はてなキーワード: ハワイ旅行とは
2020年4月、文春がavex創始者 松浦勝人会長の違法薬物常用疑惑を告発
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文春砲に騙されました。文春砲の真実がコチラです。 | 西内砲
https://ameblo.jp/yukoloveslove/entry-12846578924.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/37224
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/37226
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/37227
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/37836
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/37837
これじゃあブクマカが真贋も判定できず流れてくるエサに食いついて何もわかってないのに達観したコメント書いてるだけのただのばかみたいじゃん
寝違えたのか朝起きたら左肩が痛くて、アンメルツヨコヨコを塗った。
気になって、さっき調べたら増田の買ったのは「ニューアンメルツヨコヨコA」という販売名だそうだ。
いろいろ語感がいいよね。
声に出して読みたい日本語。
が浮かんできた。
友達夫婦やカップル数組がハワイ旅行に行って、他にも何かきっかけがあって
その中の友達の地元の花火大会を見に行く目的で、既婚も独身も混じったグループ10人くらいで全員アロハシャツで旅行する!
結婚式に出たり、幹事をしあったり、おめでたいイベントがたくさんあった。
ちょっと落ち着いた頃に、ある夫婦から、新居でパーティーしようぜ、カモン!
な企画があって合計8名くらいで集まった。
綺麗な新居で家主の新婚夫婦は、ロコモコやハワイっぽいカクテル、ノンアルカクテルなどもたくさん振る舞ってくれた。
BGMもハワイアンミュージックを流してくれて、みんなで食べたロコモコ、すごく美味しかった。
オイシカッタナア
今日金曜日、仕事帰りの駅ビルスーパーで買ったカットフルーツにパイナップルいっぱい入ってたから
明日は土曜日だから、アントキノロコモコ、思い出して作ってみようかな。
アントキのみんな、今も繋がってる友達もいるけど、だいたい育児や家族のことで忙しいから、滅多に連絡できないけど、たまに会える。
また会いたいな。がんばろう。
上にいる姉2人が仲良しで、それぞれ別の地方の大学を経て現在都内でそれぞれ別の沿線に暮らしるけど、多いと週三、少なくても月1は会ってるみたい
自分は末っ子で、地元の大学に家から通ってそのままデキ婚してしまったから実家で夫子供と同居してる
うちの家族がいるのもあってか、姉2人は季節の贈り物とかはくれるけど、帰省は年に一度帰ってくるか来ないか…くらいの頻度
姉2人は毎年2人で誕生日旅行とかディズニーとか高級ディナーとかをやるのを計画してお金かけてやってると聞いてたけど、今年の誕生日はソロウエディングの写真撮影する予定〜って言ってた
姉2人結婚の意思無しで2人とも四捨五入したら40になる歳だから1秒でも若いうちにドレス着てオシャレな写真撮っておきたいし!と。
前々から計画してて本当はハワイ旅行してドレス持ち込みでセルフフォト予定だったしいけどコロナのこともあるから…と延期して、国内の街中撮影とチャペル撮影のあるプランにするそうだ
えー…?いやぁ…好きにしたらいいけど…えぇ…?高齢未婚でウエディングドレス着て楽しいの…?そこは正攻法に相手探すとかじゃないの…?とか疑問が尽きない
姉2人が仲良しの反面うちだけあんまり仲良くないからなんでそんなことするのかとか全然聞けないし…
何かこの人たち前から思ってたけど奇妙だな…って思った
30年前、俺が子供のころ実家が貧乏で大変だったんだけど、あのころと今とじゃ、貧乏の難易度ちがうよなという話
昔はPCが30万40万するから買えなかった、通信回線はそのまま電話代として請求され使いすぎて月数万になってしまう人もいた
今は6万円で、6コアCPU、8GBメモリ、512GBSSDのPCが買えてしまう
スマホも2万のモデルでふつうに使えるし通信回線費用はMVNOで1000円
