。
そのほんの一瞬。
彼女は盤上を、大地を見渡す鷹のような目で睨め付けていた。
https://www.youtube.com/live/lMmGyw-4yUQ?si=nL_60_taygoPcAS9
恐ろしかった。
それは俺が想像していたアイドルくずれのかわいらしい女の目ではなかった。
「吹けば飛ぶよな将棋の駒に命を賭けて50年」
そんな目をしていた。
メンバーシップ入った。
しかし化け物が多くなる風土とヘイトビジネスが噛み合ってて善人は大体黙るから存在感ないだけ
日本は男尊女卑に限らず、ハラスメントいじめ性犯罪なんでもバケモノの処分ルートが甘いのでバケモノが処分されずに跋扈してる
バケモノに甘いのでバケモノも誤学習を繰り返してて更生しないし
海外と比較するとグレたヤンキーがおとなしいから犯罪率に反映されてなくて分かりにくいけど、一般人層の凶暴さとバケモノ率めちゃくちゃ高いよ
差別やヘイトで金を稼ぐことへの規制もないからネットはヘイトビジネスで汚染されまくり
colabo訴訟も数百万敗訴したところで、暇空はその倍以上稼いでるしな
絵師界隈は反AI教も同時に信仰しているという激ヤバ人種なんよな
表現の自由戦士ですら暇を支持しても反AIにはならなかったのに、絵師界隈の知的レベルの低さはガチで底が抜けてる
今までは弱男向けに美少女イラストを提供する事でSNSで意味不明なチヤホヤと特権が与えられてた絵師だが
生成AIの登場でお絵かきというスキルの価値が暴落し、「無断学習禁止!」「絵柄はアイデンティティ!」とパニックを起こしながら
手当たり次第放火して暇と反AI教を盲信するバケモノの集まりになってしまった
オタクさん、陰謀論とか根拠が不明瞭な主張でも自分に都合が良ければ真実扱いするし、それに基づいてよくわからん人間を神格化したり適当な根拠をカジュアルに捏造悪癖があるんだよな
しかも身内志向の体育会系の腐った部分のノリがあるから、外部から墓指摘をまともに受け入れない
その癖他人には陰謀論やら妄想乙ってレッテルを貼り攻撃するし、気にいらない専門家の主張なんかは「やつは本当の専門家ではない」とか言い出す
もちろん間違っててもその責任は取らないし反省もしない。なんなら「世間ではこう言われてるが実際は」と精神的勝利を宣言する
その悪い部分に目をつけて商売してるのが山田太郎なんかの表現の自由戦士とかネット論客系の人達だったけど、無責任断言妄想で他人を吊し上げるという暇空というバケモノ級の大物が出てネットの揶揄で収まらなくなった感がある
ぶっちゃけ自己肯定感低いと言ってる奴って、テメーで勝手に始めた実力主義に自分が追いついてないだけの奴が多くねえか?
要素A低人権意識「無能は死ぬべきだ!姥捨山は正しい!ナマポと年金ジジババは今すぐ死ぬべきだ!犯罪者も全員死刑だ!生み出すプラスよりマイナスがデカイやつは全部死ね!」
要素B低自己評価「俺は凄くない!俺の求める生きていい人間のラインに俺は到達していない!俺と同い年でもっと結果を出している奴が多すぎる!人生を出生ガチャからやりなおしてえ!」
自己否定モンスター「俺は無能だ!つまり俺は死ぬべきだ!俺以下の奴もみんな死ぬべきだ!どの面下げて生きてるんだこの無能ども!全員殺す!殺してから死ぬ!いや今すぐ俺だけでも死ぬ!」
この状況に対して自己肯定感低すぎて病んでると言ってる奴の多くが要素B低自己評価の方を解決しようとする。
ここが間違ってるように思えてならない。
そうじゃなくて要素A低人権意識の方を解決するべきなんじゃないのか?
どんなに有能になった所で事故にあったら一気に無能になるかも知れないわけで、それによって「俺は死ぬべきカスになった!死ななければ!」とやっていたり、それを先回りして「この程度ではちょっとしたことで死ぬべきカスになってしまうーーーー!!!!」とテンパって壊れたりもするだろ。
だが人権意識の方を変えていけば自分がどんなにカスになっても「俺はカスだが、カスであることが死ぬべきであるとは違う!俺は生きていいんだ!有能ではなくても!」と明るく過ごすことは出来るだろ。
やはり問題は「自分の評価が低い」ということではなく、「評価の高くない人間は死ぬべき(とまでは言わずとも反省して粛々と背中を丸めて申し訳無さそうに生きるべき)だと思っている」って所にこそある気がしてならないんだよな。
それもこれも「自己肯定感」っていう言葉が錯覚を起こしていると思うんだ。