「タワーレコード」を含む日記 RSS

はてなキーワード: タワーレコードとは

2015-07-18

ナンバーガール青春だった

2000年、俺は東京にいた。

その年の春、俺は意気揚々地元九州から上京してきた。

新たな生活

自由一人暮らし

華やかなキャンパスライフ

そんな期待を抱いて俺は東京にやってきた。

しかしながら現実はそんなに甘くはなかった。

不安ばかりの毎日

孤独な一人の生活

馴染めぬ大学での人間関係

淡い幻想は一瞬にして打ち砕かれ、

期待とは真逆の最低な日常を、一日、一日と俺はなんとか懸命に生き抜いていた。

そんな日常の中であるCD出会った。

あれは確か新宿タワーレコードだったか

その日もいつものようにつまらない一日だった。

5限の講義を受け終わった後、

ただあてもなく街の中を歩きまわり、

気づくと俺はタワーレコードの中にいた。

時間を潰すため、店内を適当にうろついていた時、

ひとつのポップが視界に入った。

福岡市博多区出身、勢いに乗るバンド

ポップの内容は確かそんなものだったと思う。

地元が一緒でなんとなく惹かれたのか、

俺の足は自然とそのCD試聴コーナーへと向かっていた。

再生

煩わしいサウンド。

下手くそな歌。

正直に言って何がいいのか全然からなかった。

しかし、何かの気の迷いなのか、俺はそのCDを買ってみることにした。

地元のよしみと思ったからかもしれない。

あるいはバイト代が入ったばかりで、気が大きくなっていたからかもしれない。

正確な動機を思い出すことはできないが、

おれはそのCDレジに持って行き、幾ばくかの金を支払いそのCDを手に入れた。

そしてその日から俺は、そのCDを聴きまくった。

学校バイトの行き帰り、授業の合間。

本当に暇さえあればずっと聴いていたと思う。

別にそのCDが好きだったわけではない。

そのうるさいギターの音や、音痴な歌を聞いていると、

気の滅入る日常が隔絶されるような気がしたからだ。

最低の毎日を何とか生き抜くために俺はそのCDを聞いていた。

しかし、そのCDを買ってから半年ほどした後、

偶然にも気の合う友人ができ、

ひょんなことから恋人もできた。

そして、あんなにも嫌っていた日常楽しいものになっていった。

そして、日常生活が充実していくにつれ、

いつしか俺はそのCDを聞かなくなっってしまった。

気づけばCDも何処かへいってしまった。

あの日々から15年。

現在、俺は結婚して子供もいる。

仕事もそれなりに順調だ。

あの日々を思うと、幸せすぎる毎日だと思う。

そして先日、家の掃除をしていた際、あるCDを見つけた。

ナンバーガールのSAPPUKEI。

15年前の新宿たまたま購入したCDだ。

懐かしくなって久々にそのCDを聞いてみることにした。

轟音のギター

やかましいドラム

音痴な歌。

瞬時にあの日常が蘇ってきた。

気だるさ。惨めさ。

家賃5万8千円のアパートの畳のざらつき。

その瞬間、当時の感覚が生々しく蘇ってきた。

はっきり言って全く良い思い出ではない。

大きすぎる自我をかかえてのた打ち回り、なんとか毎日必死に生き抜いていた。

常に周りと比較劣等感に苛まれ優越感を抱ける相手を必死に探し、

何とか自分を維持していた。

正直、思い出したくもない日々だ。

しかし、そんな日々が自分にとっての青春なんだろうと思う。

そしてそんな日常の傍らに常にいたナンバーガール

辛い現実対峙せず、彼らの音楽を使って逃避を行っていた。

彼らの音楽を聞くと否が応でもそんな弱い自分を思い出してしまう。

ナンバーガール自分にとっての青春なんだろうと思う。

2015-01-19

大森靖子を好きじゃなくなる瞬間

大森靖子歌詞

大森靖子歌詞が良いことなんて今更過ぎるけど、どこが好きなのか整理してみた。

エンドレスダンス

「もう好きじゃなくなったのかな」

「好きだった歌 もうサビしか歌えない」

絶対絶望好調

「好きだったけどキレイキモいキライ」

さようなら

「ほんとうに 好きだった 彼の悪口

わたしかさようなら

over the party

メアドが変だからきじゃない」

彼女は人を、何かを、好きじゃなくなる瞬間の切り取り方が秀逸だ。

歌詞ではないが「だれかを 好きになりつくて仕方ないんでしょ?」タワーレコード広告キャッチがある。

巷には、人から好かれるためのハウツーは溢れているけど、人を、好きになる方法ってなかなか見かけない。

ものですら、マーケティングとか何とか言って人から好かれるための工夫がたっぷりされてる。

でも好きになる方法って見たことない。

好きになること自体滅多にないのに、好きだと思ったものがあっという間に好きじゃなくなる。

自分が好きじゃなくなられるのはコントロール出来ないから仕方ないけど、自分の好きすらコントロール出来ないなんて悲しい。

そんなとっても悲しい瞬間の切り取りの名手が大森靖子だ。

彼女PARCOCMで「音楽も聞き捨てられる時代になっているけど、自分はそんな時代を嫌いじゃない」と言っている。

こんなに大好きでも、私が大森靖子が好きじゃなくな瞬間が訪れるかもしれない。そんな瞬間ですら先回りで巧みに切り取るのが大森靖子の魅力だ。

2014-08-10

アニメオタクアニメに何も貢献していない。むしろ害悪だ。

自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。

すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。

アニメオタクは何もアニメに貢献していない!