昔は100万円単位の出費だったハワイ旅行が今は往復5万でハワイ行けちゃう
スーファミ時代は9800円~1万円超えだったが、今じゃ基本無料で遊べる奴が多い
映画も音楽もサブスクで月1000円くらいでOKになってしまった
いろんな幸運が重なり事業で成功。役員報酬を毎年1億円に設定しても会社は安定するぐらいにはうまくいっている。
TDBもかなりいい点だ。
持ち家も買い、高級車を買い、子供は小学受験・中学受験を潜り抜けいわゆる有名な学校に入学できた。
体も健康。
不幸ではないが幸福を感じ取れない。
子供のころから最低限の用を成すなら安ければ安いほどいいという価値観で育てられた結果、贅沢ができない体になってしまった。
日常生活は業務スーパーで安い輸入肉を買い、ちょっとした日用品も少しでも安いものを探す。
今日の昼めしはスーパーでお惣菜と助六寿司で600円。(個人的感覚としては散財した。)
これぐらい罰は当たるまいと買った高級車も満足度より居心地の悪さの方が勝ってしまう。
いつか行こうと思っている家族でハワイ旅行なども罪悪感が先に来るんだろうな。
それなら、何のために我を殺して重い責任を背負って会社を率いているのか。
仕事は上の立場になればなるほどマネジメントが中心になり、手ごたえを感じられる実務はほぼノータッチ。
年々会社は大きくなり、それに伴って責任も大きくなっていく一方でカタルシスは何もない。
唯一の慰みである報酬もあまり意味をなさないなら、俺は一体どこに向かって生きていけばいいのか。
若くして成功した人が人生後半で道を踏み外す気持ちが正直すごくよくわかる。
そういえばマツコ・デラックスも芸能界引退の噂があるらしいけど引退した後どうすんだろ。
数十億円通帳に入っててやることが無かったらまともでいられんぜ。
(追記)
一杯返事もらえた。嬉しい。ありがとう。
冒頭にも書いたけど自分で不幸とも思ってないんだ。ただ幸福を感じられないことへの愚痴。
・従業員への還元は?…ハードな働きが必要だが給与は同業他社平均は十分上回ってるので悪い会社ではないかと。ある程度以上の勤続年数の人は離職率ほぼ0。
早期離職者はいるけど入社前に会社のダメなところは必要以上に説明しているのでまあ一定量のミスマッチは仕方ないかな、と。もちろん会社としての改善余地があるのはわかってる。
個人の価値観は置いといて、総体として利益が出ているなら世の中の役に立っているとは思う。(社会に必須の業種だし)
・社会奉仕…一時期ある分野に頑張ってみたけど、そもそもAという領域に肩入れしてBという領域を見て見ぬふりする事への折り合いを自分の中で付けられなかった。全てを助けるにはお金がなさすぎる。
ビルゲイツすごい。
無力感の結果、節税をほとんどせず毎年たくさん納税してる。これ以上の社会貢献があろうか。
・●●に金を使う…吝嗇化なので金を使っても罪悪感が先に来てしまう。そういう自分が嫌で高級車を買ってみたが(もともと車好きではあった)セレブな世界にはなじめなかった。
しかし高級車で業務スーパーへ行くことの愚かさも自覚している、その自意識が幸せを阻んでいるんだろう。
・旅行は?…国内は出張であちこち行った結果興味がなくなってしまった。海外は10か国ぐらい仕事で行ったが楽しさよりいろんなことが見えないわからない事への恐怖が先に来る。若いころは無鉄砲だったのに。ああ小市民。
コロナが収まれば国内出張先で出会った美味しいお店に家族を連れてってあげたい。今ある具体的な希望はこれぐらい。
・子育て…十分やってると思う。夫婦仲も良好で出張がない今料理は俺がほぼ毎日作ってる。
・趣味を始めたら?…そんな元気が出ない
ココイチの創業者さんなんかはすごいなーと思うけど、あれをやれるほど会社は大きくなく、小市民の自分にはそこまで大きな志もない。
でもやっぱりロールモデルはあの辺りなんだろうね。
ああ、でも書いてて思い出したぞ。
それならもうちょっと頑張れそうな気がしてきた。
思ったより叩かれてなくてほっとした。
・経営者なの?…証明しようがないけど経営者よ。中小企業のPERなんていかようにもいじれるのにそんな数字出してどうすんべ。売上数十億程度の地方中小オーナーならTDBかTSRっしょ。
・納税…ここはねぇ、一般の人が思う以上に経営者は好き勝手できまくるんよ。合法的に数千万円を自分の快楽に使えてその上法人税を安く抑えることは本当にできちゃう。
そういうことをせずにおとなしく納税しているのってかなりのレアキャラなんよ?
