はてなキーワード: ナイーブとは
そんなもん要らんし作れんぞ
俺はべつに女の子の性格やシチュもろもろ次第だが全然言われても不快さはない
屹立してる状態で脈絡なくかわいいと言うのはちょっと悲しくなる男は多いかもしれんが
むしろ萎んでる状態のときのソレをかわいいと評するのであれば、あるあるネタになるくらい普通のことじゃないか?
立ってる状態でも昭和の人間でもない限りサイズ至上主義みたいな考えに陥ってる男はまあ半分くらいはいるかもしれないが男の全員が全員ペニスの威容を自身の尊厳と結びつけてるわけじゃあない
表現はなんであれペニスへの愛着を示してくれていると受け取ればむしろ言及してくれること自体を嬉しく思う男も少なくないだろ
サイズ等にコンプレックスがあって関連する表現にセンシティブになる程度にはナイーブな性格の男もいるから気をつけた方がいいって程度よ
そんなもんは常識で想像しうる範囲のもんでマニュアルにするほどでもなく、作りようもない
アンダスタン?
集合知っていうかネットの力とかかな。wikipedia とかもそうだけど、みんなの力で!みたいな顔をしていて実際は数万人とか数十万人に1人のエクストリームな知識と行動力の人だけが動かしてるのが現実だよな。
世界の何十億人が使っているコア技術なのに、ボランティアの1人が全てを背負っている。
あれは自分もOSSだから多くの人たちが力を合わせて開発、運用しているんだ!と何故か無邪気に勘違いいしてたけど、実際は一部のエクストリームな活動の犠牲の上に積み上げられていた。
インターネットの集合知とかも多分嘘で、ネットに出回っている100の情報があったら99.9%は利用者の1/10000くらいの人間だけが出力した内容、またはそれらの劣化コピーの使いまわしな気がしている。
これは元々人間には独自の情報を語る能力、独自の考えや感想とか個人の妄想とか感情とかを垂れ流すインセンティブもないし、会話にそんなものを誰も要求していないみたいな、旧来の社会敵な動きとかが原因な気がする。
口を開けばトムラウシ山遭難の話だとか、三毛別羆事件、福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件。
これら情報は集合知じゃなく、一部の記者の仕事であり。そしてそれをまとめた一部のエクストリームな活動家の仕事であって、集合知ではない。
エクストリームな1人に依存している状況なので、専門家が正しいことを言っていても大衆の騒音にかき消されてしまっている、みたいな集合に潰されてる智慧がある気がする。(具体的な事例は思いつかないけど)
それって多分私が思い描いていた集合知のイメージとはかけ離れている。
気がついたと言うか、認めたくなかった事実というか。
スタンド・バイ・ミーやイージーライダーが青春映画だと言われて今は納得出来る。中学高校の頃にそう言われてもピンとはこなかったと思う。へえ。青春とは死体を探して線路の上を歩くことなんですか。しょーもな。って。
例えば土曜の部活をサボって多摩川をチャリで下った思い出がある。
車のディーラーやファミレスがセーブポイントのように点在するばかりの幹線道路。歩いていてここは自分の居場所じゃないと思ってしまうような他所の住宅街。近くをウロウロしていても楽しくはない。Googleマップで面白そうな場所を探しても、近しい範囲に目ぼしいスポットはない。晩飯の時間もあるしそう遠くは行けない。
フラフラとチャリを漕いでいたらデカい川に辿り着く。見飽きた退屈な通りに比べたらなんだか妙に魅力的に見える。今日は半ドンで時間もあるし海でも目指してやろうって思う。
最初は楽しいけれど、すぐに川の流れも見飽きてくる。陸側の景色も「無」のような国道を挟みつつ、マンションか物流の倉庫か謎の事務所かの繰り返し。全部やたらと横にデカい。大きめの駅があるらしい、高い建物の密集する地帯が時々近付いては遠ざかっていく。
途中休んで水切りでもしてやろうかと思うけど、良さげなスポットは釣り人や浮浪者や遊び回るガキがいて近寄り難い。陰気な高校生が一人で水遊びするのもなんだか気恥ずかしい。
