はてなキーワード: デシベルとは
デシベルが同じなら、でけえ声はでけえ声だよな
むしろ俺の声のほうが低いし、普段声出してないから多分大した声でねえから、子供の方がうるさい可能性大
電車とか高級ではないレストランとかで俺がギョエエエエ!!つってたら排斥されて、ガキだったらセーフな理由って、実際なんなんだ?
というか、マジな話、たぶん、実際のところ排斥されないよな
俺はさ、本当は、スタバで突然「フンガー!こんクソ〜!!!オアアアアア!!!!!」つって暴れていいんだよ
まあ暴れるっつってもコップ投げたりし出すと話が変わってくるけど、少なくともでけえ声上げて地団駄踏むくらいはいいはずだ
というか、実際そういうヤベー奴っているもんな
そうなんだよ 世界って意外と寛容で、俺が勝手にルールを見出して、勝手に守ろうとして窮屈なだけなんだ
だから、ガキがスタバでギャアギャア騒いでたら、俺も騒げばいいんだ実際
「んあああああ!!!!うるさいよお!!!!!うるさくて我慢できないよーーーー!!!!!」つってさあ
ガキは別に、あのオッサンキモくて臭いよ〜!つって俺に攻撃してきてんじゃないんだから、ガキのうるささを直接攻撃したらフェアじゃない
ああああああ!!!!!うあああああああああ!!!!!!!つってさあ
もうぜってえ静かになんじゃん
ガキもヤベー奴って分かるからさあ
やべー奴が突然でけえ声出して、みんな静まり返ってんのに、そうそう騒がねえよ
なのでですね、うるせえガキがムカつくんだったら、やるべきことはひとつだけですよ
お前も騒げ
同じ音量なら許容されるって意味なんだよ
なんか言われたら、じゃああっちの子供もなんとかしてくださいよ、俺は彼の姿をみて、あの音量がこの店の許容範囲なんだと判断したんです、と言えばいい
トシとってるからデケー声出すな、なんてのはサイテーのエイジズムだから無視してOK
サマソニ大阪8/21に参加した。takaの発言を、フェスに行ってない奴らが叩いているけど実際のところ声出しはコロナ前に戻ったと言っていいくらい普通にやっていたし、アーティスト側が歌え・騒げと促すことも当たり前のように行われていた。コロナ中に行われていた本当にまったく発声しないライブも経験したが、あの頃とは明らかに空気が変わったと感じたし、客もそうした空気を読んで「声出しはOKなんだな」と認識していた。
しかしこんなのは運営側が厳しく禁止すれば以前のような発声禁止のフェスは実現できたはず。発声に関しては完全に「見逃されて」いたと感じたし、それを許す世間的な空気の醸成があったとも感じている。そもレギュレーションにしてからが「大声・歓声」の禁止で、「何デシベル以上が大声・歓声」なんて線引きができる訳がないので実質解禁状態だった。また、途中何度も行われたラジオパーソナリティによるアナウンスでも、ダイヴ・モッシュといった客同士の接触は絶対ダメだと念を押され、「リストバンドを切って一発退場」と脅されていたし、マスクの着用に関しても要請されていたが、発声に関して注意しているのは一度も確認できなかった。しようと思えば注意できるチャンスは何度もあったし、うるさく言われれば客も自粛したはず。運営(クリマン)も同罪であることは明らかだ。
先日行われたフジロックにしても、配信で見る限り今回のサマソニと同じくらい客は発声していたのが確認できたし、これも(実際のレギュレーションにかかわらず)「大目に見られていた」のは明らか。フジロック時、ツイッターではいくつか「アーティストが歌うのを促していた。どういうことか」と憤るツイートも見かけたが、特に問題視されることもなかったし、「ああ、空気が変わったんだな」と思った。たまたま今回takaがはっきり口にしたので騒ぎになっただけで、それがなければ発声のことなど誰も問題にしなかっただろう。いずれにせよ、今回の騒ぎにも関わらず、この夏で発声に関しては完全にOKの空気ができたので、これはもう後戻りすることはないと思う。運営が同罪と書いたが、大きくはフェスやライヴに参加する客全体の空気がそれを許しているので、身も蓋もない言い方をすれば「赤信号をみんなで渡る」的なことだと思う。だいたい3年たってコロナとの距離感もだいたい分かったからな。
逆なのかな?
