はてなキーワード: チェスとは
手の混んだことをやる人はどんどん減っていく
ゲームもクリアに時間がかかりすぎるようなのは誰もやらなくなるし、小説も手の混んだ文学手法を使ってるようなのは誰も読まない
例えばチェスについて考えると、「チェスの地元グループに参加して、そこから練習して、大会に出て、レートを上げて」というタイプのめんどくさい道を通る人はいなくなり、
オンラインでテキトーにゲストとして参加して気晴らしにやる人が増える
あるいは数学を趣味にする場合も「コホモロジーとはなにか」みたいなめんどうくさい理論を理解しようとする人は減り、組み合わせ論のアルゴリズム問題のように、前提知識がそれほどなくても取り組める題材を選ぶ人が増える
まーね、変なのはどこにでもいる。
ただ田舎ほど寛容ではないのと、出しゃばらないのが多いって印象。
よく言えば紳士的(フロント企業的な)、悪く言えば水面下で地方民から貪る、って感じ。
だから、もし上京してくる人間がいるのなら、東京に少なくとも3代以上住んでるドラ息子と仲良くなっておけ。
そう、それくらい短い期間でも東京モンを名乗ることができるくらい
だから、新しいもの、新参者には田舎以上に敏感なのが都会っ子。
より多くのパターンと、多くの個体と出会うからこそ危ないやつの構造化ができてる。
ま、経験則かつ複合的な記号の集合だから言語化は難しいんだけどね。
だからこそ、センサーとして東京のアホボンをカナリア代わりに使おうな。
一つ注意点は、ボンも同じようにお前のことを値踏みしてるってこと。
お前が受けた教育以上に、良い教育と躾を受けている可能性があるのだから
演技やロボットのアクション描写とは当時の水準でも相当高かったよね
もちろん全部がしっかり組まれている必要はないし、ご都合主義がダメとも思わない
けど、全体的に低品質というか薄味感が否めない
というより、あえていうとキャラの個性を立たせるためのストーリーであり、BGMによる演出を優先していたって感じがする
ギアスの暴走とかゼロレクイエムとか、みんなこれ面白いと思っていたんだろうか?
終盤で軍艦をつかってチェスをしているって描写はマジでナンセンスすぎるよなーって思っていたし
当時リアタイしていたけど、夢中になってストーリーを追いたいって感情は全然わかなかった
常山勝弘(つねやまかつひろ、Tsuneyama Katsuhiro、1989年8月7日生まれ、血液型はA型。)とは、JRの株主などを務める新潟県出身の華族(從二位)の弟であり、チェス愛好家として、現在日本チェス連盟の会員である。
… 関東軍の孫 …
徳川の時代に、魚沼地方において大庄屋をやっていた士分の門家である両家(苗字を帯刀することが許された格式がある両家。現在の姓は、常山家と南雲家。)の中に生まれ、満州事変(1931年-1934年)において、関東軍(第9師団騎兵9連隊)を務めていた常山新作の孫であり、常山氏(氏族)に属する。幼い頃は新潟県の公立学校で育ち、東京の私立高校(通信制NHK学園高等学校)を中退した後、旧大検を取得し、2024年4月には、伊豆半島にJALcardで、旅行に行っている。本人は国鉄の娘である母親洋子の母南雲タキの家系から続くカトリック信仰であり、日本のキリスト教会のプロテスタント派の神学生を成人の頃に、少しだけ務めたことがあり、誕生日のお祝いに洗礼の宣伝を作らせてもらったことがあると言う。
常山新作は、昭和天皇陛下の直属部隊に属しており、関東軍に務めていたので龍光大綬章を受賞しているが、これは桐花章と同位である。
父親の常山満は、神奈川近代文学館に自著の詩集を所蔵されている。
… 人物 …
幼少期から、かっちゃん(Kattyan)の名前で、親しまれている。
… 脚注 …
… 外部リンク …
https://miitus.jp/t/JCF/login/box/?logout&p=b2tma0NyUStMVjJMTzlwS2crdXNFQk5PYThFcVhqeWNaUVlSZkRDd2xZTm9leEZMOUd6dWdlc0FPczduWFNxTWNOaFVRMzMvK1l3SjRRUFFzU3A0V2c9PQ==| MiiT+/日本チェス連盟
新しい趣味としてオンラインゲームをやってみたが、少しやってみて「あれ、これ時間の無駄遣いじゃない?」と思ってしまった。
アルビオンオンラインという、FF14を劣化させたようなゲーム。
そういえば、FF14を辞めたときも時間が無駄に感じるという理由で辞めたのを思い出した。
映画鑑賞や読書とかであれば、まだ何某かを学んでいる感じはするが、ゲームは爽快感のある時間の使い方じゃない。
古典的なゲーム(テキサスホールデムポーカーやチェス)であればまだ楽しめる感じがあるかもしれない。
ゲームといえば、ヤングシェルドンではシェルドンがバアバとゲームに熱中して学業をサボり、ビックバンセオリーではペニーがゲーム中毒になって廃人と化すのを思い出した。
チェス960を思い出した
[B! 差別] 創作者のミソジニーが「表現の自由」を自壊させていく - あままこのブログ
元々のリンクを辿ると、このブログ記事に行き当たる。なんと、1000user近いはてブが付いてる!
