はてなキーワード: バケツとは
「増田くんお風呂入ってる~~~臭いからキレイにしてあげるね~~~(バケツの水バシャー」
みたいなのが小中学校の教室で繰り広げられることがあったじゃないですか?
まあ、あの頃「コレ」をやられて傷ついた側だった僕たちは、今度はインターネットで「コレ」をやる側に回ってたりするわけですが。
鳥トマト先生の作風って究極的には「コレ」だと思うんですよね。
特定の何かを平気な顔して嘲笑い、自分たちの短絡的な笑いの種にして弄ぶ。
ただこれが純粋に悪意と嘲笑だけだと流石に自分の中の「良心回路」みたいのがピリピリ痛むわけで。
だからそこにちょっと正義感みたいのを加えることで大義名分の力でイジメ行為の臭みを取ろうとするわけです。
一時期やたら流行ったら韓国人への攻撃だったり、「フェミニストを名乗る人たち」がなんでも性加害扱いするのだったり。
鳥トマト先生はその路線を極めることで現代日本において一定数の太い読者を獲得するに至っています。
特定の「disっても許されそうななにか」を見定め、それを面白おかしく嘲笑することで楽しい時間を生み出す。
イジメっ子の時間の潰し方を漫画の中でやってみせるわけですね。
別にそれが悪いとは思いません。
だって僕らはさんざんインターネットでそれをやってきたし、そういうコンテンツはインターネットの外に置いても大好きです。
政治家をもしたキャラクターが悪し様に描かれる展開を見て楽しくキャッキャッして過ごしてきたわけですからね今日までもこれからも。
テコンダー朴みたいな露骨に特定の集団をコケにしているような漫画でやっぱり楽しくなっちゃうんですから。
でもね、そういう作品から逆流して「でも増田って本当に臭すぎるからさ、マジで不登校にしたほうが学校のためなんじゃないかな……」みたいなヒートアップの仕方をするのだけはやめてほしいんですよ。
イジメコンテンツのために振り上げた正義感を暴走させて、現実のものとして正義のもとにアレコレパンチするのを始めるのは危険すぎる。
鳥トマト先生の良くない所は、「これはあくまで漫画の中で作られたサンドバックですよ。現実の人たちを同じようにサンドバッグにしちゃダメ🙅」ってちゃんと言わない所。
それをやらずに毎回そのまま「今回のサンドバッグも気持ちよかったね~~~こういう奴ら皆嫌いでしょ~~~???イエーーーーーーイ!!!!」で終わらせちゃう所。
だから毎回コメント欄とかで「でもマジで田舎の因習、都会の軽薄さ、日本の悪しき風潮みたいのって滅びるべきだよね。ウンウン」みたいにマジメに語ろうとしちゃう人たちが出て変な流れになる。
そこまでする話じゃないでしょ。
「増田くんは臭いからキレイにしてあげようぜ~~~」は単なる『イジメとして楽しむための大義名分』であって、『真剣に取り組むべき僕らの課題』じゃないんだよ。
donovantree プールに直接オシッコするのと一旦バケツにオシッコしてそれをプールの水で薄めて捨てるのとどっちが汚い?って議論。どっちにしても汚いよと思うのだが
(自己顕示欲が強いアホなのでID省略)id:donovantree のコメントがまさに増田の言うこれだろうな→『いくら希釈しようが「希釈なし、ALPS処理直後の水」というものが希釈水のうちに概念として残っている』
murlock id:donovantree この場合最初のプールにはすでにおしっこが十分混じっているんだよね?