この仮説は多分正しくて、統計のやり方によってはこれ一本でこの話は終わるだろう。
ハンバーガーを食べ過ぎた次の日のウンコは消化しきれなかった動物性脂肪と科学的な調味物質が組み合わさった独特のマクドナルド臭がウンコから漂ってくるものだ。
それと同じように、日本人が日常的にご飯を摂取することで、日本人のウンコからはご飯の匂いが立ち上りやすいだけなのだと結論づけることは出来る。
が、ハンバーガーウンコを出した直後にハンバーガーを食べても「ウンコと同じ匂いじゃね?」と感じることはあっても「この匂いはウンコの匂いだ」と感じることはない。
日本人の脳に「ウンコ」として刷り込まれ学習された匂いと、ある種のご飯が醸し出すベチャベチャとして湿っぽくもどこかすえて炊きあがったような匂い、その両者の一致はあまりにも親しすぎるのだ。
そもそも人間が感じ取れる匂いの種類ってどれぐらいあるんだろう。
ただ間違いなく言えるのはご飯はたまにウンコの匂いがするってことだ。
匂いのやたら強い割り箸だったり、金属臭のキツイスプーンと組み合わされることでウンコとして完成する感じはある。
つまりはご飯がウンコ臭いとき、ご飯が担当しているのは「水気」「香ばしさ」「食品臭」などのいわば「負のシズル感」とも言える部分であり、それに食器が放つ「非食品臭」が混ざることでウンコが誕生するのだろうか?
水分と温度を伴った空間の中で物質の状態を変化させ、それらを強烈な蒸気と共に完成させる。
その結果として作り出される高温で高エネルギーな物質は雑菌たちにとって格好の繁殖地となり、毎秒毎秒生命活動を繰り返すことで雑菌は排泄物としてゲオスミン臭などを残していく。
人間のウンコとは人体に住まう小さな命の作り出したウンコの集合体でもあるのだ。
そしてご飯もまた、その表面上に置いて無数の細菌達が毎秒毎秒刻一刻とその数を増やしながらウンコを繰り返している。
いわば全ての食品は雑菌のウンコまみれであり、人糞との違いはそのウンコの濃度の違いでしかないとも言える。
音を表現するデシベルが対数刻みなのは人体が感じ取る感覚が対数刻みだからであるからだが、それは視覚や嗅覚でも同じである。
それはある匂い物質のある濃度に対して人間が感じる匂いを1とするとき、100分の1の匂い物質に対して人間が感じる臭さは100分の1よりも大きいということだ。
ご飯や割り箸の表面に集った微生物たちの微生物ウンコの密度が人間のウンコの何万分の1まで下がれば人体はその匂いを感じ取らずに済むのだろうか?
その答は「食品の匂いがウンコから遠ざかればそっちにかき消されることが出来る」と結論付けられるのではないだろうか?
つまる所、ある種のご飯からウンコの匂いがするのはやはり「そのご飯はウンコの匂いがするので、全ての食品が必然的に纏ってしまうウンコっぽい匂いを自分の匂いでかき消すことが出来ない」ということなのではないだろうか?
つまり、やはり「ご飯は時折うんこっぽい」というのは是なのだ。
白米至上主義の日本国民としては非常に悲しい結論だが、この現実から逃げていては日本食に発展の未来はないだろう。
受け入れよう。
コロナまじきつい。
便乗して体験記。
感染経路不明。かなり慎重に生活、買い物以外の外出や外食もなし。
起床時のだるさ。牛乳が「鉄くさい味」。
検温36.9度。夜には38度台に。
自宅療養開始。
県から送られてきたパルスオキシメーターで酸素濃度をはかり、朝9時に体温と共に報告するよう指示がある。
高熱、食べられない、起きられない、眠れない、下痢。
酸素濃度の数値は頻繁に93以下になる。
24時間対応の療養サポートに電話を入れるが、「計り直せ」「指をかえてはかれ」「ダイニングテーブルの周りを10周歩いてからはかってその数値を報告しろ」。
「患者はあなただけじゃない」「またあなたですか」「入院したい人はたくさんいる」「入院できたとしても市外、そこからかなり遠方」「救急車呼びたかったら呼んでもいいけど、たらい回しかも」等。
かなりきつい「指導」に、メンタル疲弊。途中保健所から連絡がくる。
起きられないが眠れもしない。このまま死ぬのかもと思う。
9日に「明日、入院対応になる。朝9時に電話を」と療養サポートから電話がくる。
昨日の指示通り朝電話を入れるが「これからカンファレンス。入院したいひとはたくさんいる」と言われて不安になる。
昼近くに「入院決定。2時に移送車」と連絡がある。自宅から8キロくらいの地域の中核病院。市内、しかも近隣。
病院での検温40度超え。
酸素投与。
鼻からの酸素で食事やトイレ時に80台に落ち込むため、マスクでの酸素に変更。
