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名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita
この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから,安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である。
初期の UNIX の歴史について興味がある向きには次の書籍をお薦めする。
Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)
和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書は The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。
また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。
元記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計の基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。
https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date
ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。
もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX の開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T の定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事で言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。
この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDF は OCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX の論文なのだ。もちろん論文の性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイの哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白い。UNIX の開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然な時代だったことは間違いない。
UNIX が認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイの論文に影響を受けた布教のためのああいう説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本で最初期の UNIX 解説本のひとつである,村井純・井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。
オペレーティング・システムは,コンピュータを使うものにとっての環境を形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性を尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIX のオペレーティング・システムとしての個性ではないだろうか。
「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能のコマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性を尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである。
そしてじつは UNIX の場合,布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。
UNIX は PDP というミニコンピュータ(ミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校の教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校にコンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器はコンピュータではなくコンピュータに接続するための端末装置(ターミナル)だ。端末装置のキーボードで打った文字がコンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 Unix 系 OS で CLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置のエミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。
さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥や洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっともコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥が CPU でそっちの洗濯機がハードディスク,あの机に置かれているタイプライタが管理用コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代のお話だ。
端末装置それぞれから(USB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。
結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。
当時の UNIX の評価を一言で表すと〝自由で不安定な OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由。さらに他のメインフレームやミニコン用 OS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロ用 OS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番のディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。
こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌『UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイの1986年11月号から1988年10月号掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器で1980年ごろから UNIX サイトのスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX の自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。
CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU を実質的に停めてしまうことが UNIX ではいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンドを10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに vi のカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトでログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX は破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているときに勝手をやられると非常に困るのである。当人の仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。
ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイルを自由に作ることができる。したがって,自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソール・タイプライターにエラー・メッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソール・タイプライターが一晩中エラー・メッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図も完璧に打ち砕かれてしまうのである。
そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンドを10個くらい同時に走らせ」たり「自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイトの利用者全員に UNIX の設計の基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX の伝道がより苛烈だった理由のひとつがここにあるのだ。
ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代の UNIX は Research UNIX と CSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX と記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIX のライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研で発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。
もっともそういう70年代風味の牧歌的風景はミニコン世界限定の話であった。BSD そのものはミニコン用のものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSD 系 Unix や AT&T が推し進める System V などがワークステーション市場を舞台に80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PC 用 Unix であるマイクロソフトの XENIX も当然参戦した。ミニコン世界が牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争はあくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&T と BSD 系 Unix の Sun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。
こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unix そのものや文化にも変化をもたらした。まず激しい競争は Unix の高機能化を加速した。商品として判りやすい惹句が「あれもできます,これもできます」なのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者の自由を制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix は現在の Unix 系 OS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教の必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unix のシステム管理の入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空のソフトウェアハウス(開発会社)を舞台に新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。