masudasman 元々の海に放射性物質は含まれている(もしかしたら処理水よりも?)ので、id:donovantree 氏の伝で言うと海がそもそもおしっこ水なんだよね、我々はおしっこの中で平気で泳いでいる。ばっちぃw
cha-hanmen donovantree おしっこした川の河口で泳ぐのと、おしっこを200tの水で薄めたものを少しずつ排出した川の河口で泳ぐのは印象全く違うと思わない?プールとバケツレベルだったら同感です。
fishma 全方位から殴られるid:donovantreeに笑う
本人の応答がまたダサくていい。
期待の新人
あえて失礼してるに決まっているのに何を言ってるんだ。
なぜこちらがIDコールを飛ばそうとしていると思ってたんだろ。
恋だの愛だのがわからない。増田はバツイチであるが、元配偶者に対して愛情を抱いていると思うことはあった。愛情というのは、他の友人と比較して優遇したいという気持ちが一番近いものだった。元配偶者は自分との関係を総括して、穴の空いたバケツに水を注ぎ続けるようなものだったと言った。
元々他者の感情が分からなかった。早々に自分には分からないが、他者はどうやらわかるみたいだということを察し、小説や映画、漫画を読み、見漁った。自分は一人で過ごす時間が心地良いが、それが過ぎると他者は寂しく感じるということを理解した。愛情という友情の上位互換のような感情……もしかしたら友情とはまた違う感情なのかもしれないが……があるということもわかった。よくわからないけれども、ジェイン・オースティンだって愛情を主軸に物語を書いている。物語の良さはわかるし、愛は尊い感情なのだろうし、いつか理解できればいいなと思っていた。
結局自分事としては理解できなかった。好きという気持ちは他の友人と比べてでしか言い表せなかった。これを表明するのは、おそらく良くないことなのだろうと思ってそのようには言ったことはなかったが。元配偶者のことは大事に思っていたが、友人を大事に思う気持ちとの違いが自分には説明できなかった。離婚後に交際した人間が浮気をしたが、一般的には悲しみを覚えるのだろうけれども自分には交際に係る約束を違えたことへの怒りしかわかなかった。
わかっていたことではあるけれど、自分は欠落した人間なのだと思い知った。本当は恋人の心が離れたことに対して悲しんだり怒ったりするものなんだろうが、自分はどうだ、恋人の行為に対して怒りを覚えるだけだ。むしろ欠落した人間によくここまで付き合ってくれたものだと思うべきかもしれない。
そこで訊きたいのですが、恋とはどんなものなのでしょうか?幸いにも友情は感じることができるが、愛情がわからない。物語の中の愛情は絶対的なものに見えるが、自分は友情の中で比較することでしか情を感知できない。
本当にマジで全然わからん。怪獣のバラードを聞くと、他人事ではないと強く思う。人を愛したい、愛をわかりたいという気持ちは確かに自分の中にある。
共感覚というものがあるが、それそのものを体感せずともそういった感じ方があるんだなってことは知識として知ってはいる人って多いと思うが、自分にとっては恋愛感情がそういったものであり、周囲の人間は概ねみんなわかっていて、だから他者もそうであるという前提で話してくることがとてもしんどい。
昨日深夜テンションで一気に書いて真夜中に公開して、朝おきたら1つしかブコメついてなくて失敗したなーと思ったけど、今みたらなんかホッテントリにあがっててびっくり。ありがとう。
追記ここまで
タイトルに【追記あり】っていれたら元タイトルが省略されちゃうので外して元にもどしました
悪い予想の通りサウナーが列挙している
中に入っても徒党を組んで行動するからウザくてきしょくて全員死んでほしい
何がととのうだよ夏の陽射しの下ににいて勝手に汗かいて頭からバケツの水でも被ってろよ死ね
それ整ってねえだろ百歩譲ってサウナが健康にいいとしてもその一本で健康レベル-100だろ一貫性がなくて気持ち悪いんだよ糞野郎どもが
サ飯がなんだよレトルト食品食って健康になれるわけねぇだろ死ね