今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。

まず、オタクオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。

名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメ現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダール敬愛していてたまたまタツノコプロ求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。

「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫オタク地位向上のためにでっち上げものだ。本人も後にそれを認めており、外から圧力に弱い日本オタク市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫苦肉の策電通村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。

それは今まで世界的な評価を得てきた作品を見ていけばわかる。

まずは、宮崎駿アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風アニメ界ではむしろ異端であるスタジオジブリ的なもの宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本はいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。

宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要ポイントだ。

押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。

他にも大友克洋の『AKIRAだって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップだってそうだ。

オタク監督だと言われるウォシャウスキータランティーノだってウォシャウスキーSFの人で決してオタク想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノ高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。

エヴァンゲリオン無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァオタクオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタク偏狭さに嫌気がなして反オタク改宗した。その事実オタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。

このようにオタクオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてもの全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク想像力オタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛新房昭之の姿だ)。

しろオタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。

オタクオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアートアプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコード平積みされ、オタク想像力は一瞬で敗れ去った。

それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間駆逐されており、鶴巻は反オタク急先鋒である)。

そして、それは明らかにアニメ進化を阻害している。その理由を書こう。

まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵アニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるもの萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニー萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。

しかし、アニメオタク萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。

例えば近年稀に見る傑作である鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーション快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。

そして、アニメーション快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクアニメーションのことがわかっていない。だからスタジオジブリ的なものピクサーに取られ、アニメーション快感マイケル・アリアスに取られてしまうのだ。

もう一度言おう。オタク想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵アニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメ進化を阻害している。

アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。

2013-04-25

http://anond.hatelabo.jp/20130425220446

いつごろもなにも、現在においても実家に帰ると最寄りのレンタルビデオ20km先だけど。

何度かは出来たが、いつも数年も経たずに潰れていった。

この町と、隣接するいくつかの町をあわせれば、数万人は人間がいるが、潰れるんだ。

誰も興味がないか、あるいは車で20分もかけて借りるほどの興味はないってことじゃないかな。

映画をみるところがないのも、今も昔も一緒だよ。

40kmほど行けば、県庁所在地があり、映画館もいくつもあった。

県庁所在地とは逆方向に30kmくらい行った町に、先にスクリーンが2つしかない映画館があった(が潰れた)。

しろ地方映画館は減ってるんじゃないかな。

というか減ってるでしょ。

今調べたら、1960年は全国に8000件もあったのな。

最近新しくオープンする映画館て全部シネコンでしょ。

シネコン人口1万人の町にできるわけもなく。

映画をみたことがないわけじゃあないし、映画館に行ったことがないわけじゃないよ。

大きな本屋だって行ったことくらいある。

でも、図書館のほうが本の数はあるしさ。

実は、でかいレコード店には入ったことはない。

実家の町でCDを売ってる店は、個人経営電気屋の一角だけだった。

TSUTAYAの1/4くらいの規模だった。

中学の頃は、自転車で30kmくらい離れたTSUTAYATKプロデュースCDを買いに出かけたやつはチラホラいたけれど、HMV渋谷が閉店を考えるとか言われても、なにがどうすごいことなのか全くわからない。

TSUTAYA音楽好きの聖地だったと言われれば、そんな気がしないでもないが、やっぱアマゾンのほうが品揃えがいいしって思っちまうし、タワーレコードHMVも入ったことがないのでぜんぜんピンと来ない。

地方ってそんな感じですよ?

2009-08-07

タワレコ新宿

久々に行ってみると新宿タワーレコードが少し変わっていた。

以前は7階、まず入ってすぐの所には新譜を展開してる棚がレジカウンターに平行する形であり、その奥にレジカウンターに垂直の方向に特集コーナーの棚があったのだが、その特集コーナーが無くなっていた。一時的なものだろうか。

特集コーナーというのは棚ごとにいろんなジャンルの特集になっていて、例を挙げると、前回行った時はそのコーナーの一つがミニマル特集みたいになっていて、ベーシックチャンネルテリー・ライリー、シルバーアップルズなどが置いてあった。

私は音楽情報に疎くそのコーナーでいろいろ試聴をして未知の音楽に出会っていて、昨年はその特集コーナーでジャケットにひかれBillie Davisの素晴らしいアルバムに出会ったりした。

8階の洋楽フロアはまだジャンルごとに古いアルバムなんかも含めた試聴コーナーがあるのでそんなに絶望的というわけでもないのだが……

そろそろインターネット音楽情報を仕入れる方法を模索しないといけないのかな。

はてなをやってる人なんかだと、CD(笑)、リアル店舗(笑)、って感じなのかなぁ。

2008-11-18

アニメオタクアニメに何も貢献していない。むしろ害悪だ。

自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。

すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。

アニメオタクは何もアニメ貢献していない!

今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。

まず、オタクオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。

名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメ現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダール敬愛していてたまたまタツノコプロ求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。

「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫オタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本オタク市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。

それは今まで世界的な評価を得てきた作品を見ていけばわかる。

まずは、宮崎駿アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。

宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要ポイントだ。

押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。

他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。

オタク監督だと言われるウォシャウスキータランティーノだって、ウォシャウスキーSFの人で決してオタク想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノ高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。

エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァオタクオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実オタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。

このようにオタクオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛新房昭之の姿だ)。

むしろ、オタク好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。

オタクオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアートアプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコード平積みされ、オタク想像力は一瞬で敗れ去った。

それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。

そして、それは明らかにアニメ進化を阻害している。その理由を書こう。

まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵アニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニー萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。

しかし、アニメオタク萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。

例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーション快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。

そして、アニメーション快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーション快感マイケル・アリアスに取られてしまうのだ。

もう一度言おう。オタク想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵アニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメ進化を阻害している。

アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。

2007-02-11

http://anond.hatelabo.jp/20070211181911

Wikipedia秋葉原>略史)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん