はてなキーワード: ドッヂボールとは
当時小学生だった。
子供ながらにあの頃は発達障害についての情報がほとんどなかったと思う。インターネットも今より普及していなかった。母親は髪を振り乱しながら、おかしい、普通の子じゃない、普通に出来ないなんて、おかしい、おかしい、変、変、変、どうして出来ないのと毎日叫んでいた。
じゃあどんな小学生だったかと言うと、まず運動音痴だった。リレーはいつもドベだし、逆上がりもできない。跳び箱に挑むとタイミングがわからなくて、そのままぶち当たって箱を破壊する。マット運動で転がると眩暈がして上手く起き上がれない。逆に勉強は自分で言うなって話だけどかなり出来た。字を書くのは上手くはなかったけど、勉強自体は楽しかったしすぐ理解できたので何もしなくても満点だった。
運動会ではお荷物だったしドッヂボールでは毎回泣きたくなるくらい当てられてたけど、体育自体は好きだった。勉強だったら負けなかったし、友達も沢山いた。
子供なんてちょっとしたことでいじめてくる。田舎から来たからとか、身長が高くてのろまだったからとか、服がユニクロだからとか、ゲームを持ってなかったからとか、流行りのドラマを見てなかったからとか、塾に行ってないのにテストで満点取ったからとかであっという間にいじめられるようになった。
教室に入るとささっと4人くらいから囲まれて、色々言われた。メンバーは日替わりだった。半年くらいは我慢してたけどある日急に行く気がすっかり失せてしまって、仮病を使って休むようになった。
それを母親は許してくれなかった。学校に行かないなんて普通じゃない、おかしい、と毎日私を打つようになった。いじめられるから行きたく無いと言えばよかったのかもしれないけど、私が田舎から来たのもユニクロを着てるのも、ゲームを持ってないのも、ドラマを見てないのも、塾に行ってないのも、テストが満点なのも全て紛うことなき事実だし、事実を言われただけだしな…これはイジメではないはず!ただなんか学校に行きたくないだけ!と謎に前向きだった。いじめってバカとか死ねとか言うものだと思っていた。
(あの頃の自分に言いたいけど、階段から突き飛ばされたり、靴の中に土入れられたり、クラスメイトが川に落ちた時お前の責任にして学級裁判もとい糾弾会開くのは立派ないじめだと思うよ!)
叩くものが母親の手から布団叩きに変わる頃、ようやくクラスの子からダサいとか謝れって言われるから行きたくない!と泣いて吐き出した。それくらいがなんだ戦え!やり返せ!と言われた。
ブランド物の服を着たあの小柄なクラスメイトたちが、私には小鬼に見えた。そんな小鬼と戦えない。
普通はどんなことがあっても行ってるはずなのに、どうしてこの子は行かないのか、普通じゃないのか、こんなのおかしいと母親はノイローゼになっていた。父親は俺は知らないの一点張りで、他の女性たちに夢中だったし、もう少ししたら私にも手を出すようになってきた。我が家は完全におかしくなっていた。
真冬に寝巻きのまま裸足で外に出されたり、どこかの川沿いや公園や児童養護施設の前に置いていかれるようになった。この頃になると、うちの親は話が通じないからおまわりさんに助けてもらおうと交番に行くようになった。毎回家に送ってもらってお宅の娘さんが…とインターホンを押すや否や両親は飛び出して私を抱きしめていた。涙を流して、ほんの些細な喧嘩なんです、私たちが悪いんです、厳しくしすぎました、本当に帰ってきてくれてよかった、この子は私たちの宝物、ご迷惑をおかけして申し訳ありません…と泣いてぺこぺこしながらおまわりさんたちにお礼を言っていた。そういう両親を見ておまわりさんたちもすっかり態度を軟化させて、ご両親に迷惑をかけちゃ駄目だよ、と私に説教をして帰っていく。外面はめちゃくちゃいいのと隠すのが上手いので、今でも両親は周りからは、上品で優しいお母さんと思慮深く手先が器用でなんでも作れるお父さん、こんな素敵なご両親なんてあなたは幸せだよと言われている。嘘だろ。
子供ながらに何もかもがもうだめかもしれない、と思うようになったある日、機嫌の良い母親ならお出かけしよう、と連れ出された。狂言自殺を繰り返していた母親を前に心中という単語がチラッと頭をよぎった。長い長い時間電車に揺られ、着いたのは病院だった。そこでまた長い時間、ゲームのような、簡単なテストのようなものを受けた。今まで何度か精神病院に引きずられて行ったことはあったけど、あそことは全然ちがうな、と思った。
アスペルガー症候群の傾向が出ています、みたいなことを言われた。
なにそれ?頭の病気?治らない?一生?と一瞬ショックを受けたものの、治らないなら仕方ないと諦めた。
それから母親は激しい浮き沈みはあるものの私の不登校を基本的には許すようになった。この子はアスペルガーだから、頭の病気だから仕方ないと。反面で私に天才になれと言うようになった。エジソンだってアスペルガーだった。学校にも行かなかった。同じアスペルガーだから絶対になれると当然のように言った。少しでも逆らうと怒り狂って、お前は人殺しになってお母さんのことも殺すんだろうと怒鳴ってきた。当時話題になっていた事件の犯人が、発達障害だったからだそうだ。
私が中学の頃に父は単身赴任となり、私たち母子だけで暮らすようになってから、だいぶん楽になった。ちゃんと「学校」と呼ばれる場所に通えるようになったのは高校からだった。そこの高校は名前を漢字で書くことができれば受かると言われているくらいのレベルだった。一番最初の数学の授業は2桁の足し算のプリントをひたすら解けと言われた(後ろの席の男子からこれわかんねぇから答え教えてくれと言われた時はびびった)。長い期間のストレスからか、自分の名前の漢字と平仮名カタカナ以外ほとんど書けなくなっていたのでとにかく早く、どうにか楽しつつ巻き返せないかと試行錯誤した。相変わらず短距離走や球技は酷いものだったけど、長距離ならそれなりにできるとわかった。家にいたくなくてボランティアやら勉強会やらに積極的に参加した。授業態度は良かったので(そもそも周りが最悪なのもあった)先生からは良くしてもらえた。先輩達は挨拶もろくにできねぇのかと凄んできて恐ろしかったけど、お陰で誰にでも大きな声で挨拶ができるようになったし、怒らせなければ面倒見の良い人達だった。ヤンキーばかりかと思ったクラスメイトも親切で、今でも何人かとは親しい付き合いがある。頑張れたお陰か無事大学にも通えた。
途中就職に失敗して鬱になりかけたりニートになったりして、心療内科から貰った全然効かない薬を飲みながらカウンセリングを受けたけど、結局一番効果があったのは、気晴らしに始めたバイトの給料を使っても良いと言われた時だった。現金を使える自由が私には何より効いた。
今本屋に行くと発達障害に関する本がズラッと並んでいる。少し前までは発達障害の人とどう付き合うかという内容ばかりだったのに(それでも最初は本屋にあった時点で衝撃を受けた)、発達障害の自分がどうやって生きていくかのライフハックが書かれた本たちが並んでいるのを見ると、昔に比べて良い時代になったのかもしれないとしみじみ思う。
ところで、私が子供の頃貰った「アスペルガーのお友達どう付き合うか」の本を読んでみると、症状が全然当てはまらない。肌触りに敏感でもないし、誰か(この本で言うとクラスメイト)が泣いていたらどうしたのかと心配になる。怒らせてしまったら私のあの言葉や態度が悪かったのかと気付くし、これじゃないと駄目みたいな強いこだわりも特にない。社会復帰してからは遅刻も寝坊もした事がない。作業にのめり込むこともないし、無くし物もしない。特に親しい友人や夫に、もしかしたら発達障害かもしれないから当てはまるなら正直に教えてほしいと頼んでみたけれど、特にない、別に普通だと言ってもらえた。私を含めた全員素人だからなんとも言えないけども…。
最近気になる話を聞いた。子供のうちに猛烈なストレスを受けると、発達障害によく似た症状が出るらしい。それに関する論文をしっかり読んだわけでもないので、あくまでそうかもしれないの粋だけど、もしかしたら、と思ってしまう。もう一度あのテストでも受ければ良い話なんだけれどめんどくさい。
小学生の時は足が速い奴に嫉妬してドッヂボールを磨きまくりクラスで一番の剛速球を投げれるようになった
肩の強さは今でも役立ってる
中学生の時はクラスの人気者に嫉妬してとにかく面白いを研究して学年一のひょうきんものになった
高校生の時はイケメンに嫉妬してとにかく勉強して学年で3番目くらいの難関大学に入った
学歴はなんだかんだ役立つ
大学生の時は頭いい奴に嫉妬して学年5位くらいのGPAをとった
このまま働いてれば金に困らず人生安牌だね、そう思ってた
2年たった今、会社に嫌気がさしている
嫉妬しなくなったんじゃなく、嫉妬できるようなまぶしい人がいないんだよ
感情がなくなってきた、性欲がなくなってきた、他人に興味がわかなくなってきた
過去の自分より劣化してきた、一日をはやく過ぎろとしか感じなくなってきた
嫉妬が生きがいです
最近話題になっていた男子小学生の盗撮のせいで、掘り返されてしまった最悪の記憶の供養。
小学生の時、気に入らないことがあると泣きわめく(しかも嘘泣き)男子がいたんだけど、異様に女子が好きで近寄りたがる奴だった。男子に相手にされないのもあったし、本人も男子より女子にくっつきたがっていた。
小学1年生とかでそんな感じで、当時あまり理解して無かったけど、とにかく気持ち悪いと思ってた。面食いなのも気持ち悪さ増してた。
そいつが不機嫌になったり、嘘泣きをし始めるともう手に追えなくて、あらん限りの大声で喚くわ女子に八つ当たりするわ、お気に入りに抱きついたり慰めてもらおうとするわ…先生もめんどくさいのか、あまり強く引き剥がしたり叱ったりしてくれなかったように思う。親も典型的なモンペで、「うちのムチュコタン」タイプの人だったからかもな。
あれは何年生の時だったか。
私の通ってた小学校には、プールに更衣室がなくて、授業の時は男女別の教室で着替えてた。
その日の前の授業か中休みかに、そいつがいつものごとく泣き喚いて、盛大に拗ねていた。
そしてあろうことか、「不機嫌です!」と言わんばかりの顔して、"女子が着替えてる真っ最中の教室"に入ってきた。
当然女子たちは「え???」って凍りつくし、どうしていいかわからなくて、時間が止まったみたいだった。
そいつは机に突っ伏してたけど、時々辺りを伺うふりして見回してた。
担任は、理由は覚えていないけど近くには居なかった。そもそもいつも見張りはしていなかった。そしてその後、女子の着替え中に侵入したことを怒られていた記憶が無い。
別の時。これは小学3年生の頃。
私は気が強い女子だったし太っていたので、面食いなそいつに基本的には嫌われていたのだけど。
発育のいい子どもだったので、その頃の私の胸は膨らみ始めていた。
でも基本的にTシャツ1枚とかで過ごしていた。暑がりだったし親が無頓着だったので、肌着を着てなかったんだよね。
ある日の休み時間。ブランコに乗っていた私の顔面に、ものすごい勢いでドッヂボールがぶつかった。
当然勢いよく鼻血が出て、服も真っ赤。泣きながら保健室にいって処置してもらった。
保健の先生(女性)は、血が乾いて落ちにくくなる前にと私の服を脱がせて水洗いしてくれたんだけど、私が着られるサイズの貸し出し用の服がない。
暑い時期だったのもあったからか、上半身裸の私を置いて先生は服を探しに出ていってしまった。
まだ鼻も痛いし、ボールが飛んできたショックも全然抜けてなくて、茫然自失。
ぐすぐす泣きながら待っていたんだけど、なぜか例の気持ち悪い男子が急に「大丈夫?」と言いながらやってきた。
明らかに私が裸でいることをわかって、見に来たのだ。
先生は裸の私に配慮して部屋のカーテンを締めてくれていたので、それで察したのかなんなのか。
それでもそいつは、正面に回り込もうとして来た。
普段なら言い返せるしやり返せるのに、痛みとショックで弱っているわたしには逃げることしかできなかった。
引き戸の開く音がしたので先生が帰ってきたのかと思ったら、当時の副担任(若い男性)が「大丈夫か」と言いながら入ってきた。
こいつ、他の先生方にはヘコヘコヘラヘラしているくせに、他の大人がいないところでは子どもに対して高圧的だったし、すぐに機嫌を悪くしてキレてきたりしてきたので、めちゃくちゃ嫌われていた。
そんな成人男性が、なぜか猫なで声で「心配したぞ」なんて言いに来ている。女児が上半身裸なのに、平然と部屋に入ってきたのである。
今思うと、保健の先生が服の在処を聞いて回ってくれてたんだろうな。それを悪用して、確実に先生がいない上に裸なのをわかって保健室に来たんだろう。
わたしの恐怖はマックス。余計に泣いてしゃべれないし、嫌がって必死に2人に背中を向けているのに、心配を盾に回り込もうとする2人。もう逃げ場がなくて、泣いて固まるしかできなかった。
ようやく保健の先生が帰ってきて、すぐに2人を追い出してくれた。普段は怖い先生だったんだけど、「大丈夫?」とすごく優しく心配してくれたのを覚えてる。
そして、「お母さんに言って、ブラを買ってもらいなさい」と言ってくれた。私は成長が早いから、もう着けた方がいいよって。
もしあの時既にブラを着けていたら。
下着姿だって絶対見られたくないけど、裸見られるよりマシだったなって今でも思うし、そう思ったから先生も勧めてくれたんだろうな。
ちなみに、副担任は後日『家庭の事情』で学期途中から来なくなった。私の件が関係していたのかはわからないけど。