サウナは行き場のない死んだ目をしたおっさんの集まる場所でいいんだよ
サウナーとかいうキショキショキショキショ人間どもは家の風呂で半身浴でもしてろやカスどもが
サウナー全員殺す
うざいんじゃ
東京にいわゆるサブカルチャー的な(本屋が多いだのライブが、コンサートが多いだの美術館やギャラリーがうんぬん)リソースの集積があるのは、まぁそう。
でも、東京には歴史があんまりないし、色んなお国から集まってきている人の集まりの街なので「東京のくらし」という共通認識もあんまりない。
増田は東京生まれ・育ちなのだが、東京には割と潤沢にあると言われがちなサブカルチャーやサブカルチャー的な”文化”よりも、人の生活に根差した文化がある地域が素敵だと思うのだ。この間はTVを見ていて、青森には「普段は別の仕事をしている市井のねぷた絵師」がいる、というのを知って、何だよそれめちゃステキじゃないか。と思った。
東京は、色んなお国から人が集まってきていて、そういう暮らしに根差した市井の文化は割と薄まってしまいやすい。まぁ薄まっているところも「東京らしさ」でもあるのだけれど、市井のねぷた絵師のような存在は文化だなーうらやましいな、カッコいいな、と思う。
ところで、サブカルチャー的な文化ではない、市井の文化も、薄まってしまっているとはいえ東京にも残っていたりする。
下町生まれ育ちの増田が感じる、東京の下町の、もうすぐなくなってしまうもしれないな…と思ったりもする、東京の市井の文化を紹介させてください。
そりゃ歴史のある他の街ほど立派なものではないが、東京はいわゆるお祭りが結構かなり多い。
下町は特に、もう数百年のあいだ狭い長屋に人がひしめき合って暮らしてきたところでもあって、人の数だけ「祈り」も必要とされてきたんだろうと思う、街ごとに小さいお社がある。小さいお社は普段は町内会で掃除とかの面倒を見ているが、このお社がお祭りに参加する。大きな祭りの氏子だったり(例えば神田祭だと100個ぐらい神輿が出るらしい)、自分たちだけの祭りがあったり色々である。
下町では、各町内ごとに「自分の町内は〇〇祭の神輿」がある。氏子という言い方なんだろうと思うんだが、かなり割とキッチリと、祭りの割り当て?範囲?みたいなものが決まっていて、町内ごとに神輿を持っている。まぁ他の街でも祭りってそういう感じだと思うので珍しくもないと思うけども。
下町の祭りは基本的には神輿がメイン、山王祭(日枝神社の祭り)は山車がメインのようだが、まぁあの辺は山の手だな。下町は神輿。わっしょい、わっしょい。
隅田川より西側の下町の祭りは、春~初夏ににやるところが多い気がする。そして隅田川より東側の祭りは夏にやるところが多い。夏にやる祭りは「水かけ祭り」といって、町内を練り歩く神輿に、宮入する神輿に近所の人たちが水をわっしゃーわっしゃーとぶっかける。手にバケツを持つおじいさん、ホースを持ち出すお母さん、金だらいにビールを浮かせながらひしゃくで水をかけるお父さんなど。担ぎ手もびしょびしょ、道路もびしょびしょになる。
神輿が出る日は一日中、町内が法被と脚絆、なんならふんどしの人がウロウロする。非日常ですごく楽しい。普段ダラシナイ自分の親父殿が祭りの衣装になると5割増しに格好よく見える。近所の、普段は古いビルの1階のすすけた喫茶店のマスターをやってるおじさんが、祭り半纏をめっちゃ粋に格好よく着こなしたり、新しいマンションの住人の若いお父さんの装束をきゅきゅっと直してあげてたりね。女も神輿担いでも全然オッケー。ただめちゃ肩が痛くなるので私はまぁ、雰囲気だけ味わって担ぎ手はあんまりやらない。子供神輿を持ってる町内もあるし、うちの町内は子どもは山車が出る。
下町の祭りは毎年はやらない、2年に1度とか3年に1度とか。本当のところは知らんけど「江戸っ子は祭りにお金を使いすぎるから毎年だと無理」だかららしい。馬鹿だな江戸っ子ときたら。