当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイの論文の結論部分に書かれたそれは,1973年に出版されたイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハーの著作の題名で,中学生の英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。
Small is beautiful.
マキルロイは『人月の神話』を引いて一定の留保をつけてはいるものの,これが UNIX 哲学の背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•cs のアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?
ひるがえって現在の Unix 系 OS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX が仮想敵とした OS そのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在「UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。
そこでちょっと、最後、時間の残りが少しずつなくなってきているんですが、録音反訳の話、先ほども御説明の中で最高裁の方からいただいたんですが、私も不案内なんですけれども、何か最近、電子速記「はやとくん」なんていう、えらいかわいらしい名前の機械、速記反訳システムというソフトが開発されているようです。「「はやとくん」をご存じですか?」なんていうチラシもあるんですけれども、名前の由来までは私承知しませんけれども、これも、名古屋の元速記官の方がこういうシステムソフトを開発されて、聴覚障害者等々の訴訟、裁判参加にも役立っているというふうなことが結構書いてあるんです。
実際、テープで法廷のやりとりを反訳するというのは難しいでというのは、実際その反訳を請け負っている業者の方からも出ているらしいんですよね。というのは、事件の内容が、記録もないからわからへんわけですし、裁判の専門用語もいっぱいあるわけです。そうなるとやはり、立ち会いメモぐらいはもらえるらしいんですけれども、ほとんどそんなの役に立ちまへんのやという話も聞いています。それで、不明な箇所を書記官に問い合わせたら、不明は空白にしておいてくださいよというような調子でやっているそうです。
そういう意味で、書記官からも、テープの反訳について疑問の声というものを私幾つか聞いています。テープによる録音反訳でしたら、当然のことながら反訳者は法廷に立ち会ってへんわけですから、やはり不正確な文書をつくってくることが間々あるそうです。私も速記のことはよくわからへんのですが、見ましたら全然意味の違う文書が出てくるらしいですね。
そうなると、今度はその校正のために書記官がえらい時間を費やすことになると。これは二度手間なんですね。そうなると、書記官さんだって本来の仕事に支障を来すことになるんじゃないか。いや、そんなことはありませんと言いたいんでしょうが、そういう指摘があるという事実については御承知されていると思うんですが、そういう現場からの録音反訳の精度的な問題を指摘する声を踏まえたときに、この「はやとくん」、こうしたものを実際速記官が自主的に、六割以上が自費で購入して使ってはるらしいんですよ、だったら、こういうのを併用しながらやれば十分対応できるんじゃないでしょうか。この「はやとくん」の使用というのはお認めになっているんでしょうか、みんな使ってはるらしいですけれども。その点、いかがですやろか。
○中山最高裁判所長官代理者 まず、録音反訳方式について種々問題点が指摘されているという御質問でありますけれども、録音反訳方式を利用するに当たりましては、反訳者に対して聞き取りやすい録音を提供するために、特別な録音システムというものを法廷に設けまして明瞭な録音の確保に努めているほか、今御指摘ありましたように、反訳を依頼するためには、証拠調べに立ち会っている書記官が、立ち会いメモ、これは必要に応じて書証とかあるいは準備書面の写しも添付いたしますが、それを作成し、録音テープとともに反訳者に送付して、反訳書の作成に必要な事件情報を提供しているところでございます。
また、この録音反訳方式によって作成された調書はあくまでも書記官の調書でございますので、書記官が必ずそれを自分の責任において考証するということからも、その内容を見ることは当然必要でございます。そのあたりのところは、職員団体の方からも、この録音反訳方式を導入する際に、書記官による検証というものを必ず守ってくれ、入れてくれ、こういうふうにも強く言われているところであり、最高裁としてもそれを当然のこととして受けとめてやっているところでございます。
現実問題として、録音反訳方式でするとそういった正確性が問題になって控訴審等で破られている事象があるかどうかというようなことを見ますると、そういうものはございません。したがって、精度としては非常に良好に推移しているというふうに考えているところであります。
次に、「はやとくん」のことでございますが、これは聴覚障害者の裁判参加に役立っているというようなお話でございますが、この聴覚障害者の方々の裁判参加がどういう場面を想定されているかということによってもこれは大分違うことになります。例えば証人として聴覚障害者の方が来られた場合に、それを「はやとくん」のシステムを使ってディスプレーを見せるということ自体、これは実は通訳ということになるわけでありまして、それは速記官の本来の速記の職務とは別物ということになるわけであります。したがって、そういうものを利用するに当たっても、訴訟法上、そのあたりをどう正確性を担保していくか、だれがそれを見ながらやっていくのか、そういった問題もあるわけでございます。
ただ、「はやとくん」は利用するといたしましても、これも前々からこの法務委員会で御説明申し上げておりますけれども、もともと速記官の制度というものは、昭和三十七年に労働科学研究所というところに最高裁の方から依頼して、どのくらい打鍵ができるかどうかということを調べたことがございました。その結果、週二時間、月八時間ないし十時間しかできないということでありました。そういうようなところを踏まえ、「はやとくん」を使用したときにこういった八時間ないし十時間というものが飛躍的に伸びていくのかどうか、そういったような問題ももちろんあるわけでございますが、その辺については、職員団体あるいは速記官の内部において一致した考えはない、むしろ考え方は相当異なっている、そういう状況にあろうかと思っておりますので、「はやとくん」を入れることによって一遍にいろいろな問題が解決するということにはならないというふうに考えております。
○植田委員 いや、私、後でそれを聞こうと思っていたんですが、まず、実際に六割以上の方が使っておられて、それで、なおかつそうした「はやとくん」の使用について、実際それを導入することが正確な、迅速な裁判につながるかどうかは、それは議論の余地はあるんでしょう、いろいろな見解があるんでしょう。現実問題としてみんな使ってはるということは、とりあえずその使用を黙認なさっているんですか。お使いになる分には結構ですよということで、特に、いいの悪いの、けしからぬのけしからなくないのということは、別に見解としてお持ちじゃないということでいいわけですね。
○中山最高裁判所長官代理者 たしか五八%の速記官の方々から、「はやとくん」を使いたいという、そういったものが当局の方に出されておりまして、それは許可されているということで承知しております。
○植田委員 要するに、六割近く希望して許可されているということは、非常に使い勝手がよくて業務の遂行に資するものだということは、当然その点については認知をされているということですよね。そんな、まずかったらあかんと言えばいい話でしょう。
まあ、一応聞いておきましょう。
○中山最高裁判所長官代理者 最高裁判所として「はやとくん」の有用性をどうこうということではございませんで、本人がそれを使いたい、それが速記、要するに記録を残すという意味で別に支障にはならないということから許可しているものでございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/154/0004/15404100004008c.html
○小林(千)委員 それで、実際のこの速記がどのようにとられているかということをお伺いしたいんですけれども、実は、私も初めて、先日、実際に裁判所速記官の皆さんがとられている速記の方法というものを見せていただきました。このように目の前で速記官の方が国会の中でとられている手で書く方式とはちょっと違うようで、速記用のタイプライターみたいなものを打って、言葉をいわば記号化するそうですね。それで、その記号を見てそれを日本語に直す、このようなやり方で裁判所の中の速記方式はとられているというふうに見せていただきました。
この日本語に直す方式なんですけれども、従来は、その打った記号を見て直していたわけなんですけれども、その中で、速記官の方々の努力により、自分たちでソフトをつくり上げた、「はやとくん」という名前らしいんですけれども、これにより、パソコンでその記号というものを日本語にいわば翻訳する、こういった作業をできるようになった、こういったことを速記官の方みずからが自分たちで研究をして新しいソフトを開発したというふうに伺っております。
そして、もう一つは速記用のタイプライターなんですけれども、官から支給されているといいますか指定されているタイプライターではなくて、ステンチュラというアメリカから輸入された機械を使っている。そちらの方の機械は、それぞれの人の手に合わせて微調整ができるようになっている。例えば、打鍵の重さですとか、打ち込む深さですとか、手の体格に合わせた間隔も調整をできるようになっていて、キーのタッチも軽いということで、体にかかる負荷というものは大変少なくなっている。こういったステンチュラという機械と「はやとくん」というソフトを使って速記録をつくられている方が多いというふうに伺いました。
しかしながら、この「はやとくん」というソフトも指定外ソフトということで、この「はやとくん」の研究開発についても、自分たちの勤務時間外の時間を使って、いわばプライベートの時間を使って、仕事に対してのことに時間を費やしている。それにかかるお金もすべて自分たちで自腹を切って行っている。その「はやとくん」も、認められていないソフトなので、支給をされているパソコンにインストールすることができないから、それを使うためには、自分の、私物のパソコンを持ち込んで使わざるを得ない状況になっていると伺っています。
また、そのタイプライター、ステンチュラなんですけれども、これも、アメリカのメーカーで、そこから自分たちで輸入をしている、約四十二万円ぐらいかかると言っていました。四十二万円、仕事のために出費をするんですから、自腹を切って、これは大変大きな負担だと思うんですよ、私は。
このように、自分たちで自助努力をしながら、仕事にかける情熱を持って勤務に当たっている、事務の改善に対して大変大きな努力をなさっていることに対して、私は大きな敬意をあらわさなければいけないと思っているわけなんですけれども、最高裁の方は、何で、とても有用な「はやとくん」ソフトを今インストールすることを認めていないんでしょうか。そして、このような速記官の方々の努力というものをどのように認識されているのでしょうか、お伺いをいたします。
○中山最高裁判所長官代理者 裁判所では、現在、例えば全国の裁判所をつなげるJ・ネットというシステムをつくっておりますし、あるいは全庁でLAN化を進めているところであります。