嫌な思い出の供養なのでオチはない。
ただ、小学校低学年と言われる男子でもこういう事してくるし、男が基本的に信用できないって人がいるのはわかってほしい。
てかクソ同級生から芋づる式で思い出して書いたけど、あのクソ教師本っ当に気持ち悪いことしてきてたんだな。
2人とも、あらゆるバチが当たって不幸のどん底であれ。
そう思ってジャイアンの年齢を調べたら10歳、ポケモンのサトシも10さい。大人が脚本するもんはそんなもんなのか、とも思う。
私は4歳の子供がいる、いい歳の大人である。公園に行くときはこどもと一緒に行って、わりとはしゃぐ。
そんなふうに子供と遊んでいたら、賢そうな(偏見)男の子に話しかけられた。どうやら、公園内でいやにはしゃいでいる男の子の『ヤラカシ』に苦言を呈しているよう。
内容は端折るが、公園にあるものを壊して遊び、壊したものを粉砕してあたりにばら撒いているらしい。そんで子供たちにそれを強制してるのだとか。
ガキ大将じゃん。まごうことなきガキ大将じゃん。ガキ大将は子分を連れて砂場で大暴れしてる。そこに別の子いるけど、かまわないようで、小さい子が困っている。
将来はジャイアンか??とも、一緒になぜ私に相談したの??とも思った。
私はただただ愛しの我が子とふらっと公園に遊びにきたんだが。
なるほど、賢い子の思考はわかった。組みしやすいと思ったか、母親に近しい見た目から相談しようとしたんだな。
相手が私じゃなかったらなあああああ。
(ということ考えていたことなかれ逃げ腰の自分に、今思い返しても辟易する)
うちの子はうちの子で遊んでるからなあ、と思いながら、とりあえず全部ちゃんと片付けしよう、といって強制させられた子たちに声をかけながら片付け。
そのうちジャングルジムの方にジャイアンは移動して、先にジャングルジムで遊んでた子をからかいはじめたようだったけど、ともかくこっちを片付けはじめた。うちの子もやってきて「何してるのー?」「てつだうー!」とよくわかってない他の子も混ざってお片付け。うちの子マジ天使。可愛いからほんと写真とか見せつけたいけど、みんなメロメロになるからやめとくね。ほんとマジ可愛いんだわ。
そうやって掃除だけなんとかこうとかして、賢そうな子にも「片付けおつかれさま」とか割と楽しげに声をかけてまあまあまとまったかなあ、解決はしてないけどな、と思ってたらジャングルジムの方で女の子が泣きじゃくってる。
どうもジャングルジムから上の子を引きずり落とそうとジャイアンが遊んでるらしい。泣いてた子もたぶんジャイアンと歳が近いみたいでやり返したりもしてたのでわりと喧嘩の範疇かな、とも思って静観。うちの子も喧嘩から遠回りにジャングルジムに登り始めた。危ないから、と声をかけてるうちにジャイアンが女の子の足を引っ張って、女の子がいやがってその手を蹴った。ジャイアンは思わず手を離して後ろの方に倒れそうになった。
ジャイアンはバランスとって地面に飛び降りてたけど、あれは下手したら頭の後ろから落ちそうなもん。
そろそろ止めないと、と思ったらジャイアン、足元に落ちてたボールを投げた。
多分女の子にやり返したかったんだろうが、暴投して、我が子のとこに。
ブチギレた。
我が子にあたる前にジャングルジムに当たって跳ねたから、我が子にあたってはいない。
だが、そう言う問題ではなかった。
ドスきいた(私なりに)声がでて、「ボールは人に投げるもんじゃないでしょうが!!」ってうん、わかるよ。そう言う競技あるよね。賢い子がきて「ドッヂボールじゃないんだよ」って近くに来てまさかのフォローされたよ。
だが、そんな痛恨のミスもジャイアンはなんのその。ジャイアンとしては、めっちゃ怒ってる知らん大人怖い。やべえ、って漢字のへらへらっと笑いで「まちがえた」と。間違えた。うわあ、こいつ反省してねえ。と思ったけど大人として何にもなってない私。離したこともない初対面ボーイに怒鳴った大人気なさよ。
そのあと気をつけて遊びなさい…ともいったかな…我が子と5時になることを言い訳にそそくさ帰ったよね。
・二人居ればキャッチボール余裕
・壁有れば二人でピッチャーバッターできる(野球の半分よりは多いかはともかくとして、二人でやる⚽もどき同等かそれ以上)
・ベースなんて石ころあればできる
サッカーボールって結構な値段するが、ホワ球は100円とか、100円で数個入りもある
これに勝てるのって、それこそドッヂボールとか、名前忘れたけど、マンホールを塁に見立てて、往復盗塁するみたいな遊び(野球+ドッヂみたいなやつ)。
そもそも世界で野球が不人気だから、手打ち(野球)とか流行らなかったんだろうけど
仮に野球人気が広がってるなら、サッカーもどきよりも気軽じゃねーかとすら(バットコントロールだけは身につかないが)
まあ空き地広いから、フットサルとか3on3みたいなのじゃなくてもっとサッカーサッカーしてるのがプレイできるってのが海外事情なのかもだけど
ホワ球:当たっても痛くない万能の野球ボールサイズの球。地元ではそう呼んでたけど、他の地方では知らんし始めて文字で打ったから、それまでは音としてのほわきゅーとしか認識してなかった
子どもの頃に読んだサバイバル術の本で「火の起こし方」を詳しく解説したページがあった
当時の私はとにかく好奇心旺盛で、「こんな方法で本当に火が起こせるのか」と試したくなり、かといえ勝手に試して火事にでもなったら父親に殺されかねないと思い、一番身近だった大人である小学校の担任の先生に「この実験をやってみたい」と、とても熱くプレゼンをした
林間学校を翌月に控えていたことと、すでに着火している私の好奇心に引き寄せられた数名のクラスメイトからの懇願もあり、「やる方向で検討するから、どんなもの必要なのかまとめて欲しい」と言ってくれた
当時の小学校では担任の裁量で自由な使い方をしてもいい「学活」という時間があり、そこでは主にドッヂボール大会やお楽しみ会などのイベントが開催されており、私が提案した「火起こし」もその学活の時間で行われることになった
とはいえ、人数分の木の板と手頃な棒を調達するには調整がなかなか大変だったようで、最終的には工務店を営むクラスメイトの伊藤くんのお父さんが火起こしのセットと大量のおが屑を提供してくれ準備は整った
ちなみにその後から2ヶ月ほどは伊藤くんはクラスのヒーローになった
火起こし当日、発起人である私と数名の友達で大量の木材とおが屑を校庭に運び、消火用に水を張ったバケツと用務員のおじさんから借りた園芸用ホースを準備し、いよいよ火起こしの時間が来た
まずは板と棒を配り、先生が火起こしの方法をまとめたプリントを配布した
先生はプリントを見ながら「いろいろな火の起こし方があるが、今日は一番シンプルな「きりもみ式」でやってみよう」と説明し、「じゃあまず先生がやってみるから見やすい位置に広がって」「じゃあ行くよー!」と棒を両手で回し始めた