点滴も飲み薬も効果は出ていず、入院後からさらに悪化している。
通常の酸素投与で酸素濃度が上がらないため、ネーザルハイフロー開始。
回復傾向が見られ始める。
退院。
退院後の再診。
その辺のライブハウスとかに行ったことがある人だと一度は目にしたことがあるだろう。
ちなみにワイはボーカル担当。初心者ながらもボーカルが不在だったバンドに加入させてもらっている。
聞こえない問題について発声をどうにかしようみたいなことを言われたので、試しにデシベルを図るやつを使ってみたのだが一番高い時で115db、通常の歌でも90dbは平均で出ている。プロのひとでもこれくらいが平均らしい。
アプリなので精度は懐疑的だが、YouTubeにボイトレの先生をやっている人が同じアプリでスコアを測っていたり検証していたりしていたからそこそこ信用している。ワイは発声がいいのかは知らんが自分でも声が大きいほうだとは思うし、カラオケでもマイクなしで歌が聞こえるくらいの音量は出せてるらしい。
ムラがあるほうなので、ワイのコンディションが悪かった可能性もあるが、にしてもマジで聞こえない。
そうなるとこれって本当にワイの発声の問題なのだろうか?と疑問しか湧かなくなってきた。
声を張り上げるように歌えば多少音は大きくなるだろうけど聞いてて痛々しいし、ウィスパーボイスのようなかすれ声を歌うことなんて無理に等しい。
バンドってある程度声を張って歌わないといけないのはわかってたけど、ここまで表現の幅が制限されるなんて思ってもいなかった。
歌を歌うのはすごく好きだけど、それを知ってからバンドで歌うことがあまり面白くなってきたなぁ。
こうゆうバンドの問題って他責にしてしまいがちだから、自分が問題ならうまいことできる限り改善したいんだけど、なにをどうすればいいのかわからん。てかやっぱりドラムが問題なんじゃねとか思ってくる。
クズっていうのは味方だと頼もしいんだ。
身内と認めた相手が手に入れたいと願ったものを手にするためなら他人を平気で傷つけてくれる。
どこの国も軍隊を所有するのと同じだ。
他者の権利、資源、尊厳、なんだって踏み荒らして奪ってくれる。
ちょっと甘えて見せればその好意を対価としていくらでも暴力装置として機能してくれる。
お前らの楽器の音って本当にうるさいんだよ。
そもそも楽器というものは、音を効率的に出すための装置なんだから、すごく簡単に大きな音が出るんだ。
音というものは空気の振動であり、ある種の衝撃が生み出す余波だ。
でも大抵のものはそんな大きな音を出さないのは、音が持つベクトルがバラバラだからだよ。
衝撃が振動エネルギーとして物体の中を伝わるとき、その物体の中でそのベクトルがぶつかりあえばそれらは互いに相殺する。
それを最小限にするように楽器は作られている。
だから僅かな力で大きな音が出るんだ。
長々と話をしたがな、つまりは楽器ってのは普通に弦を叩いてやっただけでも、思い切りドラム缶を蹴っ飛ばしたようなレベルの音が出てくんだよ。
うっせえんだよ。
お前が思ってるより1000倍うるせえんだよ。
60デシベルうるせえんだよ。
そんなに煩くねえと思ってるのはお前が出したい音を出してて、こっちは聞きたくもねえ音を出してることによる心理的な部分をかけてるからだよ。
お前が夜中に囁き声程度の気分で奏でるギターの音色は、回りの部屋からすりゃ突然隣の部屋に着陸を試みたヘリコプターのプロペラ音、窓のすぐ横をかすめていったジャンボジェットのエンジン音なんだよ。
でもクズアピールとしては最高だからクズを恋人にしたいクズ共からはモッテモテだ。
でも考えてほしいんだがよ、お前が好かれているのはクズだと見破られているからだぜ?
それで嬉しいのか。
いや悪かった。
クズであることでモテるならクズでいいって考えなきゃ、最初から楽器をアマゾンでポチらねえわな。
はークズ屑葛
おまえレイパーのみかたしとるん?/っておもったんだろ
だから基本認定はレイパーと全く繋がりのない人物ってわかってるけど、驚きのあまり言うセリフだろ
そう疑ってみせてまでやめてくれといいたくなるような
ナチュラルにひどい第三者仕草をするセカンドレイパーがいる。やめろ。というはなし
歪められた認知なんか何一つないだろ
被害者はなぜただひたすら理不尽に2回も他人にひどい目にあわされなきゃいけないのかってことだ
まあこの手の常駐増田は心の傷の存在そのものをすべて疑っていて「定義しろ。でなきゃオレは存在しなかったことにする」って言い出すんだよな
つきつめると揚げ足とりに終始してるだけなんだが
定義しろ定義しろ増田は親にもいえるのか?自分の娘にもいえるのか?