納税なんて当たり前!っていう人はそういう立場になっても本当に節税せずにいられるかな。
・人を育てたら?…やれる範囲ではやってるけど最近気が乗らなくなってきた。「水飲み場に連れてくることはできても水を飲むかどうかはそいつ次第」というのを痛感してる。
親が喜ぶのはまあわかるよ
超オモロイ玩具が手に入ったようなもんだしな 労働力にもなるし、老後に自分の面倒見させることもできる 家族愛に浸って気持ち良くなることもできる
オモロい玩具手に入れられておめでとう!って意味でおめでとうと言うのもわかる 友達がハワイ旅行とか当ててたらまあおめでとうって言うしな
なんかそういう感じじゃなくて、無理矢理生まれされられてしまったアワレな赤ん坊そのものに対しておめでとうって言ってる奴がいるように見えるんだよな
周りの人間にとってめでたいことなのは間違いないと思うんだけど、子供本人にとってそうかは分かんねえよなあ
俺、ガキに「人生は楽しいよ!最高だ!君は生まれることができて運がいい!」とは到底言えねえ
受験戦争→就活→労働→老い→死 あたりの要素は絶対降りかかってくる なんの義務も苦痛もない時期って全然ねえ
運悪いと大怪我とか重病とかで全体が台無しになることもある しかも頑張って避けられるもんでもない
なんの悩みもない人間なんていない、人には人の地獄がある、みたいな言葉を持ち上げつつ、人間が生まれることを祝うのってなんか矛盾してる気がしてならない
俺ホントに何やっても楽しくねえんだわ
楽しくねえっていうか、日々のめんどくささに勝てるほどの楽しさを生み出せないわけ
たとえばハワイ旅行一週間無料券を貰ったとして、俺にとっては荷造りのめんどくささとか移動のダルさとかコミュニケーションの苦痛とかのほうがデカい
多分使わないで終わるんだよ旅行券も
ホント何もしたくねえの
夢とかないよ希望もない
何も望まないから俺に何も望まないでください
早く殺してくれ
自殺すらめんどくせえんだよ
首吊りとか調べたけどさ、失敗したらメチャクチャめんどくさいことになるじゃん半身不随とかさ
練炭もいいけど、目張りがめんどくさい
俺は不器用だから絶対失敗して、火災報知機に引っかかったりしてメチャめんどくさいことになる
もうさあパッと公共施設行って死にたいですつったら殺してくれや
金なら多少は出すよ
100万はらえって言われたら、はじめて人生に目標ができるかもなあ
ホント楽しくねえわ
勘弁してくれよ何なんだマジで
せめて働かないでいい環境くらい用意してから産んでほしいよなあ
さっさと死にてえ
床屋勤務だった父に、美容院勤務だった母はハワイ旅行中に出会い結婚したらしい。
物心がついたころにはもう父と母は不仲だった。父は仕事を休みがちで、私が小学生低学年の頃にはもう職場を転々としていたのを覚えている。
一つの職場に留まらず、職場を変えるものだからもちろん給料も上がらない。父と母は夜な夜な電話口や居間で喧嘩していた。
それは深夜だった時もあるし明け方の時もあった。長いことアパート住まいで横にも上にも寝ている家があるのに家に居る母は金切り声を上げていた。
でもほとんどがお金の問題で、まだ小学生の自分にはできることが無いことが分かっていたので家の手伝いをして、3歳年下の妹の面倒をよく見た。
父が仕事から帰ってくるとき帰りは母の車の迎えを頼んでいた。母はまだ小学生の私と幼い妹を乗せて車で最寄り駅まで父を迎えに行く。
その車の中でもお金の話で揉めていた。
夏のとある日、いつものように父を車で迎えに行った時に自販機で何か買う?と母が私に聞いてきたが私はペプシが欲しいとはその日言えなかったのを今でも鮮明に覚えてる。
両親を困らせないようにいろんなことを毎日考える日々が続いてた。
今も昔も趣味はゲーム。私が幼稚園の頃テレビの下スーパーファミコンが仕舞ってあるのを見つけて以来ゲームの虜だった。
コンポジットケーブルの繋ぎ方を覚えてひたすら「スターフォックス」の1面を遊んだ。これ一つで随分と長いこと遊んだ。
小学生になって私以外にもゲームが好きな人が沢山いることを知り、お家によくお邪魔して遊ばせてもらった。
父は気まぐれにゲームを買ってきてくれた。
「F1 RACE」https://youtu.be/-isADihL65Y とか「役満」https://youtu.be/H-Nc1_9bXpQ とか。
でもスターフォックスの次にハマり込んだのがゲームボーイカラーで出た「ポケットモンスター銀」https://youtu.be/Lfy93rW7zRs だった。
幸い、テレビさえ占拠しなければ父と母はゲームに理解を示してくれており、妹と一緒にゲームボーイカラーの画面をよく覗き込んだ。
ただ、その間にも父の帰りが遅かった事を責めたり、やはりお金の話で父と母が声を荒げる日が続いていたので、もうゲームソフトを買ってもらえるなんて無いんだろうなとポケモン銀を手にしたとき思った。
