はてなキーワード: チューターとは
中学生のころから、親や教師、同世代の人間とは、偏差値や単位を媒介とした感情のない利害関係しか結んできませんでした。偏差値を上げ、実力試験や模試などで高順位をたたき出すことによってのみ、親に自分の存在が認められると感じていました。教師や同世代の人間に対しても同様に感じており、高校生になり大学受験を意識してくるようになると、学校に行っても勉強以外のことで話すことはほとんどありませんでした。次第に昼間食堂で彼らと一緒に昼を食べることが鬱陶しくなってきて、その時間は図書館で寝ていました。放課後も急かされるように家に帰り、夜の塾に備えていました。勉強で誰かに頼ったり、お互いに励まし合ったりしたことはありませんでした。
その一方で、他人との争いを前提とし、ライバルを蹴落とすための能力を鍛練するしかない日々に脅えきっていました。一度負けたらもう駄目だというような精神的な圧迫を、絶えず胸に抱いていました。誰にも自分の本音を語ることができず、親や教師などの大人が求めていることをロボットのように忠実に行ってきました。学校に通いひたすら暗記を繰り返し、偏差値を上げていくことを感情を殺しこなしてきました。
やがて医学部に合格しました。将来医師になって人を救いたいという夢があったわけではなく、偏差値が高い大学しか志望することができなかったのが実状でした。親や教師から直接偏差値が高い大学に入るようにと迫られたことはないのですが、当時は彼らが存在するだけで強いプレッシャーになり、東大や京大、国公立医学部しか志望してはいけないと迫られていると感じていました。
受験戦争が終わり大学に入ると、偏差値というこれまで自分の存在を示す唯一の手段が失われてしまいました。大学の授業以外の時間は、特に同世代の人間と遊ぶといったことはなく、塾のチューターや家庭教師のバイトをしたり、運動をすることが好きだったので、ジムに通い筋トレや水泳などをして体を鍛えていました。勉強に対する意欲はなく、単位を取るだけのための底の浅い学習で、試験が終わると頭から抜け落ちて役には立たない代物でした。
この世界のなかで、自分にとってお互いに心情を理解し合えるような人間はおらず、社会に出て苦しいことが起きても、誰にも相談できず、全てたった一人で乗り越えていかなくてはならないという現実に気付き、強い危機感が絶えずおそってくるようになりました。このような自分の状態では、必ずどこかで心が破綻してしまうという確信があり、どうにかして心を開いて接することができる人間と巡り合いたいと切実に求めていましたが、それはかないませんでした。大学も4年生になり後2年で卒業して、医師として非常に責任の重い社会生活をこれからずっとたった1人で送っていかなくてはならないことを考えると、心が沈む一方でした。私は大学を休学しました。
2000年以降、ひきこもりの実態をマスコミを通して知るようになり、自分の主体性のない生き方について改めて見直してみようと考えるようになりました。ひきこもりの実態を知るまでは、自分がどのような状況にいるのか自分自身が良くわかってはいなかったのですが、さまざまな情報に触れるようになり、自分自身の状況を客観的に見ることができるようになりました。やがて、これまでの反省から、今後何を信条として生きていくのかという問題に取り組んでいかなくてはならないと考えるようになってきました。
主体性をもって生きていくためには、これまでの親子関係を根本から改善していかなくてはなりませんでした。思春期以降、親との間に自分の喜怒哀楽入り交じった感情を含んだ遣り取りが全くなく、ただ感情を取り繕い、迎合していただけだったというのが実状で、その実状を自分自身で認めたときには、これまでの人生は何だったのかと愕然としました。
私はもうこれ以上、こういった親との「上辺だけの良い関係」を維持していくことに意義を感じなくなり、親に対して自分の素直な感情をぶつけるようになりました。なかなかものごとが上手く進まない焦燥からくる苛立ちが強いときなどは、私は親を激しく責め、自分の虚勢からくる脅しを、絶えず親に与えていた面もあったのではないかと思います。「上辺だけの良い家族」の演じ合いを避けようとするため、感情剥き出しの「本音」のぶつけ合いだけの関係になってしまっていたというのが事実だと思います。親も私の「本音」に、率直に親自身の「本音」で対応していたと思うのですが、そういった関係からは前向きになれるものは生まれてはきませんでした。
当時は、親子だけで問題の解決に向けて模索することに息詰まっており、局面を打開するため、ある精神科医のもとに相談に行きました。それまでも、何かしなくてはという焦燥感から地元の精神科医に診てもらうことはあったのですが、定期的に診察を受ける度に苛立ち、心の状態は悪くなる一方でした。しかし、その精神科医には好感を持つことができました。