石破 茂 です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
昨日、一都三県を対象とした緊急事態が再宣言され、昨日発表された東京の感染者も過去最多の2447人となりました。
感染者の増加は確かに重大事ではありますが、冬になって空気中の水分が減って飛沫が遠くまで飛びやすくなるのは当然のことですし、寒冷地では換気の機会も減少することも考えられます。PCR検査数の増加によって陽性者が増えるのもまた当然のことです。
かくなる上は、感染者数ばかりに注目することなく、限界ある国家資源や医療資源を、重症者と死亡者を減少させることに重点化して配分すべきなのではないでしょうか。
「どうすれば重症化・重篤化しないか、どうすれば死に至らないかが重要であり、対策も情報発信も、このことを重視すべき」と昨年の感染初期よりテレビなどでも何度か申し上げてきたのですが、なかなかそうはなりません。
医療関係者の献身的な努力によって、アビガン、レムデシベル、ヘパリン、デキサメトゾンなどの薬、人工呼吸器類(ネーザルハイフローやECMOなど)、普及率世界一のCTなど(この多くを今回初めて知りました)を用いた治療法も随分と進歩し、救命率もかなり上がっているはずなのですが、そのような報道もあまり聞くことがありません。漠然とした感染者数よりも、基礎疾患を持つ方や70代、80代、90代の高齢の方の罹患率、感染者数と死亡者数の正確な分析などの方が知りたいと思うのは私だけでしょうか。
日本人が欧米に比べて人口当たりの感染者数や死亡者数が極めて低いのも、同じ都道府県内でも市区町村によって状況が全く異なることにも必ず理由があるはずで、その科学的な分析が進められれば、もっと精緻な政策が打てるのではないでしょうか。
生活習慣の相違、国民皆保険制度の存在、極端な格差社会ではなく分厚い中間層が存在していることは決定的に重要な要素であり、この持続可能性を維持できるかが最大の課題です。
諸外国、特にスウェーデンの対応についても様々な論評がありますし、同政府のコメントも承知していますが、この国において「『寝たきり老人』(とても嫌いな語感です)が居ない」ということとも関連性がある宗教観や死生観の問題が、改めて問われているように思われてなりません。
日本特有の同調圧力とゼロリスク志向の強さも改めて感じています。「自粛警察」などという不可思議至極な活動は、今のところなりを潜めているようですが、戦争中の「パーマネントはやめませう」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などという「愛国的な」活動が想起されて、とても嫌な思いが致しました。ヘルスリテラシーの低さについても、自らを省みて、これもまた然りと思います。
日本においては大勢の世論(「空気」)に抗って異論を差し挟むことは忌み嫌われますが、政治は世論に迎合しすぎてポピュリズムに堕してはいけない、よく自重自戒せねばならないと思っております。
失業率が1%上がると自殺者が1,000人から2,000人増えると言われていますが、ここ数か月の自殺者の増加、特に女性の割合の増加はとても気がかりです。また、病院にあまり行きたくない、ということで、がんの定期健診の受診数も大幅に下がっています。
風邪やインフルエンザが「根絶」されることがないように、新型コロナウイルスも「根絶」される、ということはないでしょう。ただし治療法が広く共有され、重篤化を防ぐことができ、ワクチンが広く行きわたり、感染拡大が収束した時に、自殺者が激増し、がんによる死亡者が大幅に増えてしまったとすれば、それは「人類がコロナに打ち勝った」証とは言えないのだと思います。
政権は厳しい状況の中であらゆる方面からの批判に晒されながらも可能な限りの対応をしているのであり、我々は少しでも国民の支持と理解が得られるように努めなくてはなりません。
昨日のアメリカ議会へのトランプ支持者の乱入と死傷者発生の事態について、トランプ大統領に責任がないとはとても言えない状況でした。選挙結果について異議を唱えるだけならともかくも、支持者に対して議会への乱入を扇動するようなスピーチなどは、民主主義の実力行使による否定と紙一重であり、見たくもない光景でした。
トランプ大統領が就任した時、「言を左右して相手を困惑させ、自分にとって最も有利な取引を仕掛ける『サスペンスとディールの大統領』となるのではないか」と申し上げたと記憶していますが、まさにその通りの4年間であったと思います。大統領当選時の勢いをもって議会選挙を経た結果、共和党も明らかに変質を遂げました。昨年の大統領選挙でトランプ氏に投票した米国有権者は7380万人、この人々が更に先鋭化するのかも全く見通しは立ちません。
自由を建国の精神とするイデオロギー国家、国民の8割が神の存在を信じ、4割が毎週日曜に教会に通う宗教国家、アメリカ国民という意味での民族国家、こういったアメリカの本質はバイデン政権になっても変わることはありません。そうであれば、それぞれの自画像、理想像、基本的な価値観が対立する米中の軋轢は今後一層激しくなり、日本はより一層厳しい選択を迫られることになります。安全保障についての法体系も、装備も、運用も、アメリカ依存から脱却し根本から見直すべきだと思いますし、今までのような問題先送りでは国益を損じると考えます。