男性がある物を批判をする時はその「ある物」を主語として瑕疵や不具合を述べ立てますが、女性が何か批判する時は「自分の気持ち」を主語として被害の発生を申し立てるのです。
「オエッてなる」「嫌になる」は男性の口から出る時は体調報告やただの愚痴であるため、何かをシリアスに批判する場面でこういう語彙が出てくる場合、書き手はかなりの確率で女性です。
つまり「オエッてなる」「嫌になる」は男性世界では批判として成立しません。そのような体調報告やお気持ち表明だけで何か言ったような雰囲気を出している場合、書き手はかなりの確率で女性です。
コメントでの再反論も纏めると、女性は批判する状況で「オエッってなる」「嫌になる」を言うが、男性は言わない。男性は「吐いた」「吐き気がする」と言う。——自分の気持ちではなく、批判対象となっている「物」を主語として瑕疵や不具合を述べ立てるのだ。
私もかねがね、男と女には思考形態に差があるよなァ、と感じていた。世間的にも、例えばクルマの修理のコピペは広く受け入れられている。
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう』
男『トラブルって怖いよね。で、バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『それは困ったね。どう?ライトは点く?』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった』
男『…ライトは点く?点かない?』
…
男女の思考の差を紹介したブログは女性蔑視だと批判されているが、しかしコメント欄に、はてなフェミニストの方も名を連ねていて(異議を述べつつも)理解を示してて多くの賛同を得ている事に注意してほしい。
そもそも性別を否定するのはトランスジェンダーなどLGBTsを相手にやったら差別になるようなハラスメントなので乗っかるべきではないが、男女の大まかな思考の傾向には明らかな差がある。物理的なハードウェアデバイスとしての脳構造には確たる差はないらしい。しかし実際にはチェスや将棋のランク差や、理系科目を好まない女性の傾向、冒険マンガが「少年マンガ」、恋愛マンガが「少女マンガ」として売られてる傾向などからも、男女のソフトウェアとしての方向性の差は明確に存在していて、誤解を恐れずに言うと、これは、一見、男女平等の理念に逆行して見える。
だけどサステナブルな社会における多様性とは、ヒトは同じであらねばならぬと同調圧力で均すのではなく、お互いが違う人間であると認め、その差異を尊重しつつ傷つけ合わないように距離を取ることだろう。男女の思考が違って何が悪い? 女性の生理を男も学ぶべきという言説をたまに聞く。炎上覚悟で言うが、男性たちが女性の体の仕組みを完ぺきに理解する必要は、ないと思う。女性のことは女性に任せて、要請に応じて手を貸せばいい。困ったときには助け合えばいい。責任分担を決めて、距離を取りお互いの領土を侵犯しないように住み分けることが、上手くやっていくコツではないか。
与えられた仕事がない時は自分で仕事を見つける必要がありますが、やる価値のあることは少ないのです。
やってコストになるならやらないほうがマシです。
それで、私は「これをやってほしい」とあちら側からやってくるのを切望しているのです。
社畜といえばそれまでですが、私は金儲けは得意ではないので、金儲けの戦略を考えるような話では戦力外です。
「生産性を上げるためにこういうツールが必要だ、作ってくれ」という話ならば、やる気が湧くのですけどね。
それはそうと、私のチェスの腕前は素人レベルなのですが、chess.comで勝つといい気分になります。
結局、チェスとは1日における有限の集中力の割り当てゲームです。休日に朝起きて、朝食を食べた後ぐらいにやれば勝率が格段に増加します。
しかし調子に乗って二戦やると、すでに集中力を使っているので負ける公算が高いのです。
何か新しい趣味はないだろうか、と探し続けてしばらく経ちますが、ブログの執筆というのが一番しっくりくるような気がしているのです。
私はこれまでに何種類かのブログを書いてきました。
学生時代はサイバーセキュリティのブログ、就職後は自然言語処理ブログ、あとはいくつかの黒歴史です。
バカも黙っていれば利口に見えるというのは、聖書にすら書いてあります。
ブログなど書いても、チェスの集中力の話と同じで、いつか気力の弱い時にボロが出るだけでしょう。
それよりも一冊、フィクションの小説を書いてみるというのはどうでしょうか。
いや、私は知っています。世の中には溢れんばかりの小説がありますが、その需要は限界を迎えていることを。
例えばこういうのはどうでしょう。つまり、語り弾きの録音をして、soundcloudで発信するというのは?