段々海を見ようと息巻いた気持ちも静まってくる。楽しさもなくなってただチャリを漕いでいると、段々漠然とした焦燥感のようなものが湧き上がってくる。「こんな事してる場合か?」って気持ちになる。先駆的覚悟だとか自己実現だとか、そんなような根源的な焦りや不安。大人になったら人から借りたそういう陳腐な言葉で片付けてしまうようなもの。常日頃感じつつ蓋をして押さえつけていたものが暴れだす。
焦燥感に駆られてペダルを漕ぐまま、結局晩飯の時間を考えて世田谷辺りで折り返した。海というゴールを迎えてればまた少し違う思い出になってたかもしれない。
後日友達にチャリで多摩川を20km下ったんだよと言って、バカでえと笑われた。その時はその程度の出来事だった。
後になってスタンド・バイ・ミーという映画を観て、それが青春作品に分類される事を知った。死体も拳銃も劇的な出来事も無かったけれど、華やかなものではなかったけれど、あれは紛れもない青春だったのではないかと思った。
川沿いを走るでもなく死体を探すんでなくても、別な形で同じ様な青春を過ごした人は沢山いるのかもしれない。抽象的な焦りではなく、進路考えないとだとかもっと具体的だったり切迫した悩みだったかもしれない。あの時の思い出はおれだけの宝物だと思っているけれど、誰でも似たようなことを経験するからこそ青春という言葉があって、スタンド・バイ・ミーも青春作品として支持されているのかもしれない。
先週大学をサボって多摩川をほっつき歩いてみた。あの頃感じた焦燥感が薄かった。
今は門限もなければ外食代くらい訳ないし、電車に乗れば海へ行くのも造作ない。自己実現が僅かにでも進んでいるから焦りが減ったのかもしれない。諦めたか、妥協を受け入れてしまったか、忘れ去ってどうでもよくなってしまったのかもしれない。
ナイーブな悩みにあまりしがみつきすぎない方が良いと思える程度のバランス感覚は手にしたような気がするし、それをすっかり捨てたら人間として終わってしまうような気もしている。
茜色の夕日を見て、短い夏が終わったのに子供の頃の寂しさがないことを少し思い出した志村正彦も似たような気持ちだったんだろうか。
青春と銘打って鮮やかに彩色してしまいがちだけれど、当時抱いた決して明くはないあの気持ちは忘れずにとっておきたい。それを忘れてしまったら、あの頃忌み嫌っていた、お前は子供エアプなのかよと思うような大人になってしまいそうな気がする。
明るい結末に終わらないアメリカンニューシネマも後味が悪い所はあるけど、その居心地の悪さは当時体験した青春への誠実さだと思うのでおれは好き。
本人でもないのにそんナイーブんが通ると思ってるの?
なぜ男性は炊事場に立たないのか、みたいな常識を問うことは割と良しとされても、人権とは何なのか、そもそもそれは存在するのか、みたいな疑問については混ぜっ返し、拗らせ、人類の叡智の否定、野生への回帰、歴史の勉強不足、愚行と断じられるのってなんか茶番っぽさを感じる。
もちろん人間の半分を占めてる女性を抑圧しかねない規範を疑問視するのと、ごく一部の強者の欲求を抑圧して大多数の弱者に恩恵をもたらしてる(と少なからずの人が思っている)規範とでは話が違うんですけど。
自然法則は神様が決めた絶対のルールであって、誰が何を思おうがリンゴが地面から枝に戻っていく事にはならない。でも規範は誰が何を思うかそれ次第、というかそれが全て。時間が流れて考えが変われば常識も変わって法律だって変わる。正しさを見出したのか単に考えが変わったのか、それは答え合わせのしようがない。その口からは絶対の真理が告げられる神様でも連れてこなければ、どちらの捉え方が間違っているとも正しいとも、断言のしようはないと思う。
なんて言おうものなら烈火の如く怒り出す。人権はお気持ちなどではなく絶対です。異を唱えるのは勉強不足でバカなネトウヨか冷笑系です。
誓約書を書いた覚えも、同意しますと言った覚えもないんですけど。それとも世間一般の人はそういうのやってるんですか?