それでもなお、同盟国である米国が新政権によってその美点である復元力を発揮し、アメリカ民主主義の理想に立ち戻ることを心より期待しています。
年末年始、生来の怠惰さに加え、雑事に追われて勉強らしい勉強も出来なかったのですが、中川恵一准教授(東大附属病院)の「コロナとがん」(海竜社)、小林よしのり氏の「コロナ論」(扶桑社)、橋爪大三郎氏の「中国VSアメリカ」、同氏の大澤真幸氏との対談「アメリカ」(共に河出新書)、加藤陽子氏の「それでも日本人は『戦争』を選んだ」(新潮文庫)、は極めて示唆に富む大変に興味深いものでした。
合間に久々に再読した、没後50年となる三島由紀夫の短編・中編(新潮文庫)の文章の独特の華麗さにも魅了されたことでした。
週末の日本列島はまた寒波の襲来に見舞われそうです。皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。
お肉券にお魚券
無能な専門家会議を真に受けてクラスター対策のみで検査を極力抑える
軽症者の6割以上にきくアビガンを70万人分備蓄してるのに誰でも飲めるわけでなく、供給があるかどうかもわからないアメリカのレムデシベルを認可
究極は460億円かけてのアベノマスク、まだ届いてないがもう、市中には中国で余りつつある使い捨てのサージカルマスクがでまわりつつある。つまり460億円は全くの無駄になった
今更言っても仕方ないが
なぜ中国のように素早く軽症者を収容する簡易宿泊施設を作らないのか?なぜ韓国のように徹底した検査体制をつくらないのか
どこかのフェミニストが、規制ではなく配慮を求めている、と言ったらしい。
不快にならないことであり、
後は自分で考えろと全部投げつけてくる。
マナー講師も「ハンコをお辞儀させる角度は○°以上」などとは言わない。
とにかく「ハンコをお辞儀させろ」という。
一方、マナーには、謎マナーと、そうでない一般的なマナーがある。
むやみに他人に注意すると、揶揄の対象になったりする。マナー講師(笑)。
基準が明確でなくとも、他人に注意すれば配慮してもらえる場合が多い。
おそらくフェミニストは自身の主張を、後者の一般的なマナーのレベルで考えていて、
それなりに男女同権の考えが根付いた現代において、ある程度それは正しい。
しかし、マナーに対する配慮を促すにあたっては、必要な視点が抜け落ちている。
それは、配慮する側が「相手に嫌われたくない」と考えている必要があることだ。
なんなら、音を立てることにこだわりをもっていてもいい。
そんな中「食事中にクチャクチャと音を立てるな」と言われたところで、
相手に嫌われてもいい、あるいは、相手をすでに自分が嫌っている場合、
「知るかよ。オマエが席を移ればいいだろう」となるし、
そうなること自体を責めることはできない。
そこを強制させるというのならば、マナーの文脈では力不足であり、
都心部は仕事する大人の為の場所であって、騒ぐ子供とか害悪以外の何者でもないと思う。100歩譲って休日に都心部に子供連れてくるならともかく(それでも、都心部より子供にお似合いのSCやら遊園地やらがある郊外で過ごせやとも思うけど)、平日に都心部に子供連れ込んでくる親って一体何考えてるんだろう。迷惑ですよ、あんたら。
平日の都心部は皆生産性を高めるために努力してる場所なの。そこにぎゃーぎゃー泣きわめく子供がいることがどれだけ邪魔なのかなんで分からないかな。あんたら普段の子育てで耳が狂ってるから子供の声が気にならないんだろうけど、大人にとって子供の騒ぐ声はひたすら不快で邪魔なの。
子供の鳴き声が一定のデシベル超えたら迷惑禁止条例で捕まえるとかしてくれないと、国の生産性が低下して本当に迷惑。日本中いくらでも場所があるんだから、都心部に立ち入らないでも子供はいくらでも生きていける。お願いだから子供を都心部に連れてこないでください。
騒音測定器アプリを入れて子どもが泣いてるときどのくらいうるさいのか測ってみたんだけど一番うるさいときが最高で87~89デシベルだった。これはカラオケ屋の中央くらいの騒音らしい。体感的には110デシベルくらいはあるイメージだったから思ったほどでなかった。ちなみに40分泣いて平均が60デシベルくらい。
うちは子どもが3人いるのだけど、どの子が一番でかいデシベルを叩き出すか、一斉に泣くとどのくらいうるさいのかみたいなのを計測していると泣かれている間もちょっと冷静になりイライラしなくなる。(平日昼の自宅だからっつのもあるけど。夜泣きとか外出先だとそんな余裕も出んわな。)
「どうにかしてほしい」市民から悲鳴 普天間飛行場で過去最高の124・5デシベル 人間の聴力の限界に迫る騒音 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-920407.html
細い高出力エンジン2基を抱え騒音レベルの高さに定評があるF/A-18が日常的に使用しているであろう普天間飛行場でF-35が飛んだからと言ってそんなに騒音が気になるのだろうか?