小学生にもなると、友達が増え色んなことを知り、考えることが増え、自分と友人の違いをよく知ることになる。
私はある日ゲームボーイカラーのソフト、「ポケモンでパネポン」https://youtu.be/yYfZPb4nqa4 (以下ポケパネ)を友達に遊ばせてもらった。
パズルゲームはスーファミで家にあった「マジカルドロップ2」https://youtu.be/NN5JIwbNG1U を遊んだことはあったけどそれ以上の爽快感で遊べたポケパネは衝撃的だった。
どうしてもこれを家でも遊びたい。でもゲームソフトをせがむのは両親を困らせる。また今夜パパとママが喧嘩するかもしれないし、普段よりもっと大きな喧嘩になるかもしれない。
その時小学生ながらにとった手段は『友達から盗む』だった。うまいこと友人からポケパネを盗み、買ってもないゲームを遊んでいるのがばれるとまずいからと、家では音量を消し
放課後には公園で一人でポケパネを遊んだ。でも親は子を見ている。買ったはずのないゲームソフトに気づき、ひどく怒られ、翌日友達へ返すくだりとなった。
その時、今となってはどう思ってそんな発言をしたのかも覚えていないが確かに私は言った。
母は泣いた。でも私は両親に負担をかけずにゲームソフトを手に入れる純粋な手段として盗みを働いたつもりだった。
盗みはダメだと諭され、母と一緒に友人の家に行きソフトを返した。友人は特に気にした風もなく、小学校を卒業するまで一緒に遊んでくれた。
夜な夜な喧嘩が続くが中学生になってある日突然、父がマンションを買った。
正直当時は驚きのあまり意味が分からなかった。お金ないんじゃなかったのかな。どこかで貯めてたのだろうか。大人になるまで、ずっとこのアパートで過ごすのかと思った。
とうとう父は働かなくなってしまった。
マンションに引っ越し、中学生になった私と小学生の妹はそれぞれの部屋をもらったが父は妹の部屋に入り浸った。
妹のベッドで眠り、昼食に袋麺を食べ、また妹の部屋で引きこもる。妹は母と一緒に和室で眠った。
あっという間に妹の部屋はたばこ臭くなり、ベッドの布団はぺたんこになった。
母は時短で働かせてもらっていた職場をやめて夜勤も挟みながら働くようになった。夕飯を作るのも私と妹で作るようになった。父の分はない。
初めて作ったのは野菜炒めだった。今でも覚えてる。切って洗った野菜を炒めるのに油が跳ねて妹と大騒ぎして、父に怒鳴られた記憶がある。
ほどなくして車で買い物に出かけた帰り、マンションの駐車場で母が助手席に乗る妹と後部座席に乗る私に向かって「ママ、パパと離婚することになったの」と言った。
私はまぁ、そうなるよな。と思った。驚くべきことに部屋を占拠されていた妹は泣いた。
そうして私と妹は母に引き取られ、マンションと父を残して出て行った。
家庭裁判所に行った。家庭裁判所の人は私と妹が望めばいつでも父と面会できる旨を伝えてきた。
でも私達から望んで面会を申し出たのは今までで一度もないままだ。
養育費は二人分。私と妹が高校を卒業するまで。その養育費も最初の2ヵ月払われて、それっきりだった。
私は高校生になった。アルバイトをはじめ、携帯代は自分で払い、月にいくらか家に入れ、欲しいもの・必要なものは自分で賄った。
アルバイトというのが地元のショッピングモールに入っているラーメン屋だったのだが、オーナーや社員のおっさんにとても良くしていただいた。
絵を描くのが好きと知れば誕生日に画集や画材を頂き、美味しいものもたくさんごちそうになった。
ある日、自分で夕飯の買い物袋を両手に下げてアパートに帰ってきたときなんだか急に悲しくなって声をあげて泣いた。
私以外にも高校生で、両親がいない中買い物袋を提げて帰ってくる子もいるだろう。
でもなんだか理不尽さと寂しさとどうしようもなさ、あとはなんで私がこんな環境にいるんだろうという気持ちで家に母と妹がいないことをいいことに、両手に買い物袋を提げて立ち尽くしたままうわーんと泣いた。
本当に「うわーーーーん」だった。
私は高校を卒業したら就職するつもりだった。(ちなみにこの時はまだ養育費が払われているものだと思っていた。)
母に高校卒業したら就職する。と言ったときの母のあの喜んだ顔は今でも夢に出るほど覚えている。
スーツ用意しなきゃねとも言った。
高校卒業したら就職するんです。とアルバイト先のおっさんにも言った。
そうしたらそのおっさん「あのさあ、人生よくやり直しが効くとかいうけどそんなことないよ?」と言い出した。
どきっとした。
わがまま言ったらいろんなものを困らせると思って黙っていたことがむき出しにされた気がした。
「勉強したいことがあるなら今のうちだと思うんだけど」
ゲーセンで知り合った友人に相談した。その友人は通っている専門学校にデザイン学科があるよと教えてくれた。
資料をもらって穴が開くほど眺めて悩んだ。そして母に言った。
「ごめん、就職したいと言ったけどこの学校に通って勉強がしたい。2年制でいいから、通わせてほしい」