すぐにでも大きく炎が上がると思ってみていたものの、出るのは先生の汗と「おっかしいなぁ」という呟きだけで、炎どころか煙すら出てこない
ふうふうと明らかに疲労を隠せない先生を見てすでに飽き始めたクラスメイトが出始めた頃、万が一の事態に備えて待機していた校長先生が代役を買って出た
流れるように所作で担任と変わり、老練の手つきで棒を回し始めあっという間に煙が出……ることはなく、ものの数分で校長先生の方が燃え尽きる結果となった
大人の男性でも煙すら出ないとは……と、長い戦いを覚悟した子どもたちは静々と自分たちのスペースに戻った
誰も無駄口をたたかず、ただ「ふん」だの「よいしょ」だのという自らへのエールと木が擦れる音のみが漏れ聞こえる中、よく見ると富山くんだけがこの挑戦に挑んでいなかった
富山くんは周囲を見ては恥ずかしそうに顔を伏せ、また周りを見回しては赤面しモジモジしていた
座りながらズボンのポケットに手を入れなにかゴソゴソしては、棒を手に取って少し回しては「へへへっ」と生ぬるい笑みをこぼしていた
先生は相変わらず汗だくで自分の棒を回し、校長先生は両手をぶらぶらさせながら、細い腕にすこしだけ残った筋肉から疲労物質を押し流そうとしていた
そうなると、無責任にも目の前の火がつかない火起こしよりも富山くんに俄然興味が湧いてきた
中腰でこっそりと富山くんに近づき、背後から「なんでやらないの?」と声をかけると、富山くんは「うへゃぁ!」と驚きの声を上げながら後ろを振り返った
その時、富山くんが持っていた棒が落ち、木の板をコーンと鳴らした
そこで私は気づいてしまった
私を見ようと体を反らせるような体勢になった富山くんは驚くほど勃起していたのだった
「え?なんでぼっ」と言いかけたが、ここでそれを指摘してしまっては富山くんはきっと数年は「ボッキマン」という人権を無視したニックネームで呼ばれることになる
私は慌てて残りの言葉を飲み込み、富山くんの耳元で「なんでそんなになってんの?だから火起こしやってないの?」と聞いた
なんと言おうか悩み顔の富山くんは少し考えたあと、私に「だってこれエッチくない?」と耳打ちし返した
何がエッチなんだろう?火を起こすことのどこにエロに感じるのだろうと不思議に思うと、富山くんは「だってさ、これシコるやつじゃん」と続けた
好奇心旺盛ではあったが性的なことには疎い私に比べ、中学生の兄を持つ富山くんは今思えば当時すでに自慰行為をしていたのだろう
しかものちに知ることになるが、シコる方法がオーソドックスな上下に動かすピストンタイプではなく、火起こしをする時のきりもみ式だったようで、富山くんにとって好きな女子がきりもみ式で顔を上気させるシチュエーションは全力勃起案件だった
その時の私は申し訳ないが意味がわからず、それでも無責任に放棄しかけた火起こしチャレンジ発起人としての立場から富山くんにも参加して欲しく「でもさ、ちょっとやってみてよ」とお願いした
富山くんは股間の棒が落ち着くのを待ち、先ほどを落とした棒を拾い「無理だと思うけどなぁ」と独り言をぶつぶつと言いながら棒を回し始めた
回し始めて回数にして6回転目くらいに異変が起こった
富山くんがにやけ始めるとほぼ同時に細く薄い煙が立ち上り始めたのだ
私は「先生!先生!富山くん出てる!」と叫び、クラス中の視線が富山くんに集中した
煙を見た先生はおが屑を一掴みし、富山くんの元へ駆け寄ってきた
その間も富山くんは「ぐっふ、ぐふふ!」と気持ち悪い笑みを浮かべ手を動かし続けた
富山くんの元にたどり着いた先生が「富山すごいぞ!」ちょっと棒貸してみろ!」と興奮気味に棒を取り上げると、棒の先端は黒ずんでいて、板には小さな火種が起こっていた
そこに先生がおが屑を少し乗せ慎重に息を吹き込み、おが屑に燃え移った瞬間に板から大きくなった火種を落とした
残りのおが屑に火が移り、数分前まで全員が絶望していた火起こしが完遂された
火が大きくなると歓声と拍手も次第に大きくなり「え?誰がやったの?」「富山すげー!」「富山くんやったじゃん!」と富山くんを讃える大歓声になった
富山くんはさっきまでの完全な異常者のような気持ち悪い笑顔から、やり遂げたまるで賢者のような清々しい表情で、降り注ぐ賞賛を一身に浴びていた
その後「富山くん!私のもやって!」「その次は俺のやってよ!」とひっきりなしに呼ばれては火を起こし、また新しい棒を受け取ってはあっという間に火種を起こしていった
少し前には「ボッキマン」というひどいあだ名にになりそうだった富山くんは、この偉業から「チャッカマン」と呼ばれクラス中の尊敬を集めることになった
実はこれは約15年前の話だ
なぜ唐突に思い出したかというと、私のTwitterのタイムラインに「女装男性が富山スタイルで自慰行為をしている動画」が流れてきたからだ
その動画は口元までしか映っていなかったが、富山くんがあの時の見せた気味の悪い笑顔の口元を彷彿させていた
きっと彼は今日もどこかで自分のペニスで火起こしをしているに違いない
いきなり訴訟とかは勘弁してください
キャッチボールは威力を強くする時にちゃんと言わないと取りこぼすし、受け手側も痛いですもんね。
ドッヂボールなら別に威力強くなっても避ければいいし、避けられても外野に投げて自分以外の人間にとどめを刺してもらってもルールの範囲内ですもんね
ただ増田ドッヂボールの怖いところは一対一の戦いでは無く、一対一対一になったり発言の精度によっては二対一になったり試合中止になったりするところで、外野に投げたボールが自分を標的にしないとは限らないですもんね
後、たまにサッカーかセパタクローかと間違えて蹴りを入れようとして失敗してる人もいますし
まぁ、ボールに当たっても地面に着くまでにキャッチすればセーフなんだし、月並の重力下という前提にしてボールが落ちてくるスピードを遅らせて時間をかけてからボールを投げ返してわかんないうちに勝利宣言するのはルールの穴をついた行為ではあるなぁって感じです。
まぁ元々キャッチボールなんで勝ち負けとか無いんすけどね
当方20代後半の女。惚れっぽい体質で好きな人がコロコロ変わってたので、生まれてから高校生までの間で覚えてる限りの男を書き出してみようと思う。
足が速くてドッヂボールが上手い。
お父さんが聞いたら泣いちゃうと思う。
小1~2 同じクラスのAくんとTくん
2人ともクラスの大半の女子が好きになるぐらいモテモテだった。
Aくんは高校生ぐらいの時たまたま見かけたけど彼のピークは小学校の頃だったのだと悟った。
Tくんは大人になってから何故かインスタをフォローされたため彼のプライベートは現在でも把握している。一時眉毛が有り得んほど鋭利になっていて田舎のヤンキー感満載だったが最近は結婚して落ち着いてる模様。