もしかすると、アウトプットのできる趣味を求めるのが間違っているのかもしれません。
そもそもアウトプットは社会を前提とします。私の脳が社会的本能を持ってしまっているために、社会に何かを出したいと思ってしまっているのです。
しかし誰かに認められることなく、家の中で数学をやっている虚しさを私は経験しています。
結局学問というのは、社会に成果を発表してこそやる意味があるのです。今、卓上で宇宙の真実を発見したと言っても、虚しいだけです。
では趣味全般が、社会との交点を有意義さのために必要とするのでしょうか。
いえ、そんなはずはありません。私の母親は趣味で農業やダイビングをやっていますが、情報発信などせずに充実しているようです。
そうすると、なぜ私は社会のことを過剰に気にしてしまっているのでしょう。
それについては、たぶん私の「新規探究性」にあると思います。遺伝的に私は新規探究性が高いので、ようするに新しいことをしたいのです。
インターネットに不満を感じ始めたのは、目新しさが減り、なにもかもがありきたりに感じ始めたからかもしれません。
私はtiktokが出た時も、「ありきたりなアイデアだなぁ」と思っていました。
マルチメディアは動画・画像・テキスト・音声ぐらいしかなく、そのバリエーションで言えば、動画の次元である「再生時間」に制限を加えたSNSが出てくることぐらいは誰もが予見していたでしょう。
生成AIが出た時は、「AIもここまで進歩したか」とちょっと驚きましたが、触ってみるとすぐに飽きるのです。小説AI,ChatGPT,画像生成など色々試しましたが、AGIが出てこない限りはあまり驚くこともないでしょう。
私は頭が悪いので「頭が良くなる方法」とよく調べることがあります。
なぜかというと、数学やチェスが趣味であるというのと、仕事がプログラマーであるのとで、頭をメンテナンスしたいからです。
そして最も重要なのは「睡眠食事運動」であることがどの情報にも書かれています。
睡眠に関しては、努力はしています。夜更かしをしないようにしていますが、目が覚めてしまう場合もあります。
食事については疎かになっているかもしれません。こどおじなので、両親が作ってくれますが、朝は食べないことが多く、昼は卵かけご飯ぐらいしか食べていません。
そして最大の難点が運動です。私は過去に「美しいお尻になりたい」といって運動をしたことがありますが、1ヶ月しか続きませんでした。
苦しいと思うことを習慣にしようとしても続かないらしいのです。
しかし運動が足りないことを補うために、部屋の中でぐるぐると歩き回ることがありますが、このような運動でも効果があるのでしょうか。
東京の人は割と歩く距離が長いようですが、私は田舎なので、歩くことが極端に少ないのです。
いや、田舎だからというよりは、フルリモートの影響が大きいでしょう。
といってもフルリモートをやめるつもりはないですけどね。電車の時間が往復で2時間かかるから、それがないだけでQoLが上昇します。
しかし電車で通っていた時期もありました。その時はQoLの足しになるように、電車内での読書を必ずやっていて、毎月1冊は読破できたのです。
怠けた生活になってからは、読書さえも少なくなってしまいましたね。
増田やSNSなどのデジタルに費やす時間を減らし、それを補う形で読書ができれば良いと思うのです。
デジタル空間に「ソーシャル性」を持ち込んで、良かった試しがありません。きっと、聖書の箴言の言っていることが正しいのでしょう。