その時の母の落胆した顔も覚えてる。この顔も良く夢に出る。
それでも母は奨学金の手続きを一緒になってしてくれて、無事私は専門学校でデザインの勉強をすることができた。
2年制だったから、うんと居残ってphotoshopやillustratorを覚え、プレゼンの勉強をして、就活を終えた(新卒で入った会社がクソブラックだった話はまたどこかで。失せろクソ会社)
もちろん、あれからバイト代が入ればちょこちょことゲームを買い、ゲーセンで音ゲーでも格ゲーでも遊んでいたのだが
無事社会人として安定してきて、switchとスマブラで友達と遊んでいた時の事。
友人と二人でいろんなキャラをオンライン対戦で遊んでいた時、5連勝くらい続いたあたりで
「なんか勝ち続いちゃってる。」としれっと攻撃を食らったりアイテム取り損ねたりして手を抜いてしまった。
これは高校生の時よく遊んだ「スーパーストリートファイターⅣ」でもかなりの頻度で起こった事象だった。
格闘ゲームで遊ぶ以上、ミスも弱さも自身のせいというのが基本なのだが、勝ち続けて嫌われたくない、気分を不快にさせたくないと
幼少の時に培った「相手のご機嫌伺い」が発動してしまって対戦ゲームでなかなか気持ちよく遊ぶことができない。
ご機嫌伺いはゲームだけでなくいろんなところで作用し続け友達は本当に少なく、それなのに変に性格が明るい人間になってしまった。
なんでもかんでも両親のせいにするつもりはないけど、子は親を選べないし、ここまで女手一つで育ててもらった母には感謝もしているけれども
なんであんな男と結婚したのか、なんで喧嘩するくらいなら生んでしまったのかとこの間ちょっとノイローゼになったとき思っちゃった。おわり。
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今。妹は素敵な旦那と結婚して1児の母に。もうすぐ2人目が生まれる。姪っ子にはクリスマスにぽぽちゃんのベビーカーとポポちゃん用のエルサの服をプレゼントした。
妹は育児に四苦八苦しながらも旦那、姪っ子と部屋を飾りながら私の手放しに楽しそうに生活している。
私は一人暮しのため住んでいたアパートを出たので母は久しぶりの一人暮らしを満喫し、フラダンスにハマった。
父はしらない。
>うちは早くに見切りをつけて子の物心つく前に離婚して一人で育ててるが、金銭的心配はなく楽しく二人暮らしのつもりが、子がこんな思いを抱えてたらどうしようと思った
金銭的な事情はきっかけに過ぎず、みんなが当たり前に持っているものが私達にないというこの状態こそが、買い物袋をぶら下げて立ち尽くしてしまう最大の理由なので、出来る事なら子には友人や人とコミュニケーションがたくさん作れる・取れる環境を作ってあげるのが大事だと考えてる。
その環境さえあれば、足りないものは徐々に補えるようになるはずで、そうなるように出来ている。
今思えども急にマンション買った下りは本当に意味不明で笑っちゃう
まぁ多分、良い暮らしをと思ってマンションを買ったのだろうけど良い暮らしはそこに無かったと言う訳。
>お母さんのリアクションが、逆ではないんだね
>落ちがないのがなんかいい
落ちてないから落ちがない…という落ち…
たくさんの人に読んでもらえてたくさんの人に文章を褒められて嬉しい
ありがたや
仕事中にふざけていたわけではない。他体力仕事だが長時間労働の色々とキツイ職場であった。だがバイトから社員の昇格があり更に2、3人だかバイトさんを使える立場になったため変にやる気が上がり辛い仕事でも続けていた。
だか俺増田は辛いのでなんかやらかすのであった。例えば朝自宅で着替える時にダラダラ着替え「レジャーだ!」とか言い出してハワイ旅行に行ったような気分を味わっていた。
そんな異常に加えて昇格したら休みも少なくなり仕事もスピードを求められもうカレーの辛さも倍増しまくりで事件は起こる。
早朝出勤だともう眠いので朝ダラダラと歩いていた。もう歩きながら眠るレベルであり排水溝に足をツッコむ事もあった。
そんな冬の日だから自分を八甲田山雪中の陸軍斥候だと妄想し奮い立たせ「犬死するな!鬼畜米英!」と厨二気分でフラフラ行軍した。業務スピードノルマはあるが通勤速度ノルマはない、遅刻しなければ良いのだ。ルールに厳しい職場だが通勤うんたらは干渉しない所であった、多分。だがだが、それが悪かった。
なんか知らんが上司に見つかったらしい、それかアメリカ軍のスパイに見つかったのだろうか?詳細は知らんが怒られた。常識外のフラフラだと当然怒られだろう、当たり前だ。こうして陸軍斥候ごっこをして上司から怒られたわけである。