その方は、13年前に不登校やひきこもりで苦しむ青少年たちのための高等学校を私財をなげうって作られた方です。何度か会ってお話しをしていると、自然と目に涙が溜まるようになってきました。これまでの精神科医との遣り取りのなかでこのようなことが起きたことはなく、医師に裸のままの自分の存在を温かく受けていれていただけることに感謝するという心の動きが、まだ自分の中にあったのかと驚きました。先生は、温かく私の言葉を聞いてくださり、先生御自身の体験談も話されました。表現することが難しいのですが、不登校やひきこもり問題に関して具体的な対策を模索してこられた方が発する雰囲気が私を温かく包み、心を解きほぐしていったのではないかと思います。今思い返してみて、正直に言って治療を受けたという実感はありません。自分の感じていることや考えていることを先生に向かってぶつけていき、それに対して先生が黙って肯いている、そんな感じでしょうか。「人間の心は決して理論や理屈だけでは動かない」、この先生の御言葉が私の心に今でも響いています。
何回目かの診察のときに、先生は私の目の前で親を叱りました。私が学校に通っている期間、偏差値に翻弄され私と真正面から向き合わず、私の心が凍りつきロボットのようになっていることに気付かなかったことに対し、「あなたたちはこの子をどういうふうに育ててきたのか・・・深く反省しなさい」と言われたのです。その叱り方は、突き放して終わりというものではなく、温かみがあるものでした。先生の言葉を聞き、肩を落としうなだれ、涙を流している親の姿を見て、私は改めてこの親と一から関係を作り直していきたいという、将来への希望が湧いてきました。これまで社会的に立派な仕事をしてきている親は、こういった形で面と向かって叱られるという行為を受けたことがなかったと思います。親が納得するだけのことをされている先生だからこそ、親は社会的体裁をかなぐり捨てて、反省という態度を子供の前で赤裸々に現したのだと考えています。
改めて親との関係を作り直して行くにはどうしたらいいか考え、親と山陰や北海道などに一緒に温泉旅行をしたり、ひきこもりの会のフリースペースに通ったり、酪農実習(山地酪農)に参加したりしました。今考えてみると、どの経験も自分の成長にとってかけがえのないものであったと理解できるのですが、取り組みを行っていた当時は、長期間続くことがなく、「失敗」したとしか思うことができなかったというのが正直な気持ちです。
こうした「失敗」した活動のなかから、大きな収穫もありました。それは、自分がこれまで経験してこなかったことに対する心の動きであり、それがやがて私自身の価値観の発見につながり、そして自分と親の価値観の相違の気付きに発展していきました。私の家族の場合、親は人口100万人の街に暮らすことを好み、私は人口4000人の田舎に暮らすことを好みます。自然に対する捉え方においては、親はレクリエーションとしての自然を好み、私は朝から夕方までの労働を基調にした自然を好みます。このように親子で大きな価値観の違いがある場合は、お互いにその価値観を尊重していくことは欠かせません。親は子供に自分の価値観を押し付けるべきではなく、子供も自分の価値観に親を無理矢理引っ張り込むべきではないと考えています。
さらに、自分もまた社会の価値観に囚われていることにも気付くようになってきました。周りからいくら「他人を気にせずゆっくりやっていけば良い」などと言われても、自分自身が「人は20代前半で社会に出ていくもの」という一般的な価値観から抜け出すことができず、心は解放されるどころか一層苦しくなっていったのです。
親も先生との出会い以降、急激に変わっていきました。先生の行っているひきこもりの会の運営やチャータースクール開設への模索などの取り組みに対し、積極的に精神的・経済的な支援を行うようになりました。距離的な問題があり、親も私もその現地で会のメンバーと共に活動することはできないのですが、それにも関わらず、親ができうる範囲でメンバーの飲食店経営や、毎週行われているイベント活動を心から支援している姿は、私と先生だけでなく、親も私の抱える問題を共有していることの証となりました。そのうえで、私のありのままの存在を受け入れてくれるようになり、私が次々に挑戦することに対し、時間を割いて行動を共にする、あるいは必要な費用を黙って用意してくれるといった形で協力しながら、温かく見守ってくれるようになってきました。
現在は、「自然(山)のなかでのモノ作り(労働実習を含む)」活動を1年続けています。7年前に山を切り開き、モノ作りにも精通されておられる教職員の方のもとで、実践勉強をしています。