増田が子供の頃は近所に「木遣りをうなる爺さん」というのが居た。「木遣り」と書くので、木にまつわる仕事をする人たち、材木関連、とび職さん、火消し(火消し≒鳶)の労働歌がルーツなんだろうと思う。よく知らないのだが笑。Youtubeなどを見るとうなってる爺さんの動画があると思う。
結婚式の時とか葬式の時に「木遣りを歌うじいちゃん」が何人かで来てくれて、家の前にずらっと並んで木遣り歌を歌ってくれるのだ。平成の半ばに亡くなった祖父の出棺の時にずらっと「木遣り爺さん」が並んで歌ってくれたのが良い思い出。ちなみにおじいちゃんはとび職ではなかったので木遣りは歌えなかった。
まぁでも、もうこういうのは無くなっていくんだろうなーと思う。数年前に祖母が亡くなった時は少し離れた町の老人ホームだったので葬式もその町でやったから、それ以来木遣りうちには来てない。マンションも多いしなぁ。
今は、正月とか区の祭りとかに出くわすと「ずらっと並ぶ木遣り爺さん」が見られる。保存会が伝承しなくては、とかそういう感じみたい。
ちなみに祖父母の家には、私が子供の頃(昭和後半)まで、年末になると上記の「木遣りのじいさん」が門松を立てに来てくれていた。その木遣りのじいさんのことを祖父母は「親分さん」と呼んでいた。今思うとあれは銭形平次的な何かの名残なんだろうな。昭和の頃まで、うっすら「江戸」が残っていたんだろうなと思う。バブルで全部洗い流されたけどね…。
東京には寄席がある。上野の鈴本、浅草演芸ホール、新宿末廣亭、池袋演芸場。あといくつかの落語や演芸の団体がある。落語家が多い街、東京。
下町には落語家さんが結構たくさん住んでいたりする。私が初めて一人暮らしをしたマンションにも偶然かなり有名な落語家が住んでいて、すれ違うと気さくに挨拶してくれるおじいさんだった。
落語は、上記の定席小屋で毎日やっているし、〇〇市民会館、○○ホールみたいなところで独演会なんかたくさんやっているが、もっと小さい、近所の落語好きの蕎麦屋のお父さんが自分の店で若手を集めて落語会をする、みたいなことが、結構あちこちで見かける。
覚えている人もいるかもしれないが10数年前のNHKの朝ドラ「ちりとてちん」で(まぁあれは上方落語の話なんだけどさ)、アル中から立ち直った師匠を中心に一門の小さい落語会を近所の居酒屋で開くようになるのだが、その「寝床寄席」みたいなのが、蕎麦屋やら居酒屋やら和菓子屋やら、結構あちこちで見かける。神保町のらくごカフェとか日暮里のひぐらし亭とか、ミニ寄席が最近ブームだったりするが、それよりももっと「地元の落語好きの人が場所を貸す」みたいなのがあるんですよ。
これは良い文化ではないのだが、下町には、下町名物の、何て言うか「飛び地の庭」というか…歩道の植え込みを不法占拠して勝手に花壇を作っちゃう爺さん婆さんが生息している。下町の家は狭い。元々長屋だったところなのでとにかく家が狭いし庭なんてない。玄関を開けると2、3歩で歩道なのが下町建築。
なので、下町の園芸好きは、軒下などに細ーくプランターを並べて園芸を楽しむのだが、それが段々エスカレートし過激になってくると、歩道を飛び越えて飛び地的に、街路樹が植わっている土や植え込みにも鉢植えやらを置きだす。通行の邪魔になりかねないのでなぁ…とは思うが、庭の無い下町生まれなのに園芸を楽しみたいぐらいなので結構、きちんと管理されていてきれいな花が咲いたりする。逆ビッグモーターである。
そういえば下町は庭がないからかもしれないが、結構園芸趣味がある。朝顔祭りなんてのは典型だし、少し大きい神社の境内で植木屋台が出ていたり。庭がない家が多いからね…せめて緑を。でも良くないんですよ。
これは、すべてがそういうわけではないと思うのだが、下町に暮らすために必要なものとして「踏み込みすぎない、ちょうどいい親しさを表す距離」を作るスキルがあると思う。
増田は4代前までさかのぼれる東京者だが、その前の先祖は京都出身、新潟出身。しょせんはよそ者同士。色んな理由で集まってきたよそ者が大きくしてきた街が東京である。