先般の内閣官房の情報セキュリティ対策推進会議でも、各省庁の情報システムの脆弱性というものが指摘されましたが、その最大の要因は、内部ネットワークに個人用の端末をつないだり、ソフトを入れることにある、そういったところは非常に慎重に考えなければならない、こういうようなところでございました。したがって、今後こういったシステムを全国展開するに当たって、相当慎重な配慮というものをしなければならないのが一つであります。
それからもう一つは、もともと「はやとくん」は、名古屋の遠藤さんという速記官の方が開発されたというものでありますけれども、NECの98のパソコンをベースに最初になされ、その後DOS/V、それからウィンドウズということで、いわばマイクロソフトがいろいろ変えてきた、そこに合わせてOSを合うように変えてきたというわけでありますけれども、裁判所の方も、その間、実は、MS―DOSからウィンドウズ三・一、ウィンドウズ95、98、そして二〇〇〇、XP、このように進んできているわけであります。そういった中にそれまでのOSに基づくものを入れましても、それはなかなか一緒に稼働しないということにもなりますし、また、そのソフト自体をインストールした場合には、そのメンテナンスを一体どうするのか、あるいは、ウイルスチェック等でいろいろ問題が起きてきた、やはりソフトの相性というものがございますから、システムに影響を及ぼしたときにそれはだれが責任を持ってやるのか、こういったところの問題も非常に難しいものがございますので、この辺の保守管理体制が整えられて初めて認められるということになるわけであります。
このようなシステム上の制約から、私用ソフトのインストールについては、これは慎重に対応しなければならないということを御理解いただきたいと考えますが、速記官の執務環境の整備については、職員団体からも非常に強い要求が出てきているところであります。きょうも後ろに私どもの職員団体である全司法の委員長がしかとにらみに来ておりますけれども、そういうような職員団体の意見も十分聞きながら、できる限りの努力をしてまいりたいと考えております。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/159/0004/15903120004003c.html
裁判所の職員の中で、速記官の皆さんの問題について質問をいたします。
昨年の質問の際も、今の裁判でも、そして将来の裁判員制度の下でも、速記官の皆さんの技術や意欲を大いに生かすべきだということを求めました。その際に、速記用の反訳ソフト「はやとくん」のインストールを官支給のパソコンにもできるようにするべきだということを求めたんですが、十二月に実現をしたとお聞きをいたしました。その経過について、まず御報告をお願いします。
○最高裁判所長官代理者(園尾隆司君) 通称名「はやとくん」と言われております反訳ソフトは、速記官自身が開発したものですので、これを官支給のパソコンにインストールするには、当該ソフトが裁判所内の標準的なシステム環境に影響を与えないということについて検証を行う必要がございましたが、昨年六月にこの検証を実施するということを決定いたしまして、全国の速記官の意見や執務の実情等を踏まえて検証対象とするソフトを特定いたしました上で、十月に検証実施に着手いたしました。
検証の結果、「はやとくん」ソフトが裁判所の標準的なシステム環境に影響を与えない旨の報告書が提出されまして、インストールについて問題がないということが明らかになりましたので、十二月上旬にそのインストールを許可したものでございます。
○井上哲士君 私、これまでは、この「はやとくん」の有用性について検証すべきだということを質問いたしますと、そういう今おっしゃったようなセキュリティーの問題があるので有用性の検証ができないんだっていう御答弁をいただいてきたんですね。
今の経過でいいますと、セキュリティー等の問題についてのみ検証をしたということになりますと、この有用性っていう問題は、局長は地裁時代にもごらんになっているんだと思いますが、その速さ、正確さっていうことについてはあえて検証するまでもない、有用性が高いと、こういう判断だということでよろしいんでしょうか。
○最高裁判所長官代理者(園尾隆司君) 速記官は、この「はやとくん」ソフトを自ら開発いたしまして、それからその改良ということにつきましても様々な努力を重ねておるというところでございますので、その有用性につきましては、速記官が自らがそのような使用形態を取っておるというところから、言わば外から見て観察をして検討しておるということでございますが、その点も踏まえまして今回のインストール許可ということに踏み切ったというわけでございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/162/0003/16203290003007c.html
この法案については、私も昨年もここの委員会でこの法案改正について質問をさせていただきまして、ことしも同じ質問を実はしなければいけません。というところに、毎年やっているところに根本的な問題があるのではないかなというふうに思っているわけでございます。
昨年は、この日切れ法案の中に裁判所法の一部改正というのもありまして、そこの中で裁判所の速記官の方々のあり方というものが問題になっておりました。これは、平成九年のときに裁判所の速記官の養成というのが事実上一時停止というふうになっておりましてから、毎年毎年、この日切れが出てくるたびに法務委員会で議論の種にもなっている問題でございます。
昨年、この質問をして以降、最高裁の方では、速記官の方々が独自に開発をされた反訳ソフトの通称「はやとくん」が、昨年の十二月にインストールが許可されたということを私も速記官の方から伺いまして、本当に速記官の方々の自助努力というものが職場の中で報われたなというふうに、よかったと思っております。
つきましては、昨年質問をいたしました答弁につきまして、何点か確認をしておかなければいけないところがございます。
このように、裁判所速記官の皆様は御自身でさまざまな自助努力をしながら仕事に携わっていらっしゃるわけでございます。そのような速記官の方々の執務環境の整備につきまして、昨年、整備についてはできる限りの努力をしてまいりたいというふうに御答弁をいただきました。昨年から一年間でどのような環境整備が行われたのか、そして、これからどのようにさらに取り組んでいかれる予定なのかを御質問いたします。
○園尾最高裁判所長官代理者 昨年の通常国会において御質問を受けて以後、現在までの間に検討いたしましたことの中で最も大きいのは、ただいま御指摘のありましたいわゆる「はやとくん」ソフトを裁判所の業務用パソコンにインストールすることを許可したことでございます。
「はやとくん」ソフトは、ただいま御指摘のありましたとおり、速記官がみずから開発をしまして、その上に、ステンチュラという機器もみずからの負担で購入をして業務に使っておるということでございまして、これについて裁判所のパソコンで使いたいという強い要望があったわけでございますが、裁判所の業務用システムのソフトに悪影響を与えないことが確認されていないということでそれまでは認めていなかったわけですが、昨年秋に専門業者にソフトを Permalink | 記事への反応(1) | 23:38
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、
父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。
裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。
のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、
だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。
私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。
二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。
25歳になってその人に出会いました。
それが兄でした。
他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌の仕事をしていました。
その弁護士は、上司に健康保険をねだるような、カリフォルニアの中流階級の娘である私に、
「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。
同僚編集者たちは騒然となりました。
それでも私は大好きなディケンズの小説の筋書きに放り込まれたようでした。
弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。
一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ。
私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズの後継者、
何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。
初めて会ったとき、スティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。
オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブかユダヤの顔立ちでした。
偶然にも二人ともそうするのが好きでした。
何を話したのかはあまり覚えていませんが、
とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています。
私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。
コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。
Cromemcoという名前でした。
彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。
これから、スティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います。
彼の充実した人生。
彼の病気。
彼の死。
彼は頑張って働きました。
毎日働きました。
彼は散漫の対極のような人でした。
彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。
スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。
彼はシリコンバレーの指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。
彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。
スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。
彼は流行や小道具を好みませんでした。
自分と同世代の人が好きでした。
「ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの。芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの」
スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。
彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。
パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーで NeXT に通い、
あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。
それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、
ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。
愛について話す時間の長さにかけては、スティーブは女の子並でした。
愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。