そんな事を言ってるオマエだって人権の利益を享受してるだろって?
それは話がすり替わってますよね?私が人権の利益にあやかっているのと、人権が本当に合意であるかどうか、絶対的な価値であるかとは論理的に繋がらない。
いくら人権がもたらす利益を並べ立てたところで、人権思想を広める有用さを示すには十分だけれど、人権が絶対かという問いからはズレてる。
疑問を挟む奴は人権剥奪のような言いようではまるで異端審問会ではありませんか。
他人を無闇に害してはならない。ムカつく奴を殺したい。これは根拠を辿れば等しく快不快の問題になる。どちらも論理だけでその考えの正当性を示す事はできない。論理と言うより、どちらかと言えば共感の問題だ。
意見とは価値観や感情を土台にしてそこから論理を積み重ねていくものだけれど。人権思想は根源的な感情に論理を乗せたというよりは、感情の多数決そのものではなかろうか。
とは言っても人権思想が多くの人にとって都合が良いというのはまあ確かなのだろうし、多くの人は「多くの人」に包括されるのだから別にそれでいい。論拠などよりも肝心なのは得られる結果なのだし。
別に論拠なんかなくても快不快の多数決で良いじゃんというか、そうする以外にないと思うのだけれど。
人権の「真実」に目覚めたバカ共と違ってこちらは論理的な話をしているが?みたいな感じで、その実さしたる論拠はない所が、なんというか不誠実だよねって思う。ナイーブといえばそれまでだけど。
人権の何たるかについて厳密に議論する事と人権が相対化され果ては軽視される危惧とを秤にかけて、後者を選び取った上で自覚的に絶対的なものだと喧伝しているのかもしれないけどね。
まあ絶対的なものではないけれど、いやないからこそ、不断の努力によって維持せねばならない。高校の現文の魯迅だかの評論でそんなような事を言ってた気がする。当時は理屈レベルでしか今はまあ肌感覚でそうかもねって思う部分もある。
……人権を相対化したからにはこうやって結ばないといけない感じなのもなんか茶番っぽいよなって思う。まあ実際、普通ならそういう結論になると思うけど。
「普通」ではなくて、別にそう思わない人がいた所でそれは単に価値観の相違だろうし、それを否定するには「や、まあ……一応世の中そういう事になってるらしいんでどうぞここは一つ……」って多数決で突っぱねるしか無いんじゃねって思う。というか実際そうされてるだろうし。
フラナリーやマーカス、スコットらに倣えば、最近まですべての階級社会における中心的な政治闘争は、誰が土地を耕し、誰が食料を手に入れるかをめぐるものだった。グレーバーとウェングローの見方は異なる。彼らにとって中心的な問題は権力であり、中心的な敵は国家である。そのため、彼らはいくつかの点で階級を無視している。これは彼らがアナーキストだからではない。ほとんどのアナーキストは、常に階級と権力を同時に重視することができる。
しかし、『万物の黎明』における省略は重要である。グレーバーとウェングローは、合意的で参加型の集会を支持する議論を推し進めようと躍起になっているように見えるが、そのために私たちに一連の謎を残している。4つの簡単な例を挙げれば、その問題がよくわかるだろう。
著者たちは、都市における国家に先行することが多い、村落における階級格差の拡大には関心がなく、その文献を否定している。また、小王国、領主、爵位にも興味がない。中央集権的な大国家が存在しなければそれでいいのだ。私たちは、複雑な採集民に関する彼らの説明の中に、このような紆余曲折をいくつか見てきた。このようなことは、他の多くの例にも現れている。
インダス川沿いの古代都市モヘンジョ=ダロでは、約4万人が階級的不平等も国家もなく暮らしていた。
そして彼らは、ヒンドゥトヴァ派の歴史家たちと同様に、モヘンジョ=ダロは実際に南アジアのカーストに沿って組織されていたと示唆する。しかし、グレーバーとウェングローは、これは平等主義的なカーストであったと言う。最初は驚かされるが、彼らが言いたいのは、王のいないカーストの不平等は容認できるということである[11]。
彼らは一貫して伝統的な王権の力を最小限に抑えている。ミシシッピ川流域のナチェズ王国がその好例である。グレーバーとウェングローは、太陽王の権力と凶悪な残虐性は彼の村の外には及ばなかったと言う。しかし実際には、ナチェズは白人のプランターに奉仕する奴隷貿易における主要な地域勢力であった[12]。
グレーバーとウェングローは、残酷な人身御供の祭りが世界中の初期の州で見られるという重要な事実を正しく強調している。数十人から数百人が生け贄にされ、その多くは戦争捕虜や若い女性、貧しい人々であった。
彼らは当然憤慨している。しかし、これらの生け贄の目的は、敵である他国の人々を恐怖に陥れることであったとも感じている。それとは対照的に、私たちは、流血の主な目的は、流血の実際の聴衆である、残酷な地方国家の臣民を恐怖に陥れることだったと考えている。
実際、このような残酷さが、それぞれの国家の初期の歴史に特徴的なのはそのためだろう。国家の正当性がまだ弱く、恐怖が最も必要とされていた時代である。国家権力が強化されるにつれて、戦乱や敵対は続くものの、壮大な犠牲が消えていくのもそのためだろう。
集会そのものも重要な最後の例である。グレーバーとウェングローは、古代メソポタミアの王国や国家における都市集会の力を極めて正しく指摘している。彼らは、これは王がすべての権力を持っていたわけではないという証拠だと言う。これは正しい。これらの王国で階級闘争が止まっていたと考えるのは、よほどナイーブでなければならないだろう。
しかし、グレイバーとウェングローは飛躍する。彼らは、これらの都市議会は、参加型民主主義を掲げる「占拠せよ!」やその他の社会正義運動の集会に似ていると指摘する。
古代メソポタミアでは、参加型民主主義のいかなる形態についても、これといった証拠はない。しかし、他の階級社会における都市全体や全国的な議会については、膨大な証拠がある。そのどれもが、富裕層や有力な一族によって支配されていた。古代スパルタでは地主が支配していた。ローマの元老院も同様だった。ジョン王や男爵家もそうだった。そしてごく最近まで、ヨーロッパのすべての議会の有権者は富裕層に限られていた。
この近視眼は重要である。他の多くの人々と同様、私たちは王国や国家を、不平等な社会における支配階級がルールを強化し、強制するために集まる方法として理解している。『万物の黎明』では、そのプロセスは目に見えない。
グレーバーとウェングローは怒っている。この怒りには、私たちのようにグローバルな不平等に絶望し、グローバル・エリートの政治を憎み、気候の混乱を恐れる読者を喜ばせるエネルギーがある。
多くの点で、彼らの本は新鮮な風を吹き込んでくれる。そして私たちは、既存のすべての国家に対する敵意を共有している。しかし、今後、気候変動を食い止めるためには、階級と環境の中心的重要性を含む人間の条件に関する理解が必要である。
[1] Fredrich Engels, 1884, The Origin of the Family, Private Property and the State. The book was revived as a key text by socialist and Marxist feminists in debates about women’s liberation. Pace the 19th century social Darwinism which clearly took a lead from the Old Testament, it is now quite clear that both pastoralism and slash and burn agriculture appeared after, and not before, the advent of settled agriculture.
[2] Franz Boas, The Mind of Primitive Man, 1911; Claudia Ruth Pierpoint, ‘The Measure of America’, 2004; Ned Blackhawk and Isaiah Lorado Wilner, Indigenous Visions: Rediscovering the World of Franz Boas, 2018; Rosemary Lévy, Franz Boas: The Emergence of the Anthropologist, 2019.
[3] Very good examples of this work include Sara Hdry, Mothers and Others: The Evolutionary Origins of Mutual Understanding, 2005; Elizabeth Marshall Thomas, The Old Way, 2001; two articles by Steven Kuhn and Mary Stiner: ‘What’s a Mother To Do’, 2006 and ‘How Hearth and Home Made us Human’, 2019; Loretta Cormier and Sharon Jones, The Domesticated Penis: How Womanhood has Shaped Manhood, 2015; a key paper by Joanna Overing, ‘Men Control Women? The “Catch-22” in the Analysis of Gender’, 1987; two books by Christopher Boehm: Hierarchy in the Forest and the Evolution of Egalitarian Behavior, 1999, and Moral Origins, 2012; every book by the primatologist Frans de Waal; the two chapters by Brian Ferguson in Douglas Fry, ed., War, Peace and Human Nature, 2013; Richard Wrangham, Catching Fire: How Cooking Made Us Human, 2010; and two books by the trans biologist Joan Roughgarden: Evolution’s Rainbow: Diversity, Gender and Sexuality in Nature and People, 2004, and The Genial Gene: Deconstructing Darwinian Selfishness, 2009.
[4] Our favourites among the ethnographies of our near contemporary hunter-gatherers are Marjorie Shostack, Nisa: The Life and Words of a !Kung Woman, 1981; Jean Briggs, Inuit Morality Play: The Emotional Education of a Three-Year-Old, 1998; Phyllis Kaberry, Aboriginal Women: Sacred and Profane, 1938, Karen Endicott and Kirk Endicott: The Headman was a Woman: The Gender Egalitarian Batek of Malaysia, 2008; Richard Lee, The !Kung San: Men, Women and Work in a Foraging Society, 1978; and Colin Turnbull, Wayward Servants: The Two Worlds of the African Pygmies, 1978.
[5] Kent Flannery and Joyce Marcus, The Creation of Inequality: How Our Prehistorical Ancestors Set the Stage for Monarchy, Slavery and Empire, 2012; and James C. Scott, The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland South-East Asia, 2009; Scott, Against the Grain: A Deep History of the Earliest States, 2017. Martin Jones, Feast: Why Humans Share Food, 2007, is also very useful.
[6] Edmund Leach had made a similar argument in 1954 in Political Systems of Highland Burma, and radically changed anthropology. For a brilliant ethnography of one group of anti-class hill rebels at the end of the twentieth century, see Shanshan Du, Chopsticks Only Work in Pairs: Gender Unity and Gender Equality Among the Lahu of Southeastern China, 2003. For Scott’s recent extension of his argument to ancient Mesopotamia, see Against the Grain.
[7] This is all succinctly described in Brian Hayden, ‘Transegalitarian Societies on the American Northwest Plateau: Social Dynamics and Cultural/Technological Changes,’ in Orlando Cerasuolo, ed., The Archaeology of Inequality, 2021.
[8] Start with Philip Drucker and Robert Heizer, 1967, To Make My Name Good: A Reexamination of the Southern Kwakiutl Potlatch; and Eric Wolf, Envisioning Power: Ideologies of Dominance and Crisis, 1999, 69-132.
[9] Jeanne Arnold, ‘Credit where Credit is Due: The History of the Chumash Oceangoing Plank Canoe’, 2007; and Lynn Gamble, The Chumash World at European Contact: Power, Trade and Fighting among Complex Hunter-Gatherers, 2011.
[10] On the Calusa, see The Dawn, 150-2; Fernando Santos-Cranero, 2010, Vital Enemies: Slavery, Predation and the Amerindian Political Economy of Life, 2010; and John Hann, Missions to the Calusa, 1991.
[11] Rita Wright, The Ancient Indus: Urbanism, Economy and Society, 2010; and Andrew Robinson, The Indus: Lost Civilizations, 2015.
[12] Robbie Ethridge and Sheri M. Shuck-Hall, Mapping the Mississippian Shatter Zone, 2009; and George Edward Milne, Natchez Country: Indians, Colonists and the Landscape of Race in French Louisiana, 2015.