山に入って暮らすようになると、次第に自分でもわかるような変化が起こってきました。朝起きて夕方まで草刈りなど山で働き、夜に陶芸などのモノ作りをするという生活では、自分が行ったことが形としてしっかりと現れます。草刈りをすればその部分が綺麗になり、陶芸をすれば作品ができあがります。山が綺麗になれば心は充実し、陶芸作品が上手くできれば心は沸き立ちます。どれも単純な作業なのですが、単純だからこそ人の心に響くものがあるのではないかと考えています。テレビやパソコンなどの情報機器やエアコンなどの、暮らしを快適にする電化製品がない山の生活のなかで、四季折々の変化に直接肌に触れて自然を体で感じることで、町の生活では感じることができなかった「生きている」という実感を持つようにもなってきました。
私はこの「生きている」という実感を持つようになってから急速に心が解放されてきました。私の場合は、山のなかでのモノ作り活動に、「生きている」という実感を得るためのキーポイントが隠されていました。
私が心のひきこもりから抜け出せなかった理由として忘れることができないのは、自分自身に勇気がなかったということです。どこか心のなかに、「誰かが助けてくれる」といったものや「失敗するのが恐い」などというものがありました。今振り返ってみると、そういった思いが、自分が行動して新しい道を切り開いていくという選択をすることを拒み、ズルズルとひきこもりから抜け出せない期間を延ばしていっていたのではないかと思います。私自身が何もできなくても、親が「ただ生きているだけでよい」と無条件に認めてくれている、そしてそれを心から信じることができる真の親子関係が構築されるとき、もう何も恐れるものはないでしょう。その思いを胸に、これからは自分の考えに従い、活動していこうと思います。
また、今の私には大学に帰り、自分の経験を活かし将来精神科医として働いていきたいという夢があります。お世話になっている精神科医や、山のなかでのモノ作りを教えてくださっている教職員の方の真摯な生き方に触れた経験から、肩書きや高度な知識だけに頼るのではなく、裸の人間として患者に接しながら、深い信頼関係を構築できるような医師になりたいと考えています。そして、それは並大抵の努力ではできないことだとも感じていますが、夢の実現に向けて、日々歩んでいきたいと思っています。
掃除してたら当時の講義資料がでてきたので、セキュキャン2007の話でもちょろっと書いてみる。
申し込んだきっかけはid:ripjyrのエントリを見たことだった気がする。おもしろそうだし国が全額出してくれるみたいだし申し込んでみるかーみたいな感じ。
その頃は今みたいにいわゆる「凄い人」だらけ(聞いた話)と言うわけでもなく、関心がある子が全国から集まったような感じだった。中にはこいつすげぇっていう人もいたけれど。
どのコースを受けたとか何があったと書くと、特定されそう&NDA違反になりそう(書いてみたかった)なのであんまり書けないのだけれど、自分が受けたコースは初心者でもついて行けるように配慮されていたし、話の密度が濃くてとてもおもしろかった。技術が身につくわけではないにしてもきっかけとしての知識は吸収できるし、何より好奇心をものすごく刺激された。素直に行って良かったと思える。
自分が受けていないコースの資料ももらえるので興味があれば目を通すこともできるし、今見ても良くできた資料だなと思う。こう言うのが大学とか高校のPC教室みたいなところに置いてあったらおもしろいのにね。惜しむらくはパワーポイントで作ったような資料なのに電子データとしての提供がないことかな。2008以降のプログラム部門の資料は一部公開されているようだけど、セキュリティ部門は見つからなかった。
他にも日本の大手セキュリティ企業(ウルトラ警備隊基地)の中を見学できたり、カカクコムの(省略されました)といった"ここだけの話"も多かった。セキュリティ業界は"ここだけの話"が多すぎるとは思うけれど、扱ってる内容を聞いたらよく話してくれる気になったなと思えるような内容ばかり。
いろいろ書いてみたけれど、おもしろかったし応募してみるといいよ!って話になってしまいましたね。
いい点だけ書くのもフェアじゃないので暗黒面も書いてみる
参加者の交流を深めるってことで参加者一覧が書かれた紙(本名とかどのコースとか)が配られて、個人情報保護のため最終日に回収するとアナウンスされていたのだけれど、今講義資料めくっていたらその紙が出てきた...
参加していて気になったというか、いいのか?と思った事として、筑波大学にAC受験したい子が実績ロンダリングとして参加してるようだったということ。
実際、筑波大学AC受験組の内輪イベントみたいな空気が漂ってる場面もあったり、高校生に対して「セキュリティキャンプ行って受験した子で落ちたの1人しかいない」などと勧誘してる場面が多々あった。
進路まで決められるセキュリティキャンプすごい!