しかもうるさくなりそうな離陸時ではなく着陸時だという。
ということは騒音計即時は垂直着陸していてその垂直着陸が尋常じゃなくうるさいのだろうか?
F-35は通常の使い方をするなら過去の戦闘機よりずっと静かだが、フルパワー時は過去の戦闘機より大きな音を出すという記事を見かけたようなうろ覚え。そこらへんから探してみるか。
スポーツ仲裁裁判所(CAS)は1日、五輪の陸上女子800メートルで金メダルを獲得したキャスター・セメンヤ(28、南アフリカ)の、男性ホルモンの値の高い女子選手の出場資格を制限する新規定撤回を求める訴えを退けた。
第1に、(おそらく)スポーツの世界で男女を分けることは差別ではないということ。
男女平等が重要な価値とされている現代で、なぜスポーツだけは男女が競わないのか。いうまでもなく男女の間に無視できない生まれながらの体力の差があるからです。上半身の強さに関して女性と男性の差は標準偏差が3です。つまり街で1000人の男性を無作為抽出した場合、998人は平均的な女性よりも強い上半身を持っています。平均的な男性の上半身の筋力は女性よりも80%多く、足の筋肉量の差は50%です。男性は女性よりも脂肪が少なく、骨密度が高く、持久力や痛みに耐えるために重要な赤血球も多い。女性は男性よりも骨盤の幅が広いため、脚の付け根から膝までの角度が男性よりも大きくなります。そのため走ったりジャンプしたりする場合に使われるエネルギーが地面に垂直に伝わらず、前進、上昇のためのエネルギー効率が悪くなります。男女差は上半身を使った競技、瞬発力を要する競技で大きく、それ以外ではより小さい傾向があります。具体的にいうと格闘技、投擲系で極めて大きく、跳躍系で大きく、走る競技でより小さく(なお走る競技は20メートル以上なら瞬発力のみではダメです)、もっとも小さな競技は長距離の競泳です(ある程度の脂肪が浮力の点で、丸みのある身体が抵抗の点で、広い骨盤が接水面積の点で、多少のアドバンテージになっているのでしょう。)。ハンマー投げの世界記録の男女差はハンマーの重量を考慮すると51%差がありますが、走り幅跳びでは19%、ほとんどのランニング種目で11%、水泳800メートル自由形では6%です。世界のトップ女性アスリートでも、記録はおおむね日本の中学男子のトップクラスと同レベルです。吉田沙保里も男子高校生と対戦したらあっという間にフォール負けでしょう。「そもそもスポーツで男女をわけること自体が差別である」という意見もあるのかも知れませんが、もしも男女でわけなければ、およそ半分の人は、女性として生まれた瞬間にアスリートになる道を事実上絶たれることになります。
第2に、テストステロンには明確な男女差があり、かつテストステロンの値がスポーツのパフォーマンスに影響を与えるということ。
95%が睾丸で作られるテストステロンのレベルは連続スペクトルにならず、女性が分泌するテストステロンは血液1デシベルリットルあたり75ナノグラム以下で、男性は240から1200ナノグラム(つまり男性の下限値は女性の上限値よりも200%以上も高い)、例外的に副腎等から高レベルのテストステロンを分泌している女性トップアスリートでもそのレベルは一般男性の下限に達しない程度であるとされています。また、スポーツのパフォーマンスの複雑さゆえにテストステロンがアスリートに与える影響を正確に説明できる科学者はいないものの、テストステロン値が影響を与えること自体はおそらく確実です。テストステロンレベルを下げて身体を女性に変えるホルモン療法を始めたアスリートのパフォーマンスが短期間で急激に落ちることが確認されています。テストステロンの人為的な投与は、典型的なドーピングの一種です。
第3に、第1、第2とやや矛盾するが、男女の差は実は相対的なものであるということ。