私は中高が一貫の女子校で、その間ずっと恋する乙女だった。恋した相手の数は4人。すべて片想いだった。それでも楽しかった。しかし女でありながら女の人を好きだと言うのを周囲にバレるわけもいかず、恋バナなんてしたことがなかった。高校を卒業してから何年も経ち、多くの友人は共学の大学に通うようになったり、バイト先や職場で新しい出会いがあるらしく、日々好きな異性のことを沢山話してくれるようになった。聞いていて楽しいけれど、自分も中高の頃隠さずにこんな風に片想いの話を彼女達と共有できていたらさぞかし楽しかっただろうなと思うので覚えている思い出を放出する。前置きが長くなってしまって申し訳ない。とても長い内容のうえに素人文章なのでご注意
中学の時に好きになったのは、同じ陸上部の三個上のA先輩だった。一年生でまだまだガキだった私はそれが恋とは知らなかったけれど、校内で見かけるたびにドキドキしてしまうのでうまく挨拶ができなくて先輩方に叱られた。一年として学年全体で怒られた後に、私に「うちらも怒りたくて怒ってるわけじゃないよ。悲しまないでね。現状を良くしたいだけなの」とフォローしてくれた。一年は居残り時間が30分短く、先輩よりは下校時間が早くて一緒に変えることはできなかった。何かと理由をつけて部活後も校内に残って待ち伏せしたけど話しかけることはできなかった。きもいな。恋だとはわからないままでも自分はすごく乙女だった。部活の汗の匂いが気になって近寄って欲しいけど近寄れなかったり、少しでも可愛くなりたくてスキンケア用品もお小遣い貯めて買ってみたりした。(とはいっても洗顔料と化粧水だけ)。部活中は一つ結びしか許されていなかったから、無礼講の部内クリスマスパーティでは髪型を少し変えて気づいてもらえるか試したりした。気づいてはもらえなかった。
中2の時に好きになったのは当時仲が良かった友達Bちゃん。体育祭の時に疲れたと愚痴ると膝枕をしてくれた。その子自身は体育の男性教員が好きだったからいつも胸がモヤモヤしていた。夏休み、家族でハワイ旅行に行った時に友達用にお土産を大量買いしたけれど、彼女にはちょっと特別なものを他の子にバレないようにあげた。その時の笑顔が忘れられないほど綺麗だった。でも恋だとは自覚しないまま終わった。
高一の時に好きになったのは同じクラスのcさんだった。すごく仲がいいわけでもなく、勝手に好きになっていた。席替えで隣の席になれた時にすごく嬉しくて、夏休みに入る目前、恋だと自覚した。自覚してしまうといろいろ早くて(思春期なのもあって)キスしたい、ハグしたい、裸で触れ合いたいとか思うことが増えたけど、そんなことは顔に出すわけにはいかない。夜1人で妄想して、朝になったら忘れて何事もなかったかのように隣の席に座った。挙動不審にならないようにわざと冷たく当たってみたりもした。それでも彼女は優しくて、廊下とかですれ違っても「よっ!」と肩を叩いたりしてくれた。久しぶりに私から話しかけると、「やっと話しかけてくれた…無視されて辛かった」と言ってくれたけれど、彼女のそれが恋愛感情からくるものじゃないのは明らかだった。誰にでも優しくて、他人に注意を払うのがとてもうまかった。夕暮れで視界が悪いのに下校途中で私に気づいて手を振ってくれるのはすごく嬉しかった。
高3になってもcのことが好きだった。毎年クラス替えがあったけれど、また同じクラスになった。すごくすごく辛かった。クラスの中心的なその子と話す機会は減った。でもまた奇跡的に隣の席になれた。天にも昇る心地だった。脳内お花畑だったからこれはもう運命では?とさえ思った。調理実習で作ったクッキーを食べて欲しかったけど、スムーズに渡せなくて、席が近隣の子達におすそ分けって苦しい名目で周りに配ったら別の子Dに全部食べられてしまってCの手に渡ることはなかった。Dには怒りが湧いたけれど「美味しかったご馳走さま」と言ってくれたので許した。
しばらくして漫画みたいな出来事が起こった。Dが同じ町内にひっこしてきた。歩いて五分くらいの距離に。私の高校は私立で、近所に同じ学校の人がいるという感覚がこれまでなかったので純粋に嬉しかった。これによって謝恩会の準備や話し合いが放課後に近所でできるようになって純粋に楽だった。実は、もともとDの印象はすこぶる悪かった。Dは中3のとき、離れ離れのクラスになったBが新しいクラスで仲良くしていた子だったから。当時Bが好きだった私は勝手にBを取られたような気でどうしてもDを好きになれなかった。
高3になるとみんな受験で忙しくて、委員会なんてする人はいなくなった。でもクラスに必ず数人いなくてはならない卒業式後の謝恩会委員というポジションがあった。これがなかなか決まらないため、ホームルームが終わらない。Dが一緒にやろうと言ってきた。お前は受験はいいのか、と思いながらほかに立候補者もいないし、なんとなくすることにした。私のクラスは私たち2人だけだった。謝恩会委員はやることが意外に多くて、Dの受験が純粋に心配になった。私はAO推薦でほぼ確定だったので積極的に作業していた…と思う。ある日、Dの分である作業をなんとなく勝手に進めているととても感謝されて腰のあたりに抱きつかれた。cの前だったから恥ずかしくて腕を振りほどいた。CとDは髪型がとてもよく似ていた。うちの高校はキリスト教だったので、全員強制参加の式典が年に何度かあった。秋のある日の式典で、私はどうしても暇でCを目で追ってしまった。それに偶然気づいたDが小さく手を振ってきた。お前じゃない、と思いながらも実はちょっときゅんとした。