「独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。
彼がローリンと出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。
「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」
リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族に愛情を注ぎ続けました。
彼はどの子にとっても実の父親でした。
リサの彼氏と、エリンの旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。
リードの卒業パーティに出席した人はみな、リードとスティーブのゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。
ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。
私は今も、そのことを学ぼうとしています。
彼はそのことで孤独を感じていました。
私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。
ロスアルトスから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。
二人にとって、リサとリードとエリンとイヴを普通の子供として育てることは重要でした。
スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、
夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。
一種類の野菜をたくさん。
一種類だけです。
旬の野菜。
簡単な調理。
若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。
ジーンズを履いて待っていてくれました。
「お父さんは会議中ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。
リードが毎年ハロウィンに魔女のかっこうをしたがったときには、
何年もかかりました。
同じころ建設されていた Pixar のビルはその半分の時間で完成しました。
パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。
ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。
彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。
何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。
その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。
そして実際、買いました。
スティーブは学びつづけるのが好きでした。
彼はある日、育ち方が違っていれば自分は数学者になっていたかもしれない、と言いました。
彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードのキャンパスを歩くのが好きでした。
最後の数年間、彼はマーク・ロスコの絵画の本を研究していました。
未来のAppleのキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。
スティーブは物好きなところがありました。
イギリスと中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッド・オースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?
彼はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。
たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、
きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います。
彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム。
彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、
ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集をみたとき、
こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。
四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブは楽しい人生を送りました。
そしてスティーブが病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。
彼は京都で手打ちそばを見つけました。
もうできませんでした。
最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。
多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。
兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。
彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。
メンフィス病院の廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、
そこで座って一休みして、
引き返してまた歩きました。
ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。
彼は目を見開いて、唇を引き締めました。
彼は挑戦しました。
いつもいつも挑戦しました。
その試みの中心には愛がありました。
彼はとても直情的な人でした。
その恐ろしい時節、私は、スティーブが自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。
家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。
病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。
看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。
スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき、医師はすべてを、氷をも禁じました。
スティーブは普段割り込んだり自分の名前にものを言わせたりすることを嫌っていましたが、
このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。
「これが特別治療だよ」と私は伝えました。
彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。
挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。
そしてiPadを病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。
妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。
こちらを見上げて、お願いだから、と。
彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。
私たちは自分が何年生きられるか知りません。
彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。
オランダの造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。
私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。
ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、
スティーブの死は私たちにとって突然でした。
二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。
どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです。
火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。
声には熱と愛情がこもっていました。
同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまったかのようでした。
申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、
私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。
「待って。行きます。空港にタクシーで行くから。きっと着くから」
「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」
視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。
昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。
そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。
呼吸が変わりました。
つらそうに、やっとの思いで息をしていました。
彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。
これが私が学んだことです。
死がスティーブに訪れたのではありません。
彼が死を成し遂げたのです。
彼はさよならを言い、すまないと言いました。
約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。
そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。
フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。
彼はその夜を越しました。
ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。
彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。
やらなければならないことでした。
その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。
山を登っているようでした。
その意志、その使命感、その強さと同時に、
美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。
その数時間前に出た言葉が、スティーブの最期の言葉になりました。
船出の前、
彼は妹のパティを見て、
そして皆の肩の向こうを見ました。
もうたくさんの人に訳されてるけど,じぶんにはあまりしっくりこないのでまた訳してみた。
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今日世界最高の大学のひとつでみなさんの卒業式に同席できることを名誉に思う。本当のことをいえば,私は大学を卒業したことがない。これが大学の卒業式にもっとも近づいた瞬間だ。今日,私の人生から三つの話をしたい。それだけだ。大したことはない。たったの三つだ。
最初の話は点を結ぶことだ。
私はリードカレッジを最初の6ヶ月で退学した。でも本当に辞めるまでさらに18ヶ月かそこらモグリとして出入りしていた。じゃあなぜ退学したんだ?