懐かしいな。ワイも好きやった。ナイーブとかハネムーンサラダとか。単発単行本も何冊か買った。
ややこしい女に男がシッチャカメッチャカにされて、それでも最後はハッピーエンドに収まる話が好きだった。
ローン完済済みの家に手を付けていない退職金と年金、不労所得だけで日々の生活が成り立っている自分の実家と
外食すれば両親が払ってくれる(自分が出すこともあるが)自分の実家と、
良い大人が3人(妻の両親と祖母)もいて、娘に経済的に依存するのもどうなんだという思いがある
恐らく毎月のコスト(家賃を覗いた生活費)は自分の実家の方がたぶん安いし
やめてくれと言っても子供に何でもない日におもちゃやお菓子を買い与える
定期的にあるわけではないが、大きな出費があった時に妻がいくらか支払っているのを見たこともある
正直妻の実家にはキャッシュフローを見直して、死ぬまでにお金がなくならないか、
毎月いくらまでなら使えるか、誰かが亡くなった時などにどういう風に生活が変わるのかなどを考えてほしい
その上である程度の資金援助ならやってもいいが、ズルズルとお金がなくて...で払うようなことはしたくない
妻にもやんわりと伝えているし、妻からもそれとなく義実家にそういう話題を出すこともあるが、まあ状況は変わっていない
どこかで1回ちゃんとした話はしたいと思っているのだが
「お前の実家は金持ちだから私や私の家族の気持ちはわからない」と言われたらどうあっても平行線だなと感じている
とは言え、自分の両親がそれなりの資産を持っているのは小さい時から倹約してきた部分も大きいと思うし、
できるだけ一般的っぽく考えてみて、夫の行動・価値観が普通ではないのは間違い無いと思う。法に触れる触れないは別にして、倫理観はかなり自分の都合の良いようにネジ曲がっていて、性に対しては依存症に近いものがあるのではないかと思う。
また、そんな夫を許したり、矯正できるのではないかと思っている増田さんも、ナイーブなはずなのに一般的な常識からは結構かけ離れた懐の広さみたいなのを持ってしまっているように思う。
執着が生まれてしまっている関係の人には響かないのかもしれないけど、破滅的な状況ではないかと。
「許されるのか?」という問い方をしてもきっと救われない。
法的になのか、心情的になのか、一般的になのかでも全然違ってくる。
ざっくりした問いを不特定多数に投げても、雑な回答しか返ってこなくて、より病みを深めてしまうのではないかが心配。
自分がどうしたくて、どうしたくないのかみたいなところを整理して、そこで決めた目的に向けて各事象を判断するべきかと。
正直、心情的に増田が納得しハッピーになるのは難しそうだから、法的な観点で自分のダメージがこれ以上大きくならず、できるだけ幸せになるための材料を集めてほしい。
多分お前はこれ聞いても「え?こんなの頼んでないけど?」って言うと思う。
お前が知りたいのは「超有名なはずなのに何故か自分は知らなかったアニメ」。だろ?
でも俺は意地悪だからお前の望み通りに二線級の傑作を伝えるは。
B級の有名作品でもなければ超マイナーでもない中途半端に知名度があるようなないような奴な。
ある日超能力に目覚めたいじめられっ子の青年が謎の組織や怪事件に巻き込まれる。
2000年問題終了前後のジメっとした雰囲気が残るアニメの中でも、とりわけメンヘラ感漂うサイケな作品。
主人公はイジイジしているしヒロインのジノリはなんかこえーしでキャラクターが魅力的かと言われると微妙。
2000年代前後のFPSやADVを彷彿とさせるようなオカルティックかつナイーブな雰囲気でセカイ系なのか狭い世界系なのか分からんノリに浸りたいならオススメ。
グーグルで検索すると「1話だけ」がサジェストされる1話全力アニメ。
とにかく1話のワクワク感が凄い。
むしろ300%の価値がこの回にあって残り11話かけて上がった期待値分の反動-200%を視聴者は支払うことになる。
アウトロー感のある世界!パラシュートで落下してくるアンドロイドの12姉妹!大塚明夫ボイスのオッサン!