例えば真逆の存在として地方の農業地域なら、農業という生計を近所で共に協力して行っていくという、関係を良くするための必然的な理由があるが、東京にはその理由が希薄である。だからこそ、隣近所とはそれなりに良い関係を継続しておく必要があり、かつお互い踏み込みすぎない適切な距離を保つ必要もある。この辺は、下町育ち同士だとすごく「そう!」となるのだが、下町育ちじゃない人(山の手育ちの人や郊外や地方の人)には、イマイチぴんと来てもらえないことが多い。都会に暮らすって、住み着いて何十年も経っても、少し緊張感のある交友関係が必要になるんだろうなと思ったりしている。
手前味噌で恐縮だが、増田は、ご近所さんや、よく行く店の店員さんとかと、適切な距離を取るのが上手いと思う。近所の人におすそ分けをもらったり、差し上げたり、常連の店でひっそりこっそりオマケをしてもらったり。そういうのを目立たないように、踏み込みすぎないように、負担にならないように。数か月に1回程度なんだけどね。何かがあったら協力できる程度、でもプライバシーを保った距離というか。
これは下町に限らないのだが、東京の文化的な特徴だと思う。墓が広い。というか「古い広い墓」がある。
前の項にも繋がる話だが、やはり東京に暮らす人は少し根無し草なのだ。先祖代々の寺や墓がない。ある人ももちろん結構いるんだけど。
特に明治期以降は、仕事の都合で東京に出てきている人が山ほどいるわけで、そういう人に向けた公園墓地がたくさんある。古くは谷中墓地、現代でも八王子とかちょっと郊外に「誰でも入れるでかい墓」がある。
やたらと広い墓には有名人の墓があったりするから墓趣味の人用の案内があったりするね。
このぐらい。
これはいま、おれの中にひとつわりと明確な答えがあって、それは
です
おれの住んでる田舎は、市の人口5万人とかなんで、かなりザコいんだけど、24時間営業のスーパーセンタートライアルを抱えている
そうすっと、夜10時からでも、思い立ったらチャリに乗って、でけえスーパーで買い物ができるわけですよ
まずこれはひとつの文化資本と言って良い スーパー って博物館だからさあ!
そんで、そこまで行く途中の道、これもまたいいわけ
中規模の川が近くにあるから、いまの季節、サワガニが地面を這い回っているんですよ
まず、玄関からチャリまで歩く過程で、スマホのライトに照らされて、聞き取れるくらいデカい足音を立ててカニが逃げる、おれはウオっと思ってちょっとのけぞる、こういう体験が、よくわかんねえけど、ひとつの原体験となるわけだ まあおれがここに来たのは就職してからなんで、ゲンミツには原体験じゃねえけど、原体験に上乗せしてやってもいいと思ってる いい体験だ カニ・カルチャーだ
マルケスの小説読んでると、すげーカニが出てくんだよ 夜になったらカニが海からワンサカやってくるんで、それをバケツに入れて海に追い返す、みたいな話がある
このくだりってマジックリアリズムなのか?と思うわけ そんなにカニいることってねえだろと思ってっからさ
しかし、身近にカニを感じるにあたって、ああ、その辺のショボい川からでもこんだけカニが出てくるんだったら、コロンビアの海岸なんかだとマジで超ワラワラいてもおかしくねえのかな、と思いなおす
現実で積み上げた体験が、読書体験に深みを与えるわけですよ (逆もまた然りっすねえ!)
そうやってカニをやりすごしながら、川沿いの道、川沿いっつっても土手に隠されて川は見えねえんだけど、そこを漕いで行くわけよ
漕いで行こうとしたらさ、夜8時なのに案外明るくて、真上の空はすげえ晴れててさ、日が落ちて濃さを増し、藍色になった空をバックに、でけえ雲が連なってそびえているわけですよ
「山脈」とか「大いなる」とか、そういう形容をしたい感じなわけ
これってヘタしたらエベレストより立派なんじゃねえか?とすら思う 実際、高度で見りゃいい勝負だと思いますよ
おもわずチャリを路肩に停めて、ちょっと雲を眺めたりしている時間、あれは実際かなり文化的だと思う
夏はそういう、デケー雲とか日暮れどきの光の具合なんかが目を惹くんだけど、秋とか冬もまったく悪くなくて、なんせ涼しいし、星が綺麗なんだよなあ!