話は私が生まれる前に遡る。私の生物学的な母は若い未婚の大学院生で,彼女は私を養子に出すことに決めた。彼女はどうしても大学卒に養子に出したいと考えていたので,誕生と同時に弁護士夫妻に受け入れられるようすべて準備済みだった。でも私が生まれて,土壇場になって彼らは本当は女の子が欲しいと決めた。それで順番待ちリストの次にいた私の両親に夜中に電話がかかってきた。「予想外の男の子だったんです。欲しいですか?」「もちろんです」生物学的な母はあとで,母が大学も出てなくて父が高校も出てないことを知った。彼女は最終合意書に署名するのを拒んだ。数カ月後に私の両親がいつか私を大学にやると約束して彼女はやっと態度を変えた。これが私の人生の始まりだ。
17年後私はたしかに大学に行った。だが私は世間知らずにもスタンフォード並に高価な大学を選択し,労働階級の両親の蓄えは全て学費に費やされていた。6ヶ月経って,私はその価値が感じられなかった。これからの人生で何をしたいのかわからなかったし,大学がすべきことを発見する助けになるとは思えなかった。なのに私はここで両親がこれまで貯めた金をすべて使おうとしている。だから私は退学して,みんなきっとうまくいくって信じることにした。あの時はとても怖かったけど,振り返ってみればあれが私のこれまでで最良の決断だった。退学した瞬間,もう興味の持てない必須科目を取らなくてよくなったし,ずっと面白そうなクラスに入り込むことができるようになった。
ちっともロマンティックじゃなかった。寮に部屋もなかったから友達の部屋の床で寝た。コーラの瓶を返却してもらった5セントで食料を買った。日曜の夜には街の向こうまで7マイル歩いてハレークリシュナ教の寺院で週に一度のまともなご飯を食べた。最高に楽しかった。そして興味と本能に従って迷い込んだいろんなものが後に大きな意味を持つことになった。一つ例をあげよう。
リードカレッジは当時国内最高のカリグラフィー講座を持っていた。キャンパスのあらゆるポスター,引き出しのラベル,みんな美しい手書きカリグラフィーだった。退学して普通のクラスを取らなくてよくなったので,カリグラフィー講座に参加してやり方を学ぶことにした。セリフ書体,サンセリフ書体,文字の組み合わせで変化する文字間のスペースの量,すばらしいタイポグラフィがどうしてすばらしいのかを学んだ。カリグラフィーは美しく,歴史的で,科学では捉えられない繊細な芸術だ。そしてそれを私は面白いと思った。
これらの何一つ人生で現実的に役立つ見込みなんてなかった。でも10年後,みんなで最初のMacintoshを設計してる時に全部思い出したんだ。そして私たちはそれをみんなMacに詰め込んだ。Macは美しいタイポグラフィを備えた最初のコンピュータだった。私が大学のあのコースに潜りこまなければ,Macが複数の書体とプロポーショナルフォントを備えることは絶対になかった。そしてWindowsはただMacをコピーしたので,おそらくパーソナルコンピュータは今日のようなすばらしいタイポグラフィを備えることがなかっただろう。もし退学していなければ,絶対にカリグラフィー講座に参加しなかったし,パーソナルコンピュータは今日のようなすばらしいタイポグラフィを備えていなかったかもしれない。もちろん大学にいた時に点がつながるのを見通すことはできなかった。でも10年後振り返ってみればとてもとても明らかだ。
もう一度言う。将来点がつながるのを見通すことはできない。振り返ってつなげることしかできない。だからあなたは将来なんらかの形で点がつながると信じなければならない。ガッツ,運命,人生,カルマ,なんでもいい,なにかを信じなければならない。いつかこの道を進めば点がつながると信じれば,たとえ人と違う道に向かうことになってもハートに従う自信を持つことができる。それが違いを生むのだ。
私は幸運だった。人生の早いうちに好きなものを見つけられた。ウォズと私は20歳の時に両親のガレージでAppleを始めた。一所懸命働いて,ガレージにたった二人だったのが,10年で従業員4000人の20億ドル企業にまで成長した。30歳になる一年前に最高の作品,Macintoshを発売した。そして首になった。いや,自分の始めた会社からどうやって首になるっていうんだ? 私たちはAppleが大きくなったので一緒に経営するのにとても才能あると思えた人物を雇った。最初の一年かそこらはうまくいった。でも将来のビジョンが食い違い始めて,最終的に喧嘩になった。そしてその時,取締役会は彼の側についた。それで30歳の時,首になった。世間の誰もがそれを知っていた。大人になってからの人生すべての中心が失われて,本当に最悪だった。
数ヶ月は何をしていいのか本当にわからなかった。前の世代の起業家たちから渡されたバトンを落としてしまって,彼らを失望させたと思った。デビッド・パッカードとボブ・ノイスに会って,このひどい失敗を謝罪しようとした。本当に誰もが私の失敗を知っていた。シリコンバレーから逃げ出そうとさえ考えた。でもなにかがゆっくりとわかり始めた。私はそれまでの仕事をまだ愛していた。Appleでの出来事は私の気持ちをすこしも変えなかった。ふられたけどまだ愛していた。だからやり直すことに決めた。
当時はわからなかったけど,Appleから解雇されたことは私にとってこれまでで最良の出来事になった。成功者の重圧は,またなにもあまりわからない初心者の軽やかさに入れ替わった。おかげで私は人生で最も創造的な時期の一つへと解き放たれた。
次の5年間に,NeXTという会社と,Pixarという会社を興し,後に妻になるすばらしい女性と恋に落ちた。Pixarは後に世界初のコンピュータグラフィック劇場映画トイ・ストーリーを制作し,今では世界で最も成功したアニメーションスタジオだ。びっくりするような出来事があってAppleがNeXTを買収して私はAppleに戻り,NeXTで私たちが開発した技術は今のApple復活の基盤になった。そしてローレンスと私は共にすばらしい家族を築いた。
Appleから解雇されなかったらこれらは全部起こらなかったとはっきり確信している。ひどく苦い薬だったけど,患者にはそれが必要だったのだ。時として人生はレンガで頭を殴ってくる。信念を失うな。私が進み続けられたのは自分のしていることを愛していたからだと確信している。あなたは愛するものを見つけなければならない。恋人を見つけるのと同じくらい仕事でもそれは真実だ。仕事は人生の大きな割合を占める。本当に満たされる唯一の方法は,すばらしいと信じる仕事をすることだ。すばらしい仕事をする唯一の方法は,それを愛することだ。まだ見つけていないなら,探し続けなさい。腰を落ち着けるな。見つけたら,あなたのハートが教えてくれる。恋人との関係のように,それは歳を重ねるにつれてもっとすばらしいものになる。だから見つけるまで探し続けなさい。腰を落ち着けるな。