通称全1話。
この話をすると2005年製のフタコイオルタナティブも話題に上がるが、この辺の時代はとにかく深夜アニメが1話で必死にやって3話ぐらいで力尽きることが多かった。
全話見た人は「これは一線級だろ!」と思うだろうが、マイナーさじゃ二線級になれるかさえ怪しい作品。
強烈な伏線回収で最終的に面白くなるけど序盤はひたすら地味にしか感じられないだろう。
こういった後半面白くなる系はシムーンの百合みたいにどこかしらピーキーな要素で客寄せパンダするがこの作品はそれさえしない。
旨い料理を作るけど宣伝する気が1ミリもなくていつか潰れるんじゃないかって雰囲気がずっと漂ってる地元の定食屋みたいな味わいがある。
リアルタイムで子供だった人は全話通して見たときの奥深さを理解しきれず、リアルタイムで子供向けアニメ卒業していた人は見ておらず、子供向けアニメだろうが全話見ていたオタクだけが滅茶苦茶面白かったことを知っているアニメ。
全52話のうち20話ぐらいまでが貯めで折り返しぐらいからグイグイ面白くなっていく。
子供向けボンバーマンを20話見る下準備に耐える覚悟はあるか?
相性が良ければ最高の体験ができるぞ。
全話見て合わなかったとしても俺は知らん。
コレを見て「いつ面白くなるの」と言うような奴と口を利く気はない。
さぁカメラが下からグイッとパンしてタイトルロゴがドーン!の元ネタ。
石ダテコー太郎監督が一時期量産していた「女子声優ラジオにキャラ設定と3Dアニメをつけたようなナニカ」の中で一番有名な奴。
合わない人によっては1話OPの冒頭が最大瞬間風速で終わるが、合う人にはずっと面白い。
とりあえず1話のOPだけ見たら興味を持つと思うからそのあとは面白いと感じる範囲まで見れば良い。
たつきが関わっていたり、カメラが下からのフレーズがやたら有名だったりのせいでそこそこ知られてはいるが、実際に2話以上見てる人ってかなり少ないと思う。俺はくたパンネタの使い回しに飽きてきて6話ぐらいで切ったはず。
リリカルなのはの少し前~同時並行ぐらいで新房昭之が関わっていた作品。
詳細は察して欲しいのだが、ソウルテイカーの後暫くの間とある業界に関わりより強烈になった作風が強く出ている作品。
なのは1期のOPを思い出してほしいんだがあのどこか暗く塞ぎ込むような雰囲気が、こちらではより強く押し出されている。
陰鬱で陰惨な世界に艶めかしさを加えた耽美主義と悲観主義のないまぜの空気が某業界で働いて経験値を稼いできたことを感じさせる。
これを見て、ソウルテイカーを見て、なのは1期を見て、それからまどマギを語ることでオタクとしてよりキモくなれるぞ。
これ凄い有名な気もするんだけど、知ってる人が凄く知ってるだけな気もするんだよな。
分かる人にはもうこの時点で不穏しか無いけど、本当にただただ不穏なことしか起こらない。
ギスギス系の鬱アニメで、人間の最大の敵は人間って感じの作品なんだが、同時に地獄の中で人間性が研ぎ澄まされた結果の人間讃歌も強烈。
楽しく語るタイプの作品ではなく、見た後にズーンと強烈な何かが胸に残り続けるタイプ。
知ってる人は「これ面白いよね」って言うんだけど、他の人に「面白いよ」って薦めるのは性格悪い奴ぐらいな気がするから、それでイマイチマイナーなようなメジャーなような微妙な感じなんかな。
可愛い女の子がバレエをするとってもハートフルなアニメだよ。モチーフは白鳥の湖とかその辺。
運命とはまさしく地獄の機械であると言わんばかりの歯車仕掛けの悲劇。
バレエとクラシックが作品のモチーフとして強く用いられているので見る側にある程度教養が求められるので敷居はちょっと高い。
でも扱われているのは有名作品ばかりだから大人が見る分には問題ないはず。
ミュージカル色の強いアニメは定期的に出てくるけどオペラっぽい雰囲気の作品は珍しいのでそれ自体が見所。