秋口に、完全に夏の格好してチャリ漕いでスーパーセンタートライアルに向かってたらさ、思ったより秋が深まっていて、まあ寒い!寒い!って感じで、そのうち歯がガチガチなってきてさ、そんで田んぼ道だからチャリもガタガタしてさ、内からも外からも振動しながら、ふと空を見ると、なんかマジでアホみたいに綺麗な星空が広がっていたりして、おいおいマジかよ、と思うわけですよ
ホント暗いんだよ田舎 絶対街灯もっとあったほうがいいだろ!って思うんだ
でも、やっぱその分、星が見えんだよなあ!
スーパーセンタートライアルに向かう道すがら、寒さに震えながら見上げる星空ほどイイものって、実際そんなに思いつかないっすよ
俺はかつて東京を憎んでた(キモいから!)けど、最近ガチでどうでもよくなってきていて、それはひとえに、田舎で全然ええなあ!と思い始めたからだと思う
人のいねえ道で適当に腕振り回したりしながらチャリ漕いで、雲とか星とかを眺めて、そのあとスーパーセンタートライアルでアイスとか75円のイカフライとかを買って、別に腹が減ってるわけでもねえけど、帰り道に開封して、食いながら帰る
最近、天敵が少なくなったからよく釣れるようになったよと釣具屋の親父から聞く
夕暮れごろの神社の境内に、赤い提灯を仕掛けておくのが狙い目だとのこと
参道には姿は見えないが先客がちらほらいるらしい
世代の古いお面やら、角のつぶれた玩具の箱やら、尾びれの股が分かれすぎた出目金やら、的屋の場所借りした仕掛けから、狛犬の首に巻いた赤い布や、灯篭の根元に置かれたきんちゃく袋みたいな古典的な仕掛けまで
太公望気取りを刺激するのも、糸が絡むのも嫌なので、目立たぬ方に歩みを進めて、自然とついた路地裏に陣取って、電柱に赤ちょうちんを仕掛けて、日が沈むのを待った
その辺の店の神棚からかっぱらってきたお神酒と、地べたに盛られた塩を肴にしょうもない時間を過ごし、時折寄ってくる野良猫を追っ払う
火に脂のはじける音がして、草履や法被が参道に喧騒を連れてくる
人込みは屋台に気をとられたかと思うと、鳥居をくぐって、音頭のなる方へと流れていく
どうも本通りを外れた提灯には見向きもされず、私の仕掛けは間抜けな明かりで地べたを照らすのみだ
しばらくするとひゅうんと音がして、人々の視線が空へと浮かび、的屋は客の視線を戻そうと声と身振りを大げさにしていく
夜の帳が降りたころが釣りの幕開けなのが粋で、空に火薬の花が開いたら帰る合図だと諦めの早い太公望が通りすがりに声をかけてくる
ますます見向きもされない仕掛けを前に、空からの破裂音がむなしく響いた
そろそろ潮時かと片付けの準備をしかけたころ、赤提灯の下に小さな影が丸い眼をしてやってきた
年の頃は5、6歳の童が水色の甚平を着て、綿菓子の袋を大事そうに抱えている
坊ちゃん、迷子か、こっちだよと優しい声音で引き寄せて、童の腰のあたりまで提灯を垂らした
ゆらゆら揺れて降りてきた灯りを不思議そうに触る甚平の袖に針をひっかける
ほれきたと当たりを喜び、竿をひき、糸を手繰り寄せ、本日の釣果を胸に抱く
小柄だが朝餉くらいにはなるかとバケツに放り込むと、童は体に見合ぬ大声で泣きさけび始めた
空に打ち出される火薬玉よりも、音頭を鳴らし続ける太鼓の音よりも、酔っぱらいを運ぶ救急車のサイレンなんかよりも、一等大きな声が母を求め、窮地を嘆き、バケツの中で暴れ狂う
遠くから童を呼ぶ女の声がして、共鳴しあうように童が声を張り上げると、女の声もさらに大きくなり、だんだんと路地裏へと近づいてくる
面倒だからさっさと帰ろうとしたところ、バケツから生臭の匂いがした
童が勢い余って小便を垂れた上に、懐に入れていた金魚袋を振り回したすえ、紐の握りを緩めて手放したらしい