三つ目の話は死についてだ。
17歳の時,こんな感じの引用文を読んだ。「毎日を人生最後の日のように生きれば,いつか間違いなくうまくいく」印象づけられた。それからこれまで33年間,毎朝鏡を見ながら自分に問い続けてる。「もし今日が人生最後の日だったら,今日これからしようとしていることを本当にしたいかい?」そして答えが何日も続けて「ノー」だった時,何かを変えなければと気づくんだ。
もうすぐ死ぬと思い出すのは,人生の大きな選択を助けてくれる私の遭遇した最もいい方法だ。外野の期待,プライド,恥や失敗への怖れ,そんなものは死に直面すればほとんどみんな本当に大事なものを残してどこかへ行ってしまうからだ。いつか死ぬと思うことは,何かを失うという考えに陥るのを避ける私の知る最良の方法だ。あなたはもう裸なのだ。ハートに従わない理由なんてない。
1年くらい前に癌と診断された。朝7時半に検査を受けたら明らかにすい臓に腫瘍があった。私はすい臓がなにかすら知らなかった。医者はほぼ間違いなく治療不可能なタイプの癌で,3ヶ月から6ヶ月以上生きることは期待すべきでないと言った。先生は帰ってやりたいことを順にやりなさいと言った。死を迎える人への医者のお決まりの対応だ。つまりそれは伝える時間があと10年あると思っていたことをたった数カ月で子供たちに伝えるということだ。つまりそれは全部手はずを整えて家族が出来るだけ苦労せずにすむようにするということだ。それはつまりさよならを言うということだ。
一日腫瘍と過ごした。その日の夜生検を受けた。内視鏡を喉から胃を通して腸に入れて,すい臓に針を刺し,少し腫瘍の細胞を採取した。私は鎮静剤を投与されていたのだけど,顕微鏡で細胞を調べた結果,手術で治療できるめずらしい種類のすい臓がんだとわかって先生たちが大騒ぎしていると付き添っていた妻が教えてくれた。手術を受けて,ありがたいことにいまはなんともない。
これが私が死に最も近づいた瞬間で,あと数十年はそうであってほしい。この経験があったから,死が有用だけどただの知的概念だったころよりもう少しだけはっきりと言える。
誰一人として,死にたくはない。天国に行きたい人ですら死にたくはない。だが死は我々全員が共有する終着点だ。これまで死を逃れた人はいない。そしてそうあるべきだ。なぜなら死は生命の最良の発明に思えるからだ。死は生命の変革担当係だ。古いものを追い出し,新しいもののための道をつくる。たった今,新しいものとはあなた方だ。でも遠くない将来みなさんもだんだんと古いものになって追い出される。ドラマティックになって申し訳ない。でもこれは真実だ。
あなたの時間は限られている。だから誰か他人の人生を生きて時間を無駄にするな。誰か他人の結論を生きるというドグマに捕らわれるな。他人の意見に自分の内なる声をかき消されないようにしろ。そして最も大事なこと。自分の心と本能に従う勇気を持て。あなたの心と本能はもうあなたが本当になりたいものを知っているのだ。他のことはみんな後回しだ。
私が若いころ,全地球カタログというすばらしい出版物があった。私たちの世代のバイブルの一つだ。ここからそう遠くないメンローパークでスチュアート・ブランドという人物によってつくられ,詩的な感覚を人生にもたらした。まだ1960年代でパーソナルコンピュータもデスクトップパブリッシングもなかったから,全部タイプライターと鋏とポラロイドカメラで制作された。まるで35年早くやってきたペーパーバックのGoogleみたいだった。理想主義で,整然としたアイデアとすばらしい思想で満ち溢れていた。
スチュアートと彼のチームは数号のあと,すべての活動を終えて最後の号を出した。1970年代中頃で,私はみなさんくらいの歳だった。最終号の裏表紙には,あなたが冒険好きだったらヒッチハイクをしようかと思ってしまうような早朝の田舎道の写真があった。その下に「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ」の言葉があった。それは終刊にあたっての別れのメッセージだった。ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。私はいつも自分にそう願い続けてきた。今,みなさんが新たに卒業するにあたって,あなたにもそう願う。
ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。
本当にありがとう。
Sift-JISやCP932にある全角ローマ数字は日本語圏のローカルな文字コードなので、できれば汎用性の高い文字を使いたい。
そこで半角でIやVを打ちたい所だが、インターナショナルなUnicodeにも全角記号でローマ数字は存在するし、欧米でどうやってこれらが使われているかを詳しく知る必要がある。
コンピュータで文字を打つにしてもディスプレイに映し出したり文書として印刷したり、場合によってはアート目的でフォントをいじる可能性があるので、コンピュータ以外でどの様に使われていたかも留意していないといけないだろう。
思い当たる項目を挙げると、
http://anond.hatelabo.jp/20100306035554
私が「親指シフト入力」を覚えたのは、40歳のときだけど。その前に「かな入力」でタッチタイプが出来たって下地があるし。「かな入力出来るようになった下地には17歳のときに覚えた「タイプライター」の指遣いがあり、なぜ、タイプライターを使えるようになったかと言えば、4歳から12歳までピアノを習っていて指を動かすことを覚えた(音楽の才能はゼロで、あんまり意味はなかったけど、母親が「ピアノが弾ける娘」に憧れてて習わされてたんだが)からなんだよねえ。
でも、丹念に拾っていけば、案外たくさんカード持ってるもんだし、発展させること自体は30代でも40代でも出来るしさ。悲観することないよ。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
http://anond.hatelabo.jp/20090920183717
軽くぐぐってみた。
http://londonbridge.blog.shinobi.jp/Entry/177/
http://www5a.biglobe.ne.jp/~NKSUCKS/sinbunga.html