ある日の放課後、雑談をしながら謝恩会の作業中、何気もなしに部活の後輩が好きだったことがあると言ってきた。とてもびっくりした。自分も女子校内で片恋ばっかしている人間だったけれど、それを他人に話すということが異文化すぎた。気が動転してそれからしばらくはDのことを避けてしまった。
冬になってまた別の校内式典があった。それは義務ではなくて、行きたい人が行くものだった。99.9%の人が大学進学を希望するのでクラスの中では本番の迫る受験のために欠席する人、気休めと文字通り神頼みのために参加する人の二分だった。CもDもとても頭が良かったから参加するかどうかなんとなく気になった。Cは来ないというのを教室内の会話で知ってがっかりしたが、Dは来ると言っていた。なぜかとても嬉しかった。もしかしたらこれが終わって三学期になれば自由登校で友達に会えなくなるからかもしれないと勝手に納得した。
それからしばらくしてDに放課後に呼び出された。理由は私が避けすぎたためだったらしい。Dは私が最近は目も合わせてくれないと言って泣いた。とても驚いた。避けている自覚はあったけれど目を合わせていないなんて自覚はなかった。だから今度は目を見て話を聞こうと思った。でも出来なかった。そこで初めて私はDが好きなんだと自覚した。目を合わせられないのはあの有名な歌詞通り、見つめ合うと素直におしゃべりできないからだった。急に恥ずかしくなって帰りたくなった。でも帰ったら一緒にいられないと思うとどうすれば良いのかわからなくなって、とりあえず適当に謝ってから家が近所なこともあって一緒に帰った。
謝ったと言ってもそれでまたDとおしゃべりなんてできるようになるわけがなく、言いたいことは全部紙に書いて伝えるようになった。本当に恥ずかしくて会話ができない。でもDと交流したい。Dは手紙にして返事をくれたりした。とても嬉しかった。それから冬休みに入って、三学期になって学校に行くことがなくなっても手紙のやり取りは双方にとって近所の公園に貼り付けるという約束になって続いた。
バレンタインになった。何か渡したいけれども渡す時間を取らせるのも申し訳ない。公園に手紙と一緒に食べ物を置くのも憚られる。代わりに手作りで学業成就のお守りを使って置いておいた(重い上にキモい)。お世辞だろうとも喜んでくれた旨が手紙に書かれていた。嬉しくて家でニヤニヤしていたら家族にキモいと叱られた。
その後、彼女の第一志望の受験前日は3つも神社をお参りしてクジを引いたら大吉だった。うれしくなって、おみくじのことと、明日の受験頑張れと書いた手紙を貼った。結果発表の日が過ぎてもDから連絡は来なかった。催促するのもよろしくないのでそれから次の登校日まで待った。
合格者発表から数日経った次の登校日、学校に行くとほぼ全員受験のストレスから解放されていた。教室ではDが他の子達となんと恋バナをしていた。他のクラスメートたちが、受験期中に同じ塾の男の子相手に密かに恋をしていたこととかを話していた。D自身はどうなんだろうか、不安になった。聞きたいけど怖くて聞きたくないので「いいなぁ楽しそう。もっといろいろ聞かせて?」と他の子に聞いた。するとDが「じゃあ〇〇も恋バナすればいいじゃん。好きな人いないの?」と聞いてきた。胸がとても痛かった。その日のうちにD本人から、実は第一志望に合格していたと聞いた。嬉しかったけれど、どうしてすぐに伝えてくれなかったんだろう。そんなこと話す間柄とすら思ってもらえてないのかと、また胸が痛くなった。
卒業式の帰り、謝恩会も無事終わり、クラスの打ち上げも解散に近づいた頃、Dに、今日は一緒に帰ろうと言ってもらえた。とても嬉しかった。私の大学は地方だったから多分これがDに理由もなく会える最後だと思うと泣きたくなった。帰り道は何も話さなかった。誤差の範囲だけれどDの家に先についた。お別れの時だ、と思ったら、Dがマンションの共有スペースまで上げてくれた。一緒にケーキを食べた。告白するべきかしないべきか、すごく悩んでケーキを食べ終わってもずっと無言で泣いてしまった。Dは私が何かいうのを待っているようだった。その時、母親からもう帰って来いと電話が来たので仕方なくさよならを言った。Dは地方でも頑張ってと応援してくれた。私は泣きながら短い距離を帰った。