小3~4 同じクラスのKくん
登校時によく反対側の道で見かけてガン見していた。たまに目が合って嬉しかった。
小5~6 同じクラスのYくん
とにかく優しい。修学旅行で同じ班になり、旅行中カバンを持ってもらって嬉しかったのを覚えている。
中1 同じクラスのJくん
ルイージに似てる。中学で新しくできた友達が小学校時代からJくんと両想いだった知り早々に散る。
ちなみにこの頃、幼稚園時代ちゅっちゅしていたIくんと再開するが、何も覚えてないと言われる。
中2~3 同じクラスのKくん
席が前後で最初はよく話していたが途中から厨二病を罹患したのかクールぶるようになりなかなか拗らせていたように思う。
中3〜高1 同じ塾のOくん(他中)
ずば抜けて頭が良く、それだけで何故か惚れる。
同じ高校に合格し、クラスは違ったがなんやかんやあってメル友となる。たまたま同じ路線で通学していたため駅や電車内で見かけることが出来るだけでときめいてた。友達経由でOくんが私に好意を抱いているらしいと聞かされるが、当時厄介な男に粘着されて病んでおりそれどころではなくなっていた。高1の終わりに向こうに彼女が出来たと知り散る。(後日談あり)
高2前半 同じ電車に乗ってる他校のTくん
県内トップ高に通う高身長イケメン。ただの一目惚れ。SNSアカウントを発見し、監視する。私がネットストーカーの片鱗を見せたのはこの頃。Tくんには美人な彼女がいるらしかった。
高2後半 他クラスのHくん
これも一目惚れ。1度も話したこと無いのに惚れた。バレンタインに呼び出してチョコとメアドを渡したけど特に進展せず。大学では留年したと聞いたけどその後どうしてる分からない。
高3 同じクラスのSくん
3Dメガネみたいなメガネをかけてた。同じ大学を目指してると知り受験期に話す機会が増え、それだけで惚れた。受験の日の前日、大学近くで一緒にトンカツを食べながらヤマを張った思い出。無事彼も私も合格したが、大学に入学してからは疎遠になる……
ちなみに中学後半〜高校時代好きだったOくんとは社会人になってからひょんなことから再開し、デートすることになったのだが、学生時代はほとんどメル友状態でまともに面と向かって話したことがなかったためか、いざ遊んでみると「何か違う」と感じ、それ以来誘いは断りすぐに疎遠になってしまった。学生時代、まだ男性との距離の縮め方を知らず、メールだけで舞い上がり、行動に移せなかったことを悔やみつつも、高校時代の甘酸っぱい思い出として彼の存在がずっとあったため、再開できてデートまですることになった時はすごく期待した。期待しすぎたのだ。高校時代の甘酸っぱいフィルターで思い出が美化されていたため、大人になって会ってみたらあれれ……こんな感じだっけ……? となってしまった。
ただの私の思い出話を最後まで呼んでくれた人には申し訳ないが、特に面白いオチはない。ごめんなさい。
ここに書ききれないだけで本当はもっといる。
みんな、ちゃんと生きてるのかなーー?
当方20代後半の女。惚れっぽい体質で好きな人がコロコロ変わってたので、生まれてから高校生までの間で覚えてる限りの男を書き出してみようと思う。
足が速くてドッヂボールが上手い。
お父さんが聞いたら泣いちゃうと思う。
小1~2 同じクラスのAくんとTくん
2人ともクラスの大半の女子が好きになるぐらいモテモテだった。
Aくんは高校生ぐらいの時たまたま見かけたけど彼のピークは小学校の頃だったのだと悟った。
Tくんは大人になってから何故かインスタをフォローされたため彼のプライベートは現在でも把握している。一時眉毛が有り得んほど鋭利になっていて田舎のヤンキー感満載だったが最近は結婚して落ち着いてる模様。
小3~4 同じクラスのKくん
登校時によく反対側の道で見かけてガン見していた。たまに目が合って嬉しかった。
小5~6 同じクラスのYくん
とにかく優しい。修学旅行で同じ班になり、旅行中カバンを持ってもらって嬉しかったのを覚えている。
中1 同じクラスのJくん
ルイージに似てる。中学で新しくできた友達が小学校時代からJくんと両想いだった知り早々に散る。
ちなみにこの頃、幼稚園時代ちゅっちゅしていたIくんと再開するが、何も覚えてないと言われる。
中2~3 同じクラスのKくん
席が前後で最初はよく話していたが途中から厨二病を罹患したのかクールぶるようになりなかなか拗らせていたように思う。
中3〜高1 同じ塾のOくん(他中)
ずば抜けて頭が良く、それだけで何故か惚れる。
同じ高校に合格し、クラスは違ったがなんやかんやあってメル友となる。たまたま同じ路線で通学していたため駅や電車内で見かけることが出来るだけでときめいてた。友達経由でOくんが私に好意を抱いているらしいと聞かされるが、当時厄介な男に粘着されて病んでおりそれどころではなくなっていた。高1の終わりに向こうに彼女が出来たと知り散る。(後日談あり)
高2前半 同じ電車に乗ってる他校のTくん
県内トップ高に通う高身長イケメン。ただの一目惚れ。SNSアカウントを発見し、監視する。私がネットストーカーの片鱗を見せたのはこの頃。Tくんには美人な彼女がいるらしかった。
高2後半 他クラスのHくん
これも一目惚れ。1度も話したこと無いのに惚れた。バレンタインに呼び出してチョコとメアドを渡したけど特に進展せず。大学では留年したと聞いたけどその後どうしてる分からない。
高3 同じクラスのSくん
3Dメガネみたいなメガネをかけてた。同じ大学を目指してると知り受験期に話す機会が増え、それだけで惚れた。受験の日の前日、大学近くで一緒にトンカツを食べながらヤマを張った思い出。無事彼も私も合格したが、大学に入学してからは疎遠になる……
ちなみに中学後半〜高校時代好きだったOくんとは社会人になってからひょんなことから再開し、デートすることになったのだが、学生時代はほとんどメル友状態でまともに面と向かって話したことがなかったためか、いざ遊んでみると「何か違う」と感じ、それ以来誘いは断りすぐに疎遠になってしまった。学生時代、まだ男性との距離の縮め方を知らず、メールだけで舞い上がり、行動に移せなかったことを悔やみつつも、高校時代の甘酸っぱい思い出として彼の存在がずっとあったため、再開できてデートまですることになった時はすごく期待した。期待しすぎたのだ。高校時代の甘酸っぱいフィルターで思い出が美化されていたため、大人になって会ってみたらあれれ……こんな感じだっけ……? となってしまった。
ただの私の思い出話を最後まで呼んでくれた人には申し訳ないが、特に面白いオチはない。ごめんなさい。
ここに書ききれないだけで本当はもっといる。
みんな、ちゃんと生きてるのかなーー?
私は今大学四年で、生まれて21年彼氏ができたことがない。小・中・高・大となんとなく素敵な男性だなと思ったことはあるが、告白したりされたりということが一切なかった。危機感はあるものの、友人には恵まれたので楽しく毎日を送っている。
友人A子とは小学校4年で同じクラスになった。当時クラス内の女子たちの間では仲間外れやイジメに近いことが起きていて、そういったグループ付き合いが嫌になった頃にA子と仲良くなった。
A子はほかの女子たちとは違い、男子と混ざって外でドッヂボールをするタイプの活発なタイプだった。最初はグループから少し距離を置くためにA子にくっついて苦手なドッヂボールをしたが、次第にA子がとても魅力的な同級生だと気がついた。スポーツ万能で頭も良く、少し口下手だがとても優しくそんなA子がとても好きだった。
A子と同じクラスになったのはこの1年間だけだった。
中学に進学する際A子は地元で1番賢い私立の中高一貫へ、私はふつうに校区内の中学へ進学した。
ちょうど中学生になってすぐに携帯電話を買ってもらえたのでメールアドレスを交換し、1年に一回夏休みなどの長期の休みの時に遊ぶ関係が続いた。
高校に進学しても同じように1年に一回遊び、近況を報告しながら楽しく過ごした。本当はもっと頻繁に遊びたかったけど、誘うのは毎回私からだったからあまり嫌がられないように慎重に時期を考えた。なによりA子も私も進路希望は大学進学だったので勉強をしなければだめだった。
そしてお互い大学生なってやっといっぱい遊べる!!!!と思ったら、A子は地元から出て別の地で一人暮らしするということだった。私は県外の大学に進学したが、実家からギリ通える範囲だから今までみたいに気軽に会えなくなってしまった。
しかし、大学入学前にA子は「一人暮らしする前に遊ぼう」と初めて誘ってくれたのだ!
嬉しかった。初めてA子から遊びに誘ってもらえたから。今までの関係は私の一方通行ではなかったのだ。(これを本人に伝えると、「えー誘ったことなかったっけ?」ととぼけられた。)
大学生になってからも、なんだかんだで1年に一度遊んだり、LINEで数ヶ月おきに連絡を取っていた。
大学3年の時にA子が住んでいる一人暮らしの部屋に遊びに行った。その時に初めてお付き合いしている彼がいることを聞いた。先に彼氏を作られた悔しさと、A子を取られた!という悔しさがあったが、A子の魅力が分かる男が現れ、おめでとうという気持ちになった。
(書き忘れていたがA子はなかなか変わった所があり、わたしはそこが彼女の最大の魅力だと思っているが、A子自身はともだちが少ないと嘆いている。)
最後に連絡を取ったのは半年ほど前の5月ごろで私はちょうど就活真っ最中。A子は資格試験の勉強中ということだった。
そして前置きが長くなったが先日A子から久しぶりーと連絡が来た。娘が生まれた。と
衝撃的すぎてスマホを床に落とした。こんなドラマみたいなことあるんだなと思った。
え?娘???旦那さんは???資格試験は???結婚は???といろいろ聞きたかったがLINEだと少し聞きにくく、まずはおめでとうと送った。
後々聞くと旦那さんは前会った時話していた彼氏で、籍もいれたと。
おめでとうと送ったがなぜかとてもショックだった。どんな状況にしろ無事に娘が生まれて、結婚もするなんておめでたいことなのに、自分の中でぐるぐると消化できないモヤモヤが出てきた。そしてそんな自分を自己嫌悪した。なによりその旦那にすごく腹が立った。詳しい事情もまだ知らないくせに。
大好きな友達のおめでたいことを純粋な気持ちで祝えない。なんて嫌なやつなんだ。
その気持ちを抱えたままバイトに行き、偶然休憩が一緒になった社員の男性に「かくかくしかじかでちょっとだけショックなんですよね」と抱え込んでいるモヤモヤを10分の1くらいの軽さにして吐き出してみた。
それ聞くと社員さんは「好きだったんやねー」と言った。ストンと。腑に落ちるとはこういことかと納得した。
私はA子が好きだったんだなと。友愛なのか親愛なのか恋愛なのか細かいのは分からないけど、友に向ける以上の愛を、複雑な愛をA子に向けてしまったんだなと思った。小学校の時からの憧れは年月を追うごとに、友だちの好きから変な形の愛に変わってしまった。
題名には失恋と書いたが、失恋なのかどうかもよく分からない。今までの経験値が0だから。
ただ、最初から恋愛感情を持っていたらこんなに複雑な気持ちにはならなかっただろうなとおもう。
もう少し落ち着いたら、コロナの状況もみつつお祝いにA子と娘ちゃんに会いに行きたいと思っている。その時にきちんと純粋な気持ちでおめでとうを言いたいから、ここに書き綴っておく。
文書を書くのは苦手だから変に長い文になってしまったけど、もし最後まで読んでくれた人がいたらお礼を言いたい。ありがとう。誤字脱字は許して下され。
※知的障害を持つ子供と親について、またそういった子供を産むことや育てることについて、比較的マイナスな内容です。不快に思う方もいると思いますので自己責任でお読みください。
インスタのおすすめ欄を見ていたら、軽度の知的障害を持つ娘を小学校の普通学級に通わせてるお母さんの投稿が出てきた。その子はクラスで孤立していること、授業の指示を理解できていないという報告をサポーターの人から受けたらしく、学校に行って状況を改善するよう話をしたいという投稿だった。
これを見て、ふと小学校の時に同じクラスにいた知的障害を持つ男の子のことを思い出した。その子、Aくんは、授業中、授業に関係ないことを唾を飛ばしながら話し、正面を向いて座れないのかいつも横向きに座っていた。国語はからっきしだったが算数が得意で、足が早くて、ドッヂボールが好きだったと思う。正確に覚えていないけど、小学校までは普通学級で過ごして、中学は支援学級に通っていたはずだ。
当時の担任の先生は、大人になった今考えても非常に真摯に生徒に向き合ういい先生だった。私も当時3ヶ月ほど入院したことがあるのだが、他県の病院にいた私のもとへ平日の放課後にお見舞いに来てくれるような先生だった。何を話したかは覚えていないが、クラスの皆に手紙を書かせ、きれいに製本し、お花と私の好きだったキャラクターの小さなぬいぐるみと共にプレゼントしてくれたのを覚えている。その先生はAくんにも目をかけ、目に余るようならば厳しく叱ったりするものの、しかし他の生徒と良い意味でも悪い意味でも同じように接した。そのため私たちもAくんのことについて「変わった子だな」とは思いつつ、Aくんが障害を持っていることは成長するまで知らなかった。察している子もいたかもしれないけど、少なくともあらゆることにおいて「障害があるから」ということを理由にしない先生だった。田舎の学校なので、私も含めクラスメイトたちはなかなかいい子ではなかったけれど、注意することはあれど、強い言葉で怒ることはしなかったし、ましてや手をあげることは一度もなかったから、幼いなりに先生を尊敬していた。
その先生が、唯一大きな声を出して、たった一度だけ、されど一度、手をあげた相手がAくんだった。詳しいことは忘れてしまったけれど、Aくんの腕を掴んで廊下へ連れて行こうとする先生の目がなぜか潤んでいたのは覚えている。
ところで、私は小学校から歩いて子供の足で30〜40分ほど離れたところに住んでいた。家が遠いので、近くに住む幼馴染と一緒に登下校していたのだが、幼馴染のクラスは私のクラスに比べて帰りの会が終わるのがかなり遅かった。そのため、私はよく廊下で幼馴染を待っていたのだが、ある時、ふと忘れ物をしたことに気づいた。幼馴染のクラスはまだ終わらなさそうだったので、自分の教室へ取りに戻ることにした。教室の電気がついていたので、先生に挨拶しようと思って教室を覗き込めば、先生と誰かのお母さんらしき人が話しているのが見えた。特別聞き耳を立てたわけじゃないが、ドアが開いていたので声が聞こえてきた。Aくんのいることでクラスのみんなに迷惑をかけている、Aくんのことを叩いてしまう、先生にも手を出させてしまい申し訳ない。そのお母さんは泣いているらしく、当時小学校の低学年だったけれど、これは聞いちゃいけない話だと思い急いで戻った記憶がある。
それからしばらくして知ったけれど、その女の人はAくんのお母さんだった。実は私はAくんと6年間同じクラスだったため、私の母とAくんの母は面識があった。私が小学校を卒業してだいぶ経った後、母が酔った時に聞いた話だが、Aくんの母はAくんのことについてかなり思い詰めていたらしい。
Aくんの母は、Aくんを一人で育てていた。私も私の母も、小学校から中学までの9年間、Aくんの父親も、Aくんの祖父母も親戚も見たことはない。働いていたようだし、もしかしたら離婚していたのかもしれない。Aくんの下にいくつか年の離れた妹がおり、それでもAくんのことでクラスに迷惑をかけてしまうからと、学級委員を引き受け、PTA活動にもかなり積極的に協力していた。そういえば、学期末にAくんのお母さんからクラスのみんなにお礼と言って高そうなお菓子をもらった気がする。とにかく、Aくんのお母さんは周囲の子供や先生、保護者に常に頭を下げていた。授業参観も懇談会も行事も、常にAが迷惑をかけて申し訳ない、と言っていた。母は詳しく話さなかったが、AくんとAくんのお母さんについて、冷たい言葉を浴びせる保護者もいたらしい。私は特別Aくんと仲がいいわけではなかった(そもそも性別が違うので一緒に遊んだりはしなかった)が、Aくんのお母さんは授業参観等で私に会うといつも疲れた笑顔で「いつもありがとうね、Aが迷惑かけてごめんね」と頭を下げた。小学生の私は、大人の女の人から頭を下げられることなんてなかったから、なんだか不思議な気持ちがした。
私は現在20代になり、友達との会話も、結婚や子育てについての話題が出るようになった。特に仲良い友達は子供好きで、最近お兄さんの子供が産まれたらしく、自分も結婚して早く子供欲しい、そのためには彼氏を見つけなきゃね、と笑っていた。私に子供ができたら、自分の子供と遊ばせよう、と。
彼女は当たり前に自分の子供が健常児であると信じており、私の子供もそうであると思っている。私もそう思っていた。でも、Aくんのことを思い出すと、もし自分の子供が知的障害を持っていたら、と考えてしまう。わたしは、自分の子供のために尽くせるんだろうか。Aくんの母親のように周囲に常に頭を下げ、言うことを聞かずに周囲に迷惑をかける子供を躾け、周囲の心ない態度にも耐えることができるんだろうか。私がもっと人間的に成長すればできるのだろうか。今の私よりはるかに人格者だった担任の先生ですら、手をあげたのに?
子供は可愛いと思う。昔は苦手だったのに、今は赤ちゃんをみると思わず笑ってしまう。自分が産むのは痛そうだし怖いけれど、好きな人の子供を産むのは素敵だとも思う。でもそう思えば思うほど、もし障害を持っていたらと考えてしまう。その子の父親となる人は、私の両親は、友達は、理解を示してくれるだろうか。一人で育てることになるとしても、私は自分の子供を育てられるんだろうか。もちろん健常児でも同じ不安はあるけれど、障害児なら尚更、自信がなくなっていく。
知的障害の子供を捨てる方法はないらしい。親や親戚に育てられる環境があるなら、施設にはそう簡単に入れないという。産んでもし障害児だったら。もしくは、産まれたときは元気でも、後天的に障害を抱える可能性もある。そうなったら多分、私は捨てる方法を探してしまうかもしれない。子供を育てられる自信がないのはもちろん、わたしはAくんの母親のようにはなれないしなりたくないと思ってしまう。
こんなことを考えている私は多分子供を産む資格はないし、年齢的にもまだ産む予定はないが、子供を産んだ親は皆こういう悩みを乗り越えているのかな。それとも私の友達と同じように、自分の子供が健常児でないなんて想像もしていない?