「欧米には、このようなジャーナリズムの独立性に疑問を抱かせる『記者クラブ』のようなシステムは存在しない。代わって、ジャーナリストならば誰でも、情報源への自由なアクセスを保障する制度を設けている国が多い。米国の『ホワイトハウス記者証』やフランスの『プレスカード』などは、その典型例であろう。『ホワイトハウス記者証』は、ホワイトハウスをはじめ各省庁への取材を可能とする記者登録証で、基本的にジャーナリストであれば差別なく発行される。登録にあたっては、米国財務省管轄下のシークレット・サービスで、身分や経歴などのチェックを受けなければならないが、テロリストやテロリズムとの関係が無ければ、まず記者証は発行される。日本のように、日本新聞協会加盟社の記者でなければ、『記者室』の使用ばかりか、記者会見などへの出席まで認めないという差別は行われていない。日本共産党機関紙『赤旗』の記者で、初代ワシントン特派員だった堀江則雄氏も、『厳重なセキュリティ・チェックをへて、4ヶ月で記者証を入手できた』ひとりだ。堀江氏は、その時の感激を、著書でこうあらわしている。『日本の各官庁から排除されている『赤旗』の記者が、ホワイトハウスで記者として初めて、公然と認められたのである。…ホワイトハウスの記者証が出ると、つづいて国務省のそれが、そして議会の記者証が上院のプレス・ギャラリーからすぐ発給された』『議会の記者証を手に入れると、上下両院のプレス・ギャラリーに自由に出入りできる。上下両院の本会議場を見下ろし、取材ができる3階に両院それぞれのプレス・ギャラリーがある。タイプライターとワープロが置いてあり、だれでも自由に利用できる。ところが、日本の国会記者クラブとは違う』(『もう1つのワシントン報道』)
信用ってのは、要するに社会があなたのアウトプットをどのくらい「当てにできるか」ってこと。
アウトプットの形は業種や役割によって千差万別だ。接客業なら毎日時間通り、シフト通りにその場にいるってことが重要だろう。チームワークならミーティングに確実にいること、コミュニケーションが継続的にとれること、なんてのが重要かもしれない。一方、個人作業で成果物のみが問題になる業務なら、普段何してたっていいから締切りまでに十分なクオリティのものを出せばいいってことになる。
社会の厳しさっていうのは、何であれ「社会があなたに期待しているアウトプット」を出しつづけることが求められてるってこと。あなたならこういうことが出来るはずだ、という目論見をもとにあなたに仕事が振られるわけだから。
あなたが、成果物のみが問題になる職業に進もうというなら、毎日きちんと定時に学校や職場に行く必要はない。そのかわり、求められた成果は必ず出しつづけないとだめだ。締切りに遅れてもだめだし、クオリティがプロとしての基準に達していないのもだめ。どんなに調子が悪くても、どんなに気分が乗らなくても、スランプに陥ってても、言い訳はできない。満足いくものが出せなければ、切られる=もう仕事が来なくなる、というだけ。
小説家、漫画家、俳優、スポーツ選手など、成果のみが問題になるような職業についていても、結果的に毎日きちんとしたスケジュールをこなしている人もたくさんいる(そうでない人もいるけど)。ある小説家は、書けても書けなくても、毎日何時から何時まではタイプライターの前に座る、と決めている。彼らは「毎日きちんとしているから」信用を得ているのじゃない。「確実に求められたアウトプットを出す」方法を模索した結果、「毎日きちんとスケジュールをこなす」ことが必要だという結論に達したわけだ。
「確実にアウトプットを出す」ためになら、どんなことでもする。その覚悟があるなら、好きなように生きていたって構わない。でもいざ、何でもしなくちゃならないって時になってしり込みしたら、「甘い」って言われることになる。それだけだ。
>全文タイプライターで偽造しようと思えば出来ますよね。
物量が多すぎると思うよ。それに逐一他の史料と照らし合わせにゃならん。まぁムリ。それに、何度も書いてすまんがゲッベルス日記の真贋に関する論争なんて現在は無い。
>今はもう誰も信じていない事が長い間「事実」とされてきた例を見ましょう。
それ、証言じゃないの?余計な話だが、リンク先はSSのミューラーとゾンターコマンドのミューラーの証言を、知ってか知らずか混同したりしてるね。wこういうのはお里が知れるんで、削除したほうがいいよなぁ。
誰か「無い」って書いたかい?要は「俺」と話をしろってこったよ。あなたのイメージする「正史派」じゃなくて。キライなんだろ?そういうの。
>そうですよ。でも、裁判では「キャンプの外で囚人と話が出来た」とある。
「私は、自分の書いた報告書が、まずジュネーブに送られる事を知っていました。そうなれば、24時間以内に、報告書はゲシュタポの手に渡るでしょう。ジュネーブにはスパイがうようよしてましたからね、私はゲシュタポに読まれる事を前提にあの報告書を書いたんです。彼らにはその後も、色々な頼みごとをしなくてはなりませんでした。私は赤十字国際委員会を問題に巻き込みたくなかったんです。
その後、収容所長にあった時、私はこう言いました。私の書いた報告書がここにあります、読み上げましょうか? すると彼はこう言いました。必要無い、もう目を通した。それが戦争というものなんです。わかりますか?」
http://72.14.235.132/search?q=cache:zukdWsAylsAJ:www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/nishitan/doc/01998-redcross2.htm+BBC+%E8%B5%A4%E5%8D%81%E5%AD%97%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%85%89%E3%81%A8%E5%BD%B1&hl=ja&gl=jp&strip=1
どんな形で書かれた物であれ、存在するかしないか訊かれたら「ある」と答えざるを得んだろうな。そういうものだよ。
>さんざん、あなた方が言って来た「ツンデル裁判で、修正主義者は赤十字の存在しないレポートを提出し否定しようとした」という事を裁判記録をもって否定しただけなんですが。
では、カナダ裁判所のHPから判決文全文のURLとその一部を抜粋しよう。
http://scc.lexum.umontreal.ca/en/1992/1992rcs2-731/1992rcs2-731.html
>Every one who wilfully publishes a statement, tale or news that he knows is false and that causes or is likely to cause injury or mischief to a public interest is guilty of an indictable offence and liable to imprisonment for a term not exceeding two years.