本当のところはわからないけれど、おそらくDは私がDを好きだと気付いていたんだと思う。でもわたしには告白する勇気もなければ、このあと地方に自分は行くのに、Dが大学で彼氏を作るのを見ているのは辛くて無理だった。大学に入ってしばらくして、私は、自身では記憶にないが飲み会で盛大に酔っ払ったらしく、ライン電話でDに泣きながら告白していたらしい、というのは飲み会に参加していた別の友人に聞いた。Dのリアクションはわからない。電話口だったので私にしか聞こえていなかったし、私本人が酔って忘れてしまった。そのうち、私が1回目の帰省をする頃には風の噂でDに年上の彼氏ができたことを聞いた。私は泣いた。多分もうDとも関わることなんて、同窓会以外ないだろう。私はいつまであの時に囚われているのかわからないけれど、あれ以来人を好きになったことがない。もう22だけれど、中高で経験した以上の恋愛ができる気がしない。それでもいいと思っている。後悔もない。充実した青春だったし。これが私が学生時代、仲の良かった友人としてみたくても出来なかった恋バナの内容。
時差は19時間だが、実用的には5時間違うと思っておいて良い。
飛行機の中では時差ボケ解消のために寝ずに起きていて、夕方に日本についた。
新婚旅行に行かない/行けないカップルがいるのも知っている。行けるだけありがたいと思っている。
「休みの間は一切仕事を忘れていいから」と言ってくれた。ありがとう上司。
行先は嫁の希望で決まった。
嫁は英語が一切わからないというので、多少なりとも日本語が通じる場所が良かったらしい。
テレビでハワイのおすすめスポット紹介みたいなのを見るたびに、
どーせ楽しんでるのは撮影してるお前らだけじゃねーか、とかよく分からないひねくれた思いが頭に浮かび、
クアロア牧場は本当に良かった。素晴らしい景色を眺めることができた。ステーキハウスの肉もおいしかった。
海水浴に行ったら一瞬だけだけどウミガメを見ることができたし、バスの中から虹も見れた。
ウミガメを見たら幸運なことが起きるらしい。記念にウミガメのキーホルダーを買った。
嫁とほっともっとの弁当を食べ、眠くなったので、仕事に備えて22時くらいに寝た。
夢を見た。
俺は誰かを謀殺したらしく、警察に追われていたが、そんな中で俺はゲームセンターに立ち寄った。
俺がゲームセンターで10人くらい並んで椅子に座って楽しむゲーム(競馬ゲームみたいなの?)に座ってゲームをやっていると、
誰かが隣に座って寄りかかってきた。
誰かと思えば、少し呼吸が荒くなったばーちゃんが、俺に寄りかかって寝ていた。
俺は呼吸を確かめ、席に向かいなおした。ばーちゃんはまだ生きていた。
その後俺は少し画面に夢中になった。ばーちゃんのことは一瞬忘れた。
ふと気付くと、寄りかかっていたばーちゃんがいなくなっていた。
気付いたら床にばーちゃんが倒れていた。
危篤の連絡を受けて、亡くなる1週間くらい前に見た、細くて軽い、少し熱い体だった。
抱き上げたら、ほとんど呼吸していないように見えた。
俺はばーちゃんがこのまま死んでしまうのではないかと慌てて、「ばーちゃん!ばーちゃん!」と叫んだ。
幸いばーちゃんはまだ息を引き取ってなかった。
ばーちゃんはこっちを見て、「いっしょ、いっしょ」と答えてくれた。
そこで俺は「あれ、ばーちゃんは死んだはずじゃ?」と思ったところで、これが夢だと気付いた。
夢だと気付いた瞬間、俺は現実でも泣いていることに気付いたと同時に、夢から醒めそうであることもわかった。
「まって、まってくれ!」と強く願ったが願いはかなわず、目が覚めてしまった。
目が覚めたら、やはり号泣していたことに気付いた。声を出して泣いていた。
泣きながら寝たことはあったが、泣きながら目が覚めたのは人生で初めてだった。
数年前、お盆休みに実家に帰ったときにばーちゃんに会ったら、「すこーし熱の出て下がらんもんねー」と言っていた。
「若こーはなかけん、早よー病院に行きんしゃい」と答えた。飯の量も心なしか減っていた。
体から老人ホームの臭いがしたのが少し気になったが、歳を取ったらそんなものかと思いつつ、帰省は終わった。
俺が実家に帰ったあと、病院に行って検査入院して、そのまま3か月後に亡くなった。
飯が食えなくなったとのことで、どうやら寿命だったらしい。
何の気なしに病院に行くのを勧めたんだが、あの時勧めて良かったのかどうかは今もわからない。
危篤と聞いて俺が駆け付けた時には、意識はあったもののほとんど話ができなくなっていた。
俺が話しかけると、たまに声にならない声で応えてくれるといった有様だった。
ずっとついていたいと思ったが、遠方に住んでいたのでそういう訳にもいかず、
その5日後に亡くなった。
嫁は何もなかったかのように隣でぐっすり寝ている。
嫁は夜勤付きの看護師で、どんなタイミングでも寝れるのが特技だ。
ばーちゃんに嫁と合わせて話をさせたかった。プロポーズしようと思った矢先だった。
そもそもばーちゃんが生きてるうちに嫁の顔を見せてやろうと思って始めた婚活だった。
いらっとすることもあるが、それでもうまくやっている。
嫁の寝息を聞いていたら、また泣けてきたので、PCの前に座ることにした。
この夢を記録しておきたいと思った。
時計を見たら夜1時、ホノルル時間で朝6時。いつの間にか2時を過ぎていた。
時差ボケ解消ならずということか。
いっしょだよ。お土産買ってこなくてごめん。
書いていたらまた泣けてきた。
当分寝れそうにない。