受精の際に性染色体がXYとなるかXXとなるか。XYなら男性、XXなら女性だが、これは遺伝的な性であって、性別はそれだけでは決まりません。胎齢4~5週で性腺が卵巣になるか精巣になるか。Y染色体があってもSRY遺伝子がなければ、あっても働かなければ卵巣が作られるし、Y染色体がなくても遺伝情報の特殊性で精巣が作られる場合がある。胎齢6~7週でミュラー管が卵管や子宮、膣になるか、ウォルフ管が精管、精嚢、前立腺になるか。精巣が作られてもミュラー管抑制因子がなければ子宮や膣が作られるし、テストステロンの分泌がなければウォルフ管が精管や精嚢に発展しない。外性器が陰核や陰唇、陰茎や陰嚢のどちらになるか。胎齢8週間まではどちらにも分化できるが、テストステロンが働かなければ陰茎や陰嚢は作られない。脳の性中枢がどちらになるか。胎生90日頃までテストステロンが少ないと視床下部は女性と認識する。それ以前の過程が女性でもテストステロンが過剰であれば男性と認識する。すべての過程で「男並みに」テストステロンが分泌されていてもアンドロゲン不応症ならそれが性分化のために働かない。さらに生まれてから男の子として育てられるのか、女の子として育てられるのか。親の教育方針や環境の問題ですね。男性と女性は確かに違うけど、偶然に左右されつつ、これだけ複雑な過程を経て分化していく。「女子と男子は違う」「テストステロン値は連続にならない」のは事実だけど、それだけで男女の差が説明できるものではないし、そもそも男女の差はそれ自体が相対的なものに過ぎないとも言える。だから「トランスジェンダー」と呼ばれる人がいるわけです。
第4に、これまた第1、第2の点を混ぜっ返すことになるが、生まれもった素質によりある種の公平さが失われるというのであれば、スポーツは多かれ少なかれそういうものであるということ。
女子であっても身長が180㎝以上に伸びなければリベロになる場合を除き世界的なバレーボール選手としての未来はほぼなくなります。陸上トラック競技も五輪や世陸の決勝のスタートラインをみれば、ほとんどの種目で人種的な特質が程度の差こそあれ影響しているのは否定できません。モンゴロイドがトラック種目で金メダルを取るのは不可能とまでは言えないけれども相当に難しいでしょう。将来にわたってピグミー出身のNBA選手は生まれそうにない。さらに障がいがあればほとんどの競技で障がいのない人とは競えません。
以上すべてを踏まえて、今度のCASの決定をどうとらえるか。そもそもIAAFは正面切って「セメンヤ選手を標的にした」とは公言しないが、「400メートルから1マイルまでの距離」というターゲットからは、800メートルで「絶対女王」に君臨し、最近は1500メートルにも進出してきた彼女を想定していることは誰の目にも明らかなので、彼女を例に考えてみます。
一部の報道が正しければ、セメンヤ選手は、遺伝子はXXで、膣があるが、卵巣と子宮を持たずに精巣を持ち、通常の女性の3倍-平均的な男性の下限レベル-のテストステロンを分泌し、パートナーは女性です。彼女の持って生まれた一般の女性と異なる「男性に近い」特質が、競技者としてのアドバンテージになっていることはほぼ確実で、勝利をめざして彼女と競う他の競技者が不公平感を覚えるのは、理解できます。かつて彼女と競うことに不満を漏らした選手は世間から強い批判を受けましたが、例えばセメンヤ選手が、陸上800mの選手ではなく、ボクシングやMMAの選手だったらどうでしょう。同じ体重であっても圧倒的な体格を持つ女性が、典型的な女性選手を滅多打ちにしてノックアウトする凄惨なシーンが展開されればどうでしょう。強い選手だと喝采するどころか、感情的にはなかなか受け入れられない部分があると思います。
しかしながら、上記のとおり、生まれもった素質によりある種の公平さが失われるというのであれば、スポーツは多かれ少なかれそういうものです。とすると、いずれの性に分類するかの前に-セメンヤ選手はもしも男子の競技に参加すれば五輪の参加標準に遠く及びません。日本の高校生に混じってインターハイの決勝に残れるかどうか微妙、というレベルです-セメンヤ選手のみが生来の体質ゆえに希望する競技に参加できないというのは避けなければなりません。
スポーツは勝負事です。勝利を、記録の向上をめざさないスポーツは、スポーツの重要部分を欠いています。だがスポーツには公平さという価値があります。勝ちさえすればよい、記録がよければよいといわんばかりに、競争における公平な条件を無視する人も、優れたアスリートではありません。そしてスポーツは社会的な存在です。勝負と記録にこだわり、競技における公平さを追及するあまり、プライバシーの尊重や人種差別の禁止、個人の尊厳といった社会で認められた価値を軽視し、限られた人にのみ開かれ、あるいは一部の人の人権を傷つけるのも、正しいスポーツのあり方ではない。