裁判所は「虚偽である」と結論しているね。だから裁判結果から見れば、間違ってるのはあなた。前にも出したよね、判決文。
つまりは、記録に残したい言葉だけを質問すれば、それのみが残るて事だと思うがね。どういう文脈で語られた証言なのか、それがハッキリしなきゃなんとも言えんわな。(こういうのは「トリミング」と呼ばれてて、史料を扱う際にはやっちゃイカン事のひとつと言われておるよ)もちろん、IMTにもNMTにも同じ事は言える。だからイェール大学とかで、全文翻訳とかが試みられたり、出版されたりするわけでさ。他の人(どうやら物好きにも見ている人がいるらしい)の参考に。
同じ文章を生み出すかっていう、そういう話?
地上に存在するすべてがその素子の一部、計算しているのは
生命と宇宙と万物についての究極の疑問が何かという話に近いかも。
http://anond.hatelabo.jp/20071102195139
同じ文章を生み出すかっていう、そういう話?
「どうしようもなくバカだ」
船井は重ねて言った。君はむっとして、途方も無く長くまっすぐな廊下を先に歩く禿頭を睨んだ。
「ランダムなアルファベットの中に、いくらシェークスピアの文章が現れようとも、他のノイズから切り出すことをしなければ、それはやはりランダムノイズにしか過ぎんのだ。この場合シェークスピアを取り出す作業こそを創作と、取り出す主体を知性というのではないかね」
船井は振り返りもしないで喋る。
「それにだ、なんでチンパンジーなんだね。ニホンザルだっていいじゃないか。むしろニホンザルの方が。ああ、君は100匹目の猿の話をしらないのか。こういうことだ。ある日宮崎は幸島の一匹の猿が芋を洗うようになった。それを真似した猿が100匹を数えたとき、それは突如として群れ全体の習性となり、更に位置的につながりの無いはずの高崎山の猿までが芋を洗い始めた。集合無意識のなせる現象だな」
船井は突き当たりのドアの前で足を止めた。ドアを開ける。
「ということでだ。芋でもなんでもいい、餌で釣ってタイプライターを叩かせるように仕向けた猿を百匹集める。すると距離を超越して何匹もの猿がタイプライターを叩くようになる。それを集めて意味のある文章を叩いた猿に餌をやると果たしてどうなるか。そんな猿が100万匹いたら?」
船井が半身引いて見せた室内を君は覗き込む。獣の匂いが鼻につく薄暗い部屋は、反対側の壁が消失点の彼方にあって果てが無く、同様に左右の壁も判別できない。規則正しく置かれた机は格子模様を描き、部屋の広さを強調している。ひとつの机につきひとつのタイプライター、一匹の猿。キーキーと鳴き喚く声、カタカタとタイプ、チーンとリターンの音。君は息を止める。
部屋のドアが開いたのがわかると、猿達はタイプライターに叩きつけていた手を止めた。猿は紙を機械から抜き取るとそれを手に扉口に――君のほうに向かって殺到してきた。君は立ちすくむが、船井は目の前で紙を手にギャアギャアと飛び跳ねる猿めらをにこやかに見渡す。差し出される紙をいちいち受け取って目を通すと、あるものにはポケットから豆を出してやって褒めてやり、またあるものには首を振って紙をさし返す。豆をもらった猿はすぐさま空いた机にとって返し、豆をぼりぼり齧りながらまたタイピングを始める。もらえなかった猿は怒って紙をびりびりに引き裂くと、これまた机を探して占領しタイピングを始めた。もらえなかった猿の中には紙を破っても怒りが収まらず、あたりかまわず糞を投げつけるものもいた。その飛沫を浴びても船井は笑みを崩さず、猿どもの差し出す紙の検査を続けている。そして一段落つくと君のほうを見ていう。
「名作とそうでない物の判別をして、猿に餌をやるだけの簡単なお仕事です」
君は袋いっぱいの豆を手渡される。本当に100万匹いそうなこの部屋の猿に一袋では足りない。ならば本当に選別を、などと思っている間に第二波殺到。差し出される紙にはいずれもアルファベットが打たれており、「Stately, plump Buck Mulligan came from the stairhead, bearing a bowl of lather on which a mirror and a razor lay crossed.」「MARLEY was dead: to begin with. There is no doubt whatever about that.」「In 1913, when Anthony Patch was twenty-five, two years were already gone since irony, the Holy Ghost of this later day, had, theoretically at least, descended upon him.」などと書いてはあるものの君には何のことやらわからず、君がよく知るシェークスピアであるところの「To be, or not to be」だとかは探そうとしても、猿にせっつかれて見つけている余裕が無い。適当に意味のある英文に見えるものに豆を与えていたら、周囲は徐々に剣呑な空気になり、そういえばさっきつき返した紙にはキリル文字が書いてあったんじゃないかということに思い至るも、東欧文学まで原文でフォローできている君であろうはずは無く、殺気立っている猿達に奪われるようにして豆を与えているので袋の豆も尽き、いよいよ進退窮まったと助けを求めて船井の方を見れば、そこにはただ一匹の巨大な猩々がにまにまといやらしい粘着質の笑いを浮かべているだけで、君は脛に飢えた猿の歯が食い込むのを感じて倒れ、毛深い無数の腕が掴みかかり……夢でさえあればそこで目が覚めるはずだったのだけれど。
だから私が代わりにこれを
http://anond.hatelabo.jp/20070830065528
「にゃにゃにゃ にゃにゃにゃ」にゃ にゃー?(「踊る仔猫」はどう?)
にゃにゃにゃにゃ にゃー・・・(他にはねー・・・)
にゃんにゃにゃーにゃー(タイプライター)
にゃんにゃにゃーにゃっにゃ にゃにゃっにゃ(シンコペーテッド・クロック)