可愛いと可哀想が一緒になると2倍美味しいと思える人は是非見てね。
アーイ!ジー!ピー!エーックス!の掛け声が特徴的なOP曲を歌うのはGRANRODEO。
人型ロボットで3対3のチーム戦モータースポーツをするという非常に色物な設定。
リーグ戦の下位チームが下剋上を狙う語はホビーモノとお仕事モノとロボットモノがごたまぜになり他にない空気感を醸し出す。
レースのルールが意味不明とかこれ殴り合わずにスルーすればいいんじゃないかとかツッコミどころはいっぱいなのだが、ロボがレースをするという独特の絵面はインパクト抜群。
突っ込みどころ満載のレースに目をつぶれば全体としては若者の葛藤を描いた名作だと思う。
でも後半は迷走し過ぎだし、前半は無難に作りすぎてるのよね。
でも全体を通して流れる「とにかくやるしかねえ」「なんでこんな上手くいかねえんだろう」の行ったり来たりは人生描いてるなって感じるし、中盤はそれがいい感じなんでその辺だけでも見て欲しいかな。
・魔法遣いに大切なこと 優しくて大人しい地に足の付いた雰囲気のアニメ。こういうの最近減ったな。
・ARIA すげーマッタリした気分になれる。寝る前に見るアニメって全部こういうのでいいのでは。
・夏目友人帳 優しい妖怪と人間の話。落ち着いた喋り方するアニメってなんか最近減ったよな。
・R.O.D(OVAとTVシリーズがある)滅茶苦茶映像が凄くて音楽が格好良くて話がよくてキャラが可愛いくて格好良くて映像が凄い。
・bpS バトルプログラマーシラセ ハッカーがハッキングで戦うアニメ。攻殻機動隊みたいな重い感じではなくコミカル。
・Serial experiments lain カルトアニメの金字塔。カルトっぽいアニメが見たいならこれを見るしかない。
・神霊狩 lainと似た感じのアニメ。滅茶苦茶カルトっぽいぞ。
・GUN GRAVE アクションマシマシのゴッドファーザー。1話が視聴者置いてきぼり過ぎていきなり見ても面白くないので2話から見よう。
・瀬戸の花嫁 ナンセンス系ギャグアニメの傑作。意味分からんけど面白い。当時のダークホース筆頭。
・ゼーガペイン ◯話まで見ろで有名になった奴。確か6話。個人的には妹が出るまで見て欲しい。
・アクエリオン 個人的な「6話まで見ろ」。6話までじっくり丁寧に積み上げて放たれる展開は爽快。ついてけなかったら見なくて良い。
・地球防衛企業ダイ・ガード スパロボ参戦でメジャーになったスーパーリアルロボット系(スーパーロボットが現実に居たらどうなるんだろう?系)。
・南海奇皇 (ネオランガ) ロボットが日常生活に食い込んでくるマジックリアリズム的な作品。ある意味スーパーリアルロボットだけどロボ自体は普通にスーパー系。
・学園戦記ムリョウ 宇宙人転校生との交友を描く作品なのだが絶妙に地に足がついていて生々しい。日常系かつハードSFという独特の作品。
・プラネテス 宇宙のゴミを拾うデブリ屋の物語。「愛」の概念の元に孤独な自己探求を貫く物語としての色も強い原作と比べ、アニメ版は「愛」を軸に人と人の繋がりを暖かく描く傾向が強くなった。原作とアニメ両方味わうとちゃんと2倍楽しい。
・宇宙のステルヴィア 序盤は天才主人公のTUEEEEE物語。雲行きの怪しくなる後半からは賛否両論もあるけど他の作品ではあまり見れない展開があるので「めっちゃたくさんアニメ見たけど他になにかある?」って人には取り敢えず薦める。でもめっちゃアニメ見てる人はもう見てる気がする。
・王立宇宙軍 オネアミスの翼 オタクの常識にして世間の非常識。ロケットを飛ばすだけ(この作品風に言えば、ロケットがただものすごい速度で落ちるだけ)の滅茶苦茶作画が豪華なアニメ。オタクは皆見てるし大好きだけど、一般人は見ても多分そんな面白くないしそもそも知らない。