ジャッキー・ロビンソンが人種の壁を打ち破る前のMLBのように、かつてスポーツには有色人種を閉め出した時代がありました。特定の種目について女子ゆえに参加を禁止された時代がありました。でも現在はこういう扱いはありえません。「黒人と競わされるなんて不公平だ」「女はこの競技をするな」などという発言は許されない。セメンヤ選手のような事例をどう受け入れていくのか、競技団体のみの判断ではなく、社会が彼女のような人をどう受け入れていくのかという問題として考えなければならない。
いろいろ考えるべきことは尽きないし、悩ましい問題で、今後考えが変わらないとも断言できないのですが、私はやはりセメンヤ選手は「女」として競技に参加すべきと思います。それは人は持って生まれた資質に規定されつつ自認する「性」で自己実現を図るべき権利があり、その権利を尊重することは、個人の尊厳としてこの社会においてもっとも重要な原理だからです。IAAFの決定、CASの裁定には賛成できません。
codingalone 良いまとめをありがとうございます。過渡期って感じあるよね
ありがとうございます。陸上中距離大好き、女子陸上も大好きのヘテロ男性です。自分も10年前なら鼻で笑っていたかも知れません。今でも悩んでいます。
追記2
「これは世界に喚起を促すための闘いで、競技やスポーツの枠を超えたもの。人間の尊厳と誇りの問題で、世界に喚起を促すためにやるべきこと」
臭いの発生源に対して抱く悪印象が、臭いに対する感情にも影響を与えるという話だから、「残り香に限れば無害」というのは反論にならない。
同じデシベルの騒音でも、必要な道路工事なら我慢するが、隣家の夫婦喧嘩に伴う怒鳴り声は不愉快、というのと同じ。
だからその違いはなに?
大雑把に言えば人類に対する貢献。
自分たちの生活にどれだけ役に立っているか、あるいは害を与えているか、という総合的な評価。
法律の話であればタバコは現状条例による歩きタバコ規制などはあるものの
匂いについて取り締まる法はないので
だから「Aは法律で規制されているからAと似ているBも規制しろ」みたいな短絡的な発想は捨てろ。
俺が言っているのは
「タバコより遥かに役に立つ車でさえも法律で規制されることがある」
「どこまで利用してどこまで規制するかというバランスの問題なんだ」
ということだ。
おまえの言う「論理」って
みたいな短絡的かつ低次元的な発想のことだろ。
エレクトーンやキーボードやないで?ピアノとバイオリンやぞ
解説
騒音の中でも、ピアノ・ギターのように楽器の音は規制がむずかしいものです。測定器を使って音の大きさを測ることはできますが、弾き方で音量はすぐに変化し、一定時間のうち何分基準を超えたら規制の対象になるのかなど、実際の線引きは困難です。
区の指導
ピアノを設置するときには、家の構造・周囲の状況を考えて、防音対策をとる必要があります。対策についても、専門業者と十分に相談する必要があります。
ピアノ・エレクトーン:楽器類の使用時は、必ず窓を閉める。また、長時間演奏する場合は二重サッシや防音装置を設置するなど音がもれない工夫をする。
40-55デシベル
ピアノの音量は約100デシベル(dB)。集合住宅の一室で演奏した場合、隣の部屋に聞こえる音量は、一般的な木造住宅では約65デシベル(dB)、一般的な鉄筋コンクリート造住宅においては約50デシベル(dB)です。
ピアノは大きな音を鳴らすことができる楽器ですから、住宅地で演奏をする場合は、きちんとした防音対策の工夫と近隣住民の方への配慮が必要です。
ヴァイオリンの音量は約96デシベル(dB)。集合住宅の一室で演奏した場合、隣の部屋に聞こえる音量は、一般的な木造住宅では約61デシベル(dB)、一般的なマンションにおいては約46デシベル(dB)です。
ヴァイオリンは大きな音を鳴らすことができる楽器ですから、住宅地で演奏をする場合は、きちんとした防音対策の工夫と近隣住民の方への配慮が必要です。
・家賃22万