後々聞いた話だと一部の講師間の人間関係がやばいとかなんとか。チューターと(省略されました)。
まぁなんか講師の人のblog読んだりとか他の勉強会行ったりすると「あー」って思う場面がいろいろあるよね。
翌年からセキュリティー部門とプログラミング部門に分かれて、最終日にプログラミング部門でjkondoのありがたいお話が聞ける(聴講可)ということで行ったら、プログラミング部門はセキュリティ部門とは一転してフリーダムな環境で、wifiありインターネットし放題と全く毛色が違うイベントだった。(自分が参加していたときは「通信は全部キャプチャしてるからね」と冗談なのか本気なのか分からない事を言われた)
まぁそれはどうでもいいとして、去年の参加者がチューターとして参加していて指導していたのだけど、そのチューターがOSx86をインストールしたノートPCを普通に使っていて驚愕した。
思いっきりEULA違反じゃん...去年のキャンプで何学んだの...それを咎めない講師陣もちょっと...
プログラミングキャンプすごい!
又聞きの又聞きで真偽が怪しいけれど非常にブラックなので書く。
2007参加者の現筑波大学生が自分のWEBサービスのソースコードを流出させた知人のサイトにDOS攻撃を仕掛けてダウンさせたらしい。
犯罪者誕生ですね!セキュリティキャンプすごい!
暗黒面がいろいろと酷いですけど、善良な参加者の皆さんには何の関係もないですし、何よりもキャンプで得られる経験っていうのは他所では絶対に経験できないのことなので是非参加するといいと思いますよ。
http://copypa.blog99.fc2.com/blog-entry-1724.html
701 :おさかなくわえた名無しさん:2008/07/16(水) 23:42:22 ID:Y9WXsrp3
浴衣の季節だね
浴衣とかお祭り関連の和み話に出て来るような和み外人さんに年中遭遇する
つーことで、みんな着物を普段着にすれば和み話を大量ゲトできると思うんだがどうよ
和み話の一例
この前海外行った時に(海外でも着物着用)会った日本語勉強中の外人さんに
「かわいーです!かわいーです!」
ってやたら褒められたから、気恥ずかしくて
「ありがとー。でも着物がでしょ?w」
(謙遜の意含むw
日本人同士なら「いやいや、ご本人も可愛いですよおw」って返ってくるはずのお約束の会話ねw)
って返したら、ものすごい笑顔で
「ハイ!!!キモノがです!!!!」
って言われてどうしようかと思ったwww
# : 創造力有る名無しさん:2009/03/26(木) 18:35:04 ID:NIKUKYUU
ありがとー。でも(私じゃなくて)着物がでしょ?w
このカッコの中のニュアンスは通じてないと思うよ。
# : 創造力有る名無しさん:2009/03/26(木) 23:06:35 ID:NIKUKYUU
※7
日本だと言わないけど。
更に言うと、「でも」もきちんと通じてないと思う。アメリカ人に日本語(大学の授業)のチューターをしていたときに、日本人は「逆接」になってないのに「でも」って良く使うのが躓きの石になってた。英語のhoweverやbutは、明確に前後に対立があるときに使う。起承転結の転みたいなとき。
「(私がかわいいのではない。)でも、着物がかわいい。」ということだろうけど、この「でも」は逆接になってない。きちんと言うなら「他方で」とか、並立させる感じ。
なんかこいつ典型的な「あいまいな知識&又聞き」でデマを量産する奴だな。
最低限でもその「こっちにきてる留学生」の国籍と階層ぐらい書けよ。俺は茨城の某国立大で留学生のチューターをやっていて色々な国の色々な学生と会ってきた。
俺が担当していたスロベニア人の留学生はクレジットカード(親が払う)で物買いまくって携帯電話も買って豪遊していたし、韓国人で実家が金持ちで凄いいいアパートに住んでいる留学生もいた。
逆に奨学金貰わないで自費で来て、金が足りないから俺がバイトしているファミレスで働いて学費や生活費を稼いでいる中国人留学生もいたし、同様にファミレスでバイトしていたポーランド人留学生もいた。
スロベニア人でも「バイトの口無いか?」と聞いてくる困窮したやつもいたし、国からと日本の機関からの奨学金でバイトなんてしなくていい奴もいた。
ケースバイケースで、一例から全てを語るなんて出来ないんだよ。せめて数十例は触れてから語れよ。