バケツの底のたたきつけられた金魚とお小水とで、興ざめし、路地の隅に童を返して、その場を去った
兄弟に空のバケツを見られ、神社にボウズになりに行ったのかい?とからかわれたので
ちげえよ、ナツマを釣りに行ったんだと返した
親父が孫に会いたいがために、「土日のどっかで孫を預かるよ。ビニールプールに入れて遊ばせる」と言ったらしい
そして私にとっては甥っ子(1歳半)が日曜日の8時半に水着を持参してやってきた
親父はその日、仕事が入り、家には私と母だけだ
仕方がないので母と協力し、ビニールプールを設置、遊ばせ、撤収を行ったのだが、これがまあ大変だった
ビニールプールは2.5メートルほどの大きいやつで、小さな滑り台がついている
二週ほど前に和室にビニールプールを膨らませて甥っ子を遊ばせ、そのまま置きっぱなしにしていた
「実際に水を入れるならもう少し空気を入れたい」と母が言うので、車用のコンプレッサーとコンセント変換器を使うことにした
500円玉大の空気穴は二重構造になっていて、蓋をはずしてもその中にある弁が穴をふさぐのですぐさまは空気が抜けない
コンプレッサーの管で弁を押し開けて、管を中に通してスイッチをオンし、空気を送り込むが、これがまあ上手くいかなかった
なぜかというと押し込んだ空気分より、弁を押し開けた分の隙間から抜ける空気の方が多かったから
ごおおおおおおという機械音と「プールまだなん?」という物言わぬ甥っ子の目線に耐えながら硬いビニールの空気穴を二本指でつまみ狭くしつつ、ひたすら空気が漏れないことを祈る時間は苦痛だった
10分ほど格闘し、ネットでも調べたが有効な解決策が見つからず、ようやく自力で見つけた解決方法はコンプレッサーの管をもっと奥の方へ突っ込むことだった
空気穴近くで空気を送り込むのではなく、そこから離れた場所で奥の方へ空気を送ることで、ビニール壁に空気が当たりそのまま近くの空気穴から漏れ出ることを防ぐ
今言葉にすれば簡単な理屈だが、当時の私は寝起きの頭でプールの方に何か空気漏れを防ぐ理屈が存在するのかと考えていたのでなかなか気づけず、イライラしてしまった
コンプレッサーの力でも大きなビニールプールが膨らんだのは10分近くかかった
これを弟の嫁と父は足踏み式のポンプでふくらましたのかと思うと、それは愛でしかないなと思った
ようやく膨らんだビニールプールを庭の芝生部分に設置して、ホースで水を入れる
その間に母は甥っ子に水着を着替えさせていた
事前に会社の人に「水が冷たいとなかなか入りたがらないから午前中に水をはっておいて、午後に遊ぶほうがいいよ」と聞いていた
ただ当日は真夏日であり、入れたばかりの水もそこまで冷たくなく、甥っ子はぎゃあああああああと歓声を上げながら遊んでいた
大人が浸るには小さいプールなので、近くにベンチを置いて、母と一緒に自分たちは座りながら足だけプールに浸し、甥っ子を遊ばせていた
水辺で手をバタバタと動かし、発見と享楽のたびに笑顔を見せ、「こえっこえっ(これこれ)」とこちらの顔を観て指さし、興奮を交えながら言葉足らずに感情を共有しようとする様は愛らしくかわいかった
ただ1時間くらい夢中で遊んでいたので、赤子の体力って無限なの?とも思った
昼過ぎくらいに父が帰ってきて、そこから甥っ子の面倒を交代した
後で聞いた話によると、甥っ子は午睡の前に1回、午睡後に1回プールで遊んだらしく、本当に赤子の体力は無限なのかもしれん
これで一日が終わっていれば、ちょっと疲れたなくらいだったのだが、大変だったのはビニールプールの片づけだった
夕方になっても父は甥っ子に夢中でいっこうにプールを片付けしようとしないので「プール片づけしようと思うんだけど」と言ったら「おう任せた」と笑っていた