ネットで検索すれば綺麗事は沢山出てくる。色々考えて、乗り越えて、幸せに暮らしている家族だってたくさんいる。だけど、自分が母親になれるような年齢になってから、Aくんの母親が忘れられない。優しい人で、でも小学校の後半は、子供の目から見てもやつれているのがわかった。彼女はどんな気持ちで、私たちと関わっていたのだろう。
Aくんと母親が今何をしているかは知らない。ただ、Aくんが楽しく過ごせて、あの母親がもう頭を下げなくていい生活をしていたらいいと思う。
1/27 1:22
注目エントリに入ってるのを見てビビり、タイトルがあまりに露骨だなと思ったので変えました。本文も誤字直したり付け足したり。
本文に書いたように、どんな子供であっても自分の子を捨てるかもなんて考えをしている時点で私は子供を持つ資格はないと思っています。私の子がどうこうというより、障害を持っている子供とその周囲について、実際に見たことを思いだして、世の中の人はどう考えているのかなと疑問に思い書きました。不快な思いをした人はすみません。問題があるようなら消します。
1/27 13:48
起きたら人気エントリに入っててさらにビビりました。たくさんの反応ありがとうございます。
編集でタイトル変えても別のところ(ブックマーク?)では変わらないんですね。増田に書くのが初めてなので知りませんでした。消さなくて良いよと仰る方が多く安心しましたが、一部タイトル含め不快な思いをしてしまった方もいるようで、配慮が足りず申し訳ありませんでした。
私は親になったならばその子がどんな子供であれ幸せにする責任があると思っているので、福祉の充実も含め、親が二人(もしくは一人)で育てていかなくてはいけないという体制がもっと良い方向に変化して欲しいなと思っています。勿論今も私の子供の頃に比べたら支援等かなり良くなっていると思うのですが、やはり世の中のお父さんお母さんでそこまで考えて産んでる人は少ないと思いますし、それこそ私の友人のように健常を前提として子供を産んだ親や、子供が産まれた後なんらかの事情で障害を抱えた場合、すぐに「それでも我が子だから頑張ろう」と育てていける人ってかなり少ないと思います。これはもちろん健常児の場合も同じで、健常児だから楽というわけではないことは承知しています。ただ、親が正直しんどいと思った時、育てるか捨てるかという二択ではなく、少しでも子育てをお休みしたりできるシステムがあれば、親になりたい、もしくはなりたかったけど、という人も子供を持ちやすくなるしいいと思うのですが、これは子供からしたら親と離すなんて可哀想、という意見も出そうですし難しいのかな。まとまってなくてすみません。
同じような不安を抱えているよ、と書いてくださる方が多くて嬉しかったです。また厳しい意見もありがとうございます。実際に体験した話もそうでなくても、皆さんから意見を読むことで、自分の中のモヤモヤしたものや記憶が整理されていく気がします。私はまだ社会に出たてのペーペーなので、まだ結婚出産といったものはぼんやりとしたイメージしかないのですが、どんな選択をしたにしろ、自分も、産むとしたら自分の子供も、幸せであるように全力を尽くしたいと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
恥の多い体育の時間を過ごしてきました。
そんな言葉で締め括れるぐらい、私の生涯は運動と恥がセットである。身長に恵まれながらも運動の才能に恵まれなかった私は、動かし方の分からない手足を持て余し、球を投げれば飛ばず、プールでは泳げず、大縄を踏み、悪目立ちし、ドッヂボールの的になりながら生きてきた。克服しようとして体操教室に通っても一番下のメニューすらこなせず、スイミングに通えば幼稚園児と同じクラスになった。
読者に少しでも運動のできない人がいれば共感が得られるかもしれないが、運動音痴は恥によるスパイラルに陥りがちだ。周りと同じように動けていないことが恥ずかしく、緊張でさらに力み、輪をかけてぎこちない動きになり、またそれを恥じる。そうしてどんどん周りについていけなくなり、しまいには運動そのものから自らを遠ざけてしまうのである。
私も完全にそのタイプで、高校の授業を最後にもう10年近く運動らしいことをしていなかった。通学通勤で歩くぐらいならしていたが、ステイホームに入ってそれもなくなった。先日、肩こりがどうしても治らず整体に行ったら「あまりにも筋肉がなさすぎて何ひとつ支えられていない」と言われた。そうでしょうねぇ。
そろそろ運動しなきゃな……とは不調の度に思っていたが、走るのもヘタクソすぎて表に出られないレベルなので何も始めようがなく、私はこの貧弱な体と一生を共にする覚悟を半ば決め始めていた。
別に石田彰のファンではない。ただ、私は物心がつく頃からさまざまなアニメで彼の声を聞いていた。
だから、1に続き冷やかしで買って寝かせていたフィットボクシング2を起動し、初めて彼の声を聞いたとき、幼少のみぎりに出会った色んなキャラクターが一度に脳裏へ蘇ってきた。すごい。石田彰の同窓会だ。石田彰の詰まったタイムカプセルだ。
好きとかときめきとかそういうのを超えて、ただただ懐かしかった。小学校の担任の先生の声を20年越しに聞いたような感覚に近い。それが嬉しくて、思わず鬼モードを選んでしまった。
鬼モードは鬼だった。もやしのくせに無理をした。それでも久しぶりに会えた石田彰を失望させるのが嫌で、最後までリタイアせず続けた。
翌朝起きると、体がレゴブロックの人形みたいになっていた。肩関節と股関節しか動かない。ストップモーションアニメのようなカクカクした動きでデスクに行き、リモートで1日の仕事を終えた。そうして、「昨日あれだけ運動したんだから今日はやらなくていいだろ」と思った。
でも、やっていた。その日のうちに。石田彰が恋しくなったのだ。鬼モードはやめて、易しいモードにした。昨日は厳しかった石田彰が今日は優しい。好きになるからやめてほしい。
私のボクシングは醜い。ヒョロヒョロの手足をクタクタに動かして何とかパンチの形になっているかどうかだ。でも、石田彰は気にしない。気にしないでいてくれる。それが本当にありがたい。
たとえ運動音痴でも、視線がなければ少しは落ち着いてものを考えられるのだ。そんなことに気がつく。
ジャブの腕が下がっていると言われる。次は上げてみよう、と思う。3パンチ後にようやく改善する。すると今度は、息を吐きながらパンチを打てと言われる。うまくできない。けれど、できなくても恥ずかしがる相手がいないから、ヒューヒュー言いながら不格好にパンチと呼吸のタイミングを合わせていく。
石田彰はうまくパンチが打てた時に「それ!」と言ってくれる。普段は敬語なのに、ここだけタメ語を使ってくれるのだ。私は生涯で、体育の教師やインストラクターのような生き物に好かれたことがない。そんな私なのに、こうして距離を詰めて、褒めてくれる。脳から知らない汁がメチャクチャ出る。運動して褒められるの気持ちいい。みんなこんな楽しいことやってたの?
人の目を気にせずできる運動が、こんなに救いのあるものだとは知らなかった。何だかやみつきになってしまって、もうここ何日も、毎日フィットボクシングをつけては石田彰の導きで虚空を殴っている。
というのは冗談で、コロナのおかげで学校行かなくなって良かったと思ってるいじめられっ子のみんな。
良かったね。
無意味な学校行事やクソみたいな学校の規則に頭を悩ます事もなくなったよ。
何ら興味の無い科目の授業中にモニター越しにゲームしたり薄い本読んでてもバレなくなったよ。
逆に興味のある事を好きなだけ学べるようになったよ。ゲームを作ったり、プログラミングをしてみたり。
普段お世話になってるママンのためにお料理の勉強だっていいんじゃないかな。
近現代史を一切教えようとしないクソみたいな世界史の授業よりはるかに有意義だよ。
ソーシャルディスタンスのおかげで声のデカいスクールカースト上位ゴリラにドッヂボール中剛速球を顔面に喰らう事もなくなったよ。