いい加減にしろよと思いつつも、翌日になって水がぬるぬるになったプールを一緒に片付けてと言われる方が嫌だったので、バケツと風呂桶に取っ手がついたやつを用意し、プールを片付けることにした
母に水はどうしたらよいかと聞くと、花や野菜や木にかけてほしいとのことだったので、バケツで水を掬い、水やりに使って、5分の1ほどの水嵩を減らした
残りの水で芝生が水でびしゃびしゃになる分には仕方ないと了解をとってあったので、プールに手を突っ込んで、栓を抜いた
これで片付け終わりだわと思っていたが、全くいっこうに水が抜けない
ホースの水で遊んでもいたので、水かさはたっぷりでプールの底は芝生にぴたっとくっついていて、栓は500円玉くらい
水が抜ける隙間がどこにもないのだ
もちろんそんな大量の水が入ったプールを持ち上げる筋力などない
仕方なしに取っ手付きの風呂桶を片手に中腰になり水を掬い、庭のコンクリート部分目掛けて、水を撒いた
中腰からのアッパーカットの要領でたぶん30回くらいは水を撒いた
人間の皮膚の汚れや表面菌のせいか、はたまた甥っ子がどこかのタイミングで水中で粗相をしていたからかコンクリートに打ち付けられた水は泡を含んでいて周囲へと広がっていく
中腰と水の重さと同じ運動の繰り返しによる体の負担といっこうに減らない水嵩で嫌気がさしていた頃に、父が甥っ子を抱いて窓辺から「ほら、○○(甥っ子の名前)がんばれーっていって」と私を見せていて、父に対し一瞬の怒りを抱いてしまった
しかし、「(がんばれーと思うほど)大変そうに見えるなら、母に預けて、自分が手伝いにこればいいだろ」とは甥っ子の前で叫べない
もう仕方ない、心を無にして、打ち水マシーンになるだけだと工程を繰り返し、コンクリートから広がったた水が家と田んぼの間にある公道のアスファルトにしみこんだくらいでようやく水が20センチくらいの深さになった
もう汚れるのは仕方ないとビニールプールを抱きかかえ、栓から残った水がじょろじょろと芝生に落ちるのを眺めた
その後、飛んでいきそうにない場所にビニールプールを設置し、腰と右腕に相当量のダメージを感じつつ、なんとか片づけを終了した
最初に空気を抜いて、ビニールプールから水を溢れさせてしまう方法も考えられたが、またこのプールを使うことを考えると空気入れが面倒でできなかった
その日の教訓は相当量の水は本当に重いということだった
遠くの田んぼに用水路から水を送るのに電気式のポンプを使っているのをプール片づけた後でコンビニに行く際に見つけて、これがうちにもあったら楽だったのになと思った
認知症になる可能性だってあるのだから、仲直りやより良い関係を築けるようにしたほうがいいと思うけどな
親と関係がよくなかった増田による認知症親とのやり取りがたまに投稿されるが震えるぞ
最悪は親は施設に任せてもよいんだよ。人道的な扱いを受けていればそれでOKだし虐待も防げるし
ただ、親との関係の問題を解決出来ていないと、親から引き継いだ毒がどこにも消えやしないことが大問題なんだよ
これ、自分の子どもやパートナーな友人知人や赤の他人に撒き散らし続けるからね
認知症親とのやりとり、釣りかよってくらいに節々に毒ぶりが見て取れてマジで震えるから🥶
毒親克服しました(アダルトチルドレン克服しました)とか言いながら
口汚く実家を罵ってたり、
穴の空いたバケツみたいにパートナーや子どもや友達に常に私を優先してアピール(自覚無し)、
社会活動に重大な影響を与えるレベルの鬱病・強迫観念の寛解だけを意味しており、
経済的に成功しても、パートナーを得ても、子どもを作っても、永遠に穴が空いたバケツのまま
親が愛してくれなかった・まともな養育をしてくれなかった怒りは、なにを得ても永遠に過去のものにならないし、